第二話
「ん……」
小さな
上半身を起こし、
「緋子先生……?」
緋子の姿を
「
緋子は思わず夏乃佳に駆け寄り、小さな体を抱き締めた。
「緋子先生?」
「ごめんね、七佳。変なこと言っちゃって」
それが全てだというわけでもないのだろうけれど。
それでも緋子は、全ての責任を受け入れるつもりで、そう言った。
きっと自分の不用意な発言が、夏乃佳の行動を決定付けたのだ。
「そんなこと、ないですよ」
夏乃佳も、小さな手を緋子の背中に回して、抱き着く。緋子の白衣からは、珈琲の匂いがした。その匂いは夏乃佳に安心感を与えるものだったのか、さらに深く顔を
「――姉ちゃん」
蒼太は緋子に声を掛けるが、しかし、緋子は応じようとしない。
無視したわけではなかった。蒼太の言いたいことは、緋子にもよく分かる。むしろ、同じことを考えていると言っても良かっただろう。
強く夏乃佳を抱き締めながら、緋子は考えていた。
この夏乃佳は本物なのだろうか。
あるいは――
「
緋子は、夏乃佳を抱き締めたままで尋ねる。ただの世間話というわけではない。そこには、夏乃佳の
「……ごめんなさい、緋子先生」夏乃佳は抱き締められながら、居心地が悪そうに言った。「りゅー君のこと、私が助けてあげなきゃって思ったんですけど……」
「私があんなこと言ったせいでしょ。謝らなきゃいけないのは私の方だよ」
「……? それ、どういうことだよ、姉ちゃん」
背後に立つ蒼太が、
蒼太は、夏乃佳の行動の理由を知らなかった。
責任感や、義務感の話。
けれど、蒼太には説明しなければならないだろう、と緋子は思う。こんなに巻き込んでおいて、あんなに喋らせておいて、教えないというわけにもいかない。
重たい口を、ゆっくり開く。
「七佳がこんなことをしたのは、多分、私のせい」
緋子は振り返らずに言った。
「はあ?」
「私が七佳に、妙なことを吹き込んだせいなの」
「なにを言ったんだよ」
「どこから話せばいいんだろ」緋子は夏乃佳を
「言いました」緋子の隣で、夏乃佳は大人しそうに言う。
「そりゃ、少年は本物の夏川
「どういう流れでそうなったんだっけな……七佳がね、別に偽物でもいいんじゃないかっていうようなことを言ったの。夏川君はちゃんと存在していて、偽物だとしても誰にもバレないんだから、それでいいんじゃないかって」緋子は考え込むように、視線を下げた。「でも、私はそれは間違ってると思った。他の誰にも出来ないことでも、七佳には彼が本物かどうか判別出来る。だから、七佳にしか出来ないことがあるなら、その力で、誰かを助けられる人であって欲しい――って、そんなことを、私は七佳に言ったの」
蒼太は
「……それがどうして、七佳が少年の
蒼太の疑問に、緋子は困ったような表情を浮かべて、
「それも、七佳にしか出来ないことだから。そうすることで、偽物の夏川君を助けることが出来るから――そうだよね」
と、夏乃佳に向けて言った。
緋子の言葉に、夏乃佳は小さく
自分が犠牲になることで夏川少年の望みを叶えられるなら、それが自分にしか出来ないことなら、助けてあげなければならない。緋子は本物の夏川少年を助けるように言ったつもりだったが、夏乃佳にとっての夏川少年は、一緒に過ごした狐憑きでしかなかった。
夏乃佳の行動理由は、そうした単純なものだった。そもそも夏乃佳にとって、生と死の間に大きな差はない。生きていても、死んでいても、特別な変化はない。夏乃佳の中には、人間として生き続けたいという強い意識がなかった。もちろん、永遠に肉体から離れてしまう恐怖はある。他人が自分を
だから、その望みを叶えることが、夏乃佳に出来る――夏乃佳にしか出来ないことだと、判断した。
出来る人がやらなきゃいけない。
それは裏を返せば、能力がある人間は自分の感情を犠牲にしろ、と言っているのと同じことだ。
「もちろん、私はそんなつもりで言ったわけじゃなかった。でも、言葉を
「……間違ってねえのか? 俺には、どうも間違ってるように思えるけど」
