第十九話 愛と哀しみの果ての帰還(後)


 一つ溜息をついてから宗平がカウンターの掃除を始めた。といっても埃を拭き取っただけだが。床下収納と冷凍庫から食材や調味料を見繕い、さっそく料理を始める。

 機材を同期している間休むよう和枝に言われたからだ。

 湯気を眺めていると、宗平はパスタとは他にもう一つ小さな鍋で細かくカットされた野菜を煮始めた。保存食のサラダと玄米、それに何か調理済みらしき缶詰を混ぜている。


「遥来には言わないでね」

「まぁ、そうでしょうね」


 俺には目もくれない。それが恐がっているのか、苛立っているのか、判断がつかない。

 考え事をしていたせいか、あっという間に和風ペペロンチーノが完成した。カウンター越しにボウルが置かれ、香ばしさに顔が緩む。


「すごいねメェちゃん。お肉あるじゃん」

「保存食って凄いですね。燻製肉と茸と、パンもありましたよ」

「いただきまぁす──って、あれ?」


 鍋の中身が来ていない。しかし隣に移った宗平が食べ始めたのにつられ、気にせず頬張った。美味い。見ると、難しい顔、というか怒っているようにも見える硬い表情だ。何か言い出しそうで、食べながら待った。

 遥来の人生を狂わせた三人の内の一人、京條一總は死んだ。桐島和枝は恋人を喪って狂人っぷりに拍車がかかり、俺に桐島圭樹の行方を探せと言う。

 遥来に言うなと釘を刺したが、それ以前に再び顔を合わせる日が来るかどうかさえ危しい。


「亡くなったんですか?」


 宗平が口を開いた。


「そうみたい。いくら指名手配犯とはいえ、不幸だよ」

「聞こえてました。そっちじゃなくて、岡谷さんの前の恋人」

「──」


 味も音も、一瞬で世界から消え失せる。


「俺みたいに、助けてあげた? それで、思い出してるんですか?」

「…………いや?」


 最初意味がわからなかったが、しばらく考えて宗平が何を言おうとしているのか悟る。二度目の本気の恋みたいな言い方をしたから、俺が過去を思い出し、宗平にその相手を重ねている、だからここまで付き合っていると誤解しているのかもしれない。もしそうなら、完全に的外れだ。


「元気だよ? 三人、子供産んで。美容サロンのオーナーやってる」

「交流があるの?」


 解せない、という表情。


「あるよ。兄嫁だもん」

「……えっ」

「もう大失恋だよ。酷いんだよ。聞く? この話」


 まるで不味いものでも食っているような顔をして、頷いた。いつか話そうと思っていた。丁度いい。


「榮斗は俺を抜いて三男の末っ子なんだけど、一番上の兄貴が俺を嫌いで。というか、俺の母親を憎んでいたわけよ。俺、榮斗より七十三日早く生まれてるから。俺を含め、余計な血を一族に入れたくないって、まぁわかるけどね」

「それは……岡谷さんのせいじゃないのに」


 お人好しな宗平には、兄の思考回路そのものが理解し難いのだろう。だが金と欲さえ絡めば、人間はどこまでも汚れていく。いや、暴かれていくのか。


「そう思えないんでしょ。父親は俺を認知しない代わりに、祖父の財産分与で俺に遺産が入るよう、生前の祖父と話をつけておいてくれた。で、こういう結果」


 祖父の秘密の別荘は、そのまま俺の要塞となった。もちろん手は加えたが。


「いっくら憎くてもさすがに俺を殺すわけにはいかなくて、思いついちゃったんだろうね。俺が子孫を残せなければいいって」

「……」


 恐ろしいものを前にしたようなぞっとした顔でも、その目が先を促す。


「一応榮斗の相方にって育てられたから、馬鹿じゃ困る。家庭教師がいたんだ。住み込みで、頭よくて綺麗でさ。六つ年上で。上手くてね。口も上手けりゃ、アレも上手い。もう虜だよ。夢中になって、駆け落ちして──その先で兄貴が待ってた。芝居だったんだ」

