第十話 導火線を噛む牙(前)
熱いシャワーが全身の澱を洗い流す。両手で髪を掻きあげ顔に飛沫を受けながら、怯えた羊の目を思い返した。
ホテルに着いても震えていた宗平を見かねて、しばらく留まったが、やがて長い躊躇いを見せた後で一人にしないでくれと請われ、帰る事はできなくなった。今は幾らか顔色も戻ったが、ソファーに沈み込んだまま動く気配がないのでこちらが先に汗を流している。
幾度も使用した部屋だが、泊まる側になったのは初めてだ。
大理石のバスタブから離れた位置にガラス張りのシャワーが備え付けられている。そんな事はすっかり忘れていた。使っている間にガラスが曇り、その先に空間があり、更に先まで行かなければ服という服に辿り着けないというのは、身を隠す立場からするとあまり心地いいものでははい。
脱衣所のクリーニング袋が更に畳まれて脇に寄せられていた。宗平に感じるそこはかとないずれを、どう表現したらいいかわかならい。
快活そうな、そして健康的な大学生だ。人当たりもよく、顔も広い。だが外食ではなく自炊を好み、ホテル側のクリーニングを拒んで自らコインランドリーを希望した。初見では社交的な印象を受けるが、その実、生活ぶりは内向的である。
居間に戻ると、先刻と一ミリも変わらぬ姿でソファーと同化していた。
「お先」
声をかけても返事はない。
氷を入れたグラスに炭酸水を注ぎ、様子を見るために回り込んだ。虚ろな目を床に落とし膝の上で指を組んで固まっている姿は、見事に死相が漂っている。
「シャワー浴びてきな。その方がゆっくり眠れるから」
返事はない。少し喉を潤しつつ様子を見たが、心ここに在らず。
「お湯溜めてあげようか?」
「……すみません」
渇いた声で呟き、やっとの事で立ち上がった宗平は漂うようにバスルームへ消えた。ため息が洩れる。ひたすら不憫でならない。
夜襲をかけてきた二人の、どちらも名前を呼んでいた。宗平の周りには既に友人の顔で身を潜めてきた奴らがいたのだ。平凡な若者には耐えられない事態だと憐れむより他ない。
いつまでたっても水音が響かない事に気づき、背筋の冷える思いでバスルームの扉に手をかけ名を呼んだ。しかし返事がない。ついに気絶したか。頭でも打っていたらとんだ二次災害で目も当てられない。遠慮なく中に入った。
「……岡谷さん」
宗平は気絶してはいなかった。ただ驚く事さえできないほどには疲弊しているようで、半分服を脱ぎ捨てたまま立ち尽くしており、肩越しに昏い目を寄こす。
「心配して見に来ちゃったよ。大丈夫?」
「はい。すみません。俺、ぼーっとして」
「いいけど、転ばないでよ?」
「気をつけます」
そんな会話が成り立つ事もまた、宗平の心が麻痺してしまった証拠のようで焦りが膨らむ。視線を外した宗平は俺が見ているのも構わずに下まで脱ぎ始めた。その時、宗平の腰の下、右臀部の上の方に大きな痣があるのを見てつい呼び止めた。
「メェちゃん、おしり打ったぁ?」
「え?」
半身に振り向く。男同士、恥じらいもないが、気怠そうな目と健康的な体が一種の幻惑を呼んだ。表情ではなく、雰囲気が二転三転する。印象と実像がちぐはぐで、新たな一面が現れて尚その違和感を深め疑わずにはいられなくなる。なにをと明確に表せないが、どこか掴みどころがない。
「凄い大きな痣」
「ああ、これ」
宗平の目が鏡に移る。
鏡越しに合わさる視線が、また一つ遠く感じさせた。
「生まれつきだから、大丈夫です」
言って背中を向けた。
「あ、そう? 怪我したらちゃんと言ってよ?」
それには答えず、もしかすると俺の詮索から逃れるためかもしれないが、宗平はタイルを踏みシャワー室の戸に手をかけた。
「転ばないでね」
返事を期待せず大声で頼む。そのまま眺めているわけにもいかず、気にはなるもののとりあえず居間に戻った。二十分後シャワーを浴び終えた宗平は、久しぶりに血色のいい肌を見せいくらか気持ちも持ち直したらしく、眉根を下げて申し訳なさそうに言った。
