第三話

 臨時休業中の科学喫茶の中で、三人は向かい合っていた。緋子ひこはカウンターの中に、夏乃佳かのかは定位置に座り、蒼太そうたはその隣に腰を下ろしていた。BGMの止まった店内には、夏を思わせる油蝉あぶらぜみの音と、静かな時間だけが流れていた。

七佳なのか、お母さん、直接ここに来てくれるみたいだから、それまでちょっと待っててね」

 緋子は、夏乃佳にビーカーを差し出しながら言う。

「はい、ありがとうございます」

 移動中に掛かってきた電話で、緋子は冬子とうこと二、三会話をして、すぐに通話を終わらせていた。要件だけをやりとりしたのだろう、とても短い会話だった。通話が終わったあとは、緋子と夏乃佳の間で、今後の夏休みの予定や、お昼ご飯に何を食べたいか、というようなことについて話し合ったくらいだった。話題に特別性はなく、歩きながら暇つぶしに語り合うような内容だった。

「姉ちゃん、俺にもなんかちょうだいよ」蒼太はカウンターを叩きながら、憮然ぶぜんとした態度たいどで言う。「俺ものどかわいたんだけど」

「ああ……ミルクでいい? 猫なんだし、好きでしょ」緋子はつまらなそうに言ったあと、ああ、とひとちて、「ていうかそう言えば、あんたよくミルク飲んでたね。全然気にしてなかったけど」と、思い出したように言った。

「別に好きでも嫌いでもねえけど」蒼太は不快そうに言う。「なんとなくしっくりくるんだよ。体に」

「アイスコーヒーならすぐにれられるけど、どうする?」緋子は新しいビーカーを取り出して、氷を入れる。「面倒なもの作りたくないんだよね。氷入れて注ぐだけのやつがいいな」

「七佳にはミルクティー作ったじゃんか」

 夏乃佳に提供されたのは、ミルクティーだった。紅茶とミルクが綺麗に混ざり合っていて、シロップも多めに入れられている。子どもの舌に合うように、甘めに作られていた。緋子の手で十分に攪拌かくはんされていたため、味わいは均一化きんいつかされているはずだ。

「これを作ったから、もう働きたくないの」

「あっそ」

「緋子先生、ありがとうございます」夏乃佳が笑いながら言う。「疲れたので、甘いのが飲みたかったんです」

「汗もかいただろうしね。ジュースもあるから、昨日みたいに遠慮しないで、好きなだけ飲んでいいからね」

「はい。ありがとうございます」

「七佳には優しいなあ……まあ、じゃあいいよ、俺はミルクで」

「まいど」

「金取るの?」

「いただきまーす」

 二人のやりとりを楽しそうに眺めながら、夏乃佳はストローに口をつけた。

 緋子は蒼太のミルクを用意したあと、自分用にも、アイスコーヒーを用意した。三角フラスコを振りながら、シロップと混ぜ合わせる。久しぶりに全力疾走したせいか、体が糖分を欲していた。一口含むと、体中に液体が染み込んでいくような感覚になった。

「しかしまあ、七佳が無事で良かったよな」

 蒼太はビーカーを持ったままの手で、夏乃佳を指差す。

「本当にね」

「俺はてっきり、少年に奪われたんじゃねえかって思ってたからさ……いやあ、あん時は慌てたぜ。七佳が落ちるなんて、予想してなかったからな。まあ完全に俺のミスなんだが」

「意外と何とかなりました」夏乃佳はビーカーの目盛りを眺めながら言う。「突然寝ちゃったので、私も最初はびっくりしましたけど」

「いつのことよ、あん時って」

「向こう側での話だよ。あーそうだ、姉ちゃんが来た時、俺たち、いなかっただろ」

「うん?」緋子は記憶を辿り、その時の情景を思い出す。「ああ、そう言えばそうだったね。七佳が心配ですっかり忘れてたけど……あれ、なんだったの? 一応、神社の中は一通り確認したつもりだったんだけど。電話したら急に後ろにいるし」

