第四話
「――姉ちゃんが来たら、終わりだな」
スマートフォンをポケットにしまいながら、
「蒼太お兄ちゃん……りゅー君は何も悪いことはしてないですよ」
蒼太と
「少年は確かに悪くない。魂の欲求ってのは、素直なもんだよな。ただまあ――
「――きつね」
夏川少年は、消え入りそうな声で、ぽつりと呟く。今や彼は生と死の
「なるほどね。マジもんの
「……お兄さんこそ」
夏川少年は、恐怖に支配された
「ああ、やっと分かったか」
蒼太は自分の両手を見て、周囲の猫を見て、再び夏川少年を見据える。
「お兄さん、今みたいに近くにいたら、似た匂いがするのが分かった」夏川少年は言う。「でも、ちょっと違う気がする。お兄さんは、きつねじゃないよね」
「まあな。俺は見ての通り――」
蒼太は両腕を左右に広げると、くるりと一回転した。手のひらの先は、周囲を取り囲む猫たちに向けられている。彼らを紹介するような、軽やかな動きだった。
「――いわゆる、
「だったら、なんで」と、夏川少年が言う。「同類なら、どうして僕の邪魔をするの?」
「同類? ……ああ、まあそういう
「同類じゃないの?」
「狐憑きと化猫じゃ、この世に存在する目的が違うからな。俺たちの目的はあくまで、
蒼太は言った後、少し笑った。
しかし、夏乃佳も夏川少年も、笑みは浮かべない。
「どうして、僕を消そうとするの?」
「オリジナルが見つかったわけだからな、野放しにしとくわけにはいかない。それに、七佳が危険だ。これも、見過ごすわけにはいかない」
「だから、僕を消そうとするの?」
「別に、少年が何をしようが、正直俺の知ったこっちゃねーんだぜ? 俺たちと関係ない場所で、関係ない人間を襲おうが、奪おうが、騙そうが――正直言って、どうだっていいんだ。俺にとってみりゃ、夏川
「なんで、それが恩返しになるの?」
夏川少年が不思議そうに尋ねる。
自分の延命を求めての質問ではなく、単純な疑問を口にしただけのようだった。
「そりゃあ、七佳がいなくなったら俺は悲しいし――姉ちゃんはもっと悲しむからさ」
「――でも、誰も気付かないですよ?」
夏乃佳は割り込むようにして、緋子に言ったのと同じ言葉を放つ。
「りゅー君が――今のりゅー君が、本物のりゅー君に成り代わっても、きっと誰も気付きません。私になったって、きっと……いえ、絶対に誰も、そんなことがあったなんて気付きません。今こうして、そうなるかもしれないところを見ている蒼太お兄ちゃんだって、きっと私が私じゃなくなっても、気付かないはずです」
「……まあ、普通の人間や、俺なんかにゃ判断するのは無理だろうな。正直言っちまえば、少年が化生かどうかってのも、完璧に判別出来たわけじゃないんだ。特殊な感じはわかるが――中身が何かなんて、分からないしな。怪しいとは踏んでたが、確証はなかった。ただ、少年が言ったように、一緒にいりゃあちょっとした似た匂いは感じる。でも――だからって、昨日は別に少年をどうこうしなかったろ? 七佳に危害を加えるつもりがないようだったから、放っておいたんだ」
「今だって、りゅー君は私に何かしようとはしてないですよ」夏乃佳は首を振って否定する。「私がいいよって言ったんです。りゅー君はもう、りゅー君じゃいられなくなっちゃうから、だったら私の身体をって……」
「七佳はそう思ってるのかもしれないけどな……化生ってのは、自分の目的を達成するためなら、平気で嘘をつく生き物だ。上手く利用されてんだよ、七佳。少年が何を言ったのかは知らねえけど――泣き落としか、
「違う!」
夏川少年は叫んだ。
「違わないさ。そういう生き物だろ」
「違う! 僕は――僕だって夏乃佳お姉ちゃんと一緒にいたいよ!」
夏川少年は、夏乃佳の隣に並んで、叫ぶ。
「でも……それ以外に、僕が生きていく手段がないんだから、そうするしかないんだ! 都合よく、他の誰かが死ぬわけでもない! この体で、誰かを殺せるわけでもない! それとも僕に、一度死んで、またここでずっと生まれるのを待てって言うの!?」
「そうだ」
蒼太は冷たい視線を、夏川少年に向けた。
「お前はそういう生き物なんだ、少年。生と死の狭間で――発生と誕生の狭間で、
「僕は何十年も待ったんだ! それでやっと生まれたんだ!」
夏川少年は、小さな体を折り曲げながら、力いっぱいに叫ぶ。
「もう死にたくない! 僕はこの世界で生きるんだ! もう、見ているだけなんて嫌だ!」
「そのために、七佳を犠牲にするのか? 一緒にいたいんだろ?
