第十二話 導火線を噛む牙(後)
病院食が味気ないので、昼の後で遥来に買ってこさせた。重いと文句を垂れたが、遥来は重要な事を忘れている。食事には果物が含まれるべきなのだ。
俺が思い付きで林檎を求めると、宗平は
「んー。もう、高い……かなぁ」
と難色を示した。それで今、個室に備え付けられた申し訳程度のキッチンには桃とパイナップルが積まれている。
遥来が丸椅子をベッド脇に置き、宗平と向き合って座った。宗平はキッチン側からテーブルを寄せ、左手に桃、右手に果物ナイフを構える。
奇跡が起きた。
宗平は桃の筋にナイフを刺し込むと、くるりと桃を回し円を描いた。一度ナイフを置き、桃を両掌で包む。そして前後にそっと捻ると、桃が割れた。
「へぇ~、すごぉい」
「え。桃って食べません?」
「お皿に乗ってるのしか食べた事ない」
「こうやって剥くんです」
割れた桃の種のついた方を皿に置き、種のくぼみのある方の皮を指で摘み剥いていく。鮮やかな手つきだ。半分の半分、つまり四分の一ほどを指で剥くと、皮の残った部分を親指と中指で掴み、果肉にナイフを滑らせる。
一口大の桃がナイフの刃に乗った。
珍しい光景に見入っていると、最初の一切れを遥来が摘まんで奪った。
「あ! あぁ~、そういう事する?」
「おいし」
「岡谷さん。まだあるから」
ほくそ笑む遥来から、小さく笑った宗平に目を移す。癒された。
続けてするすると一口大の桃が切られた瞬間、俺は左手で遥来を制し、右手で桃を獲得した。汁の滴る白い果肉を持ち上げ口で迎えた時、宗平が声をあげた。
「ちょっと! 手ぇ出すな刃物持ってるんだから!」
桃と果物ナイフを抱き込むように身を引いて縮まる姿を見て目が覚める。宗平の流儀を尊重するべきだ。
「ほら、怒られたじゃぁん」
「学生課いってきた」
遥来は話を聞かない。
「日辻君、五月生まれなんだね。じゃあ先月までは未成年だったんだ?」
「そう。誕生日のすぐ後だったから、ガチでラッキー来たんだと思っちゃったんだよね」
宗平は渋い顔で桃を切っている。成人祝いで一億も手にしたら大概の若者は人生を踏み外すだろう。呑気というか、馬鹿というか。
遥来がベッドに頬杖をつき、また手を伸ばした。
「とんだプレゼント。あ、ちょーだい」
「手ぇ出すなって」
「ちょーだい」
「皿から取れって。恐いから」
「大丈夫だよ避けてあげるから」
俺の上で何をやっているんだ。
「遥来、ダメだって。メェちゃんの専門なんだから」
「ねぇ岡谷さん、日辻君先月まで未成年だったんだって。懐かしいね」
「もう十年も前で忘れちゃったよ」
遥来が未成年にこだわるのは、本人が自覚していた可愛さへの未練だろうか。ベッドの名札に書いてある年齢を見て宗平が呟く。
「岡谷さん二十九歳なんですね」
「オジサンだよ」
「いや、カッコいい系だし老けてもイケてると思いますよ。はい、桃」
「ん~? ありがとう」
ベッドテーブルに小さなフォークが添えられた桃の皿が置かれた。
明日の退院に備え、午後は俺の服を取りに宗平が一旦ホテルに戻る。今夜は久しぶりに分厚いベッドで休んできたらどうかと言ってあった。ここ数日、俺が床で寝ると言っても宗平は譲らなかったからだ。蒲団を敷くとは言っても、一メートル下の床に寝られるとこちらも心穏やかではいられない。
遥来と共に警護をつけて宗平を送り出した。
久しぶりに一人の時間を過ごし、今後の対策を練る。体面上は役員を解任されているといっても、システムそのものは俺のものだ。このまま宗平を匿っていれば、ミハルスの実態を暴く結果につながるのは当然の事だった。
遥来から久しぶりにスイートを満喫しているという連絡が入った。すると宗平も戻らない。俺は味気ない夕食のあと、昼間見た通りの手順で桃を切った。ある程度こなせたが、桃を握りつぶしそうになり結局は汁まみれになってしまった。
気が付けば院内が静まり返り、窓の外に月が見えた。薄い雲に隠れそうな三日月だ。宗平は一人で寝るのか、遥来と二人で泊まるのか。いつの間にか遥来に友達ができた事より、宗平に味方がいる事の方が大事になっていた。
足音が近づいてくる。控えめなノックの後で看護師が顔を見せた。眠れそうか問われ、問題ない事を告げる。気遣いのつもりであくびをすると、灯りを消された。これからシャワーを浴びようと思っていただけに、改めて怪我人の不自由さを感じる。
暗くなり、一人で過ごす病室の味気無さもまた俺を苛んだ。