の世界にいたんだよ。幽世かくりよっつーんだけどな? そこは、現世うつしよからは見えない。つまり、姉ちゃんには視認出来ない場所だったんだよ」

「ふうん。その中で何があったわけ?」

「俺たち三人は、そこで対峙たいじしてた。少年をとっ捕まえるためにな。で、七佳が落ちた瞬間に、少年が俺の目の前から消えたんだ。まあ正確には、魂を肉体から抜いて、自ら死に向かったわけだが……だから俺はてっきり、七佳の意識が留守の間に体を奪おうとしたんじゃないかと思ってたんだ。でも、今の七佳を見ると、どうも違ったみたいだな」

「違いますよー」夏乃佳は蒼太に向き直る。

「どっからどう見ても、七佳にしか見えないもんなあ。これで偽物だって言われても、俺には信じられねえ」

「七佳のことは、まあ無事だったんだし、ひとまずいいとしてさ」緋子はフラスコを揺らしながら、「幽世? とか、裏とか、相変わらず全然わからないんだけど」と尋ねる。

「さっき説明したじゃねえか」

「それが分からないって言ってんの。そこは、何? 完全な別時空ってこと?」

「幽霊さんがいる場所のことですよー」夏乃佳が答える。「私は、そこの世界が見えるんです」

「だからまあ……雰囲気としてはさっきも話したけど、神隠かみかくしなんだよ。からに行ける。別時空っていうより、まあやっぱ、って感じだな。現世と幽世は、表裏一体ってわけだ」

「……ああ、でもそっか。いつだったか、七佳言ってたね。に囲まれてて、身動きが取れなくなってた時があったっけ。あれのこと?」

「はい。緋子先生に助けてもらった時のことですよね」

 夏乃佳が言うと、緋子は「そう、抱っこしてあげた時ね」と、微笑みながら言う。

「あの時はまだ、私はに入ったことがなかったので、すごく怖かったんです。でも、入ってみたら普通でした」

「ふうん。よくわかんない感覚だ」

 緋子はゆっくりとアイスコーヒーを飲みながら、夏乃佳を眺めていた。安堵あんどの表情とも、嫌疑けんぎの視線とも違う。ただじっと、観察するような視線だった。

「……さて、俺、どうしようか」

 物々ものものしい口調で、蒼太が唐突につぶやいた。

「なにが?」

「いや、姉ちゃんにネタバラシしちゃった手前、このまま猫目ねこのめ蒼太をかたって生きるのはおかしいだろ。とりあえずはついてはきてみたけどさ……やっぱり俺はここにいるべきじゃねえんじゃねえかって、思い直してるところ」

「そうだね」

「そうだねって……他人事ひとごとみたいに言うじゃん」

「人間、自分以外は所詮しょせん他人でしょ」緋子は呆れたように言った。「猫でも人間でも同じなんじゃない? 今だってあんた、ペットみたいなもんでしょ」

「……いきなり言い方きついなあ」

「私は蒼太お兄ちゃんのことが好きなので、ずっといてくれたら嬉しいです」夏乃佳は気遣うように、蒼太を見て言う。

「おお……七佳は優しいなあ」

「七佳は幽霊に好かれるみたいだからね」と、緋子は冷めた口調で言った。

「俺は幽霊じゃねえけどな?」

「似たようなもんでしょ」

 緋子が言うと、夏乃佳が楽しそうに笑い声を上げた。

 店内には、穏やかな時間が流れていた。つい数十分前の出来事など嘘だったかのような、落ち着いている。その場にいる全員が、優し気な表情を浮かべて、お互いを見合っていた。

 非科学的な物語が終わりを告げたような、そんな雰囲気があった。

「ふぁ……なんか、ちょっと眠くなってきちゃいました」

 夏乃佳はミルクティーを半分ほど飲んだところで、ゆっくりと呟く。まぶたが閉じ掛けていて、姿勢も、今にも倒れてしまいそうなくらい前屈まえかがみになっている。

「大丈夫?」と、緋子が尋ねる。

「うーん……さっきもいっぱい寝たはずなのに」

「疲れたんでしょ。夏川なつかわ君と遠鳴とおなり神社まで歩いたわけだし、そこでも色々あったんだろうし――お母さんが来たら起こしてあげるから、ちょっとお昼寝すれば?」

