第十一話 導火線を噛む牙(中)
実害が出た以上、宗平の件は最優先事項となった。
ウェブ会議を一時間早く切り上げ、午後三時、とある麻布のラウンジに向かう。ミハルスという新興宗教について警察に情報を提供する事にしたのだ。二年前に成り行きで警護した警視正の
「相変わらずこの街が似合う男だな」
「やめてくださいよぉ。一歩入れば住宅街でしょ~」
かくいう月城も見事にエリートが似合う男である。
宗平の存在やここ数日の騒動は伏せ、年若い教祖が幅広い年代の信者を従え密かに布教活動をしているらしい、とだけ伝えた。三十分も要さず別れ、宗平のアパートへ車を向ける。様子を見ておく意味もあるが、もう二度と戻れない気配が漂っているから少し家探しをして必要そうな物を持ち帰るつもりだった。
宗平はジュリと留守番している。依頼で各地に散らばっている警備班から無理のない範囲で数人を事務所に回したから、そこまでの心配はしていない。ただ、遥来の境遇に同情してか、宗平がやたらと世話を焼くようになったのが鼻持ちならないという事が言えないではない。今朝などは、遥来に「なにか食べたいものない?」とまるで甘やかすような口調で訊ねていた。遥来も遥来で、目を輝かせて「チーズ」などと答え、
「じゃあグラタンにしようか」
「ほんと? やったー。じゃが芋ほくほくなやつね!」
「味はトマトでいい?」
「やだ! とろとろクリーミーがいい」
「わかった」
というやり取りに及んだ。甘やかしすぎだろう。夏を目前にしていながら今夜はグラタンだ。
川沿いのアパートで卒業アルバムと証書の入った筒を回収し、近所のスーパーに寄っていこうと思い立つ。護衛の誰かと買い出しに出ているだろうが、初対面の宗平はあまり意見を言えないかもしれない。優秀で信頼できる男たちだが、強面で冗談の一つも言えない連中だ。宗平は、食事に果物をつけたがる。そんな繊細な胃袋を抱えた者はうちの会社に在籍していない。さぞ不自由しているだろう。
果物コーナーで適当に見繕い、期待を込めて国産牛肉とラム肉を一キロずつ買った。駐車場に続くスロープで、前方でカートを押す高齢婦人の小さな背中を見て思わず声が出る。
「ちょっとぉ、やめてよ……?」
そのタイミングで、案の定、荷物からオレンジが転げ落ちた。先は駐車場なのだから、追いかけて轢かれでもしたら取り返しがつかない。転倒すれば文字通り簡単に骨が折れる年齢だ。俺は追い越してオレンジを拾った。
「もぉ~、おばあちゃん気をつけなきゃダメだってぇ」
背後に気配を感じ振り向きざまに腰を上げた時、思ったより近くに小さな体がある事に驚いた。そのまま両手がふさがった俺の懐にすっと収まる。腹に、熱が沸いた。
「……っ」
息もできない。
目を剥いて信じられない思いで顔を覗き込むと、憎悪に満ちた顔に出会う。
「大人を舐めるんじゃないよ、若造」
河上の顔が浮かぶ。俺が言った台詞の、すっかり裏を返された。
膝から崩れ落ちた瞬間、スーパーの警備員が視界に割り込み相手を抑え込んだ。仰向けに転がる。熱い腹部に手をやると、ぬるりと滑り、硬い柄が突き出ていた。震える手で事務所に電話をかけたが、コールを聞く前に端末を落とした。
不幸中の幸いか、敵は一人のようですぐに救急車に乗せられ、中で連絡先を伝える事ができた。意識を失うわけにはいかない。どこに信者が紛れ込んでいるか全く油断できない状況で、なんとか意識を保ったまま搬送先の病院に着く。意識の続く限り、思いつく限りの連絡先を絞り出し続けた。途中からもういいと言われたが、やめるわけにはいかない。わかっている。今、死ぬわけにはいかない。
だがもう天井が回り始め、鐘のように幾重にも声が煩く響く。
ただ宗平の事だけを考えていた。
目覚めた時、俺は暗闇に一人でいた。次に目覚めた時は遥来がいたが、それも一瞬の事だった。次に目覚めた時は、弟の声が遠くから聞こえるような気がした。そしてまた目覚めた時、傍らで宗平が泣いていた。
「岡谷さん……っ!」
