あなたと一緒に、行きたいの。

月庭一花

 彼女の背後に真っ赤な夕日が見えた。

 玄関の扉の向こう側。空が照柿色に染まっている。それは上巳じょうしの節句の翌日の、薄ぼんやりとした春の日の、夕刻のことだった。

「これ、お土産やよ」

 そう言って彼女……都弥子つやこさんはわたしに紙袋を押し付ける。呆気にとられるわたしの傍らを、まるで猫みたいにするりと抜けて入ってくる。

 玄関の狭間はざま

 すれ違う際に都弥子さんのうなじから、季節外れの最初の秋の匂いが香る。都弥子さんは雨の日にレインコートを纏うように、移ろう夏と秋の気配をその身に宿している。

 それは九月の匂い。

 わたしは刹那のあいだ、その匂いに酔った。

 けれども急に切なくなって、慌てて振り返る。都弥子さんの名を呼ぶ。

「クガツさん」

 ——と。


 クガツさんとは以前勤めていた病院で知り合った。

 彼女は登録制の、夜勤専門の、看護師である。幾つかの病院を掛け持ちし、貯金ができると放浪の旅に出る。行き先は誰にもわからない。クガツさんにもわかっていないのかもしれない。わたしには到底理解できないが、だからこそ、そんな生活を五年以上続けているクガツさんに惹かれてしまう。

 しかし時折ふらりと訪ねてきて、またどこかへと去っていくクガツさんは、決して居つくことのない猫科の生き物だ。わたしが独り占めすることなんて、とてもできそうにない。

「お久しぶりね、クガツさん」

 クガツさんに向かってわたしは小さく声をかける。

 思慕と、僅かに恨みのこもった声で。

「久しぶりやね。せやけどやっぱり一花いちかにクガツさんって呼んでもらうん、好きやわ」

 そう言って、なにも知らないクガツさんは、夏の終わりの百日紅みたいな微笑を浮かべる。

 彼女の名は都弥子という。姓は玖珂くがである。だから本来なら都弥子さん、あるいは玖珂さんと呼ぶのが正しい。

 けれども最初に玖珂都弥子というネームプレートを見たとき、どこで区切るのかわからず、わたしはつい「クガツさん」と呼びかけてしまった。

 彼女は不思議そうに首を傾げ、そして微笑した。それは何気ない仕草のはずなのに、魔女のひと刺しのようにわたしの心を貫いた。愛らしい彼女の姿に、ひと目で魂のひとやの虜囚となった。そして彼女をクガツさんと呼ぶ唯ひとりの……友人になったのだ。

「今回はどこに行っていたの?」

「えーと、色々。なんてとこやったやろ」

 わたしはそんな返答に少し呆れて、膨らんだ紙袋の内を見遣る。中には赤くて丸い、小玉西瓜ほどの大きさの達磨だるまが入っている。

 達磨。……達磨?

「なに、これ」

 わたしの訝しげな声に、クガツさんは鈴を転がしたように、くすくすと笑う。

「あんな、うち昨日東京のなんやら言うお寺に寄って来てん。そこで達磨さんがようさん売ってはってな。一つ買うてきたんよ」

 わたしはしげしげと達磨の顔を見つめた。

 開眼かいげんされた片目に、梵字らしき文字が書かれている。昨日。三月三日のだるま市……。

「もしかして、深大寺?」

「ああ、そんな名前やったかもしれん」

「門前にお蕎麦屋さんがいっぱいあった?」

「そやねぇ。ようさんあった」

 クガツさんはほっこりと笑っている。

 深大寺は、東京でも有数の古刹である。雛祭りの日に行われるだるま市も、開眼に梵字を用いるのも、深大寺特有のものではなかっただろうか、と記憶の泥濘ぬかるみを、すなどってみる。

「でも、どうして?」

 わたしは達磨をテーブルの上に置き、手ずからお茶と茶請けを用意しつつ、訊ねてみた。

「縁結びの霊験あらたかやって、聞いててん。そいでな、折角やし、達磨さん買うてそのご利益を一花にも分けてあげよかと思ったんよ」

「……そう」

 自分が今、どんな顔をしているのか、わからない。自分の心持ちがわからない。怒っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。もしかしたら少しは喜んでいたのかも……ううん、違う、期待なんてしない。したくない。

