第四話

「あれ、もう店じまい?」

 科学喫茶の裏口が開き、蒼太そうたが顔を出した。

 時刻は午後七時になる前だったが、科学喫茶はすでに閉店していた。店内に客の姿はなく、緋子ひこが一人で後片付けをしているだけである。

「ああ、おかえり蒼太」

「ただいま。今日は閉めるの早いね――ああ、七佳なのかがいないからか」

 蒼太は早口で言ったあと、二階には上がらずに、そのまま喫茶スペースにやってきた。閉店後の科学喫茶にはBGMが掛かっておらず、店内には妙な静けさが充満していた。

 蒼太は細身のジーンズに、シャツを一枚着ているだけの簡素かんそな服装だった。インナーさえ身に着けていないが、目立った不自然さはない。スタイルが良いせいか、何を着ていても見栄みばえする印象があった。背が高いというのは、それだけでアドバンテージとなりる。

 緋子も女性にしては身長が高い方だが、蒼太とは二十センチくらいの身長差があった。姉弟きょうだいでどうしてここまで体格や外見に差が出るのかと、緋子はたまに思う。年齢も三つしか違わないのに、蒼太の外見は、五年前に再会した時からほとんど変わっているようには見えない。大学生だと言っても通るだろう。

「今日はどこ行ってたの。朝早くからいなかったみたいだけど」

「ああ、ちょっとね、例の集会があってさ」

「昨日もそうじゃなかった? ……毎回思うけど、なんか不穏ふおんな響きだよね、集会って」

「犯罪組織とか、そういう怪しい集団じゃないから安心してよ。友達と遊びに行ってた、くらいの認識でいいから。仲間内でそう呼んでるだけ」蒼太は話しながら、カウンターに座る。「さてと。何か手伝おうか?」

「手伝う気があるなら座らないでくれる」

「いやあ、色々あって疲れちゃってさ。ちょっとだけ休憩」

「あそう。じゃあなんか飲む? 作ってあげようか」

「んー……水でいいや。勝手にもらうね」蒼太は言って、椅子に座ったままで器用きよう浄水器じょうすいきから水をんだ。「いやあ、困ったことにさ、あとでまた出かけなくちゃいけないんだよね。夜遊びしてくることになっちゃった」

「そうなの? 珍しいね」

「ま、たまにはそんな日もあるよ」

 弟の行動に対して、あまり干渉かんしょうするつもりはないし、口うるさく言う気もなかったが、緋子はその珍しさを少しだけ不思議に思った。

 蒼太は普段から、ふらっとどこかに消えて、ふらっと帰ってくるような生活をしている。だが、夜間に姿を消すことはほとんどない。遅くとも午後八時までには家に帰ってくるのがつねだった。朝早くに出て夕方頃に帰ってくると考えれば、不在時間は学生や社会人とあまり変わらない。だからこそ、緋子は蒼太の行動をそこまで心配しているわけではないし、うたがっているわけでもないのだが――そうした日常とは別のところで、緋子は数ヶ月前から、蒼太に対して少しだけ不穏な空気を感じていた。いや――思えば蒼太と再会した時から、不思議に思う部分はあった。だが、日々を過ごすうちに、蒼太の存在が当たり前になっていって、そうした不思議さを忘れるようになっていった。

 科学喫茶をオープンしてから五年が経った今となっては、二人を知る客からは、緋子と蒼太はすっかり仲の良い姉弟だという認識を受けている。だが、もともとそれほど仲が良かったわけではない。それなのに何故か、緋子自身、そういった過去を忘れていた。否、思い出そうとさえしなかった。

 蒼太には中学二年生の頃、車にかれて大怪我をった過去がある。蒼太が中学二年生ということは、緋子はその当時、高校二年生だったはずだ。しかし、緋子はその時のことを、ほとんど記憶していなかった。それを記憶していないということさえ、ほんの少し前まで忘れていたのだ。衝撃的な事件が起こったために一時的な記憶きおく喪失そうしつにでもなったのではないかとも思ったが、あまりにも部分的に記憶がなくなっていたために、ここ数ヶ月、ずっと不審ふしんに思っている。あんなに大きな出来事を、どうして忘れていたのか。普通なら考えられない。

