第三章
第一話
翌日の朝、科学喫茶は平常通り営業していた。
昨晩は結局バーは開かずに、
「いらっしゃいませ」
ドアベルの音に反応して、緋子は視線を向ける。常連客が顔を出したので、少しだけ表情を
「おはようございます。ブレンドとトーストをお願いします」
店に入るなり、女性客は緋子に軽く挨拶をしながら言って、カウンター席に腰を下ろした。緋子も小さく「おはよう」と返事をした。
モーニングタイムの常連客である、
二階堂は肩に掛けたバッグからスマートフォンを取り出して、バッグと並べてカウンターに置く。これは、彼女が毎朝行う一連の動作だった。
ちらほらと休暇を取る人間が増えているせいか、昨日と比べ、店内に社会人らしき客の姿は少なかった。代わりに、家族連れの来店を多く感じる。六人掛けのソファ席は開店直後から埋まっているし、二人掛けのテーブル席も、二つ利用する形で四人家族がモーニングを食べていた。開店から一時間で、既に三組の新規団体客を
「どうぞ」
「ありがとうございます」
カウンターに、珈琲とトーストのセットが並ぶ。提供されるスピードは、約五分だ。二階堂はカウンターの上に置いたスマートフォンを指先で操作しながら、珈琲に口を付ける。新聞を
二階堂の後に入ってきた二人の客にもモーニングセットを出し終えると、緋子の業務は
「二階堂さんは、いつから休み?」
緋子がふいに尋ねると、二階堂はスマートフォンから視線を上げて、「来週一杯は夏休みです。夏休み三日と、有休を一日合わせて、大型連休にする予定ですね」と言った。
「九連休?」
「そうなりますね。大体の社会人は、そこで取るんじゃないですかね」
「そうだろうね。じゃあ、うちは書き入れ時だ」緋子はカウンターに頬杖をついて、ぼんやりと
「ですよねえ。頑張ってください。私は多分、実家に帰ってると思いますので、お盆が明けて仕事が始まったらまた来ます。あ、明日はまだ来るつもりですけど」
「ありがとね」
緋子は店内を
「ちゃんと実家帰るんだねえ……そう言えば、二階堂さんの実家ってどこなの? 聞いたことなかった気がするけど……聞いても平気?」
「ええ、全然。私は北海道ですね」
「へえ。よくこんな
「希望した大学がこっちだったので、そのまま就職したって感じですね。結構、地元企業との繋がりが高いとこだったので、割とすんなりって感じでした」
「あー……あるよねそういうの。私もそうだった」
「緋子さんはなんか、医療系でしたっけ」
「製薬会社だったね」
「へえ……じゃあ、大学も当然、薬学部とかですか?」
「そう。大学に
「あー、どこのご出身か大体見当が付きました」二階堂は
「そうだね、多分想像してる通りのところ」
「やっぱ、頭良いんですねえ、緋子さんって」
「どうかな。勉強しかしてなかっただけだと思うけど」緋子は
「年末年始は地獄ですけどね」二階堂は笑いながら言った。「緋子さんも、確かこちらのご出身じゃないですよね。お盆はお仕事だとして――どこかのタイミングで、
「ううん、しないつもり。というか、三年前に一度帰ったきりで、全然帰ってないよ。大学に入る時にこっちに来てからはもう、どうだろう……ああ、うん、そうだね。十年以上離れてるけど、一回しか帰ったことないや」
「えー、そうなんですか? 文化が違い過ぎて信じられませんね」
「やっぱり普通、毎年何回か帰るもの?」
「世間一般は分からないですけど……二階堂家は親戚付き合いが過激なので、毎年お盆は親戚一同で集まって、花火したり、スイカ割りしたり、庭でバーベキューしたりしますね。私は親戚の中で一番年上なので、もういい加減飽き飽きしてますけど、毎年
「あー、日本の夏って感じだね。猫目家は逆に全然親戚がいないから、ほとんど関わり合いになることないんだよね。もう、なんだろ……三年前っていうのも、父と母の
「へー……じゃあ、久しぶりに家族四人勢揃いだったってことですね」
「ううん、
「えーそうなんですか。ご両親可哀想。蒼太さんも普段からずっとこちらにいらっしゃいますよね」
「そうだね。蒼太も五年は帰ってないんじゃないかな……」
よく考えれば
「そう言えば蒼太さん、今日はいないんですね」
二階堂は昨日もモーニングを食べに来ていたので、蒼太の接客を受けていたはずだ。それに対する、「今日は」なのだろう。
「いるにはいるけど、まだ寝てると思うよ」
緋子は
「夜遊びでもしてたんでしょうか」
「確かに昨日はちょっと帰りが遅かったかな。どこ行ってんだか知らないけど……ま、蒼太も大人だから別にいいんだけどね。
「でも、蒼太さん格好良いから、お金持ちのおばさんとかには気をつけないといけないかもしれませんね」二階堂は
「想像すると気味が悪いね」
「失礼しました」二階堂は小さい声で言う。
「まあ、誘惑して落ちるタイプでもないと思うけどね、蒼太は。なんか
「やんちゃ坊主だったんですか」
「うん。面白いことがあると、ほいほいついていくような、危なっかしい子どもだったよ」
「へえ、蒼太さんにもそんな時期があったんですねえ……あ、そうだ、誘拐と言えばですけど――」と、二階堂はスマートフォンを
「行方不明?」まだ動きの鈍い脳を働かせ、記憶にアクセスを
緋子はあえて、詳しくないふりをすることにした。二階堂とこの話をするのは初めてだったはずだ。あまり関係者を増やすのも良くない、という意識が働いた。
「そうですね。
「やっと見つかったんだ」
「ええ、誘拐犯が捕まったそうですよ」二階堂はトーストを半分に割って、口にくわえながら、「これれふ」と、スマートフォンの画面を緋子に向けた。
ニュースサイトには、今週日曜日から行方不明となっていた夏川少年が無事に保護されたと書かれていた。発見時も特に目立った
ニュースは今朝の午前八時に更新されているようだった。
いや、そもそも──二階堂の発言からしておかしかったではないか。
誘拐犯?
