第十四話 初夏のあらしの夜の夢(中)


 スフィンクスのような姿勢で腰を抜かした俺とは対照的に、岡谷があくびしながら伸びまでしている。長い手足だ。そして、緊張感の欠片もない。

 まさか、本当は岡谷もミハルスの──


「大丈夫、それ遥来だよ」


 そんなわけあるか、と突っ込めるような度胸はない。

 岡谷がのっそりと起き出し、カーテンを細く開けて見下ろす。


「うん。遥来だ」

「……」

「何時? なぁんだまだ七時じゃーん。メェちゃん歯磨いたりしてていいよ。俺も着替える」

「え」


 言うと岡谷は俺の頭を撫でてから、腹を掻きながら部屋を出ていく。マイペースにも程があるだろ。その余裕がここは自分の持ち物だという意識から来るのか鈍いのか謎だが、そこまでされるとこちらも気を抜こうかという気持ちも起きてくるから不思議だ。

 胸を撫でおろし、同じようにカーテンを細く開けて見下ろした。


「……いやいやいや」


 白いワンピース姿の黒髪ロング女子が、


『はぁっ? 歯磨きだ? 今すぐ開けろこのクソカルトポンチ!』


 扉を蹴っている。

 通話が切れた。確かに、遥来の声のような気がした。

 激しい動悸を鎮めるため深呼吸しているうちに、昨夜洗濯しておいた服を持って岡谷が戻って来た。乾燥までのコースにしたから乾いたが、皴になった。

 着替えている間に催促で扉を蹴っているらしき音が聞こえ、岡谷を急かして一階に下りた。

 岡谷が扉を開ける。白いワンピース姿で麦わら帽子を被った(けっこう可愛い)女子がかなり大きなスーツケースを引きずり入ってきた。首元はスカーフではなくてチョーカーだ。傷はうまく隠れている。


「朝から悪いね。長旅お疲れ様ぁ~」

「あのさ、言うけど僕寝てないからね。徹夜」

「その割にメイク乗りいいな。若い。ぴちぴちぃ」

「っていうか、なんで女子?」


 二人の会話に割って入る。

 遥来がどっかり椅子に座って足を組んだ。


「馬鹿だな変装してるってわからない?」

「わかります、けど……」

「あなたが追いかけられてるから尾行されないように頭使ったの。体もね」

「可愛いじゃん。なにで来たの?」


 ハーフアップを解き、手櫛で髪を後ろへ流しながら岡谷が言った。

 途端、なにか胸に引っかかるものを感じる。


「車。世良せらさんとホテルで男女入れ変わってから別のところに停めてあった車でそこまで来たよ」

「セラさん?」


 初めて聞く名前に岡谷を仰いだ。


「警視正の妹。軍人みたいなガチムチ美女。ブラコンでね」

「日辻君なんか指先でポキッて首折られるよ」


 それは恐い。

 聞くと岡谷が刺された日に事態を伝えてあるというあの月城警視正の五つ下の妹で、外務省勤めの女傑らしい。身長は岡谷の鼻くらいというから、俺より遥かに逞しいようだ。そんな女性といくら変装のためとは言え、連立ってホテルに入るのが遥来というのはちょっと妙な図である。


「脅かすのやめてぇ? ねぇ、なんか食べ物持って来た?」

「パン。金とパン入ってる」

「ありがと~」


 この二人も妙な図である事は、確かだ。

 しゃがみ込んでスーツケースを開く岡谷の背を、ミュールの素足が不躾に蹴る。


「ちょっとぉ、やめてってば」

「寝てないって言ってんだろコーヒーぐらい淹れろタコ」

「ないもん。もっと労わってくれてもいいんじゃない? 俺、刺されたのよ?」

「その図体でぶりっ子すんな」


 文字通り足蹴にされても怒らない岡谷と女装した遥来は、恰好が恰好なだけに随分と仲がよく見える。実際、二人は雇用主とバイトという関係以上の絆があるのだ。

 岡谷のキスを思い出した。

 胸の痞えは、それか。


「はいメェちゃん。あんぱん」


 しゃがんだまま、岡谷が腕を伸ばしふり向いて見あげてくる。すぐには受け取れなかった。すると岡谷はパンの種類に問題があると判断したのか、再びスーツケースをあさりコロッケパンを差し出してくる。