 蒼太本人に当時のことを聞いても、はぐらかされるだけで、何も答えてくれない。ねんのため、母親にも当時のことについて電話で質問したが、「あー、あったあった。緋子、あの時大変だったわよね」などという、要領ようりょうを得ない返答があるだけだった。

 蒼太に対して何を疑っているのか、緋子自身もよく分かっていないところがある。蒼太は蒼太であり、目の前に確かに存在している。そこには何の疑いもない。だが、言語化出来ない違和感のようなものが、そこかしこに浮遊ふゆうしている感覚もあった。これはもう、感覚的としか言いようがないものだ。

 二人が小さい頃の関係は、平均的な姉弟よりも希薄きはくだったと言える。大人しい姉と、やんちゃな弟。蒼太の行き過ぎた行動をいさめることはあっても、積極的に注意するほどではない。姉としての責任感のようなものは感じていたが、幼いころから、お互いに別の人間なのだという意識が緋子にはあった。

 事故の一件からしばらくの間、同じ家で暮らしていたはずなのに、緋子の中からは蒼太に関する記憶が抜け落ちていた。まさに、消えてしまったと表現すべき忘却ぼうきゃくの仕方である。凄惨せいさんな事故から目をそむけたのか、現在の平穏によって薄れてしまったのか。いずれにせよ、事故にう前後の蒼太の記憶は、緋子の中には残っていなかった。

 ――反面、それ以降の緋子自身の人生に対する記憶は、それなりにきちんと残っている。それが余計に不思議だった。

 緋子は高校二年生の二学期には既に薬学やくがくの道に進むことを決めていた。子どもの頃には馴染なじみのなかった薬を日常的に飲まなければならなくなった時期があり、どうして薬を飲むと体調が良くなるのか? ということを考えたのが切っ掛けだった。将来の夢や明確な進路を持っていなかった緋子は、突如とつじょ芽生めばえたその目標に夢中になった。受験勉強もまわりより早く始めていたし、授業外でも積極的に化学教師に質問していた。部活動にも所属していなかったし、友達と遊ぶ時間も減っていった。青春時代のほとんどを、勉強にささげたと言っていい。高校は実家から通っていたが、家族と過ごした記憶も、夕飯を一緒に食べるくらいのものだ。ひたすら勉強に打ち込み、休日ももっぱら、図書館か学校にいた。

 希望していた大学に合格し、一人暮らしをすることが決まってからは、緋子と家族の交流は本格的に途絶とだえることになった。父親が引越の手伝いのために、緋子が一人暮らしをするアパートまでついてきてくれた記憶はあったが、それくらいだ。自分の希望で県外に出ていたので、両親に負担をかけまいと、緋子はすぐにアルバイトを始めた。学費に関しては頼っていたが、生活費は自分で稼ごうという強い意志があった。勉学に労働に、多忙な日々を送っていた。生きるのは大変だということを、身をもって実感した時期だった。だから長期休暇があっても、緋子はバイトに明け暮れ、実家には帰らなかった。大学生活の中で、一度も帰った記憶がない。サークル活動などにも参加しなかったし、交友関係もせまかった。大学生活のほとんどの時間を、先輩の冬子とうこと過ごしていたように記憶している。暇な時間もほとんど、冬子に誘われるがままについていった。何度か、異性と過ごした記憶もあるが、もはや相手のフルネームも思い出せないくらい、記憶は枯れている。

 その間、蒼太と顔を合わせた記憶はない。自分の人生を生き抜くのに精一杯であったし、もともと、親戚しんせき付き合いの多い家庭でもなかったから、帰省きせいしないことに対して両親からうるさく言われることもなかった。冠婚葬祭かんこんそうさいも、参加した覚えはない。当時から今まで、週に一度のペースで実家に電話を掛けてはいたが、話し相手の九割は母親だった。残り一割は父親である。蒼太と話した記憶はない。

