第九話 いばらの森の獣たち(後)
遥来とジュリを送り届けたあと、運転席に戻ってきた岡谷に俺は些か気まずさを覚えつつ切り出した。
「あの、パンツが……」
「えっ?」
岡谷は体ごと驚いて窓に肩をぶつけている。
俺に許されたのは三日分の着替えだ。今夜風呂に入り明日目覚めたら、それが最後の砦となる。
「あ、ああ。そうかぁ。買いに行かなきゃね」
「明日」
「今何時? 九時でしょ。あれかな、駅ビルとかならやってるかな」
「あ、コンビニでいいんで、明日で」
身体的な疲労はさほどないはずなのに、やはり精神的なものなのか頭が重く体が怠い。早く休みたかった。
「えー、せっかくだからちゃんと買いに行こうよ。明日は会社空けられないから、今夜買っとこう」
「……」
「ごめんねぇ~、うっかりしてた俺」
あまりしっかりしていそうには見えない岡谷にそう言われてしまうと、諦めるしかないような気持になる。
検索して近くのファストファッションの大型店が夜十時半までだとかわり、問答無用で連行された。世話になっているから文句は言えない。それにパンツが欲しい。切実な問題である。
「日辻君クリーニングの出し方わかった?」
バックで鮮やかに駐車しつつ、岡谷が唐突に問うてきた。これは俺にとっても相談したい案件だったので、いい機会だと思った。あの部屋には、汚れた衣類を入れて出すためのクリーニング袋がバスルームのタオルと一緒にあったのだ。
「あ、できればコインランドリーに行きたいです。行かせてください」
「なんで? わからなければ教えてあげるよ」
「洗濯は自分でしたいと思います」
答えずにエンジンを切り、思案顔で先に下りてしまった岡谷を追いかけ車を下りる。
「なに。お気に入りの柔軟剤?」
車体を挟み、余裕で肩が出ている岡谷をしみじみと眺めた。あまり健康的な生活を送っているわけではなさそうなのに、素晴らしい発育だ。それは置いといて。俺は岡谷の傍へ寄って拳を握りしめ告げた。
「落ち着かないんです。自分でしないと」
岡谷のオフィスにもさすがに洗濯機はない。ついでに言えば八畳ほどのキッチンにはタオル類がなく、キッチンペーパーを大量消費しているがこれも早いうちに改善しなければと思っている。タオルは手で洗えばいい。
「繊細だねぇ」
「すみません」
「いいよ。じゃあ、あんまり溜め込まないうちに行かないとだなぁー」
軽く肩を叩かれ、店内に向かった。
激しく場違いな岡谷がなぜか積極的にラックを物色している様に驚き、俺は自分の買い物を忘れて見入ってしまった。俺の服を見立てているわけではない事は、手に取るサイズで明らかだ。つい口を出してしまった。
「それはパーカーですね」
自分でも何を言っているのかわからない。誰が見ても安物の袖なしパーカーだ。そんな事は岡谷だって百も承知のはずだった。
岡谷が表情を崩した。
「昔よく着たよねぇー」
「まじっすか!」
それは意外だ。現在の服装しか見ていない俺は、岡谷が容姿に金をかけるタイプの悪徳業者にしか見えない。色物のスーツで左耳の上には編み込みだぞ。ピアスがないのが逆に違和感という事は黙っているが常に気になっている。
「会社が大きくなっちゃったからさぁ。人に会う時くたっくたの部屋着じゃまずいわけよ。懐かしいなぁ~」
想像してみた。立派なストリートギャングみたいで、年齢的にかなりきつい。
「部屋着、とかは」
「部屋着って。帰ったらシャワー浴びて寝るだけだもん。パンツだよ」
冬はどうしているんだ。
そもそも今の恰好だってそこまで社会的とは言えないと思うが、これは金銭感覚の違いの範囲なのか。わからない。
「俺パンツ見てきます」
「会計一緒にするからね」
「えっ。買うんすか、岡谷さん」
結局、俺がボトムスを一本と上を三枚プラス二枚組のパンツを二セット選んでいる間、岡谷もルームウェアを一組とハーフパンツ、Tシャツとポロシャツとパーカーを何着か籠に持って準備していた。それでいいのかと言うので靴下を足す。
閉店の音楽を背に外へ出ると、何台か停められていた車がすっかり捌け、岡谷の高級車がぽつんと出口傍で黒光りしていた。あと二メートルというところまで近づき、岡谷がポケットからキーを取り出そうとして足を止めた。忘れ物だろうか。財布とか余程の事でなければ今更戻っても追い返されるだろう。斜めに仰ぐと、口角がわずかに上がっている。だがいつもの緩い印象はない。
すると左右から人が現れ、俺は反射的に息を止め縮まった。
