第三話
臨時休業中の科学喫茶の中で、三人は向かい合っていた。
「
緋子は、夏乃佳にビーカーを差し出しながら言う。
「はい、ありがとうございます」
移動中に掛かってきた電話で、緋子は
「姉ちゃん、俺にもなんかちょうだいよ」蒼太はカウンターを叩きながら、
「ああ……ミルクでいい? 猫なんだし、好きでしょ」緋子はつまらなそうに言ったあと、ああ、と
「別に好きでも嫌いでもねえけど」蒼太は不快そうに言う。「なんとなくしっくりくるんだよ。体に」
「アイスコーヒーならすぐに
「七佳にはミルクティー作ったじゃんか」
夏乃佳に提供されたのは、ミルクティーだった。紅茶とミルクが綺麗に混ざり合っていて、シロップも多めに入れられている。子どもの舌に合うように、甘めに作られていた。緋子の手で十分に
「これを作ったから、もう働きたくないの」
「あっそ」
「緋子先生、ありがとうございます」夏乃佳が笑いながら言う。「疲れたので、甘いのが飲みたかったんです」
「汗もかいただろうしね。ジュースもあるから、昨日みたいに遠慮しないで、好きなだけ飲んでいいからね」
「はい。ありがとうございます」
「七佳には優しいなあ……まあ、じゃあいいよ、俺はミルクで」
「まいど」
「金取るの?」
「いただきまーす」
二人のやりとりを楽しそうに眺めながら、夏乃佳はストローに口をつけた。
緋子は蒼太のミルクを用意したあと、自分用にも、アイスコーヒーを用意した。三角フラスコを振りながら、シロップと混ぜ合わせる。久しぶりに全力疾走したせいか、体が糖分を欲していた。一口含むと、体中に液体が染み込んでいくような感覚になった。
「しかしまあ、七佳が無事で良かったよな」
蒼太はビーカーを持ったままの手で、夏乃佳を指差す。
「本当にね」
「俺はてっきり、少年に奪われたんじゃねえかって思ってたからさ……いやあ、あん時は慌てたぜ。七佳が落ちるなんて、予想してなかったからな。まあ完全に俺のミスなんだが」
「意外と何とかなりました」夏乃佳はビーカーの目盛りを眺めながら言う。「突然寝ちゃったので、私も最初はびっくりしましたけど」
「いつのことよ、あん時って」
「向こう側での話だよ。あーそうだ、姉ちゃんが来た時、俺たち、いなかっただろ」
「うん?」緋子は記憶を辿り、その時の情景を思い出す。「ああ、そう言えばそうだったね。七佳が心配ですっかり忘れてたけど……あれ、なんだったの? 一応、神社の中は一通り確認したつもりだったんだけど。電話したら急に後ろにいるし」
「裏の世界にいたんだよ。
「ふうん。その中で何があったわけ?」
「俺たち三人は、そこで
「違いますよー」夏乃佳は蒼太に向き直る。
「どっからどう見ても、七佳にしか見えないもんなあ。これで偽物だって言われても、俺には信じられねえ」
「七佳のことは、まあ無事だったんだし、ひとまずいいとしてさ」緋子はフラスコを揺らしながら、「幽世? とか、裏とか、相変わらず全然わからないんだけど」と尋ねる。
「さっき説明したじゃねえか」
「それが分からないって言ってんの。そこは、何? 完全な別時空ってこと?」
「幽霊さんがいる場所のことですよー」夏乃佳が答える。「私は、そこの世界が見えるんです」
「だからまあ……雰囲気としてはさっきも話したけど、
「……ああ、でもそっか。いつだったか、七佳言ってたね。穴に囲まれてて、身動きが取れなくなってた時があったっけ。あれのこと?」
「はい。緋子先生に助けてもらった時のことですよね」
夏乃佳が言うと、緋子は「そう、抱っこしてあげた時ね」と、微笑みながら言う。
「あの時はまだ、私は穴に入ったことがなかったので、すごく怖かったんです。でも、入ってみたら普通でした」
「ふうん。よくわかんない感覚だ」
緋子はゆっくりとアイスコーヒーを飲みながら、夏乃佳を眺めていた。
「……さて、俺、どうしようか」
「なにが?」
「いや、姉ちゃんにネタバラシしちゃった手前、このまま
「そうだね」