「それは、私たちが平等な考え方を出来ないからでしょ」緋子は蒼太に向けて言う。「七佳は誰に対しても平等だった。だから、そういう結論を下したんだと思う」
「……平等ってなんですか?」夏乃佳が尋ねる。
「平等っていうのは、順位を付けないってこと」
緋子は夏乃佳の頭を
「私は、夏川君と七佳を
「……それは、私も、普通のことだと思います」
夏乃佳は、緋子を見上げながら言う。真っ直ぐに緋子を見つめて、視線を
特殊な力を持っていようと、特殊な世界を見ていようと、夏乃佳は十歳の少女でしかない。どれだけの経験をしていようと、十年だけしか生きていないのだ。
その視線は、子ども特有の勇気を
「私も、知らない人より、知っている人の方が好きです」
「――ああ、そっか。そうだよね」緋子は納得したように、何度か頷いた。「七佳にとっては、本物の夏川君よりも、偽物のりゅー君の方が、一緒にいた時間が長い。だからりゅー君を優先したわけか」
「……はい」
「大丈夫だよ七佳。怒ってないし、七佳が間違ってるとも思ってない」緋子は優しく微笑む。「そういう意味では、七佳も平等じゃないのかもね。そうだね、うん――あるいは、機械的って言った方が、正しいのかも」
「でもさ」蒼太は不思議そうに言う。「普通、自分との付き合いが一番長いんじゃねえの? 付き合いの長さを優先するって言うなら、自分を犠牲にして誰かを助けるなんて……おかしいだろ」
「それはあんたも同じでしょ」と、緋子は厳しい口調とは
「……ま、姉ちゃんの言う通りだけど、俺の場合はちょっと事情が違うからな」蒼太は手を広げて、おどけるように言う。「元々、俺はただの飼い猫だ。自分が猫だっていう自覚はあったけど、人間に
誰も犠牲になっていない。
蒼太の言いたいことは、緋子にも分かった。けれど、もし
普通の猫でいられれば、
飼い猫として愛されることで、自分を疑わずに済んだのかもしれない。
「……ごめんね、蒼太。私たちのせいで」
「別に、誰のせいでもねえよ」
「そうだね、誰のせいでもない。だから今回のことだって……七佳のせいじゃないと思う。誰かが責任を取らなきゃいけないなら、それは私」
「……緋子先生、怒ってないですか?」
夏乃佳は不安げに、緋子を見上げながら尋ねる。
「七佳のやったことには、怒ってないよ。でも、自分自身に対しては、ちょっと怒ってるかな」
「良かったです」夏乃佳は薄く笑って、ほっとしたように息を吐いた。「なんだか、色々あって疲れちゃいました」
「うん、じゃあ、ひとまず店に帰ろうか」
「はい」
緋子が微笑むと、夏乃佳も満面の笑みを浮かべた。
その応答の
「――なあ、本物なのか?」
その発言は、夏乃佳には聞こえていなかったはずだ。
緋子は目を閉じ、ゆっくりと頷く。
まだ決めかねている。
判断が付かない。
その
何をすべきかは、ちゃんとわかってる。
「ねえ七佳」
夏乃佳の手を取りながら、緋子は言う。
「なんですか?」
「一つだけ、確認させて欲しいの。疑っているわけじゃないんだけど……確認だけさせて。七佳は、本物の七佳だよね? 夏川君に、身体をあげちゃったわけじゃないよね?」
緋子の質問に、夏乃佳はゆっくりと時間を掛けてから頷いたあと、
「えっと……私は、
と言った。
「うん、そうだよね。よかった」
緋子は夏乃佳の手を取って、「よし、帰ろうか」と言った。夏乃佳は満面の笑みを浮かべて、「はい」と、大人しく言う。それは、いつもの夏乃佳と同じ姿に見えた。蒼太の目にも、それは
「蒼太、行くよ」
「……え、俺、このまま帰っていいの?」
「なにが?」
「いや、姉ちゃんに事情を説明して、俺の正体が全部バレて――で、このまま消えようかと思ってたんだけど。それかまあ……普通の猫に戻ろうかなって思ってたんだけどな」
「いいんじゃない? そのままで」緋子はどうでもよさそうに答えた。「それにまだ、色々とやってもらわなきゃいけないことがあるんだから。まあ今後のことは話し合うとしても――とりあえず、一緒に来なさい」
