第二話

「ねえ、本当にいいの?」

 夏川なつかわ少年は、隣を歩く夏乃佳かのかに対して、問い掛けた。

「うん、大丈夫だよ。りゅー君は心配しないでいいからね」

 二人は夏の中にいた。人気のない田んぼ道を、ゆっくりと歩いている。小学生が二人で歩いていても、まったくと言って良いほど不自然さはない。そこで事故でも起きたのだろうか、同じような景色けしきの途中に、ふいにガードレールが現れる。錆色さびいろに汚れた白が、断続的だんぞくてき点在てんざいしている。すっかり熱を帯びた金属は、禍々まがまがしい熱気を放っていた。

 手を繋いで、アスファルトを歩いていた。夏の日差しが、容赦ようしゃなくそそいでいる。身をがすような熱線に焼かれながらも、二人は一歩ずつ確実に、目的地を目指している。

「テレビのニュース、びっくりしたよね」夏乃佳は笑顔で言う。「りゅー君がうつってたから、私もおどろいちゃった」

「うん……ごめんね、お姉ちゃん。僕もう、あの子はこの世からはいなくなってると思ってたんだ。だから……」

 二人は少し前に、あるニュースを見た。朝から付けっぱなしにされていたテレビで流れていたニュース番組が、誘拐されていた少年が保護ほごされたとほうじた。夏川少年はもちろん、夏乃佳も、それがどういう意味を持つニュースなのか、すぐに理解した。

 元々どうにかしなければ、と思っていたところだった。

 冬子とうこを説得してこのまま夏川少年を生かすか、あるいは逃がすか、それとも御祓おはらいの不必要性を説くか。どうしようかと考えていたところで――オリジナルが見つかってしまった。オリジナルが見つかった以上、存在を続けるわけにはいかないことくらい、夏川少年も、夏乃佳も、理解していた。

 だから、逃げ出すことにした。

 唯一ゆいいつの解決策を試すために。

「ねえ、りゅー君は、どうしてりゅー君が良かったの?」

 夏乃佳は純粋な疑問を口にする。

「えっと……あの子が、綺麗だったから」夏川少年は、照れるように言った。「僕、人間として生きるなら、綺麗な人がいいなって思ったから」

「そうだよね。りゅー君、すっごく綺麗だもんね」

 夏乃佳は笑顔で言う。そこに、他意たいはないように思える。

 随分ずいぶんと遠くに、神社が見えた。遠鳴とおなり神社という名前の神社だ。そこは、今の二人が目指している場所だった。

「でも、お姉ちゃん、本当にいいの?」

 夏川少年は、もう一度たずねる。

「うん、大丈夫。だって、りゅー君が二人いてもみんな困っちゃうし、りゅー君、おうちに帰れないでしょ? ちゃんと私になってくれるなら、いいよ」

「お姉ちゃんは、自分がいなくなっちゃっても……いいの?」

「うん。だって、りゅー君が私になっても、誰も気付かないから」

「本当にそうかな」

「みんなわからないよ。人はね、見た目が九割って言われてるんだって。ほら、双子ふたごっているでしょ? 双子ってね、ほんのちょっと違ってるけど、ほとんどの人が見分けられないんだって。双子でも見分けられないのに、身体が私のものだったら、絶対に気付かれないよ」

「そうなんだ。人間って、適当なんだね」

「それに、りゅー君を助けられるのは、私だけだもん」

「どういうこと?」

「私はね、出来る人だから」

 夏乃佳は満面の笑みを浮かべて胸を張り、夏川少年に微笑みかける。

 責任感なのか、あるいは義務感なのか。

「だから、私がりゅー君を助けてあげるの」

「……ありがとう、夏乃佳お姉ちゃん」

 夏川少年は、また困ったような笑顔を浮かべた。感謝したいのに、感謝しきれないような、不安定な笑顔だった。人間になりたいと思いながらも、人間から身体を提供すると言われたら、躊躇ちゅうちょしてしまう。諸手もろてげて喜ぶわけにもいかない。そんな複雑な心境で、それでも生きるためには、それを受け入れるしかなかった。

「でも、どうしてりゅー君は、勘違いしちゃったの? 本物のりゅー君がいなくなるとこ、見てたの?」

「ううん、見てなかった」夏川少年は答える。「でもね、ずっとあの子のことを見てたから、チャンスがあれば身体を奪おうと思ってたんだ。綺麗な子だったから、あの子が死んだら、僕がもらおうって思ってた。死ぬのをずっと待ってたんだけど、やっぱり人間は、なかなか死なないよね」

