第四話

 冬子とうこ夏乃佳かのか夏川なつかわ少年の三人は、宣言通りに午後三時には店をあとにしていた。夏川少年の真偽しんぎについては結局のところほとんど分からなかったが、冬子と夏乃佳の判断を信じれば大丈夫だろう、と、緋子ひこは思うことにした。

「多分、様子を見るとしても今夜いっぱいまでだと思う」

 帰りぎわ、緋子に耳打ちするような形で、冬子が言った。

「じゃあ、明日の昼頃にはもう、事件は解決してるってことですか?」

「うん。夏乃佳に聞いた感じ、ほとんど確定っぽいしね。明日、会社に連れて行って、段取だんどりするつもり」

「それが終わると、少年は元通りに?」

「うん、そうなると思う」

 やっぱり夏乃佳はすごいよ――と、冬子は独り言のように言った。

「何がですか?」

「普通は見分けられないものなんだよ、動物霊どうぶつれいって。息をするように嘘をつくやつらなの。や、嘘っていう自覚もないのかな――完全に、その人間にわろうとする。だから、普通じゃ絶対に見抜けない。それが分かるんだから、我が娘ながら、大したものだわ」

「でも、冬子さんもある程度分かってたんですよね?」

「私の場合は、状況とかから見て何となく……って感じだからね。何も知らない状態で、一発で見抜けちゃうのは、やっぱり特殊だよ」

「お母さーん」

 夏乃佳に呼ばれ、「じゃ、また来るね」と言い残し、冬子は去っていく。ドアが閉まると、科学喫茶には静寂せいじゃくおとずれた。

 それから、約二時間、大した問題も発生しないまま、科学喫茶は平常通りの時を過ごした。平日のこの時間帯は、客がいなくなることも少なくない。夏季休暇とは言え、まだ本格的なお盆休暇ではないからか、今日は客の入りがあまりよろしくないようだ。

 残っている客と言えば、小説家がひとりいるだけだった。彼はイヤホンを付けたまま、テーブル席に座り、ずっとモニタを注視している。珍しく、最初に一杯注文してからは、追加の注文もなかった。多発していたくしゃみも、今は止まっているようだ。

 緋子は退屈しのぎに、小説家にちょっかいを出すことにした。くしゃみをしていたことだし、夕方になって、多少は気温も落ちてきた。そろそろ温かい飲み物が恋しくなるのではないか――と考えて、珈琲を作り始める。電気ケトルで湯をかし、珈琲豆を計量する。二人分作る予定だった。サイフォンをセットアップして、アルコールランプの燃料を確認する。キッチンには専用のガスバーナーも設置されていたのだが、緋子はわざわざアルコールランプを利用するのが好きだった。化学実験をしている気分になれるからだろう。

 フラスコに湯を入れて、漏斗ろうとを差し、珈琲豆をいた。アルコールランプに火をつけて湯を再沸騰ふっとうさせると、湯が逆流して珈琲と絡み合う。この瞬間に、珈琲の味わいはほとんど決まると言っていい。

 深い琥珀こはく色の液体を眺めながら、緋子はぼんやりと考える。冬子たちが去ったあとも、断続的だんぞくてきに考え続けていたことを。

 夏乃佳に妙なことを吹き込んだせいか、緋子はあれからずっと、妙にアンニュイな気持ちになっていた。偉そうなことを口にしてしまったな、という後悔があった。いくら夏乃佳が特別な子どもであれ、まだ責任という言葉とは無縁であるべきだ。ただでさえ、夏乃佳は過酷な幼少期を、現在進行形で過ごしている。そんな子どもに責務を負わせるなんて、本来であれば馬鹿げている。

 攪拌かくはんをしながら、緋子は口に広がる美味しい珈琲の風味を想像した。毎日飲んでいても、毎日作っていても、珈琲に飽きることはない。緋子は今の仕事を、自分で望むままに続けている。研究者で居続けることを諦めて――あるいは逃げ出して、生きる道を変えた。もし緋子が、例えば教授に「出来るんだから研究者を続けろ」と言われても、きっと反発しただろう。