「エグい」


 十八の子供だった。傷ついた。だから──


「それっきり勃たない」

「──」

「誰の事も好きにならなかった。恋も、愛も、故障しちゃったんだよね」


 宗平がフォークを置いた。

 俺にとっては、それが俺の普通の人生だった。この日辻宗平に会うまでは。


「だから思い余って襲ったりしないから、安心して」


 努めて明るく伝える。

 宗平が労わるような目つきで俺を見あげる。やめてくれ。俺は憐れんでほしくて話したわけじゃない。だから笑い飛ばす。


「かっこわるいでしょ」

「──っ」


 一瞬だった。

 息をつめた宗平が身を乗り出して、両方の掌で俺の顔を挟んだ。そのまま顔を寄せてくるので、同情でもなんでもキスしてくれるならラッキーと思って待ち受けるが、そうはならなかった。

 額を合わせ、震えている。

 その背中を抱き寄せた。


「勃たない男は気持ち悪い?」


 宗平がしたくなるまでキスはしない約束だ。鼻先を合わせ、目を覗き込む。泣き出しそうな表情が何を意味しているのか、考えても無駄だと知っている。

 掌のぬくもりが頬を去り、そのかわり頭を抱え込むようにして抱きしめられた。やはり同情を買ってしまったようだ。だがそれは、宗平が優しいというだけの事。充分だった。


「優しいね」

「ごめん、怪我させて」


 震える声が愛しい。


「キスしてくれたらすぐ治る」

「できないよ」

「味見だけ」


 息を詰まらせて宗平が抱擁を解くと、潤んだ眸が睨むようにそこにあった。苦しそうに頬を染めている。官能的な表情だ。


「しない。あんたを利用してる事になるから」

「しなさいよ」

「まだ、好きか……わからないから」


 そういうところも可愛いと思う。

 でも、俺は悟った。もう一回怒られる事にして、甘い唇に噛みついた。

 狙っていたとしか思えないタイミングで、女の声が割って入る。


「羨ましい」

「うわあっ!」


 宗平が、弾んで逃げた。

 忍び寄ってきていた事に気づかない俺も俺だが、和枝がカウンターの端の方で膝を抱えて座り込み、俺たちを見あげていた。妖怪か。


「空気読んでよ」

「ごめんなさい、つい声が。続けて?」

「無理でしょう。繊細なのうちのメェちゃんは」

「かっ、かっ、かっ、カナさんこれは違……ッ」


 あたふたする宗平を和枝が眩しそうに見つめる。ああ、駄目だ宗平。名前なんか呼んだら憑りつがれてしまう。可哀相な宗平。


「そ、そうだ。カナさん、食欲ないって言ったから、リゾット作りましたから、お腹すいたら食べてください。ここにありますから」

「……作ってくれたの? ……ありがとう」

「冷めても美味しいです」


 ひよこのような眼差しを受けつつ、宗平が自信満々といった様子で頷いた。

 事態の悪化を防ぐため急いで食事を済ませ〝仕事部屋〟に移った。和枝はタブレットとノートパソコンを持参していた。


「うわ……」


 宗平が入口で若干引いている。

 窓のない八畳というだけで、中の機材はオフィスと同じだ。だが和枝が電気を消したまま機材を立ち上げたせいで、より監視室らしさが際立っている。俺は電気をつけた。一脚しかない椅子に和枝が座った。


「どうするの?」


 和枝は生き生きとしている。甘やかして懐かれては困るが、それこそ、今は和枝の寂しい気持ちを利用して仲間ごっこをするのが得策だ。それに俺は少し期待していた。この女は、俺がを、してくれる。

 宗平の腕を引いて中に入れ、扉を閉めて寄りかかり腕を組んだ。


「宗平の友達二人が宝珠院仁之ほうじゅいんまさひとの配下として現れた。その時に、元はルイという奴の下にいたらしい事を口走って、宗平をコウと呼んだ。三人に〝様〟をつけて呼ぶ。三人の関係に心当たりは?」


 和枝が椅子を回す。


「仁之に兄弟はいないの。それに平和主義者で、何か大きな事を企んでいるわけでもないし。生きる場所を与えているだけよ。だからメェちゃんを襲う事自体ありえない」

「……」


 早速、宗平の顔が蒼くなる。俺が見えるところでそう呼んだせいなのか。しまった。失敗した。だが今は、メェちゃんと呼んでいいのは俺だけだと釘を刺すのは後にして、片付けてしまいたい。

 

「知り合いなんですか?」


 宗平が、訊いてしまった。

 和枝は椅子を回すのを止め、にこやかに宗平を見あげた。


「誘われたの。でも忙しかったから断った」

「さ、誘われた?」

「だから、みんな生きる場所が必要だから」

「わかったわかった」


 二人を止めて、話を先に進める。


「でも実際そっくりで、襲われてるわけだから。理由があるんだよ」

「私が会った時、ルイの存在は感じなかった」

「カズーシェンは?」

 