「ん……でも……」

「寝られる時に寝といた方がいいぜ、七佳」と、蒼太が言う。「幽体離脱中も意識は働いてるわけだから、あれは寝たうちに入らないだろ。ちゃんとした睡眠取った方が良いぜ?」

 夏乃佳はうつらうつらとしながら、閉じ掛けた瞼を蒼太に向けて、こっくりとうなずく。

「はい……じゃあ、ちょっとだけ。ちゃんと起こしてくださいね」

「うん。ゆっくりおやすみ、七佳」

 緋子が言い終える前に、夏乃佳はカウンターに額をぶつけるようにして、眠ってしまった。幽体離脱をする時のような、強い睡魔すいまに逆らえないという、そんな入眠だった。だが、眠る前の意識があったということは、幽体離脱というわけではないのだろう。

「よっぽど疲れてたんだな」

 蒼太が笑いながら言って、緋子に視線を向ける。と──緋子は、無機物のような冷たい視線を、夏乃佳に注いでいた。

 なんでそんな目してんだよ、と蒼太は尋ねようとしたが、冷えた視線が自分の方に向いたのを見て、思わず口を閉ざした。

 姉のこんな表情を、一度だって見たことがないはずだ、と蒼太は思う。

 普段と変わらない無表情に見えるが――しかし、普段よりもずっと冷たく、ずっと無感情だ。

「……どうした、姉ちゃん」

 蒼太が尋ねると、緋子は表情を変えずに、「ほんと、七佳にしか見えないよね」と言った。何のことだろうか、と蒼太は考えたが――瞬間、夏乃佳に視線を向け、まさか、と思った。

「奪われてたのか」

「多分」緋子はふう、と息を吐いた。「いや、ほぼ間違いなく、かな。七佳じゃないはず。だから、これを冬子さんに引き渡すわけにはいかない。どうにかしなきゃ」

「どうにかって……でも、すぐ迎えに来るんじゃなかったっけ?」

「まだ見つかってないって、嘘をついてある。ううん、嘘じゃないか。七佳はまだ、ちゃんと見つけられてるわけじゃないし」

 無表情で、緋子は淡々たんたんと言葉を発し続ける。緋子のこんな姿を見るのは初めてだったので、蒼太は迂闊うかつに言葉をげなくなってしまう。

 緋子はあくまでも冷徹れいてつに、夏乃佳を見下ろしている。

 ああ、これは無表情ではないのか、と、蒼太は気付いた。

 怒っているのだ。

 夏川少年か、それとも自分に対してか。暴力的な怒りを抱えている、そんな表情だ。

「……姉ちゃん、七佳に、何かしたのか?」蒼太はゆっくりと、言葉をつむぐ。「なんか、疲れて眠ったわけじゃあ、なさそうに思えてきた」

「大したことじゃないよ。睡眠薬をっただけ」と、緋子は悪びれる様子もなく言った。「ああ、量もちゃんと計算してあるから、体に害はないよ。ただ眠くなるだけ」

「いや、なんでそんなもん持ってんだよ」

「薬なら、大抵そろえてるよ」緋子は科学喫茶の戸棚を見た。「蒼太も毎日見てたと思うけど」

「いや見てたけど……それ全部マジもんの薬なの?」

「当たり前でしょ。ここはラボなんだから」緋子はようやく表情に温かさを取り戻して言った。「もちろん、カモフラージュはしてるけどね」

「……それ、違法じゃねえの?」

「物理法則を無視してる人たちに言われたくないんだけど」

「返す言葉もねえや」蒼太は笑いながら言った。「ああそうか、それでわざわざ、紅茶にしたわけね。混ぜても不自然じゃないように」

「正解。なかなかえてるね」緋子は口角こうかくを上げる。「オレンジジュースじゃ、攪拌するわけにもいかないし、色もちょっと変になるから」

「あっそ……まあ、俺も七佳も、そんな小細工こざいくには気付かなかったと思うけど。姉ちゃんがそんなことするなんて、まさか思わねえし。そもそも……姉ちゃんは全然、うたがってるようになんか見えなかったけどな」

