第三章

第一話

 翌日の朝、科学喫茶は平常通り営業していた。

 昨晩は結局バーは開かずに、緋子ひこと小説家は早々にうたげをお開きにしていた。ビール瓶を二本開け、カクテルも一杯ずつたしなんだが、お互いあまり酒に強い体質ではなかったようで、それ以上深入りはしなかった。緋子は普段通り十分な睡眠を取ったため、二日酔ふつかよいにはならず、健康的な朝を迎えていた。

「いらっしゃいませ」

 ドアベルの音に反応して、緋子は視線を向ける。常連客が顔を出したので、少しだけ表情をやわらげた。

「おはようございます。ブレンドとトーストをお願いします」

 店に入るなり、女性客は緋子に軽く挨拶をしながら言って、カウンター席に腰を下ろした。緋子も小さく「おはよう」と返事をした。

 モーニングタイムの常連客である、二階堂にかいどうという名の女性だった。紺色のフレアブラウスに、白いスカートを穿いている。今日も社会人スタイルだった。

 二階堂は肩に掛けたバッグからスマートフォンを取り出して、バッグと並べてカウンターに置く。これは、彼女が毎朝行う一連の動作だった。

 ちらほらと休暇を取る人間が増えているせいか、昨日と比べ、店内に社会人らしき客の姿は少なかった。代わりに、家族連れの来店を多く感じる。六人掛けのソファ席は開店直後から埋まっているし、二人掛けのテーブル席も、二つ利用する形で四人家族がモーニングを食べていた。開店から一時間で、既に三組の新規団体客をことわっている状況である。無理をすればもう少し席数を増やすことは可能だが、緋子は現状の収容数に満足しているため、拡張かくちょうは行われないことだろう。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 カウンターに、珈琲とトーストのセットが並ぶ。提供されるスピードは、約五分だ。二階堂はカウンターの上に置いたスマートフォンを指先で操作しながら、珈琲に口を付ける。新聞を購読こうどくしたり、朝のニュースをテレビで見る習慣がないため、科学喫茶でネットニュースを眺めるのが二階堂の日課にっかだった。

 二階堂の後に入ってきた二人の客にもモーニングセットを出し終えると、緋子の業務は一段落いちだんらくした。とは言え、朝の時間帯は回転が早いので、またすぐに忙しくなることだろう。緋子は朝一で用意しておいた、フラスコに入ったままの自分用の珈琲に口をつける。もうすっかり冷めているが、まだ美味さが残っているように感じられた。

「二階堂さんは、いつから休み?」

 緋子がふいに尋ねると、二階堂はスマートフォンから視線を上げて、「来週一杯は夏休みです。夏休み三日と、有休を一日合わせて、大型連休にする予定ですね」と言った。

「九連休?」

「そうなりますね。大体の社会人は、そこで取るんじゃないですかね」

「そうだろうね。じゃあ、うちは書き入れ時だ」緋子はカウンターに頬杖をついて、ぼんやりと天井てんじょうながめる。「あんまり忙しくないといいんだけどねえ。年末年始とお盆は、いつも忙しいの」

「ですよねえ。頑張ってください。私は多分、実家に帰ってると思いますので、お盆が明けて仕事が始まったらまた来ます。あ、明日はまだ来るつもりですけど」

「ありがとね」

 緋子は店内を一瞥いちべつし、まだ会話をする余裕があることを確認する。状況把握はあくは重要である。家族客が多いせいか普段よりも回転がにぶいようで、談笑している客が多く感じられる。席は埋まっているので、しばらくは休めるだろう。

