第二話

「ごめんくださーい」

 正午を少し過ぎたところだった。注文されたクラブサンドをアルミバットに盛り付けているところで、ひかえめにドアが開く音が聞こえた。続いて、同じく控えめな声が上がる。変に違和感を覚えて、緋子ひこはドアの方を見る。

 来客したのは、夏乃佳かのかだった。

 何故違和感を覚えたのだろうか? と緋子は考える。原因は多分、ドアが静かに開いたからだろう。夏乃佳が店に来る時は、いつも、ドアが壊れそうなくらいの勢いで開くのが普通だった。

「いらっしゃい」緋子はアルミバットを持ってカウンターを出る。「ごめん、ちょっと待ってて」

「わかりました」

 緋子はテーブル席にクラブサンドを持っていく。カップルらしき二人組で、店に入ってきた時から幸せそうな雰囲気をかもし出していた。付き合い立てなのか、それとも相性が良いのか、あるいはお互いに仮面をかぶっているのか――しばらくはこのカップルを観察していようかと考えていたが、夏乃佳がやってきた途端にどうでも良くなってしまった。勝手によろしくやっていてくれ、という気持ちで、「ごゆっくり」と声を掛ける。

「お待たせ七佳なのか

 玄関に向かうと、夏乃佳の隣に男の子がいるのが分かった。野球帽を被っていて顔は見えないが、彼が噂の夏川なつかわ少年だろう、と緋子は当たりを付ける。冬子の話を聞いて、少々不安に思っていたが、実際に目の当たりにすると、さして危機感を覚えることはなかった。彼は夏乃佳よりも小さい男の子だったのだ。もし彼が暴れ出したとしても、押さえつけるのは容易よういだろう、と思えた。刃物や鈍器を隠し持っているわけでもなさそうだ。

「さっき、お母さんが来たよ」

「はい。あの、母がいつもお世話になっています」夏乃佳は深々と頭を下げる。「えっと、この子はりゅー君って言います」

 夏乃佳の様子が変だな、と緋子はすぐに気付いたが、こうした一時的な変化には身に覚えがあったので、何も言わなかった。

「はじめまして、りゅー君」

 緋子は膝を折って、視線を下げる。恐らくは、身元がバレないように、りゅー君、と呼んでいるのだろう。彼は緋子の声に反応して、顔を上げた。

 野球帽の下にある彼の顔は、ニュースサイトで見たものよりも、随分ずいぶんと整っているように見えた。本当に美しいものは、写真で見るよりも動いている方が良く見えるという良い例だ。

 少年と言うよりも――美少年と言うべき容姿だった。

 もし行方不明事件が起こるより前に夏川少年のことを知っていたら、緋子は間違いなく誘拐を疑っただろう。それくらい、彼には人を狂わせそうな魅力があった。少年特有の細さというか、幻想的な雰囲気をまとっている。

「――こんにちは」

 夏川少年は、変声期へんせいき前のすずやかな声で言った。ああ、こういう子も世の中にはいるのだな、と緋子は興味深く彼を観察する。どことなく、冬子に似た雰囲気があるようにも思えた。妙に美しくて、人間らしくない。あるいは、人間という形を作り込んだが故に、人間らしさが失われたというような感じだった。

「一応、カウンター席はリザーブしてあるんだけど……椅子が高いかもね」緋子は立ち上がって、店の奥を指差す。「ソファ席にしようか? 丁度空いてるし」

「緋子先生」

 夏乃佳に手招きをされて、緋子は体を傾けた。

「えっと、りゅー君はあんまり、人に見られない席がいいです」

 そういうことか。確かに、ソファ席に子どもが二人で座っていると、少し目立つかもしれない。それなら、カウンター席で緋子と会話していた方がまだ目立たないだろう。

「じゃあ、そこに座って」

 科学喫茶のカウンターはL字型になっており、短辺には二つ、長辺には四つの椅子が備え付けられていた。緋子はそのうち、長辺に当たる席を確保していた。夏乃佳が科学喫茶に来る時に座る定位置とは違う席だったが、そこは玄関に近いので、良い判断だったと言える。

 二人はよじ登るようにして、なんとかカウンター席に収まった。

「とりあえず、お水ね」緋子は浄水器のタンクからビーカーに水を注ぎ、二人分をカウンターに置いた。「お昼食べてないよね? 今から作るから、その間に何か飲む? オレンジジュースか、牛乳くらいしかないけど」