「そうだねって……
「人間、自分以外は
「……いきなり言い方きついなあ」
「私は蒼太お兄ちゃんのことが好きなので、ずっといてくれたら嬉しいです」夏乃佳は気遣うように、蒼太を見て言う。
「おお……七佳は優しいなあ」
「七佳は幽霊に好かれるみたいだからね」と、緋子は冷めた口調で言った。
「俺は幽霊じゃねえけどな?」
「似たようなもんでしょ」
緋子が言うと、夏乃佳が楽しそうに笑い声を上げた。
店内には、穏やかな時間が流れていた。つい数十分前の出来事など嘘だったかのような、落ち着いている。その場にいる全員が、優し気な表情を浮かべて、お互いを見合っていた。
非科学的な物語が終わりを告げたような、そんな雰囲気があった。
「ふぁ……なんか、ちょっと眠くなってきちゃいました」
夏乃佳はミルクティーを半分ほど飲んだところで、ゆっくりと呟く。
「大丈夫?」と、緋子が尋ねる。
「うーん……さっきもいっぱい寝たはずなのに」
「疲れたんでしょ。
「ん……でも……」
「寝られる時に寝といた方がいいぜ、七佳」と、蒼太が言う。「幽体離脱中も意識は働いてるわけだから、あれは寝たうちに入らないだろ。ちゃんとした睡眠取った方が良いぜ?」
夏乃佳はうつらうつらとしながら、閉じ掛けた瞼を蒼太に向けて、こっくりと
「はい……じゃあ、ちょっとだけ。ちゃんと起こしてくださいね」
「うん。ゆっくりおやすみ、七佳」
緋子が言い終える前に、夏乃佳はカウンターに額をぶつけるようにして、眠ってしまった。幽体離脱をする時のような、強い
「よっぽど疲れてたんだな」
蒼太が笑いながら言って、緋子に視線を向ける。と──緋子は、無機物のような冷たい視線を、夏乃佳に注いでいた。
なんでそんな目してんだよ、と蒼太は尋ねようとしたが、冷えた視線が自分の方に向いたのを見て、思わず口を閉ざした。
姉のこんな表情を、一度だって見たことがないはずだ、と蒼太は思う。
普段と変わらない無表情に見えるが――しかし、普段よりもずっと冷たく、ずっと無感情だ。
「……どうした、姉ちゃん」
蒼太が尋ねると、緋子は表情を変えずに、「ほんと、七佳にしか見えないよね」と言った。何のことだろうか、と蒼太は考えたが――瞬間、夏乃佳に視線を向け、まさか、と思った。
「奪われてたのか」
「多分」緋子はふう、と息を吐いた。「いや、ほぼ間違いなく、かな。七佳じゃないはず。だから、これを冬子さんに引き渡すわけにはいかない。どうにかしなきゃ」
「どうにかって……でも、すぐ迎えに来るんじゃなかったっけ?」
「まだ見つかってないって、嘘をついてある。ううん、嘘じゃないか。七佳はまだ、ちゃんと見つけられてるわけじゃないし」
無表情で、緋子は
緋子はあくまでも
ああ、これは無表情ではないのか、と、蒼太は気付いた。
怒っているのだ。
夏川少年か、それとも自分に対してか。暴力的な怒りを抱えている、そんな表情だ。
「……姉ちゃん、七佳に、何かしたのか?」蒼太はゆっくりと、言葉を
「大したことじゃないよ。睡眠薬を
「いや、なんでそんなもん持ってんだよ」
「薬なら、大抵
「いや見てたけど……それ全部マジもんの薬なの?」
「当たり前でしょ。ここはラボなんだから」緋子はようやく表情に温かさを取り戻して言った。「もちろん、カモフラージュはしてるけどね」
「……それ、違法じゃねえの?」
「物理法則を無視してる人たちに言われたくないんだけど」
「返す言葉もねえや」蒼太は笑いながら言った。「ああそうか、それでわざわざ、紅茶にしたわけね。混ぜても不自然じゃないように」
「正解。なかなか
「あっそ……まあ、俺も七佳も、そんな
「無駄に歳食ってるわけじゃないのよ、私も」
緋子は疲れたような表情を浮かべて、
「俺にはまだ、
「最初からそうじゃないかって思ってたよ。なんて言えば良いか分からないけど……会話に違和感があったから」
「全然分かんなかったな。俺にはどう見ても、ただの七佳に思えた。もし少年が七佳を奪ったとするなら、もっと違いがあると思ってたんだけどな」