「ちゃんと実家帰るんだねえ……そう言えば、二階堂さんの実家ってどこなの? 聞いたことなかった気がするけど……聞いても平気?」

「ええ、全然。私は北海道ですね」

「へえ。よくこんな辺鄙へんぴな場所に来たね」

「希望した大学がこっちだったので、そのまま就職したって感じですね。結構、地元企業との繋がりが高いとこだったので、割とすんなりって感じでした」

「あー……あるよねそういうの。私もそうだった」

「緋子さんはなんか、医療系でしたっけ」

「製薬会社だったね」

「へえ……じゃあ、大学も当然、薬学部とかですか?」

「そう。大学に斡旋あっせんしてもらったの」

「あー、どこのご出身か大体見当が付きました」二階堂はそらを見ながら言う。「ここから割と近いですよね」

「そうだね、多分想像してる通りのところ」

「やっぱ、頭良いんですねえ、緋子さんって」

「どうかな。勉強しかしてなかっただけだと思うけど」緋子は謙遜けんそんするでもなく、事実として言った。「でもいいねえ、北海道……避暑ひしょに行くにはもってこいだよね」

「年末年始は地獄ですけどね」二階堂は笑いながら言った。「緋子さんも、確かこちらのご出身じゃないですよね。お盆はお仕事だとして――どこかのタイミングで、帰省きせいはされるんですか?」

「ううん、しないつもり。というか、三年前に一度帰ったきりで、全然帰ってないよ。大学に入る時にこっちに来てからはもう、どうだろう……ああ、うん、そうだね。十年以上離れてるけど、一回しか帰ったことないや」

「えー、そうなんですか? 文化が違い過ぎて信じられませんね」

「やっぱり普通、毎年何回か帰るもの?」

「世間一般は分からないですけど……二階堂家は親戚付き合いが過激なので、毎年お盆は親戚一同で集まって、花火したり、スイカ割りしたり、庭でバーベキューしたりしますね。私は親戚の中で一番年上なので、もういい加減飽き飽きしてますけど、毎年恒例こうれいなのでなんとなく……従兄弟いとこなんか、まだ小学生とかですからね」

「あー、日本の夏って感じだね。猫目家は逆に全然親戚がいないから、ほとんど関わり合いになることないんだよね。もう、なんだろ……三年前っていうのも、父と母の還暦かんれき祝いで帰ったんだけどね……地元の写真屋さんで記念撮影して、老舗しにせのお寿司屋さんで豪勢ごうせいにお祝いして、それだけ。だからほとんど家には寝に帰った感じだね」

「へー……じゃあ、久しぶりに家族四人勢揃いだったってことですね」

「ううん、蒼太そうたは行かなかったかな」

「えーそうなんですか。ご両親可哀想。蒼太さんも普段からずっとこちらにいらっしゃいますよね」

「そうだね。蒼太も五年は帰ってないんじゃないかな……」

 よく考えれば薄情はくじょうな家族だ、と緋子は思う。蒼太が還暦祝いに参加しない、と言った時も、母は「いいのいいの。緋子が戻ってきてくれるだけでもありがたいから」と言うだけだったし、父に関しては何も文句を言わなかった記憶がある。果たしてそれでいいのか、という気もしたが、緋子も蒼太に強くは言わなかった。家族のことは気に掛けてはいるものの、直接顔を合わせるということに対して、意欲的ではないのかもしれない。あるいはそれこそ、現代的な家族のり方なのかもしれないが。

「そう言えば蒼太さん、今日はいないんですね」

 二階堂は昨日もモーニングを食べに来ていたので、蒼太の接客を受けていたはずだ。それに対する、「今日は」なのだろう。

「いるにはいるけど、まだ寝てると思うよ」

 緋子は天井てんじょうに向かって言う。彼らの居住きょじゅうスペースがある場所だ。

「夜遊びでもしてたんでしょうか」

「確かに昨日はちょっと帰りが遅かったかな。どこ行ってんだか知らないけど……ま、蒼太も大人だから別にいいんだけどね。誘拐ゆうかいされる心配もないし」

「でも、蒼太さん格好良いから、お金持ちのおばさんとかには気をつけないといけないかもしれませんね」二階堂はひかえめに笑う。「中年女性が若い男性にみつぎ始める、とかいうのは、結構あるらしいですから。誘拐されちゃうかもしれませんよ? 誘拐って言うか……誘惑ゆうわく? 暇を持て余した人妻が、蒼太さんにこう……お金を払って体を――」