「……色々って、喫茶店の仕事?」
「まあ、そうだね」
緋子は夏乃佳の手を引いて立ち上がらせると、衣服についた汚れを叩いて払った。
「汚れちゃってるね」
「ありがとうございます」
「ちゃんと綺麗にしないとね。女の子なんだから」
緋子は手を叩いて
比較的綺麗になったと思われる手で、緋子はもう一度、夏乃佳と手を繋いで、歩き出す。
「じゃ、行こうか」
「はい」
仲良く歩く二人のうしろを、細長い化猫がゆっくりとついてくる。
緋子は普段通りの表情をしていた。夏乃佳は嬉しそうに笑っている。しかし蒼太は――複雑そうな
「七佳、ちゃんとついてきてね。もう、いなくなったりしたらダメだよ」
緋子は前を向いたままで、
「はい、わかりました。ちゃんとついていきます」
三人が
「ところでさ、蒼太」
「ん?」
「蒼太みたいな人たちって、こういう場所じゃないと色々出来ない、みたいな制約ってあるの? さっきあんたが言ってた、裏とかじゃないと、魂を入れ替えられませんよ、とか」
「なんだよ突然」
「いや、ちょっとした興味本位。私だってこんなこと聞きたくないんだけど……気になったから。どうしてわざわざここまで来たのか、って」
「ん、いや――どうかな。全体的なことなら、分からないとしか言えないな。少年はどうか知らねえが――まあわざわざここに来たってことは、低能な狐だったんだろうな。ちなみに俺にはそういうのはないぜ? まあ、言ってみりゃ七佳の幽体離脱みたいなもんだよ。どこにいたって、人間と猫と入れ替わることが出来るし、入口さえ見つけられりゃあ、裏にも行ける。まあでも、さっきも言ったけど、一度離れたら戻ることは出来ねえな」
「でもさっき、普通の猫に戻るとか言ってなかった?」
蒼太は頭を掻きながら、「んー」と
「……なんつったらいいかな。俺自身、元は猫から生まれた意識なんだけど、別物なんだよな。俺が消えても、猫の魂は普通に残るっつーか……説明が難しいな。同居してんだよ、俺は。そもそも猫が人間に化けても、喋れるわけないしな。にゃあとしか言えねえ」
「へえ、そうなの」興味なさそうな声で、緋子が応える。「要は、別人格ってこと?」
「まあそんなとこだな。猫っつーのはそういう仕組みなんだよ。人間と違って、複数の魂を収納出来るだろ」
「いや、知らないけど」
「猫にはたくさん心臓があるって話、知らない?」
「知らない」緋子は冷たく言い放った。「魂と心臓が一緒かどうかも知らない」
「なんなら今見せてやろうか、猫。二秒もあれば変身出来るぜ」
「別にいい。目の前で見たら、信じなきゃいけなくなりそうだから」
「非科学的なことを?」
「そう。今だって、こんなバカバカしいこと口にしているのだって嫌なんだから」
「姉ちゃんらしいな」
三人は、静かな田んぼ道を歩きながら、科学喫茶を目指していた。
今、自分たちは夏の中にいるんだと、強く感じる。
この熱も、この苦しさも、この不快感も――
道の途中で、緋子はふいに立ち止まった。ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見たところで、「あ」と、間の抜けた声を出した。
「どうしました?」
心配そうに視線を向ける夏乃佳に、バツが悪そうな表情を浮かべて、緋子は言う。
「冬子さんのこと、すっかり忘れてた」
三人は顔を見合わせて、数秒笑い合う。笑いごとじゃないはずなのに、どうしてか、笑えてしまった。
スマートフォンを耳に当てる緋子を見ながら、蒼太はこの場所にいることを強く実感していた。
緋子の近くにいることを。
夏乃佳の近くにいることを。
とても、嬉しく思った。そしてまた、ふと笑みがこぼれる。
今笑えてしまったのは、多分、全てが終わったからだろう――と、そんな風に思った。
夏乃佳と夏川少年の事件だけではなく。
自分を取り巻く嘘に
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