第十五話 初夏のあらしの夜の夢(憩)


「いつも美味しいご飯ありがとう」


 ミネストローネを煮込んでいても、岡谷は背後に貼りついて逐一後頭部から囁いてくる。何度目かになる台詞に、こちらもいい加減慣れ始めた。


「どういたしまして」

 

 保存食料の中にトマトと大豆の缶詰を発掘し、届けられた食料の中からはハムと玉ねぎサラダを発見した。一度も使われた形跡のない調理器具を使い、簡単極まりないが俺は即席のミネストローネを煮込んでいる。

 ひとつくらい、俺らしい事をしていないと、どうにかなりそうだった。


「宗平の料理は本当に体の事を考えて作られているから、舌だけじゃなくて、胃袋も食堂も鼻も目玉も全部幸せにしてくれるね。手際もいいし。芸術みたい」


 言葉の内容ではなく、問題なのは声だ。これまで阿保みたいなとぼけ口調だったくせに、さっきから人が変わったような低い囁き声でずっと視界の外から攻撃してくる。俺が手元しか見ないのをいい事に、無防備な死角を陣取っているのだ。なんて卑怯な。


「家庭料理っすね」

「最高だよ。愛情のこもった手料理なんて、今まで一度も食べさせてもらってなかった。こんなに骨抜きにしてメェちゃんどう責任とるつもり?」

「お皿取ってくれます?」


 指示が最良の撃退法だ。岡谷の熱が背後から離れ、食器を探す物音がする。安堵したのも束の間、皿を持って隣に立った。

 思わず肩が跳ねる。


「これ汚れだよね」


 吹いたり擦ったりしながら、白い皿の角度を変える。ただそれだけの動作を、俺は凝視してしまう。奇妙キテレツなこの男の一挙手一投足が花火のように強烈な印象をぶつけてくるから、息を吐く間もなく動悸が乱れてしまう。


「置いとい」

「洗ってみよ」


 言葉尻を食い、岡谷がひどく不慣れな手つきで皿を洗い始めた。

 とりあえず火を止める。

 向かい合って総菜パンとスープという遅い朝食をとる間、ただの日常的風景なのにまともに顔を見る事もできない。


「ああ、美味しい」


 もっと普通に言えないのか。

 わざわざ低く囁く必要ないだろ。


「オッ」


 声が裏返った。


「岡谷さん、具合悪いんですか? 傷、痛むとか」

「大丈夫だよ。ありがとう」

「いや、礼を言うなら俺のほうこそなんですけど。なんか、喋るのも辛そう」

「辛いよ。こんな風に胸が苦しいのは、すごく久しぶりだから」

「……あー……。そ、う……なんだ」


 手の付けようがない。

 絶対おかしいだろう。急にこんな様子になったからには、深刻な原因があるはずだ。余裕ぶっていたが俺以上のストレスを感じていて錯乱しているとか、鎮痛剤の副作用で人格が変わってしまったとか。

 どうしよう。俺には助けてやれない。

 そんな事を考えていたら、玉ねぎを一片ふくみ損なった。スープが顎に垂れて焦った俺より早く、岡谷の指が受け皿になる。

 しまった。


「こら。お行儀が悪いぞぉ」


 間延びした口調は懐かしいが、熱く湿るように笑う岡谷は俺の知る岡谷ではない。硬直した俺の顎を軽く指で持ち上げ、人差し指で器用に薄い玉ねぎを掬ってから唇を割ってくる。


「舐めて」


 目を明後日の方へ向けて、息を止め頭の中を整理しようと努力した。

 岡谷が低く笑う。


「真っ赤だよ」


 そして指をうねらせ、玉ねぎというよりは指を舌にこすりつけてから手を引いていった。

 俺は口を押さえ横を向いて蹲り、もう片方の手で心臓を押さえる。


「宗ォォォォゥ平ェェェェエイ」


 メェの音で言われても面白くない!

 盛大に噎せてから完全にパニックに陥った俺は、正面切って岡谷に物申すという愚行を犯した。


「からかわないでください!」

「本気だよ」


 スプーンを持ったまま両肘をついて指を組み、顎を乗せて微笑む岡谷。どうかしている。長い腕や広い肩を見ていると冷静でいられない。どうかしているのは俺だ。男に微笑まれてこんなに鼓動が高鳴るはずないのに。

 咄嗟に、先刻去った遥来という嵐を思い浮かべる。麦わら帽子から流れる黒髪(ウィッグ)と悩ましげなチョーカー(傷隠し)、丸くて可愛い大きな目(メイクで割増)と清楚で可憐な白いワンピース(ただし貧乳)。

 いや、あれだって男だ。


「可愛いなぁ。こんなに取り乱しちゃって。待とうと思ったのに、もっと見たくなっちゃうよ。いいの? 俺を煽ってさぁ」

「なっ、なにを……ッ」

「冗談。安心してよ。大事にするから」


 言うだけ言って、岡谷は微笑んだまま食事を再開する。穏やかなのは表情だけではなく、雰囲気も決して悪くはない。安心していないのかと言われると、俺は安心している。岡谷といると安心する。だがこの甘ったるい空気からは解放されたいという事を強く主張したい。


「本当にどうしちゃったんですか、岡谷さん」

「ふふ。メェちゃんも気づかないふりか」

「しっかりしてください」


 パンを口に含みながら向けてくる視線が、やんわりと絡みついてくるようで落ち着かない。作ったはいいが全く喉を通らない。岡谷のせいだ。絶対に今日も体力勝負な一日になるはずなのに、こんな事では切り抜けられないではないか。

 俺を助けたいのか、おちょくりたいのか。

 現実を見るべきだ。


「あ、あの……昨夜、別のところに移動するって言ってましたよね」


 これが絶妙な効果を発揮した。

 岡谷はきょとんとしてから、昨日まで見慣れた普通の岡谷に戻って言った。


「ちょっと考えてるんだよねぇ。メェちゃんがわりと体力あるから、日の暮れるギリギリの時間帯で歩いて、夜になってからメーター振り切りまくって疾走しようかなぁ。どう?」

「任せます」


 正直なんでもいい。

 のんびりした呑気な兄貴に戻ってくれただけで、俺は満足だ。

 と、油断した瞬間。岡谷が目を細め笑った。


「じゃあ、ゆっくりできるね」

「……」

「その間に好きになってもらえるように努力しなきゃぁ。じゃないとさ、キスもままならないだろ。切ないよ」


 なんなんだ。

 俺が何をしたっていうんだ。

 その声と顔で男を口説いてどうするんだ。

 無駄遣いは金だけにしろ!

 心の叫びも空しく、午後は最悪だった。俺は岡谷の熱をなんとか振り切ろうと努力したが、その度に声がひっくり返ったり動悸息切れに襲われたりして、威厳の欠片もなかった。途中からぐったりしてしまい、もうのぼせる頭を抱えて顔を背けるくらいしか抵抗する術がなくなってしまった。

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