「私は大丈夫です」夏乃佳はすぐに言って、夏川少年を向く。「りゅー君はどうする? ここのオレンジジュースは、甘くてとっても美味しいよ」

「ううん、大丈夫」

 夏川少年は、照れたような口ぶりで言った。緋子は素直に、可愛い男の子だな、と感じる。

遠慮えんりょがちな子どもたちだな」緋子は苦笑しながら言った。「残してもいいから、ジュースでも飲んでなさい。あと、何が食べたいか、メニュー見て決めてくれる?」

「わかりました」

「はい」夏川少年が律儀りちぎに返事をする。

 夏乃佳はメニューを手に取って、夏川少年との間に置いた。フードメニューは食材の選択肢が少ないが、バリエーションにはんでいる。二人が小声で相談するのを聞きながら、緋子はオレンジジュースの用意を始めた。

 なんだ、どう見ても普通の少年じゃないか、というのが素直な感想だった。冬子はまるで恐ろしい存在のように夏川少年を評価していたが、緋子の目には、綺麗で大人しい少年にしか見えなかった。

「はいどうぞ」

 ストローの刺さったビーカーを差し出すと、二人はほとんど同時に「ありがとうございます」と言った。礼儀正しいにも程がある。自分が小学生の頃はどうだっただろうか、と思い出そうとするが、上手く思い出せない。お礼も言えないような、気弱で、ひねくれた子どもだった気がする。蒼太そうたはどうだろう。多分、「マジ! ありがとうおばちゃん!」とか言いそうだな、と思った。

「注文いいですか」

「はいどうぞ」緋子はわざとらしく、普段は使用しない伝票とペンを取り出した。「お嬢さんは何にしますか?」

「私はナポリタンを少な目でお願いします。りゅー君は……本当にこれだけでいいの?」と言いながら、夏乃佳はメニューを指差す。

「うん、僕は、ベーコンエッグを」

「ナポリタンとベーコンエッグね」緋子はメニューを書き入れながら、「え、ベーコンエッグがお昼でいいの?」と驚いた。

「僕はあんまり、たくさん食べられないんです」夏川少年は控えめにうったえる。

「でも、本当にちょっとしたものだよ。卵一個分」

「はい、大丈夫です」

 遠慮しているのかとも思ったが、夏川少年の細い体を見ると、そういう体質なのかもしれないとも思えた。Tシャツから覗く二の腕は、白くて細長い。栄養失調を連想させるほどの細さではなかったが、妖精とか、天使とか、そういう類いを想像させるような細さだった。

「……まあ、食べられそうだったら追加してくれればいいから」

「はい。ありがとうございます」

 夏川少年は頭を下げながら、「あ」と声を上げたと思うと、すぐにかぶっていた野球帽を脱いでカウンターの上に置いた。

「あーっ。りゅー君、帽子は被ってないとダメだよ」

 隣の夏乃佳が慌てたようにせいしたが、夏川少年は首を振って、「屋根のあるところで帽子を被るのは失礼だから」と言って聞かなかった。

 その瞬間、ふいに緋子の記憶が刺激された。

 いつの記憶なのかは分からないが――多分、緋子がまだ中学生の頃だと思われる。その記憶の中にいる蒼太が、小学生くらいだったからだ。緋子は高校生になって以降、家族旅行に出かけた記憶がない。勉強漬けで、家族と過ごす時間は短くなっていた。だから、中学生。あるいは、小学校の高学年。どちらかだろう。

 どこかに家族で旅行に向かう途中の記憶だった。パーキングエリアかどこかでお昼を食べようとしている。記憶の中で、緋子と蒼太は二人とも帽子を被っていた。その帽子は、やはり旅行の途中で買ったものだった。思い起こされる景色からは、夏が連想される。日差しが強かったため、日射病にならないようにと、道中で買ったものだったのだろう。

 色濃く残っている映像は、そば屋か、日本料理屋だった。多分、そば屋だろう。和風の内装を覚えている。店の奥の座敷に通されていた。開け放たれた窓の外には、しげる緑と、長閑のどか景観けいかんを壊す電線が見える。六人掛けの座敷で、緋子と蒼太は奥に座っていた。緋子の膝の上に、買ったばかりの幅広はばひろの帽子が置かれている。緋子が窓側の席で、蒼太と一緒に窓の外を見ていた。当時はスマートフォンなどなかったし、家族の誰も、携帯電話を持っていなかった。空いた時間をつぶすべは、会話くらいのものだった。だから、よく会話をした。覚えている。そう、緋子と蒼太の会話だ。

「こんな山奥にも電信柱なんてあんのかあ」

 緋子の頭頂部に顎を乗せるような形で、蒼太は窓の外を見ていた。緋子は鬱陶うっとうしく感じながらも、その手のじゃれあいについては特に何も言わなかった。そういう関係性だったのだ。

