第二章
第一話
翌日、午前十一時。
モーニングタイムが終了した科学喫茶には
幸い、
波が去ったあとの店内で、
「落ち着いたかな」
使用済みの実験器具を
「そうみたい。ありがとね」
「まあ、
「人を使うの苦手なんだよね」緋子は大きく伸びをして、ふう、と息を
「姉ちゃんは昔から、自分で何でもしたがるからなあ」
蒼太は食洗器の
「蒼太も何か飲む? 作ってあげようか」
「あー……いや、いいや」蒼太は壁掛け時計を一瞥し、首を振る。「これからちょっと出てくるから」
「あそう。また集会ってやつ?」
「だね」
「ふうん。気を付けてね」
蒼太はミドルエプロンを外して、店内を見渡した。やり残した作業がないかを確認するためだった。空席はきちんと清掃されているし、追加オーダーをしようとする客も見当たらない。抜けてしまっても問題はなさそうだ。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
「うん。何時頃帰ってくる?」
「んー、読めないな。まあ、昨日みたいに夜中にまた出ることはないと思うよ。店が終わる前には帰ってくる予定だけど――どうだろ、もうちょい早いかも」
「わかった」
ミドルエプロンを二階へ続く階段に置いて、蒼太はそのまま裏口から出て行った。身軽なことだ、と緋子は思う。
階段には段ボールや空き
緋子は脚を組み替えて、客が使ったコーヒーフレッシュの残りを三角フラスコに注いだ。ゆらゆらとフラスコを回転させ、アイスコーヒーとフレッシュを混ぜ合わせる。まだ糖分は欲していなかったが、まろやかさのようなものが欲しい気分だった。
一息ついたら、アイスコーヒーを余分に作っておこうか、と考える。そのあとはどうしようか。今日は
「
人差し指を立てながら、
現れたのは
自分とは一歳違いのはずだが? と、緋子は何度目かになる不満を抱いた。もちろんこれは冬子自身に対する不満ではない。もっと大きな、世界全体に対する不満だった。
緋子は不満が表面化しないよう、意識的に表情を
「何にします?」
「緋子が飲んでるような、甘いミルクコーヒー」
冬子は、緋子の手にある三角フラスコを指差す。
「これは甘くないですけどね」三角フラスコを置いて、緋子は立ち上がる。「なんだか昨日、忙しかったみたいですね」
「ええ、そうなの。うちの人が来たでしょう?」
「はい。久しぶりに
緋子はビーカーに氷を入れてから、ピペットでシロップを
「うちの人、迷惑掛けなかった?」
「特には」苦笑しながら緋子が答える。
ジャグからアイスコーヒーを
ガラス棒を抜き取り、ストローを刺して、フレッシュと一緒にカウンターに置いた。
「どうぞ」
「ありがとう。ああそうだ、これ、昨日渡すつもりだったんだけど」
冬子はバッグから
これは、科学喫茶への前払金だった。七ツ森家の飲食代と、夏乃佳のシッター料が含まれている。詳細な契約を結んでいるわけではないが、
緋子は差し出された茶封筒を眺めながら、普段は一万円札を裸のまま受け取っているのに今日はどうして茶封筒なのだろう、と不思議に思った。
「夏のボーナスですか」
緋子は冗談を口にしながら、茶封筒を受け取り、中身を確認する。と、中には一万円札が二枚、つまり、二万円分が収められていた。本当にボーナスが入っているように見える。
「……これは?」
「ちょっと」冬子は緋子を
「なんですか?」
「緋子、行方不明事件のこと、聞いた?」
行方不明事件。つまり、
「またその話ですか」
「またって?」
「ああいえ、どうぞ。続けてください」
「あ、うちの人が話したのか」冬子はすぐにそう結論付けて、困り気味に息を吐いた。「本当、口が軽いっていうか、
「冬子さんが多忙だという話の流れで、そんなことを
「緋子が無理に聞き出さなくても、勝手に
「まあまあ」緋子は苦笑した。「えっと、神隠し、でしたよね」
「うん、そうそう、それなんだけど……ちょっと、
「なんですか?」
「その、行方不明になった子――えっと、緋子、うちの人と話したあと、ニュースとか見た?」
「見ましたよ」最初にニュースを見たのは、正確には真咲と会う前だが、大した問題ではないだろう。「確か、
「うん、そう。夏川
「は」
発言の意味が理解できず、緋子は変な声を出した。
「冬子さんが犯人だったんですか?」緋子はあえて冗談を口にする。「警察に連絡しましょうか」
「違う、違う……私が誘拐したとか、そういう話じゃないの。えっとねえ……なんて説明したらいいかしら」
「詳しく聞いてもいいですか?」
「ええ。むしろ詳しく聞いて欲しいな。緋子なら、口も
前置きをしてから、冬子はほとんど緋子に耳打ちするような距離で、説明を始めた。
「事件の
「お願いします。正確な方が助かりますね」
「まず、今週の日曜日の午後三時頃に、夏川柳一君が行方不明になった。場所は
