後日譚(スピンオフ)


 彼女が紅く染まってから何日経ったろうか。

 彼女は谷に、彼女の渓谷に戻ってきていた。

 一つの目的を果たすために。


 相変わらず悲惨な光景が広がり、それに加え今では強烈な腐敗臭があたりに漂っている。


 彼女は、もうギラギラとはしていない元々の艶やかな、とはいえ少しくたびれた印象の赤毛をくるくるとお団子にまとめた。赤毛を除いて彼女はもう紅くはなく、元の色白な少女に戻っていた。

 彼女はここ数日をかけて、吸いこんだ“紅”のすべてを撒き終わっていたのだ。


 彼女は自らの死を悟っていた。

 国中に“紅”を撒き散らす呪いは、代償として彼女の命を求めていたからだ。


 だからこそ彼女は急がなければならなかった。

 彼女の追い求め続けた――そもそもこの道に詳しくなるきっかけともなった研究を早急に完結させねばならない。

 まだ完全なものではなかったが、それを終えずして死ぬなど耐えられなかった。

 彼女の特殊な性質ゆえに、生物的に欠損していた機能を補ってくれる研究。


 人間の生成。


 本に記載された材料の多くは別のもので代用するしかなかったが、

 彼女は各地で呪いを放出する中、棲み処の残骸から見つけ出したり、街や森で拾ったりなどして、コツコツと集め揃えていたのだった。

 大釜を火にかけ、材料を次々に投入していく。


 ひと樽分の水。

 引き裂かれた彼女のワンピースのボタン。

 街で飼育されていた活きのいい蚕。

 割れたカンテラのふちに引っかかっていた風の種。

 港に干してあった深海魚のえら。

 彼女を治そうとしてか勢いよく芽吹き始めたヨモギの葉。


 彼女はさらにいくつもの材料を入れ、ゆっくりゆっくりかき混ぜる。

 ぷつぷつと煮えかえる液体は淡いクリーム色をしていた。


 最後に彼女は、青紫色でほんの少しキラキラと光るかけら――割れた小瓶の底にこびりつき固まっていた――を大事そうに取り出すと、ギュッと握り、釜に落とし入れた。


 それまでタプタプと穏やかに波打っていた液体が突如さざ波を起こし、ぶるぶる震えながら凝縮していく。

 どんどん、どんどんどんどん凝縮していったそれは、最後に大きくぶるりと震えると、人型を模した。


 グ……ギ…ヤァァァァァァ…ウンヤァァァァ!


 彼女はそれを抱きかかえた。それは完璧ではないにしても、彼女が生涯待ち望んだものに違いなかった。彼女はうっとりとそれに見惚れた。


 ――愛しい……愛しい私の娘。


 はた目から見れば奇怪な赤子であったろう。

 真ん中から上下にぱっくり裂けた顔で大泣きし、髪はヨモギ色で目はボタン、色白な体表のいたるところにひび割れがあり、今にもどこかがポロリと取れて落ちるか、ボロボロと崩れそうだった。

 彼女は自分のしなやかな紅い髪を一本抜くと、おまじないを込めながら赤子の、頬まで裂けた口を縫い始めた。ヒト針ヒト針進むごとに、赤子のひび割れは治り、ぷくぷくと柔らかい肌を取り戻していく。


 キャッ…エププ…ゥニュウ!


 彼女が最後にリボン結びを終えるころ、赤子は嬉しそうに笑いながら彼女をじっと見ていた。彼女は赤子の深緑色の髪を優しく撫で、微笑みかけた。赤子が伸ばした小さな小さな手が、彼女の人差し指をグッと握る。フッと、彼女はその穏やかで至福に満ちあふれた表情を陰らせた。


 ――おまえは幸せに生きるんだよ。


 彼女は立ち上がると、赤子を柔らかい毛布で幾重にもくるみ、バスケットに入れた。

 まだくすんではいるものの、元の蒼さを取り戻し始めた湖に、彼女はバスケットを浮かべる。


 ――頼んだよ。この子を。どこか遠いところへ。


 彼女が誰ともなしにそう語りかけると、湖に浮いたバスケットはスーッと水面を滑り、彼女のもとから遠ざかってゆく。

 赤子は彼女から離れたことに気付いたのか、グスグスとぐずり始めた。


 ――優しい人たちのいる、異国の地へでも。


 彼女がやおら立ち上がり振り返ると、

 殺意に満ち溢れた農夫が、役人が、木こりが、大勢の人間が、それぞれ思い思いの武器を手に、彼女を包囲していた。


 ――さよなら、私の娘。さよな………



 ・ ・ ・ * ・ ・ ・



 湖は、ゆらゆらと揺れながら赤子をあやし、ゆっくりバスケットを押し流していった。


 ぷかぷかと。


 母親から遠く遠く離れた所へ。


 ぷかぷかと。


 どこか、赤子が幸せに育てるような、そんな穏やかな場所を目掛けて。


 ぷかぷかと。


 すやすやと寝息を立てるバスケットを、湖はそっと、海へ押し出した。

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赤毛の魔女 八咫鑑 @yatanokagami

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