「そうだよ。最近はね、技術が進歩して事故が減ってるし、医療いりょうも発達して寿命もびてるんだって」

「すごいね」

「科学のおかげなんだよー」

 夏乃佳は得意げに言って、夏川少年に笑いかける。

 夏川少年は、そんな夏乃佳の笑顔を受けながら、遠くに見える神社に視線を向けた。

「……えっとね、あの日神社にいたらね、色んな人があの子を探してたんだ。警察の人とか、おばちゃんみたいな人もたくさんいて、あの子の名前を呼んでた。誰かが、神隠しだって言って――だから僕、きっとに落ちたんだって、勘違いしちゃったんだ」

「そっか。それで、本物がいなくなっちゃったと思ったんだね」

「うん。だけど、生きてたんだね。誘拐されてたなんて……もっと早く見つかってれば、僕だってもう少し我慢がまん出来たのに。すぐに見つかれば、きちんと諦めたのに……」

「りゅー君はちゃんと我慢出来たよ。だって、二日もちゃんと我慢したんだもん。りゅー君は偉いなあ」

 夏川少年ははにかんで、嬉しそうに笑う。その様子は、まるで仲の良い姉弟きょうだいのようだった。

「そうだ。私の身体、幽体離脱しちゃうの。りゅー君、幽体離脱って分かる?」

 夏乃佳の発言に、夏川少年は首をかしげる。

「あんまりよく知らない。なったことないから。でも、お姉ちゃんの体がそうなってるのは、聞いたよ」

「えっとねえ、突然眠くなっちゃってね、身体が動かなくなるんだ。でも、意識はあって、ふわーって浮いてるの。だから、自分の身体も見られるんだよ。だからね、私、身だしなみには気を使ってるんだ」

「お姉ちゃんも偉いね」

「でしょ」夏乃佳は得意げに笑顔を見せる。「お母さんもね、夏乃佳は可愛いってめてくれるんだよ」

「お姉ちゃん、可愛いと思うよ」

「えへへ」

 油蝉あぶらぜみの声がした。

 どちらの音だろう。現世うつしよか、幽世かくりよか。

 こちらの世界は、とても静かだ。きっと、二人の他には、誰もいないのだろう。少なくとも、物理的な肉体を持った生命体は、きっと。

「あ、でも……りゅー君が私になったら、ちゃんと幽体離脱するのかな?」

「しないの?」

「わかんない。うーん……どうなんだろう。多分、身体の問題だと思うから、大丈夫だとは思うんだけど……急に治ったら怪しまれちゃうかもしれないから、たまーに急に寝ちゃえばいいんじゃないかな。多分、誰にも気付かれないと思うから」

「……ねえ、でもそれだと、お姉ちゃんの意識はどうなっちゃうの? 僕がお姉ちゃんの身体をもらったら、お姉ちゃんはどこに行っちゃうの?」

「うーん、多分ずっと、ふわーって浮いてると思うよ。幽霊の人たちみたいに」

「それでもいいの?」

「私は、慣れてるから平気だよ。きっとねえ、生きているうちの十パーセントくらいは、私はふわふわしてるから」

「……ありがとう、お姉ちゃん」

 夏川少年は、汗ばんだ手に力をめる。夏乃佳との繋がりが、より一層いっそう強くなった気がした。この暑さも、この気持ち悪さも、この疲労感も、この温かさも――全てが命による恩恵おんけいだ。肉体があるからこそ受けられる、体験だった。

「ねえ、僕、あのお姉さん、好きだな」

「誰? 緋子ひこ先生?」

「うん。あのお姉さん、優しくて、綺麗なお姉さんだったから、また会いたいな」

「毎日会えるよ! あ、今は夏休みだから毎日じゃないけど、えっとねえ、学校がある日は、学校が終わったら、緋子先生のお店に行くの」

「毎日行くの? 飽きたりしない?」

「ううん。だってねえ、緋子先生はすごいんだよ」夏乃佳はまた、得意げに言った。「なんでも知ってるし、かっこいいし、優しいし。うちはお父さんとお母さんの帰りが遅いし、家に一人でいる間に幽体離脱しちゃうと危ないから、緋子先生に見てもらってるんだ。それでね、毎日緋子先生とお話して、宿題して、美味しいジュースとか、苦い珈琲とか、色々飲ませてもらうの。お夕飯作ってもらって一緒に食べたり、たまに内緒でお外で食べたりもするんだよ」夏乃佳は空を見上げながら、言葉を続ける。「私ね、早く大人になって、緋子先生のお店で働きたいなあって思ってるんだ。蒼太そうたお兄ちゃんみたいな小さくて可愛いエプロン付けて、緋子先生みたいに珈琲作るの。あ、緋子先生みたいに、白衣の方が良いかな? 緋子先生とおそろいの服で一緒に働くの。絶対に可愛いよね。今みたいにね、学校が終わったらお店に行って、アルバイトするんだー……でも、幽体離脱が起こるとお仕事出来ないから、この体質、大きくなるまでに治ると良いなぁ……ってね、最近ずっと考えてるんだけど、全然治らないから困ってるんだ。でも多分、大人になったら治るんじゃないかなって思うから、だから――」

