第二章

第一話

 翌日、午前十一時。

 モーニングタイムが終了した科学喫茶には平穏へいおんおとずれていた。夏休み中であるため、出社前に朝食を求めて来店する社会人の他にも、これからどこかに遊びに行こうとする家族連れや、若者の姿が目立った。科学喫茶にしては珍しく、二組ほど店内で順番待ちをするほどの忙しさだった。

 幸い、今朝けさ蒼太そうたが家にいた。蒼太は起き抜けに店の様子を一瞥いちべつして、忙しそうだということを把握はあくすると、すぐに接客を手伝い始めた。

 波が去ったあとの店内で、緋子ひこはようやくスツールに腰を下ろし、ぬるくなったアイスコーヒーに口を付けることが出来た。開店からずっと忙しく立ち回っていたが、しばらくは暇になることが予想される。

「落ち着いたかな」

 使用済みの実験器具を食洗器しょくせんきに並べながら、蒼太が言った。

「そうみたい。ありがとね」

「まあ、居候いそうろうみたいなもんだから、手伝うのは全然いいんだけどさ……姉ちゃん、いい加減バイトでもやとえば?」

「人を使うの苦手なんだよね」緋子は大きく伸びをして、ふう、と息をいた。「親しい人間以外は」

「姉ちゃんは昔から、自分で何でもしたがるからなあ」

 蒼太は食洗器のふたを閉めて、ボタンを押した。食洗器の稼働音は、店内のBGMに埋もれ、あまり目立たない。

「蒼太も何か飲む? 作ってあげようか」

「あー……いや、いいや」蒼太は壁掛け時計を一瞥し、首を振る。「これからちょっと出てくるから」

「あそう。また集会ってやつ?」

「だね」

「ふうん。気を付けてね」

 蒼太はミドルエプロンを外して、店内を見渡した。やり残した作業がないかを確認するためだった。空席はきちんと清掃されているし、追加オーダーをしようとする客も見当たらない。抜けてしまっても問題はなさそうだ。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「うん。何時頃帰ってくる?」

「んー、読めないな。まあ、昨日みたいに夜中にまた出ることはないと思うよ。店が終わる前には帰ってくる予定だけど――どうだろ、もうちょい早いかも」

「わかった」

 ミドルエプロンを二階へ続く階段に置いて、蒼太はそのまま裏口から出て行った。身軽なことだ、と緋子は思う。

 階段には段ボールや空きびんなどが放置されていることが多く、乱雑らんざつな印象がある。そこは店内からは見えない位置なので大した問題ではないのだが、緋子はそれがあまり気に入っていなかった。かと言って、スタッフルームのようなものや、倉庫があるわけでもないので、他に物置ものおきにするような場所はない。いな、裏口からすぐの場所に倉庫があるにはあるのだが、緋子が個人ラボに改造しているせいで、物置としては使えない状態だった。そのような理由から、裏口に近い階段に物を置くしかない状況である。何とかしたいと思いながら、もう五年近くそのやり方を継続している。最近、色々なことに対して、先送りにする習慣が身についてしまっているな、と緋子は自責じせきした。自分がいた種に首をめられている状況だ。

 緋子は脚を組み替えて、客が使ったコーヒーフレッシュの残りを三角フラスコに注いだ。ゆらゆらとフラスコを回転させ、アイスコーヒーとフレッシュを混ぜ合わせる。まだ糖分は欲していなかったが、まろやかさのようなものが欲しい気分だった。

 一息ついたら、アイスコーヒーを余分に作っておこうか、と考える。そのあとはどうしようか。今日は夏乃佳かのかは来ないはずだから、退屈しそうだ。誰か話し相手でも来てくれれば良いんだけど――と、緋子が考えていると、ドアベルの音が静かに響いた。

一人ひとり

 人差し指を立てながら、来訪らいほう者が告げた。

 現れたのは七ツ森ななつもり冬子とうこだった。シンプルなパンツスーツ姿で、右手に小さな白いバッグを提げている。相変わらず、一見すると就活生にしか見えないような若々しさ――あるいは幼さが残る顔立ちだった。元々美人ではあったが、老化を感じさせないのどういうわけか。十年近く前から、時が止まっているような気さえする。夏乃佳を産んですぐに劣化れっかが止まったのではないかと、本気で思うほどだ。何度見ても、小学四年生の母親には見えない。

