第三話

緋子ひこさんこんにちはー」

 三人で昼食を食べ終え、夏乃佳かのかの夏休みの宿題を観察しながら雑談をしていると、来客があった。緋子は視線を向け、楽な客が来た、と思った。

「テーブル席、空いてるよ」

「ありがとうございます」小説家は軽く頭を下げ、一人でテーブル席へ向かっていく。「いやー、今日も暑いですね。緋子さん、アイスコーヒーひとつ、お願いします」歩きながら言って、小説家はテーブル席につくと、すぐにかばんからノートパソコンを取り出して、イヤホンをつけた。普段は音楽など聞くことがない彼なので、緋子は少しだけ、不思議に思う。

「よし、じゃあちょっと働くね」

「はい。頑張ってください」

 緋子はすぐに食器棚からグラスを取り出し、氷を入れた。ブラックのアイスコーヒー作りは、ほんの一瞬で終わる。伝票に『レ』と書き入れて、グラスを直接持って小説家のもとに向かった。

「はいどうぞ」

「ああ、どうもすいません」イヤホンを外しながら、小説家が言う。「緋子さん、今日も美しいですね」

「どうも」

 アイスコーヒーと伝票を置いて去ろうとした緋子を、小説家は「ちょっと」と、小声で引き止める。緋子は面倒臭そうな表情で振り返って、「なに」と低い声で言った。

「あいや……すみません、ちょっと聞きたいことがありまして」

「だから、なに」

「あの子、行方不明になっていた少年では?」

 小説家は視線を緋子に向けたままで、緋子にしか聞こえないくらいの声量で言った。

「なんで」

 分かったのか、と言おうとしたが、それは既に認めているのと同じである。緋子は唇を結んで、小説家の出方を伺う。やはり、見る人が見れば分かるものなのか。無理にでも帽子を被らせておくべきだったかもしれない。

「大丈夫なんですか? あんなに堂々と店に置いて」小説家はさらに小声で続ける。「もちろん、緋子さんのことですから、何か理由があるんだろうとは思いますが……いや、コーヒーが来るまでについつい調べちゃいましたよ。まだ、報道されてないですよね、見つかったって」

「……よく分かったね」諦めたように、緋子は言った。「お察しの通り、ちょっと事情があるのよ。話せないけど」

「まあそうでしょうね。いや、この件について、誰かに何か言うつもりはないです。ただ、そうなのかな、って確認したくなって」

「お察しの通り」緋子はもう一度言った。

「じゃあ、僕の目に狂いはなかったわけですね。いやあ、これでも観察力には自信があるんですよ。小学生の頃は、本気で探偵を目指していたので。違和感を見つけるのが癖になってまして」

「あそう」

 面倒くさいことになるかな、と思ったが、小説家はそれ以上何かを追求してくることはなかった。相変わらず、空気が読めるというか……読めすぎているくらいだ。「とりあえず、口外無用で」と緋子が人差し指を立てると、「二人だけの秘密ってやつですね」と、よくわからないことを口走った。結局面倒くさいことになった、と、緋子は嘆息たんそくする。

「そういえば、音楽なんて珍しいね」緋子は話題を変えた。このまま、相手に主導権を握らせたまま戻るのも躊躇ためらわれたせいだ。「今日は集中して書いてくわけ」

「いえ、今日はすぐに退散しますよ。えっと……昨日言ってた取材の文字起こしをしようと思って。家でやってもいいんですけど、丁度通り道だったし、緋子さんに会っておこうかなと思ったんですよ。色々喋って、喉も乾きましたしね」

「そりゃどうも」緋子は言って、ふと思い出す。「あれ、取材って昨日じゃなかった?」

「そうですそうです。でも昨日、途中まで取材してたんですが、相手方に急用が入ったとかで、中途半端なところで中止になったんですよ。だからその続きを、今日やらせていただきました。質問内容も少しでしたから、ほんの一時間くらいで終わりましたけどね。だから今日はほんと、珈琲一杯で退散する予定です。売上に貢献こうけん出来なくて申し訳ないです」

「ふうん」

 話の流れから、やっぱり冬子が取材相手なのではないか? と緋子が考えていると、小説家は「そう言えばお相手の方、ものすごく若い方で、美人さんだったんですよ……いやいやもちろん、緋子さんの方が美人ですけどね。違う系統の美人でした。冷たい感じが、こう……そういう職業に似合ってるなと思いましたよ」と言った。絶対に冬子だ、と思い直し、緋子は小説家に顔を近づける。

