第四章

第一話

「――いないじゃん!」

 遠鳴とおなり神社に辿たどり着いた緋子ひこは、境内けいだいの中心で思いきり叫んだ。

 周囲に人気ひとけはなく、誰かがいた形跡けいせきもない。緋子は息を切らしながら、膝に手を当てて、項垂うなだれる。呼吸は荒く、数分間の全力疾走しっそうは、日頃の運動不足を実感させた。

 呼吸を落ち着けながら、緋子はスマートフォンを取り出して、蒼太そうたに電話を掛ける。無機質なコール音が数回鳴った後、『何?』というほうけた声が聞こえた。

「何? じゃないでしょ。あんたどこにいるの。私、神社来たのに、誰もいないし……」

『え? 俺も遠鳴神社――あ、ああそうか、そうだよな。ちょっと待ってて。つーか、電波通じるんだなあ。電波って霊的なものなのかな?』

「ちょっと待ってじゃない。ていうか、何言ってんのあんた」

「後ろだよ、姉ちゃん」

 声が二重にじゅうに聞こえた。緋子は膝を折ったままで、顔だけで振り向く。

 遠鳴神社の本殿ほんでんの横に、蒼太の姿があった。片手にはスマートフォンを持ち、もう片方の手には、目を閉じた夏乃佳かのかが抱えられていた。

「え?」

 一瞬、世界が揺らぐ感覚があった。つい数秒前に見ていたはずの場所。誰もいなかったはずの場所に、蒼太が立っている。一体、何が起こっているんだ……しかしすぐに、緋子は思考を切断する。今はもう、何が不思議で、何が正しいかなどはどうでも良い。

七佳なのか!」

「大丈夫だよ。幽体離脱してるだけだ」蒼太は通話を切って、スマートフォンをポケットにしまうと、夏乃佳を両手で抱えなおした。「……いや、大丈夫かどうかは分からないか」

「何? どういうこと? 何があったの?」

「まあ、ちょっと話そうよ。七佳が起きるまでは、しばらく休憩だ」

 蒼太は夏乃佳を本殿の階段部に寝かせると、自身もそこに腰を下ろした。隣を軽く叩きながら、「姉ちゃんも座りなよ。走って疲れたでしょ」と言う。

「……何があったの? えっと、夏川なつかわ君は?」

「いいから。大丈夫だよ、別に座ったって怒られないって」

 緋子は不審ふしんに思いながらも、蒼太の横に腰を下ろした。蒼太はいつものように、穏やかな表情をしている。だが、この状況下でおだやかに笑っていられるのは、妙だ。

「――ここで、何があったの」

「あー……説明? そうだなあ、どうしよっかな……」蒼太はいつも通り、飄々ひょうひょうとした態度で呟いた。「その話はまだするつもりじゃなかったんだけど。そもそも、姉ちゃんは聞いても理解出来ないと思うけどな……それでも聞く?」

 蒼太はからかうように言った。普段なら、馬鹿にされていると思うところだろう。だが、今は不思議と、そうは思わなかった。逆に、気を使われているような――あるいは、何か見えない壁を感じるような、そんな問い掛けだった。

「……聞く以外にないでしょ」

「まあそうだよな。じゃあ、簡単に説明するか」

 蒼太は一度息を吐いて、数秒間、沈黙する。

 考えているというよりは、整理しているという雰囲気だった。

 そして、意を決したように緋子を見据えると、静かに口を開いた。

「少年は狐で、俺は猫で、七佳は少年の魂の憑代よりしろになろうとした。俺はそれに気付いたから、それが起きる前になんとかしようとしたんだけど――話し合ってるうちに七佳が寝ちまった。今、七佳の中にどっちの魂が入ってるのか、俺には分からねえ。で、しばらくして姉ちゃんが来た。そんな感じだな」

「……何? 全然分からないんだけど」

「だろ?」蒼太は笑いながら言った。「じゃあ、詳しく説明するしかないな。とにかく、今は待つしかないから、七佳が起きるまでは話をする時間がある……さて、何から聞きたい?」