 自分とは一歳違いのはずだが? と、緋子は何度目かになる不満を抱いた。もちろんこれは冬子自身に対する不満ではない。もっと大きな、世界全体に対する不満だった。

 緋子は不満が表面化しないよう、意識的に表情をやわらげて、「どうぞ」と、カウンター席を示した。時計を見て、そういえばこの時間は冬子がよく来る時間帯だったな、ということに気付く。彼女は今日も、通常通りに働いているらしい。

「何にします?」

「緋子が飲んでるような、甘いミルクコーヒー」

 冬子は、緋子の手にある三角フラスコを指差す。

「これは甘くないですけどね」三角フラスコを置いて、緋子は立ち上がる。「なんだか昨日、忙しかったみたいですね」

「ええ、そうなの。うちの人が来たでしょう?」

「はい。久しぶりに真咲まさきさんと話しました。多分、半年ぶりくらいですかね」

 緋子はビーカーに氷を入れてから、ピペットでシロップをはかった。冷蔵庫を開けて、フレッシュの在庫を確認してから、一つ取り出してラップをがす。流れるような動作だった。

「うちの人、迷惑掛けなかった?」

「特には」苦笑しながら緋子が答える。

 ジャグからアイスコーヒーをそそぎ、ガラス棒で数回かき混ぜる。甘さを均一きんいつにするための作業だった。アイスコーヒーの甘さについては、緋子の中にこだわりがあった。そのため、客が勝手にシロップの量を調整することはあり得ない。反面、フレッシュの量に関しては、客の好みに任せている。これについては、緋子が黄金律おうごんりつさだめていないせいだ。

 ガラス棒を抜き取り、ストローを刺して、フレッシュと一緒にカウンターに置いた。

「どうぞ」

「ありがとう。ああそうだ、これ、昨日渡すつもりだったんだけど」

 冬子はバッグから茶封筒ちゃぶうとうを取り出すと、静かにカウンターにすべらせた。

 これは、科学喫茶への前払金だった。七ツ森家の飲食代と、夏乃佳のシッター料が含まれている。詳細な契約を結んでいるわけではないが、隔週かくしゅうで一万円ずつ支払われているため、大体月に二万円くらいもらっている計算になる。これが多いか少ないかという議論は、一度も交わしたことがない。

 緋子は差し出された茶封筒を眺めながら、普段は一万円札を裸のまま受け取っているのに今日はどうして茶封筒なのだろう、と不思議に思った。

「夏のボーナスですか」

 緋子は冗談を口にしながら、茶封筒を受け取り、中身を確認する。と、中には一万円札が二枚、つまり、二万円分が収められていた。本当にボーナスが入っているように見える。

「……これは?」

「ちょっと」冬子は緋子を手招てまねきして、周囲をうかがう。「緋子にね、お願いがあるの」

「なんですか?」

「緋子、行方不明事件のこと、聞いた?」

 行方不明事件。つまり、神隠かみかくしの件についてだろう。そんな予感はしていたが、実際に話題にされると、緋子はなんだかわずらわしい気分になった。

「またその話ですか」

「またって?」

「ああいえ、どうぞ。続けてください」

「あ、うちの人が話したのか」冬子はすぐにそう結論付けて、困り気味に息を吐いた。「本当、口が軽いっていうか、軽率けいそつなのよね、あの人……悪気はないんだろうけど」

「冬子さんが多忙だという話の流れで、そんなことをおっしゃってましたね」緋子は昨日の記憶を辿たどりながら、フォローの言葉を考える。「私が無理に聞き出したような感じなので、あまり責めないであげてください」

「緋子が無理に聞き出さなくても、勝手にしゃべったと思うよ」

「まあまあ」緋子は苦笑した。「えっと、神隠し、でしたよね」

「うん、そうそう、それなんだけど……ちょっと、内密ないみつにお願いしたいことがあるの」

「なんですか?」

「その、行方不明になった子――えっと、緋子、うちの人と話したあと、ニュースとか見た?」

「見ましたよ」最初にニュースを見たのは、正確には真咲と会う前だが、大した問題ではないだろう。「確か、夏川なつかわ君でしたっけ。写真を一枚見ただけですけど、随分ずいぶんと綺麗な子ですよね」