 緋子が学生の頃は、まだ薬学部は四年制だった。先輩の冬子が博士課程に進まずに卒業してしまったため、自分の進路にも悩む時期があったが、懇意こんいにしていた教授になかば強制的に博士課程を勧められたため、そちらにかじを切った。学費や生活費の問題もあったのだが、両親は「学費のことは心配しなくていい」というだけで、大きな反対もしなかった。二人も子どもがいるのに本当に大丈夫なのか? という疑問もあったが、研究が好きだった緋子は両親に甘えることにし、さらに四年間大学に在籍した。花嫁修業と称してバイトをしながらふらふらしていた冬子とはその後もいくらか付き合いがあったが、翌年に冬子と真咲が結婚してからは、緋子はほとんど大学とバイト先を往復するだけの日々を過ごすようになった。

 二人が結婚した翌年、冬子が妊娠し、さらにその翌年に夏乃佳が生まれた。真咲はまだ研修医二年目だったが、家庭はなんとか機能していたようだ。緋子も何度か顔を見に行ったり、二人の羽を伸ばすために赤ん坊の夏乃佳と留守番をしたりしたこともあったが、頻度ひんどはそれほど高くなかった。少しずつ、自分と冬子はお互いが別の人生を歩んでいて、このまま距離が離れていくのだろうな、と感じたことを覚えている。

 四年間の博士課程を終えたあとは、再び教授に半ば強制的に斡旋あっせんしてもらう形で、大きな関門もくぐらずに、製薬会社の研究職に就くことになった。そのため緋子は、いわゆる就職活動とは無縁むえんだった。教授のコネクションが強力だったのか、緋子の能力がすぐれていたのかは分からない。だがとにかく、緋子は流されるようにして製薬会社に入社し、働き始めた。大学と同じ県内にある企業であったため、引越をする必要もなかった。思えば、博士課程を終えてから仕事が始まるまでの間が、緋子の人生の中で、一番自由な時間だったと言える。暇にかして夏乃佳の様子を見に行き、「ひーちゃん」と呼ばれていた頃だ。当時はまだ幽体離脱体質のことなど知らなかったので、よく寝落ちする赤ん坊だと思っていた。

 緋子の就職が決まった時は、流石に両親と会食かいしょくをしたが、両親がこちらに出向く形になったため、帰省はしなかった。その時も、蒼太は参加していた記憶はない。姉の就職祝いに来ないなんて、とは思ったものの、別にいなくてもいいか、と思う程度の希薄な関係だった。

 製薬会社に就職後、一年、二年と忙殺ぼうさつされるように働くうちに、緋子は将来について深く考えるようになった。一人で生きていくためには、人生の目的というか、生きる上での目標が必要だった。自社で薬を開発して特許を取り研究者として名をせるのか、あるいはブロックバスターと呼ばれる従来の常識をくつがえすような新薬の開発を目指すのか。三十代を目前にする頃をさかいに、緋子は自分のやりたいことについての探求たんきゅうを始めるようになるが、どれも現実的とは思えず、日々の忙しさの中に埋もれていくばかりだった。

 そして、仕事に追われながら夢を想い描くうちに、ふっと、「毎日美味しい珈琲が飲みたいなあ」という欲求に駆られた。それは本当に、突然発生した思想だった。

 大学に入ってからほぼ毎日飲んでいた珈琲だったが、そう言えば美味しいと思って飲んでいないな、ということに気付いたのだ。逆に、美味しい珈琲ってこの世に存在するのだろうか? とさえ思った。どこに行けば、美味しい珈琲が飲めるのだろう。

 緋子はその頃になって、ようやく喫茶店というものを意識的に利用するようになった。学生の頃から足を運んではいたが、目的は時間潰しや待ち合わせであり、珈琲を飲むことではなかった。

 仕事帰りに遅くまで営業しているチェーンの珈琲専門店に入り、ハウスブレンドを頼んだ。意識して珈琲を味わった時の感動は、筆舌ひつぜつにしがたい。今まで、ただなんとなく喉のかわきをうるおすために飲んでいた珈琲とは、比べものにならなかった。ただ消費されるだけの今までの珈琲は、まるで自分の今までの人生のようだ、とまで思うほどだった。それは忙しさを忘れるための逃避とうひ行為だったのかもしれないが、人生や仕事や人間関係に押し潰されそうだった緋子にとって、ようやく見つけた心の平穏へいおんだった。

