第5章
空奏は先日と同じように真白の対面に座りながら彩那の異能についての報告を行っていた。
「報告は以上になります」
「ご苦労様でした。この結果だけ見れば、友魂同盟があの子に執着していた理由もわかる気がしますね。そして早速嫌なことが起こりそうです」
空奏から報告を受けた真白は溜め息をつきながらそう言った。空奏が思い至ったことに、真白もとっくに勘づいているのだろう。
「魂の型を確認できる者がいるだけだったら良かったのですが、そうもいかないようですね」
「やっぱり真白さんもそう思いますよね」
世の中にはイクシス、アニマ、ソウルイーターを見分ける目を持つ者たちがいる。そして、覚醒前の人間の魂を見て、イクシスとアニマどちらに覚醒するのかを判断できる者もいる。
覚醒前の魂がどの程度の力を持つかまでは、人間にはわからない。しかし、ソウルイーターならばそれが可能となるのだ。彼らは人とはまた違った目で魂を見ている。
「ええ。ソウルイーターが北野さんの魂を確認。そして強い異能を持つ者を探している友魂同盟に教えたと考えていいでしょう。背後にいるソウルイーターの狙いがどこにあるのかはわかりませんが、最後には魂の回収に来るでしょう」
「……一つ、懸念していることがあるんです。狙われる魂は彩那ちゃんと見ていいんでしょうか?」
「そう考えていましたが。……何か思うところがあるんですね?」
空奏はスターチスとの会話を思い返しながら話し始めた。
「スターチスが言っていたことで気になるのが二つ。一つは、耳にしたというアニマ誕生の方法についての噂を気にしていたこと。そして二つ目は、大きな感情に占められた魂がどんな味なのかについて興味を持っていたこと。偶然とは言えその話を本人から聞けたことと今回の件を見ると、背後にいるのはスターチスだろうということが考えられます」
「そうですね。最有力は彼でしょう」
「ですが、あいつが彩那ちゃんの魂を喰らうことを条件に取引をしていたとすれば、友魂同盟にとってのメリットが見当たりません。スターチスから強い魂であることを教えられ、あれだけ手間をかけたにも係わらず自分たちの手もとには何も残らない、では話になりませんから」
その辺りは真白も予想していたのだろう。少し思案するように目を閉じる。
そして軽く頷いてから自分の考えを示してくれた。
「これもまだ推測の範囲ですが……取引では無かったとすれば?」
「スターチスが一方的に従わせてるだけということですか」
「別のソウルイーターである可能性もありますけど、それも一つかと」
やはり確証となるものが無いために憶測は広がってしまう。少しでも彩那の不安を減らすことができればと思ったのだが、やはり空奏はまだ考えが足りない部分がある。
改めて自分の視野の狭さに直面して唸っている空奏の横にバルドが現れた。
「わからないなら聞いてみればいいんじゃないか?」
「誰に? スターチス?」
「この前は珍しがってただけで、下手に近づけば殺されかねないのは変わらないんだぞ。それに、そう短期間に色々教えてくれるかよ」
「だって、それなら誰に聞くっていうんだ?」
「友魂同盟のやつらにだろ。俺ら以外にも、修司だって捕まえたって言ってたんだ。誰かしら知ってるんじゃねえのか」
バルドの言うことに真白も頷く。今は情報源となり得るものが既に手元にある。友魂同盟のメンバーを探して捕らえるという工程が必要ないのだから、そこから始めた方が早い。特に空奏が出くわしている四人については何かしら知っている可能性が高い。
「捕らえた者たちについては、普段通りイクシス、アニマの優位性を説く活動をしていただけと話していることは報告が来ていましたが、確かにその背後関係はまだ洗えていませんね」
「じゃあ、俺が行ってきてもいいですか?」
真白は少し思案した後、首を横に振った。
「この手のことは専門に任せます。急ぎとはいえ、下手にこちらが手を出す必要もないでしょう。部署間でこじれても困りますし」
「わかりました。では、情報が出てから本格的に動くとして、他の案件何かもらえますか?」
「本調子でない人を前線に出すわけがないでしょう。明後日には出揃うでしょうから、今日ぐらいは外での仕事は任せません。そういえば、この前の報告がまだ出ていませんよ。まずは事務仕事を片付けてください。内容はある程度私も知っているとはいえ、詳細な報告としてまとめてくれないと頭の固い上層部にどやされるんですからね、私が」