「想像すると気味が悪いね」

「失礼しました」二階堂は小さい声で言う。

「まあ、誘惑して落ちるタイプでもないと思うけどね、蒼太は。なんか飄々ひょうひょうとしてるっていうか、他人に興味がなさそうだから。私に似て。でも小さい頃は……どうかな、子どもの頃は誘拐とかされやすい感じだったかも」

「やんちゃ坊主だったんですか」

「うん。面白いことがあると、ほいほいついていくような、危なっかしい子どもだったよ」

「へえ、蒼太さんにもそんな時期があったんですねえ……あ、そうだ、誘拐と言えばですけど――」と、二階堂はスマートフォンをのぞき込みながら言う。「先日から行方不明になっていた子、今朝けさになって、やっと見つかったみたいですね」

「行方不明?」まだ動きの鈍い脳を働かせ、記憶にアクセスをこころみる。「えっと、男の子だよね」

 緋子はあえて、詳しくないふりをすることにした。二階堂とこの話をするのは初めてだったはずだ。あまり関係者を増やすのも良くない、という意識が働いた。

「そうですね。夏川なつかわ君、だったかな」

「やっと見つかったんだ」

「ええ、誘拐犯が捕まったそうですよ」二階堂はトーストを半分に割って、口にくわえながら、「これれふ」と、スマートフォンの画面を緋子に向けた。

 ニュースサイトには、今週日曜日から行方不明となっていた夏川少年が無事に保護されたと書かれていた。発見時も特に目立った外傷がいしょうはなく、健康状態も極めて良好であったという。

 ニュースは今朝の午前八時に更新されているようだった。冬子とうこ随分ずいぶんと早くに夏川少年を連れて行ったんだな……と、緋子は考えた。だが、ニュースの内容を読み進めるうちに、妙な違和感を覚える。

 いや、そもそも──二階堂の発言からしておかしかったではないか。

 誘拐犯?

 行方不明ではなかったのか?

「これ、誘拐事件?」

「だったんですねえ」トーストを飲み込んで、二階堂はうなずく。「これは保護されたっていう記事ですけど、一個前に……」二階堂はリンクをタップし、別の記事を表示させた。「二十代後半の女性が容疑を認めた、とありますね」

「……どういうこと?」

 報道がじ曲げられた? いや、それにしては誘拐犯の実名まで出ているのがおかしい。緋子は二階堂のスマートフォンをつかみ上げ、食い入るように見つめた。

 志倉しくら綾乃あやの、二十七歳会社員。遠鳴とおなり神社から帰宅途中の夏川少年に声を掛け、自宅に連れ去り、軟禁なんきんした疑い。早朝のコンビニで大量の食料を買い込んでいる志倉に警察が職務質問を行ったところ、志倉はその場で自首し、志倉の自宅から夏川少年が保護された――ということだった。

 話が食い違っている。

 なんだろう、この違和感は。

 軟禁されていたなら――どうして彼は、この店に来ていたのだ。

 昨日、緋子が会話していた少年は、誰なんだ──

「緋子さん? どうかしました?」

「いや──ごめん、何でもない。ありがとう」

 緋子はスマートフォンを返し、珈琲を飲んだ。思考が音を立てるようにして、フル回転しているのが分かる。喧騒けんそうが聞こえなくなっていた。どういうことなんだろう。緋子の脳の中で、様々な仮説が組み立てられては、すぐに消えていく。ふいに、夏乃佳かのかの言葉を思い出す。「でも……本物のりゅー君は、ちゃんといますよ?」と、夏乃佳はそう言っていた。そういうことなのか? いや、そんなことがあり得るはずがない。現実的に考えて、あり得ない。しかし──あり得ないことが起こり得ることを、緋子はここ数年で、嫌というほど思い知っていた。夏川少年と同じ生物が、別にいた? つまり、二人の夏川少年が、同時に別の場所に存在していた……いや、そんなことは認めてはならないような気がする。幽霊どころの話ではない。緋子も確実に、彼を肉眼にくがんで確認している。しかし、ネットニュースに嘘が書かれるとも思えない。インターネット上の全てを信頼しているわけではないが、それにしたって、無関係であるはずの二階堂が目にするようなニュースに、嘘が書かれるはずもない。ならば報道規制か? しかし、志倉とやらの顔写真も載っていた。そこまでするのか? どちらが正しいのだろう。緋子は確かに夏川少年を見た。それを、夏川少年だと断じることが出来る、その根拠こんきょは? ――ネット上で顔写真を見ただけだ。じゃあ、双子ふたご? いや、双子でも名前まで同じなわけがない。じゃああれは一体、何だったんだ……やっぱり幽霊? いや――物理的な生命体だった。ベーコンエッグを食べ、ジュースを飲み、声を発していた。他の人間にも見えていたはずだ。小説家も、蒼太も、それに気付いた。なら――

