第四話
「あれ、もう店じまい?」
科学喫茶の裏口が開き、
時刻は午後七時になる前だったが、科学喫茶は
「ああ、おかえり蒼太」
「ただいま。今日は閉めるの早いね――ああ、
蒼太は早口で言ったあと、二階には上がらずに、そのまま喫茶スペースにやってきた。閉店後の科学喫茶にはBGMが掛かっておらず、店内には妙な静けさが充満していた。
蒼太は細身のジーンズに、シャツを一枚着ているだけの
緋子も女性にしては身長が高い方だが、蒼太とは二十センチくらいの身長差があった。
「今日はどこ行ってたの。朝早くからいなかったみたいだけど」
「ああ、ちょっとね、例の集会があってさ」
「昨日もそうじゃなかった? ……毎回思うけど、なんか
「犯罪組織とか、そういう怪しい集団じゃないから安心してよ。友達と遊びに行ってた、くらいの認識でいいから。仲間内でそう呼んでるだけ」蒼太は話しながら、カウンターに座る。「さてと。何か手伝おうか?」
「手伝う気があるなら座らないでくれる」
「いやあ、色々あって疲れちゃってさ。ちょっとだけ休憩」
「あそう。じゃあなんか飲む? 作ってあげようか」
「んー……水でいいや。勝手にもらうね」蒼太は言って、椅子に座ったままで
「そうなの? 珍しいね」
「ま、たまにはそんな日もあるよ」
弟の行動に対して、あまり
蒼太は普段から、ふらっとどこかに消えて、ふらっと帰ってくるような生活をしている。だが、夜間に姿を消すことはほとんどない。遅くとも午後八時までには家に帰ってくるのが
科学喫茶をオープンしてから五年が経った今となっては、二人を知る客からは、緋子と蒼太はすっかり仲の良い姉弟だという認識を受けている。だが、もともとそれほど仲が良かったわけではない。それなのに何故か、緋子自身、そういった過去を忘れていた。否、思い出そうとさえしなかった。
蒼太には中学二年生の頃、車に
蒼太本人に当時のことを聞いても、はぐらかされるだけで、何も答えてくれない。
蒼太に対して何を疑っているのか、緋子自身もよく分かっていないところがある。蒼太は蒼太であり、目の前に確かに存在している。そこには何の疑いもない。だが、言語化出来ない違和感のようなものが、そこかしこに
二人が小さい頃の関係は、平均的な姉弟よりも
事故の一件からしばらくの間、同じ家で暮らしていたはずなのに、緋子の中からは蒼太に関する記憶が抜け落ちていた。まさに、消えてしまったと表現すべき
――反面、それ以降の緋子自身の人生に対する記憶は、それなりにきちんと残っている。それが余計に不思議だった。
緋子は高校二年生の二学期には既に
希望していた大学に合格し、一人暮らしをすることが決まってからは、緋子と家族の交流は本格的に
その間、蒼太と顔を合わせた記憶はない。自分の人生を生き抜くのに精一杯であったし、もともと、
緋子が学生の頃は、まだ薬学部は四年制だった。先輩の冬子が博士課程に進まずに卒業してしまったため、自分の進路にも悩む時期があったが、
二人が結婚した翌年、冬子が妊娠し、さらにその翌年に夏乃佳が生まれた。真咲はまだ研修医二年目だったが、家庭はなんとか機能していたようだ。緋子も何度か顔を見に行ったり、二人の羽を伸ばすために赤ん坊の夏乃佳と留守番をしたりしたこともあったが、
四年間の博士課程を終えたあとは、再び教授に半ば強制的に
緋子の就職が決まった時は、流石に両親と
製薬会社に就職後、一年、二年と
そして、仕事に追われながら夢を想い描くうちに、ふっと、「毎日美味しい珈琲が飲みたいなあ」という欲求に駆られた。それは本当に、突然発生した思想だった。
大学に入ってからほぼ毎日飲んでいた珈琲だったが、そう言えば美味しいと思って飲んでいないな、ということに気付いたのだ。逆に、美味しい珈琲ってこの世に存在するのだろうか? とさえ思った。どこに行けば、美味しい珈琲が飲めるのだろう。
緋子はその頃になって、ようやく喫茶店というものを意識的に利用するようになった。学生の頃から足を運んではいたが、目的は時間潰しや待ち合わせであり、珈琲を飲むことではなかった。
仕事帰りに遅くまで営業しているチェーンの珈琲専門店に入り、ハウスブレンドを頼んだ。意識して珈琲を味わった時の感動は、