 緋子は面倒な思考を放棄ほうきして、蒼太の言葉を噛み砕く。

 狐、猫、魂、憑代――耳慣れない言葉の中に、さらに覚えのない言葉がある。

「……俺は猫って、何」

 緋子はなんだか嫌な予感を覚えながら、小さく尋ねた。

核心かくしんからかぁ」蒼太は笑うようにして言ったが、その表情は苦悩くのうに満ちていた。「それも、どっから話すかな……最初から話すしかないか? まあ、順を追って説明するしかないか。姉ちゃん、俺が何言っても、びっくりして気ぃ失ったりしんなよ?」

「何それ」

 緋子も笑いながらこたえる。

 もう二人とも、お互いの顔は見ていなかった。

 持てあました視線は、眠る夏乃佳に向けられている。

「聞かない方が良い?」

「いや、姉ちゃんは聞いておくべきだな。そもそも、俺がちゃんと話すべきだった」

 蒼太は鋭く息を吐いて、呼吸を整えた。

「とりあえず事実から話すか――そうだな、猫目ねこのめ蒼太は、十七年前に死んだ。中学二年生の夏に、交通事故にって、死んだ。これが前提の話」

 淡々たんたんと、蒼太は語る。

 緋子は一瞬、意味が分からなかった。

 蒼太自身が、蒼太は死んだと言っている。じゃあ、今、私は幽霊を見ているのか? と、緋子は思う。死んだ人間が、どうしてここにいるのか。自分も夏乃佳と同じように、幽霊を見ているのだろうか――考えているうちに、ふいに夏川少年のことが思い浮かんだ。ああ、そういうことなのか? 夏川少年は狐で――蒼太は猫。つまりお互いに、人間ではないということか。

 猫目蒼太は十七年前に死んだ――交通事故で、死んだ。それは、あらゆる違和感を解消させる言葉だった。目の前に、猫目蒼太を名乗る人間がいることを除けば、全てのことに説明がつきそうだ。今、ひたすらに思考を巡らせれば、緋子が蒼太に対して抱いていた不安や違和感は、全て解消することだろう。

 けれど、緋子はあまり深くは考えず、言葉をそのまま受け入れることにした。

 蒼太が死んだと聞いて、「やっぱり」とも思わなかったし、「そんなはずない」とも思わなかった。ただただ、「そうだったんだ」と、言葉を受け入れるだけだった。

「……」

 けれど、緋子は何も言葉を返さなかった。

 返答のない緋子をちらりと覗き見て、蒼太は続ける。

「もう、蒼太はこの世にいない。十七年前のあの日からずっと、この世にはいない。蒼太は死んだ。事故があって、病院に運ばれて、助からないまま、そのまま死んだ。この世に対して恨みや後悔も残さずに、魂ごと成仏じょうぶつして、すっかりいなくなった」

 まるで物語を聞いているような気分だった。

 でも、蒼太の口調には、不思議と真実味があった。

「……突然すぎて、わからないんだけど」

「だろうな。まあ、とりあえず……思い出せるかはわかんねえけど、説明しとくか。あの時はもう、とにかく大変だったんだぜ? 事故があったって大騒ぎになって、家の中はしっちゃかめっちゃかだった。多分、手術とかそういうことがあったんだろうけど……結局蒼太が死んだって分かったあと、姉ちゃんは自分も死ぬって半狂乱はんきょうらんで言い出すし、父さんと母さんは加害者にぶち切れちまって……まあ猫目家は大混乱だった。蒼太の通夜つやに顔出した加害者だの保険屋だのと殴り合いの大乱闘だいらんとう。そのたびに姉ちゃんは、私のせいだって泣いて騒ぐし、母さんは人形みてに呆けちまうし……そのまま家庭崩壊してても不思議はないって感じだった――まあ、無事に葬式を終えて、蒼太の死体も火葬かそうしたんじゃねえかな? 俺は知らねえけど、蒼太もきちんと、猫目家の墓に入ったみたいだ。俺も一度だけ、その墓を見たことがある」

