第三話

「よう猫目ねこめ、久しぶり」

 午後六時頃、客足が完全に途絶とだえてすっかり落ち着いた科学喫茶に、男が現れた。緋子ひこは、その意外な来客に、少しだけ動揺どうようした。本来、動揺などすべき相手ではないのだが、あまりに予想外の人物だったために、何か悪いことでも起きたのだろうかと、妙な考えを起こしてしまった。

「……真咲まさきさんじゃないですか。珍しいですね」

「ちょっとね」

 緋子は夏乃佳かのかに視線を向ける。つい十分ほど前にカウンターに突っ伏してから、身動き一つしていない。予想されていた幽体離脱が起こったのだ。まだ閉店まで時間があるし、今日は母親が迎えに来ると聞いていたので、緋子は特に何をするでもなく放っていたのだが……なんだか少し、そのまま放置していることに、罪悪感が芽生めばえるような気持ちだった。

 現れた客は、七ツ森ななつもり真咲という男だった。彼は、夏乃佳の父親であり、冬子とうこの夫である。同時に、緋子や冬子の大学の先輩に当たる人物でもあった。もっとも、緋子と冬子の専攻は薬学やくがく部で、真咲は医学いがく部出身だったので、直接の先輩後輩という立場ではない。在学中、学生としての付き合いはほぼなかったに等しいのだが、冬子と真咲が交際していたために何となく顔を合わす機会が増え、気付けば十年来の付き合いになっていた。

 真咲に対して苦手意識こそないものの、彼を前にすると、少しだけ緊張感が増すのも事実だった。学生時代の上下関係は、いつになってもおいそれとは崩れないものだ。そのせいかは分からないが、真咲は最初に読み間違えてからずっと緋子の苗字をと発音しているが、なんとなく訂正しづらいまま、今に至っている。わざと間違えているのか、本当に間違え続けているのかも、尋ねるタイミングをいっしたままだ。

「カノは……寝ちゃったか」

 真咲は反応を示さない娘を見つめながら言う。

「ええ、つい十分程前に。幽体離脱中ですね」

「仕方ないな」

 真咲はスーツ姿だった。スーツと言っても、ネクタイは締めていないし、ジャケットも手に抱えている。クールビズというわけではなく、年中通してそんな服装をしている。ボタンダウンのワイシャツを着ており、首元には入館証らしきものがぶら下がっている。しわの寄った眉間みけんとこけたほおからは、疲労の色がのぞいていた。

「うーん……背負って帰るのも大変だし、ちょっと待たせてもらってもいいかな」

「ええ、もちろん。何か飲まれますか?」

「うーん」真咲はメニューを手にとって、眺める。「あ、ここ電子マネー使える? 普段財布を持ってないもんだから、お金がないんだけど」

「無理ですね」緋子は言う。「ああでも、お代は結構ですよ。冬子さんから、前金で頂いていますから」

「そのお金の出所でどころは、実は俺の給料なんだよね」真咲は言って、メニューを指差す。「じゃあ、オーソドックスに、ブレンド」

「アイスじゃなくて良いんですか?」

「アイスじゃなくて良いよ」真咲はうなずいてから、メニューを戻した。

 緋子は電気ケトルに水を張り、スイッチを入れた。大抵の場合、ブレンドはすぐに提供出来るように、何杯分かを一度に作っておく。だが、ラストオーダーの手前で、つ夏場となると、そういった用意はしていないことの方が多い。つまり、面倒くさいオーダーだということだ。やはりお金をもらっておけば良かったか、とほんの少しだけ考える。それは、付き合いの長い人間にだけ向けられる、親しさゆえのちょっとしたいじわるな思考だった。

「冬子さんが迎えに来るって聞いてましたけど」緋子はサイフォンの用意をしながら言う。「何か急用でもあったんですか? というか、真咲さん、よく帰れましたね」

「ああ、うん。えっとね……」真咲は隣で眠る娘の頬をつついている。「冬子さんから突然、急な仕事で帰れなくなったと連絡があったから、俺が代わりに来たんだよ。なんか、うん、えらい大変そうだった」

