第十六話 初夏のあらしの夜の夢(後)


 出発間際、岡谷はまた、のらりくらりとしたあの岡谷に戻った。

 日が傾き始めた頃、森に入る。岡谷は草木を掻き分け早足で進んでいく。一億と家庭仕様の救急箱と岡谷の着替えが収められたスーツケースを俺はほぼ走る形で追いかける。

 これが歩くと言えるか別として、一時間ほどの地点に次の車が隠してあるらしい。それで南下していくと聞き、少し両親の事を考えたが言う暇はなかった。

 兄妹のようにそっくりな両親を不思議だと感じる事はあっても、訝しんだ事は一度もなかった。喧嘩もする普通の家族だ。大切な家族。違うのだろうか。

 息を切らし、汗を拭い、無言で森の中を歩き回る。日が落ち始め、橙色から薄闇へと景色が変わり始めた。岡谷も急いでいるのかもしれない。走れると告げようと息を整えた時、岡谷が振り仰ぎスーツケースを投げた。

 生まれて初めて、死を覚悟する。

 囲まれていた。白い服を着た奴らが木の陰から湧き、立ち竦んだまま動けず駆け寄ってくるのを見つめるしかない。

 岡谷が俺の腕を掴んだ。


「生きろ」


 それだけ言って、離れていく。

 広い背中を目で追っていると、数人に取り囲まれた。銃こそないが、何人も刃物を光らせ襲い掛かる。素手で応戦する様は一縷の望みを抱くほどには見事だった。だが多勢に無勢で、あっという間に取り押さえられた。

 俺も背後から肩や腕を掴まれ、数人がかりで引きずられる。

 一瞬だった。

 岡谷は左右から屈強な男たちに押さえつけられ、跪いた姿勢で顔や腹に暴行を受けている。

 目に熱が走った。

 引き離されていく。岡谷が傷つけられている。悲鳴も上げず、時折身じろぎして睨みつけるだけで、抵抗もしない。

 なぜ、こんな……。

 関係なかったはずだ。本当なら。

 振りほどこうとしても押さえる力は強く、十人は下らない集団が俺に群がっている。絶望的だった。それ以上に激しい怒りが沸きあがる。

 岡谷を囲む中に知った顔が見えた。河上だ。ナイフを掲げタイミングを計っているようだ。その視線は岡谷の頭部に注がれていた。俺は、声をあげた。


「放せよッ」


 途端、顔から地面に突っ込む。

 一瞬なにが起きたか理解できなかった。身を起こしながら、あっけなく開放されたのだと気づいた。咄嗟に振り仰いだが、誰も俺に触ろうとしない。ただ立っている。

 理由がわかった時、虫唾が走った。

 顔だ。

 俺の顔は、瓜二つ。教祖と同じ顔をしている。

 本人と間違われているのだとしたら、身柄を拘束されるような事は在り得ない。だから岡谷の推察が正しい可能性がある。俺が知ろうと知るまいと、こいつらにとって俺と教祖は同類なのだ。

 河上がナイフを振り下ろす。


「やめろ!」

 

 叫んだ。

 河上が寸でのところで動きを止める。

 風の音をかき消すように、血管を走る血の音が耳の裏から木魂する。

 信じるしかなかった。俺には、教祖のように命じる力があるのだと。もしそうだとすれば、あまり取り乱しては説得力に欠ける。俺には力がある。余裕があるはずだ。

 やれる。 

 可能な限り、そう、高圧的に言うんだ。



 気味が悪いほど素直だった。一瞬で解放された岡谷が、息を整えながら俺を見つめた。誤解されたくはないが命がかかっている。

 膝が笑わないよう祈りながらゆっくりと立ち上がり汚れを叩いた。失神しそうだ。それでも威厳を保てば、もったいぶっているように見えるはずだ。

 全員の顔を見回しながら距離を詰める。ざっと三十人近くいるように見えたが、冷静に数えたわけではない。


「おまえたちは何もわかっていない。帰ってあの男に告げるんだ。まだその時ではない。とんでもない酷い勘違いをしている、と」


 口から出まかせだが何人か不安の色を示し、ざわめきが起きた。河上がナイフを収め、俺と対角線上に移動していく。そこに信者たちが集まるのだから、この集団のリーダーはたぶん河上だ。俺を捕えていた方では、奥から能登が進み出てきて河上に並んだ。