「うん、そう。夏川柳一りゅういち君ね。彼ね、今、うちにいるのよ」

「は」

 発言の意味が理解できず、緋子は変な声を出した。

「冬子さんが犯人だったんですか?」緋子はあえて冗談を口にする。「警察に連絡しましょうか」

「違う、違う……私が誘拐したとか、そういう話じゃないの。えっとねえ……なんて説明したらいいかしら」

「詳しく聞いてもいいですか?」

「ええ。むしろ詳しく聞いて欲しいな。緋子なら、口もかたいしね」

 前置きをしてから、冬子はほとんど緋子に耳打ちするような距離で、説明を始めた。

「事件の概要がいようから説明してもいい?」

「お願いします。正確な方が助かりますね」

「まず、今週の日曜日の午後三時頃に、夏川柳一君が行方不明になった。場所は遠鳴とおなり神社。三日前のことね。で、夏川君が行方不明になったのが分かったのは、同じ日の午後六時。昼過ぎから遊びに出かけていた柳一君が帰って来ないから、夏川君のお母さんが探しに出たみたい。当然、探しに出る前には、よく遊んでた友達の家にも連絡したみたいなんだけど……要領ようりょうを得なかったらしいのね。夏川君と一緒に遊んでた子たちの話だと、五人くらいで集まって遠鳴神社で遊んでたけど、三時頃には解散したっていう話だったの。でも、夏川君がどうやって帰ったかは誰も覚えてなかった」

「覚えてなかった?」

「みんなの意見が食い違っていたみたいね。誰々だれだれと一緒に帰ったはずだ、という子もいるし、一緒に帰ったと思われてた子は、夏川君は一人で帰ったと証言してるみたい」冬子は順番に指を立てながら説明したが、それが何を意味するのかは緋子にはわからなかった。「彼らの話をまとめるとね、正確な事実として浮かんでくるのは、夏川君の存在が確認されたのは、午後三時頃、遠鳴神社が最後だったということなの」

 緋子は無言でうなずく。それで、遠鳴神社で行方不明になったという話になったのだろう。

「警察に連絡が行ったのは、午後七時頃だったみたい。一時間もしないうちに捜索そうさくが開始されたんだけど、結局その日のうちには夏川君は見つからなかった。翌月曜日に報道。これが緋子が見ていたニュースの原型ね。警察も体制をととのえて、捜索範囲はんいは一気に広がった。このタイミングでね、うちの会社にも捜索の協力要請があったの」

「そこ、よくわからないですね」緋子は言う。「昨日真咲さんも言ってたんですけど……今更で恐縮きょうしゅくなんですが、冬子さんの働いているところって、どういう会社なんですか?」

「んー、どういう会社なのかしらね」冬子は首をかしげる。「一応事務所みたいなのがあって、そこに出社して、割り振られた仕事をするっていう感じなんだけど……私、会社勤めの経験がないから、どう言えば人に通じるか、よく分からないのよね。基本的には、警察のお手伝いをする会社かな?」

「なるほど。お話を聞いてもよく分かりませんね」

「不可解な事件があったりすると、警察が大学とかに協力要請したりするじゃない。そういう感じ」と、冬子はあまり一般的ではない前提で話を進める。「あとは、御祓おはらいとか、祈祷きとうとかを専門にする人もいるんだけど――そうね、私は警察関係の仕事が多いかな」

「そんなに多いんですか? 警察からの要請って」

「かなり多いね。うーん……なんて言えばいいかな。緋子には信じられないかもしれないけど、やっぱりこの世界にはね、そういう現象が起こるのよ。非科学的な現象が。だから、行方不明者が出たり、変死体が上がったりすると、一旦連絡が来るようになっているわけ。なんていうか、形式的なことなのよ。霊的なものではないということを断定するのが仕事、みたいな?」冬子はおどけたように言ってみせる。「何か起こると呼び出されて、霊瘴れいしょう――お化けの残りみたいなものがあるんだけど、現場にそういうのがないかをチェックして、これは普通の事件ですね、というのを断定するの。その後は緋子も知っての通り、お寺さんに投げるんだけどね」

「知りませんけど」緋子は真顔で言う。

「まあ、そういうチェックがあるのよ。だからね、月曜日の朝一で呼び出されて、私たちも捜索に加わることになったの。本当は日曜日から動いてる人もいたみたいだけど、私は月曜日から。ほら、私、土日は休みにしてるから」