そういえばあっちのも出てないですね、と誰かの報告書が上がってきていないのを思い出して真白が溜め息をついている。相変わらず忙しそうなのを見て、空奏はさっさと自分の仕事に取り掛かることにする。遅くなって頭痛の種を増やすようなことがあれば空奏も真白にどやされかねない。
自分の席の端末を立ち上げ、机の上に降り立ったバルドと共にまとめ始める。とはいえ、彩那が起きるのを待っている間に大体の作業は終わらせていたので早めに終わるだろう。
事務作業や作戦指揮などで慌しく動き回っている真白を横目に、空奏は黙々と仕事を片付けていく。
しばらく作業に没頭していると、何やら廊下を駆けてくる音がした。
緊急であれば通信か何かで連絡が来るはず。ということは、また琴絵が走っているのだろうかと思い扉に目を向けると、力任せに開けられた扉がけたたましい音を響かせる。
「空奏くん、急いで来て!!」
そこにいたのは予想通り琴絵だったが、血相を変えた表情は今にも倒れてしまいそうな雰囲気だ。何事かと立ち上がった空奏はバルドと共に琴絵について出ていく。
「一体、なんなんでしょうねえ」
部屋には仕事がひと段落した真白がのんびりとお茶を啜っていた。
琴絵に連れていかれた先は先ほどまで空奏もいた屋外訓練場だった。過去に見ないような狼狽具合の琴絵から話が聞きだせなかったため、何が起きたのかと思いながら着いてみると、モカが苦笑しながら出迎えてくれた。
モカと一緒にいた彩那が駆けてきて空奏の足元にしがみつく。空奏が屈むと、今度は絶対離れないと言うかのようにギュッと抱き付いてきた。泣きじゃくる彩那を困惑しながらも抱き締め返し、背中を擦って落ち着かせるように宥める。
事情を聞こうとしてモカに目をやると、困ったように笑いながら説明してくれた。
「彩那ちゃんが、空奏さんがいないことに気づいて泣いてしまったんですよ。琴絵さんが慌てながらどうにか宥めようとしていたんですが、効果が無くて。自分では効果が無いということで琴絵さんの狼狽に拍車がかかって、そのまま空奏さんを探しに行ってしまった形です。それで、えーと、まああとは御覧の通りです」
「モカ、悪かった。二人も子守りすることになってしまって」
「いえ。琴絵さんとは持ちつ持たれつみたいなところありますからね」
先日の豪雨の中での自分を思い出したのだろう。空奏から目を逸らしながらモカはきまり悪そうに言った。
「それで、どうした? 琴絵もモカも会うの初めてってわけじゃないのに、俺がいないぐらいで」
「だって……わたっ、ぇぅ……」
しばらくはきちんとした会話になりそうにない。それでも拙いながらも教えてくれた彩那の想いとしては、こうだった。
『空奏が今まで理由なく彩那の前から姿が見えなくなったことがなかったため、理由は彩那にもわからないが急に不安になった』
何とか読み取った空奏は思わず動けなくなった。そこまで彩那が自分のことを必要としてくれているということがわかって少し戸惑う。
今まで誰かに頼ろうとしてこなかった分の反動が来ているのかもしれない、とその小さな背中をポンポンとあやすように撫でる。
笑うようになったことであまり気にしていなかったが、やはり不安なのだろう。特に今は以前から親交のあった施設から離れ、新しく入った施設にも行っていない。琴絵やモカがいるからと安心していたのは幾分早計だったかもしれない。
「大丈夫。不安になる必要なんてないんだよ」
「……うっ、ぐ」
「何も言わずにいなくなってごめんな」
「ううん。……お姉ちゃんたちがいるから、大丈夫だったの。でも、なんでだろう。わかんないけど、急に空奏さんがいないのが怖くなってきて」
「理由なく傍からいなくなることは無かったから、そのせいかな」
「もし、空奏さんもわたしのこと嫌になっていなくなったんだったらどうしようって」
「そんなことあるわけないだろう。……不安になったら、いつでも呼んでいい。すぐに行くから。もし俺が動けなくても、琴絵やモカ。他の誰かが絶対に行くから。彩那ちゃんを嫌いになんてなれない人たちが絶対にいくから」
「……うん」
「ま、呼ばれなくても行くかもしれないけどな。この前みたいに、俺の我が儘で助けに行くかもしれない。彩那ちゃんが嫌がっても、俺らが行くから。覚悟して待ってることだな」
「わたしを助けてほしくても、空奏さんが怪我するかもしれない。それでも嫌いにならない?」