いくつかの喫茶店を渡り歩き、休日には遠出までして、美味しいと評判の珈琲を飲むようになった。そして、「ああ、確かに美味しい珈琲というものはこの世に存在するらしい」ということを認めるに至った。豆の種類を知り、
緋子は次第に珈琲の魔力に
次第に持ち込む量が増え、
もし、自分が美味しいと思える珈琲を誰かに届け、その人が喜んでくれる姿を見られたら、どんなに充実した人生になるだろうか――
逃避から生まれた輝かしさは、
自分の店を持つことに決めてから、緋子は研究者としての人生に
製薬会社を退職したあと、約一年間、緋子は自営の喫茶店でアルバイトをしながら技術を学んだ。一年間の修行で珈琲作りの腕前が変わるとは思わなかったので、どちらかと言えば経営のノウハウを学ぶための期間だった。その間に喫茶店を経営するために必要な資格を取り、事業計画をまとめ、店舗や
喫茶店を開く場所はどこでもいいと考えていたが、運良く、当時暮らしていた市内に
緋子は既に三十代に突入していた。飲食店を経営するにしては若すぎるくらいだったが、そこには緋子本人にしか分からない、年齢的な
そして緋子がアルバイトを辞め、店舗を借りる契約を結び、貯金を切り崩しながら地道に開店準備を進めているところに――
弟の蒼太は、ふらりと現れた。
「うーっす。姉ちゃん久しぶり。へえ、マジで喫茶店やるんだ?」
「うわ。誰ですか?」
まだオープンしていない科学喫茶に勝手に入り込んだ蒼太は、驚きのあまり硬直している緋子を無視して、店内を見渡しながら「いい感じの店じゃん」などと言う。
「……あの、どなたですか?」
「え、俺だよ姉ちゃん。嘘、まさか弟の顔忘れた?」
「――え? 嘘? 蒼太? なんで?」
「いや、姉ちゃんが楽しそうなことしてるって風の噂で聞いたからさ。俺、大学出たあとふらふらしてるから暇でさ。もしあれだったら、なんか手伝おうか? と思って。ついでに見学みたいな?」
「いやいやいや。ちょっと待ってちょっと待って。え? あんた今何してんの?」
「んー……まあ、相変わらず自由気ままに暮らしてるよ。相変わらずって言っても、姉ちゃん俺のことあんま知らねえか」
様々な問題をクリアにし、ようやくこれから
もちろん、緋子は蒼太の存在を忘れていたわけではないが、家族のことはないがしろにしている
「蒼太が突然店に来たんだけど、お母さんたちちゃんとそのこと認識してるの?」
蒼太が押し掛けてきた直後、緋子が実家に電話を掛けると、緋子の母は「え、蒼太が店に来た? それ本当に蒼太? 見間違えじゃないの?」と、よくわからないことを言った。
「いや、どう見ても蒼太だよ。今もここにいるし。私のこと姉ちゃんって呼ぶし」
「そう……最近見ないと思ってたのよね」
「いやいや。どんだけふらふらしてんのこいつ」
「そうなの。あらあ。蒼太ったら、緋子のことが好きで、
「いや、好きとか嫌いとかじゃなくてさ……」
「緋子、蒼太に会うの久しぶりなんじゃない? どう? すぐに蒼太ってわかった?」
「いや全然。でかくなってたね。びっくりした。最後に会ったのっていつ? 私より背低かったよね」
「ああ……そうねえ、そうだったかもしれないわねえ。でもほら、女の一人暮らしって色々と危ないし、蒼太がいると、助かる部分もあるんじゃない?」
「私、もう十年近く一人で暮らしてますけど?」
「でもほら、あれよ、男手があった方が何かと都合が良いでしょう? しばらく一緒にいてあげたらいいじゃない。蒼太にお金が掛かるようだったら、いくらか送るから。二人で仲良く頑張ってみたら? ね、どう?」
「……お金は、貯金もいくらかあるし、別にいいんだけど。蒼太も金銭面では迷惑掛けないとか言ってたし。でも、蒼太ももういい歳でしょ。そもそもあいつ、ちゃんと大学行ったの? っていうか、結婚してない私が言うのもなんだけど……蒼太は長男なんだから、
「そうねえ、確かもう
「だからそういうのは長男に言ってよ」
「でもねえ、蒼太はそういうの、多分向いてないんじゃないかしら」
「だから! 私は! それで大丈夫なのかって言ってるんだけど!」
その後は母と娘で軽い