「食べて元気だして?」

「できればゼリーとか……」

「はあぁっ?」


 遥来が吠えた。


「ここまで来て甘えるってどういう事? 黙って食えよ」

「ごめんなさい」


 俺はコロッケパンを受け取り袋を破いた。

 岡谷が立ち上がりテーブルに覆い被さる形で手をついた。広い背中をなんとなく見つめる。遥来も岡谷を見あげていた。二人は、見つめ合っているようだった。


「ありがとう。帰ってゆっくり休んでいいよ」


 岡谷が低く囁く。

 だが遥来も、遥来なりの低い唸りに似た囁きで切り返した。


「邪魔されたくない?」

「遥来」

「勘違いさせたら可哀相だよ。今、王子様みたいだから」


 見つめ合い密かな怒りをぶつけあう様子は、それだけ関りの深さを感じさせる。黙り込んだ岡谷を強い眼差しで捉え続ける遥来が、嫣然と微笑んだ。その美しさにぞくりとする。


「気づいてないんだ」

「なにが」

「気づかないふり?」

「だから、なに」


 遥来がゆっくりと立ち上がり、岡谷と対峙する。その近さに見ていて息が詰まった。俺はコロッケパンの袋を持ったまま、握りつぶさないように気を配る。

 遥来がまた低く囁いた。


「頼んでないのにあれこれ与えられてきた人にはわからないかもしれないけど、世の中には、くださいってお願いしなきゃ手に入らないものばっかりなんだよ。お願いしても貰えないものだってたくさんある」

「なにが言いたい」


 遥来が岡谷の腕を叩いた。


「がんばってね狼さん」


 そして椅子を引いて髪をなびかせ小さな円を描き歩き出す。どこからどう見ても女子にしか見えない。


「昨日警備を撒かれたのは、どうも教祖が出てきたからみたい」

「えっ」


 ついにコロッケパンが潰れた。どういう事だ。

 遥来が俺に一瞥をくれる。


「あなたと同じ顔で助けてって言われたら助けに行っちゃうでしょ。迂闊だった。ミハルスが病院のスタッフに潜入したのか潜在していたのかわからないし、しばらく隠れてくれた方がこっちも動きやすいって月城さんが言ってた」

「今日中に移動する」

「うん。こんな襤褸家で口説けないからね」


 体ごと振り向いた岡谷の表情に凍りつく。苛立ちを顕わにした顔を見るのは初めてで、造形が整っている分、とてつもない迫力があった。


「ふざけてこれ以上メェちゃん脅かすな」

「鏡見てから言って。じゃあ僕、帰ってあげる」


 肩をすくめて笑う姿など本当に可愛い女子でしかない。遥来は満面の笑みで俺に麦わら帽子を被せてくるりと身を翻した。髪がなびく時の甘いシャンプーの香りといい、ふわりと膨らむスカートといい、徹底している。凄い。

 出ていく際に戸口で肩越しに振り向いたその妖しい笑顔も、見事だった。

 沈黙が落ちる。

 遥来がそれらしいという印象は初日から受けていた。だが岡谷もそうであると疑った事は、実のところなかった。だが昨夜、唐突に重なった唇は俺に一つ決定的な事実を突きつけていた。

 俺は、嫌じゃなかった。


「うちの遥来、可愛いなぁ~」


 岡谷が立ったままコッペパンに齧り付く。俺は冷蔵庫からペットボトルを二本出してテーブルに置いた。


「ジュリはどうしてるんですか?」

「なんか強そうな獣医さんと付き合ってるから、預けて来たんじゃない?」

「そう、ですか」

「俺が嫌なら遥来と代わるよ。まだ間に合う」


 気遣うような低い声があまりに優しくて、胸が苦しくなる。

 俺は潰れたコロッケパンをテーブルに置いて、迷った。だがまず口をついた一言に、俺自身が驚いた。


「俺は遥来の代わりですか?」


 岡谷は答えなかった。

 二人とも、迷っているようだった。恐らくは、己の気持ちが掴めないのだ。俺も、岡谷も。


「違うよ」

「俺は、好きな人以外とキスできません」


 昨夜の事が過ちなら、それでいい。

 岡谷がわずかに焦りを見せる。


「悪かった。君が嫌がる事は二度としない。触らないよ」


 岡谷の真意もわからない。だからと言って俺をどう思っているんだというような恥ずかしい問いかけは死んでもできない。だから俺は、自分の想いを伝えるしか方法がなかった。本当だ。

 テーブルに手をついて体を支え、間近で岡谷を見あげた。


「気持ち悪いとか思いません。でも、俺は今、混乱しているから。恐い目に遇って、助けてもらって。感謝か恋か、わかりません」


 やっとのことで言葉を繋いだ。

 岡谷は確かめるように、探るように、俺の目の奥をじっと見つめている。

 息が触れ合うほど、近く。

 俺たちは互いに、離れられないような気がした。


「宗平」


 岡谷が俺の名を囁く。

 だが次の瞬間、破顔して一歩うしろへ下がった。正直、緊張が解けて俺が感じたのは安堵だった。間違っても、触れてほしいとか、そのままもう一度、確かめる意味も含めてキスをしてほしいとかそういうことは考えていなかった。


「真面目な子にはきちんとしないといけないか」


 岡谷が水を口に含む。

 言葉に若干の違和感を覚えつつ俺もペットボトルの蓋をひねったその時、岡谷が俺の両手を包んだ。ペットボトルごと。そして真面目な顔をして言ったのだ。


「メェちゃん。宗平を俺にください」


 何度目だろう。

 頭が真っ白になる。


「────」


 し っ か り し ろ ・・・

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