第十章 転地療養

 鎮静剤入りの毒薬を毎日きちんと服用していたピエトロ国王の病状は、当然、悪化の一途をたどりました。咳は重く深く、肺の底に悪いものが溜まっているのを感じさせる粘り気のある音になっていました。頭痛も激しく、一日のうちでベッドから起きていられる時間は、極めて限られるようになりました。


 侍医は、薬の服用を、「できれば一日一錠まで、多くても一日三錠を超えないように」と指定していました。これは、あまりに早く毒薬の効果が出るのを恐れての制限でしたが、思わぬ効果を生みました。ピエトロ国王は、苦痛に耐えかねて、薬を欲しがることが多くなったのです。


「ゴホッ、アリス、薬だ、薬を出しなさい」

「えー? でも王様、今日はもう朝だけで二錠飲まれてますよね? 次を飲むのはもう少し後にされてはいかがです? 一日三錠を超えてはいけないってお医者様から言われてるんですからー」

「お前まで私を苦しめようというのか、ゴホッ」

「私は王様の身体を心配して言ってるんです、ここのところお薬を飲むペースが早すぎますから」

「いいから、薬を出すのだ、この私の命令だぞ」

「わかりました、わかりましたけど、どうなっても知りませんからね!」


 毒薬の苦痛に耐えきれず、ピエトロ国王は、侍医の指定した三錠の制限を超え、アリスの諌止も振り切って、毒薬による苦痛を紛らわすために、鎮静剤入りの毒薬をたくさん飲んだのです。しかも、もともと、鎮静剤は、多量に服用すると依存性をもたらすような成分が含まれていました。ピエトロ国王は、もう鎮静剤なしでは生きていけないような身体になっていました。


 ともあれ、毒薬を処方した侍医には、言い逃れの口実ができました。仮に国王が死んだとして、責任を問われたとしても、「私は薬の用量に制限をつけておいたのです。国王が勝手にそれを破って多量に服用したとなれば、これはもう私のせいではないでしょう。どんな薬だって、量を誤れば毒になるのです」と、こんなふうにでも、言い逃れることができたことでしょう。


 カテリーナ王妃様を中心とした政府高官たちとの“お茶会”は、想定されるピエトロ国王“退陣”後の新体制を、着実に固めていました。譲位のシナリオは、細部までしっかりと練り上げられ、ついに最終段階に入ろうとしていました。最終段階というのはつまり、ピエトロ国王を実際に排除して新体制で動き出す、という意味です。


 新体制で王子マルコを補佐する高官たちにとって、一番避けたいのが、ピエトロ国王が暗殺されたのではないかというゴシップでした。そこで、カテリーナ王妃様を中心とする“お茶会”は、ピエトロ国王を少しずつ人々の記憶からフェードアウトさせるシナリオを描き出しました。侍医がピエトロ国王に転地療養を勧め、遠方に追いやったうえで、一つ一つの執行権を少しずつ“お茶会”側の人材に委譲させて、人々の噂話に上らないうちに、ゆっくりゆっくり、新体制に移行しようというのです。カテリーナ王妃様は、この計画をぬかりなく進行させるため、今まで以上に頻繁に、様々な政府高官と、ごく少人数ずつ、お茶会を開かれました。


 アリスから転地療養の話を聞いた時、ピエトロ国王の頭には相反する二つの考えが浮かびました。一つには、「お前たちの企みはわかっている、この私を王宮から追い出して好き勝手放題やろうという算段だな」という疑心暗鬼の囁きでしたが、その一方で、「こんな息苦しい王宮から逃れられるならば、それもいいかもしれない、どうせこのままここにいても好き勝手放題やられているのだし」という諦めと逃避が、ピエトロ国王の思考の大部分を支配していたのでした。


 転地療養先は、いくつかある御料地が候補に挙がっていましたが、暗殺を避けるためという名目で極秘にされていました。ピエトロ国王本人でさえ、どこへ行って療養するのか、知らされていませんでした。


 ピエトロ国王本人不在のところで転地療養の計画はどんどん進み、とうとう出発の前夜になりました。


 薬を求めるピエトロ国王に、アリスはその晩、別の薬を渡しました。見た目は同じですが、中身は強力な睡眠薬でした。ピエトロ国王が昏睡のようにぐっすり眠ってしまったのを確認して、アリスは打ち合わせどおり、“お茶会”派の或る将校を呼びに行きました。