「つまり、日曜日の段階で、誰かが、霊的な事象だと判断したということですか」

「そうなるね」

「で、冬子さんは――ずっと捜索を続けていたわけですか? この三日間」

 今日は水曜日なので、夏川少年が行方不明になってから三日が経過している計算になる。

「もちろん、四六時中しろくじちゅうじゃないよ。定時になったら家に帰るし――定時が遅いんだけど、まあそれはいいとして――そもそも実際の捜索は、警察やボランティアの人がやるの。私たちは、遠鳴神社を中心に霊瘴の痕跡こんせき辿たどって、怪しそうな場所があったらそれを報告するというような仕事をしてた。昨日の時点でもそうだったの。途中まで」

「途中まで」

「子どもが行方不明になったなんて聞いたら、私も人の親だから、力になりたいとは思うんだけど……他にも仕事があるからね。アパートの一室で心霊現象が起きたので見に来てくださいとか、妖怪雑誌の取材を受けてくださいとか、そういう細々としたスケジュールがあるのよ。昨日も、午前中までは夏川君の仕事の手伝いをして、午後は事務所で別の仕事をしてたの。でもね、急に連絡が入って……夏川君が見つかったって言うわけよ」

「同僚の方が言うわけですか」

「そう。ああそうか、なんで私が呼び出されたのか? と思うわよね、普通。そうだそうだ」

 冬子は何度か頷いて、手刀しゅとうを何度か切った。話を整理する時の冬子のくせだった。

「ええと、私が勤めている会社にはね、社員間でも心霊現象に対する専門があるのよ。で、今回の事件には私が適任だったから、わざわざ呼び出されたの」

 緋子は冬子の話を、半ば創作として聞いていた。よく設定のられた空想物語ファンタジーだな、とすら思いながら、である。

「ちなみに冬子さんの専門って、何なんですか?」

「私はねえ、動物霊どうぶつれい」と、冬子は聞きなれない言葉を発した。「化生けしょうとか、狐憑きつねつきとか、そういうたぐい」

「全然わかりませんね」

「最初ね、夏川君の件は、神隠しだと思われてたのよ」冬子は段々と声量が上がっていた。はたから見ると、親しい友人に愚痴ぐちを吐いているだけのように見える。「神隠しだとワープに関する専門がいるから、その人を中心にやってたんだけど……」

「科学的な話をしてます?」緋子は笑いながら尋ねる。「それ、ワームホールとか、ブラックホールみたいな話ですよね」

「ワープはまあ、科学に近いかな。本当は、陰陽道おんみょうどうとか、単純に『穴』って言ったりするんだけど……でもどうやら、見つかった夏川君は、神隠しじゃなくて、動物霊にかれてる可能性があって……」

 いよいよ話がきな臭くなってきたな、と、緋子はかつての先輩を見つめながら思った。さっぱり話についていけないし、半分以上、何を言っているのか分からない。けれど、話としての面白さはあった。与太話よたばなしとして聞く分には、なかなかに興味深い。

「夏川君ね、昨日の夕方になって突然、遠鳴神社で見つかったらしいの。行方不明になっていたという自覚もなくて、今日が何曜日なのかも分かってないみたいだった。これだけ聞くと、典型的な神隠しなんだけど」

「そういうのが典型的なんですね」

「神隠しってね、時間が飛ぶ感じらしいの。まあ、それで……あまりに受け答えがしっかりしてて、様子が変だからってことで私が様子を見に行って、いくつかの問答をして、どうも怪しい感じがしたから、一時的に預かることになったの」

「そこもよく分かりません」緋子は眉をひそめる。「普通、行方不明者が見つかったなら、病院に連れて行くとか、両親を呼ぶとか、そういう判断がありそうですけど」

「あー、まあ普通はそうよね。でもね、危ないのよ、動物霊って。狐憑きとかだと特に。急に暴れ出したりするし、精神的に不安定だったり――それに、多分まだなり立てで、完璧に人間を演じられるわけでもないから、両親に会わせても、不審がることもあるの。なんかね、自分の子なのに、自分の子じゃないんじゃないかって考えちゃうことがあるみたい。疑心暗鬼ぎしんあんきになって子どもを殺しちゃったっていう事件も、昔はあってね……だからひとまず、観察中なの」