「電気が来ないとテレビも見られないんだから、当たり前でしょ」

 緋子は代わりに、蒼太の発言に反応する。

「テレビ見られないのは無理だわー。超暇じゃん」

「あんまり身を乗り出すと危ないよ」

 父だったか、母だったか。どちらかに注意をされて、二人は窓の外を見るのをやめた。その後、もう注文は済ませていたのに、またメニューをながめることにした。もしかしたら、今頼んだものよりも美味しそうなメニューがあるのではないか、という探究心による行為だった。もちろん、それを探し当てたところで再注文をするわけでもないのだが、単純に、暇を持て余していたのだ。

「あ、蒼太。帽子取りなよ」

 蒼太が被ったままの帽子に気付いて、緋子が言った。

「え? なんでだよ。めっちゃ格好いいじゃんこれ。俺この旅行中、ずっと被ってるって決めたんだ」

「家の中では帽子は取るのがマナーなんだって。何かの本で読んだの」

「別にいいじゃんそんなの。つーかそもそも、ここ家じゃないし」

 みっともないよ、と言おうとしたが、そんな言葉では蒼太は説得出来ないだろうと思い直し、当時の緋子は何と言ったのだろう。

「帽子ずっと被ってると、通気性つうきせいが悪くなって、ハゲるらしいよ」

 そうだ、確かそんなことを言った。「マジで?」と言いながら、幼い蒼太は大人しく帽子を脱いでいた。それが切っ掛けだったかは分からないが、以来、蒼太が帽子を被っている姿を見たことはないはずだ。緋子も、自分の言葉にだまされてしまい、あれ以来帽子というものを被る習慣がなくなった。

 記憶はそこまでだった。夏川少年の帽子の話を聞いて、突然思い起こされたものだ。それ以外の情報は、もやがかかっているみたいで、まるで思い出せなかった。そのあとどこに行ったのか、どういうものを食べたのかさえ、思い出せない。しかし、なんだか久しぶりに思い出した。そう、あの頃の蒼太は――やんちゃ者で、子どもらしい子どもで、今とは違ってバカっぽかった。

「――緋子先生?」

 夏乃佳の声に、緋子はハッと我に返った。

 周囲を見る。科学喫茶だ。そば屋ではない。自分も、もう成人済みの女性だった。蒼太はこの場にはいないが――彼も大人になっている。今の記憶は何だったのだろう? もう、何十年も思い出すことのなかった記憶だ。

 一体、どれくらいの時間、トリップしていたのだろう。緋子は目を閉じて、深呼吸をした。

「ごめん、ぼーっとしてた」緋子は正直に言って、夏川少年を見る。「まあ、こっちを向いていれば大丈夫じゃないかな。顔見られると、困るもんでしょう」

「僕は別に困らないです」夏川少年は、高い声でそう言った。

「困るよお」

 夏乃佳は珍しく、本当に困ったように言ったが、無理やり帽子を被らせるようなことはしなかった。夏乃佳は、昔の自分に比べて優しいお姉さんのようだ、と思う。

 緋子は電子レンジでパスタをでることにした。その間に、フライパンを温めて、ベーコンを加熱する。先にベーコンエッグを作ってから、ナポリタンを調理する予定だった。緋子が作業をしている間に、夏川少年が「あの、トイレに行ってもいいですか」と言うと、「トイレ? じゃあ、私が案内してあげる」と夏乃佳が率先そっせんして椅子を降りた。その段階で既に、夏川少年の帽子云々うんぬんの問題がどうでもよくなってしまっている気がしたが、緋子は特に何も言わなかった。

 夏乃佳は夏川少年を科学喫茶の洗面所まで誘導し、ひとりでカウンターに戻ってきた。洗面所は個室であるため、中に入って待つということは難しい。

「お姉さん役も大変だね」緋子は夏乃佳に声を掛ける。

 夏乃佳はぐったりとカウンターに上半身を伸ばして、「はー、疲れちゃいました。私、お姉さんっぽく出来てますか?」といつも通りの雰囲気で呟いた。

 やはり夏乃佳は意識的に、夏川少年に対して、年上らしい対応をしようと心がけていたようだ。緋子にも、蒼太が生まれてから、そういう意識が芽生めばえた気がする。自分よりも幼い人間と行動を共にする場合は、自分がしっかりしなければならない、という意識だ。

「ちゃんと出来てるよ。立派なお姉さんだ」

「なかなか、緋子先生みたいに上手く行かないです」夏乃佳は困ったように言う。「りゅー君は意外と頑固がんこ者なんですよー」

「ふうん」

 出来上がったベーコンエッグを皿に盛り付ける。フードメニューの場合、半分くらいは通常の食器が利用されることになっていた。特に、フォークやナイフなどを利用するものは、実験器具だと傷がつく可能性があるからだ。