「それ、本当に七ツ森ななつもりさんじゃない?」

「取材相手ですか? ……いや、違いましたよ。確かに女性でしたけど、小学生の子どもがいるようには見えませんでしたから。だってあのお嬢さん、もう十歳くらいですよね? いやいや、有り得ませんよ」

「あー、うーん……」どう説明するべきか、と緋子は考える。「えっと、その人の名刺とか持ってないの」

「あー、名刺は昨日もらったので、家に置いてきちゃいましたね……でも本当、学生くらいの見た目でしたよ。僕より若いと思います」

「だろうねえ」緋子は憎しみを込めて言う。「でもね、世の中には、思いも寄らない人間がいたりするの。常識外というか」

「もしアレなら、一緒に聞きます? 声が入ってますけど」

 小説家はイヤホンを取り上げて緋子に差し出したが、緋子は無言で首を振ってそれを拒否した。他人のイヤホンが嫌だったわけではない。そこまでして知りたいわけではなかったし、冬子に聞けば済むことだと思ったからだ。

「ま、ごゆっくり。さっきの件はくれぐれも、他言無用で」

「お任せください。緋子さんとの約束は死んでも守りますから」

 大層たいそうなことだ、と思いながら、緋子はテーブル席を離れ、カウンターに戻った。既に夏乃佳の宿題は終わっていたらしく、二人の子どもは指を使ったゲームで遊んでいた。それが何という名前のどういうゲームなのかは、見ただけでは判断がつかなかった。

「宿題、終わった?」

「はい、終わりました。楽勝でした」夏乃佳は自慢げに言う。

「りゅー君の方は、夏休みの宿題は?」

「僕は、始まってすぐに終わらせたよ」夏川少年も、少し得意げに言った。「簡単だったから」

「あ、ダメなんだよりゅー君。宿題は毎日やらないと意味がないんだから」

「別にいいよねえ」緋子は仲間がいたことを嬉しく思い、夏川少年に向けて言う。「早くやっちゃった方が、楽だもんね」

「うん」

 夏川少年が笑うと、天使のような笑顔、という表現がこれほどなく似つかわしく感じられる。偽物なのだ、という意識があっても、緋子にはとても魅力的な笑顔に思えた。

「ダメなのになあ……」夏乃佳は困ったように言うが、それ以上は追求するつもりはないようだった。

「二人とも、何か飲む?」緋子は二人を交互に見ながら尋ねる。「お腹空いたとかも、遠慮なく言ってね。夏乃佳のお母さんから、ちゃんとお金はもらってるから」

「僕はまだ大丈夫」と、夏川少年が言う。オレンジジュースがまだ半分ほど残っていた。

「私も大丈夫です」

「相変わらず、遠慮しがちな子どもたちだな……」

 緋子は自分用に、新しいアイスコーヒーを用意した。三角フラスコにコーヒーを注ぎ、容器を直接振って、シロップとコーヒーを混ぜ合わせる。氷は入っていないので、飲みやすい温度だった。

 緋子はかれこれ二時間ほど、夏乃佳と夏川少年を観察している。時折ときおり接客をすることはあるが、会話の濃度を考えれば、夏川少年という人間を把握はあく出来るくらいには同じ時間を過ごしていることだろう。

 それだけの時間を共に過ごしても尚、緋子にはやはり、この少年が、別人――あるいは偽物だとは思えなかった。そうした、人外だと疑うような違和感みたいなものは、一切感じなかったのだ。無論、緋子は行方不明になる前の夏川少年を知っているわけではないのだから、その判断は正確とは言えないが、それでも、話しているうちに自然と打ち解けていく感覚をとってみても、彼はただの育ちの良い少年に思える。

 もし本当に、夏乃佳や冬子が言う通り、この少年が狐憑きつねつきとやらであるならば――緋子は簡単に騙されるのだろうなと思った。全ての所作しょさがあまりに自然で、あまりに普通だからだ。

 だが、本来の夏川少年を知っていれば、どこかに違和感を覚えるはずだという漠然ばくぜんとした予感もある。冬子が言っていたように、両親が子どもを疑うような感覚が、きっと芽生えるはずだ。

 もし夏乃佳が偽物になったらどうだろう――と、緋子は考えてみる。その些細ささいな違和感を、見つけ出せるだろうか。話し方、言葉選び、反応、所作――それが違えば、それが他人だと判別出来るのだろう。そもそも、そんな明確な判断基準はないのかもしれない。完璧に同じなのに、違うと感じる。成分も思考回路も同じなのに、別物だと感じる。それこそが人間の本能的な違和感なのだろう。それはまさに、非科学的な思考なのだが――不思議なことに、緋子はそれほど、本能に対しては懐疑かいぎ的ではなかった。幽霊や妖怪などはこの世に存在しないと思っている割に、虫の知らせや、直感などというものは、否定しない。自分の定義も案外、曖昧あいまいなものだと、コーヒーを飲みながら考える。本当のところは、非科学的なものは信じたくないだけで、存在を認めてはいるのではないかと、疑いたくもなる。