「急な仕事、ですか」

「午前中の段階で、今日は早く帰れると言っていたし、カノを迎えに行くっていう連絡もしてたんだ」

「真咲さんと冬子さんって、マメに連絡取るんですね」

「夫婦だから当然でしょう」真咲はいぶかに答える。「俺だってね、昔と違って、ラインくらい使うよ」

「それはそれは。時代は進みますね」

 緋子がからかうように言うと、真咲は何か言い返そうと口を開いたが、小さく鼻息を吐いて押し黙った。会話の論点がずれ始める時、真咲がよくやる癖だった。

「――まあそれで、つい一時間程前にね、冬子さんから電話があって。すごく慌てた様子で、絶対に抜けられない感じがひしひしと伝わってくるような連絡だったわけ。俺は今日は特に目立った仕事もなかったし、明日に回せるかなと思ったから、他の先生にお願いして定時で出てきたよ。流石に、小児科医しょうにかいが自分の娘を放って仕事するわけにもいかないでしょ」

「まあ、一般的には」緋子は虚空こくうを見つめながら頷いた。「医者の不養生ふようじょう……とはちょっと違いますけど」

「そうなんだよ。だから俺としては、カノの健康を第一に考えなきゃいけないわけだ。こういう小さな積み重ねで、この先生は子どもに対して真剣ですよっていうことをアピールするわけ」

 冷たい言葉のように聞こえるが、夏乃佳に向けられる視線はとても温かいものだった。相変わらず口が悪いというか、不器用な人だ、と緋子は思う。見た目はくたびれた中年男性だが、中身が妙に子どもっぽい。そういう意味では、彼の仕事は天職てんしょくと言えるのかもしれない。

「良かったですね、七佳と帰れる口実が出来て」

「明日の朝のことを考えると、ちょっと気が重いよ。やらなきゃならないことがたくさんだ」真咲は緋子の発言を無視して続ける。「だけどまあ、なんとかなるんじゃないかな。うちは優秀な先生が多いから」

 真咲は頬を突くのをやめたかと思うと、今度は夏乃佳のポニーテールの尾の部分を触り始める。

「そうですか。ちなみに何をしてるんですか? それは」

「仕事の疲れをね、可愛い娘にいたずらすることで癒してるんだ。ちなみにこういうことをしてると、目が覚めたあと、カノにすごく怒られる。不思議なことに、寝てる間に何をされてるかちゃんと覚えてるんだよな、カノは」

「じゃあやめればいいじゃないですか。嫌われますよ。七佳ももう、年頃の女の子なんですから」

「カノが起きないんだから仕方ない」真咲は意に介さずに、夏乃佳の髪の毛をいじくり回している。

 沸騰ふっとうした湯をフラスコに注ぎ、決められた手順を踏んで、緋子は珈琲を精製せいせいしていく。店内に残っている客は、七ツ森家をのぞき四名だけだったが、新しい注文が来る気配はなかった。今日の業務はこれで終わりかな、という期待もあり、緋子は少しだけ気合を入れて、珈琲を抽出ちゅうしゅつする。

「最近、どう」夏乃佳に視線を向けながら、真咲が言う。

七佳なのかですか?」

「お店の経営」

「ああ……まあ、おかげさまで、なんとか」

「もう、何年だっけ。五年?」

「そのくらいですね。我ながら、よく続いていると思います」

「飲食店は大変そうだ」真咲は、隣で眠る娘の頭を優しくでる。「まあ、俺は飲食店を経営したことがないから、大変かどうかは本当は知らないんだけど。なんとなくそんなイメージがある。自営業は大変そうだという、漠然ばくぜんとしたイメージ」

「ほとんどの人がそうでしょうね。真咲さん、ビーカーと普通のカップ、どっちが良いですか」

「選べるの?」

「真咲さんは選ばせないと、あとで文句を言われそうですから」

 皮肉を込めて言ったつもりだったが、真咲は意に介した様子はなく、「さすがは旧知きゅうちの仲。じゃあ普通のカップでお願いします」と軽く手を挙げながら言った。その挙動は、少しだけ、夏乃佳の天真爛漫てんしんらんまんさに似ている気がした。