「うん、私も。話してて、七佳が言いそうなことを喋ってたし、七佳の知識も持ってるように思った。前にあった穴の話をしたときも、すんなり会話に入って来たし――返答時間も早かったように思う。記憶にも言葉遣いにも、問題があるようには思わなかった。なんで夏川君が知ってるんだろう? とは思ったけど――」
「まあ、知識ってのは肉体の
「記憶まで奪えるってこと?」
「奪うっつーか……アクセス出来るようになるわけ」
「? よくわからない。パソコンで例えて」
「パソコン? 逆に面倒くせえ例えだな」蒼太は笑いながら、視線を上に向ける。「でも、そうだなぁ……パソコンが肉体で、それを使う人間が、意識とか、魂って呼ばれるやつって感じかな。普通は本人の意識しかログイン出来ないものを、他人が勝手に使ってる。意識が持つ感覚的な記憶と、物理的な記憶ってのは、まあ別ってことだよ」
「なるほどね」緋子はおどけたように肩を
「俺の場合は、ひとつのパソコンを、二人で使ってるようなもんかなあ……そこまで単純じゃないけど、元の猫としての俺がいて、化猫としての俺がいる。多重人格っつーか……複アカ状態?」
「ふうん」
「あんま分かってなさそうだな」
「わかんない」緋子は首を傾げて言った。「じゃあ、昨日までの夏川君は?」
「あいつの場合は、うーん……同じ型のマシンを使ってるだけって感じかな? 俺とはまた違うから、よくわかんねえや。本来、化生は記憶なんか引き継がないし、化けただけじゃあその人間の名前も知らないはずだ。だから少年は、ずっと夏川柳一を狙ってたんだろうな。自分が化ける人間の情報を仕入れて、完璧じゃないにせよ、それらしく
「七佳が言ってた通り、誰にも分からないってことね」
「今回の場合は特に」と、蒼太は夏乃佳に視線を向ける。「普通は魂が抜けるなんて現象は早々起きないから、あとは言動さえミスらなきゃ、完璧に
「確かに、言動は七佳そのものだったと思う。私だって、違和感はあったものの、どこか半信半疑だったし」
「でも分かったんだろ? 付き合いの違いってやつ?」
「どうだろう。勘って言うほど当てずっぽうでもないけど……例えば、七佳が妙に大人しかったのも、違和感のひとつ」
「あんな状況で元気な方がおかしくねえか?」
「七佳はそういう性格なんだよ」緋子は困ったように笑う。「空気は読むし、人付き合いも丁寧だけど、自分の感情を
「あーまあ……そんな感じだな。でも普段からそうなら、なんで少年はそういう七佳を演じたんだろうな?」
「あの子の前では、お姉さんぶってたからじゃない?」
緋子は、一瞬だけ微笑んだ。
「彼の中では、七佳はそういうイメージだったんじゃないかな。丸一日観察して――七佳のお姉さんぶった部分だけを
「はあ……わっかんねえなあ」
「私だってそれだけで分かったわけじゃないよ。七佳じゃないって確信したのは、最後の質問かな」
「何て質問したっけ?」
「本物の七佳か、って質問したでしょ」
「ああ、確か、本物です……って言ってたっけ。でもそれこそ、七佳でも、少年でも、同じように答えるはずだろ。本物かって聞かれたら――誰だって、本物ですって答えるはずだ。本物であろうと、偽物であろうと。だから、そんな質問に意味なんてねえと思って、まともに聞いてなかった」
「まあ、普通はそうだよね。本物かって聞かれて、偽物だって答える人はいないと思う」
「じゃあ、七佳の反応がおかしかったってこと?」蒼太は不思議そうに尋ねる。「それとも、七佳なら少年のために、偽物だって答えるって思ったとか?」
「ううん。七佳ならきっと、こう答える」
緋子は眠りに落ちた夏乃佳を見ながら、優しく微笑む。
「どっちだっていいんじゃないですか? って」
蒼太は一瞬、意味が分からないというように首を傾げたが、すぐに表情を
「――――ああ、なるほどね。言いそうだ。相変わらず……やべえ女だなあ」