 洪水こうずいのように押し寄せる情報に、けれど緋子はじっと耐えていた。思い出せないけれど、そうだったのかな、そんなことがあったのかな、と思った。自分の空白が埋められていく感覚がある。何故そんなにすんなりと受け入れられたのだろうか。今は、思考を停止しているから? いや、違う――その方が、様々なことに、筋が通るから。

 道理が通るからだ。

 ぼんやりと、緋子は想像してみる。

 寡黙かもくな父、陽気な母、大人しい姉と、やんちゃな弟。

 そういうバランスが、一夜にして失われた核家族を想像してみた。

 記憶はないけれど――なんとなく、想像はついた。

 くさびの失われた家庭は、簡単に崩壊したことだろう。

 緋子の中に辛うじて残っている記憶の中で、家族は旅行に出かけたり、姉弟きょうだいで映画を見に行ったり、お墓参りに行ったり――そんな当たり前の子ども時代を送っていたはずなのに、今の猫目家は、冷え切っている。まるで何かを忌避きひするように、関係性が失われている。よほど大きな事件でもない限り、家族関係はそう簡単に変化などしないはずだ。緋子も蒼太も、結婚しているわけじゃない。仲が悪かったわけでもない。そんな家族が散り散りになるには――自分だけが変わるならまだしも、家族ごと変わってしまうとすれば、それ相応の出来事があったはずなのだ。

 だから緋子は、蒼太の説明がに落ちた。

 蒼太がいなくなったから、私たち家族は、バラバラになったのだろう、と。

「蒼太が事故に遭った時……私、自分も死ぬって言ったの?」

 緋子は気になったことを尋ねることにした。そうした感情的な発言は、今の自分とは掛け離れているように思えたからだ。

「……ああ。姉ちゃんはそう言ってた」

「そうなんだ。じゃあ、蒼太がかれたとき、私も一緒にいたってことかな。目の前で、その事故を見てたのかもしれないね」自分の性格を考えると、そんなことでもない限り、自分が自責じせきねんに駆られるとは思えなかった。「あるいはもしかしたら、私のせいで、蒼太が轢かれたってことなのかな……」

「さあ。詳しいことは俺もわかんないや。俺はその場にいなかったし――でもそうだな、私が目を離したせいだとか、私が一緒にいたのに、とか、そんなことは言ってたかな。だから多分、一緒にいたんだと思う。で、蒼太が馬鹿して、車道に飛び出したんじゃねえかな。それこそ、猫みたいにさ」

「……蒼太も、事故に遭った時のことは覚えてないの?」

「ん?」蒼太は一瞬不思議そうな表情をしたが、すぐに緋子の言葉の意味を理解して、表情をやわらげた。「いや、ていうか俺、知らないんだよね。言ったろ? だから……俺は猫なんだって。蒼太を名乗ってるけど、俺は蒼太じゃない。全く関係ない生き物だよ」