「覚えてなかった?」
「みんなの意見が食い違っていたみたいね。
緋子は無言で
「警察に連絡が行ったのは、午後七時頃だったみたい。一時間もしないうちに
「そこ、よくわからないですね」緋子は言う。「昨日真咲さんも言ってたんですけど……今更で
「んー、どういう会社なのかしらね」冬子は首を
「なるほど。お話を聞いてもよく分かりませんね」
「不可解な事件があったりすると、警察が大学とかに協力要請したりするじゃない。そういう感じ」と、冬子はあまり一般的ではない前提で話を進める。「あとは、
「そんなに多いんですか? 警察からの要請って」
「かなり多いね。うーん……なんて言えばいいかな。緋子には信じられないかもしれないけど、やっぱりこの世界にはね、そういう現象が起こるのよ。非科学的な現象が。だから、行方不明者が出たり、変死体が上がったりすると、一旦連絡が来るようになっているわけ。なんていうか、形式的なことなのよ。霊的なものではないということを断定するのが仕事、みたいな?」冬子はおどけたように言ってみせる。「何か起こると呼び出されて、
「知りませんけど」緋子は真顔で言う。
「まあ、そういうチェックがあるのよ。だからね、月曜日の朝一で呼び出されて、私たちも捜索に加わることになったの。本当は日曜日から動いてる人もいたみたいだけど、私は月曜日から。ほら、私、土日は休みにしてるから」
「つまり、日曜日の段階で、誰かが、霊的な事象だと判断したということですか」
「そうなるね」
「で、冬子さんは――ずっと捜索を続けていたわけですか? この三日間」
今日は水曜日なので、夏川少年が行方不明になってから三日が経過している計算になる。
「もちろん、
「途中まで」
「子どもが行方不明になったなんて聞いたら、私も人の親だから、力になりたいとは思うんだけど……他にも仕事があるからね。アパートの一室で心霊現象が起きたので見に来てくださいとか、妖怪雑誌の取材を受けてくださいとか、そういう細々としたスケジュールがあるのよ。昨日も、午前中までは夏川君の仕事の手伝いをして、午後は事務所で別の仕事をしてたの。でもね、急に連絡が入って……夏川君が見つかったって言うわけよ」
「同僚の方が言うわけですか」
「そう。ああそうか、なんで私が呼び出されたのか? と思うわよね、普通。そうだそうだ」
冬子は何度か頷いて、
「ええと、私が勤めている会社にはね、社員間でも心霊現象に対する専門があるのよ。で、今回の事件には私が適任だったから、わざわざ呼び出されたの」
緋子は冬子の話を、半ば創作として聞いていた。よく設定の
「ちなみに冬子さんの専門って、何なんですか?」
「私はねえ、
「全然わかりませんね」
「最初ね、夏川君の件は、神隠しだと思われてたのよ」冬子は段々と声量が上がっていた。
「科学的な話をしてます?」緋子は笑いながら尋ねる。「それ、ワームホールとか、ブラックホールみたいな話ですよね」
「ワープはまあ、科学に近いかな。本当は、
いよいよ話がきな臭くなってきたな、と、緋子はかつての先輩を見つめながら思った。さっぱり話についていけないし、半分以上、何を言っているのか分からない。けれど、話としての面白さはあった。
「夏川君ね、昨日の夕方になって突然、遠鳴神社で見つかったらしいの。行方不明になっていたという自覚もなくて、今日が何曜日なのかも分かってないみたいだった。これだけ聞くと、典型的な神隠しなんだけど」
「そういうのが典型的なんですね」
「神隠しってね、時間が飛ぶ感じらしいの。まあ、それで……あまりに受け答えがしっかりしてて、様子が変だからってことで私が様子を見に行って、いくつかの問答をして、どうも怪しい感じがしたから、一時的に預かることになったの」
「そこもよく分かりません」緋子は眉を
「あー、まあ普通はそうよね。でもね、危ないのよ、動物霊って。狐憑きとかだと特に。急に暴れ出したりするし、精神的に不安定だったり――それに、多分まだなり立てで、完璧に人間を演じられるわけでもないから、両親に会わせても、不審がることもあるの。なんかね、自分の子なのに、自分の子じゃないんじゃないかって考えちゃうことがあるみたい。
「なり立てだとそうなんですか」
「うん。完全に成り代わると、本人も自分が化生ってことを忘れちゃうからね」
「そうですか」
実際にそういうことが行われているのなら、そうなのだろう、と緋子は納得することにした。少なくとも、警察には伝わっているのだろうし、子どもの安全が
「その少年が、今は冬子さんの家に?」
「そう、うちにいるよ」
「なんでですか。危ないじゃないですか」緋子は思わず声量を上げた。「え、
「そうね」
「いや、だって……」言いながら、動物霊とやらの存在を