 陶器とうきのカップに珈琲を注ぎ、ソーサーと一緒にカウンターに出す。真咲は一口飲んで、「うん、大学のタリーズより美味しい気がする」と、独り言のような感想をらした。

「話を戻しますけど……今日は冬子さんの帰りが遅いということですか」

「ん? ああ……そうだろうね。まあ、仕方ない。そんな日もある」

「つまり、真咲さんが七佳の夕飯を用意するんですか?」

「緊急事態だから、どうしようか考えてる。まあ、外食が有力だろうね。その次にファストフードを買って帰る、次点で店屋物てんやもの。あとは、インスタントラーメンなどをでて食べるとかかな。最終手段は、カノの料理を手伝うという方法もある」

「真咲さんの手料理という選択肢はないんですか」

「俺の料理を食べるくらいなら、外食した方がマシだろうね」

「そんなにですか」

「ひどいもんだよ」真咲は言って、また珈琲に口をつけた。「破棄はいき弁当の方がよっぽど美味い」

 ラストオーダーの時間が刻一刻こくいっこくせまっていた。緋子は店じまいの準備を始め、真咲は珈琲を飲みながら娘を観察している。会話が途切とぎれると、緋子だけが妙な居心地の悪さを覚える羽目はめになった。

 途中、二人組の若い女性客が会計を済ませていった。店に入ってきた時は賑やかだったが、時間が経つにつれ、会話がなくなっていった二人組だ。お互いにスマートフォンを眺めるだけで、かといって、険悪けんあくな雰囲気でもなかった。会計を済ませた後で急に元気に会話をし始める二人組を見送ってから、緋子は片付けをするかどうかを思案する。が、これはあとでまとめてやれば良いだろう。フラスコに、自分用のアイスコーヒーを注いだ。氷は入れずに、作り置きのものをジャグからそのまま注いだ。

「起きませんね」話題を振るつもりで、緋子は言った。

「三十分くらいは、起きないだろうね。夏は特に」

 真咲はもう、夏乃佳にいたずらするつもりはないようだった。珈琲カップを片手に、反対側の手で頬杖をついて、娘を眺めている。表情は疲れているが、眼差しはいつくしみにあふれているように観察される。

 緋子は二人を眺めながら、よく似た親子だな、と感じていた。夏乃佳の顔は、冬子よりも真咲によく似ているように思える。目の形は冬子に似てくっきりとしているが、顔全体のバランスは、真咲に似て愛嬌あいきょうがあるように感じられる。だからきっと、真咲も笑ったら、夏乃佳のような幸せそうな顔になるのだろうが、緋子は幸か不幸か真咲の笑顔を一度も見たことがなかった。

「冬子さん、今はどんな仕事を?」

 沈黙に耐えかねて、というわけでもないが、緋子は再び話題を振った。

「俺の仕事は聞かないんだ」

「興味はありますけど、長くなりそうなので、雑談には向いてないですね。それにほら、夏ですし。冬子さんの仕事の方が雰囲気が出るんじゃないですか」

「猫目がそんな非科学的なことを口にするとはなあ。学生の頃は、非化学ひかがく潔癖症けっぺきしょうだったのに」

「なんですかそれは」

「言葉通りだよ。正月に三人で初詣はつもうでに行ったことがあったじゃないか。その時、猫目だけお賽銭さいせんも入れなきゃ、お御籤みくじも引かなかった。お屠蘇とそだけは飲んでた気がするけど。俺の中の猫目のイメージは、そんな感じだよ」

「あれは……単純にお金を使いたくなかっただけです」緋子は憮然ぶぜんとした表情で応じる。「今はそうですね、お子さんのおかげで、かなり考え方が軟化なんかしましたよ。店には出してませんけど、まねき猫や熊手くまでを買って飾ってあります」