「ならない。だから、安心して呼んでほしい」
おずおずと身体を話した彩那が空奏を真っすぐ見つめる。涙で濡れた瞳を見つめ返し、空奏は笑った。安心できるように。誰かに助けを求めることができるように。
未だ不安の中にいたことを察してあげることができていなかったことを悔やむ。
琴絵も同じなのだろう。立ち上がり頭を撫でている空奏に代わり、琴絵は押し倒すような勢いで彩那を抱きしめた。
「空奏……」
「ラナ。どうした?」
「わたしでは、彩那を笑顔にすることはできなかった。わたしでは彼女を安心させてあげることはできないのでしょうか」
少し後ろに下がった空奏の元へラナが近付いてきた。ラナもまた彩那を安心させようと頑張ったのだろう。しかし、その不安を拭ってやることはできなかった。幻獣として彩那の力でありながらも、その心を解きほぐすことができていないのではないかと、ラナもまた不安に思っているのだろう。
項垂れるラナに対して、空奏は地面に膝をついてできるだけ目線を合わせる。
「いや、ラナの存在は彩那ちゃんにとってとても大きなものだ」
「ですが……」
「今回、あの子に必要だったのは「俺」という特定個人だったというだけのことだよ。科戸空奏がいない、という状況があの子にとって不安だっただけだ。だから、ラナに問題があったわけじゃない」
「それでも、少しでも不安を和らげることはできたはずです」
「そうだなあ。正直なところ、あの精神状態になってしまった以上は仕方ないとは思う。それに、異能が覚醒している今、たぶんラナがいなかったらもっと大変なことになっていたかもしれない。無意識に発動させていたとしてもおかしくないんじゃないか?」
「……」
「抑えてくれてたんだな?」
「……はい。暴走という形ではありませんが、あの子は無意識に周囲に水を張ろうとしていました。使いやすいのが表に出そうになっていたようです。こう言うのも何ですが、呑み込みの早さが頭抜けていると思います。わたしのサポートはすぐに必要なくなるかと」
「それは、すごいな。それにラナから干渉できる範囲が大きいのも今後調べておいてもいいか。で、ちょっと話を戻すけど俺から言えるのはもう一つ。俺にはできなかったことを、ラナはやっていたんだぞ」
「え?」
「遊んでた時な、あの子のあんなに楽しそうな笑顔を見たのは初めてだった。安堵の笑顔は見た。くすりと笑うのも見ていた。でも、ラナと一緒に的当てをしている時の彩那ちゃんはとびっきりの笑顔をしていたよ。この意味、わかるだろう?」
「……」
「さて、彩那ちゃんはともかく琴絵のことも宥めに行こうか。何であいつまで泣いてるんだか」
彩那たちの元へと行く空奏の背中をラナは見送る。
心に灯ったのは、不思議なまでの安心感。
自分にしかできなかったことがあったことはわかった。
そして、その先に目指すべきは目線の先にあるその背中だということもまた、ラナは理解していた。
異能事案管理局には傷の手当や修復を行うことのできる異能を持つ者も複数在籍している。空奏の回復力は元々並外れたものであるが、熊井との戦闘で負った怪我が数日で完治することができたのはこの医療班のおかげでもあった。
怪我の治療については異能を使う者、使われる者双方の身体に負荷がかかるため、瞬時に全快させるということが難しい。そのため治療は数日に分けて行われることが多くなっている。
修司の治療も二週間かけて徐々に行われる予定となっていた。先日の負傷は想定よりも深刻なものだったようで、もし応急手当を受ける前に彩那の暴走に巻き込まれていれば、処置が間に合わず死んでいてもおかしくは無かったと言われている。
空奏は身体が動くようになってからは修司の元にお見舞いに訪れている。この日、彩那たちが泣き止んで落ち着いた後、空奏は昨日と同じように修司の病室を訪れていた。
「どうですか、体調の方は」
「おかげさまで快方に向かってるって感じだわな。別に毎日来る必要は無いんだぞ。俺らの怪我なんてよくある話なんだしな。……というか、何かすごく疲れた顔してるが、どうした?」
「はは。まあ、実は……」
先の出来事について話すと、修司は面白そうに笑った
空奏としても、彩那とラナの心情を知れたことは嬉しいことではある。しかし、琴絵の様子とその後モカと共に彼女たちを宥めるのに普段は使わないような神経を使ったようで、思ったよりも疲れたような気がする。