「無駄に歳食ってるわけじゃないのよ、私も」

 緋子は疲れたような表情を浮かべて、にぶく笑う。

「俺にはまだ、にわかには信じられないけど……姉ちゃん的には、こいつは七佳じゃないんだな」と、蒼太は尋ねる。「いつそう思ったわけ?」

「最初からそうじゃないかって思ってたよ。なんて言えば良いか分からないけど……会話に違和感があったから」

「全然分かんなかったな。俺にはどう見ても、ただの七佳に思えた。もし少年が七佳を奪ったとするなら、もっと違いがあると思ってたんだけどな」

「うん、私も。話してて、七佳が言いそうなことを喋ってたし、七佳の知識も持ってるように思った。前にあったの話をしたときも、すんなり会話に入って来たし――返答時間も早かったように思う。記憶にも言葉遣いにも、問題があるようには思わなかった。なんで夏川君が知ってるんだろう? とは思ったけど――」

「まあ、知識ってのは肉体の領分りょうぶんだからな。俺が化猫ばけねこなら、昨日までの夏川少年は化生けしょう。どちらの肉体も偽物だから、過去の知識は持ってないのが普通だ。でも、今の七佳みたいに本物の身体を乗っ取ったら――それこそ完璧な成り済ましになれる。記憶が蓄積ちくせきされてる脳は、七佳本人のものなんだから、当然だ。身体を奪えば、記憶はあるし、知識もあるし、何より普通の人間と同じように歳が取れる。そこが化生と憑依ひょういの大きな違いだな」

「記憶まで奪えるってこと?」

「奪うっつーか……アクセス出来るようになるわけ」

「? よくわからない。パソコンで例えて」

「パソコン? 逆に面倒くせえ例えだな」蒼太は笑いながら、視線を上に向ける。「でも、そうだなぁ……パソコンが肉体で、それを使う人間が、意識とか、魂って呼ばれるやつって感じかな。普通は本人の意識しかログイン出来ないものを、他人が勝手に使ってる。意識が持つ感覚的な記憶と、物理的な記憶ってのは、まあ別ってことだよ」

「なるほどね」緋子はおどけたように肩をすくめる。「じゃあ蒼太は?」

「俺の場合は、ひとつのパソコンを、二人で使ってるようなもんかなあ……そこまで単純じゃないけど、元の猫としての俺がいて、化猫としての俺がいる。多重人格っつーか……複アカ状態?」

「ふうん」

「あんま分かってなさそうだな」

「わかんない」緋子は首を傾げて言った。「じゃあ、昨日までの夏川君は?」

「あいつの場合は、うーん……同じ型のマシンを使ってるだけって感じかな? 俺とはまた違うから、よくわかんねえや。本来、化生は記憶なんか引き継がないし、化けただけじゃあその人間の名前も知らないはずだ。だから少年は、ずっと夏川柳一を狙ってたんだろうな。自分が化ける人間の情報を仕入れて、完璧じゃないにせよ、それらしく振舞ふるまう――でも、人間の感覚なんて曖昧あいまいなもんだから、目に見えたものを信じる。姉ちゃんが俺を信じたように、同じ姿形なら、多少言動がおかしくても、本物だって信じる。そういうもんだよ」

「七佳が言ってた通り、誰にも分からないってことね」

「今回の場合は特に」と、蒼太は夏乃佳に視線を向ける。「普通は魂が抜けるなんて現象は早々起きないから、あとは言動さえミスらなきゃ、完璧に七ツ森ななつもり夏乃佳を乗っ取れる。だから、俺が見てた感じ、七佳はいつもの七佳と同じように見えたけどな……完全に騙されてた」