「へえ、猫目だから?」

「そういうことを言われるかと思って、店には出していません」

「それに昔は――」真咲は何か言いかけたが、鼻息を吐いて、会話をリセットした。「まあいいや、なんだっけ。夏か。夏ねえ……でも、怪談話とかはあんまり聞かないよ。最近は何をしているんだろうね、冬子さん」と、他人事のように真咲は言う。「割と、忙しそうだけど。三日前くらいからかな。事件が起きたからって、何やら忙しそうにしてるよ。えっと……ほら、なんだっけ、神隠かみかくし?」

 またこの話題だ、と緋子は思った。

 うんざりするほどではなかったが、一日に三度も、身近な人間から同じ話を聞くとは思わなかった。が、冷静に考えてみれば、それも当然と言える。小説家は興味本位で知った知識だろうが、夏乃佳は同じ学校に通う生徒が被害者なわけだから、関係者と言える。真咲にしてみても、この周辺でもっとも大きな小児科は真咲のつとめる大学病院にあるから、行方不明者が出たともなれば病院側で何らかのアナウンスがあるのかもしれない。そういう意味では、真咲も関係者と言えるのだろう。一番関係が薄いのは、もしかしたら緋子かもしれない。

「神隠し、あったみたいですね。七佳に聞きました。男の子が行方不明だそうで」

「らしいね。警察の捜査そうさと並行して、冬子さんの会社でも捜索するみたいだよ。俺は詳しくは知らないけど……冬子さんがそんな風に言ってた。殺人事件とか、誘拐事件とか、わかりやすい事件の場合は関わり合いにならないみたいだけど……神隠しとか、呪い? みたいなものの場合は、協力要請ようせいが来るんだって。大変そうだよね」

「そうなんですか。警察とも関わる仕事なんですね、冬子さんの仕事って。私は詳しくは知りませんけど」

「らしいよ。俺も知らないけど」

「お互い何も知りませんね」と、緋子は笑って言った。「真咲さんは知っていないとダメなんじゃないですか?」

「うーん、どうだろう。案外、夫婦間で仕事内容を正確に把握はあくしてる家庭って少ないんじゃない? 話を聞いても、何も言えないからね。俺は、幽霊を見ることは出来ないし、霊感もないから」真咲はひかえめに、娘の頬をつまむ。「冬子さんはそういうのがある程度見えるらしいし、カノに関しては、はっきりと見えるらしい。けど俺は見えない。こればっかりは努力でどうにかなるものじゃないからね。だから、そういうものに対して素人しろうとが口を出すもんじゃないと思ってるわけ。俺は自分からは何も尋ねないし、質問もしない。もうね、最近は気にしないようにしてるよ。二人の言うことは信用するけど、俺には見えないから、聞いても蚊帳かやの外だし。人間の思考回路が違うように、見えている景色が違っても不思議はない」

「お二人らしい関係だと思います」

「例えば、猫目が結婚したとして、お互いに別々の仕事をしていたとして……素人に、珈琲豆の焙煎ばいせんについて知った風に首を突っ込まれたら、嫌でしょ」

 緋子はアイスコーヒーを含み、しばし考えてから、「それはすごく嫌ですね」と頷いた。多分、どんなに好きな相手でも、一発で喧嘩になる。

「例えば俺も、カノが病気が高熱出したとして、冬子さんがぎゃーぎゃー騒いでたら鬱陶うっとうしいと感じるだろうからね。こっちは本職なんだから黙ってろって気になるよ。だから、冬子さんの仕事に関しては、極力きょくりょく何も言わないようにしてる。もちろん、質問されれば答えるし、俺も気になることは尋ねるけど、あんまり深入りしないようにしてる。ま、いわゆる、喧嘩しない夫婦関係の秘訣ひけつってやつだね」

「ごちそうさまです」緋子は目をせて言った。

「ふぁ……」

 突然のふやけた声に、緋子と真咲は、同時に夏乃佳に視線を向けた。半覚醒かくせい状態の夏乃佳が、寝ぼけまなこでぐっと体を伸ばしている。幽体離脱が終わったらしい。

 夏乃佳が言うには、通常時と幽体離脱状態の時は記憶がはっきりしているが、この接続の瞬間は、いつも記憶が混濁こんだくしているとのことだった。接続、という言い方が緋子にはよく理解出来なかったが、肉体の所有権が戻るという意味だと受け取っている。

