第十七話 愛と哀しみの果ての帰還(前)


「えっ!」


 宗平の声がひっくり返る。

 俺は女に殴り掛かり、女は傘を軸に後ろへ旋回した。すぐさまスカートを巻きあげ頭めがけて蹴り上げてくる。体を傾けてかわすと、今度は腹に傘が突き刺さろうとしていた。


「岡谷さん!」


 その傘を握り、受け流して引き寄せる。まるでダンスのようにスカートを靡かせて回ると、女は微笑んで俺の肩に手をかけた。


「あんまりよ」


 そして容赦ない頭突きを食らった。

 一瞬くらりとするほどの威力なのだから、本人も痛いだろう。無謀にも宗平が駆け寄ってきて俺を支えた。

 女は、息も乱していない。次いで宗平の肩にも親しげに手をかけた。


「ね。遥来元気?」

「!? なんなんですかッ、あんた……!」


 情けない声で叫ぶ宗平は既に、俺を支えるというより、しがみ付いている。

 俺は宗平と女の間に腕を差し込み牽制した。俺を見あげてくる微笑みが以前よりあどけない。それだけ頭のネジがまた何本も抜けたという事だろう。

 暴れたせいで、少し、髪を食っている。


「可愛い子ね。くれる?」

「あげません」

「冗談よ」


 と囁いた直後には、掌で宗平の頬を挟んで額を寄せていた。目を剥いて覗き込んでいる。


「おっ、おか……っ」

「本当にそっくり」

「見えないだろぉ。近すぎるもん」


 存在は害悪そのものだが、今の俺たちに危害を加える気ではなさそうだ。

 二人の間に両腕を差し込み、押し広げた。女はあっさり退いて、俺の手から傘を受取る。


「昨日から待ってたのに」

「呼んでません」

「でも来てよかったでしょう? あなた来たじゃない」

「関係ありまッ──……せん」


 軽い平手打ちを食らった。女──桐島和枝きりしま かなえは同じ顔で微笑んだままだ。


「お、岡谷さん」

「ああ大丈夫。このお姉さん悪い人だけど今は敵じゃないから」


 言っていて自分で嫌になるが、そういう事だ。

 和枝が宗平の手首を掴んで歩き出す。


「来て。いいもの見せてあげる」


 嫌な予感がしてぴったりくっついていくと、和枝の荷物の中から銃と爆薬が出て来た。得体の知れない薬品と、医療品もある。さてさて、一体ここへ帰るまで何人始末してきたのか、知りたくもない。

 宗平は白くなって絶句している。


「ま、入りましょ」


 生体認証で開けた出入口から中に入り、即ロックする。空調は自動だがまだしばらくは暑いままだ。


「ねぇ、好きな部屋を使ってもいい?」


 まるで旅行にでも来たかのように、和枝は内装を見て回りはしゃいでいる。宗平は俺にはりついて離れない。

 防弾ガラスで全面を覆ったパティオに繋がる広いダイニングキッチンは、多少埃が溜まっていたが、身を潜める分には充分快適だ。


「岡谷さん。あの人……」

「ああ、最初に教祖の名前を教えてくれた華那ちゃん」

「そう、ですか。さっき遥来元気かって」

「うん。前に誘拐しそこなってるからね」

「じゃあ……あの人が、ふっ、不破英里奈……」

「そう。程々に相手してあげて」


 一時は被害者児童として司法から別の人生である<不破英里奈>の名を与えられた和枝だが、今は桐島和枝という本名で指名手配を受けている。

 意気揚々と階段を上っていく後ろ姿に、違和感を覚えた。

 なぜ、一人で来たんだ。


「あの人、日本にいちゃまずいんじゃ……」

「ん~、でも俺たちもドッコイドッコイじゃない? 今」

「あ……あぁ……」


 宗平の安全が第一である今、あれほど頼れるアウトローもなかなかいない。

 再三、交友関係を打診されているし、本人も助けるつもりで来ているのだろう。それが彼女の歪んだ理論だとしても。

 和枝の姿が上階に消え、無意識に宗平を抱き寄せていた。身じろぎするのを封じるように力を込めたところで、何をしているか気づいた。


「お……岡谷さん……っ」

「ちょっと、このまま」


 存在を確かめたい。それだけだ。

 生い立ちから己の安全のために建てた要塞にいて今、別の命を守ろうとしている。不思議だった。それほどまで執着できる人生ではなかったのに、宗平を守らなければと思ってしまった時から俺は、必ず生きなければならない者に変えられた。もう自分で考えてやっている事ではない。突き動かされるまま、ここまで来ていた。