 いくつかの喫茶店を渡り歩き、休日には遠出までして、美味しいと評判の珈琲を飲むようになった。そして、「ああ、確かに美味しい珈琲というものはこの世に存在するらしい」ということを認めるに至った。豆の種類を知り、焙煎ばいせんの工程を知り、サイフォン式のコーヒーメーカーがあることも、その頃に初めて知った。サイフォンの原理については当然知っていたが、その原理を利用して珈琲をれることを緋子は知らなかった。

 緋子は次第に珈琲の魔力に魅了みりょうされるようになり、自分で豆を厳選げんせんしたり、器具を揃えたり、自家焙煎にもチャレンジするようになった。会社にも、自家製の珈琲を魔法瓶まほうびんに入れて持ち込むようになった。

 次第に持ち込む量が増え、同僚どうりょうにも分け与えて喜ばれるようになると、なんだか、自分はこっちの方が向いているんじゃないかな、と思うようになった。研究者としてやとわれていても、自由な研究は出来るわけではない。当たり前のことだ。予算は下りないし、研究以外にもやるべき仕事がたくさんある。男女平等が叫ばれていても、えらくなるのは男ばかりだ。女の自分が意見を通せるようになるとはとても思えない。自分が研究している薬が、一体誰を幸せにしているのかもよく分かっていない。顔の見えない誰かのために身をにするくらいだったら、すぐ目の前の誰かを幸せにした方が、自分も幸せになれるんじゃないだろうか……。

 もし、自分が美味しいと思える珈琲を誰かに届け、その人が喜んでくれる姿を見られたら、どんなに充実した人生になるだろうか――

 逃避から生まれた輝かしさは、無味乾燥むみかんそうな日々を送る緋子にとっては、この上なく魅力的に思えてしまった。

 自分の店を持つことに決めてから、緋子は研究者としての人生にみずかまくろした。貯金の目標額を設定し、目標額に達したら会社を辞める決意を固めた。八年間も高い学費を払い続けてくれた両親には何度も何度も謝ったが、「緋子が決めたことならいいんじゃない」と軽く言われるだけだった。仕事を斡旋してくれた教授にも特に深く非礼ひれいびたが、彼もあっさりしたもので、「オープンしたら教えてくれ。常連になる」と言うだけだった。

 製薬会社を退職したあと、約一年間、緋子は自営の喫茶店でアルバイトをしながら技術を学んだ。一年間の修行で珈琲作りの腕前が変わるとは思わなかったので、どちらかと言えば経営のノウハウを学ぶための期間だった。その間に喫茶店を経営するために必要な資格を取り、事業計画をまとめ、店舗や仕入しいれ先を探し、融資ゆうしをしてもらうための事業じぎょう計画を立て、何度も銀行へ足を運んだ。

 喫茶店を開く場所はどこでもいいと考えていたが、運良く、当時暮らしていた市内に居抜いぬき物件が見つかり、教授が通える範囲だということもあって、恩返しのつもりでそこに決めた。改めて教授に伝えに行くと、「あの辺かあ。じゃあ基本的にはテイクアウトだな。紙カップ用意しとけよ」と言われただけだった。

 緋子は既に三十代に突入していた。飲食店を経営するにしては若すぎるくらいだったが、そこには緋子本人にしか分からない、年齢的なあせりはあったように思う。結婚や出産への焦りもあるにはあったが――それをはいしてでも、喫茶店を経営したいという強い欲求があった。

 そして緋子がアルバイトを辞め、店舗を借りる契約を結び、貯金を切り崩しながら地道に開店準備を進めているところに――

 弟の蒼太は、ふらりと現れた。

「うーっす。姉ちゃん久しぶり。へえ、マジで喫茶店やるんだ?」

「うわ。誰ですか?」

 まだオープンしていない科学喫茶に勝手に入り込んだ蒼太は、驚きのあまり硬直している緋子を無視して、店内を見渡しながら「いい感じの店じゃん」などと言う。

「……あの、どなたですか?」

「え、俺だよ姉ちゃん。嘘、まさか弟の顔忘れた?」

「――え? 嘘? 蒼太? なんで?」

「いや、姉ちゃんが楽しそうなことしてるって風の噂で聞いたからさ。俺、大学出たあとふらふらしてるから暇でさ。もしあれだったら、なんか手伝おうか? と思って。ついでに見学みたいな?」