「すっかりお父さんじゃないか。え?」
「……」
「……いやー、それにしても弊社まじでブラック。ハウンドからブラックドッグに改名した方が良いんじゃねえの」
どうやらあまり引っ張ると空奏がそのまま帰るだろうことを見越して話題を変えることにしたようだ。最初から変にいじるようなことをしなければいいのに
「それを言うのは今更なこと思いますけど。何かあったんですか?」
「少しでも早く治療を終わらせて復帰しろって話が出たらしい」
「それはまた、無茶なことを言われましたね」
ハウンドは異能事案管理局の中でも高い実力を持った者を集めた部隊だ。通常、ソウルイーターをや獣化している者の対応はハウンドが行うことになっている。
獣化の力を持っていた熊井は一度逃走したものの、友魂同盟の件に収まりがついたわけではない。上としては修司という戦力を失ったままというのは頭が痛い問題なのだろう。
しかし、無理に治療を早めても身体に対する負荷が増す。治療を終えた後身体を動かすことに支障が出れば、結果的に復帰が遅れることになってしまう可能性もある。そんなことを理解していないとは思えないが、空奏の知らないところで何か動きがあったということだろうか。
今回の友魂同盟の件についてはハウンドが関わっている。ハウンド統括の真白を差し置いて、他の部署でのみ情報が先行するということは無いだろうが、妙な話だと空奏は思った。
「ここに来る前に真白さんと話したときはそんなこと言ってなかったですけど」
「あいつのことだ、話し合いの途中とかなら表には出さないだろうよ。まあ俺も、とっとと復帰しろって言うなら異存はないが」
「異存ないんですか。社畜ですね」
軽く頭をはたかれた。自分もブラックだと文句を言っていたのに理不尽な。
身体を動かしたことで痛みが出たのか、顔を歪めながら修司は横になった。深い息を吐いてつまらなそうに言う。
「別に働きたいわけじゃねえよ。まだ片付いてないことがある状態なのが心残りなんだ」
「気持ちはわかります。中途半端な状態なのは、そっちが気にかかって他のことも疎かになりやすいですし」
「誰かが片づけといてくれれば俺も安心して寝ていられるんだがな」
空奏は窓の外を見た。あの後改めて報告書をまとめているうちにすっかり夕方になってしまった。これはとっとと帰るべきだろうか。最も、帰ると言っても彩那の件が終わるまでは管理局で寝泊まりすることにはなっているのだが。
修司が笑う気配がして視線を戻す。空奏のジト目に晒された修司は悪い悪いと言いながら笑っている。
空奏は呆れたように嘆息した。
「それで、お前の方は身体問題ないのか?」
「今は少し気だるさがあるぐらいですね」
「そうか。相変わらず尋常じゃない回復力だな。これが若さかー」
「年を取りましたね、修司さん」
「そこはフォローするところだろうが。若いだけでそんな早く回復されたらモカちゃんなんて一日で心臓すら再生するわ」
「いやー、心臓は無理でしょう」
「真面目に返すな。バカバカしくなってくるだろうが。とまあ冗談はともかく、もう問題なくなるなら何よりだ。……そういえば、実戦で獣化したの久しぶりだっただろ」
どうだった、とは口に出さずに修司が空奏を見る。三年前のあの日、生き残った二人はそれぞれ大きな傷を抱えることとなった。当時ハウンドに所属してから一年も経っていなかった空奏に比べ、修司は他の七人とも長い付き合いがあったから、その喪失は大きな穴となってしまっただろうと真白も言っていた。
修司は空奏の獣化については普段特に何も言わない。空奏自身が最も悩んでいるのを知っているからだろう。しかし、修司の方からその話題に触れてきたことを空奏は珍しいなと思いつつ驚きはしなかった。年長者として見守りながら待ってくれていたのはわかっていた。
そして彩那と友魂同盟の件が三年前の件を空奏に彷彿させていることを修司は知っている。何かが起こるとすれば今だと考えたのかもしれない。
「自分の余裕が無かったのもあって、数秒しか持ちませんでした。ルウとバルドが抑えてくれるから何とかなりましたけど、そうじゃなければ弾かれそうな感覚は変わりませんでしたね」
「……そうか」
「ただ、少し考えてることがあって。この状況になって改めて思ったんです。俺は三年前の自分に囚われすぎているんじゃないかと」
「獣化ができた頃の自分ってことか」
「そうです」
「……それで?」