行方不明ではなかったのか?
「これ、誘拐事件?」
「だったんですねえ」トーストを飲み込んで、二階堂は
「……どういうこと?」
報道が
話が食い違っている。
なんだろう、この違和感は。
軟禁されていたなら――どうして彼は、この店に来ていたのだ。
昨日、緋子が会話していた少年は、誰なんだ──
「緋子さん? どうかしました?」
「いや──ごめん、何でもない。ありがとう」
緋子はスマートフォンを返し、珈琲を飲んだ。思考が音を立てるようにして、フル回転しているのが分かる。
「まあ、確かに綺麗な子ですもんね。誘拐は絶対に良くないですけど、可愛い男の子とお近付きになりたい気持ちは、分からないでもないかなあ」二階堂はネットニュースサイトで、夏川少年の顔写真を眺めていた。「私もこうならないように気をつけないと……誘拐犯、同い年ですし……」
「そうだねえ」
緋子は
オリジナルがいなくなっても、分からない。
そういうことなのか。
そのまま夏川少年が保護されなかったら――どうなったんだ。
あるいは軟禁で済まず、殺されていたとしたら。
化生が、夏川少年の席を、奪おうとした?
「お、二階堂さんだ」
いつの間にか、蒼太が起き出してきて、店に入ってきていた。二階堂は口元を紙ナプキンで押さえてから、「蒼太さん、おはようございます」と、さっきまでより高い声で応じた。
「おはよう蒼太」緋子はほとんど蒼太を見ずに、視線を宙に浮かべながら言う。
「おはよう姉ちゃん。いやー悪いね、寝坊しちゃった」蒼太はミドルエプロンを手に持っている。「もうこんな時間だけど、手伝おうか?」
「なんか、誘拐されてた子、見つかったって」緋子は
「誘拐? 何それ?」
蒼太が言うと、二階堂は
五秒ほどで記事の内容を把握してから、蒼太は
「──そりゃ、見つからねえわけだ」
と、
その発言も、緋子の思考の
じゃあ、蒼太は、誰を探していたんだ。
――――何を、探していたんだ。
「ねえ蒼太……この件、なんか関わってる?」
不安げに緋子が尋ねると、蒼太は笑いながら「俺が? まさか」と言った。しかしその表情が無理をしていることに、緋子はすぐに気付いた。同じだ。過去について尋ねた時に、蒼太がはぐらかすために浮かべる表情と同じもの。何かを隠している。何のために?
ふいに、
「蒼太さんも誘拐されないように気を付けてくださいね」二階堂が冗談めかして言う。「イケメンなんですから」
「そう見える? 嬉しいなあ。なんかサービスしてあげたいとこだけど、二階堂さん、これから仕事だよね」
「あと二日で夏休みです」
「そっかあ、大変だね。じゃあ、今度バーで会ったら、サービスするね」
「本当ですか? 嬉しい」二階堂はさらに高い声を上げて、うっとりした表情で蒼太を見つめる。
弟が客を
「緋子さん、ご
「期待しててー」
「ああ……ありがとうございました」
蒼太が
「蒼太、ちょっとお店お願い」
「え?」
緋子は白衣の反対側のポケットからスマートフォンを取り出して、店の裏口から外に出た。連絡先から、
「冬子さん、昨日の――」
『緋子! 夏乃佳見た!?』
荒い呼吸音と、何かの
「いえ、見てませんけど……」
『いなくなったの!』
「え?」
疑問の言葉が口をついたが、しかし、予想していた結果に近い状態らしい。
緋子は一瞬、端末の画面を見る。午前九時になろうとしている時間帯だった。
『朝ご飯食べて、
「落ち着いてください。夏川君は?」
『あの子もいないの』
ああ、最悪な状況だ――緋子は端末を
「冬子さんは今どこに?」
『車で回ってる。どうしよう』
「分かりました。今は運転中なんですね? なら、電話は一旦切りましょうか」
『ちょっと待って、すぐどっかに
電話の向こうで、ウインカーかハザードの音が聞こえる。十秒ほどしてから、『今停めた』という声が聞こえた。
「私も探します。冬子さん、警察には連絡しましたか?」
『ああそうだ、連絡しなきゃ……ううん、でも、すごくデリケートな問題だから、どうしよう……あんまり連絡したくないな……でもしないわけにも行かないよね。ああ、どうしよう……』
「誘拐されていた夏川少年が見つかった、というニュースは見ましたか?」
『――え? 何それ?』
緋子は記憶を頼りに、夏川少年が保護されたニュースの
「つまり、今も二人が一緒にいるとしたら、同じ人間が二人存在しているということになります」