「……蒼太の魂が、猫に乗り移ってるとか、そういうことじゃないの?」

 緋子が尋ねると、蒼太は頭を掻きながら、遠くに視線を向けた。

「あー……そういう解釈かいしゃくもあるか。うん。けど、それは違う。蒼太は完全に死んだし、死霊しりょうとして現世うつしよに残ったりもしなかったはずだ」

「でも、それじゃあなんでそんなに詳しく知ってるわけ? 事故当時のこととか、昔のこととか……全部、当てずっぽう?」

 緋子が言うと、蒼太は少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。

「……まあ、そうだよな。覚えてねえよな。姉ちゃん、小さい頃の記憶も、あんまりないんだろうし。自分で封印しちまったんだろうな、都合の悪いことは」

「……うん。全然覚えてない。特に、家の中で起きたことは、ほとんど思い出せない」

「姉ちゃんが拾ってくれたんだぜ、俺のこと」

 蒼太の言葉に、緋子は意味が分からない、という風に首をかしげた。その反応が面白かったのか、蒼太はくっく、と、可笑しそうに喉を鳴らした。

「――拾った?」

「そう。俺は捨て猫で、姉ちゃんに拾われてからずっと、猫目家でわれてた飼い猫だ。ニコルって名前で飼われてた。当時は小さい黒猫だったんだけど……やっぱ覚えてねえか」

「猫なんて飼ってたの、うち」

 緋子は目を丸くして言った。記憶の中に、そのような映像がなかったからだ。

「俺がこっちに来るまで、現役で飼い猫だったんだけどな。ま、姉ちゃんは実家には寄り付かなかったし、知らねえよなぁ……」

 緋子はほとんど理解を放棄ほうきしつつあった。理由は分からないが、蒼太の言っていることは全て真実のような気がしていた。信用に足る人物だから、というわけではない。蒼太は嘘つきで、すぐにはぐらかす。でも、その全ての絵空事えそらごとが、すとんと緋子の中に落とし込まれて行く。騙されているのかもしれない。でも、拒絶する理由もない。むしろその方が、しっくり来る。不思議な話だが、一度死んだ命がよみがえることよりも、全くの別人が――別の生き物が目の前にいるのだと考えた方が、信憑性しんぴょうせいがあった。

「じゃあ、何? あんたは蒼太とは何の関係もない、ただの化猫ばけねこってこと?」

「生物としてはな。関係性はあるぜ? 蒼太だって俺の飼い主だったんだからな。なんだかんだ、五、六年は一緒にいたんだ。逆に言やあ、それだけ一緒にいたから、俺は蒼太を演じることが出来た」

「……信じられない。有り得ない。でも、有り得るんだろうね」緋子は笑いながら言う。「あんたの身体解剖かいぼうしたら、成分は猫なわけ?」

「さあ、試したことないから分からないな。ま、非科学的な話だとは思うよ、俺自身も」

「本当、非科学的な話だね……ていうか、非現実的。でも、うん。全然覚えてないや。猫なんて飼ってたんだ、私」

「ほんっと、薄情はくじょうだよなあ……」蒼太は口をへの字にして、不服そうに呟く。「まあ見た感じ、姉ちゃんは本物の蒼太と過ごしていた時期の記憶を完全になくしちまったみたいだから、必然的に俺のことも記憶からなくなったんだろうな」

「だよね。私、やっぱり記憶喪失なんだよね。へえ……こんな感じなんだ」

 緋子はもう一度、自分の少女時代を思い出そうとする。けれど、やはり何も思い浮かんでこない。蒼太を含む記憶については、ほとんど一切、失われていると言っていい。思い出せるのは、受験勉強を始めた高校生の自分から。あとは、時折刺激される、家族で過ごした夏の風景だけだった。

 自分の頭がおかしくなっている、ということに、緋子は何故か、不思議な高揚感こうようかんを覚えていた。ああ、記憶喪失って、こういう感じなんだな――そう思うと、何故か笑えてしまった。

「多分な。わかんねえけど。実際……この街にきてからのことしか、ほとんど覚えてないんだろ?」

「うん……そうだね。時々、ふとした瞬間に、思い出すことはあるんだけど……家の中でのことは思い出さなかったから、あんたのことも覚えてないみたい。外で遊んだこととか、そういうのは、ちょっと記憶にあるんだけどね」

「そっか」

 蒼太は緋子に視線を向けた。辛そうでもないし、哀しそうでもない。静かな笑みをたたえているだけだ。

「でも私、大学に行った頃も――社会人だった頃も、蒼太が普通に生きてると思って母さんに電話してた気がする。母さんたちは、私がおかしいって、ちゃんと認識してたのかな。娘が狂ったって思いながら、ずっと相手してたのかな」

「いや、まあ……実を言うと、最初に狂ったのは姉ちゃんじゃないんだよな。母さんが先におかしくなった」

「……? 母さんは普通だと思ったけど」

「今は、な。蒼太が死んでからしばらくして、母さんが俺のことを、って呼び始めたんだよ」蒼太は小さく溜息をついた。「姉ちゃんも父さんも、そんな風に呼ぶのはやめろって言ってたのに、俺のことを蒼太って呼び続けててさ……母さんを不憫ふびんに思ったのか、それともみんな心のどこかで蒼太を求めていたのか――次第に家族全員、俺のことを蒼太って呼ぶようになった。それから俺の名前は、猫目蒼太になったんだ」