 わからない、自分の気持ちなんて、わかりたくない。だから、

「ありがとう。大切にするね」

 わたしは笑う。——ぜた柘榴ざくろみたいに。


 濃いめに淹れた茶を飲み、クガツさんの近況を聞く。

 どこどこの病院の評判が悪いとか、あそこの夜勤はしんどいとか。旅先で見たなになにが綺麗だったとか。そんな話を。

「夕ご飯。食べていくんでしょう? なにがいい? 食べたいもの、なにかある?」

 わたしは訊ね、片目の達磨を指先でつつく。

「蕎麦」

「……蕎麦?」

「うん」

 クガツさんが自分の鞄を引き寄せ、中を探る。深大寺蕎麦と書かれた乾麺の袋、調味料、タッパーに入れられた、なにかを取り出す。

「それも、お土産?」

「そやよ。一花蕎麦好きやったやろ?」

「うん。でもクガツさんは蕎麦……あんまり好きじゃないよね。いつもうどんじゃない?」

「別にそんなことおへんよ。うちの実家の近く、にしん蕎麦発祥の地やって言われとるし」

 クガツさんが笑う。くすくすと笑う。

「うちが寄ったお寺さんの周辺、蕎麦が有名みたいやし。どうせなら関西のお蕎麦、一花に作ってあげよ思て、色々こしらえたりしてきたんよ」

 タッパーの中身は、鰊の甘露煮だった。

「うちの手料理も恋しいんやないかなって思て、ね」

「よく言うわ。じゃあ、今日は格別美味しいお蕎麦が食べられるのね。嬉しいな」

 わたしも笑う。くすくすと笑う。


 蕎麦をすする。

 金色に澄んだ温かいつゆの、蕎麦をすする。

 鰊の甘露煮はクガツさんの手作りだそうだ。器用なものである。

 美味しい、と感想を述べると、クガツさんはまんざらでもない顔をする。その顔がとても愛おしくて、とても……胸の奥底が苦しくなる。こんなクガツさんの表情を……他の誰かも、見るのだろうか。見たのだろうか。

 蕎麦も、つゆも。どちらも美味しい。美味しくて、悲しい。

「今日は泊まっていって」

「一花の都合は? どないなってはるのん?」

「どうもこうも、都合がつかなきゃ泊まっていってなんて、言わないわ」

 不意に来訪する気紛きまぐれな猫のくせに。

 わたしに気なんか使わないでよ、と言いたくなる。言いたくなるだけで、口に出したりはしない。

 なら遠慮なく、とクガツさんは笑う。

 その笑顔に、少しだけ胸が痛くなる。

 だって、わたしはいつでもクガツさんが泊まっていけるように、着替えや歯ブラシ、クガツさん用の物は全て、揃えているのだもの。

 お風呂から上がり、わたしの用意した寝衣に着替えると、クガツさんの秋めいた匂いが薄くなる。わたしと同じシャンプー、わたしと同じボディソープの匂いがする。わたしと少しだけ近しいものになったような、そんな気がする。


「もう寝ちゃった?」

 わたしの問いかけに、むにゃむにゃと聞き取りづらい声で、クガツさんが返事をする。

「達磨のお土産なんて、初めて貰ったわ」

 今度は返事をしない。微かな寝息が聞こえる。もう、眠りに落ちてしまったのだろう。

「それも、よりにもよって縁結びだなんて……出来すぎているじゃない。滑稽だわ」

 聞こえていないと信じ、それをいいことに、わたしは暗闇に向かって喋り続ける。コチコチという時計の音と、クガツさんの呼吸は、規則正しく夜の帳を縫い合わせる。

 縁結びの寺。

 そこで達磨を一つひとつ吟味するクガツさんの姿を想像する。

 クガツさんはどんな思いであの達磨を手に取り、どんな想いを込めて、わたしに寄越したのだろう。

 わたしの達磨が両目を開く日は、きっと来ない。そう思うと悲しい。悲しいけれど、どこか仕方のないことだとも、思っている。

 だってわたしたちは……友達だから。これから先も、結ばれたりは、しないだろうから。

「東京は……深大寺は、どうだった? 綺麗な場所だった? わたしを……連れて行きたいって、思った?」

 わたしは訊ねる。訊ね続ける。夜に向かって。返事をしてくれない、彼女に向かって。


 クガツさん。

 クガツさんが、好きよ。

 そう伝えることのできないわたしは、卑怯者だ。臆病者だ。意気地なしだ。

「もし、今度があるなら。一緒に行こうね」

 ただ、ため息のように、そう呟くだけ。

 目を瞑る。

 クガツさんの匂いがする。

 わたしは夏の終わりの、秋の初めの深大寺の境内を思う。

 ああ。そこにはどんな花が咲き、どんな景色が広がっているのだろう。蝉はまだ鳴いているだろうか。空はどんな色に染まっているのだろう。

 そのとき、クガツさんの傍らに……わたしはいるのだろうか。


 あなたと一緒にいきたいの。

 わたしは胸の内で、ゆっくりと囁く。

 生きたい、と字を当てれば重すぎる。

 逝きたい、なんて思うと切なすぎる。

 だから、いつか。この感情が死滅するまで。恋心が摩滅してしまうまで。その場所まで。

 

 ……あなたと一緒に、行きたいの。

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