 もう学生の日々は終わった。

 もう、後戻りはできない。


「ここまで泳がせてやったが次は容赦しない。この男は俺が選んだ。二度と危害を加える事は許さない」

「なぜ外部から」


 河上が言った。


「金だ。上丸銀行創始者の血を引くこの男には莫大な財産がある。世迷言に踊らされ俺を兎のように狩ろうとは、あいつもよほど余裕がないな」

仁之まさひと様を侮辱するな!」


 河上が叫ぶのと同時に、何人かが怒気を見せる。だがそのすべてを軽く制した男がいた。能登だ。目を伏せ、沈黙のうちに俺を見据えた。

 ついに腰が抜けそうになったが、ちょうど岡谷の傍まで辿り着き、腿の後ろで分厚い体に寄りかかる。岡谷は姿勢を崩し、片膝を立てる姿勢で座り直した。そして改めて、肩で俺を支えた。

 能登が静かに口を開く。


「騒ぐな。これまで全く指示を受けなかったから俺たちは仁之様の命にだけ従ってきた。だがこうしてなにか仰るのであれば、俺たちはコウ様に従わなければならない。亡きあるじルイ様と同じように」


 意味不明だ。

 それに、能登はこんな冷気を放つ奴ではなかった。もっと能天気で、お調子者で、人懐っこくて。駄目だ。感傷に浸ったら情に負ける。幻だったと、受け止めなければ。

 同じように冷淡な視線を意識して、能登を見つめ返す。

 俺は、コウ様だ。驚くべき事に俺は、鼻で笑って言った。


「欠けたものは仕方がない」


 意味が分からなくても重要な情報だ。俺と教祖の他に、もう一人いる。いた。

 そう、冷淡に。


「俺は今の暮らしを満喫していたというのに。楽しかっただろう、能登、河上。俺は楽しかったよ。だが終わりだ。そちらがぶち壊したのだから、今度は俺の言う事も聞いてもらおうか」


 冷酷に。


「うんざりしているんだ。俺がこれから傍に置こうっていう男に二度も傷をつけられて、本当に悲しいよ」

「金輪際、無礼は致しません」


 能登が膝をつき、胸に手を宛て首を垂れた。すると一人また一人と同じ姿勢をとり、河上までもが俺に向かって頭を垂れる。一瞬、気が緩んだ。その時、足首をそっと岡谷の指が撫でた。

 まだ。もう一息。


「特別な事情があるのだとしても、最低、傷が癒える程度は気遣いを見せてくれたら嬉しい」

「ですが仁之様は、夏紫萱カ ズーシュェンの容態を気にしておられます」


 カズーシェン?

 河上が聞き慣れない単語を発した。だが、容態というからには生き物だろう。それでも人間か動物か、病気か怪我かわからない。迂闊な事は言えない。


「俺になにを求めている?」


 目を眇め言い捨てると、河上は歯を食いしばり黙った。なんとか大きく外さずに済んだようだ。

 能登が繋いだ。


「昊様のお言葉は一言一句洩らさずお伝え致します。ですがあまり猶予がない事も確かです。仁之様がどう仰るかわかりませんが、昊様としては、いつ御出で下さるご予定かお聞かせ頂ければと」

「こちらから人をやる」


 岡谷が口を開いた。

 どよめきが上がるものの、能登と河上のように発言するには至らない。俺は限界だった。付け焼刃の芝居も長引けば必ず襤褸が出る。能登が振ってくる踏み込んだ話題にはついていけない。


「話は終わりだ」


 首を掻き、呆れた風を装って告げた。

 能登が立ち上がったのを合図に集団は身を起こし、河上の合図で退散し始める。なんとか乗り越えたようだが気は抜けない。その証拠に一度歩きかけた能登が踵を返す。

 そして、小さく頭を下げた。会釈のように。


「暫し、を」


 そう言い残した。

 夜の近づいた暗い木々の合間に、白い影が一つずつ消えていく。俺は震え始めた。膝ががくがくするし、とてつもなく寒い。呼吸もままならず、心臓が口から飛び出ていきそうだ。