「モカに言われたんです。三年前よりももっと前。強くなろうと思ったのは何故なのか、と」
「そういやお前、最初から強くなるのも兼ねてハウンド目指してた変わり者だったよな」
「それについてはちょっとした黒歴史なので思い出させないでほしいところです。今にして思えば、自惚れが過ぎるというものですからね」
「それに見合う実力があったし、思惑通り成長しただろ」
「それでも届かなかった。だからですかね、恥ずかしながら忘れてたんです。何で自分が強くなりたいと思ったのか。その最初の想いを」
「モカちゃんに言われて、三年前に拘るよりも視野が広がったわけだ」
「はい」
空奏は振り切れたように笑っていた。それを見て修司も空奏が何らかの答えを見つけたことを感じたのだろう。安心したように力を抜いて小さく笑った。
まだ獣化ができるかどうかはわからない。しかし、空奏の気持ちは落ち着いていた。それがわかったからこそ、今日はそれを含めて修司に話をしに来たのだ。
修司は三年前に空奏よりも大きな心の傷を負った。まだ一年足らずの空奏と違い、命を落とした仲間たちとは浅くない交流があったのだ。いつ死んでもおかしくはない仕事をしているとはいえ、その喪失による影響は決して推し量ることはできない。
それでも修司は自分のことを押してでも空奏のことを心配してくれていた。獣化を失っても進み続けてこれたのは、一見ひょうきんもののこの人のおかげでもあった。
「もっと早く気づけてたら、修司さんに今回の怪我をさせなくて済んだかもしれなかったのに。申し訳ありません」
「それとこれとは話が別だ。ま、お前がこれからもっと活躍してくれるなら俺としては万々歳だな。精々怪我しなくて済むように頑張ってくれよ?」
ニヤリと笑う修司に空奏は肩をすくめる。
もちろんそういうことを言われるとは思っていたが、実際目の前にすると何とも言い難い気持ちになるものだと空奏は思った。
翌日も朝からやる気を出していた彩那だったが、空奏が仕事で行かなければならないとわかると途端に意気消沈してしまった。
申し訳ないと思いつつも仕事は仕事。友魂同盟の動きを完全に掴めているわけではない以上彩那を外に出すわけにもいかないので、部屋で大人しくしているように伝えて空奏は支部を離れた。
「外部との接触を断ってるのは彩那ちゃんに悪いよな。遊びたい盛りなのに」
「仕方あるまい。何があるかわからない以上、支部の中で局員以外との接触を断つのが一番だ。私たちが早期解決するしかない」
「空奏も身体が戻ったことだし、あとは情報が来ればすぐにってところだろ。気抜かないようにしねえとな」
「よし、さっさと片付けよう。暗くならないうちに時間が取れれば、訓練場で練習を見てあげたいし」
真面目な顔で気合いを入れる空奏をルウとバルドが見ている。その目は『そんなだから修司からお父さんしてると言われるんだ』と言っている様だった。
今日の空奏は単独での行動となっている。複数個所に戦力を分散させる必要があったため、獣化を使わない前提ではあるがルウとバルド合わせて三人での行動が可能である空奏はハウンドのメンバーとしては一人での作戦行動となっていた。
とはいえ、現在割り当てられている役割は異能による犯罪で負われているイクシスの捕縛。空奏は万が一戦闘が過激化された場合の戦闘要員として呼ばれているだけだった。早いところ片づけてしまいたいとしても、空奏が勝手な行動を取るわけにはいかない。局員による包囲は終わっているため、あとは相手に投降を訴えるのみとなっている。余計なことをしなくとも、じき終わるだろう。
「抵抗してくるかな」
「そりゃあするだろうさ。そうじゃなけりゃ犯罪に走ろうとは思わねえだろ」
「あまり時間を取られるようならこちらに要請がかかるだろう。どちらにしても奴に未来は無いが、早めに投降してもらいたいものだ」
空奏が動く、つまりハウンドが動くということはその武力行為は容認される。そしてその場合、犯人の身柄拘束に拘る必要は無くなるのだ。今回は犯人が異能を使った犯罪を行ったということが判明しているため、状況によってはその無力化が認められている。そして新たな犠牲者を出すことを避けるため、その手段は問われない。そのためのハウンドだ。
それほど、異能を使った犯罪は重いことなのだ。
「科戸くん、いま少し取れますか?」
「はい。待機中ですが、今は大丈夫です」
「では手短に」