「ねえ、七佳……ちょっと教えて欲しいんだけど」

 夏川少年のいない隙を狙って、緋子は小声で夏乃佳に話しかける。

「なんですか?」

「りゅー君って、本当に狐憑き? とかいうやつなの?」

 緋子が尋ねると、夏乃佳は「うーん」と首をひねった。わからない、という態度ではなく、答えにくい、という性質のものに思えた。

「ちなみに私には、普通の人間に見えてる」

「とってもデリケートな問題です」夏乃佳は舌ったらずな口調で、あえてわかりやすい単語を選んだ。「りゅー君は、普通の人間じゃないです。普通の人間じゃないですけど、ちゃんと人間になろうとしている感じです」

「そうなんだ」

 それは緋子にとっては、予想通りのはずなのに、意外に感じる報告だった。見るからに普通の人間にしか見えない夏川少年が、夏乃佳という特異体質の人間によって、偽物だと断定された――もちろん、偽物などという表現は不正確なのかもしれない。緋子は本物の夏川少年を知らないし、人間が何をもってして本物になるかという定義も曖昧あいまいなままだ。にも関わらず、偽物だと思ってしまう。

 それだけ、夏乃佳のことを信頼しているのか。

 非科学的なことは、信じようとしないくせに。

「お母さんから、話は聞いてるの。えっと……りゅー君の様子を、七佳が見てるんだよね」

「そうです。私は、お姉さん役なんですよ!」夏乃佳は嬉しそうに言った。「りゅー君は頑固ですけど、いい子なので、私は大助かりです」

「良かったね」緋子は曖昧に微笑む。「でも、七佳がそう断定したってことはつまり――りゅー君は、御祓おはらい? みたいなことをしなくちゃいけないってことなんだよね」

「みたいです」夏乃佳は軽く頷く。「でも、お母さん、なんでそんなことするんですかね?」

 夏乃佳の質問の意図をすぐには読み取れず、緋子は首を傾げる。

 電子レンジが音を立て、パスタが茹だったことを知らせた。緋子は電子レンジを開けて、蛇口じゃぐちに引っ掛けたプラスチック製のザルにパスタを開けた。コンロの火をつけて、再びフライパンを熱し始める。

「えっと、それは――七佳はする必要がない、って言ってる? つまり、そのままでも、そのうち正気に戻るだろう、っていう話をしてるのかな」

「えっと……りゅー君は確かに普通の人間じゃないかもしれないですけど、そもそもそれが何か問題なんでしょうか」

「問題でしょう」緋子は笑いながら言う。「だって、元々のりゅー君とは違う存在になっちゃったわけでしょう? だったら、元に戻さないと」

「でも、りゅー君は、多分りゅー君のままですよ。えっと、いなくなっちゃった子と、今のりゅー君には、特に違いはありません」

「――どういうこと?」

「うんと……説明するの、難しいですね」夏乃佳は困ったようにはにかむ。「言いにくいです」

「出来れば聞かせてほしいんだけど」

「……あの、私は同じような人を何人か見てますけど……」夏乃佳は言いにくそうに、言葉を選ぶ。まるで、緋子に怒られるのを恐れているような表情だった。「今のりゅー君みたいに生きてる人は、他にもいます。でも、みんなそのことに気付いていません。あの、外見も思考も同じなら、偽物だっていいんじゃないですか?」

「いや、良くないでしょう」

「でも……誰も気付かないですよ」

 緋子は眉間みけんしわを寄せる。

 過去にも、夏乃佳とこうした問答をしたことがあったな、と緋子は思い出していた。夏乃佳には基本的に、倫理観りんりかんというものがない。いや、倫理観などというものをそなえる前に、現実的ではない世界を見てしまったから、前提から崩れてしまったのだ。常識を知る前に非常識を知ってしまったから、現実をくことも出来ない。

 もちろん、倫理観が全て正しいとは緋子も思っていない。夏乃佳が、死にたい人間に死ねば良いと言ったり、死後の世界を肯定こうていしたり、善悪の区別を曖昧にすることだって、基本的には止めないようにしている。それは夏乃佳の考え方だと思っているからだ。誰にも、他者の思考を束縛そくばくする権利などはない。緋子と違う考え方をしていても、尊重そんちょうしなければならないタイミングもあるはずだ。

 ――それでも、超えてはならない一線があると、緋子は考えていた。それすらも緋子の思想の押し付けなのかもしれないが――例えば、人を殺してはならないとか、悪事を働いてはいけないとか、そうした基本的な道徳は、自分が導かなければならないと、勝手に思い込んでいた。

