第二話

「ん……」

 小さなうめき声を上げながら、横たわっていた夏乃佳かのかが目を覚ました。

 緋子ひこ蒼太そうたが心配そうに、夏乃佳を見つめている。

 上半身を起こし、本殿ほんでんの階段部分に腰を下ろすようにして、夏乃佳は周囲をキョロキョロと見回しながら、ぼんやりとした視線を二人に向けた。まだ、意識が覚醒かくせいしきっていないようだ。意識を肉体と接続しているのだろう。冬子とうこが言う、インストール期間中だ。

「緋子先生……?」

 緋子の姿を目視もくしして、夏乃佳は不安そうに呟いた。幽体離脱だったのだから、先ほどまでの二人のやりとりをきちんと聞いていたはずである。だから、状況が把握はあく出来ていないわけではないはずだ。その不安げな表情はむしろ、緋子が自分をどう思っているのか――という意識からくるものだった。目の前の大人に対して、怯えに似た感情を抱いているように見える。

七佳なのか……良かった」緋子は笑顔を浮かべて、夏乃佳に微笑みかける。「大変だったね。大丈夫だった?」

 緋子は思わず夏乃佳に駆け寄り、小さな体を抱き締めた。

「緋子先生?」

「ごめんね、七佳。変なこと言っちゃって」

 それが全てだというわけでもないのだろうけれど。

 それでも緋子は、全ての責任を受け入れるつもりで、そう言った。

 きっと自分の不用意な発言が、夏乃佳の行動を決定付けたのだ。

「そんなこと、ないですよ」

 夏乃佳も、小さな手を緋子の背中に回して、抱き着く。緋子の白衣からは、珈琲の匂いがした。その匂いは夏乃佳に安心感を与えるものだったのか、さらに深く顔をうずめるようにして、緋子を抱きしめる。

「――姉ちゃん」

 蒼太は緋子に声を掛けるが、しかし、緋子は応じようとしない。

 無視したわけではなかった。蒼太の言いたいことは、緋子にもよく分かる。むしろ、同じことを考えていると言っても良かっただろう。

 強く夏乃佳を抱き締めながら、緋子は考えていた。

 この夏乃佳は本物なのだろうか。

 あるいは――

夏川なつかわ君は、偽物だったんだね」

 緋子は、夏乃佳を抱き締めたままで尋ねる。ただの世間話というわけではない。そこには、夏乃佳の真偽しんぎを確かめようとする意図があった。

「……ごめんなさい、緋子先生」夏乃佳は抱き締められながら、居心地が悪そうに言った。「りゅー君のこと、私が助けてあげなきゃって思ったんですけど……」

「私があんなこと言ったせいでしょ。謝らなきゃいけないのは私の方だよ」

「……? それ、どういうことだよ、姉ちゃん」

 背後に立つ蒼太が、怪訝けげんそうに緋子に言った。

 蒼太は、夏乃佳の行動の理由を知らなかった。いな、蒼太だけではなく、緋子と夏乃佳以外誰も知らない。

 責任感や、義務感の話。

 けれど、蒼太には説明しなければならないだろう、と緋子は思う。こんなに巻き込んでおいて、あんなに喋らせておいて、教えないというわけにもいかない。

 重たい口を、ゆっくり開く。

「七佳がこんなことをしたのは、多分、私のせい」

 緋子は振り返らずに言った。

「はあ?」

「私が七佳に、妙なことを吹き込んだせいなの」

「なにを言ったんだよ」

「どこから話せばいいんだろ」緋子は夏乃佳を解放かいほうすると、隣に腰掛けて、蒼太を見上げる姿勢になった。「昨日、七佳と夏川君が現れた。私が、夏川君は本物じゃないのかって質問したら、七佳はそうですよって言ったの」

「言いました」緋子の隣で、夏乃佳は大人しそうに言う。

「そりゃ、少年は本物の夏川柳一りゅういちじゃねえからな。それが?」

「どういう流れでそうなったんだっけな……七佳がね、別に偽物でもいいんじゃないかっていうようなことを言ったの。夏川君はちゃんと存在していて、偽物だとしても誰にもバレないんだから、それでいいんじゃないかって」緋子は考え込むように、視線を下げた。「でも、私はそれは間違ってると思った。他の誰にも出来ないことでも、七佳には彼が本物かどうか判別出来る。だから、七佳にしか出来ないことがあるなら、その力で、誰かを助けられる人であって欲しい――って、そんなことを、私は七佳に言ったの」

