第十八話 愛と哀しみの果ての帰還(中)


 むふぅ、という驚きの声を呑み込んで、視界の隅で泳ぐ宗平の手を眺める。慌てている。でも嫌がりはしない。俺をつき飛ばせば済む話なのに。

 けれど互いに、情欲に火はつかない。

 宗平はそれどころではないし、まだ俺を対象として認識していないのだろう。俺はやはり、枯れたままだからだ。

 過ちが起きなくてちょうどいい。


「ぷはっ! な、なんすか岡谷さんッ」

「キスよ」

「今っすか。それ、今っすか」


 色気がないような、そこが可愛くて可愛さの奥に色気を感じるような、不思議な感覚だ。


「……んだよ、一人で笑って」


 少し機嫌を損ねた。だが悪態をつくくらいの元気が出て、かえって嬉しいくらいだ。シャワーを置き、シャンプーのボトルを開ける。


「洗ってあげようか?」

「お願いしません。ください」


 不貞腐れて向けられた掌に液を垂らし、自分の分もとってボトルを戻した。男と向かいあって髪を洗うのは初めてだ。いや、あの頃も、事後にシャワーを浴びただけで、入浴を一緒にした記憶はない。

 

「初めて人のシャンプー見たよ」

「そうですか」

「メェちゃんあるの? 男同士で?」

「あるでしょ」


 え、なんで。


「だって修学旅行とか合宿とか、銭湯とか。男湯しか入った事ないですよ。あぁ、岡谷さんは銭湯とか縁なさそうですけど」

「あ、男湯ね」


 そっちか。なるほど。

 親密なバスタイムという認識は俺だけで、宗平は健全な気持ちだけ持って入ってきたのだ。つまり、俺の方が好きだし、俺の方が意識している。これは片想いなのだ。いい。くすぐったくて、ほどよく気が引けて。

 どうせ一線を越える事はできないのだから、諦めもついて楽というもの。

 抱きしめるだけで、幸せだ。


「そっかぁ」


 口に出た。

 宗平は上手に頭皮をマッサージしている。


「そっかぁ、って。あーでも、岡谷さんみたいに頭いい金持ちは、学校行事でも個室なんですか? 嫌味じゃなくて。住む世界が違いすぎじゃないですか。ボロいのとゴツイの、別荘二軒持ってるし。ちょっと想像つかない」


 宗平の声を聞きながら俺は納得した。今、幸せなのだ。


「メェちゃんほどじゃないよ」

「それは……。でも、俺は自分で自分に翻弄されてどうにもできないけど、岡谷さんはちゃんとコントロールできるでしょ。自分の人生」

「そうでもないよ?」


 一旦話を区切り、互いに頭の泡を流す。

 濡れた髪を後ろに撫で付けると、宗平は少し大人っぽく見えた。端正な顔立ちだ。


「だとしても、ハッキリして欲しいんですけど」

「うん」

「もうキスしないって言いましたよね?」

「えっ?」


 思わず大きな声が出た。

 それを落ち着けてから、両方の掌をふって釈明に努める。


「言ってないよ。嫌がるなら触らないって約束したけど。メェちゃん嫌がってないもん。やめて曲解」

「あ、そう、ですか。でも嫌じゃないはしたいじゃないから、俺がしたくなるまでしないでください」


 アナウンサーみないな真面目な顔で言われると、少し堪える。

 