 自分がされて嫌なことは他人にはしない。

 究極的には、緋子の思想はそこに行き着く。

 最初に夏乃佳を注意したのは、いつのことだろう。緋子は夏乃佳を見つめながら、思い出そうとする。意識的に、夏乃佳の考え方を改めなければならないと思った時――そう、確か、夏乃佳が小学二年生の頃のことだ。

 当時から、夏乃佳は学校帰りに科学喫茶を訪れていた。当時の夏乃佳は今よりも幼かったので、ベビーシッターという言葉がよく似合った。夏乃佳は昔から同じカウンター席に座っているが、まだ自力では登れなかったのを覚えている。それでもあの席に座ろうとするのは、緋子の作業スペースから一番近いからだ。

 ある夏の日、夏乃佳がいる時間帯に、科学喫茶に親子連れの来客があった。母親と、小学生くらいの息子の二人組だ。息子はランドセルを背負っていて、母親は小綺麗な格好をしていたが、表情はやつれて見えた。参観日か、あるいは面談の帰りのように見えた。

 当時はまだ、夏乃佳は幽霊と人間の区別が曖昧であり、それを口にすることに躊躇ためらいがなかった。だから夏乃佳は、その母親をしばらく眺めた後、今のように緋子に目線を寄越すこともなく、さも当然のように、

「おばちゃん、首絞められてるけど、苦しくないの?」

 と、母親を指差しながら言った。

「え?」首元をさすりながら、母親が聞き返す。

「――ごめんなさい。七佳、変なこと言っちゃダメだよ」緋子は慌てて、夏乃佳の手をつかみ、下ろさせる。「失礼しました。この子、ちょっと変わっていて……」

「でも、大きなおじさんが、おばちゃんの首絞めてて……苦しそうだったから」

 夏乃佳は困ったように言った。幽霊が見えることを主張したいわけではなく、単純に、困っている人を助けたいという、夏乃佳の本能的な行動だった。

「大きなおじさんって、お父さん?」息子が言った。「ねえ、その人、メガネ掛けてる?」

「うん、掛けてるよ」夏乃佳が答える。

 そのやりとりを聞いて、母親は目に見えて狼狽ろうばいしだした。緋子も、これは何かワケがありそうだ――と思い、失礼だとは思いながらも、事情を聞いてみることにした。

 聞き出した話をかなり簡略化かんりゃくかすると――いわく、彼女の夫は、家庭を支えるために働きすぎて、過労死かろうししてしまったのだという。父親が働いて家族を支えるのが当然だという価値観で生きていた彼女は、夫が精神的に限界を迎えているにも関わらず、それを助けようとは思わなかった。自分は家事と育児に追われているのだから、夫を助ける余裕はないと思い、夫の悲鳴に気付こうとさえしなかった。結果的に夫は死に、親子二人が残された。自分が息子を支えなければならない立場になり、ようやく夫の苦しみを理解するようになった――とのことだった。単純な比較など出来ないだろうが、働いて家事をして息子の世話をして――という毎日は、残業続きだった頃の夫と同じかそれ以上の辛さをともなっていた。

 話し終わる頃には、母親は最初に見た時よりも、さらに疲れ切った表情をしていた。

 もし言葉が交わせるのなら、夫に謝りたい、と彼女は言った。親を頼れば良かった。自分の楽しみなど捨てるべきだった。少しでも夫に優しくするべきだった。何故喧嘩ばかりしてしまったのだろう。母親の口からは、後悔の言葉ばかりが繰り出された。

 その話を聞き終えた後で――夏乃佳がこう言った。

「じゃあ、二人で死ねばいいですよ。お父さんとも会えるし、働かなくても済みますよ」

 その価値観を正さなければならないと思ったのが、最初だ。

 緋子の判断基準はなんだっただろう。死を悪だと思っているわけではない。どうしようもなく人生を追われ、死以外の解決策が見つからない場合もある。だが、その時夏乃佳が提示した回答は、緋子には逃げに思えた。苦しみから逃避するための選択。緋子には、正しくは思えなかった。もし、自分と関係する誰かが、人生に行き詰って安易に死に逃げたとしたら――それは嫌だと思った。