「あー、そうね。だけど、夏乃佳は一番大丈夫よ」冬子は笑って言った。「というより、今は夏乃佳に観察してもらっている、の方が正しいかな。私も一応、一回見ればある程度、怪しいかどうかの判断はつくんだけど……夏乃佳の眼は特別製だから、一番安心出来る。一緒に行動してもらって、危険がないかどうかを判断してもらおうと思って」
「いや……どう考えてもおかしいと思いますけど。夏乃佳、十歳ですよね。危険な存在と一緒にしておくのは、やはり危ないのでは?」
「うーん、緋子の言いたいことも分かるよ。でも、多分大丈夫。もし、相手が普通の人間だったとしたら、危ないかもね。でも十中八九普通じゃないから、逆に安心」
「意味がわかりません」
「例えば緋子が幽霊だとして、恨みを持っていたとするよね」
「はい?」
急な話の転換に、緋子はまた変な声を上げた。
「緋子が何か、とても辛い思いをして死んじゃったとするじゃない。誰かを恨んで死んでしまった。その想いが強くなって、この世に幽霊として
「はあ」
「夏乃佳はそういう幽霊のことを普通に認識して、普通に応じることが出来るのよ。彼らを、人間と同じ存在として、受け入れることが出来る。差別意識だってないの。ただ目に見えているものを、そのまま受け入れる。言わば、
緋子は想像してみるが、自分が幽霊になった状態など、思い
例えば、夏乃佳が言うには、この科学喫茶にも
「――でも、普通の幽霊と動物じゃあ、別物なんじゃないですか?」
「その辺はまた説明が難しいのよね。動物霊と言っても、動物の幽霊が人間に取り憑いているわけじゃないの。なんて言ったらいいかな……もっと原始的なもの。魂? 生まれなかった命が、人間を
「あ、もう大丈夫です」緋子は手を出して、話を
「ううん。心配してくれるのは嬉しいんだけどね」
「で、じゃあ、そろそろ本題に――」と言って、緋子はカウンターに置かれたままの茶封筒に手を
「えっとね、だから……夏川君は今、うちにいて、夏乃佳と一緒にいるの。で、しばらくしたらここに来ると思うから、見ていてくれないかなっていうお願い。あと、カウンター席も、
「はあ」
そんな不気味な話をされて、素直に頷く自信がなかった。だが、嫌だというのは、心霊現象を肯定することでもある。緋子は少しの間
「ああそうか。変なこと言っちゃったな。えっとね、動物霊は、基本的には温厚だから、心配ないの。人間と一緒。たまに変な事件を起こす人もいるけど、その程度。割合的には、同じくらい。夏川君に取り憑いたのがが凶暴な霊かもしれないっていうのは、確率で言えば、突然この店に刃物を持った男が入ってくるのと同じくらい
「
「緋子にはそう説明した方が分かりやすいよね」当時の後輩を見る目つきで、冬子は
冬子は茶封筒を指先で叩いた。
「お願い出来る?」
「……わかりました」
緋子は茶封筒を二つに折って、白衣のポケットに入れた。不気味なことには変わりがないが、不思議なことに、夏乃佳がいるなら平気だろう、という漠然とした予感もあった。それはある意味、冬子の言う通りの事象でもあった。現世と幽世を繋ぐキーパーソンである夏乃佳がいれば、危険はないと感じられる。
「ありがとうね、緋子。落ち着いたら、改めてお礼をするから」
「仕事ですから、気にしないでください」緋子は白衣のポケットを叩いた。「でも……話を聞いてると、少年を保護するなら冬子さんは仕事を休んでも致し方ない気がするんですが。今日も仕事に行くんですか?」
「神隠しとは別件で、仕事があるの。困ったことに」冬子は本当に困った様子で、深く息を吐いた。「これ、昨日途中ですっぽかしちゃった用事なのよね。これがなければ、二人と一緒にいられるんだけど……でも、こっちの都合ですっぽかしたから、これ以上延期するのも悪いし、今やっておかないと、来週は夏季休暇に入っちゃうから……」
冬子はぎゅっと目を閉じて、眼鏡を外した後、考え込むように
「夏乃佳ね、来週の夏休みのこと、すっごく楽しみにしてるのよ。だから、来週だけは死守しないといけなくてさ」
「ああ……なんか、大変そうですね」
「大変なのよ」冬子は言って、薄く笑う。「悪いとは思ってるのよ、夏乃佳にも、緋子にも……あの人にもね」
緋子はなんだかいたたまれなくなり、ミルクコーヒーを口に含んだ。冬子にも、色々あるのだろう。学生時代から、冬子の真面目さと
「とにかく、様子は見ておきます。普段、七佳を見ているのと同じような感じでいいんですよね」
「ええ、お願い。悪いわね」
「大丈夫です」緋子は頷いて、「夏休み、楽しみですね」と言った。
「本当、とっても楽しみ。久しぶりに、親子三人でお出かけだもの」
冬子は遠い目をしながら言って、ストローに口を付けた。
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