『信じられない……』冬子が言葉を発したあと、鈍い音がした。シートにもたれかかったか、ハンドルに額をぶつけたか、どちらかだろう。『夏乃佳が落ちたら本当にまずい』
「落ちる? 幽体離脱のことですか?」
『どういう意図があるのか分からないけど、もし夏川君――今朝までうちにいた彼――が本物が見つかったことをニュースで知って、新しい
「憑代? でもそもそも、本物の夏川少年は実在していますよね」
『ああ、うん……えっと、なんて言えばいいのかしら。動物霊には、
「そこはひとまず置いておきましょう。とにかく、夏乃佳が危ないというのは、どうしてですか?」
『緋子には信じられない話だと思うけど、聞いてね』冬子は前置きをして、二秒間の
「まあ、そのくらいは理解出来ます」
『それを仮に魂と呼ぶけど――夏乃佳の幽体離脱っていうのは、魂が抜け出ている状態のことを言うのね。で、夏川君が本物の化生だとしたら、人間の体を欲するはずなの』
「だったら、最初から人間の体を乗っ取るはずじゃないんですか?」
『その通りだと思う。でも、普通の人間って、そう簡単には魂と肉体が
「つまり、普通は他人を乗っ取ることなど出来ないと」
『うん。そうなると化生になるしかないわけなんだけど、だからと言って、この世に存在しない人間に
「
『そう。それで、彼は偶然、夏川少年が行方不明になったことを知ったのかもしれないし、もともと狙っていたのかもしれない。でもまあ、多分、夏川少年になりたかったんでしょうね。どんな人間にでもなれるなら、外見が綺麗な方が良いでしょう?』冬子が言うと嫌味にも聞こえるな、と、緋子は
「でも、主導権? というのかは分かりませんが、
『問題はそこ。単純に、夏乃佳が落ちたタイミングを狙って体を奪おうとするかもしれないし……夏乃佳が変な気を起こしたら、簡単に彼を助けられるのよ。たった二日だったけど、可愛がっていたし――夏乃佳が自ら身体を差し出すかもしれない』
簡単に助けられる――その言葉が、妙に引っかかった。
どうして引っかかったのだろう?
――ああ、似たようなことを、自分が夏乃佳に口走ったからだ。
緋子はぼんやりと、過去の会話を思い出す。
出来る人がやらなきゃいけない。
夏川少年を、助けてあげなきゃいけない。
そんなことを――言ったような気がする。
「それ、まずいですよね?」
『状況はかなりまずい』
「分かりました。こちらでも探します。警察には連絡しましょう。それと、冬子さんの会社にも協力してもらった方が良いと思いますが」
『そうしてみる』
「見つけたら、また連絡します」
緋子は通話を終わらせ、外を
「いらっしゃい――あれ?」
正面玄関から入ってきた緋子に、蒼太は不思議そうな視線を向けた。裏口とドアを交互に見て、顔を
緋子は応えず、店内を見渡す。
電話中に、数名が会計を済ませて行ったようだ。だがまだ、客は六組。頭数は十一人残っている。
――ダメだ、すぐには動けそうにない。
「蒼太、店任せられない? 休業にしたから」
「え、なんで? なんかあった?」
「七佳がいなくなった」
緋子が言うと、蒼太は険しい表情を見せ、「なんで」と、低い声で尋ねた。
「分からない。夏川君もいなくなってるみたい」
「――あいつか」蒼太は口元を
「ねえ、蒼太、何か関係してるんでしょ?」
「……いや」
「お願いだからちゃんと答えて。何か知ってるなら、教えて。七佳が危ないんだから」
緋子は蒼太の両腕を掴み、揺さぶった。だが、蒼太は無言で首を振る。
「ねえ、お願い」
「いいよ、俺が探してくる」
蒼太は緋子の腕を振り払い、エプロンを外して、裏口へ向かう。途中で、階段に叩きつけるように、エプロンを振り下ろした。
「待って! 蒼太、ねえ……なんで何も教えてくれないの。蒼太は何を知ってるの? 何を探してたの?」
「まずは七佳だろ。俺の話は、その後」
「そうだけど! いい加減、教えてくれたっていいでしょ!」
緋子が叫ぶと、蒼太は一瞬動きを止めて、振り返り、緋子の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「……分かった、話すよ。だけどそれは、七佳を見つけてからだ」
蒼太は緋子の
蒼太はそう言うと、緋子から手を離し、裏口から出て行った。
――何が起こっているんだ。
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