星の原に還る

ペトラ・パニエット

雨宮恵というルームメイト

 彼女がいなくなったことを知ったとき、私が感じたのは喜びだった。

 それは、ようやく彼女の宿願が果たされたということに他ならないから。


 私のやや遅めの青春のすべてを支配した雨宮あまみやめぐみと私の関係は、ルームメイトだ。

 他の形容で呼ぶことも可能だし、私たちの間にあった感情のいくらかを踏まえれば、他人ひとはもう少し情緒的な呼び名で形容することを好むだろうけれど、それでも、私たち、つまり私と恵は互いをルームメイトと称することを好んだ。

「ただいま」を言えば「おかえり」を返す一方、おおよそ均等かつ交互に、互いに依存しないよう代わる代わる家事をする。

 友人に区分される相手と買い物なりに行くときには誘おうともせずに置いていく一方、もっとも長く共に過ごす。

 誰にも話さないようなことを無責任に話し、それでいて誰彼構わず話したようなことを話さない。

 そういう関係を、ルームメイト以外の何と呼べばいいのだろう?

 私と彼女の共通の知人たる時岡ときおか越子えつこの「友達でしょう!?アンタ、なんとも思わないっていうの!?」と言いたげな顔を「わかっていない」と一瞥し、雨宮恵を回顧する。

 瞳を閉じればいつでも克明に彼女を見ることができるのは、ひとえに彼女に対するバイアスがないからだ。

 友好ともだちでも敵対ライバルでもない、無感情。

 雨宮恵は、いつでもこの世界を離れたがっていた。


「魔法の一つも使えないなんて、なんて下等なのかしら」

 と人を軽蔑する雨宮恵を、この場の誰も知らない。

 その言葉の意味も。雨宮恵は友人に対して、そういった本性を見せない。

 彼女は幻想の信仰者であり、それ故に極度の厭世家だった。

 おおよそ、この世に属すること自体が彼女にとっては穢れだとさえ言えた――かつて一度だけ、彼女に問うたことがある。そこまで嫌っておきながら、よくもまあ友人付き合いなどする気になる、と。彼女はこう宣った。

「バカね、クズはクズ同士お似合いでしょう?」

 その大意が、「彼女自身もまた彼女の軽蔑と憎悪の対象から逃れられず、それ故に単に彼女という軽蔑の対象が穢れたものの中にあることでより穢れたとしても、かえって嘲りを強め愉悦感を覚えるだけだ」という意味なのだということは、即座に理解した。

 あの邪悪極まる雨宮恵を私だけが知っている。

 優しげな笑みと清らかな声の下に潜んでいた本性を。

 それは雨宮恵だけが私を理解しているのと同じことだ。


 雨宮恵にはすべてを言えた。

 だって、好かれたいとは思わなかった。だから取り繕うべきものはなにもなかった。

 私は決して善良ではないが、それを雨宮恵にそうであるように偽ることはとても愚かなことだ。

 だから私たちは自然と互いには何も隠さないようになった。

 互いがどういう人物かはよく知っていたのだから当然だ。

 当然といえばもう一つ、誰も二人の家にあげることをしなかったのも当然だろう。あの家は常人の、つまりまっとうな人として日向を歩く人のいられる場所ではない。

 私たちは互いに好きあっていたわけではないが、それでも陳腐化していうなら何らかの好意があったのだと思う。

 だから私たちは二人の世界いえを壊すことをしなかった。

 あるいは、単に居心地のいい場所を手放したくなかっただけかもしれないが――多分こっちがほんとうだ。


 雨宮恵が私を押し倒してやったことを、私は受け入れた。

 私たちは似た思想だというわけではないが、その瞬間だけは別だった。手に取るようにわかった――価値のあるうちに潰したかったのだ。

 私たちには、互い以上のものを得ることができないと直感で理解していた。人の限界から見れば短くとも、それがすなわち分別を覚えるのには不足な時間だということを意味するわけではない。私たちに恋なんて無縁だと知っていた。

「特別な人に捧げなさい」なんて、いとおしそうに告げた母の言付けを破り、はじめてのキスをただのルームメイトに捧げた。

 それからは、度々に普通の幸福とやらに帰属するものを互いでするようになった。無の質量に無惨にも費やされていくそれらに、しかし後悔もなかった。

 本性さえ知らねば高嶺の花にさえ喩えられる雨宮恵は、本性を知っているがゆえに憎々しく甘美だ。その思いを雨宮恵にも味あわせてやったことはいくらかの満足を私に与えてくれた。