「まあ、確かに綺麗な子ですもんね。誘拐は絶対に良くないですけど、可愛い男の子とお近付きになりたい気持ちは、分からないでもないかなあ」二階堂はネットニュースサイトで、夏川少年の顔写真を眺めていた。「私もこうならないように気をつけないと……誘拐犯、同い年ですし……」

「そうだねえ」

 緋子は相槌あいづちを打ちながら、依然いぜん、脳をフル稼働させている。認めてみよう。仮説なのだから。緋子は一度、前提として、冬子が保護した生命体を、誘拐された小学生とは別の生き物だと認識することにした。つまり――化生けしょう。そうか、だから夏乃佳は拒んでいたのか。夏川少年──りゅー君を御祓おはらいするということはつまり、彼を処分するということになる。処分? 肉体が消滅するのか? 物理法則はどうなる。いな、そもそも――ああ、違う。事実は認めなければならない。事実とは一体何だ? 緋子が見た少年の姿だけだ。全ての情報はうたがわなければならない。あとは、何が信じられる? ネットニュース――誘拐事件。夏川柳一りゅういちという少年が、二人存在する? 片方は、別の生き物……人間じゃない生き物。存在した。確かに。じゃあ――夏乃佳の言っていたのは、そういうことか。誰も気付かない。入れ替わったとしても、誰も気付かない。

 オリジナルがいなくなっても、分からない。

 そういうことなのか。

 そのまま夏川少年が保護されなかったら――どうなったんだ。

 あるいは軟禁で済まず、殺されていたとしたら。

 化生が、夏川少年の席を、奪おうとした?

「お、二階堂さんだ」

 いつの間にか、蒼太が起き出してきて、店に入ってきていた。二階堂は口元を紙ナプキンで押さえてから、「蒼太さん、おはようございます」と、さっきまでより高い声で応じた。

「おはよう蒼太」緋子はほとんど蒼太を見ずに、視線を宙に浮かべながら言う。

「おはよう姉ちゃん。いやー悪いね、寝坊しちゃった」蒼太はミドルエプロンを手に持っている。「もうこんな時間だけど、手伝おうか?」

「なんか、誘拐されてた子、見つかったって」緋子は焦点しょうてんの合わない目を蒼太に向けて言った。

「誘拐? 何それ?」

 蒼太が言うと、二階堂は甲斐甲斐かいがいしく、スマートフォンにさっきと同じニュース記事を表示させて、「これですね」と蒼太に見せた。

 五秒ほどで記事の内容を把握してから、蒼太はけわしい表情になり、

「──そりゃ、見つからねえわけだ」

 と、苦々にがにがしく、小声で呟いた。

 その発言も、緋子の思考のうずに巻き込まれる。見つからない。見つからないっていうのは、どういう意味で? 軟禁されていたから、見つからない? じゃあ、探していた? そんな話は聞いていない。いや、違う――そもそも蒼太は昨日の段階で知っていた。夏川少年を見ている。なのに、見つからない? それは、言葉がおかしい。言葉だけじゃない。反応もおかしい。それじゃあまるで、最初から夏川少年を探していたわけではないように思える。だって、夏川少年のことは、昨日の時点で、視認しているはずなのだから。

 じゃあ、蒼太は、誰を探していたんだ。

 ――――何を、探していたんだ。

「ねえ蒼太……この件、なんか関わってる?」

 不安げに緋子が尋ねると、蒼太は笑いながら「俺が? まさか」と言った。しかしその表情が無理をしていることに、緋子はすぐに気付いた。同じだ。過去について尋ねた時に、蒼太がはぐらかすために浮かべる表情と同じもの。何かを隠している。何のために?