「そうだったんだ……なんか、ごめんね」

「ただまあ、結果的には、一番やばくなったのは姉ちゃんだよな。父さんも母さんも、分かっていながら俺のことを蒼太って呼んでたのに、姉ちゃんだけは、そのうち俺を本物の蒼太だと思い込むようになったんだと思う。大学に行って、猫としての俺を見なくなったから、その辺で記憶が混濁こんだくし始めたんじゃねえかな。いや、その前から兆候ちょうこうはあったか。姉ちゃん自身に自覚があったのかは俺には分からないけど、姉ちゃんは自分から、蒼太の痕跡こんせきと距離を置くようになった。それまでほとんど毎日のようにしていた蒼太の墓参りをしなくなって、蒼太の事故現場に花を置くこともしなくなった。次第に『非科学的だ』なんてことを言い始めるようになって――勉強に夢中になって、家にも寄り付かなくなったんだよ」

「ああ……じゃあそれ、高二くらい?」

「高二の秋頃かな。蒼太が死んだのが夏だから」

「そっか」緋子は吹っ切るように言って、立ち上がる。

 そして、大きく腕を伸ばしながら、「そうかあ、蒼太は死んじゃってたんだ!」と、空に向かって言った。

 哀しさが生まれることはなかった。

 かと言って、違和感が解消したことによる喜びもない。

「……だましてて、悪かったよ」

 緋子は振り返り、蒼太を見た。

 この人は一体誰だろう? という緋子の中に生まれた疑問は、正しかったのだ。

 この人は、蒼太ではない。

 蒼太だと思い込んでいたけれど、蒼太ではなかった。

 分からなくても当然だろう。緋子は、大人になった蒼太を見たことなどないのだから。人間の認識能力なんて曖昧あいまいなものだと、緋子は思う。

「でも、なんであんたは、私が店を出す時にうちに来たの?」

「んー……そればっかりは、タイミングだな」蒼太は答えた。「姉ちゃんがいなくなったあとも、父さんと母さんはそりゃもう甲斐甲斐かいがいしく世話してくれたんだよ。母さんは、姉ちゃんから電話が来ると、すぐに俺に色々話してた。蒼太のこと心配してたよとか、蒼太にちゃんとしろって言ってたとかな。俺は本物の蒼太が死んでからずっと猫目蒼太で、姉ちゃんの弟で、父さんと母さんの子どもだった。だから、いつの間にか俺も、自分が蒼太なんじゃねえか? って気がしてきてさ」蒼太は言いながら、可笑おかしそうに笑った。「で、そのうちに、気付いたらそういうことが出来るようになってた。つまり、化猫ばけねこになったってわけだ。姉ちゃんが店出す、一年前くらいかな……急にだぜ? まあ、節目ふしめと言えば、俺が二十歳はたちを超えた頃だな。考えてみりゃ、俺って随分ずいぶんと長生きな猫だろ? 普通の猫なら、死んでるっつーの」

 言われて気付く。蒼太が事故に遭う前に拾った猫だというのなら、二十年近く生きている計算になる。猫の平均寿命は十五年くらいのはずだ。

「そう言われると、あんた長生きだね。覚えてないけど、いつ頃拾ったの、私」

「丁度、七佳くらいの歳の頃じゃねえかな。いや、もうちょい小さかったか。姉ちゃん、昔からけっこうでかかったからな……小六とか、そんくらいじゃねえのかな」

 緋子は、指を折って計算してみた。蒼太がどういう状態で拾われたのかは分からないが、その時に赤ん坊だったとしても、計算は合うし、やはり蒼太の言葉には信憑性があるように思えた。もっとも、猫が二十年生きると化猫になるなどという話は聞いたことがないが。

「そっか、じゃあ……私が化け物を生んじゃったわけね」

「化猫、な。死んだ蒼太には悪いと思ったけど、せっかくそんな力が身についたわけだから――俺は俺なりに、姉ちゃんを喜ばせたくて会いに来たんだよ。なんだかんだ言って、俺の一番の飼い主は姉ちゃんだからな。まあ楽しかったぜ? 知らない土地で生きてくのには、色々とやらなきゃならないこともあるから、家を空けることも多かったけどさ。ちょっと姿を見せて消えるつもりだったけど、居心地が良くてだらだらと長居しちまった。久しぶりに一緒に暮らせて、俺はさ、楽しかったんだよ」