 冷静になれば、すぐにわかることだ。

 緋子は、自分がやられて嫌なことを、夏乃佳にしている。

 矛盾むじゅんした行動だ。

 出来る人がやらなきゃいけない。

 そんなのは綺麗事だ――と、緋子は自嘲じちょうした。

 あるいはそれこそ、緋子のトラウマなのだろうか。

 自分が逃げ出したから、逃げ出す他人を許せない。

 でも、だからと言って、夏乃佳に対してあんなに強い言葉を放った自分が信じられなかった。

 きっと、頭に血が上っていたのだろう。どうして頭に血が上ったのだろう? 聞き分けのない夏乃佳の態度に苛立いらだったのだろうか。それとも、自分と夏乃佳を比べたのだろうか。恵まれた才能に? いや、そうじゃない──緋子は自分に言い聞かせる。夏乃佳に正しくあって欲しいのだ。では、正しさとは一体、何なのか? 自分は人に正しさをけるほど、正しい人生を歩んでいるだろうか? 考え事をしながらも、緋子は正確な手順を踏んで、珈琲を作り終えた。漏斗を外し、豆を廃棄はいきして、一度シンクにけた。

「緋子さん」

 声を掛けられて、はっとする。顔を上げると、カウンターの前に小説家が立っていた。

「ああ、ごめん、呼んでた? 集中しちゃってた」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ。うっとりしながら緋子さんの作業を眺めてましたから」小説家は笑いながら言って、伝票と小銭をカウンターに置いた。「すみません、すぐに退散する予定だったんですけど、ついつい他の作業に熱中してしまって。気付いたら誰もいなくなってたんで、そろそろ退散しようかと」

「あ……そう」

 もう帰ってしまうのか、という気持ちが、一番最初に現れた。

 緋子は手に持った出来立ての珈琲を見てから、再び小説家を見る。

 もし、これを飲んで欲しいと伝えたら、それも押し付けなんだろうかと、緋子は一瞬考える。もし自分がされたらどうだろう、とも思う。予定があったら、きっと嫌だろう。でも、美味しい珈琲が飲めるなら嬉しいかもしれない。結局、そういう感覚は、人によるのだろうか。

 全ての人間が、自分と同じ感覚なわけじゃないのだし。

 なんだか思考回路が悪い感じに働いているな、という自覚があった。自分の発言が他者に影響を与えてしまうことに対しての、冷たい感覚だ。夏乃佳とあんなことがなければ、思った言葉が素直に口を出たはずなのに。無駄なことを考えすぎている。

 いや――むしろ、考えなしだったんじゃないだろうか。

 もっと考えていれば、きっとあんなことは言わずに済んだはずだ。

 でも――

「……ねえ、もう一杯、珈琲飲んでかない?」

 それでも、緋子は声を掛けることにした。小説家なら聞いてくれるだろうという期待もあったのかもしれない。自分の欲求を優先していた。つまり、エゴだ。

 あるいは自分は、元々、自分の見たい世界しか見ていないのかもしれない。

 そうすることで、暗い過去から目をらしているのだろうか。

「え」

 小説家は目を見開いて、呆けたような声を上げた。

「いや……暇だったし、飲むかと思って作っちゃったんだけど」

「え、あ、ああ……え? え! 僕のために作ってくれてたんですか?」

「いやまあ、うん。そうだね」

「えー! マジっすか? いやいやそんなの、もちろんですよ。いただきますよ。いやー、マジっすか。嬉しいなあ」

「お客さんもいないし、ちょっと退屈気味だから、暇なら話し相手になってくれないかな」

 緋子はコーヒーカップとソーサーを二人分取り出して、カウンターの上に置いた。

「あ、じゃあ自分のテーブル片付けときますね」

 小説家は鞄をカウンターの椅子に置くと、台拭きを手にもって自分が使っていたテーブル席へ向かった。皿を下げたり、注文を取ったりという作業はどこの飲食店でも似たようなものだからか、経験者らしい手つきで作業を進めている。小説家はグラスや紙ナプキンなどを片手に器用にまとめて、テーブルを綺麗に拭いてから、カウンターに戻ってきた。緋子はその間に、カップに珈琲を注いだ。

