第5話
夕焼けを見ると、ヤスさんが頭に浮かんだ。
母は同居の姑に毎日のように怒鳴られていたそうだ。
そんな修羅場をおさない子供に見せまいと、小さな私の手を引き、夕焼けの土手河原へと散歩に連れ出してくれた人。当時3歳にも満たなかった私は、ヤスさんの顔も姿も、むろんまるで覚えていない。ところが、母から繰り返し聞くうち、夕焼けをバックに寄り添い歩く若い男とおかっぱの幼女の後ろ姿が、心の奥に映し出されるようになっていった。掌に残る大きな温かい掌の感触。嘘じゃない。本当だ。母親の泣き顔を刻ませまいと努力してくれた優しい男の人。彼、ヤスさんは本当にいた。
ある日、私は高校生になっていた。地元の公立高校に通う女の子。3年生。通学には毎朝自転車をぶっ飛ばした。雨の日も風の日も雪の日も、私はチャリをぶっ飛ばした。私の不断の自転車通学には、訳があった。兄の友人の一人が、小学生の頃から私に異性としての好意を寄せていた。小5の春の誕生日に、彼は私に小さな花束を贈った。そんな中2の頃、通学中の私の横を一台の車が止まった。彼だ。地元で寿司職人となり働き始めているという。「送っていこうか?」助手席から顔をのぞかせた彼。私は徒歩だった。膝下までのプリーツスカートが不意に風に揺れて、ゾッとした。翌日から、私は自転車で通学した。大型台風が接近してようと、夏の熱帯や体の不調で地面が揺らめこうと、私は絶対に自転車で通学した。彼が差し示したあの助手席。断る理由よりも親切の方がうわまわったとき、私の運命は終わる。私を庇ってくれる人など一人もいない。両親も兄も、私ではなく彼の方を庇うだろう。それどころか、それならばと、結婚させられてしまうかもしれない。
恐怖に駆られて私は自転車のペダルをこぎ続けた。
夕焼けの人 @emiko1970
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