「ああ……蒼太の言ってたとか言うやつは、そのために行ってたわけ」

「そう。化猫連中と集会するんだ。で、人を騙して遊んだり、仲間のために働いたり――そういう猫のコミュニティは、町ごとにあるんだ。猫には猫のおきてがあるってことだな。今回だって、夏川少年の母親と縁のある猫がいてさ……それでしばらく、夏川少年を探してたわけだ、俺たちは」

「でも、見つけられなかったんだ」

「化猫っつっても、流石に人んちには入れないからなあ。まさか誘拐されてたとは思わなかったよ。にいるくらいだったら、ギリで探せるんだけどな。物理的な障害しょうがいを突破するような力は、俺たちにはない」

「何? 裏って」

「ああ……えっと、七佳が見てる世界だよ」蒼太は目の前に、人差し指で大きな円をえがく。「幽霊がいたり、怨嗟えんさがあったり、変な場所への入り口がうろうろしてたり、瘴気しょうき霊障れいしょうがうようよしてる。狂気の世界だよ。普通の人間じゃ、耐えられないような、そんな場所だ」

「何それ。気持ち悪い」

「常人が見たら一発で発狂するだろうな」蒼太は笑う。「そういうものを、七佳は日常的に見て暮らしてる。まともな精神状態じゃあ、生きていけないよ」

「……神隠かみかくしって、つまりそういうこと?」

「ああ、そうそう。そういう場所と繋がる入口みたいなのがあって……たまに子どもが迷い込むと、表の世界からは消えちまう。俺たちはそれだと思って、猫連中とを探してたわけだ。俺たち化猫は霊体みてえなもんだから、自発的に現世と幽世を行き来できる。しかし七佳はなんと、裏に行かなくても、裏の世界が見えるんだ。とんでもねえを持ってるわけだな」

「……それ、大変そうだね。世界が二倍見えるってことでしょ」

「まあ言ってみりゃそうだな。そういうところには、少年みたいに、生まれなかった魂もそりゃあたくさん揺蕩たゆたってる。そん中のひとつが、夏川柳一りゅういち見初みそめた。裏からずっと観察してたんだろうな。で、どうやらそいつが行方不明になったってことが分かった。に落ちたと思った少年は、夏川柳一を騙ることにした。神隠しに遭った子どもは、大抵が発狂して廃人はいじんになるからな」

「――普通、そんなことしちゃ、ダメだよね」

 緋子は思わず、思ったままの言葉をこぼした。

 緋子の言葉は、夏川少年ではなく、蒼太に向けられていたのかもしれない。

「いなくなった人の居場所を奪うなんて、良くない」

「……ダメだよな」

 蒼太は「あーあ」と呟いて、晴れ渡る青空を眺める。

「まあ、こういう生活はいつまでも続くもんじゃないし、そろそろ潮時しおどきだったのかもな。丁度良いタイミングっつーか……切っ掛けみたいなもんだよ、今回の事件は」

「潮時って、何が?」

「俺が普通の猫に戻るタイミングさ」

「何それ」緋子は笑いながら言う。「あんたはもう、化猫になっちゃったんでしょ」

「なっちまったなぁ……」

「じゃあ、いいじゃない。今のままで」

「いや、そりゃダメだ。それじゃあ、俺が少年に顔向け出来ない」

「でも――夏川君とは事情が違うでしょう。蒼太は……私の弟はもうこの世にいなくて、あんたがそれを騙ってるなら、別に――」

「別に、誰も困らないってか?」

 蒼太は緋子の言葉に被せるようにして言う。

「……うん、私はそう思うけど」

「でもさ、そんな風に愛されたって、なんの意味もねえんだよ、実際。他人として生きて、他人として作り上げた人間関係は――居心地は良いけど、どっかにむなしさが残るだけだ」