 足元に座る岡谷が俺の左手を握った。


「凄い汗」


 そして、掌を舐める。


「頑張ったね」


 低く囁く声に緊張の糸が切れ、涙が溢れた。だがいつ誰が戻ってくるかわからない。俺は動かないで影が全て見えなくなるまで見張っているつもりでいた。だがそれは、本当のところ体が硬直してしまって動けないだけだった。


「守ってくれたんだって、わかるよ。ありがとう」


 手の甲に、指に何度も唇が押し付けられる。本当は今すぐ縋りついて喚き散らしたかった。岡谷が大切だと、思い知らされた。

 暫くして、やおら立ち上がった岡谷は相変わらず立ち尽くしている俺の後頭部に手を置いて、額に短いキスを落とした。それから投げ捨てたままのスーツケースを拾いに行く。

 よいしょ、と間延びした掛け声でスーツケースを立て直し、俺の横に並んだ。まだ監視されている可能性があるから毅然とついて来るようにと囁かれ、俺は再び胸を張って歩きだした。そして永遠とも思えるような長い時間を歩き続け、岡谷の隠していた車まで辿り着いた。

 意外な姿に、事態を忘れてつい問いかける。


「キャンピングカー……どこまで」

「岡山」

「え?」


 岡谷は這いつくばり車体の下に手を伸ばしている。鍵を探しているのだろうと、頭の片隅に浮かぶ。そうして初めて乗り込んだ狭い車内で、岡谷は俺を掻き抱いた。俺も太い首に腕を回し、しがみつき、深く食われるに任せ唇を貪った。

 夜通し走り続ける間、俺は少しだけベッドで眠ったが自分の泣き声で目を覚ました。感情が暴走してあまりに泣き叫んだせいか、岡谷は車を停めて隣に座り、俺を抱いて幼児のようにあやした。


「俺は、誰なの」


 繰り返し泣きじゃくる俺を、岡谷はただ優しく抱きしめ、揺らしていた。

 そんな事を度々挟みながら凡そ十二時間、すっかり陽が上り快晴の空に迎えられる。高速を下り、市街地を抜け、またしても山間部を越えて別荘地に入っていくのがわかった。潮の匂いがする。そして山を背中に海を目にした時、またしても呆気に取られた。

 黒い壁に蔦の這う、二階建てくらいに見える横長の長方形。風情といいシャッターといい、倉庫か悪のアジトにしか見えない。ごつごつした石に転びそうになりながら、先に下りた岡谷が走っていくのを見守る。蔦を剥ぎ、指で外壁を押して、前髪をあげて覗き込んでいる。すると、音をたて全てのシャッターが上がり始めた。


「うわ……!」


 秘密基地か。

 戻ってきた岡谷はもう一度俺に乗るように言った。確かにシャッターは上がっていくが、窓があるだけで出入口らしきものがない。と思っていたら、左端に凹みがあり駐車スペースだとわかった。その奥に玄関があるらしい。

 だが説明を終えようというところで、岡谷は色を失くし口を噤んだ。


「勘弁してくれよぉ」


 うんざりした様子の、間延びした声。

 暗がりの奥、玄関の前に、黒ずくめの女性が背中を向けて立っていた。風が吹き込み、スカートが揺れる。細い足首。背の高い、すらりとした女性だ。


「世良さん?」


 もっと体格がいいのかと思っていた。女性にしては長身だというくらいで、どう見ても華奢な、というか抜群のスタイルに見える。

 傍で沈黙している岡谷を仰ぐと、目が据わっていた。只事ではない。これは緊急事態だと察する。反射的に目を戻した時、シャッターが上がりきり、女性が体ごとふり向いた。満面の笑顔。長い髪をなびかせて歩き出し、完璧に計算しつくされたかのような美しい身の熟しで日傘を広げる。

 吸い寄せられるように岡谷が踏み出し、走った。

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