「僕は生きたいんだ! 僕はずっとここにいるんだ!」
「ちっ――」蒼太は面倒くさそうに、顔を
「でも――だからって、別にどっちだっていいんですよ」
夏乃佳は弱く微笑んだ。
怒りもなく、寂しさもない。
そこにあるのは、覚悟を決めた表情だけだった。
「りゅー君が嘘つきでも、私が助けてあげられるなら、助けてあげようと思ったんです。私がそうしたいから、そうするだけです……いえ、私がそう出来るから、そうするだけなんです」
「うん……まあ俺は、七佳の優しさを立派だと思うよ」蒼太は柔らかい笑みを浮かべる。「だけど、それじゃ七佳自身の人生はどうなる? こんな簡単に終わりにしちまっていいのか?」
「私は……」
「子どもにこんなこと言っても仕方ねえけど……七佳がいくら特別な人間でも、まだ子どもなんだ。自分の人生を
「でも、私は――!」
「なあ少年」
蒼太は夏乃佳の言葉を無視して、呟く。
笑顔を浮かべていたが、夏乃佳に向けたものに比べて、その表情はどこかぎこちなかった。
「もう一度聞く。他人の人生を犠牲にしてまで、生きたいもんか?」
「…………」
夏川少年は、夏乃佳の横に並ぶように立って、じっと蒼太を見据え――
「生きたい」
――と言った。
「僕にとって、人間として過ごしたのはたった二日間だったけど、とっても、とっても楽しかった。人間でいることが、こんなに自由だなんて知らなかった。ずっと、この世にいながら、ただ見たり、聞いたりしているだけの存在だったんだ。だから、僕は生きたい。人間として、これからもこの世界にいたい。他人を犠牲にしてでも生きようとするのは――だって、みんなそうでしょう? お兄さんだって……誰かを犠牲にして、この世界にいるんでしょう?」
「うーん……ま、その通りだな」
蒼太は言って、頭を
「少年に説教しながら、薄々思ってたんだよな。少年を否定しようとすればするほど、俺は自分の首を絞めている。少年の言う通り、俺の言ってることとやってることは、矛盾してる。うん……実を言えば、一度も自分を疑ったことがなかった。恩返しっていう
蒼太は大きく溜息をついた。
私利私欲のためでないのだから、誰かを犠牲にしても――誰かを
だが、やっていることは、目的が違うだけで、夏川少年と同じことだ。
どんな綺麗事で
「誰かを喜ばすってのは、なかなかどうも、難しいよな」
困ったように笑う蒼太の表情には、
「だからさ、少年。一緒に行こうぜ」
「――一緒に?」
夏川少年は、怯えた表情のままで、
「そう、俺と一緒に、元いた場所に帰ろう。それなら、寂しくないだろ?」
「蒼太お兄ちゃん、どういうことですか」
夏乃佳は急に不安げな表情を浮かべて、蒼太を見上げる。
「言った通りだよ。夏川少年を始末するなら、俺もこの舞台から降りるのが筋だろ? 狐憑きと化猫じゃあ、目的が違う。でも――やってることは一緒だ。誰かを騙って、暮らしてる」
「でもそんなことしたら、緋子先生が悲しみます」
「七佳がやろうとしてることと同じだろ?」
「でも――蒼太お兄ちゃんがいなくなったら、代わりの人がいなくなっちゃいますよ? 私は、りゅー君が代わってくれるから、いなくなっても――世界は変わりません」
蒼太は、どんな言葉を掛けるべきかと考えたが――早々に、考えることを諦めてしまった。生まれた時から、生と死の境界線に立たされていた少女に、どんな言葉で説明すればいいというのか。
蒼太は頭を掻いて、息を吐く。
「……まあ、姉ちゃんは元々、悲しむはずだったんだ」
言って、一歩、二人に歩み寄る。
これだけ会話をしてようやく、行動が始まる。
思考や言葉だけでは、決して導かれない解決に向かって。
「それに、やっぱり狐憑きは――特に、化生は放っておけない。七佳だって知ってるだろ? 化生は――今はまだ、狐としての記憶を持って、人間を騙っているだけかもしれない。けど、そのうちに狐としての記憶なんかなくしちまう。すっかり人間に染まって――いつしか完璧に人間になっちまう。自分が狐憑きだったことなんて忘れて、自分を一人の人間だと――
蒼太はそう言いながら、周囲を取り囲む猫たちを見た。
「……知ってます。でも、だから……」