 蒼太は眉根まゆねを寄せて、よくわからない、というような表情を浮かべた。蒼太には、緋子の発言が正しく感じられる。本物と偽物を区別出来る人間がいるのなら、そういう力があるのなら、それを正しく使って誰かを助けることは、正しい思想に思える。

「……それがどうして、七佳が少年の憑代よりしろになることになるんだ?」

 蒼太の疑問に、緋子は困ったような表情を浮かべて、

「それも、七佳にしか出来ないことだから。そうすることで、偽物の夏川君を助けることが出来るから――そうだよね」

 と、夏乃佳に向けて言った。

 緋子の言葉に、夏乃佳は小さくうなずく。

 自分が犠牲になることで夏川少年の望みを叶えられるなら、それが自分にしか出来ないことなら、助けてあげなければならない。緋子はを助けるように言ったつもりだったが、夏乃佳にとっての夏川少年は、一緒に過ごした狐憑きでしかなかった。

 夏乃佳の行動理由は、そうした単純なものだった。そもそも夏乃佳にとって、生と死の間に大きな差はない。生きていても、死んでいても、特別な変化はない。夏乃佳の中には、人間として生き続けたいという強い意識がなかった。もちろん、永遠に肉体から離れてしまう恐怖はある。他人が自分をかたることに対するもどかしさもある。でも――それは、耐えることが出来るレベルの感情だ。何を犠牲にしてでも、人間として生きたいと願う夏川少年の望みに比べて、夏乃佳の期待は、些末さまつな感情のように思えた。

 だから、その望みを叶えることが、夏乃佳に出来る――夏乃佳にしか出来ないことだと、判断した。

 出来る人がやらなきゃいけない。

 それは裏を返せば、能力がある人間は自分の感情を犠牲にしろ、と言っているのと同じことだ。

「もちろん、私はそんなつもりで言ったわけじゃなかった。でも、言葉を額面がくめん通りに受け取れば、七佳がそう思っちゃうのも間違ってない」

「……間違ってねえのか? 俺には、どうも間違ってるように思えるけど」

「それは、私たちが平等な考え方を出来ないからでしょ」緋子は蒼太に向けて言う。「七佳は誰に対しても平等だった。だから、そういう結論を下したんだと思う」

「……平等ってなんですか?」夏乃佳が尋ねる。

「平等っていうのは、順位を付けないってこと」

 緋子は夏乃佳の頭をでると、膝に手を当て、ゆっくりと立ち上がる。

「私は、夏川君と七佳を天秤てんびんに掛けることが出来るし、その上で、七佳を選べる。それは全然、平等なんかじゃない。私は、七佳に生きていてほしいよ。彼には悪いけど――人間的な欲求だけど、長い時間付き合っている人を優先したいと思っちゃう。つい数日前に知ったばかりの夏川君よりも、昨日会ったばかりの偽物のりゅー君よりも、私は七佳を優先したい」

「……それは、私も、普通のことだと思います」

 夏乃佳は、緋子を見上げながら言う。真っ直ぐに緋子を見つめて、視線をらそうとしない。

 特殊な力を持っていようと、特殊な世界を見ていようと、夏乃佳は十歳の少女でしかない。どれだけの経験をしていようと、十年だけしか生きていないのだ。

 その視線は、子ども特有の勇気をはらんでいた。

 矢継やつばやに語る大人の言葉の中に、自分が思っているのと同じ感情を見つけた時の、期待を含んだ勇気の目だった。

「私も、知らない人より、知っている人の方が好きです」

「――ああ、そっか。そうだよね」緋子は納得したように、何度か頷いた。「七佳にとっては、本物の夏川君よりも、偽物のりゅー君の方が、一緒にいた時間が長い。だからりゅー君を優先したわけか」

「……はい」

「大丈夫だよ七佳。怒ってないし、七佳が間違ってるとも思ってない」緋子は優しく微笑む。「そういう意味では、七佳も平等じゃないのかもね。そうだね、うん――あるいは、機械的って言った方が、正しいのかも」

「でもさ」蒼太は不思議そうに言う。「普通、自分との付き合いが一番長いんじゃねえの? 付き合いの長さを優先するって言うなら、自分を犠牲にして誰かを助けるなんて……おかしいだろ」

「それはあんたも同じでしょ」と、緋子は厳しい口調とは裏腹うらはらに、優しい表情のままで言った。「猫としての生活を捨てて――私に気付かせないために、猫目蒼太を騙ったんでしょ。私利私欲しりしよくじゃなく、私のために。違う?」