「なり立てだとそうなんですか」

「うん。完全に成り代わると、本人も自分が化生ってことを忘れちゃうからね」

「そうですか」

 実際にそういうことが行われているのなら、そうなのだろう、と緋子は納得することにした。少なくとも、警察には伝わっているのだろうし、子どもの安全が保障ほしょうされているのなら、大きな問題ではないか、とも思う。もちろん、今もまだ心配して探し続けている両親のことを思うと不憫ふびんではあるが、過去に凄惨せいさんな事件があったのだと言われれば、納得する他ない。

「その少年が、今は冬子さんの家に?」

「そう、うちにいるよ」

「なんでですか。危ないじゃないですか」緋子は思わず声量を上げた。「え、七佳なのかと二人で、冬子さんの家にいるってことですか?」

「そうね」

「いや、だって……」言いながら、動物霊とやらの存在を肯定こうていしている自分に気付き、緋子は声をおさえる。「狐憑き? とかいうのは危ないって、冬子さん、ご自身で仰ってましたよね」

「あー、そうね。だけど、夏乃佳は一番大丈夫よ」冬子は笑って言った。「というより、今は夏乃佳に観察してもらっている、の方が正しいかな。私も一応、一回見ればある程度、怪しいかどうかの判断はつくんだけど……夏乃佳の眼は特別製だから、一番安心出来る。一緒に行動してもらって、危険がないかどうかを判断してもらおうと思って」

「いや……どう考えてもおかしいと思いますけど。夏乃佳、十歳ですよね。危険な存在と一緒にしておくのは、やはり危ないのでは?」

「うーん、緋子の言いたいことも分かるよ。でも、多分大丈夫。もし、相手が普通の人間だったとしたら、危ないかもね。でも十中八九普通じゃないから、逆に安心」

「意味がわかりません」

「例えば緋子が幽霊だとして、恨みを持っていたとするよね」

「はい?」

 急な話の転換に、緋子はまた変な声を上げた。

「緋子が何か、とても辛い思いをして死んじゃったとするじゃない。誰かを恨んで死んでしまった。その想いが強くなって、この世に幽霊としてとどまったとするじゃない。想像してみて? 何にも触れることが出来ない、誰とも話すことが出来ない。ただ、恨みを果たすことだけを目的として、食べることも眠ることも出来ない存在として、現世に留まり続けることになったとして――たまに霊感のある人間が自分を見ることが出来たとしても、驚いたり、逃げ惑うだけな時間があるとするじゃない。次第に、人を驚かせることだけが楽しみになっていって、でもそれだけしか楽しみがないっていう――そんな退屈な時間を、過ごすようになったとして」

「はあ」

「夏乃佳はそういう幽霊のことを普通に認識して、普通に応じることが出来るのよ。彼らを、人間と同じ存在として、受け入れることが出来る。差別意識だってないの。ただ目に見えているものを、そのまま受け入れる。言わば、現世うつしよ幽世かくりよを繋ぐキーパーソンみたいなものなのね。そんな貴重な人間に――危害を加えるわけないじゃない?」

 緋子は想像してみるが、自分が幽霊になった状態など、思いえがけるはずもなかった。だが、言われていることは理解出来る。夏乃佳が意志を持った霊体に悪さを働かれたという話は、聞いたことがなかった。

 例えば、夏乃佳が言うには、この科学喫茶にも地縛霊じばくれいがいるらしい。科学喫茶の前にやっていた喫茶店で店主をしていた男の霊だ。彼は夏乃佳と会うのを楽しみにしており、夏乃佳と二人きりになれる時間を特に心待ちにしている、とのことだった。他に楽しみのない時間を過ごす中で、夏乃佳と会うのが唯一の楽しみである――その際に、現店主である緋子の愛想のなさや、杜撰ずさんな在庫管理を指摘してきするのも楽しみの一つらしいが。まあ、有り得ないことでもないのかもしれない。もし自分が同じ立場だったとしたら、どうだろう。話し相手となってくれる夏乃佳を邪険にすることは、冬子の言う通り、ないかもしれない。

「――でも、普通の幽霊と動物じゃあ、別物なんじゃないですか?」

「その辺はまた説明が難しいのよね。動物霊と言っても、動物の幽霊が人間に取り憑いているわけじゃないの。なんて言ったらいいかな……もっと原始的なもの。魂? 生まれなかった命が、人間を間借まがりするっていうか……」