結局、蒼太は科学喫茶の開業の手伝いとして受け入れることになった。元々、アルバイトを雇う
――そして、蒼太は科学喫茶に完全に住み着き、いつの間にか五年が経過していた。店が
蒼太の人生については、いつかはきちんと話さなければならない、とは思っている。血を分けた二人だけの姉弟なのだし、蒼太は緋子にとって、関係の
だから今日も、緋子は何も尋ねない選択をした。
言い訳になるが、大きな問題が起きていないのだから、それでいいと思い込むことにしている。当然、大きな問題が起きてからでは遅いのだということは、分かっているつもりだが――
「――じゃあ、夕飯はいらないの?」
緋子は蒼太をじっと見つめる。
たまに、この人は誰なのだろうか? と思うことがある。十二年の空白期間があるからか、過去の蒼太と結びつかない瞬間があるのだ。血を分けた肉親であれ、十年以上もの空白期間は、長い。
「んー……どうしよう。姉ちゃんは? なんか作る予定だった?」
「ううん。面倒くさいから、食べに行こうと思ってた」
「そっか。じゃあ俺も行こうかな」蒼太は言いながら、財布を取り出して、中身を確認する。「
蒼太がどのような方法で収入を得ているのか、緋子は詳しくは知らない。たまに「バイトしてくる」と言って出かけることもあるので、
「いつも通りでいいよ。牛丼か、ファミレス」
「じゃあファミレスだな」蒼太は立ち上がり、カウンター内に置いてある掃除用具を手に取る。「そうと決まれば、さっさと片付けるか」
「でも、出掛けるんでしょ? 時間はいいの? 掃除なんか、別にあとでもいいけど」
「いや大丈夫。他のみんなも
その『集会』の
「そう言えばさ、七佳の学校の生徒が
緋子は過去を
「ああ、聞いたよ。行方不明になったってやつでしょ?」蒼太は視線も向けずに答える。「神隠しって、大層な言い回しだよな」
「なんか、
「かもね。まだ見つかってないの?」
蒼太の質問に、どう返事をするべきか、と一瞬だけ考える。真咲の言っていた情報を信頼するなら、行方不明となっていた
「まだ見つかってないんじゃない。ニュースにもなってないし」
「そっか。何なんだろうねえ、家出か、誘拐か……殺人ってことはないよな」
「だから、神隠しでしょ」
「非科学的なこと言うじゃん」蒼太は
「まさか」
「神隠しなんてあるわけないって」蒼太は肩を
「あったっけ?」緋子は記憶を辿りながら、考えてみる。「七月?」
「ほら、
「ああ、じゃあ、覚えてないね」緋子は真似するように、肩を竦める。「基本的に、酔った時の記憶はないから」
「
「いいの。家で飲んでるようなもんだから。女は外で飲むなっていう言いつけは守ってるし」
「何それ。誰の言いつけ?」
「お母さんが小さい頃によく言ってたじゃん。女は外で飲むなって。逆に男は家では飲むな、だっけ?」
「あーあったねそんなの」蒼太は
「で、そのバーの日が?」
「ああいや……なんだっけ。七歳くらいの子は、そういう被害に遭いやすいっていう言い伝え? みたいなのを聞いた気がしたからさ。七つ子は神の子、だったっけ。確か、小学二年生じゃなかった? 行方不明になった子」
「だったかな……うん、七佳よりは小さかったと思うけど」
「じゃあもしかしたら、あり得るかもね、神隠し。神の子だから」
だとしても、もう見つかっているのだから、どちらでも良いことだろう――そう緋子は結論付けて、蒼太の発言には応じなかった。夕飯を食べに行くなら、ついでに在庫
「そう言えば蒼太、明日は?」
「んー、わからん。今夜次第。多分、朝はいると思うよ」
「あそう。じゃあ戦力には数えないでおく」
「なんかイベントあんの? 忙しそうなら、こっち手伝うよ?」
「いや、そういうわけじゃないよ。聞いただけ。一人で回せるから大丈夫」
「悪いね」
その後、姉弟は特別な会話は交わさずに、閉店作業をこなした。緋子は作業をしながら、夕飯は何を食べようか、と考えていた。夏乃佳たちは、結局どこに夕飯を食べに行くことにしたのだろう。もしかしたら、ばったり
でも今日は私も家族で夕飯だぞ、と、緋子は誰に言うでもなく考える。
多分、少しだけ
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