「……ま、姉ちゃんの言う通りだけど、俺の場合はちょっと事情が違うからな」蒼太は手を広げて、おどけるように言う。「元々、俺はただの飼い猫だ。自分が猫だっていう自覚はあったけど、人間にかこまれて生きてりゃ、いつの間にか人間にあこがれてたって部分もある。それに……蒼太は死んでたわけだからな。ただの盗人ぬすっとであって、自己犠牲の精神なんてないよ」

 誰も犠牲になっていない。

 蒼太の言いたいことは、緋子にも分かった。けれど、もし猫目ねこのめ家での一件に被害者がいるとしたら――それは目の前にいる、だろう、とも思う。自分が蒼太の死を受け入れられていれば、両親がきちんと向き合わっていれば――猫として生き続けられたはずだ。どちらの方が正しいかなんて緋子には言えないけれど、少なくとも、こんなことにはならなかったはずだ。

 普通の猫でいられれば、化猫ばけねこになんてならずに済んだかもしれない。

 飼い猫として愛されることで、自分を疑わずに済んだのかもしれない。

「……ごめんね、蒼太。私たちのせいで」

「別に、誰のせいでもねえよ」

「そうだね、誰のせいでもない。だから今回のことだって……七佳のせいじゃないと思う。誰かが責任を取らなきゃいけないなら、それは私」

「……緋子先生、怒ってないですか?」

 夏乃佳は不安げに、緋子を見上げながら尋ねる。

「七佳のやったことには、怒ってないよ。でも、自分自身に対しては、ちょっと怒ってるかな」

「良かったです」夏乃佳は薄く笑って、ほっとしたように息を吐いた。「なんだか、色々あって疲れちゃいました」

「うん、じゃあ、ひとまず店に帰ろうか」

「はい」

 緋子が微笑むと、夏乃佳も満面の笑みを浮かべた。

 その応答の最中さなかで、蒼太は、夏乃佳の手を取ろうとした緋子に歩み寄り、耳元で小さくささやく。

「――なあ、本物なのか?」

 その発言は、夏乃佳には聞こえていなかったはずだ。

 緋子は目を閉じ、ゆっくりと頷く。

 肯定こうていの意味なのか――と蒼太は思ったが、緋子の表情は、晴れ渡ってはいなかった。

 まだ決めかねている。

 判断が付かない。

 その首肯しゅこうは、言葉にするなら、「わかってる」という意味だろう。

 何をすべきかは、ちゃんとわかってる。

「ねえ七佳」

 夏乃佳の手を取りながら、緋子は言う。

「なんですか?」

「一つだけ、確認させて欲しいの。疑っているわけじゃないんだけど……確認だけさせて。七佳は、本物の七佳だよね? 夏川君に、身体をあげちゃったわけじゃないよね?」

 緋子の質問に、夏乃佳はゆっくりと時間を掛けてから頷いたあと、

「えっと……私は、七ツ森ななつもり夏乃佳です。本物ですよ」

 と言った。

「うん、そうだよね。よかった」

 緋子は夏乃佳の手を取って、「よし、帰ろうか」と言った。夏乃佳は満面の笑みを浮かべて、「はい」と、大人しく言う。それは、いつもの夏乃佳と同じ姿に見えた。蒼太の目にも、それはまぎれもなく、夏乃佳本人に見えた。

「蒼太、行くよ」

「……え、俺、このまま帰っていいの?」

「なにが?」

「いや、姉ちゃんに事情を説明して、俺の正体が全部バレて――で、このまま消えようかと思ってたんだけど。それかまあ……普通の猫に戻ろうかなって思ってたんだけどな」

「いいんじゃない? そのままで」緋子はどうでもよさそうに答えた。「それにまだ、色々とやってもらわなきゃいけないことがあるんだから。まあ今後のことは話し合うとしても――とりあえず、一緒に来なさい」

「……色々って、喫茶店の仕事?」

「まあ、そうだね」

 緋子は夏乃佳の手を引いて立ち上がらせると、衣服についた汚れを叩いて払った。

「汚れちゃってるね」

「ありがとうございます」

「ちゃんと綺麗にしないとね。女の子なんだから」

 緋子は手を叩いて土埃つちぼこりを払い、白衣で汚れをぬぐう。「姉ちゃんも女の子なんだからハンカチくらい使えよ」と蒼太が言ったが、「そのまま出てきたんだから仕方ないでしょ」と、緋子は不愉快そうに言うだけだった。