「本当にすみません。我儘言って」
こちらこそ恐がらせて申し訳なかったと思うが、深刻な空気をぶり返す気にもなれない。いつもの調子を保ちながら、例の友達について訊いてみた。
ナイトテーブルを挟んでセミダブルが二台の寝室は、絨毯と壁が暗い色で統一され窓がないためにかなりの閉塞感がある。だが居間と衝立一つで区切られて足元には広々とした隙間が見える為、これもまた落ち着かない。
家族や密な相手と休暇を楽しむならいいが、要人警護には適さない部屋だ。早急に見直しが必要である。
「眠れそう?」
スタンドに手を伸ばし問いかけると、分厚いシーツにくるまった宗平がこちらを向いた。ベッドに入って安心したのか、かなり無邪気な顔をしている。一瞬にして修学旅行のような雰囲気になり、こう言ってはなんだが拍子抜けした。それでも泣かれるよりはずっといい。
「たぶん、そのうち寝ます」
「ごめん。俺、子守歌は下手なんだ」
冗談だが歌が得意でないのは事実だ。宗平はわずかに目尻を下げた。それが優しそうな微笑みだと認識するのに、数秒かかった。動画を流した後で体操のお兄さんに憧れていたと言っていたのを思い出す。恐らくその夢はもう叶わない。
「でもメェちゃんとカラオケ行ったら楽しそうだな」
「それ固定しちゃったんですか? 呼び方」
眠いのか、宗平は目を細めて笑う。
「嫌だった?」
「そうじゃないけど。ちゃんが付いたのは初めてで」
「あ、やっぱ呼ばれたぁ? だよねー」
スタンドから手を放し、こちらも肘を枕に横向きになる。
「岡谷さんは、あだ名とかどういうのでした?」
「俺? 俺はないよ。陰で言われてたかもしれないけど。苗字か名前そのまま」
「くのえって珍しい名前ですよね」
「そう。
「九重かぁ。岡谷さんが九人いたら圧巻だな」
それは誰であっても恐い。
「九人いたら楽だよぉ。他の奴に任せて、どこか静かな場所で隠居したい」
「え?」
宗平が目を丸くする。形のいいアーモンド型の目は、そうしていると更に大きく見えた。かなり幼い印象になり、子供を相手にしているようで気持ちが和んだ。
「なに驚いてるの?」
「いや、仕事に燃えてるところしか見てないから……意外で」
「ただ生きてるだけだよ」
言葉の真意は伝わらなかったようで、宗平はゆっくりと瞬きを繰り返している。本当に子守歌の一つでも歌ってやれたらいいのに。そんな事を考えていたら、俺にも緩やかな眠気が訪れた。そうだ。宗平を休ませなければいけない。
「眠い。メェちゃんなにか歌って」
仰向けになり軽口を叩く。強制的に寝るつもりで目を閉じスタンドの紐に手を伸ばした時、小さな歌声が途切れ途切れに流れ始めた。思わず天井を見つめる。
懐かしさの沁みる童謡を、宗平は少しずつ零すように歌っている。
次第に言葉と言葉の感覚が開き、音の高低が曖昧になって、ついには規則正しい寝息に変わった。歌いながら寝る人間に初めて会った。つい笑ってしまってから、今更ながら気づく。
宗平が笑った。初めて見る、安らいだ笑顔が可愛かった。
そして、宗平のたどたどしい歌声が、俺にとって初めての子守歌だ、と。
夜が明け六時きっかりに現れた遥来は、寝起きで応えた俺を頭から爪先まで呆れ眼で舐め回し、鼻で笑った。連絡を忘れていたのは申し訳なかったが、侮蔑するような眼差しに若干の切なさを覚える。遥来の言わんとする事はわかっていた。宗平と一夜を共にした事を咎められているのだ。だが取り越し苦労である。俺は遥来と違い、男どころか女もまったく相手にできない。
「子守だよ」
遥来はまた冷たく鼻を鳴らし、遥来の眠るベッドへと歩いて行った。
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