「日辻を返せ」
「……!」
聞き覚えのある声に心底驚く。暗闇に目を凝らすとそこに河上の姿があった。
岡谷がいつもの調子で返す。
「返せって言われても、もう閉店しちゃったし。無理かなぁー」
「日辻」
「えっ?」
反対側から発せられた声もよく知っている。河上同様、普段つるんでいる仲間の一人だ。
「
「さ、もう大丈夫だ。こっちへ来い」
「……」
能登が手を差し伸べている。その芝居がかった仕草が気味悪くてむしろ足が動かない。なにか、おかしい。
確かに河上から安否を問われ、遥来の事も吹聴されたが、だからといって二人がここにいるのも、まして岡谷に向かって俺を返すように言う事も、大学の仲間というだけではかなり行き過ぎている。遥来の言葉が木魂した。
俺を、あの教祖と思っているんじゃないか。
「……」
まさか。この二年つるんできた二人が、ミハルスの信者だとでもいうのか。
岡谷が一歩下がり、背中に顔がぶつかる。視界が塞がれ二人が見えなくなった。俺は体をこすりつけるようにして回り岡谷と背中を合わせた。後ろには、見える限り人気はない。
「もうこの件からは手を引いた方が身のためだぞ」
河上が恐い事を言っている。
「この件がどの件かわからないけど、ちょっと不躾すぎない?」
「黙れ」
岡谷に強く命じる河上の口調に、心底震えあがった。紙袋を抱きしめる。
知らない。あれは俺の知っている河上じゃない。
「物騒なお友達だなぁ~」
能天気な岡谷の声が事の異様さを引き立てる。
岡谷に背中を押された。つんのめり振り向くと、河上が鬼のような形相で岡谷に殴りかかるところだった。
危ない、とも声に出せず、腰が抜ける。
岡谷は軽い身のこなしで拳を避けると、紙袋を落とし、河上の手首を掴み背面にねじ上げ、足を払って俯せに倒した。そして膝をつき河上の顔をコンクリートに押し付ける。それから覆い被さり低く零した。
「子どもが調子に乗るんじゃないよ」
「くっ……!」
残る手足をばたつかせ、河上は抵抗している。
突然手を引かれた。気づくと傍に能登が立っていた。
「立て」
「え……」
そのとき短い音がして、河上が叫んだ。見ると河上は手足を投げ出した姿勢で俯せにのびている。能登が舌打ちをして俺を無理矢理立たせようとした。そうしているうちに岡谷が能登の胸倉をつかみ、少し持ち上げ、腹部に何か小さな四角い物を押し当てる。
「アッ」
また聞きなれない短い音がして、能登が叫びぐにゃりと項垂れた。
岡谷が手を放し、能登が崩れ落ちる。
「立てる?」
「……ぁ」
覗き込んでくる岡谷の顔は、いつもの緩さこそないが真剣そのもので脅威は感じない。手を借りて立ち上がるが、膝が笑った。岡谷はひょいひょいと紙袋を拾い集め片手で持ち、もう片方の手で俺の背中をそっと押した。
「歩けそう?」
答えようにも声が出ない。愕然と見あげていると、岡谷が前に回り込んできて少し屈み俺の腰に腕を回した。
「えっ、ちょっと!」
軽く持ち上げられて、紙袋と一緒に運ばれる。
「お、岡谷さんっ」
「だってしょうがないだろぉ~、メェちゃん歩けないんだから」
「だ、って……でも!」
と言っているうちに、助手席のドアの傍に下ろされた。再び膝が笑い転びそうになるのを、長い腕が抱きとめるようにして支えてくる。岡谷の髪が額に触れて、あまりの近さに息が詰まった。……まあ、その前から若干の呼吸困難ではあったものの。
一旦紙袋を置きロックを解除すると、岡谷は後部座席に荷物を投げ入れ終えるまで堅く俺を抱えていた。それは逃亡を防ぐための力でもあるように思えたが、抗う気は起きず、不思議と恐怖もわかない。俺にとっての脅威は得体の知れない岡谷ではなく、得体の知れないものになり果ててしまったかつての仲間二人だった。
助手席に座るまで、俺が肩や肘や頭をぶつけそうになる度に岡谷は掌で俺を庇った。そしてすぐさま運転席に収まり、俺の膝に先刻の小さな四角い物を投げた。
「あげる」
バッテリーに似ていた。角度を変えてみると、ある面に小さな金属の突起が二つあった。
実物を初めて見た俺でも、さすがにそれがなんであるか察した。スタンガンだ。口を開けて見入っていると車が走り出した。いつもよりいくらか荒っぽく、速度もある。
俺は認識を改めた。岡谷は自身で言っていた通り警備責任者なのだ。
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