「…………」夏乃佳は周囲を確認して、現状を把握はあくしている様子だった。冬子が言うところによれば、これは、記憶のインストール時間らしい。「あ、お父さん」

「おはよう、カノ」

「あ! もう、勝手に髪の毛いじらないでって言ってるのに」夏乃佳は思い出したように怒り出して、髪の尾の部分に手を当てる。「なんでお父さんは言うことが聞けないの。ほっぺも触らないでって言ってるでしょ!」

「俺はカノが好きだからついさわっちゃうんだよ」

 緋子は二人のやりとりを見ながら、今の発言は親子でなければアウト……いや、親子でもかなり危険だな、と考える。少なくとも、夏乃佳が小学生でなければ、完全に一発ノックアウトだ。いやいや、小学生でもダメかもしれない。自分だったらどうだろう……物心がついている時点で、ダメかもしれない。いくら父親が好きでも、ゾッとする発言だ。よほど仲が良くなければ、無理。父親に同じことをされたら、家出しているだろう。

「お父さんは、人の気持ちをちゃんと考えて」

「でも、カノもお母さんにべったりじゃないか。お母さんが好きだから、べったりするんだろ?」

「でも、お母さんは嫌がらないもん」

「お母さんが嫌がったら触るのやめるの?」

「……うん、やめる」

「そうかあ、カノは偉いなあ。俺はやめないけど」

「もう!」

「本当に嫌われますよ」緋子は真咲に対して呆れたように言った。「おはよう七佳。おかえり」

「おはようございます」少しむくれたように、夏乃佳が言う。

「俺もやめた方がいいな、とは思うんだけどさ。あと何年かしたらどうせ嫌われるんだから、今のうちにコミュニケーションを取っておかないとと思うわけ。それに、触れば健康状態も分かるしね」と、真咲は弁解べんかいするように言った。「中学生にもなれば、多分、口もきいてもらえなくなるんだ……はは……」

「真咲さんが過干渉かかんしょうでなければ、口はきいてもらえると思いますけど」

「そうかなあ。それは経験談?」

「まあ。父とも、たまに電話くらいはしますから」

「たまにかあ……」

「ねえ、どうしてお父さんが来たの?」と、夏乃佳は不機嫌そうに真咲に尋ねる。「お母さんが来るって言ってたのにぃ」

「俺で悪かったな」真咲は舌を出しながら、子どもみたいな表情をした。「ていうか、寝てる間に聞いてただろ。お母さん、仕事が忙しいんだってさ」

「それは聞いたけど」

「仕事が思わぬ方向に転んで、帰れなくなったんだって。ほら、一昨日おとといくらいにお母さんが言ってただろ。神隠しにった子……夏川なつかわ君? だったっけな。あの子が見つかったんだって」

「え、見つかったんですか?」緋子が言った。

「あ、これ、言っちゃいけないやつかな。まあ、とにかく……そういうことらしい。現場は大混乱だってさ。悪いけど、これ、内密に頼むよ。多分まだ報道されてないから」真咲は声をひそめながら言ったあと、店内を見渡した。店内には、二人組の客がいるだけだった。「まあ、お母さんが帰れなくなったってことは、見つかりはしたけど、そういうことなんだろうな」