「……お姉ちゃん、泣いてるの?」

 夏川少年はを止めて、夏乃佳を覗き見る。

「ううん。暑いから、汗かいちゃった」

 夏乃佳はいた腕で目元をぬぐうと、満面の笑みを浮かべて、夏川少年に微笑みかける。

「りゅー君、早く行こっ。あとちょっとだから」

 夏乃佳は夏川少年の腕を引いて、速足はやあしで進む。夏川少年は、夏乃佳に引っ張られるようにして、アスファルトを踏みしめる。

「お姉ちゃん、本当にありがとう!」

「いいよっ」

 二人はいつの間にかけ出していた。

 真っ直ぐに伸びるアスファルトの途中で、左に曲がる。遠鳴神社はそこにあった。数日前までは、警察や地元民であふれていたのに、今は閑散かんさんとしている。子どもの姿もない。夏乃佳がそうだったように、危ないから、立ち入らないように言われているのだろう。本物の夏川少年も、もうすでに見つかっている。ならばここにはしばらく、誰も来ないはずだ。

 二人は遠鳴神社の鳥居とりいくぐり、境内けいだいに入った。敷地しきちせまく、目立ったものでは、鳥居を入って正面にある本殿ほんでんの前に賽銭箱さいせんばこがあり、その左奥に粗末そまつ社務所しゃむしょがある程度だ。

「ここだと、私に入れるの?」

「うん。そういう場所なんだ。鎮守ちんじゅもりに、そういう力があるみたい。僕は力が弱いから、あの人みたいに、どこでも力は使えないんだ」

「ふうん。知らなかった」夏乃佳は空を見上げ、夏川少年から手を離すと、くるくると回転し始める。「木がいっぱいだー」

「そこから出ると、元の世界に戻れるから」

 夏川少年は、本殿のすみに空いたを指差した。夏乃佳にも当然、そのが認識出来る。入ったのは初めてだったが、想像していたよりも、怖い場所ではなかった。

「あとは私が幽体離脱したら、りゅー君が入って、私になればいいのかな?」

「うん……でも、お姉ちゃん、いつ幽体離脱するの?」

「うーん……わかんない! でも、いっぱい走ったから、多分しばらくしたらなるかもしれないね」

「じゃあ、それまで休憩?」

「そうだね。りゅー君も疲れたでしょ。あそこに座ろうよ」

 夏乃佳が、腰を下ろすのに丁度良さそうな高さの石段いしだんを指差し、歩み寄ろう――としたところで、

「よう、少年」

 ふいに、誰かの声が聞こえた。

 二人は、音に視線を向ける。

 本殿のかげとは逆方向から、黒く細長い影が現れた。

「――蒼太そうたお兄ちゃん」

 夏乃佳は驚いたように言って、一歩後ずさった。

「よう七佳なのか。元気そうで何よりだ」

 蒼太はやわらかいみを夏乃佳に向けてから、鋭い視線で、夏川少年に向き直る。

「さて少年。悪いけど、その命はあきらめてくれ」

「……どうして、ここに……?」

 夏川少年は、怪訝けげんそうな表情で、蒼太を見つめている。

「どうしてただの人間がここにいるのか、って顔に見えるが、そういう認識で合ってるか? ――つまり少年には、俺が普通の人間に見えている、ってことだよな」

「……うん」

「ま、そうだよな」蒼太は目を細めて笑い、「ところがどっこい、俺たちは同類なんだ」と言った。

 蒼太が手を鳴らすと、本殿の陰から、しげみの中から、鳥居の向こうから――何匹もの猫が、ゆっくりと、二人を取り囲むように、現れる。

「うわっ」夏川少年は声を上げ、夏乃佳の手を握る。

「猫さんがいっぱいです」夏乃佳は目を丸くして言った。「蒼太お兄ちゃんのお友達ですか?」

「はは……七佳にはなんでも分かるんだな」

「緋子先生ほどじゃないですよ」えへへ、と笑いながら、照れたように夏乃佳は言った。まるで、科学喫茶の中で行われている会話のようだ。

 夏川少年は、緋子の背後に隠れるようにして、体をちぢこまらせる。大量の猫は、一定の距離をたもって、二人を囲んだ。襲おうとしているようには見えない。どちらかと言えば、逃げ道をふさいでいるのだろう。

多勢たぜい無勢ぶぜいで悪いけど、七佳だけは明け渡すわけにはいかないんでな。他の誰がどうなろうと知ったこっちゃねーが……七佳に手を出すなら、話は別だ」

 一歩距離を詰めた蒼太に反応するように、二人は一歩後ずさる。けれど、逃げ出せるわけもない。背後をき止める猫のれは、二人を決してのがすまいと、たたずんでいる。

「さて少年――気持ちは分かるが、諦めてくれ」

 蒼太は黄色い瞳を夏川少年に向け、不敵ふてきに微笑んだ。

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