「宗平」


 その名を呟いてみる。

 細く見えてそれなりに鍛えられた肩が、無抵抗に腕の中に収まっている。髪に鼻先を埋めながら、体温を味わう。

 ゆっくり。じんわりと浸食してくるように、分け与えられる熱。

 宗平は俺より、平熱が高い。


「あ、あの……」

「恐かったぁ」

「いやっ、俺、も、ですけど……っ?」

「死んじゃうかと思った」


 宗平がミハルスの宝珠院と深い関係にある事は、疑いようのない事実だ。

 本人の臀部にある痣、カスタネット。宗平の友人を装って傍で学生をしていた河上と能登、それぞれの発言。コウ様、ルイ様。それに、容態を気にしろと言ったカズーシェンなる人物。

 どうやら宗平本人の命が狙われているわけではなさそうだという一点が救いだが、現状、希望の一筋も見えない。


九重くのえ


 階段に再び姿を現した和枝が二階近くに腰掛け、微笑んでいる。

 腕の中で宗平が身を強張らせ、息を止めた。宥めるように肩をさすった。


「恐がらせないでよ。うちの子、ナイーブなお年頃なんだから」

「傷の手当てをする前にシャワーを浴びて」

「自分でしま──」

「シャワーを、浴びてきて」


 柔らかな声は強引だ。

 宗平の肩に手を置いて、それを合図にバスルームに向かった。一階と二階、どちらにもあるうちの一階を選ぶ。心細そうな宗平と階段から微笑み続ける和枝を見遣り、やはり一抹の不安を覚えた。


「一緒に入る?」

「はい」


 体操のお兄さんを夢見ていた宗平は、実に機敏だ。ぴったり背中にはりついて、まるで体の一部かというくらい同時にバスルームに収まった。

 


「こっちは任せてぇ」


 和枝が声を張り上げている。

 当人の身の安全を心配しなくていいという点では、最適な護衛だ。

 俺が服を脱ぎ始めると、宗平も脱ぎ始めた。下着を脱ぐ前にシンク脇のキャビネットに保管してあったバスタオルのビニールを剥いで、シンクの空いたスペースに二枚重ねる。


「九重ぇぇぇ、こっちは任せてゆっくりしてねぇぇぇっ」


 返事を求めているのか、構って欲しいのか。


「ほら、メェちゃん。メエェェェって言ってあげて」

「ええっ?」

「エエじゃなくてメェ」


 宗平は気が乗らないらしい。重いため息をついて肩を落としている。だから放っておくことにした。

 温度調節をして頭から湯を浴びていると、また真後ろに宗平が立った。ヘッドを持って身を返し、向かい合って湯をかけてやる。思いつめた眼差しが腹部に注がれた。確かに、少し、傷口が開いている。痛いと言えば痛い。


「見た目ほど酷くない」

「ごめんなさい」


 気に病みそうな人の好さも、すごく可愛い。

 顔面にシャワーを浴びせると、宗平の肩が少し跳ねた。咄嗟にかたく瞑った目が、濡れた瞬きを繰り返して頼りない視線を寄こしてくる。


「俺、あの人に手当て習います」

「いや、触らないでおいて。たぶん違法だから」

「でも」


 もう一度、顔面にシャワー。


「素直に守られなさい」

「だって」


 また、濡れた瞬き。


「岡谷さん、本当ならそんな義理ないし」

「あるよ」

「嘘だ。変な客のスマホ直したせいで巻き添え食っただけじゃないっすか」


 頑固だ。三度目はその頑固な口が屁理屈をこねないように、長く飛沫を浴びせ続けた。水中さながら目と口を閉じている顔を見つめながら、膨れ上がる想いに身を任せる。


「もう、あるんだよ」


 後ろから頭を抑え、飛沫を逸らし、唇を奪った。

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