「あ、もう大丈夫です」緋子は手を出して、話をさえぎった。「これ以上聞いても理解出来そうにないです。夏乃佳が安全だということは、信じることにします。というかまあ、冬子さんが判断したのであれば、私が口出しするのはお門違かどちがいですから」

「ううん。心配してくれるのは嬉しいんだけどね」

「で、じゃあ、そろそろ本題に――」と言って、緋子はカウンターに置かれたままの茶封筒に手をえる。「私にお願いというのは?」

「えっとね、だから……夏川君は今、うちにいて、夏乃佳と一緒にいるの。で、しばらくしたらここに来ると思うから、見ていてくれないかなっていうお願い。あと、カウンター席も、二席ふたせき予約したい」

「はあ」

 そんな不気味な話をされて、素直に頷く自信がなかった。だが、嫌だというのは、心霊現象を肯定することでもある。緋子は少しの間逡巡しゅんじゅんして、「……本当に、危険はないんですよね?」と、尋ねる。

「ああそうか。変なこと言っちゃったな。えっとね、動物霊は、基本的には温厚だから、心配ないの。人間と一緒。たまに変な事件を起こす人もいるけど、その程度。割合的には、同じくらい。夏川君に取り憑いたのがが凶暴な霊かもしれないっていうのは、確率で言えば、突然この店に刃物を持った男が入ってくるのと同じくらいまれなことなのよ」

物騒ぶっそうなこと言わないでくださいよ」緋子は困り顔で出入り口を見た。今にも刃物を持った男が現れそうで、不気味に感じる。「まあ、確率の話をされると、一応、納得はしましたけどね。心霊現象の話より、よっぽど説得力がありました」

「緋子にはそう説明した方が分かりやすいよね」当時の後輩を見る目つきで、冬子は微笑ほほえむ。「えっと、だからね? お昼頃に来るように言ってあるから――その、お昼ご飯とかもね、作ってほしいなあ、と思ってるの。昨日の夜からどたばたしてて、お弁当作れなくて。だから、その迷惑料もかねて、これ」

 冬子は茶封筒を指先で叩いた。

「お願い出来る?」

「……わかりました」

 緋子は茶封筒を二つに折って、白衣のポケットに入れた。不気味なことには変わりがないが、不思議なことに、夏乃佳がいるなら平気だろう、という漠然とした予感もあった。それはある意味、冬子の言う通りの事象でもあった。現世と幽世を繋ぐキーパーソンである夏乃佳がいれば、危険はないと感じられる。

「ありがとうね、緋子。落ち着いたら、改めてお礼をするから」

「仕事ですから、気にしないでください」緋子は白衣のポケットを叩いた。「でも……話を聞いてると、少年を保護するなら冬子さんは仕事を休んでも致し方ない気がするんですが。今日も仕事に行くんですか?」

「神隠しとは別件で、仕事があるの。困ったことに」冬子は本当に困った様子で、深く息を吐いた。「これ、昨日途中ですっぽかしちゃった用事なのよね。これがなければ、二人と一緒にいられるんだけど……でも、こっちの都合ですっぽかしたから、これ以上延期するのも悪いし、今やっておかないと、来週は夏季休暇に入っちゃうから……」

 冬子はぎゅっと目を閉じて、眼鏡を外した後、考え込むように目頭めがしらんだ。

「夏乃佳ね、来週の夏休みのこと、すっごく楽しみにしてるのよ。だから、来週だけは死守しないといけなくてさ」

「ああ……なんか、大変そうですね」

「大変なのよ」冬子は言って、薄く笑う。「悪いとは思ってるのよ、夏乃佳にも、緋子にも……あの人にもね」

 緋子はなんだかいたたまれなくなり、ミルクコーヒーを口に含んだ。冬子にも、色々あるのだろう。学生時代から、冬子の真面目さと思慮深しりょぶかさはよく知っているつもりだ。そんな彼女が判断したことなのだから、自分があれこれと口を出すべきではないのかもしれない。

「とにかく、様子は見ておきます。普段、七佳を見ているのと同じような感じでいいんですよね」

「ええ、お願い。悪いわね」

「大丈夫です」緋子は頷いて、「夏休み、楽しみですね」と言った。

「本当、とっても楽しみ。久しぶりに、親子三人でお出かけだもの」

 冬子は遠い目をしながら言って、ストローに口を付けた。

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