「ありがとう」

「いつでもバイトとして入れる気がしてきました」小説家は冗談を口にしてから、ゴミを捨て、グラスを食洗器しょくせんきに入れた。「これ、まだ動かさなくて平気ですよね?」

「うん、まだ余裕があるから」

 小説家が席についてから、緋子はスツールに腰を下ろした。あとはもう、他にするべき仕事はない。新しく客が来るか、あるいは閉店後の作業をする以外には、残案件はなかった。

「ミルクは?」

「ブラックで平気です」小説家はカップに口を付けて、「あー、非常に美味しいですねえ。美味い珈琲は作家の血液なんですよ」と、よくわからないことを口にした。

 カウンターを挟んで、緋子は小説家をじっと見る。

 夏乃佳がいる間も、いなくなってしばらくも平気だったが、今になって自分がかなり落ち込んでいることに気付いた。まずいことを言ったかもしれない、という、アンニュイな気持ちが、さらに増幅ぞうふくしている。小説家と話をしようと思ったのも、多分、そうした感情から来る行動だっただろう。自分を手放しで認めてくれる存在に、甘えようとしている。自分で自分が気持ち悪いと思った。だが、思った以上に、緋子は精神的なダメージを負っているらしい。自分が悪いことは分かっているのに、今はそれを解決する術がない。

 だから緋子は、尋ねることにする。

「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど……人間関係でミスした時って、どういう風に対処してる?」

 緋子の質問は曖昧あいまいだったが、小説家は何かあったのか、とは尋ねなかった。多分、緋子が弱っていることも、相談に乗って欲しいと思っていることも、理解しているのだろう。空気が読める男なのだ。空気が読めないように見えて、恐らく、緋子よりも人間関係に精通せいつうしている。彼の過去に何があったのかは知らないが、きっと、それなりの人生経験があるのだろう。

「人間関係のミスっすか」小説家は意識的になのか、少しだけ砕けた口調で切り出した。「うーん、まあ、気にしても仕方ないって思っちゃいますかね、僕の場合は。僕なんかもう、日常的に、適当なことばっかり口走っちゃう人間なんで、失敗したなあと思うのなんて、日常茶飯事さはんじですよ。もう、正直……緋子さんにも、多分失礼なことを何度も言っているんだろうなあっていう自覚があるんですけど、言わないよりはマシかなと思ってるふしがあるんで、なんでも言っちゃうようにしてますね。だからまあ、人間関係のミスのプロっすよ」

「何それ」緋子は少しだけ笑う。「じゃあ、何かまずいこと言ったあと、しまったなぁ……とか思わないんだ」

「いやあ、思いますよ。ほとんど毎日、何かしら後悔して、一人で反省会を開いてます」小説家は苦笑する。「でも、そのたびに自分に言い聞かせますね。言わなかったらもっと後悔しただろうなって。だから間違ってなかったはずだって、自分を慰めるわけです」

「言わない後悔より、言った後悔、みたいな?」

「って感じですね。そうそう……昨日や今日の取材でも反省会はしましたよ。取材中の会話で、一瞬、あ、これはいたら失礼かな? って思うこともあるんですけど、この人と会うことは二度とないかもしれないと思っちゃうので、聞きたいことは全部聞きました。例えばそうですね、霊能力者って毛嫌いされる風潮ふうちょうもありますけど、嫌にならないんですか? とか。しかもこれ、取材の頭で聞きましたからね。かなりヤバイですよ」

 取材相手がつい数時間前まで店にいたことに、小説家は気付いていないのだろう。そのことを言うかどうか迷ったが、緋子は一旦いったん、「その人はなんて答えたの?」と質問することにした。

「その方、割とこう……なんて言うんですかね? 現実的な方というか、霊能力者が一般人からどういうあつかいを受けているのか、とか、そういう認識はきちんとあるみたいで。元々、えっと――ご実家がそういう本職の家系みたいなんですけど」

