第十三話 初夏のあらしの夜の夢(前)


「吊り橋効果って凄いね」


 岡谷があっけらかんと言い放つ。

 俺は呆然と立ち尽くした。

 病院から逃げて車を盗みまくり、山道を抜け辿り着いたこの小屋は一体なんなのか。今はそれがわかれば充分だ。


「ここは?」


 岡谷が唇を手の甲で拭った。


「俺の別荘その一。ちなみに、四台目のアレは俺の車だから大丈夫」

「前の三台は違うんすね」

「そ」


 夜で全貌ははっきりしないが、別荘を所有しているだけ凄いと思う。

 岡谷について中に入ると、階段とすぐ右に開きっぱなしの扉があり、覗くとトイレだった。そして六畳ほどのキッチンに四人掛けのテーブル、奥の和室は三畳あるかないか。狭い。そしてボロい。繰り返すが、それでも別荘を所有しているだけ凄い。


「二階が一応寝室だから」

「あ、はい」


 岡谷は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、賞味期限を確かめて俺に渡した。喉がカラカラだ。二人して一気に飲み干し、改めて溜息をついた。


「手がベトベトする」

「かっこよかったよ」


 岡谷が蛇口をひねり、温度を確かめるように指を濡らす。俺が手を洗う間、岡谷はシンクに寄りかかり流れる水を凝視していた。疲れたのかもしれない。そう考えてから岡谷が怪我人だという事を思い出した。俺は濡れた手のまま岡谷のTシャツをまくった。


「ちょっとぉ」


 口調のわりに機敏に下がる。

 傷に当てられたガーゼには血が滲んでいた。表情に出たのか、岡谷は俺の顔を見て瞬きした後、自分でまたまくりあげ傷口を確かめる。


「あら」

「痛みますか?」

「ぜんぜん」


 その方が恐い。

 互いにかなりの汗をかいている。清潔にしておかないと悪化する。ざっと見まわしたところで救急箱がどこにあるのかはわからなかった。包帯とか、と訊ねるとそれは上の棚から出てきたが、絆創膏と消毒液と綿棒しか入っていない。ないよりはましだ。


「座って下さい」

「自分でやるよ」

「やってあげるとは言ってないです」

「じゃあシャワーあびてからやるよ」

「お先にどうぞ」


 風呂は和室の脇にあった。木の引戸で、物置かと思っていた場所だ。だが脱衣所には年代物の洗濯機があり、一気にテンションがあがった。さすが別荘。程なくして、腰にタオルを巻いて出てきた岡谷がそのまま外へ出ていくので慌てて止める。


「ガスひねるの忘れてた」

「え? じゃあ水風呂だったんすか?」

「気持ちよかったよ」

「言ってくださいよ。ガス栓くらいひねれます」

「メェちゃん出すわけにいかないでしょ~」


 結局、裸の岡谷と一緒に外へ出てガスを開けた。

 風呂場はオレンジ色のタイル張りで、小さな浴槽と水色から赤までの目盛り付きシャワーが時代を感じさせる。それでもあのホテルよりは落ち着いた。

 岡谷と同じように腰にタオルを巻いて洗濯機を回す。岡谷には安物だとしてもあと何着かあるが、俺は着の身着のままだ。キッチンに戻ると、岡谷は先日買ったルームウェアを着ていた。耳上の髪をまとめている。女子で言うところのハーフアップだ。可愛げの欠片もない。


「パンツが二階にある」

「貸してください」


 埃っぽい和室は八畳あるが、窓際に籐椅子とガラスのローテーブルが置かれているせいで狭く感じた。箪笥から新品のパンツとジャージの下が支給され、上は岡谷の例の袋からポロシャツを借りる。その流れで岡谷は蒲団を敷いた。


「一組しかないからメェちゃん使って」

「え。いやいや、岡谷さん怪我人だし」

「こんなの怪我のうちに入らないよ。一緒には寝たくないでしょぉ~」

「あ、じゃあ」


 俺は勝手ながら押入を開け、残された毛布を引っ張り出し畳に広げる。


「せめてここに寝て下さい。絶対ダニに食われるから」

「メェちゃんはいいお嫁さんだねぇ」

「蹴るぞ?」


 脅しでもしないと言う事を聞いてくれない気がしたまでで、本気ではない。

 岡谷が仰向けに毛布に転がる。俺は隣で蒲団に俯せになり腕を伸ばした。互いに疲れたと労いあい、沈黙を挟む。それから徐に起き上がり、岡谷が一階に下りた。ペットボトル二本と俺のスマホを手に戻ってきた岡谷は、再び隣に、今度は俯せで並んだ。