夏乃佳を見ながら、蒼太は思わずそう呟いた。言われてみれば、確かに夏乃佳はそう言いそうだな、という感覚があった。本物だろうと偽物だろうと、どっちだっていいじゃないか、と。だから自分は緋子に秘密を知られることなく生活していたのだろうし、それを誰も疑おうとしなかった。経歴を調べようともしない。過去を
いないよりはいた方が良い。
本物だろうと偽物だろうと、ないよりはあった方が良い。
それくらいの気持ちなのだろう。
「やばいよねえ。七佳って、まともな大人になるのかな」
蒼太の評価に、緋子も同感だった。十歳の少女にするべき形容ではないが――そもそも言葉の定義も
生まれた時から、ふたつの世界を見続けている。
生まれた時から、常識外の存在に囲まれている。
それで普通になれという方が、
「じゃあ、蒼太」
「ん?」
「あと、何とかして」
「は?」蒼太は間の抜けた声を出して、「あ、何か計画があったわけじゃないのか」と、緋子を見ながら言う。
「うん。とりあえず動きを封じてみた」
「あっそ。んー……じゃあまあ……何とかしてみますか」
蒼太はビーカーのミルクを飲み干してから、ゆっくりと立ち上がると、緋子を見据える。
「つっても、解決策が思いつかねえな。今一番やらなきゃいけないことってのは、なんだ?」
「夏川少年をどっかに連れて行くことかな」緋子はアイスコーヒーを飲みながら言う。「私には分からないけど、そこらへんに浮いてたりするんじゃないの? 強制的に気絶させたわけだし」
「あー……どうだろうな。七佳の身体ならスポンと抜けるか?」蒼太は視線を
「格好良い言い方」緋子は笑う。「じゃあ、よろしく」
「それをやるには、俺も魂になんなきゃいけないから、この体も
「さっき言ってた、感覚的に死ぬ、ってやつ?」
「まあそうだな。かと言って、姉ちゃんの目の前で変なもん見せるわけにもいかないし、それは外でやるよ」
「まあ、その方がありがたいかな」緋子は淡々と言う。
「じゃ、行ってくる」
「はい。いつ帰ってくるの?」
「もう、帰って来ねえかも」蒼太は
「分かった。面倒なこと頼んで、悪いね」
「俺にしか出来ねえことだから、俺がやんなきゃな」蒼太は冗談を口にして、ドアに手を掛ける。「ああ――
「言われなくても」
蒼太が外に出ると、ドアベルの
今ドアを開けたら、蒼太が猫に戻る様子でも観察出来るのだろうか――と考えたが、やめておくことにした。夏乃佳をひとりにするのも忍びないし、非科学的な現象を目にする勇気も、自分にはない。
全ては冗談だったのかもしれない、と思い込むことにした。
夏川少年も、夏乃佳の変化も――蒼太のことも。
「……お盆になったら、蒼太の墓が本当にあるのか、確認しようかな」
緋子は独り言を呟いてから、手元のコーヒーを口にする。現実逃避でもするように、本日分の売上ロスを
夏乃佳はまだ目を覚まさない。
静かな店内で、緋子はぼんやりと、現実について考える。現実というのは、一体何なのだろう。科学的に証明出来るものだけが現実ではないのなら、科学とは一体何なのだろう――しかし、緋子は今回の件で、自覚はないにせよ、非科学的なものを信頼した。
緋子が夏乃佳を偽物だと判断した基準は、決して科学的な根拠に
なんとなく。
直感的に。
多分――そうじゃないかな、と思っただけだ。
蒼太には当てずっぽうではない、とは言ったものの――論理的に説明はしてみたものの、そこに至るまでの経緯は、動機は、全て違和感によるものだ。
最初の
それの正しさは、自分だけにしか分からない。
けれど絶対にそうだと言い切れるだけの感覚が自分の中にあったのは、確かなのだ。
だからもう、科学的か非科学的かの
「ちゃんとついてきてる? 七佳」
独り言を呟くように、緋子は言った。
自分の目には見えていないけれど、きっとこの辺に浮いているんだろうな、と、視線を宙に向けながら、緋子は微笑んだ。
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