 雨宮あまみや家のことだろう。緋子も詳しくは知らないが、名の知れた霊能力者を輩出はいしゅつしている家系だと、冬子からなんとなく情報を聞いている。

「その方、縁を切るつもりで家を出たらしいんですけどね、その後、なんかやむにやまれぬ事情で、実家と仲直りしたらしいです。事情についてはちょっと、プライベートなことなのか、詳しくは教えてもらえませんでしたけど……自分に何かあった時に、頼れる先がないと困るからってことで、実家に頭を下げて、その業界に身を置いてると仰ってました。なんだか苦労人っぽかったですよ。だからまあつまり、嫌な想いをすることもあるし、自分の人生が特殊だという認識もあるけれど、やめるわけにはいかないから続けてる、みたいなことをおっしゃってました。まだ若そうなのに、波乱万丈はらんばんじょうな人生を送ってる感じでしたね」

 緋子は思わず苦笑した。確かに、事情を知らなければ、冬子は二十台前半に見えるだろう。だが実際には、十歳の娘がいる、三十路みそじ過ぎの女性だ。

 ああそうか、と、緋子は小説家の話から、冬子の葛藤かっとうについて思いをせた。冬子がそちらの世界に身を置くようになった詳しい理由を、緋子は聞いていない。だが、夏乃佳が生まれてしばらくしてから戻ったことを考えると――夏乃佳のために実家とりを戻したというのが、自然な流れのように思える。夏乃佳のように特殊な性質を持った人間が生きるためには、専門家との繋がりも必要だと考えたのかもしれない。冬子は夏乃佳に比べて、さほど能力も高くないようなことを言っていた。冬子の力だけでは、夏乃佳を助けられないかもしれない――そんな風な想像を広げてみた。

「その人、雨宮冬子さんだよね」

 小説家は、緋子の言葉を理解するのに、三秒ようした。

「ん、あれっ、お知り合いでした?」小説家は驚いた表情を浮かべる。「ていうかあれですかね、僕、知らないうちに、その人のお名前をしゃべってましたかね」

「喋ってないよ。私の知り合い。冬子さんね、私の大学の先輩なの」

「へえ……へえ!? 緋子さんの先輩!?」

「美人だよねえ、冬子さん」

 小説家は急に真顔になって、まじまじと緋子の顔を見つめる。

「それはつまり、緋子さんより年上の方ってことですか……? うそ、え……? それとも緋子さん、すごい浪人ろうにんしてたりします?」

「浪人も留年りゅうねんもしてないけど……ちょっと、じろじろ見ないでよ」緋子は身体を引いて、小説家をにらみ返した。「若くないんだから」

「いや、緋子さんはもう本当、すごく綺麗な人だと思いますけど……」小説家はぼんやりとした表情をしながら緋子を見つめ、「いやはや、にわかには信じられませんね……」と言った。

「ていうかあの人、だから……つまり、七佳なのかの実のお母さんってことだからね。七ツ森ななつもり冬子さん」

「えー! あっ、そういやそんなこと言ってましたっけ。えー! マジですか!? 緋子さん、僕のこと担いでませんか?」

「だったら良かったのにねえ」

 緋子は自分で作った珈琲を飲み、美味しくれられたことに満足する。普段と変わらない小説家を見ていて、ちょっとだけ気分が軽くなったことを自覚した。問題を横に逸らしただけだが、精神の安定を実感する。

「あーほら、僕、今まさに後悔してますよ」と、小説家はようやく緋子から視線を外して、天井てんじょうを見上げる。「この情報を知ってたら、絶対に緋子さんの前で取材相手が綺麗だ若いだ言いませんでしたよ」

「あーあ」緋子は面白がるように笑う。「傷付いたなあ」

「本当にすみませんでした……いやでもあれは無理ですよ。人妻はおろか、母親だとは思いませんって。しかも小学生の娘がいるとか……正直、僕と同じか、ちょっと上くらいだと思ってました」