「そういうこと?」緋子が尋ねる。

「普通の状態じゃないってことだよ。本当に、神隠しに遭ってたんじゃないか?」

「ふうん」と、夏乃佳はあまり興味なさそうに言った。「じゃあ、今日はお母さん、帰ってこないの?」

「帰っては来るだろうけど、遅くなるって言ってた。だから、夕飯には間に合わないだろうな。今夜は俺と二人でご飯だ」

「じゃあ、私が何か作ろうか?」夏乃佳は心配そうに、父親を見つめる。「お父さん、何も作れないでしょ」

「カノの手料理も食べたいけどなあ……今から買い物して、料理して、ってやると遅くなるから、どこかで食べようよ。回転寿司とかさ。カノ、回転寿司好きだろ」

「うーん……」夏乃佳は何かを思案してから、「お母さんに怒られる気がする……」と、腕を組みながら言う。

「私が何か作りましょうか?」今度は緋子が言った。

「いや、猫目に迷惑掛けるのも悪いし、今日は親子水入らずでどっかに行くよ。たまには二人っきりでもいいよな?」

「……たまにはね」夏乃佳は複雑そうな表情で答えた。

 こういう夏乃佳を観察するのは、とても久しぶりだ、と緋子は思った。つまり、真咲が夏乃佳を迎えに来るのが、それだけ久しぶりということだった。やはり娘と父親では、距離感が微妙なのだろう。誰に対しても丁寧ていねいな受け答えをし、母親に対しては甘えたような態度を取る夏乃佳が、平均的な小学生のような言葉遣いをするのが、新鮮だった。

「さて、じゃ、そろそろ帰ろうかな」真咲は珈琲を飲み干して、立ち上がる。「猫目、本当にご馳走になっていいの?」

「ええ、まあ。真咲さんから前もって頂いているようですから」

「悪いね。じゃあカノ、行こう。どこがいい? 回転寿司? ファミレス? 俺はビールがあればどこでもいいんだけど。今日はもう働きたくないから、車も絶対に運転しないという強い意志がある」

「いいけど、一杯だけだよ。明日もお仕事なんだから」

「うん。多分一杯で限界だ。今日は帰ったら泥のように眠るよ。ま、冬に比べたらそこまで忙しくないけどね」

 真咲が立ち上がると、それに追従ついじゅうするように、夏乃佳も椅子を降りた。カウンターに置かれたトートバッグと、床に置かれた水泳用具の入ったビニールバッグは、真咲がジャケットと一緒に小脇に抱えている。

 緋子も腰を上げて、二人を見送ることにした。もう、ラストオーダーの時間が近い。一緒に外に出て、ドアの掛札かけふだをクローズにしよう、と考えての行動だった。

「七佳、明日も来るんだっけ」

「明日はプールがないので、明後日あさってまた来る予定です!」

「そうなんだ。じゃあ、また明後日」

「はーい」

 真咲がドアを開け、その腕をくぐるようにして、夏乃佳が店の外に出る。

「緋子先生、おやすみなさい!」

「はい、おやすみ。真咲さんも、おやすみなさい」

「うん、じゃあ、また。近いうちに……夏休み前に、家族で来られるといいな。実家に帰る前とかに、寄れたら寄るよ」

「夏休み、取れたんですね」と、緋子は言った。

「病院も一応、休診ってのがあるからね。今年はちょっと長めに休めそうだ」

「相変わらずお忙しそうで」

「まあ、ほどほどにね。大変だ、家族をやしなうのは」と、真咲は小声で言う。「でも、辛くはない」

「結構なことじゃないですか」

 三人とも外に出て、緋子は掛札をクローズに掛け替えた。

「それじゃ、また」

「おやすみなさい。冬子さんによろしくお伝えください」

「おやすみなさーい!」夏乃佳が元気良く言って、大きく手を振る。「ほら、お父さんもおやすみなさいって言うんだよ」

「ええ、そうなの?」面倒くさそうに言って、真咲は手をげる。「はい、じゃあ猫目、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 三秒ほど手を振り合って、すぐに親子は進路の方向に顔を向け、それきりこちらを振り向くことはなかった。

 夏乃佳の普段の様子を知っているだけに、父親に対してはどうにも無遠慮ぶえんりょなところがあるように感じられたが、そういう愛情表現の仕方なのだろう、と緋子は考える。

 二人が見えなくなってから、緋子は店に戻った。立ったついでに、先ほどのテーブルを片付けてしまうことにした。今日の夕飯はどうしよう、今から何か作るか、それとも何かを食べに行こうか……と考える。家族の団欒だんらんのようなものを見せつけられると、少しだけ、感傷かんしょう的な気分になったような気がしたが、多分気のせいだろうと、思考をシャットアウトした。

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