「いやいやいや。ちょっと待ってちょっと待って。え? あんた今何してんの?」

「んー……まあ、相変わらず自由気ままに暮らしてるよ。相変わらずって言っても、姉ちゃん俺のことあんま知らねえか」

 様々な問題をクリアにし、ようやくこれから念願ねんがんの喫茶店を開業出来る――そう思っていた矢先やさきに突然現れた弟のことで、緋子は再び頭をかかえる羽目はめになった。

 もちろん、緋子は蒼太の存在を忘れていたわけではないが、家族のことはないがしろにしているふしがあった。もともとそんなに仲が良かったわけでもないし、緋子が地元を出る頃は、携帯電話の所有率もさほど高くなかったので、お互いの連絡先を教え合う切っ掛けもなかった。そもそも、大した用事でもなければ蒼太に伝えることもなかったし、家には電話を掛けていたから、不都合もなかった。母親を通じてたまに蒼太の安否あんぴは聞いていたが、顔を合わせるのは実に十二年ぶりだった。

「蒼太が突然店に来たんだけど、お母さんたちちゃんとそのこと認識してるの?」

 蒼太が押し掛けてきた直後、緋子が実家に電話を掛けると、緋子の母は「え、蒼太が店に来た? それ本当に蒼太? 見間違えじゃないの?」と、よくわからないことを言った。

「いや、どう見ても蒼太だよ。今もここにいるし。私のこと姉ちゃんって呼ぶし」

「そう……最近見ないと思ってたのよね」

「いやいや。どんだけふらふらしてんのこいつ」

「そうなの。あらあ。蒼太ったら、緋子のことが好きで、随分ずいぶん遠くまで行っちゃったのね」

「いや、好きとか嫌いとかじゃなくてさ……」

「緋子、蒼太に会うの久しぶりなんじゃない? どう? すぐに蒼太ってわかった?」

「いや全然。でかくなってたね。びっくりした。最後に会ったのっていつ? 私より背低かったよね」

「ああ……そうねえ、そうだったかもしれないわねえ。でもほら、女の一人暮らしって色々と危ないし、蒼太がいると、助かる部分もあるんじゃない?」

「私、もう十年近く一人で暮らしてますけど?」

「でもほら、あれよ、男手があった方が何かと都合が良いでしょう? しばらく一緒にいてあげたらいいじゃない。蒼太にお金が掛かるようだったら、いくらか送るから。二人で仲良く頑張ってみたら? ね、どう?」

「……お金は、貯金もいくらかあるし、別にいいんだけど。蒼太も金銭面では迷惑掛けないとか言ってたし。でも、蒼太ももういい歳でしょ。そもそもあいつ、ちゃんと大学行ったの? っていうか、結婚してない私が言うのもなんだけど……蒼太は長男なんだから、家督かとくとか色々、考えなきゃいけないことがあるでしょ。猫目ねこのめ家として長男をふらふらさせてていいのかってことを言ってるの、私は。ほろぶんじゃない? この家」

「そうねえ、確かもう二世帯にせたいしかないのよね。そのうちなくなっちゃうんじゃないかしら。でもお母さん、猫目って可愛い苗字みょうじだと思うのよねえ。もったいないわよね。緋子、お婿むこさんになってくれるような人いないの? 途絶えちゃうのもったいないわあ」

「だからそういうのは長男に言ってよ」

「でもねえ、蒼太はそういうの、多分向いてないんじゃないかしら」

「だから! 私は! それで大丈夫なのかって言ってるんだけど!」

 その後は母と娘で軽い口論こうろん――というよりは、緋子が一方的に母に文句を言うだけになった。電話をする緋子を眺めながら、蒼太はほがらかに笑っており、緋子の苛立いらだちはさらにヒートアップしていった。