すぐに看護師が集まり処置を受けたが、宗平を残して出て行ったという事は俺の容態は安定しているという事だ。自分の体とは思えないほどあちこち不自由で意識が朦朧としている。
「待って。遥来に電話してくるから」
泣きながら言って、宗平はどこかへ行ってしまった。
いつの間にか名前で呼ぶようになっている。
白い天井を見上げ、ひとまず助かったのだと納得した。
戻ってきた宗平はベッドに突っ伏して激しく泣いた。何度も謝るのだが、宗平が悪いわけではない。声をかけてやりたいが、なかなか息を音にできなかった。やっとの事で肘から先を持ち上げ、頭に乗せる。実際は落としたようなものだったが、指先を髪に埋め撫でると、手首を握られた。違う。縋りつかれたといったほうが正しい。また恐い思いをさせてしまった。
これが三日目の事らしい。
意識が覚醒した四日目の夕方、つまり先刻、医師から説明を受けた。一日目は意識不明で集中治療室に入れられたが、二日目には弟の用意した個室に移されたという。なんでも筋肉が防御壁になり内臓の損傷はなかったそうだ。軽々しく奇跡などと口にする医者を笑ってやりたい気もしたが、主治医相手に喧嘩は売れない。三日目は薬が効いて逆に意識が混濁していたそうだ。面会はできたかと聞くと、部屋の外にはうちの警備が二人いて、中に一人ずっと付きっ切りだったという。恐らく宗平だろう。俺と宗平をまとめて警護する形をとったと考えられる。
医者を見送ってしばらくすると、宗平と遥来が傾れ込んできた。
「ごめんなさい……っ」
また宗平が泣き出す。遥来は拳を握りしめ、少し離れた位置で目を腫らし震えていた。
「こっちこそごめんねぇ、心配かけて。なんか平気みたい」
「……よっ、よか……っ」
「メェちゃん」
手を伸ばして呼び寄せる。躊躇している宗平を遥来が押した。そうしてやっと宗平からも手を伸ばし、俺の手を掴んだ。
「ごめんごめん。恐かったねぇ。聞いた? 俺、筋肉バカだったみたいよ」
握った手を振ってあやしても、宗平は泣き止まない。
遥来が鋭く息を吐き出し、いつになく声を押し殺して言った。
「
「ミハルスだ」
俺が口を挟むと、宗平が嗚咽を被せた。
「前の日、襲ってきた奴に言った捨て台詞のお返事されたよ」
「送検後に施設行きだって。上丸さんは」
俺が非嫡子で姓が違う。名は
「カルト教団との繋がりを隠す為に、痴呆老人の暴走って事で、起訴もしなければ示談もしないんだって。ただ収容してもらうだけでいいって言ってる」
「自殺されないように気をつけないと」
「それと、動画のせいで問い合わせがあって、岡谷さん解任するって」
宗平は泣き止む気配もない。罪悪感を通り越してパニックに陥っている気がしてきた。話が済み次第ナースコールで安定剤を頼もう。
俺は弟の決断を、ただ、そうかと思って受け留めた。悪意があるわけでもなく、冷静に対処し被害を最小限に留める意図だとわかっているから、別段驚かない。だが遥来は納得していないようだ。宗平に至っては責任を感じて混乱している。
「榮斗に任せる。こっちはこっちで続けるだけの話。遥来も自分で考えて、危ない橋は渡らないようにしろよ」
「警察は行かない?」
「一応、今日、月城に会ってきた」
遥来は憮然としたままだが頷き、それは一昨日の一昨日だと上げ足をとった。
既に弟の采配で遥来を含む身内全員に護衛をつけたと聞き、一安心する。宗平に一人でホテルに帰るのは恐いかと尋ねてみたが、泣いているばかりで明確な返事はなかった。だが宥めているうちに、どうもここに泊まりたがっていると察し、それとなく話を向ける。病院側の警備がどれだけのものかという不安はあるが、放っておけない。
宗平が力なく頷く。
そうだ、それでいい。うちの警備が二人ついている。なにより、俺の傍にいるべきだ。俺が守ってやらなければ。しきりにそんな理屈をこね回し、俺は宗平の強張った手を握りしめていた。
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