 一度は見せつけてやったこともある。

 遠い土地に行くからと、思い出作りに雨宮恵に告白するような愚かなやつだ。

「雨宮さんと仲いいよね? 送別式がおわったら彼女、屋上まで連れてきてくれない?」

 という言葉がどれほど不相応かをそいつは理解していないことがすぐわかった。

 だから言うとおりにして、そして一世一代の告白に同席してやったのだ。彼女は私の意図をすぐに察した。

 すべてを聞き終えたあとに、雨宮恵は私を手招き口づけをした。そして、そいつのひどい顔よりも、雨宮恵の残酷な眼差しを覚えている。されはさながら、天使が人を裁くときの眼差しに似ていた。なんのことはない、雨宮恵は現実よりも神話に近いレイヤーにいる。


 ある日には、血まみれで佇む雨宮恵がいた。

 悪癖の多い彼女ではあるが、その日は特別だった。

 彼女は言った。

「私と一緒に死なない?」

 彼女に何かに誘われるというのは、はじめてだった。

 その時の彼女をみて、「彼女と一緒なら、地獄へは行けるだろう」と確信したものだ。つまり、死者に待つのは無である、なんてことはなく、死者の国というものに行くことができると。

 雨宮恵の瞳にパーガトリオの火が燃えていた。彼女はどこまでも物語の人で、それ故に黄泉を見ることができたのだ。

 その日は彼女の誕生日だった。

 私はその日から数えて一週間も彼女の血の臭いと過ごした――インフルエンザだとかなんとかごまかして。

 湯船に溶けた血が、なんらかの背徳的な思いを呼び起こした。

 あるいは、彼女とかかわることで私の気はいささかひどく触れてしまっていたのかもしれない。

 血の味のキスを、むしろ普段よりついばんだ。


 私と雨宮恵が悪化しているのは明らかだったが、それでもそれが露出することはなかった。

 ……ああ、件の「遠い土地に行った」やつは例外だ。

 私たちは互いに気づいていたが、どうとも思わなかった。

 雨宮恵はいわすもがな、私もだ。

 そういう意味で、私は雨宮恵の同類だった。

 私たちの関係は冷えきっていたが、心地よかった。

 私たちは互いに同じ屋根の下に在ることを許していたのだから、当然といってもよい。

 雨宮恵も私も、ルームメイトまでに気を遣うのは嫌だから、どうでもよい相手というのは実に特別なのだ。

 私たちの間には奇妙な熱情があった。

 私たちはそう呼ばないが、それでも私が過去から未来において得るだろう感情の中でもっとも友情や愛に似たものだ。


 さて、そんな雨宮恵がいなくなった。

 ずぶずぶとした共生圏の繁栄が長らく続いていたが、終わるときは一瞬なのだ。

 死体はなく、しかし所在もなく。

 そのためにただいなくなったと称する。

 雨宮恵を知らない人にとって、いなくなったと意味ありげに語られる文脈は悲観的な意味を伴うだろうけれど、私はそうではない。

 雨宮恵の消失からすでに一月が流れていた。

 悲しみはない。

 地獄へ堕ちたか、転生したか、宇宙人にでもさらわれたか、どれでも雨宮恵にとってはこの世にいるよりましなこと。彼女の本性を知るただ一人としてはおめでとうを贈ること。

 ただ、それでも私がこうして彼女の形見とやらをまとめて海に捨ててやることは許されるだろう。

 彼女はこの世に囚われることを望みはしないだろうから、彼女の痕跡が海原を通じて星空へとかき消え還るよう、そして二度とここへは来ないよう、願ってやるのだ。

 何も知らない時岡越子の目の前で、彼女の名残を全て海へと投げ入れてやる。唖然とした怒り顔。

 少し、遠い土地に行ったやつの前で見せつけてやったことを思い出し、不謹慎な笑みを浮かべる。


 そうして私は、彼女が私を伴わなかったことを忌む想いがあればと、波に揺れる我が身の眼下に広がる満天の星に目を閉じた。

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