第三話

 客が全員いなくなるまでに、あれから三十分掛かった。

 緋子ひこは急いで戸締とじまりだけを確認すると、それ以外は何の準備もせずに、科学喫茶を飛び出した。店の鍵をポケットに入れる。小銭と茶封筒ちゃぶうとうは金庫に入れていたので、不快ふかいな音が発生することはなかった。

 走りながら、まずは冬子とうこに電話を入れることにした。待っている間、冬子からも蒼太そうたからも連絡はなかった。報告がないということは、まだ見つかっていないということだ。白衣からスマートフォンを取り出し、数タップで冬子を呼び出す。

 二回のコールで、冬子が応答した。

『もしもし?』

「冬子さん? 警察に連絡しました?」

『入れた。警察にも会社にも。でも、全然情報がないの』

 冬子の声からは、悲壮感ひそうかんただよっていた。当たり前だろう。自分の娘が、すでに一時間近く行方が分からなくなっているのだから。しかも、その隣には、人間ではないがいるかもしれないのだ。緋子自身、不安感をつのらせていた。しかし、こういうとき、少なくともどちらか一方は冷静でなければならない。緋子は息を吐いて、冷静さを心掛ける。

「冬子さん、こんなことを尋ねるのには、少し抵抗があるんですが……人間の目の届かない空間? とか、そういうところに逃げられた? っていうことは、有り得るんでしょうか。以前、冬子さんが言っていたような――ワープホール? 的な」

『あるある。全然あるよ』冬子は早口に言う。『けど普通ね、人間は陰陽道おんみょうどうには入れないのよ。もう、化け物とかね、幽霊とか、妖怪の領分りょうぶんなの、そこは。夏乃佳かのかなら入れるかもしれないけど……うん、私たちが探せる場所じゃないね。もしそこにいたら、もう……』冬子の言葉は、小さくなって消えていく。

「幽霊に知り合いとかいないんですか?」緋子は自分で尋ねながら、おかしなことを口走っているな、と考えていた。「化け物でも、妖怪でもいいですけど」

『いるわけないじゃない。だって私そいつら退治するのが仕事なのよ!?』

 叫び声の中に、嗚咽おえつが混じっているように聞こえた。そりゃあ、叫びだしたくもなるだろう。緋子はもう一度、静かに息を吐く。落ち着いて。冷静にならなければ。

「――まあ、分かりました。今、店を閉めたので、これから捜索そうさくに加わります。蒼太が一足先に探しに出てますから、何か分かれば連絡します」

『分かった! ありがとう緋子。よろしくね。私ももう一度、家に戻ってみようと思ってるところ。もしかしたら、家にいるかもしれないし……まあ、何かあったら、連絡お願い』

 通話を切って、さて、どこに向かうべきかと思案しあんする。取るものも取り合えず出て来てしまった。こういう場合、どこに行くのがベストなのだろうか。いなくなった場所だろうか? そういう意味で言えば七ツ森ななつもり家に行くべきだろうが、既に冬子が家に戻ると言っている。じゃあ、関係の深い場所――いなくなった場所ではなく、逆に、最初に夏川なつかわ少年がということであれば――つまり、遠鳴とおなり神社か。とにかく時間が惜しいので、すぐにその選択肢を採用した。

 遠鳴神社は、走ればすぐに辿たどり着ける距離にある。緋子は端末をポケットに入れて、走り出す。ふいに、白衣は置いてくるべきだったと気付いたが、戻る時間さえ惜しかった。

 緋子は客がけるまで、ひたすらに夏乃佳と夏川少年が取るであろう行動について、あるいは彼女たちの思考について考え続けていたが――途中でその思考を止めていた。今も意識的に、思考停止することにしている。考えたところで、考えすぎたところで、結論が出ないと思ったからだ。無駄な心配ばかりするくらいなら、何も考えない方が良い。考えすぎても、良い結論が得られるわけでもない。そもそも、考えるという行為に、どれだけの価値があるというのだろうか? 動き出さなければ、何の変化も起こらない。思考が結果を生み出すことなど、有り得ないのだ。

 遠鳴神社に向かいながら、蒼太にも連絡しておこう、と思い立った。再び端末を取り出し、連絡先から蒼太を呼び出す。よほどのことがない限り、緋子は蒼太に電話を掛けることなどなかった。メッセージのやりとりもしていない。普段は大抵、ふたりとも家にいるし、仕事中に電話を掛けたくなる用事もない。だから、蒼太に電話を掛ける、という行為に、なんだか不思議な気持ちを抱いた。それだけ、緊急事態だということなのだろう。

 緋子は耳に端末を当てながら、走り続ける。コール音だけが無情に響き、やはり繋がらないか――と諦めかけたところで、応答があった。

『姉ちゃん? どうした?』

 まず最初に、意外そうな声が聞こえた。

「店閉めた。あんた今どこ?」

『あー……』蒼太は困ったような声を出して、しばらく逡巡しゅんじゅんしたあとで、『遠鳴神社にいる』と言った。

「え? あんたもそこにいるの?」

『何? 姉ちゃんも向かってんの?』

「今走ってる」

『姉ちゃんが走るとこ、想像出来ないな』蒼太が小さく笑う声が聞こえる。

「じゃあ、他当たる。そこにはいなかったわけね」

『いや、いいよ。姉ちゃんも来てくれて』

「はあ?」

七佳なのか、見つかったから』

 緋子は思わず、走るのをやめた。冷静に考えれば、見つかったと言われて走るのをやめることには大きな矛盾むじゅんがあったのだが、緋子は当然それに気付かない。

「え? 遠鳴神社にいたってこと?」

『ああ』

「先にそれ言いなさいよ。え、夏川君は?」

『もちろん、いるよ。まだね』

 まだ――どういうことだろうか、と考えようとしたが、思考を止めた。考えたところで、何も変わらない。行動しなければ、状況は進展しない。

「――分かった。すぐに行く」

『あーちょっと待って』蒼太はあせったように言って、『出来れば、誰にも言わずに、姉ちゃんだけで来て。まだ、誰にも連絡しないで欲しいんだけど』

「なんで」

『いいから。人が増えるとややこしい』

「ややこしい?」

『こっちにはこっちのルールがあるんだ。頼むよ』

 何を言っているのか分からないし、もし何か問題が起きていて人に知らせたくないと言っているのだとしたら――問題が起きているからこそ、人手は多いに越したことはない。それに、冬子にだけは知らせておくべきではないか――とも思ったが、やはり緋子は、考えるのをやめることにした。今は蒼太に従うことにしよう。少なくとも、蒼太は何かと関与している。それに、何かを知っている。いたずらに他人を心配させるような人間ではないと、緋子は思っている。否、信じている。

「……わかった。一人で行く。連絡もしないでおく」

『よろしく』

 通話を切り、緋子は再び駆け出した。

 白衣がはためいて、鬱陶うっとうしい。

 だが、気にしていられない。

 とにかくすぐに、夏乃佳の無事を確認したかった。

 今はただそれだけ考えていれば良い。

 悪い想像をするくらいなら、祈っている方が、いくらかマシなはずだった。

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