 だから止めた。

 自分がされて嫌なことを、他人にしてはいけない。

 同様に、自分がされたら嫌なことを、他人にさせてもいけない。

 元より、夏乃佳にそうなって欲しくなかったのだ。

 何か辛いことがあった時、人生が立ち行かなくなってしまった時、どうしようもない後悔にさいなまれた時――簡単に死を選ぶことで逃げようとしてほしくなかった。

 それは、今回にしても同じことだ。

「七佳、それはちょっと違う」

 ――――現在に戻り、緋子は呟く。

 緋子は出来るだけ、言葉を選ぼうとする。調理の手は止まっていた。コンロの火を止める。パスタはもう一度茹で直そう、と考えた。今はそれよりも大切なことがある。

「違いますか?」

 夏乃佳は、じっと緋子を見た。普段のように、緋子の全てを信頼している目つきとは違う。自分を否定されているのだ、ということを、夏乃佳はきちんと理解しているようだった。それに対する、怯えの表情だ。

「うん。まあ、そういう人もいるかもね――同じならいいやって思う人は、この世にはたくさんいるかも。代替品だいたいひんって言葉があるんだけど、分かる?」

「わからないです」

「偽物みたいな意味かな。私はりゅー君を知らないし、きっと、七佳も本当のりゅー君のことは知らないんだよね」

「はい。昨日初めてお話ししました」

「だから、私たちにとっては、今のりゅー君は本物かもしれない。でも、りゅー君のお母さんや、りゅー君のお友達は、本当の彼を知ってる。それが奪われて、偽物が我がもの顔でりゅー君を騙っているなら、それは許しちゃいけないことだよ」

「でも……本当のりゅー君は、ちゃんといますよ?」

 どういうことだろう、と緋子は考える。本当のりゅー君は、ちゃんといる。つまり、あの子の中に、二人の思想が混在している、という意味だろうか。冬子が言っていた、狐憑きつねつきについて考えてみる。確かに、体は彼の物なのだろうし、思考も完全に消え去ったわけではないのだろう。動物霊どうぶつれいとやらが彼に取り憑いて、主導権しゅどうけんを握っている。

 意識が別物でも、そこにある肉体や思考は、生きている。つまり、そういうことか。

「うん。本当のりゅー君はいるかもしれない。でも、だからってそれは、誰かがりゅー君だって嘘をついていいことにはならないの。七佳は、偽物の七佳が現れて、このお店にずっと居座ってたら……例えばそうだね、私にはあんまりわからない感覚だけど――幽体離脱してる間に、七佳の体が勝手に別の誰かに動かされてたら、嫌じゃない?」

「嫌です」夏乃佳はしっかりと頷いた。「でもそれは、緋子先生には分からないですよ」

「私には分からないかも。他の誰も、きっと気付かないんだろうね。でも……うん」

 緋子は大きく深呼吸をした。

 自分が何を言おうとしているか、今一度、自分の中で確かめる必要があった。

 今この瞬間は、科学や、非科学や、常識や、正義は、置いておくことにした。その上で、夏乃佳という特異性を前提に、話す必要がある。

 七ツ森夏乃佳という人間について。

 その立場や、責任のようなもの。

 冬子が言っていた、キーパーソンの意味について、話しておかなければならないかもしれない。

「七佳にはちょっと難しいことを言うけど、ちゃんと聞いてくれる?」

「はい」

「私や、他の人に分からないことが、七佳には分かる。私たちが普通の人間にしか見えないりゅー君を、七佳はそうじゃないって断言出来る。それを断言して、助けてあげられるのは、七佳にしか出来ないことなんだよ」

「……りゅー君を、助ける」夏乃佳は噛み砕くようにして、その言葉を繰り返した。「どっちの、りゅー君をですか?」

「りゅー君は、りゅー君だけだよ。本物は一人だけ」

「本物……本物って何でしょう」

 夏乃佳は考え込むように、うつむいてしまう。確かに、夏乃佳にとって、本物という考え方はないのかもしれない。緋子が言っている言葉は、実は夏乃佳には難しいのかもしれないな、と思う。

 緋子は少し考えてから、さらに言葉を続ける。

「出来る人がやらなきゃいけないことも、世の中にはあるんだよ。それをやるかどうかの選択は、その人がすればいい。自分とは無関係のことに手を出さずに、安全に暮らすのも、悪いことじゃないと思う。でも私は、七佳には出来れば、自分にしか出来ないことをちゃんと出来る人になって欲しいな、と思ってる。勝手なお願いだけど、七佳には、生きている命の味方でいて欲しい」

 自分で言いながら、緋子は、夏乃佳にはまだ早い言葉だったと気付いていた。

 ――出来る人がやらなきゃいけない。

 それは、大人になって、理不尽りふじん不条理ふじょうりと出会って、初めて意味を成す言葉だ。平等なんていう言葉は幻想だ。誰にだって、得手えて不得手ふえてがある。全員が全員、やりたいことをやれるわけじゃない。研究者としての道を自ら閉ざした緋子のように、理想と現実に折り合いをつける人間はごまんといる。

