最終章 権限移譲

 闇の中で生活するピエトロ国王に正確な時間などわかる由もありませんでしたが、アリスは毎日二回、朝と晩にピエトロ国王の独房を訪れ、食事と毒薬を届けました。この頃にはもう、アリスも、カテリーナ王妃様の恐るべき計画を全て知らされていましたし、その薬が毒薬だということも、ちゃんとわかっていました。それでも、カテリーナ王妃様に対する絶大な信頼と敬慕が、アリスをしてこの残虐な計画に加担させていました。


 ピエトロ国王には、アリスの足音とろうそくの灯りだけが希望でした。地獄のような苦しみの中にあって、彼女の訪れだけが福音でした。


 しかし同時に、地上では、ピエトロ国王“退陣”のための準備が最終段階に入っていました。


 ある日、アリスがピエトロ国王の牢屋の前に現れたとき、彼女はお盆と一緒に、紙を何枚か持ってきました。


「王様、今日は、お食事の前に、いくつかお仕事がございます」


 牢獄の冷たい床に寝転がるピエトロ国王を見下ろして、びっくりするほど冷たい声で、アリスはそう告げました。ピエトロ国王はやっとの思いで上体を起こすと、アリスを見上げました。


 アリスはしゃがみ込み、お盆を後ろに置いて、格子戸の下のすき間から手に持った書類を差し入れました。紙には、「病気のため、これこれの分野の行政権をだれだれに委譲する」といった文言が、すでにきれいな字で清書されてありました。最後に国王自身の署名をする欄があり、その部分だけが空白になっていたのです。


「こちらにご署名をお願いいたします。それが終わったら、お食事といたしましょう」


 ピエトロ国王はその書類を見て、めまいがしました。


 すでに文言が清書された公文書に、自分の名前を署名するだけの仕事ならば、ピエトロ国王は今までにも散々やってきました。例えば、どこどこの事業へ国家予算をどれだけ供出する、とか、これこれの法律を発布する、とか、そういったことは王宮の高官たちの間で十分に議論がなされて、その最終決定として国王の署名だけが必要な場合でした。


 しかし、今回は規模が違います。財政なら財政、軍事なら軍事、外交なら外交の、分野ごとの行政権を、丸ごと委譲してしまうという文言なのです。それはつまり、今後、その分野のことに関しては、もはや国王の承認を必要としないということであり、あらゆる分野で行政権を委譲してしまったならば、もはや誰もピエトロ国王を必要としなくなるということに他ならないのです。


「これは…」ピエトロ国王は震える声で言いました、「アリス、これは誰の差し金だ…誰が…こんな……」


 アリスは困ったように眉根を寄せて、首をかしげて微笑むばかりでした。


「無理だ、私にはこれは書けない…」


 ピエトロ国王は床に這いつくばった姿勢のまま、差し出されたペンに手を伸ばすこともできずに、首を振りました。


「困りましたね。書いていただけないと…」


 アリスは口先だけそう言いながら、別段困った様子も見せずに立ち上がりました。


「では、次に来るときまでに書いておいてくださいね」


 アリスは、別のろうそくに火を移し、格子戸のすき間から差し出しました。ピエトロ国王の独房の中には、権限移譲の書類と、ペンとインク瓶、それにろうそくだけがありました。格子戸のはるか向こう、地下牢の通路の床に、お盆が置いたままになっていて、その上にはスープとパンと水、そして何より、例のあの薬が載っているのでした。


 アリスはそれらを置いたまま、カツンカツンと足音を地下牢に響かせて、地上へと去ってしまいました。後には、ろうそくのほのかな灯りと、決して手の届かないところから漂うスープの香りだけが残りました。


 ピエトロ国王にとって、飢えはさほど重要ではありませんでした。頭痛や咳、それに肺の奥をむしばむざらざらした感触に比べれば、空腹など、物の数にも入りませんでした。何よりもつらいのは、もらえると思っていた薬が、決して手の届かないところに放置されて飲めないというこの生殺しの状態でした。


 しかしこの書類は……と、ピエトロ国王は憎々しげに文面にもう一度目を通しました。これに署名をしてしまったが最後、もう国王が生きている必要さえないのです。署名することは死を意味するのでした。もちろん、署名しなかったとしても、自分の死が間近に迫っていることはピエトロ国王もわかっていました。しかし、誰の企みか知らないが、政敵の思い通りに死ぬよりは、いっそ、このような権限移譲の手続きなしに死んでしまったほうが、ましなのではないか。ピエトロ国王は、懊悩の末、ろうそくの火が消えてしまう前に、署名を待つもろもろの公文書を火にかざして、燃やしてしまいました。紙から出た煤と煙が、地下牢じゅうに溜まって、ピエトロ国王の肺を侵食し、咳き込ませました。


 煙に咳き込み、病苦にのたうち回りながら、どのぐらい時間がたったでしょうか、再びアリスの足音が近づいてきました。


「やっぱり燃やしちゃったんですか? いけない王様ですねえ…」


 相手を子ども扱いしたような口調に幾分のいらだたしさを覚えながら顔を上げると、アリスは手に紙を一枚だけ持っていました。


「しょうがない人。まずはこれだけでいいです。この一枚だけでいいですから、署名をしましょう?」


 アリスが持ってきた一枚の紙は、ピエトロ国王が燃やしてしまった権限移譲の公文書のうちの一枚と、全く同じ文言でした。財政の分野における権限を、大臣のなにがしに委譲する、というものです。カテリーナ王妃様は、ピエトロ国王が文書を燃やしてしまう可能性まで考慮して、もう一枚ずつ同じものを清書させておいたのでした。


 ピエトロ国王は、頭痛がもう限界に近くなっていました。薬さえ飲めば、楽になれる、という確信がありました。アリスの手には、お盆があり、その上には、薬が載っていました。