「ねえ七佳、今日、お母さん何の仕事するか言ってた?」

 ふと思いついて、緋子は夏乃佳に尋ねた。頭の片隅には、小説家の取材相手が冬子だろうという疑念がまだうずいていた。小説家による冬子の外見の評価を鵜呑うのみにするのは少々気まずいものがあったが、冬子の見た目はそれくらい、常軌をいっしているのだ。

「お母さんですか? えっと、何かの取材を受けるって言ってました」

「やっぱりそうか」緋子はうなずく。「そうだよね。こんなに身近に似た人間がいるはずない。いてたまるか」

「何の話ですか?」不思議そうに夏乃佳が言う。

「あそこのお兄さん」と、緋子は小説家を指差す。「お母さんとお話ししてきたみたい」

「そうなんですか。知りませんでした」

「あ、そういうことか」

 緋子はそこで、ようやくからくりに気付いた。小説家が頑なに七ツ森姓ではないと言い張る理由に、である。思えば冬子の霊媒れいばい体質は、冬子の実家である雨宮あまみやから受け継いだものだと聞いている。夏乃佳の中にある特殊な体質も、恐らくは雨宮の血が影響しているのだろう。つまり冬子は、雨宮冬子名義で仕事をしているのではないか、というのが緋子の導き出した結論だった。

 冬子の属している界隈かいわいのことはよくは知らないが、雨宮家が霊能力者の間で有名な一族であるなら、そのネームバリューを利用しない手はないだろう。本当のところはどうかは分からないが、緋子はそんな想像をしてみた。美人霊能力者が大勢いてたまるか、という気持ちもあったのかもしれない。

 自分の推理に満足して、緋子はほくそ笑んだ。謎が解決する瞬間は、いつだって気持ちが良いものだ。そしてそれは同時に、冬子はもうそろそろ来客するのだろう、という予想にも繋がった。取材する側である小説家が先に事務所なりを出たのは当然だとしても、さほど時間を掛けずに、冬子も退社するはずである。

「もうすぐお母さん来るかもね」

「本当ですか?」夏乃佳は一瞬嬉しそうな表情を見せたが、すぐにそれを引っ込めた。夏川少年の前では、子どもっぽさを隠したがっているようだった。

 しばらくして、ドアの開く音が聞こえた。が、それは正面玄関ではなく、裏口のドアの音だった。控えめな開閉音だったため、気付いたのは緋子だけだったようだ。

「あれ、早いね」

 緋子は立ち上がり、裏口の方へと向かう。蒼太のいる位置は、店内からはほとんど見えない。階段を上ろうとしていた蒼太は足を止め、「ああ、ちょっとね」と言って、店内を見た。

 夏乃佳と夏川少年の位置からは、蒼太が丁度観察出来た。蒼太は二人に気付くと、「や、こんにちは」と小声で言って、軽く手を振った。夏乃佳は控えめに「こんにちは」と応え、夏川少年は見ず知らずの男性に対し、軽く頭を下げるだけだった。

「朝とは打って変わって落ち着いてるね」蒼太は店内を見渡す。「手伝わなくてもいいよね」

「別にいいけど。家にいるの?」

「や、忘れ物取りに来ただけ。ん? いや……」

 蒼太は夏川少年をじっと見てから、緋子の耳元に手を当て、「行方不明の子?」と尋ねる。やっぱり帽子を被っていてもらうべきだったな、と緋子はうんざりする。

「冬子さんから預かってるの」緋子も小声で答える。

「なんで」

「聞かないで」

「気になるなあ」

「あの人を見習って」

 と、緋子は小説家をあごで示す。彼はイヤホンを付けながら、モニタを注視していた。

「なにが?」

「あの人も気付いたみたいだけど、空気を読んでくれてたから」緋子は言いながら、「そう言えば、見るの初めてだっけ?」と、思い出したように言った。いつだったか、小説家は緋子の弟の存在を知らない、と言っていた記憶があった。