浅木からの連絡は友魂同盟のメンバーに対する尋問の途中経過報告だった。彼らは一様にスターチスが関わっていることは知っていた。実際に対話をしたことがあるのは熊井と他数名だけということで、捕らえたメンバーの中にはスターチスと接触した者はいなかったという。
友魂同盟は人類全てが異能を使えるようになること、異能を自由に使うことのできる社会とすることを目標として動いているようです、と浅木は言った。
「病院でのこととか、真逆のことを行っていることに早いところ気づいてほしいものですね」
「科戸くんの言うとおりだと思います。これが若さなのでしょうかね」
友魂同盟のメンバーは若い層が多い。まだ若い部類に入るであろう空奏は一緒にされたくはないが、若くないと言われるのも嫌なので少し口ごもった。
その後、無事犯人は管理局の局員たちにより取り押さえられ、空奏の出番はないままこの件については終わりを迎えた。
そして連続殺人グループの隠れ家に突入するため応援が欲しいという情報が入ったため、空奏は急遽次の現場へと向かう。
「なんだ、今日はやけに忙しじゃねえか」
「もしかして、不調で休んでた分を一気に回されてる感じかな」
「真白に文句言いに行くか?」
「そんなことしたら一か月は歩けなくなる可能性があるから、やめて?」
仕事を分配しているのは真白だが、今現在の忙しさは真白のせいというわけではないだろう。ただでさえハウンドは人手不足になりがちなのだ。空奏と修司が抜けていた分が回ってきていてもおかしくは無い。空奏は自分たちの仕事をするだけだとバルドに言い聞かせた。
「何度も逃げられている連中なんです。一人が瞬間移動のような能力を持っているため、こちらとしてもここで一度に終わらせてしまいたいところです」
現場についた時、空奏よりもかなり年上の担当者は腰を低くしてそう言った。自分よりも年上の人にこうした態度を取られるのはなんだが居心地が悪い。自分は使われる側の立場であり、相手は人の上に立つ人間だ。部署が違うとはいえ、少しぎこちなくなる。
そんな空奏の心情を知らない担当者は訝し気な目を向けつつ、間取りや作戦の説明を細かく行ってくれた。
「空奏は変なところで年上に遠慮する。私としてはよくわからないのだが、何故だ?」
「別に理由というほどのことはないんだけど。何となくかな。それに年上だったら誰でも遠慮、というか敬意を示すわけじゃないしね。強いて言えば、経験というのはそれだけでも大きな力になる。それを活かすことのできる人は立派だと思うし、そんな人に口調だけとはいえ同じ目線に立たれると何だか委縮しちゃって」
「むしろ堂々と構えてふんぞり返ってやればいいんじゃないか。そしたら相手も次第に対応が雑になっていくかもしれないぜ?」
「やめろよ。バルド絶対やるんじゃないぞ。俺は絶対そんなことしないし、仮にバルドやルウがやっただけでも俺が真白さんからこってり絞られるようになるんだからな?」
バルドの恐ろしい考えを戒めていると、ルウが呆れたように溜め息をついた。その溜め息の行き先はバルドだとわかっているが、何故か自分も入れられているような気がする。
「空奏には真白も越えられるように早く立派になってもらいたいものだ」
ルウの小さな呟きは空奏とバルドの耳には入らず虚空へと消えていった。
作戦通りグループの隠れ家へと複数人で乗り込み、メンバー全員の確保に成功した。
山中にあった打ち捨てられた廃墟を隠れ家にしていたグループの三人は瞬間移動と擬態の異能によってこれまで逃げおおせていたようだが、ルウの鼻によってあっさり見つかり、吸い込むと身体が痺れる霧を発生させる能力の持ち主は空奏たちの風で払うことによって事なきを得た。
「建物の外におびき出せれば一番だったけど、今回は仕方ないか」
「空奏一人ならそれでもいいだろうが今回は集団戦だったのだ、仕方あるまい。どちらにせよ、危なげなく終わらせることができた。作戦通り進んだな」
作戦が見事ハマり、周囲の空気も緊張が緩んでいる。片づけや状況証拠を取っている人たちの邪魔にならないよう、空奏はガラスの無くなった窓の近くに背中を預けていた。
「もう夕方だな。これじゃあ練習に付き合うような時間は取れそうにないか」
「彩那は残念がるだろうな。空奏がここら一帯吹き飛ばしちまえば良かったんだ」
「無茶言うな」
バルドの物言いに思わず笑う。バルドもわかっていて言っているので、すぐに窓枠から外に目を向けてキョロキョロと周りを見渡し始めた。空奏よりも山に興味があるらしい。