「冗談だよ」

 笑ったことで、少しだけ気持ちが回復した。やっぱり、話しかけて良かった、と思った。苦手意識をすぐに修正することが出来た。もちろん、それがそのまま、夏乃佳に対する後悔を晴らしてくれるわけではない。それは分かってる。それでもつかの間の安らぎが、緋子を包んでいた。

「いやーそうですか……知らなかったなあ。緋子さん一筋じゃなかったら、危うくアプローチしてるところでしたよ、本当。理知的というか、緋子さんみたいに冷静な人が好みなんですよ僕は」

「聞いてないけど」

勤続きんぞく年数五年って聞いてたので、高卒か、少なくとも大卒新卒で働き始めたのかなと思ってましたね。ちょっと設定を見直さないといけないな……」

「なんの設定?」

「あーいや……昨日言ってたホラー小説です。せっかく良い題材だったので、雨宮さんを主人公にしたものを書こうかと思って、軽く設定を練ってて……」小説家は少しだけ照れたように言う。「うっかり二十四歳くらいの設定で書き始めちゃったんですよ。ていうか、そうだ、そのせいで長居ながいしちゃったんですけどね」

「別にいいんじゃない、フィクションだし」

「これぞまさに、事実は小説よりなりってやつですね……でも絶対そっちの方が面白いですよ。十歳の娘がいて、夫がいて、でも仕事をしている間は美人霊能力者として活躍して――多分ですね、仕事の関係でいくつかのラブロマンスがあるわけですよ。事件ごとに異なる男性とバディを組むことになるわけですが、彼女はまったく男たちからのアプローチになびかない。どういうわけか、毎回夕方には家に帰ってしまう。これ、真相は人妻だからなんですよねえ。お決まりのパターンとして、振られた男は彼女に娘がいることを知って唖然あぜんとするわけです。決まり文句は、『お夕飯を作らなきゃいけないので、また今度』ですね。そう、これが冒頭ぼうとうとは意味が変わってくるわけです。最初は、幼い兄弟がいるのか、それとも両親の世話でもしているのか……と思うわけですが、娘がいたのか! という驚きに繋がるわけですよ。どうですかね?」

「よくすぐに思いつくね」緋子は純粋に感心した。

「あーまあ……これが仕事ですから」

「でも、それもう、小説っていうより、連続ドラマみたいだね」緋子は淡々たんたんとした口調で言った。「その上、その娘は母親より上位の霊能力者なわけだ」

「あーいいですねえ、実は子どもが最強というパターン。王道ですよ。何の道に対する王道なのかは分かりませんけど。うーん、そっちに路線変更しようかな。雨宮さんにモデルにして良いかっていう了解を取らないと……」

 小説家はバッグから筆記用具とメモ帳を取り出し、急いで文字を書き始めた。ひらめいたネタを事細かに書き殴っているようだ。緋子はその姿を見つめながら、こういうのをと言うのかな、と思った。緋子自身が珈琲を淹れるのが好きなように、小説家もまた、小説を書くのが好きなのだろう。才能があるかどうかは分からないが、とにかく好きなのだ。

 じゃあ、夏乃佳はどっちなのだろう。

 好き嫌いで判断出来ることじゃないのかもしれない。嫌だからと言って、やめられることじゃないからだ。霊視だって、幽体離脱だって、そういう体質だというだけだ。だったら、根本的に別物なのかもしれない。やっぱり、夏乃佳に謝るべきだと、緋子は思う。つい気持ちがたかぶってしまって、妙なことを言ってしまったと、ちゃんと話そう。夏乃佳は頭が良い子だから、話せばわかってくれるはずだ。

 緋子が考えていると、ぶっきらぼうにドアが開く音がした。視線を向けると、ドリンク類の仕入しいれ先である『古樹ふるき酒店』の店主、古樹が顔をのぞかせていた。いつも通り、目深まぶかに帽子を被っている。