「そう。だからこそ、誰にも気付かれなくなる。七佳の言いたいことはわかるよ。七佳は優しいからな。知らない誰かより、今目の前にいる誰かを優先してくれるし、その理由を探してくれる」蒼太はまた一歩、二人に歩み寄った。「俺のことだって、最初からずっと分かってたんだろ? 化猫だってことは、七佳にはすぐに見破れたはずだ。でも七佳は、本物の
「……はい。わざわざ言う必要なんてないって思いました」
「だけど、しばらくして気付いたはずだ。それでも七佳は、俺のことを黙っていてくれた」
「…………だって、本当のことを言っても、緋子先生が悲しむだけです」
夏乃佳は行き場のない感情を、涙に替えて落とし始める。
乾いた
「そうだよなあ。悲しむよなあ」
「今のままでも、緋子先生は幸せです。蒼太お兄ちゃんが偽物でも、緋子先生はそのことに、絶対に気付いていません。これからだって、きっとそうです。他の人だってそうです。だから、私が偽物になっても――」
「――でも、いつかそのことを知ったら、姉ちゃんは今より傷つくぜ」蒼太はゆっくりと首を振り、もう一歩、二人に近づいた。「傷つくどころじゃない。きっと、どうにかなっちまうよ。俺に言えた義理じゃねえけど……姉ちゃんはそんなに強くねえからな。また壊れちまうのは、もう見たくない。だからこそ、終わりにしなきゃいけない。新しい悲劇は、これ以上生んじゃだめだ」
「どうしても――ですか?」
「どうしても――だ。七佳」
蒼太が手を伸ばしながら、夏川少年に歩み寄る。
「だから、
「嫌だ! 僕は死にたくない!」
夏川少年は叫ぶが――と言って、成人男性に化けている蒼太と、小学二年生を
蒼太が彼を
「いい加減、諦めろ。俺たちは表舞台の人間じゃないんだ。別に、
「嫌だ! 来るな!」
「大人しくしろって」
「嫌だ! 僕は人間でいたいんだ! 死にたくない! 死にたくない! ずっとこの世界で暮らすんだ!」
その夏川少年の叫びを――一体、蒼太も夏乃佳も、どれくらい理解出来ていたのだろう。
ただ戻るだけ。蒼太はそう言うが、今彼が感じている恐怖は、人間が考える死そのものだった。
今の命が終わり、この
果たして、その先があるのかもわからない。
蒼太が言うように、元に戻れるのかさえ――分からない。
その声が
「うわあああああ!」
蒼太が夏川少年に
瞬間――
突然、隣にいた夏乃佳の体が、崩れ落ちた。
夏川少年が盾にしようと突き飛ばしたのか、と、蒼太は思った。だが、そうではない。夏乃佳は自動的に、倒れたのだ。寝落ちるように、身体中の力が抜けて、一瞬のうちに土に
夏乃佳の身体が力を失い、完全に倒れるまで、蒼太と夏川少年は、動きを止めた。
何が起きたのか。
一瞬後、二人は同時に、その意味を理解した。
「――やべえ!」
直後、夏川少年は蒼太から逃げるように距離を取った。もちろん、すぐに追えば間に合う。猫もいるのだから、逃げ出すことも出来ないのは分かりきっている。だが、蒼太の脳裏に過ぎったのは、どちらを捕まえることが夏乃佳を守ることに繋がるのか――という疑問だった。肉体だけが全てではない。同様に、精神だけが全てではない。夏乃佳を抱きかかえて逃げる? それとも、夏川少年を封じる? 否――しかし、そもそも、今この瞬間、夏乃佳の精神はどこにあるのだろうか。
ああ――ちくしょう。
もはや、自分もこの身体から離脱して、夏川少年と同じステージに立つしかないのではないか。
夏乃佳から視線を外し、蒼太は夏川少年を追おうとしたが――しかしその視界の中に、夏川少年の姿はなかった。
一瞬のうちに、小学二年生の少年が消えていた。
否、逃げ場などあるはずもない。
蒼太の仲間の猫が囲んでいたのだから。
そしてすぐに――猫の円の中に、小さな獣の姿を見つけた。それは狐とは言い難い、もっと原始的な生物の姿だった。狐よりも、あるいは猫よりも、遥かに小さい体だった。四肢を投げ出して、倒れている。それが夏川少年に化けていた化生の正体であることは、火を見るよりも明らかだった。
逃げたか?
あんなに死を恐れていたのに、蒼太に捕まることを嫌って?
――いや、違う。
蒼太は崩れ落ちた夏乃佳に視線を向けた。
夏川少年は自分の身体を捨てて、夏乃佳の体を狙ったのだ。
魂の抜け出た身体を目前にし――自らの魂で、そこを狙ったのだ。
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