その時、空奏の端末が支部からの緊急連絡を告げた。
「彩那ちゃんが支部からいなくなりました」
すぐに応答した空奏の耳に届いたのは、真白の淡々とした声だった。
空奏は窓から飛び出した。空中で実体化したバルドと共に風で衝撃を相殺して着地。ルウも現れ、着地と同時に走り出す。驚いて近寄ってきた担当者に簡単に説明をし、追って連絡が入るはずだと伝えて後の処理を任せる。
続く連絡で今は琴絵とモカが追っているということが伝えられる。しかし、複数人による足止めを喰らっており、もし位置を把握するために彩那が身に着けている装置が外されれば追うことは難しくなるということだった。
この点、空奏たちであれば追跡に問題はない。急いで琴絵たちと合流し、友魂同盟のメンバーと見られる者たちの鎮圧。すぐさま彩那を追い、状況を掴むよう指令が下された。
「一人にした途端これって。狙われてたってことか。今の彩那ちゃんに無関係の人間が近づけるわけないのに」
「とにかく、じき陽が沈む。下手に奇襲をかけられるようなことは避けなければならない。急ぐぞ」
「わかってる。でも、なんで彩那ちゃんが勝手にいなくなるようなことが起こるんだ。スターチスが何かしたってことか?」
「もしくは友魂同盟の連中が何か仕込んだ。どっちも現実的じゃあねえな。遅延性の能力にしても数日経ってる。それができるのはさすがにソウルイーターぐらいだろうが、スターチスに人を操る様な能力は無いはず。となれば」
「別なソウルイーターがいるっていうのか!?」
ただでさえ厄介な友魂同盟の相手に加え、今まで存在を知ることができなかったソウルイーターが別にいるとすれば、それは脅威に他ならない。苦虫を潰したような顔をする空奏に向かってバルドが言う。
「俺が言ってるのは可能性の話だ。局員の中に相手側のスパイがいたって可能性だって考えられる」
「……それは余計に考えたくない」
下手すればソウルイーターが二体いることよりも内部に敵が潜んでいたことを把握できていなかったことの方が問題になるかもしれない。友魂同盟は最近この区域で活動を始めた者たちだ。それが既に内部に潜入されていたとなれば異能事案管理局の面子に関わる。空奏からすれば管理局の面子など知ったことではないが、日常業務すら活動しにくくなるような相互監視体制を取られるのは面倒なことこの上ない。実力行使が多いハウンドに対し、何かと難癖をつけて行動を規制させようとする輩も多いのだ。そのような輩にスパイが混じった結果で先手を取られるようなことは避けたい。
「何にせよ、彩那を確保すれば相手が動く。それで答えがわかるはずだ」
「バルドもそうだけど、ルウも余裕あるよな」
「空奏も大概だろう。全員似たり寄ったりだ」
「まあ俺とルウの元は空奏だしな。そりゃあそうもなるわな」
ケラケラと笑うバルドと、冷静なルウの様子に安心する。
特別なことは無い。普段どおり仕事をこなし、彩那を元の通り保護して帰る。それだけの話。
空奏は獣化について答えを得たことで余計な力がストンと抜け落ちているのを感じた。
「彩那ちゃんを発見。周囲に友魂同盟のメンバーと見られる男女六人。戦闘開始します」
彩那を追い、工場地帯にある倉庫群へとやってきていた。見晴らしは良くないが、それは向こうも同じはず。琴絵たちの方へと向かっている途中で空奏は彩那を発見した。向こうも空奏を見止めたようで、周囲にいる六人が足を止める。しかし彩那はふらふらと何かに導かれるようにそのまま歩いていってしまう。
「少なくとも彩那ちゃんの意識は無さそうだけど、ラナまでいないのは何でだ?」
「空奏も俺らの実体化を抑える時あるだろ。あれと一緒だ」
「うむ。彩那の意識を操っている何者かが抑えているのだろう。ラナの意識までは奪うことができなかったようだな。そうでなければ彩那まで敵に回っていてもおかしくない」
「……尚更早くラナを解放してやらないと」
「だが、まずは」
ラナは彩那の力になることができなかったと苦悩していた。彩那の内側から外を見ているだろう彼女は、彩那が操られている現状に再び無力さを感じているかもしれない。
彩那の周囲についていた六人のうち、五人がこちらに向かってくる。もう一人は誘導役として彩那を急かすようにしている。この五人を突破してからでなければ彩那の元へ向かわせてはくれないだろう。
「浅木さん、今更ですけど遠慮する必要は?」