 ふいに、き混ぜられた思考の中に、ひとつの言葉が浮かんでくる。誰の言葉だろう。「息をするように嘘をつくの」確かにそういう言葉があった。誰が言った? 確か――冬子の言った台詞せりふだ。じゃあ、蒼太が? ――いや、違う。それは、動物霊に対して語られた言葉だったはずだ。つまり嘘をついているのは、夏川少年ということになる。結びつかない。蒼太は一体、何をしていたんだ。何を探していたんだ。

「蒼太さんも誘拐されないように気を付けてくださいね」二階堂が冗談めかして言う。「イケメンなんですから」

「そう見える? 嬉しいなあ。なんかサービスしてあげたいとこだけど、二階堂さん、これから仕事だよね」

「あと二日で夏休みです」

「そっかあ、大変だね。じゃあ、今度バーで会ったら、サービスするね」

「本当ですか? 嬉しい」二階堂はさらに高い声を上げて、うっとりした表情で蒼太を見つめる。

 弟が客を口説くどいてるのはどうでも良かった。緋子の思考は未だに稼働を続けている。何か、分かりそうな予感があった。ひらめきのようなものが発生しそうだ──様々なことが、関連づけられていく。違和感の正体が、すぐそこまで来ている。科学的根拠のあるような話ではない。ただ、こと道理どうりとして納得が出来る説明が付きそうな──そんな予感。だが、あと一歩情報が足りない。分かりそうなのに、分からない。

「緋子さん、ご馳走ちそう様でした」二階堂は五百円玉を置いて、立ち上がる。「蒼太さん、サービス楽しみにしてますね」

「期待しててー」

「ああ……ありがとうございました」

 蒼太が軽薄けいはくな表情で手を振っている間、緋子はうわそら挨拶あいさつをしていた。視線を合わせないまま、五百円玉を手に取り、無意識に白衣のポケットにすべり込ませる。と、かさりと音がした。何だろう。ああ、茶封筒ちゃぶうとうだ。二万円が入っている、冬子から渡された茶封筒。昨日と同じ白衣を着ていたことに、今さら気付く。金庫に入れ忘れていたのか――その存在を切っ掛けに、再び思考が昨日の日中へと戻っていく。どうして夏川少年はうちに来たんだ? 分からない。冬子も夏乃佳も、騙されているのか? 夏川少年が、二人をあやつっている? いや……飛躍ひやくしすぎている。今頃、どうなっているのだろう。今最初にすべきことは何だ? 夏乃佳が言う通り、昨日見た夏川少年を人外と仮定して、冬子が言っていた、動物霊は危険であるという可能性を考慮すると――

「蒼太、ちょっとお店お願い」

「え?」

 緋子は白衣の反対側のポケットからスマートフォンを取り出して、店の裏口から外に出た。連絡先から、七ツ森ななつもり冬子を呼び出す。すぐに端末たんまつを耳に当てた。コール音が五回流れた後、つながる。