 比較的綺麗になったと思われる手で、緋子はもう一度、夏乃佳と手を繋いで、歩き出す。

「じゃ、行こうか」

「はい」

 仲良く歩く二人のうしろを、細長い化猫がゆっくりとついてくる。

 緋子は普段通りの表情をしていた。夏乃佳は嬉しそうに笑っている。しかし蒼太は――複雑そうな面持おももちで、居心地が悪そうにしていた。夏乃佳をいぶかっているのか、自分の居場所を見失っているのか。

「七佳、ちゃんとついてきてね。もう、いなくなったりしたらダメだよ」

 緋子は前を向いたままで、唐突とうとつつぶやく。

「はい、わかりました。ちゃんとついていきます」

 三人が遠鳴とおなり神社の鳥居とりいくぐると、夏の暑さが突然襲い掛かってくる。気温も湿度も同じはずなのに、境内けいだいの中とは違うように感じられた。鳥居をさかいにして、日常と非日常が混在こんざいしているかのようだ。

「ところでさ、蒼太」

「ん?」

「蒼太みたいな人たちって、こういう場所じゃないと色々出来ない、みたいな制約ってあるの? さっきあんたが言ってた、とかじゃないと、魂を入れ替えられませんよ、とか」

「なんだよ突然」

「いや、ちょっとした興味本位。私だってこんなこと聞きたくないんだけど……気になったから。どうしてわざわざここまで来たのか、って」

「ん、いや――どうかな。全体的なことなら、分からないとしか言えないな。少年はどうか知らねえが――まあわざわざここに来たってことは、低能な狐だったんだろうな。ちなみに俺にはそういうのはないぜ? まあ、言ってみりゃ七佳の幽体離脱みたいなもんだよ。どこにいたって、人間と猫と入れ替わることが出来るし、入口さえ見つけられりゃあ、にも行ける。まあでも、さっきも言ったけど、一度離れたら戻ることは出来ねえな」

「でもさっき、普通の猫に戻るとか言ってなかった?」

 蒼太は頭を掻きながら、「んー」とうなり、空を見ながらしばらく言葉を探した。

「……なんつったらいいかな。俺自身、元は猫から生まれた意識なんだけど、別物なんだよな。俺が消えても、猫の魂は普通に残るっつーか……説明が難しいな。同居してんだよ、俺は。そもそも猫が人間に化けても、喋れるわけないしな。にゃあとしか言えねえ」

「へえ、そうなの」興味なさそうな声で、緋子が応える。「要は、別人格ってこと?」

「まあそんなとこだな。猫っつーのはそういう仕組みなんだよ。人間と違って、複数の魂を収納出来るだろ」

「いや、知らないけど」

「猫にはたくさん心臓があるって話、知らない?」

「知らない」緋子は冷たく言い放った。「魂と心臓が一緒かどうかも知らない」

「なんなら今見せてやろうか、猫。二秒もあれば変身出来るぜ」

「別にいい。目の前で見たら、信じなきゃいけなくなりそうだから」

「非科学的なことを?」

「そう。今だって、こんなバカバカしいこと口にしているのだって嫌なんだから」

「姉ちゃんらしいな」

 三人は、静かな田んぼ道を歩きながら、科学喫茶を目指していた。油蝉あぶらぜみの鳴き声や、遠くを走る自動車の音が聞こえる。日差しが強くて、まぶしかった。

 今、自分たちは夏の中にいるんだと、強く感じる。

 この熱も、この苦しさも、この不快感も――鬱陶うっとうしいけれど、命を思い出させる。

 道の途中で、緋子はふいに立ち止まった。ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見たところで、「あ」と、間の抜けた声を出した。

「どうしました?」

 心配そうに視線を向ける夏乃佳に、バツが悪そうな表情を浮かべて、緋子は言う。

「冬子さんのこと、すっかり忘れてた」

 三人は顔を見合わせて、数秒笑い合う。笑いごとじゃないはずなのに、どうしてか、笑えてしまった。

 スマートフォンを耳に当てる緋子を見ながら、蒼太はこの場所にいることを強く実感していた。

 緋子の近くにいることを。

 夏乃佳の近くにいることを。

 とても、嬉しく思った。そしてまた、ふと笑みがこぼれる。

 今笑えてしまったのは、多分、全てが終わったからだろう――と、そんな風に思った。

 夏乃佳と夏川少年の事件だけではなく。

 自分を取り巻く嘘にまみれた生活から、やっと解放されたのかもしれない、と思った。

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