 宗平が言った。

 そうだ。宗平と仁之の事ばかり気になって、一瞬忘れていた。


「誰?」

「仁之がカズーシェンの容態を心配しているから、俺に早く来て欲しいって」

「知らない」


 首をふり、和枝がリサーチをかける。俺もかなり際どい情報を扱うが、和枝のプラットフォームはもっと暗く、深い。だが何も出なかった。


「カズーシェン。シェーン。ズーッシュ。か、ずぅ。かぁ、ずしゅえん」


 和枝がモニターを見たまま、発音を変えて呟き指を躍らせる。


「ミハルスの前組織はフィグスという秘密結社で、大戦後の反共産中華人と亡命したロシア人、それにわずかだけど残留した日本人が主な構成員なの。仁之が日本名なのも戦争で利用されたくないからって言っていた」

「仲良しじゃん。他になんて言ってた?」

「優しい国を作りたいとか、そういう、いいこと」


 俺を刺しておいて、優しいも何もない。

 唐突に古い映像が弾き出された。詰襟のドレスを着た幼い少女。七歳か、せいぜい十歳。遅れて音声が流れた。音源が不鮮明だが、どこか人前で歌っている事は確かだ。


「誰」

 

 つい、意味もなく訊ねた。だが俺はその時モニターに映る少女に既視感を覚えた。咄嗟に、真横に佇む宗平の顔を見る。蒼いまま少女に釘付けだ。

 似ている。……気がする。


「出た」


 和枝の一言でモニターに目を戻すと、古い写真が数枚と、当時のニュース映画の動画、新聞記事、親書らしき物数点が表示されている。


「この子は<紫萱ズーシュェン>……見て、こっちの写真。膝から下がない。爆撃か栄養失調か奇形かわからないけど、……これは見世物小屋なのね。ひどい」

「今いくつ」

「八十くらいじゃない?」

「ああ、それで。容態が」


 終戦間近、見世物小屋で歌っていた少女が、現在はカルト教団の教祖に体調を気遣われる立場にいる。何があったか、その人生のドラマは知る由もないが──と、その時、信じられない事が起こり、俺は息さえ忘れた。

 宗平が、歌っている。

 

「──、─、──」


 鼻歌で歌詞はないが、旋律はしっかりと、古い音源に重なっていた。口ずさむ宗平自身、信じられないという顔をしている。

 和枝が椅子を回し、宗平を見つめた。


「どこで覚えたの?」


 先を越された。俺が訊きたかった。しっかりしろ、俺。

 宗平は歌うのを止め、少女から和枝に目を移した。俺は宗平の腕にそっと手を添えた。無意識か、宗平が俺の手を探り、握った。震えて、汗が噴き出していた。


「母さんが、よく歌ってた」

「喂妈、告诉我那颗星星的名字」


 和枝が旋律の後を追うように、歌詞を呟く。発音から、正確に理解しているのがわかった。俺は訊ねた。


「なんて言ってる」

「『ねえお母さん、あの星の名前を教えてよ』」


 宗平の手を固く握る。

 和枝が歌詞を訳し続ける。


「『お姉さんのように素敵な人と結ばれたいの、星が教えてくれるって、お母さんは言った、お父さんと結ばれたお母さん。今はもう誰もいない』」


 少女はあどけなく笑い、手ぶりをつけて歌っている。観客たちに余す事なく目を向けて、一人一人に語りかけるように。


「『時々夢を見るの。今日も見た。家族で暮らした懐かしい日々。あの星の名前が知りたいの、連れて行ってもらうのよ。だから夢で会いましょう。どうか私に会いに来て、おやすみなさい。優しい夢。ああ、優しい夢』」


 自分の境遇に重ねているのか終盤はひどく頼りない声だった和枝だが、動画が止まると椅子を回し再び頭から再生させた。


「優しい夢……」


 宗平が呟く。


「能登が、間際に言ったんだ。〝暫し、優しい夢を〟って。何を唐突にって思った。変な挨拶だなって。俺は──……」


 モニターで歌う遥か昔の少女を見つめ、宗平が息を震わせる。


「温柔做梦。紫萱の、優しい夢」


 和枝が呟いた。呪うような、唱えるような、暗さで。

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コラテラル・ホープ 百谷シカ @shika-m

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