「冬子さん、昨日の――」

『緋子! 夏乃佳見た!?』

 荒い呼吸音と、何かの駆動くどう音が聞こえる。

「いえ、見てませんけど……」

『いなくなったの!』

「え?」

 疑問の言葉が口をついたが、しかし、予想していた結果に近い状態らしい。

 緋子は一瞬、端末の画面を見る。午前九時になろうとしている時間帯だった。

『朝ご飯食べて、真咲まさきさん見送って、洗濯してたら家のどこにもいなくなってたの!』

「落ち着いてください。夏川君は?」

『あの子もいないの』

 ああ、最悪な状況だ――緋子は端末をにぎりしめながら、様々な可能性について考える。最悪な状況の中で、さらに最悪な結末を想像してみる。

「冬子さんは今どこに?」

『車で回ってる。どうしよう』

「分かりました。今は運転中なんですね? なら、電話は一旦切りましょうか」

『ちょっと待って、すぐどっかにめる』

 電話の向こうで、ウインカーかハザードの音が聞こえる。十秒ほどしてから、『今停めた』という声が聞こえた。

「私も探します。冬子さん、警察には連絡しましたか?」

『ああそうだ、連絡しなきゃ……ううん、でも、すごくデリケートな問題だから、どうしよう……あんまり連絡したくないな……でもしないわけにも行かないよね。ああ、どうしよう……』

「誘拐されていた夏川少年が見つかった、というニュースは見ましたか?」

『――え? 何それ?』

 緋子は記憶を頼りに、夏川少年が保護されたニュースの概要がいようを伝える。説明の途中で、『嘘』とか『本当に?』という冬子の素直な反応が聞こえた。本当に知らないのだろう、と緋子は判断する。少なくとも冬子は、あの夏川少年を、本物だと――本物の定義も今は曖昧あいまいだが、本物の肉体だと認識していたのだろう。

「つまり、今も二人が一緒にいるとしたら、同じ人間が二人存在しているということになります」

『信じられない……』冬子が言葉を発したあと、鈍い音がした。シートにもたれかかったか、ハンドルに額をぶつけたか、どちらかだろう。『夏乃佳が落ちたら本当にまずい』

「落ちる? 幽体離脱のことですか?」

『どういう意図があるのか分からないけど、もし夏川君――今朝までうちにいた彼――が本物が見つかったことをニュースで知って、新しい憑代よりしろを探しているのだとしたら、夏乃佳は簡単に乗っ取られると思う』

「憑代? でもそもそも、本物の夏川少年は実在していますよね」

『ああ、うん……えっと、なんて言えばいいのかしら。動物霊には、変化へんげ憑依ひょういっていうパターンがあって……ああもう、上手く説明出来ない」

「そこはひとまず置いておきましょう。とにかく、夏乃佳が危ないというのは、どうしてですか?」

『緋子には信じられない話だと思うけど、聞いてね』冬子は前置きをして、二秒間のを開けた。『人間には、物理的な体の他に、精神とか、意識とか、魂みたいなものがあるの。脳の電気信号で起こる、思考や反応とは別の、もっとこう……非科学的なものね』

「まあ、そのくらいは理解出来ます」

『それを仮に魂と呼ぶけど――夏乃佳の幽体離脱っていうのは、魂が抜け出ている状態のことを言うのね。で、夏川君が本物の化生だとしたら、人間の体を欲するはずなの』

「だったら、最初から人間の体を乗っ取るはずじゃないんですか?」

『その通りだと思う。でも、普通の人間って、そう簡単には魂と肉体が分離ぶんりしたりしないのよ。当たり前だけど、普通はもうガッチリくっついているわけ。例えば交通事故にって意識不明の重体じゅうたいになるとか、びっくりして気絶きぜつするとか? そういうことでもない限り、肉体と魂は濃密のうみつに結び合っているわけ』

「つまり、普通は他人を乗っ取ることなど出来ないと」

『うん。そうなると化生になるしかないわけなんだけど、だからと言って、この世に存在しない人間にけたところで、普通の生活なんて送れないのは、わかるよね』

戸籍こせきのない人間になるってことですね」

『そう。それで、彼は偶然、夏川少年が行方不明になったことを知ったのかもしれないし、もともと狙っていたのかもしれない。でもまあ、多分、夏川少年になりたかったんでしょうね。どんな人間にでもなれるなら、外見が綺麗な方が良いでしょう?』冬子が言うと嫌味にも聞こえるな、と、緋子は漫然まんぜんと考える。『だけど、その本人が見つかってしまったなら、ただの動物霊に戻るしかないわけなんだけど……身近みぢかに乗っ取れそうな人間がいたら、まあ、狙うよね……普通は』

「でも、主導権? というのかは分かりませんが、七佳なのかの体は、七佳に紐付ひもづいているわけですよね」

『問題はそこ。単純に、夏乃佳が落ちたタイミングを狙って体を奪おうとするかもしれないし……夏乃佳が変な気を起こしたら、簡単に彼を助けられるのよ。たった二日だったけど、可愛がっていたし――夏乃佳が自ら身体を差し出すかもしれない』

 簡単に助けられる――その言葉が、妙に引っかかった。

 どうして引っかかったのだろう?