たった数日の事なのに、世界は音を立てて変わる。これまで警護する側だった俺が、今は共に襲われる身だ。なぜか力が沸いてくる。どうして今になって、生きていると感じるのか。
そんな事をつらつら考えていると、再び扉が開いた。就寝を確かめに来たのだろうと寝たふりで薄目を開ける。看護師はそのまま侵入してきた。そうなると仕事柄か優しさでシーツをかけ直してくれるだろうとは思わない。
近づいてくる。
薄明りの中、ナイフが躍った。
俺は窓際に転がりベッドの下から看護師の足を掴み引き倒した。その手を蹴られる。中肉中背の中年女性にしては機敏で鋭い。舐めてかかれる相手ではなさそうだ。背には窓、ここは五階、ベッドを潜って来られた方が困る。だが相手はベッドに手をかけ立ち上がった。
「ミハルスか」
答えない。爛々と燃える瞳には、怨みや殺意とは別の色が満ちている。使命感。妄信。これは彼女の任務なのだ。
外の警護はどうなっているのか。
宗平は無事か。
やはり離れるべきではなかった。
「俺がやり返さないと思ってるだろ」
身構える相手の顔にティッシュの箱を投げつける。バランスを崩したところで胴体にベッドを激突させ、派手に転ばせた。その隙にベッドを飛び越え看護師の手を踏み攻撃を封じる。素足ではさすがにナイフを踏んで牽制できない。脛を引っかかれ噛みつかれながら、ナイフを奪おうとしゃがんだ。そのタイミングで二人目の看護師が飛び込んできたが、騒ぎを聞きつけたからではなく、加勢するためのようで咄嗟にキッチンの果物ナイフを掴み俺を睨んだ。
また足を噛まれる。
「痛いって」
話の通じる相手ではない。
目の前からは二人目の看護師がナイフを振り下ろしてくる。と、その頭が大きく右に傾いだ。同時に何か液体が顔にかかる。倒れた看護師の後ろには、パイナップルを振り上げた宗平がいた。
なかなかやるなと驚いていたら、宗平は続けて二人の看護師の頭を砕けたパイナップルで殴打しながら小さな悲鳴をあげた。感心している場合ではない。宗平は恐がっている。
「行こう」
宗平の肩を抱き込むように走り出した。
病室の外に警護はいない。暗い院内を、宗平はスニーカーで、俺は裸足で駆け抜ける。がさがさ煩いと思って改めて宗平を見下ろすと、先日買った服屋の袋を持っていた。こちらは入院着だ。あとで着替えるのにちょうどいい。袋を受取り、階段の踊り場で一度落ち着ける。
「遥来は?」
「へ、部屋にいる」
「一人で来たのか?」
「警備の人と。でも、追いかけて行って」
「お友達?」
宗平の目が恐れに揺れる。
「違う。でも白い服を着た何人かが、誰か担いで歩いていたから」
「それで置いて行かれたか」
「岡谷さんの部屋まで行けば安全だからって」
確かに、俺もほとんど傷が塞がり明日は退院の身だ。一人になった数分、宗平が無事でよかった。
だが病院内にまでミハルスが入り込んでいるなら、それは何処にいても同じだけ危険という事に他ならない。スーパーの駐車場、病院、次はどこだ。大学か。街全体か。
身を隠す必要がある。
「俺から離れるな」
宗平は二度続けて頷いた。
駐車場まで走る間、看護師や警備員など総勢十人以上に追いかけ回されたが、幸い体操のお兄さんを夢見ていた宗平は俊敏で機転が利き、体力も充分あった。俺の車は既に細工されている危険があり、説明するより先に他人の車の窓を割り拝借する。宗平は驚いたが、乗れと言えば乗り、しっかりシートベルトも装着した。
目的地に着くまで二回、同じ方法で車を変えた。一台目で入院着を脱ぎ、Tシャツとハーフパンツに着替え、二台目は期待を込めて平屋から軽トラックを選んだのだが、幸運にも予備の長靴が荷台にあり一応のところ身形を整える事ができた。
関東から甲信越へ一時間半車を飛ばし、高速を下り山間部に入る。ここで四台目の車に乗り換えたが、これは俺の物だ。
しばらくけもの道を切り分け進む。揺れる車内で宗平は固唾を呑んでいた。だがやがて道が開け、小さな川が見える夜の山道を上って行った先、木々に囲まれる中に三角屋根の一軒家が現れる。築四十年の狭い襤褸家だが、休憩にはちょうどいい。前に車を停めて下り、助手席のドアを開けた。
目と口を丸くして、宗平は俺に掴まり隣に立つ。そして建物を仰いでから俺を見あげた。
「ここは──」
その唇を奪ってから、頭が真っ白になった。互いに身を引き、呆然と見つめ合う。なんだ。どうした。何が起きた。混乱して立ち尽くす。
唇の感触が、冷える山風にあっていつまでも熱く疼いた。
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