「こんばんは」緋子は立ち上がり、そちらに駆け寄る。「ええと、何か頼んでましたっけ、私」

「これから町内会なんだ」

 古樹は短く言って、手に持ったカゴからビール瓶を二本抜き取って、カウンターの上に置いた。それと一緒に、一枚の紙が差し出される。領収書か、いやでも注文していないはずだ……そう思って紙を手に取ると、『お盆休暇のお知らせ』と書かれていた。来週の月曜日から三日間、休業となるらしい。

「あれ、お休みするんですか」

「悪いな」古樹はにやりと笑って帽子を脱いだ。「今年は三日だけ休ませてもらうことにしたんだ。前からちょっと予定してたんだが、つい昨日、里帰り出来るって連絡が来たもんだからな」

「ああ、ご家族でお集まりになるわけですか」

「まあ毎年似たようなことしてんだが、息子が還暦かんれきでな。ちょっと盛大に祝おうって腹なんだよ」

「息子さんが還暦ですか……息子さんが還暦ですか?」思わず同じ言葉を繰り返す。「え、ってことは古樹さん、おいくつなんですか」

「俺か? 今年で八十二だ」

 びっくり仰天ぎょうてんだ、と緋子は思った。ギリギリ、戦争を経験しているということか。歴史にはさほど詳しくはないが、祖父が兵隊として戦地におもむいていたということを考えると、その渦中かちゅうにいたのだろう。なんだか、歴史の生き証人を見たような不思議な気持ちになった。

「はー……お元気ですねえ」

「今年はな、親族全員で集まって、ぱーっとやるんだよ」古樹はしわだらけの顔を、笑顔で埋める。彼にしては珍しい表情だった。「もう、二歳になる曾孫ひまごもいるんだ。うちはどうも、子どもが早くてな」

「それはそれは……」

「そういうわけでな、こいつは突然の休暇のびだ。配って回ってきたんだよ。ここが最後だ」

「いやそんな、気を使って頂かなくても良いんですけど……」

 緋子はカウンターに置かれたビール瓶を見て、これをどうしたら良いのかと考えた。まあ、腐るわけでもないし、商売柄、瓶の処分に困るわけでもないのだが。

「……あ、そうだ、せっかくですから、何か飲まれます? なんならこのビールでも良いですけど」

「いや、いい。バイクで来たし、これからどうせ、町内会で飲むんだ。遠鳴祭えんめいさいの打ち合せもしなくちゃならねえからな」

 古樹は帽子を被り直すと、深く礼をして、きびすを返す。

「あの、ありがとうございました」

「とにかく休むから、注文は早めにな」

 古樹を見送りがてら、緋子は外に出た。ありがとうございます、ともう一度小さく呟いて、深く頭を下げる。

 店に戻りがてら、店内にある時計を見た。午後六時を回っている。カウンターの上に乗ったままの瓶ビールを見て、緋子はそっと、ドアに掛かる掛札をクローズに反転させた。

「突然ごめんね」と、緋子は小説家に話しかける。「初めて見たでしょ。仕入先の古樹さん」

「大きい方ですねえ」

「オレンジジュースとか牛乳とかね、ここから仕入れてるの。まあ、アルコールの仕入の方が多いかもしれないけど」

「はあ、そうなんですね。いろいろ参考になります」言いながら、小説家はメモ帳に何やら書き殴っている。どう参考にするつもりなのかさっぱりだったが、小説家が忙しそうにペンを動かしている様は、なんだか面白かった。

「小説家っていう仕事は、毎日忙しいの?」

 緋子は抽斗ひきだしを開けて、器具を探しながら尋ねる。

「あー……いえ、あんまり忙しくはないですね。まあ、忙しくない分、焦燥感しょうそうかんは人一倍なんですけど」

「ふうん」

 緋子はビール瓶を小説家の前に置いて、せんを抜いた。通常のビールグラスと、自分用にビーカーを取り出して、まずはビーカーに黄金おうごん色の液体を注いでいく。

「流石に成人してるよね」

「……なんです?」

「もうお店閉めたから、お酒を飲もうかと思って。君にもビールをあげよう」緋子はグラスを小説家に差し向けた。「お酒、飲める?」

「あー……飲めますけど」

「けど?」

「あんまり場数ばかずを踏んでないんですよね。新人賞の受賞式で飲んだくらいで。ああ、えっと、三年前くらいに編集者の方とパーティっぽいものに出たんですけど、その時に乾杯で飲んだくらいです。それ以来、飲んだことないです」