 結局、蒼太は科学喫茶の開業の手伝いとして受け入れることになった。元々、アルバイトを雇う腹積はらづもりだったのだが、先行きが分からない段階では、人件費が掛からないに越したことはない。科学喫茶の二階部は居住きょじゅうスペースになっており、緋子がひとりで暮らすには部屋数が多かったため、蒼太に一部屋ひとへや与えることにし、それをバイト代の代わりにした。家具や機器を搬入はんにゅうする際も、男手があるのは実際助かった。科学喫茶を始めてしばらくの間は物珍しさに利用する客も多かったし、勝手も違ったので、蒼太が手伝ってくれるのは都合が良かった。

 ――そして、蒼太は科学喫茶に完全に住み着き、いつの間にか五年が経過していた。店が軌道きどうに乗るまでは色々と忙しくてまともに会話をする機会もなく、軌道に乗ってからは蒼太が姿を消すことが増えたので、本当になんとなくで関係が続いてしまっていた。

 蒼太の人生については、いつかはきちんと話さなければならない、とは思っている。血を分けた二人だけの姉弟なのだし、蒼太は緋子にとって、関係の濃淡のうたんは別としても、大切な存在だ。だが、蒼太の中にある暗闇を照らしてしまったら、何か良くないことが起こるのではないかという漠然ばくぜんとした不安もある。疑問や不安を早急さっきゅうに解決しようとしなくなったのは、歳を取ったせいだろうか、と時々思う。親しい人間と真面目な会話をするのは、体力を使うからだ。

 だから今日も、緋子は何も尋ねない選択をした。

 言い訳になるが、大きな問題が起きていないのだから、それでいいと思い込むことにしている。当然、大きな問題が起きてからでは遅いのだということは、分かっているつもりだが――

「――じゃあ、夕飯はいらないの?」

 緋子は蒼太をじっと見つめる。

 たまに、この人は誰なのだろうか? と思うことがある。十二年の空白期間があるからか、過去の蒼太と結びつかない瞬間があるのだ。血を分けた肉親であれ、十年以上もの空白期間は、長い。

「んー……どうしよう。姉ちゃんは? なんか作る予定だった?」

「ううん。面倒くさいから、食べに行こうと思ってた」

「そっか。じゃあ俺も行こうかな」蒼太は言いながら、財布を取り出して、中身を確認する。「ふところはそれなりに温かい」

 蒼太がどのような方法で収入を得ているのか、緋子は詳しくは知らない。たまに「バイトしてくる」と言って出かけることもあるので、日雇ひやといのアルバイトを斡旋してくれるサービスを利用しているのかもしれない。緋子だって、経営状態について蒼太に詳しく説明しているわけではないのだから、お互い様だ。あるいはそれこそ、真咲が言っていた、良好な関係を築くための秘訣ひけつなのかもしれない。

「いつも通りでいいよ。牛丼か、ファミレス」

「じゃあファミレスだな」蒼太は立ち上がり、カウンター内に置いてある掃除用具を手に取る。「そうと決まれば、さっさと片付けるか」

「でも、出掛けるんでしょ? 時間はいいの? 掃除なんか、別にあとでもいいけど」

「いや大丈夫。他のみんなも一旦いったん飯食いに帰ったって感じだから、明確な集合時間が決まってるわけじゃない。逆にさ、人気ひとけのない時間帯の方が動きやすいんだよ――って、こんなこと言うとよっぽど怪しいことしてる感じかもしれないけど……人に迷惑掛けてるわけじゃないから、心配しないで」

 その『集会』の全貌ぜんぼうを知らない上に、どういう人間と付き合っているかも知らないため、緋子にはまったく話の内容が理解出来なかった。しかし、それ以上突っ込んで聞く気も起こらない。そこを突き詰めて行くと結局、暗闇に触れることになる。緋子は心の中で、真面目な話をするとしても夏が終わってからかな……と、問題を先送りにした。

「そう言えばさ、七佳の学校の生徒が神隠かみかくしに遭ったって話、聞いた?」

 緋子は過去を払拭ふっしょくするような気持ちで、その話題を振った。面倒なことを考えたくなくて、自分たちと関わり合いの薄い事件について話すことにしたのだ。比較的平和な街でそのようなセンセーショナルな事件が起きれば、その話題を口にするのは、普通の反応だろう。