「わかったよ。はい石鹸」

「どうも。あのひと、名前で呼ぶんですね」

「え?」


 ウォッシュタオルで石鹸をもみながら、宗平が斜め向こうに視線をずらした。頬が上気しているのは血行が良くなったからで、嫉妬したわけないはずだ。突然、どうした。


「真っ先に情報くれたのもあのひとだし、仲いいんですね」

「やめてよぉ」

「遥来くらいには仲いいですよ、ここ来るんだから。傍から見たらそうです」

「宗平」

「曲解しないでください。遥来に酷い事した奴なのに、なんでかなって気になるだけです」


 石鹸を返され、一度も目が合わないまま体を洗い始める。

 慌てる事もないが、誤解は解きたい。充分な広さのあるバスルーム、だがそれなりにスペースに気を遣いながら伝えてみた。


「あのお姉さん、仲良くなりたい人と勝手に仲良くなっちゃうんだよ。心で」

「好かれてるんですね」


 嫉妬ではないとしたら、なんだ。

 ママが僕以外の子に話しかけている的な独占欲か。いや、そんな幼稚じゃない。やっぱり嫉妬か。


「うん。お友達認定されちゃうんだよね。たぶんメェちゃんもあとで名前で呼ばれるよ。若い子の面倒見るの好きそうだし」

「でも遥来に」

「遥来は母親に虐待されてたから」

「えっ?」


 目が合った。


「そう。自分も似た境遇だったから放っておけなかったんでしょ。庇う気ないけど、まぁ、そういう理屈なんだよ。あのひと」

「……だから、三人で父親、こッ、……コロしたってこと?」


 言いなれない単語だろう。可哀相に。


「ん~、正確には、二人? 一応、兄は実行犯じゃないみたい」

「なんで二人の姿がないんだろう」

「それ。俺も気になってる」


 宗平の気が和枝個人の問題に向いて安堵を覚えた。

 嫉妬なら嬉しいが、嫉妬されたところで充分に返せる甲斐性がない。複雑なのだ。だから深く考えたくない。今は宗平を守り通せればいい。


「その兄じゃない方と熱愛中だから、俺は仲良しじゃないんだよ」

「ちょっとヤンデレっぽい」

「相当だよ。大変なんだから。ずぅーっと、お友達になってお友達になってって、しつこくて。指名手配犯だよ? 連絡とりたくないって言うの」

「通報しないんですね」


 それを言われると、辛い。


「とにかく、好きになったの宗平で二人目だから。本気だよ」


 宗平が手を止め、刮目して叫んだ。


「あんた全裸でなに言ってんだよ!」

「告白。ちょっと気をつけて? 転ばないでよ?」


 触るなと言って俺を叩こうとした手が泡で滑る。ぬるついて生暖かくて、少し笑えた。少し触るくらい、いいだろ。

 バスルームを出ると、脱衣所には着替えが用意されていた。和枝が音もたてず勝手に発掘したのだ。恐ろしい。宗平も一瞬の躊躇いを見せてから、渋々サイズの合わないシンプルな部屋着に腕を通している。

 一人で優雅にお茶でも飲んでいるかと思いきや、和枝はリビングに医療品を並べ鎮座していた。俺を見て一瞬、口元を緩める。様子がおかしい。咄嗟に腕で宗平を庇った。


「えぇと、何かあった?」

「座って」


 また無理な笑い方。

 佇んでいるとソファーを叩いて再び呼ばれ、仕方なく従う事にした。癇癪を起されても困る。途中まで来て、今度はきちんとした笑顔が宗平に向けられた。


「お水持ってきて」


 わずかに首を傾げ、子供に手伝いを頼むような口調で冷蔵庫を指さしている。


「あ、はい」


 気圧されているためか、宗平は素直に従った。

 いよいよ年貢の納め時だと覚悟を決めて和枝の隣に腰を下ろす。広げられた包帯やガーゼ、縫合セット、消毒液に軟膏に頓服薬。空の注射器に、フェンタニル注射液。理解した瞬間、なぜか冷えた。


「死んだのか?」


 声を潜める。宗平は冷蔵庫をまだ閉めていない。

 和枝のまぶたが、ゆっくり震えた。ほぅ、と妙な息の吐き方をする。


「うつってくれなかった」


 舌足らずに呟いて、眼差しを泳がせる。

 和枝はありえない感染を望んだ。一緒に死にたかった。それなら、死んだのは京條きょうじょう一總かずさだ。和枝は遺された。だから一人で来たのか。


「いつ」

「こないだ」


 冷たい手が、強く手首を締め付けてくる。


「ありがとう」


 少し淀んだ頼りない目で見つめられ、同情か何かわからない居た堪れなさで固まる。逃亡の核心は、残された時間を誰にも邪魔されず分かち合う事にあったというのか。悪魔のもとに産み落とされたのは、犯罪を犯していい理由にはならない。まして逃亡する理由にもならないが、不運すぎやしないか。


「あなたのおかげで、最期まで一緒にいられた」


 四年前、遥来とは別に刑事を一人、人質に取られた。俺たちは言われるままに身代金を渡した。俺も、従兄弟の栄斗も金を持っていた。それで、みすみす逃がした。逃げたって、どうせ碌な死に方をしないと思っていた。司法にそれほど期待もしていなかった。見えない所にいてくれれば、存在しないのと一緒だ。

 癌だったのか。


「あぁ、プロですね」


 ミネラルウォーターのボトルを置いた宗平が、並んだ医療品を見て言った。俺は和枝の手を剥がし、注射液を掴んでトランクに投げた。


「強すぎ。中毒になっちゃう」

「宗平、見てて」


 和枝が穏やかに促した。

 宗平は立ったまま腿に手をついて屈み、真剣に手当ての様子を見ていたが、和枝が話し出すと明らかに緊張で表情を固めた。


「私ね、人を探してるの。宗平の事、助けてあげる。だからお友達になって?」


 戸惑いと恐れを湛えた目をよこす宗平に、俺は小さく頷く。和枝は元々正気ではない。だが今の和枝には、俺たちを裏切る理由がない。友達になってというのは、一緒に探してくれという意味だ。


「ありがとうございます。宜しくお願いします」


 宗平が神妙な声を無理に和らげて伝えると、和枝は無邪気に笑った。悲しくなった。俺を見あげて、不相応なあどけない笑顔は期待に満ちて、きっと泣いている自覚さえない。どこまでも壊れていく。


「まったく、しょうがないなぁ。メェちゃんのためだからね」

「ありがとう九重。お願い、ケイちゃんを見つけて」


 兄を探すために和枝は生きなければならない。だが和枝を生かすために、桐島圭樹けいじゅは和枝の前から消えたのだ。見つかるかわからないし、見つけられなかったらどうなるのかさえわからないが、今は確約が欲しかった。

 これで和枝は、必ず、宗平を守る。

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