「じゃあ、やめとく?」

 緋子はビール瓶の口を天井に向ける。が、小説家はグラスを両手で持って、「いやいやいや、何事も経験ですし、緋子さんのおしゃくを受けられるなら喜んで頂きます」と言った。

 緋子はビール瓶に両手を添えて、うやうやしくグラスに液体を注いでいく。久々にバーをやるか、とも考えたが、ビール瓶が二本では心許こころもとない。カクテル用の液体はいくつかあったが、明日も平日である。科学喫茶の朝は、平日の方が忙しい。

 緋子はビーカーを持って、軽く持ち上げる。小説家は両手でグラスを持ったまま、それを差し出した。ガラスがぶつかる音がして、心地良い音が店内に響く。

「乾杯」

「はい。いただきます」

「付き合わせてごめんね」

 緋子はぐっと、ビーカーの中身を飲み干した。小さなビーカーだったため、百ミリリットル程度だが、緋子にとっては十分に危険域のアルコール量である。そうやって、酔っぱらってしまいたい気分だった。

「いえいえ、本当、光栄ですよ。いやあ、夢中で小説書いてて正解でしたね……本当、今日はすぐに帰る予定だったんですけど。嬉しい誤算ごさんです」

 小説家も、グラスをかたむけてビールを勢いよく飲んだ。グラスの半分くらいを飲み干してから、「あー、苦い!」と、大きな声で言った。なんだか愉快な気分になってしまい、緋子は声を上げて笑った。

 蒼太そうたが帰ってくればいいのにな、と思った。明日の仕事が回るようにしたいという期待もあったし、話がしたいとも思った。手酌てじゃくでビールをごうとすると、「あ、僕が」と、小説家が瓶を持つ。もう酔いが回ったのか、単純に好意が嬉しかったのか、緋子は笑顔でビーカーを斜めに傾けて、酌を待った。

「ラベルは上にするのが正しいんですよね?」

「あー……どっちでもいいんじゃない?」

 空いた手で頬杖を付いて、緋子はぼんやりとした視線を小説家に向ける。こういう相手がいると、気分が良いな、と思った。そこに異性としての意識はないと推察すいさつされる。良いように使っているのかもしれない。失礼な行為だろうか。もう分からない。ふいに、涙が出そうになる。夏乃佳に謝らないといけない。夏乃佳に嫌われなかっただろうか、失望されなかっただろうか。そんな想いがめぐってしまい、急に疲労が襲ってくる。

「んー、バーはやらないけど、やっぱりカクテルだけ作ろう」緋子は唐突に言って、立ち上がる。「初めてのお客さんに作るカクテルはね、何故か美味しいんだ。飲まない?」

「カクテルなんて作ってるんですか」

「そう。あれ、知らなかった? ここ、バーもやってるんだけど」

「あー……そうなんですか。知りませんでした」

「ほら、『C3-Lab』だから、店名。これは知ってた?」

「ええ。ナプキンに書いてありますから、きっと店名だろうとは思ってました。お店の前にも、真鍮しんちゅうのプレートに書いてありますよね、確か」

「ああ、プレートにも気付いてたんだ。自分で言うだけあって、観察力高いね」

「C3っていうのは、カクテルか何かの名前なんですか?」

「ううん。chemical、coffee、cocktailの頭文字イニシャル

 緋子はカウンターを指でなぞって、アルファベットを書く。

「私が個人的に興味のあるものを合わせたら偶然頭文字が同じだったから、店名にしたの」

「へえ……緋子さんの人生が詰まっているわけですか。素敵な名前ですね」

 小説家は、手元にあったメモ帳に、それぞれの文字を筆記体で書いた。なめらかに書きしるされるその文字を見て、ふいに小説家の教養を見たような気持ちになる。ちょっとだけ、どういう人生を歩んできたのだろうか、と、興味が湧いた。