 ピエトロ国王は、床に這いつくばったまま、震える手でペンを取り、差し出された文書に署名をしました。そのむこうにはアリスの靴のつま先とスカートのすそがありました。這いつくばって署名するピエトロ国王を、アリスはしゃがみ込んで見下ろしていました。


「よくがんばりましたね。ではお食事とお薬をどうぞ」


 アリスは国王の署名の入った公文書と引き換えに、スープとパンと薬の載ったお盆を差し出しました。ピエトロ国王は飛びつくようにして薬をつまみあげて飲み、水で流し込みました。ぜえ、と深いため息をつき、それから、ゆっくりと食事にとりかかるのでした。


 アリスはそれから、朝と晩、一日に二回ずつ、ピエトロ国王の牢を訪れるときに、二枚ずつ、書類を持ってきては、署名をさせました。すでに一枚の公文書と引き換えに薬を受け取ってしまったピエトロ国王にとって、一度に二枚署名するぐらいは、何でもありませんでした。薬がもらえるならば、二枚ぐらい書いてやるさ、と、投げやりな気持ちで、公文書に署名をしていきました。


 しかし、二枚ずつ署名していけば、必要な分の署名はすぐに終わってしまうことも、内心薄々気が付いていました。それでも、薬がなくては生きていけませんでしたし、一旦下がってしまった心理的ハードルを引き上げるだけの精神力は、もうピエトロ国王には残っていませんでした。


 そんな調子で数日が過ぎ、アリスは、そしてカテリーナ王妃様は、政権交代に必要な国王の署名入りの公文書を、ほぼ全て、整えました。


 ピエトロ国王の独房へアリスが降りてきました。いつものようにお盆と、そして紙を一枚、手に持っています。


 今日は一枚か、と思いながら、ピエトロ国王は紙に書かれた題目にサッと目を走らせました。


――『マルコ新国王の補佐官任命について』


 なんとなく惰性で署名をしてしまおうとペンをとっていたピエトロ国王は、その題目を見てはたと手を止めました。官僚的な仰々しい修辞法が続いた後、結論としては、マルコ新国王の補佐官に、ジョヴァンニを任命する、というようなことが書いてあるのでした。


「おい、アリス……」

「はい? なんですか?」

「ジョヴァンニというのは、あのジョヴァンニか? リチア様のもとに身を寄せていた、あの……」

「はい、そうですよ。王様が追い出した、あのジョヴァンニ様です。成績優秀で修道院をお出になられて、今は助祭の資格をお持ちなんですよ」


 ジョヴァンニの名前が、ピエトロ国王の様々な記憶を呼び起こしました。王子として王宮に入り、カテリーナ王女と熱烈な恋に落ちた日々、そして……思い出したくもない、どこで歯車が狂ってしまったのかもわからないような、王宮でのみじめな生活が、走馬灯のようにピエトロ国王の脳裏を駆け巡りました。


「これを……これを計画したのは、カテリーナなのか…?」


 アリスは人差し指を頬に当て、きょとんとした顔を作ってみせました。


「私にはそういったことはわかりかねますねえ」


 ピエトロ国王は無力感に打ち震えながら、公文書の紙を見つめました。


 私がここで朽ちてゆき、マルコ王子の教育をあの青年が担当することになる。そもそも、マルコ王子は私の子ではなくあの青年の子なのだ。そしてそれを知っているのは、あとはカテリーナ王妃だけなのだ。


 最初の日、私が王宮に連れてこられ、父親だという前国王に会わされた日。もし私が王位を継がないと返事をしていたならば、カテリーナが女王になっていたのだろう。おそらくはジョヴァンニを婿に迎えて、マルコ王子を生み、全てが丸く収まったに違いないのだ。私は今頃、下町で働き、分相応の生活をしていたに違いないのだ。ああ情けない。私の人生は何と意味のないものだったことか。


「さあ、お食事とお薬が待っていますよ。さっさと署名しちゃいましょうね。王様が署名する必要のある書類は、これで最後ですからね」


 床に這いつくばったピエトロ国王を、励ますのか、嘲っているのかわからないようなアリスの声が、頭上から降り注ぎました。ピエトロ国王は、泣きながら、最後の公文書に署名をしようとしましたが、手が震えて、ちっともうまく署名できませんでした。


 ピエトロ国王は癇癪を起こし、紙をびりびりに破いてしまおうとしましたが、丈夫な紙でしたので、弱ったピエトロ国王の力では破けませんでした。ピエトロ国王は慟哭の声を上げ、咳き込み、それでも無念が治まらず、感情が爆発して、ろうそくの上で紙を燃やしてしまいました。


 アリスはしばらく冷静にそれを見下ろしていました。


 ピエトロ国王の癇癪が治まったころ、アリスは静かに切り出しました。


「でも本当は、その署名、もう必要ないんです。だって、王位の継承とか、王室にかかわることは、すでにカテリーナ王妃様に権限が委譲されていますから。先日ご署名いただきましたよね。覚えてると思いますけど」


 その言葉は、もうピエトロに届いているかどうかわかりませんでした。ピエトロは地下牢の床に這いつくばったまま、ぜえぜえと苦しそうに呼吸をしているだけでした。


「私、この仕事が片付いたら、ジョヴァンニ様とマルコ様の身の回りのお世話をさせていただくんですよ」


 放心しているピエトロの頭上から、それだけ言い置くと、アリスはカツンカツンと足音を響かせて、地下牢を去っていきました。あとには、真っ暗な闇の中、ぜえぜえという苦しげな呼吸音と、時折激しく咳き込む音だけが残りました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

庶子王ピエトロ 三色だんご @3shock_ooo_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る