「電源」

「あ!」


 そうだ。よく考えなくても、逃げて来たのだから電源を切るべきだった。


「すみません、俺」

「いいのいいの。入っててよかったって意味」

「……」


 そう言えよ。わかるわけないだろ。

 岡谷は一億円と検索してから電源を切った。


「これで意味伝わるから」


 深く説明する気はないらしいが、恐らくは遥来に居場所と安否を報せたのだろうと察する。岡谷はスマホを放ると、交差した腕に顎を乗せて寛いだ。


「明日はもっとまともなところに移動するからね」


 その意味するところに驚きを隠せない。


「幾つ持ってるんすか」

「別荘? 車?」

「……」

「税金対策も兼ねてるからね。贅沢じゃないよ?」

「未知の世界」


 同じ姿勢をとって呟くと、岡谷が肩をぶつけてきた。重量だけでかなりの威力があり、ぐらりと傾ぐ。都会とは違い、黙っていると本当に静かだ。風の音さえ聞こえない。それとも実はガラスが防音とか。

 岡谷が低く呟いた。


「案外、メェちゃんもミハルスだったりして」

「えっ?」


 半身になって見下ろすと、岡谷は邪気のない顔で続けた。


「だって顔が一緒だろ? 俺みたいに、腹違いの兄弟かもよ。教祖と」


 そう言われると二の句が継げない。

 岡谷は肘枕で横向きになり俺を見る。


「本人が知らない場合もあるし」

「知りません」

「だから別の角度から探らないと。ミハルスって聞いて何考えた?」


 何って……


「検索して、カスタネットの名前だって知りましたけど」

「ふぅん。あ、そうなの? カスタネットか」


 岡谷の検索網にはそんな小学生でも見つけられる情報は上がってこないのかもしれない。と、そのとき岡谷が目を瞠った。弾けるように起き上がり俺の背を抑えジャージを剥ぐ。


「ちょっとおッ!」


 俯せに押さえつけられて尻を出すという状況で慌てないような図太さは持ち合わせていない。たとえ教祖と瓜二つだろうと、ないものはない。

 だが岡谷は早口で続けた。


「違う違う。カスタネットだよ」

「はっ?」

「この痣」


 言われて、思い当たる。

 確かに。大きさと形は、似ている。

 ただの丸だが。


「カスタネットって二枚の木の板でカンカンやるでしょお。メェちゃん、やっぱり教祖とセットなんじゃないの?」

「なにも知らないですって。だって俺、ガキの頃から──」


 普通の中流家庭で育ち、上京した。それを言おうと思った。だが脳裏に浮かんだのは全く別の事だった。言葉を失った俺から岡谷が手を放し、衣服を整え、仰向けに転がる。間近で注がれる視線に咎める色はなかった。


「なにを思い出した?」


 それはただの躾だと思っていた。実際、生活する上で役立っているし、人間関係にも恵まれてきた。単純な事だ。自分の事は自分でしなさい。料理、洗濯、掃除、買い物、日常のすべてを人の助けを借りずに、極力は買ったりせずに自分で行うように厳しく育てられた。そしてもう一つ、母親の不思議な信念。


「必ず助けてくれる人が傍にいるから、人の事は、みんな、信用しなさい……」


 その通りだった。確かに狡い奴や意地悪な奴も中にはいたが、いつもいい仲間に囲まれてここまで生きてきた。今回の事で遥来や岡谷を信頼しているのも、その精神があったからだ。

 人生論だと思っていた。

 だがもし、別の意味があるとするなら。

 俺はひたすら隠し続けていたある疑問を思わずにはいられなくなった。岡谷は静かに俺の言葉を待っている。俺は身を起こし、両手をついて体を支えた。これを口に出したら俺は、今までのすべてを壊してしまう。すべてを、まったく違うものだと認めてしまう。

 だが、言うしかなかった。


「ずっと、誰にも、言った事ないんですけど。思ってた事が」

「なに」

「両親が……」


 楽しかった高校生までの十八年間。

 それがすべて、嘘かもしれない。


「すごく似てる。兄妹みたいに」

「それは君と?」


 体が震えた。


「俺じゃなくて、二人が」


 その夜は岡谷と向き合い手を握ったまま眠った。そうしないと自分がバラバラに砕け散ってしまいそうで、恐かった。俺が寝付けないのを気づいていたのか、何度か頭を撫でられたが、ものを言う事も身じろぎさえもできなかった。

 だがいつの間にか寝たらしい。

 鳴りやまない着信音に目を覚ますと、岡谷も寝起きの目で俺の顔を見て、出たらと言った。電源を切ったはずだという事や、昨夜までの状況をすっかり忘れていたのかもしれない。

 俺は、少し覚えていた。だからスピーカーにして通話ボタンを押す。

 甲高い声が、迸る。


『あたしメリーさん。今あなたの家の前にいるの』

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