「白衣とか、ビーカーとかで、緋子さんが化学好きってのはなんとなく分かるんですけど……喫茶店とカクテルはどうして好きなんですか?」

「聞きたい?」

「聞きたいですねえ。これは何か、新作の予感がします。一昔前に流行りましたけどね、喫茶店モノの小説。ああいうのはサイクルがありますから、今から書いておけば、またブームが来るかもしれません」

「熱心だねえ」

 緋子は嬉しそうに笑う。小説家は苦そうにビールを飲んで、苦しそうな表情を見せる。が、体質的に合わないわけでもなさそうだ。

「じゃあ、ビールが終わったら、カクテルを作ってあげようかな」

「ああ、ごちそうになります。一応残金の確認だけしときます……」

「いいよ別に、趣味みたいなもんだから」緋子は一度否定するが、ふと閃いて、「じゃあその代わり、人生経験でも話してもらおうかな」と言う。

「人生経験ですか? あんま大したことないですよ、僕の人生」小説家は困り顔で言った。「基本的に、本ばっかり読んでましたから。聞いても面白くないんじゃないですかね」

「それを面白くするのが仕事なんじゃないの」

 緋子が言うと、小説家は急に真顔になって、「その通りかもしれませんね……」と、神妙しんみょうな声で呟いた。からかい甲斐がいのある男だ。緋子は満足そうにビールをあおった。

 今していることは、逃避とうひ以外の何物でもない。

 まだ残っている、緋子の中の冷静な部分がげる。

 だが、一時的な逃避のあとに、ちゃんと日常に帰ることも出来る。

 そのまま逃げることもあるかもしれない。

 でも、許容出来る。

 つまり、取り返しのつかなさこそが――緋子の正義に反するのだろう。

 人は死んだら生き返らない。

 死んだ人にはもう会えない。

 それが普通で、それが絶対だ。

 夏乃佳は会っているのかもしれない。

 そもそも、生と死に違いなどないのかもしれない。

 でも、こうして一緒に酒を飲み交わすことは出来ない。

 生きているから、同じ世界に立っているから、生の苦しみや、死への恐怖を分かち合える。

 ああ、そうか。

 ひとりぼっちになって欲しくないのかもしれない。

 夏乃佳には、大人になった後も、ずっと人間でいて欲しい。普通の人間として、幸せに囲まれて生きていて欲しい。

 だから止めたくなるのかもしれない。

 夏乃佳が、人間の世界から消えてしまいそうになる度に、緋子の心はざわつくのだ。

 そっちに行ったら、人間じゃなくなってしまう、と。

 そうだ、そういう風に伝えれば良かった。

 義務感を背負わせるのではなく、

 責任感を覚えさせるのではなく、

 今度会ったら、そう伝えよう。

 あなたが大切なのだと、ちゃんと言わなければ。

 この逃避が終わったら、ちゃんと伝えなければ。

「緋子さん? どうしたんですか」

 どうもしてないよ、と言おうと思ったが、言葉にならなかった。口を開いた瞬間に、喉の震えに気付いた。

 どうしてあんなことを言ったのだろう。

 緋子はまぶたの熱を感じながら、ゆっくりと瞳を閉じる。熱は頬を流れて、手元に落ちて、踊った。あんなに熱く感じたはずなのに、手の甲で冷たくなった。

「ごめん」

 誰に向けて言ったのか分からなかった。

 色々なことから逃げている。逃げ続けている。

 仕事も、人生も、実家も、蒼太も……そして夏乃佳からも逃げようとしているのだろうか。いや、ダメだ。そんなことは出来ない。

 この逃避が終わったら、ちゃんと帰ろうと決めた。

「緋子さん、お水用意しましょうか」

 小説家はいつものような穏やかな口調で言った。きっと、ぎこちない笑みを浮かべているのだろうな、と、目を瞑っていても想像が出来た。

「うん、ありがとう」

 緋子は今度は明確に、目の前に生きる人間に対して、呟いた。

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