 将校は麻の大きな袋にピエトロ国王を詰め、それを一人で担ぎ上げました。


 将校が向かった先は、お城の地下牢でした。地下牢には、今は使われていない区画があって、そこに独房がありました。将校は、ピエトロ国王をそこへ入れると、牢にしっかりと錠前をかけてしまいました。


 


 翌朝、ピエトロ国王が転地療養に向かうための豪奢な馬車が、何台も何台も、お城の門の前に停まりました。


 それぞれの馬車は、別々の御料地に向かうのです。ピエトロ国王と同じような背格好で顔を隠した影武者が、それぞれの馬車に乗り込みました。


 ピエトロ国王を地下牢に閉じ込めてしまうという恐ろしい計画を知っているのは、“お茶会”中枢のごく限られた人たちだけでした。他の人は、この影武者たちの中のうちの一人が、本物のピエトロ国王なのだろうと信じて疑いませんでした。


 影武者を乗せた馬車は、それぞれ目的の御料地に向かって出発しました。到着した先で、影武者は、「私は影武者です。本物の国王はここにおいでになりません」と説明するのです。それで、誰もが、こう思うことでしょう、「暗殺を避けるために本物の国王がどこにいるかはわからないけれど、ここではないどこかの御料地で、きっと静養中なのだろう」と。


 


 本物のピエトロ国王が地下牢で目を覚ましたのは、馬車が出発した日の昼過ぎでした。


 地下牢には外の光が入ってきませんから、今が昼なのか夜なのか、自分がどうしてこんな暗いところにいるのか、何もわからず、ピエトロ国王は軽くパニックになりました。痛む肺や喉を酷使してあらん限りの大声で人を呼んでみましたが、どこまでも続くような闇の地下通路に反響しながら、その声は決して誰にも届くことはありませんでした。


 様々なむなしい脱出の試みの後、ピエトロ国王は、どうやら自分が、おそらくは自分を排除しようとする王宮内の勢力によって地下牢に閉じ込められているらしいこと、眠っている間に運ばれてきたこと、そして、公には転地療養に出ていると思われているであろうことを、理解しました。


 ピエトロ国王はその場に力なくへたり込み、さらにごろりと横に転がりました。絶望がピエトロ国王の全身を脱力させてしまいました。深くため息をつくと、肺の底にたまった病魔の粘液が不快な音を立て、ピエトロ国王は思わず咳き込みました。


 どれぐらい時間がたったか、ピエトロ国王にはわかりませんでしたが、アリスが食事と薬をもってピエトロ国王の独房を訪れたのはその日の晩のことでした。


 カツンカツンという靴の音と、次第に近づいてくるろうそくの灯り、そして妙に懐かしいようなスープの香りに、ピエトロ国王はのそりと上体を起こして格子戸のほうを見ました。


 アリスはお盆の上にスープ皿とパンと水、それに例のあの薬を乗せていました。ピエトロ国王が投獄される前と変わらず、慈母のような微笑をたたえていました。


「アリス、これは一体どういうことだ。ここから出しなさい、今すぐにだ」


 ピエトロ国王の言葉が聞こえなかったかのように、アリスはお盆を格子戸の下のすき間から差し入れるだけで、あとは何も答えません。


「今ならまだ戯れで済ませよう。もう一度言う、ここから出すのだ」


 アリスは軽く微笑んだまま、ピエトロ国王と目を合わそうとさえせずに、立ち上がります。一礼をして、踵を返し、そのまま今来た地下通路を戻っていこうとするのです。


「待て、待ちなさい、アリス。これは誰の命令だ、答えなさい、待つんだ、アリス!」


 アリスはピエトロ国王の制止を待つことなく、ろうそくの灯りとカツンカツンという足音は地下通路をどんどん遠ざかっていきました。


 独房はまたすぐに闇に包まれます。完全に暗くなってしまう前に、ピエトロ国王はお盆の上に乗った薬の粒を指先で確保しました。スープよりもパンよりも、今のピエトロ国王にはこの鎮静剤入りの毒薬が何よりの慰めだったのです。


 薬を飲むと、ピエトロ国王は少し気持ちが落ち着いて、パンとスープを平らげ、眠りに落ちました。しかしその平穏は長く続きません。暗く、寒く、埃っぽい地下牢の中です。げほ、げほ、ぜえ、ぜえ、と、病魔が国王を苦しめるのです。

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