「確かに、言動は七佳そのものだったと思う。私だって、違和感はあったものの、どこか半信半疑だったし」

「でも分かったんだろ? 付き合いの違いってやつ?」

「どうだろう。勘って言うほど当てずっぽうでもないけど……例えば、七佳が妙に大人しかったのも、違和感のひとつ」

「あんな状況で元気な方がおかしくねえか?」

「七佳はそういう性格なんだよ」緋子は困ったように笑う。「空気は読むし、人付き合いも丁寧だけど、自分の感情をおさえ込む人間じゃないし、私たちにあんなにしおらしい態度を取ったりしない。七佳は問題が解決したら、その時点で今までの面倒ごとなんか全部忘れて、笑える子なんだから」

「あーまあ……そんな感じだな。でも普段からそうなら、なんで少年はそういう七佳を演じたんだろうな?」

「あの子の前では、お姉さんぶってたからじゃない?」

 緋子は、一瞬だけ微笑んだ。

「彼の中では、七佳はそういうイメージだったんじゃないかな。丸一日観察して――七佳のお姉さんぶった部分だけを抽出ちゅうしゅつしたんじゃない? 想像だけどね」

「はあ……わっかんねえなあ」

「私だってそれだけで分かったわけじゃないよ。七佳じゃないって確信したのは、最後の質問かな」

「何て質問したっけ?」

「本物の七佳か、って質問したでしょ」

「ああ、確か、本物です……って言ってたっけ。でもそれこそ、七佳でも、少年でも、同じように答えるはずだろ。本物かって聞かれたら――誰だって、本物ですって答えるはずだ。本物であろうと、偽物であろうと。だから、そんな質問に意味なんてねえと思って、まともに聞いてなかった」

「まあ、普通はそうだよね。本物かって聞かれて、偽物だって答える人はいないと思う」

「じゃあ、七佳の反応がおかしかったってこと?」蒼太は不思議そうに尋ねる。「それとも、七佳なら少年のために、偽物だって答えるって思ったとか?」

「ううん。七佳ならきっと、こう答える」

 緋子は眠りに落ちた夏乃佳を見ながら、優しく微笑む。

? って」

 蒼太は一瞬、意味が分からないというように首を傾げたが、すぐに表情をほころばせる。

「――――ああ、なるほどね。言いそうだ。相変わらず……やべえ女だなあ」

 夏乃佳を見ながら、蒼太は思わずそう呟いた。言われてみれば、確かに夏乃佳はそう言いそうだな、という感覚があった。本物だろうと偽物だろうと、どっちだっていいじゃないか、と。だから自分は緋子に秘密を知られることなく生活していたのだろうし、それを誰も疑おうとしなかった。経歴を調べようともしない。過去をあばこうともしない。

 いないよりはいた方が良い。

 本物だろうと偽物だろうと、ないよりはあった方が良い。

 それくらいの気持ちなのだろう。

「やばいよねえ。七佳って、まともな大人になるのかな」

 蒼太の評価に、緋子も同感だった。十歳の少女にするべき形容ではないが――そもそも言葉の定義も曖昧あいまいだが、七ツ森夏乃佳という少女には、やばい女、という言葉がよく似合った。そのくらい、常識外の存在なのだ。

 生まれた時から、ふたつの世界を見続けている。

 生まれた時から、常識外の存在に囲まれている。

 それで普通になれという方が、土台どだい無理な話だ。

「じゃあ、蒼太」

「ん?」

「あと、何とかして」

「は?」蒼太は間の抜けた声を出して、「あ、何か計画があったわけじゃないのか」と、緋子を見ながら言う。

「うん。とりあえず動きを封じてみた」

「あっそ。んー……じゃあまあ……何とかしてみますか」

 蒼太はビーカーのミルクを飲み干してから、ゆっくりと立ち上がると、緋子を見据える。

「つっても、解決策が思いつかねえな。今一番やらなきゃいけないことってのは、なんだ?」

「夏川少年をどっかに連れて行くことかな」緋子はアイスコーヒーを飲みながら言う。「私には分からないけど、そこらへんに浮いてたりするんじゃないの? 強制的に気絶させたわけだし」