 そんな中で、無理矢理にでも自分に出来ることを見つけるのが、人生だ。何の能力も持たないただのいち人間が、頑張ったり、あきらめたり、努力したり、くじけたりして、なんとか自分の居場所を見つけようとする。

 夏乃佳には、それが最初からある。生まれつき備わった、霊視れいしという能力――それの真偽しんぎはさておくとしても――能力を与えられた人間には、それを正しく使う義務があるんじゃないかと、凡人ぼんじんの緋子は思ってしまう。

 ねたみでも、そねみでもない。

 出来る人がやらなければ、解決しないこともあるのだ。

 もちろんこんな話、小学生の夏乃佳にはまだ早すぎる。だからきっと、意味が分かるはずもないだろう。人生経験も少なく、人間関係も広くない夏乃佳には、分からなくて当然だ。

 でも、今誰かが言っておかなければならないと、緋子は思った。

 言葉の意味が分かるのが、大人になってからだとしても。

 夏乃佳の頭の片隅に、その理念を置いておかなければならない。

「……でも」

「七佳の言いたいこともわかるよ。全く同じなら、誰もそれに気付かないなら、どっちだって同じことかもね。でも、七佳には分かるんでしょう」

「わかります、けど……」

「わかるなら、七佳が助けてあげなきゃ」

 緋子の発言を聞いて、夏乃佳は再び、俯いてしまった。叱られたと思ったのだろうか。それとも、自分の考えを正されて、落ち込んでしまったのだろうか。

 緋子が不安に思っていると、夏乃佳は小さく、

「どうしても、助けなきゃいけませんか?」

 と、泣きそうな声で言った。

「……どうしても、とは言えない。でも、私は七佳に、そうあって欲しいと思ってる――なんて、ずるい言い方だね。うん、そうだな、私は七佳に、どうしても助けて欲しいのかも」

「それで誰かが傷付いてもですか?」

 誰のことを言っているんだろう。緋子は、顔を上げた夏乃佳を見つめた。泣いてはいないが、今にも泣き出しそうなうるんだ瞳だった。どうしてそこまで意固地いこじになるんだろう。夏川少年のことを言っているのだろうか? でも、彼は人間じゃない。今は、人間じゃなくなってしまっている。ならば、そこに情けをかける必要などないのではないか。

 ──いや、そんなこと、夏乃佳には関係ないか。

 生きていようと死んでいようと、夏乃佳には同じことだ。その価値観は、前提としてなければならない。まだ、夏乃佳の中には、生と死の明確な違いがないのだ。両親も健在で、祖母も生きていると話していた。ペットを飼っていたという話は聞いたことがない。きっと、身近な死をまだ経験していないのだ。あるいは、身近な死を経験したとしても、夏乃佳にとっては大した問題ではないのかもしれない。

 生きていようが、死んでいようが。

 どっちだって良いのかもしれない。

「それで誰かが傷付いたとしても、七佳のせいじゃないよ」

「でも、私は仲良くなれた人が泣いてる姿を見たくありません」

「りゅー君のこと? ……でも、きっと、本物のりゅー君は悲しんでるよ。偽物よりも、本物の方が、優先されるべきだと思うけど」

「でも……私は本物のりゅー君に会ったことがないです」

「りゅー君だけじゃなくて、りゅー君のお母さんや、お父さんや、お友達だって騙されてるし、本当のことを知ったらきっと悲しむ。だからそんなの、許しちゃいけない」

「……でも、みんな気付かずに一緒にいられます。いなくなるより、偽物でも、一緒にいた方が……ずっと幸せですよ」

 なんて言えば良いのか、すぐには分からなかった。

 夏乃佳にとっては、やはり同じなのだ。生きていようと、死んでいようと。人間だろうと、幽霊だろうと。

 だから、親しさだけでしか、優先順位が決められない。

 今目の前にいるものが、全てなのだ。

 けれどそんなのは、正しい選択じゃない。

 少なくとも緋子は、正しくないと思い込みたかった。

「もし私が、りゅー君と同じだったら──」

 自分は何を言おうとしてるのだろう。

 自分のことを制御出来ていないな、と、緋子は遠くで思う。

 あんまり、頭が回っていない。

「──七佳は、本物の私を、見捨てるの?」

 残酷なことを言ったな、と、別の緋子が考えている。

 聞き分けの悪い夏乃佳に、苛立いらだったのだろうか。

 子どもの純真じゅんしんさを利用した発言だ。

 自分の意見が通らなかったことが、不満だったのか?