 ――ああ、似たようなことを、自分が夏乃佳に口走ったからだ。

 緋子はぼんやりと、過去の会話を思い出す。

 出来る人がやらなきゃいけない。

 夏川少年を、助けてあげなきゃいけない。

 そんなことを――言ったような気がする。

「それ、まずいですよね?」

『状況はかなりまずい』

「分かりました。こちらでも探します。警察には連絡しましょう。それと、冬子さんの会社にも協力してもらった方が良いと思いますが」

『そうしてみる』

「見つけたら、また連絡します」

 緋子は通話を終わらせ、外を経由けいゆして正面玄関に向かうと、すぐに掛札かけふだをクローズにした。今日は臨時りんじ休業だ。だが、残っている客を追い出すわけにもいかない。さてどうしよう――考えながら、ドアを開ける。

「いらっしゃい――あれ?」

 正面玄関から入ってきた緋子に、蒼太は不思議そうな視線を向けた。裏口とドアを交互に見て、顔をしかめる。

 緋子は応えず、店内を見渡す。

 電話中に、数名が会計を済ませて行ったようだ。だがまだ、客は六組。頭数は十一人残っている。

 ――ダメだ、すぐには動けそうにない。

「蒼太、店任せられない? 休業にしたから」

「え、なんで? なんかあった?」

「七佳がいなくなった」

 緋子が言うと、蒼太は険しい表情を見せ、「なんで」と、低い声で尋ねた。鬼気ききせまるものがあり、緋子は思わず視線をらす。

「分からない。夏川君もいなくなってるみたい」

「――あいつか」蒼太は口元をゆがませ、うなり声を上げる。「やりやがったな……」

「ねえ、蒼太、何か関係してるんでしょ?」

「……いや」

「お願いだからちゃんと答えて。何か知ってるなら、教えて。七佳が危ないんだから」

 緋子は蒼太の両腕を掴み、揺さぶった。だが、蒼太は無言で首を振る。

「ねえ、お願い」

「いいよ、俺が探してくる」

 蒼太は緋子の腕を振り払い、エプロンを外して、裏口へ向かう。途中で、階段に叩きつけるように、エプロンを振り下ろした。

「待って! 蒼太、ねえ……なんで何も教えてくれないの。蒼太は何を知ってるの? 何を探してたの?」

「まずは七佳だろ。俺の話は、その後」

「そうだけど! いい加減、教えてくれたっていいでしょ!」

 緋子が叫ぶと、蒼太は一瞬動きを止めて、振り返り、緋子の視線を真っ直ぐに受け止めた。

「……分かった、話すよ。だけどそれは、七佳を見つけてからだ」

 蒼太は緋子のほおれ、優しく微笑ほほえむ。その行為に、どういう意図いとがあったのかは分からない。「大丈夫だよ、七佳は絶対見つける」

 蒼太はそう言うと、緋子から手を離し、裏口から出て行った。

 ――何が起こっているんだ。

 茫然ぼうぜんとしたまま、緋子はドアを見つめる。数秒間、放心ほうしんした。何が起ころうとしているのだ。今すぐに動き出して、確認したかった。だが、ここからは離れられない。ああ、やっぱり蒼太の言う通り、アルバイトをやとっておくべきだった、と、緋子はくだらないことを考えた。店内に目を向ける。幸い、全員がモーニングメニューを注文していた。客に長居しそうな雰囲気はない。もう少し経ったら、夏乃佳を探しに行こう、と考える。それまでは、考えることしか出来ない。何があったのか、何が起きているのか、これから先、どんなことが想定されるのか――今の緋子には、それしか出来ない。

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