「いや――あの人の存在は認識してる」

「何その大袈裟おおげさな言い方」緋子は笑いながら言った。

「――っしょぉい!」

「ひっ」

 大きなくしゃみの音に、緋子は小さな悲鳴を上げて振り返る。小説家が口元に手を当てて、身体を縮めていた。二秒ほど放心してから、鼻を揉み、再び作業に戻っていく。

「あーあ、話してたからくしゃみしちゃった」

「なに、噂してたからとでも言いたいの」

「やべ、非科学的なこと言っちゃった」蒼太は笑いながら言う。「とにかくちょっと、荷物まとめたらまた出るから――」

 蒼太が話している途中で、今度は正面玄関が開く音が聞こえた。ドアベルが鳴り、来客がある。あんじょうと言うべきか、やってきたのは冬子だった。

「お待たせ」冬子は言いながら、夏乃佳を見つけて近付いてくる。「緋子、ありがとう。ごめんね、急いで来たんだけど、遅くなっちゃった」

「いえ、別に構いませんよ――」

 緋子が冬子の方を向くと、背後で階段を上がる音が聞こえた。蒼太が部屋に向かったのだろう。挨拶くらいしていけばいいのに、と緋子は思ったが、呼び戻すようなこともなかった。緋子はカウンターに戻り、「どうぞ」と、冬子に夏乃佳の隣を勧める。

「夏乃佳、りゅー君、お待たせ」冬子は笑顔で二人を見つめる。「緋子、大丈夫そうだった?」

「二人にはバレましたけど、多分」

「え、誰に?」

「弟と、あちらのお客さんです」

 冬子は、緋子が指さす方に視線を向ける。イヤホンを付けながらモニタを注視し、周りのことなど一切目に入らない様子の小説家がいた。冬子は大きな瞳をさらに大きく開け、驚愕きょうがくの表情で、緋子に向き直る。

「今日、あの人に取材を受けてました?」

「うんそう。びっくりした」

「でしょうね」緋子は笑いながら頷く。「冬子さん、お仕事は旧姓でやられてるんですよね」

「え? そうだけど……緋子に話したっけ?」

 緋子は自分の推理が正しかったらしいことに満足して微笑む。が、冬子は意味が分からないといった様子で首を傾げた。

「なんであの人がいるの?」

「うちの常連さんなんですよ」

 緋子が言うと、また店内に大きなくしゃみの音が響いた。が、やはり小説家は前傾姿勢になるだけで、カウンターの方に視線を向けることはなかった。

「冬子さん、何か飲まれます?」

「え、あーうーん、どうしよう。買い物もしなくちゃいけないのよね……」

 冬子は夏乃佳と夏川少年に視線を向けた。二人の飲み物はまだ残っているが、すぐに飲み終えてしまえるくらいの量だった。

「夏乃佳、りゅー君、もう帰りたい?」

「私はまだここにいても大丈夫ですよ」と、夏乃佳が大人しそうに言う。

「僕も平気」夏川少年も続けた。

「ええと、じゃあ三時くらいまでかな」冬子は店内に掛かった時計を見ながら言う。「さっきも飲んだけど」

「先ほどと同じアイスコーヒーでいいですか?」

「うん。甘いやつ」

 緋子が準備を始めると、階段を下りる足音が聞こえた。

「蒼太、出掛けるの?」階段の方に顔だけ出して、緋子が尋ねる。

「ああ。後片付けしなくちゃいけないし、それに――」蒼太は店内に視線を向けて、唇をゆがめた。「うーん、急いで探さないといけないからな。休んでる暇ねえや」

「何を?」

「大事なもの」蒼太ははぐらかすように言って、少しだけ、店内に身体を割り込ませる。

「あ、蒼太君」冬子がすぐに気付いて言った。「お久しぶりー。相変わらずイケメンだねえ」

「どうも」蒼太は目を細める。「七佳、あと、少年。またな」

「さようならー」

「さようなら」

 子どもたちと手を振り合って、蒼太は満足そうに微笑んで、裏口に向かう。

「それじゃ、行ってくる」

「はい。気を付けてね」

「冷房効きすぎなんじゃない?」蒼太が突然言う。「あの人、二回もくしゃみしてたでしょ」

「ああ……そんなに寒くは感じないけどな。やっぱり、噂してたからじゃない?」

「姉ちゃん、最近平気でそういう迷信とか言うようになったよな」

「もう科学者じゃないからね」

「そりゃそうだ」

 蒼太は笑いながら、ドアを開けて出て行った。緋子はそれを見届けたあと、裏口のドアを閉め、アイスコーヒー作りに戻る。今度は、控えめな音のくしゃみが聞こえた。クーラーのリモコンに表示された温度を確認したが、さほど低いようには思えなかった。

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