 まるで自分の方が子どもじゃないか、と緋子は思う。

「そんなことないです!」

 夏乃佳は声を荒げて否定する。

「それは、私と過ごした時間の方が長いから?」

「違います。私は、緋子先生が好きなので、ずっと一緒にお話ししたいです。だから──」

「でも、私が死んでも、七佳には同じなんでしょ」

 言葉を放った瞬間に、大きな後悔が緋子を襲った。慌てて否定しようとするが、言葉が見つからなかった。違う、そういう意味じゃない。じゃあ、どういう意味? 思った通りの言葉を、思った通りのタイミングで放ったんじゃないのか?

 目の前の少女が、声を殺して泣いている。自分が泣かしたのだ。言葉の暴力を振るった。夏乃佳は否定したのに、決め付けた。一番やってはいけないことだった。でも、一度外に出た言葉はもう戻らない。巻き戻せない。取り返せない。

「違う、七佳、ごめん──」

 言い掛けた緋子の言葉を遮るように、夏乃佳は言葉を被せた。

「私は緋子先生が大好きです。大好きな人に悲しんで欲しくないです」

 緋子は、無言で頷いた。目を潤ませながら喋る夏乃佳の言葉以外、音が消えたようだった。

「でも、緋子先生がそう言うなら、私は緋子先生を――」

 夏乃佳がまだ何か言葉を続けようとしたところで、洗面所のドアが開き、夏川少年が姿を見せた。

 緋子は何か言いかけたが、口を閉ざした。大人げない対応をしてしまった、と自責する。夏乃佳はピンと背筋を伸ばし、紙ナプキンで目元をぬぐうと、行儀よく椅子に座り直した。緋子も、それ以上は会話を続けようとはしなかった。ぎこちない笑みを浮かべて、夏川少年を迎え入れる。

「お借りしました」

 夏川少年はそう言った後、再びよじ登るようにして、椅子に座った。

「ちゃんと手は洗った?」夏乃佳はお姉さんぶって尋ねる。「ハンカチも使った?」

「大丈夫。ちゃんと石鹸で洗ったから」

 ものすごくしっかりと手を洗ってきたのだろう。カウンター越しでも、ハンドソープの匂いがするくらいだった。

 緋子が観察する限りでは、彼はよく出来すぎている。よく出来すぎているが故に、不審だ。もし彼が本当に狐憑きの類いだとして、ここまでするだろうか? 人間の体を乗っ取って、その人間を再現することに、何か意味があるのだろうか。

 ――いや、そもそも狐憑きって何だ、と、緋子は自嘲じちょうした。意味が分からない。そんなこと、本当にあり得るのか。

 冬子のことも、夏乃佳のことも、信用はしている。でもやはり、現実的に起こり得るのかという疑問は拭えない。

 夏乃佳にあれだけ偉そうなことを言っておきながら、緋子はやはり、そうした非現実的なことを受けいられない自分がいることに気付く。どこからどう見ても、ただの人間にしか見えない。にも関わらず、夏乃佳は本物ではないと言う。否、だからこそ、夏乃佳だけが分かるなら、救って欲しいと──涙を流させても尚、考えてしまうのだろう。

「おかえり、りゅー君」緋子は言う。「ベーコンエッグ、もう出来てるから、冷めないうちに食べちゃって」

「お姉ちゃんの分は?」

 夏乃佳のことを言っているのだろう。ザルに空けたパスタは、少し時間が経って、ふやけているように感じられる。

「今から作るところ」これは自分で食べよう、と緋子は考えた。「ごめんね七佳。美味しいの作るから、もうちょっと待てる?」

「大丈夫ですよ」夏乃佳は笑顔で言った。何事もなかったような、平然とした笑顔だった。「りゅー君、美味しいうちに食べた方が、美味しいよ」

「うん。じゃあ、いただきます」

 夏川少年は少しだけ躊躇う様子を見せたが、フォークを手に取り、目玉焼きの部分を切り崩した。

 ああ、もう少し話がしたかった、と緋子は思ったが、しかしどうすることも出来ない。夏乃佳にきちんと謝りたかった、とも思ったが、けれど、夏川少年の前で彼の是非について問うことなど、出来るはずもない。

 彼が本物であれ、偽物であれ。

 そんな現象が、実際に起こるのかどうかも分からないままだが、それでも。

「美味しい」夏川少年は笑顔を作り、緋子を見上げる。「ありがとうございます」

「お腹が空いたら、また頼んでね」

 緋子は夏川少年を見つめながら、優しく微笑む。

 やはりどう見たって、ただの人間だ。

 疑う余地など、欠片かけらもない。

 そんな子どもに、自身の存在を疑問視させるような問いかけは、緋子にはとても出来なかった。改めて夏乃佳に謝らなければ――とは思ったが、結局、緋子は普段通りに、問題を先送りにすることを選んだ。

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