 蒼太は笑って、立ち上がる。

 緋子よりずいぶんと高い身長だ。

 けれど、猫だと聞いたからだろうか? 威圧感みたいなものは、まったく感じない。

「別に、あんたのことなんか愛してないけど」

 緋子は冷たい口調で言ったあと、少しだけ笑った。

「だろうな」蒼太は舌を出して緋子を見る。「じゃあ、今後はもう少し、愛してもらえるように頑張るかな。俺がどうなるにせよ――愛玩動物ペットらしく、愛嬌あいきょうを振りかないとな」

「そうだね。頑張って」

「ん……」

 背後で小さな声が漏れた気がした。夏乃佳の声のようだが、しかし、まだ目を覚ましてはいないようだ。

「ねえ、やっぱり七佳を店に連れて行った方が良いんじゃない? 話は店でも出来るし……」

「姉ちゃん、ちょい待ち」

 夏乃佳に抱き起こそうとする緋子を、蒼太が手で制する。

「なによ」

「いやまあ、実を言うとこっからが修羅場なんだな。全然、事件は終わってない」

 蒼太はじっと夏乃佳に視線を向けて、威嚇いかくするようににらみつける。

「どういうこと?」

「さっきも言ったろ、俺にもわかんねえんだよ――この中に入ってるのが、七佳なのか、少年なのか。いくらと行き来できようと、人間の中身までは、俺には分からない。そういうのが識別出来るのは、多分、七佳だけだ」

 その瞬間、緋子の頭に、冬子の言葉が響いた。

 ――乗っ取られる。

 落ちた夏乃佳に、夏川少年が入り込む。

 そして、目が覚めた夏乃佳のことを、誰も正しくは判別出来ない。

「じゃあ、目が覚めても、七佳の中身が、七佳じゃないってこと?」

「分からん。ただ、もし少年が入ってたとしても、七佳のままだったとしても、見た目上は同じだし、狐は騙りが十八番おはこだからな……会話しても多分、判別つかねえと思うよ。全くの他人ならまだしも、少なくとも少年は七佳を知ってるから、七佳の演技をするくらいは出来るはずだ。だから修羅場なんだ。このまま、七佳を元の世界に放つわけにはいかない」

「――でも、あんたなら何とかできるんじゃないの?」

「悪いけど、俺にそこまでの力はないんだ。まあ、例えば俺も魂になって、に行って七佳の魂を見つけることは出来るかもしれない。だけどそれを姉ちゃんに伝えることは出来ないし、俺自身も感覚としては――まあ、死ぬことになる」

「でも、夏川君は七佳の中に入れるんでしょう? じゃあ、あんたも同じこと出来るんじゃないの?」

「うーん……猫は憑依ひょうい型じゃねえんだよな。姉ちゃんに言っても分からねえと思うけど……それに、七佳の身体が特別性ってのもある。こんな芸当、七佳じゃないと出来ないんだよ。俺から魂が抜けたら、年寄りの猫が残るだけだぜ」

「じゃあ……どうすんの」

「少なくとも、七佳が目を覚ましてからが勝負だな。俺たちに出来ることは、七佳に帰ってきて欲しいってことをここで伝えることくらいだな。七佳が入ってるならそれでいいし、少年が入っているなら何か策を考えなきゃいけない。どっちにせよ判断は付かないかもしれないけど――七佳が目を覚まさない限り、俺たちは動けない。今ここで俺たちが話しているのだって、二人が聞いてるはずだからやってるだけなんだ」

「……よくわかんない」

「だろうなあ」蒼太は笑みを浮かべる。「俺だってなんとなくしか分かんねえ」

「けど、とにかく七佳が目を覚ましてからってのは分かった。で、七佳には私たちの会話が聞こえてるってこと?」

「……多分な。七佳にとっちゃ、普通の幽体離脱と変わらんはずだ」

「なるほどね」

 緋子は空を見上げて、「七佳、早く帰っておいで」と、小さく呟いた。

 この非日常の中にいる感覚は、とても理解しがたいものではあったけれど――この問題を先送りにするわけにも行かないことくらい、流石に分かる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る