「ああ、聞いたよ。行方不明になったってやつでしょ?」蒼太は視線も向けずに答える。「神隠しって、大層な言い回しだよな」

「なんか、遠鳴とおなり神社でいなくなったらしいよ。神社で子どもが行方不明になれば、まあ、神隠しだよね」

「かもね。まだ見つかってないの?」

 蒼太の質問に、どう返事をするべきか、と一瞬だけ考える。真咲の言っていた情報を信頼するなら、行方不明となっていた夏川なつかわ少年は既に見つかっているはずだ。だが、正式な報道はされていない。真咲と夏乃佳かのかが帰宅したあと、緋子は念のためネットで検索をしてみたが、それらしい報道は見つからなかった。恐らくは、何らかの報道規制が行われているのだろう。

「まだ見つかってないんじゃない。ニュースにもなってないし」

「そっか。何なんだろうねえ、家出か、誘拐か……殺人ってことはないよな」

「だから、神隠しでしょ」

「非科学的なこと言うじゃん」蒼太はほうきを動かす手を止め、笑いながら緋子を見た。「まさか、姉ちゃん、神隠しなんか信じてるわけ?」

「まさか」

「神隠しなんてあるわけないって」蒼太は肩をすくめ、おどけるようなポーズを取った。「――あ、でもそうだ、前にさ、なんかそんな話しなかったっけ。ほら……言い伝えとか、そういう話題で盛り上がった時があったじゃん。一月ひとつきくらい前に」

「あったっけ?」緋子は記憶を辿りながら、考えてみる。「七月?」

「ほら、古樹ふるきさんとか、鳩川はとかわさんとか……あれだよ、バーやった日。姉ちゃん、普段より酔ってたかな」

「ああ、じゃあ、覚えてないね」緋子は真似するように、肩を竦める。「基本的に、酔った時の記憶はないから」

いさぎいいね。女としてはどうかと思うけど」

「いいの。家で飲んでるようなもんだから。女は外で飲むなっていう言いつけは守ってるし」

「何それ。誰の言いつけ?」

「お母さんが小さい頃によく言ってたじゃん。女は外で飲むなって。逆に男は家では飲むな、だっけ?」

「あーあったねそんなの」蒼太は天井てんじょうを見ながら言う。

「で、そのバーの日が?」

「ああいや……なんだっけ。七歳くらいの子は、そういう被害に遭いやすいっていう言い伝え? みたいなのを聞いた気がしたからさ。七つ子は神の子、だったっけ。確か、小学二年生じゃなかった? 行方不明になった子」

「だったかな……うん、七佳よりは小さかったと思うけど」

「じゃあもしかしたら、あり得るかもね、神隠し。神の子だから」

 だとしても、もう見つかっているのだから、どちらでも良いことだろう――そう緋子は結論付けて、蒼太の発言には応じなかった。夕飯を食べに行くなら、ついでに在庫補充ほじゅうも済ませてしまおう、と思い立つ。帰りにスーパーにでも寄って、買い物を済ませ、その後で明日の仕込みを終わらせてしまう段取だんどりをつける。

「そう言えば蒼太、明日は?」

「んー、わからん。今夜次第。多分、朝はいると思うよ」

「あそう。じゃあ戦力には数えないでおく」

「なんかイベントあんの? 忙しそうなら、こっち手伝うよ?」

「いや、そういうわけじゃないよ。聞いただけ。一人で回せるから大丈夫」

「悪いね」

 その後、姉弟は特別な会話は交わさずに、閉店作業をこなした。緋子は作業をしながら、夕飯は何を食べようか、と考えていた。夏乃佳たちは、結局どこに夕飯を食べに行くことにしたのだろう。もしかしたら、ばったり鉢合はちあわせることもあるかな、と想像してみた。真咲と夏乃佳の食事風景は、ちょっと見てみたい気もする。言い合ってばかりだが、仲が悪いようには感じない。多分、お互いに、お互いのことが好きなのだろうと思わせる関係だ。

 でも今日は私も家族で夕飯だぞ、と、緋子は誰に言うでもなく考える。

 多分、少しだけ感傷かんしょう的になった心が、蒼太との会話や、夕飯の予定によって、いやされたのだろう。寂しさがあったわけではないけれど、満たされた感触がした。もちろんそのようなことは、態度に出すことはない。蒼太の前であれば、尚更なおさらだった。

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