「あー……どうだろうな。七佳の身体ならスポンと抜けるか?」蒼太は視線を彷徨さまよわせる。「まあでも、気絶したわけだしな、それが一番か。入る魂がなきゃ、七佳も勝手に戻ってくるかもしんねえしな。うまく行くかわかんねえけど……少年を強引に引っ張って連れてくよ。の世界にな」

「格好良い言い方」緋子は笑う。「じゃあ、よろしく」

「それをやるには、俺も魂になんなきゃいけないから、この体もたもてねえな。少年と同じステージに立って、干渉かんしょうするしかねえや」

「さっき言ってた、感覚的に死ぬ、ってやつ?」

「まあそうだな。かと言って、姉ちゃんの目の前で変なもん見せるわけにもいかないし、それは外でやるよ」

「まあ、その方がありがたいかな」緋子は淡々と言う。

「じゃ、行ってくる」

「はい。いつ帰ってくるの?」

「もう、帰って来ねえかも」蒼太は名残なごり惜しそうに、笑顔を見せる。「そうだな……そこらに浮いてりゃそれでいいし、浮いてなきゃ少年を引きずり出して、引っつかんで、どっか遠くに行くよ。コツが分かれば、俺も戻ってこれんのかな? でも、やったことねえから分かんねえや。ま、戻ってこなかったら、常連のみんなによろしく」

「分かった。面倒なこと頼んで、悪いね」

「俺にしか出来ねえことだから、俺がやんなきゃな」蒼太は冗談を口にして、ドアに手を掛ける。「ああ――二階堂にかいどうさんには、ちゃんとサービスしてあげてよ。約束しちゃったから」

「言われなくても」

 蒼太が外に出ると、ドアベルの余韻よいんだけが、店内に響き渡った。

 今ドアを開けたら、蒼太が猫に戻る様子でも観察出来るのだろうか――と考えたが、やめておくことにした。夏乃佳をひとりにするのも忍びないし、非科学的な現象を目にする勇気も、自分にはない。

 全ては冗談だったのかもしれない、と思い込むことにした。

 夏川少年も、夏乃佳の変化も――蒼太のことも。

「……お盆になったら、蒼太の墓が本当にあるのか、確認しようかな」

 緋子は独り言を呟いてから、手元のコーヒーを口にする。現実逃避でもするように、本日分の売上ロスを暗算あんざんしてみる。まあ、七ツ森家からもらった夏のボーナスで帳消しに出来るだろう。もらいすぎかとも思ったが、案外妥当な金額だったかもしれない、と考える。

 夏乃佳はまだ目を覚まさない。

 静かな店内で、緋子はぼんやりと、現実について考える。現実というのは、一体何なのだろう。科学的に証明出来るものだけが現実ではないのなら、科学とは一体何なのだろう――しかし、緋子は今回の件で、自覚はないにせよ、非科学的なものを信頼した。

 緋子が夏乃佳を偽物だと判断した基準は、決して科学的な根拠にもとづく思考ではないはずだ。

 なんとなく。

 直感的に。

 多分――そうじゃないかな、と思っただけだ。

 蒼太には当てずっぽうではない、とは言ったものの――論理的に説明はしてみたものの、そこに至るまでの経緯は、動機は、全て違和感によるものだ。

 最初のひらめきは、あくまでも直感的。

 それの正しさは、自分だけにしか分からない。

 けれど絶対にそうだと言い切れるだけの感覚が自分の中にあったのは、確かなのだ。

 だからもう、科学的か非科学的かの境目さかいめも、分からない。

「ちゃんとついてきてる? 七佳」

 独り言を呟くように、緋子は言った。

 自分の目には見えていないけれど、きっとこの辺に浮いているんだろうな、と、視線を宙に向けながら、緋子は微笑んだ。

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