「ありません。彼らの裏は調査が終わっています。各種犯罪歴についても洗い終えていますので。あるテロ組織の下部団体にあたっていたことも判明しています」
「物騒なところまで手を出してたものですね。わかりました、ありがとうございます」
浅木の了承を取りつけ、空奏は腰のに下げた刀を抜いた。相手は銃を持っている者も二人いるが、幸いにもこの辺りは遮蔽物が多い。琴絵の力を仰ぐまでもなく対処することができるだろう。
「小銃の射線に気を付けろよ」
『わかっている』
ルウとバルドの返事と共に空奏は駆け出す。建物の陰に隠れてから小さな出っ張りを利用して建物の上へ。ルウがバルドの支援を受けて五人の元に突っ込み、先日彩那を追っていたのと同じゴリラの幻獣を呼び出した一人の喉元に噛み付いた時、空奏は屋根を利用して五人の背後を取った。
倒れるゴリラの幻獣とそのアニマを視界の端に捉え、あの時は逃がしてしまったが今回は逃がさずに済みそうだと空奏は独り言ちる。
バルドが足元から風を巻き上げて小銃を逸らすのに合わせて背後から小銃を持っていた女を切り捨てる。その女を蹴り飛ばし、ルウの元へ向かおうとしていた男を牽制。男が足を止めたのに合わせてルウが一旦離脱した。
すぐさま空奏へ発砲しようとしたもう一人の銃口は、バルドが飛びついて抑えられた。無理やり撃とうとした流れ弾に当たらないように気を付けながら空奏は距離を詰める。気づいたバルドが離れたと同時に銃口を斬り飛ばし、返す刀で持ち主を斬る。
同じように流れ弾を躱していた残りの二人が距離を取って態勢を整える。焦って飛びかかってはこないが、逃げるつもりもないらしい。上空を旋回し始めたバルドに視線をやり、ルウが戻って来たのを確認して空奏は口を開いた。友魂同盟の二人に問う。
「逃げないのか?」
「ここで逃げたら、あっちでそいつらに会わせる顔がねえだろうが」
「……随分と肝が据わってるな。若いのに、もうそういう覚悟ができてるのか」
「俺らはわかっててこっちの世界に身を置いてるんだよ、科戸空奏。生半可な覚悟してるやつは友魂同盟にはいねえよ!」
「そうか。それは、悪いことを言ったな。方向性はともかく、その覚悟を疑ったのは謝る」
「……」
「その意気は認めるが、あの子は返してもらうぞ」
残るは男女一人ずつ。武器の類は出していない、そして幻獣も姿を見せないことからイクシスと判断していいだろう。
女が腕を上げると、不可思議に揺らぐ刃が生成された。振り下ろすと同時に刃は空奏たちに向かって一直線に迫る。降りてきたバルドが空奏の前で制止すると、バルドは風を起こしてそれを相殺した。
「ハッ。俺ら相手に風の刃とは笑わせてくれる。本当の風の使い方ってもんを教えてやるよぉ!」
バルドが羽ばたくと突風が巻き起こり、女を吹き飛ばした。壁に背中を打ち付けた女はそのままずるずると崩れ落ち、動かなくなる。
「おいおい、それで終わりかぁ?」
「完全に悪役のセリフだな。しかも小物っぽい」
ルウの指摘と空奏の物言いたげな視線にバルドが嗤う。何だか昂ってきているようだ。似たような異能であることが対抗心に火をつけたのだろうか。
女が軽く吹き飛ばされたことに驚く男に向かって空奏が肉薄する。男はどこからか両手に取り出した鎌で応戦するものの、弧を描く刃は空奏を捉えることはできない。
男の方は物質から鎌を創り出す能力の様だ。壁や地面に手を付けると手には鎌が生成されている。それを近接だけでなく投擲にも使う戦い方は修司と似ている。
だが一度手を物質に接触させるという工程がある以上どうしても隙が生まれてしまう。その隙をカバーしながらも空奏の刀を防いでいたのは高い実力を持つ証拠だろう。
中途半端に地面に鎌を生成することで地面に棘のように設置する男は時間稼ぎも兼ねているのだろう。空奏の攻撃をいなし、躱すだけで反撃から追撃のチャンスがあったとしてもそれを逃して深追いはしてこない。
空奏も時間をかけるつもりはなかった。女がよろめきながらも立ち上がったのを見て嬉々として今度こそ決着を付けようと勇むバルドだけが空奏の幻獣ではない。
「なっ、ガハッ!?」
「ルウのことを失念したな。一対一ならいいものを持っていたのに、残念だ」
男の首に牙を突き立てたルウが男の身体を放り投げる。空奏はその遺体に軽く頭を下げ、勝負にならなかったらしくつまらなそうな顔をしているバルドの元へと向かった。
女が気を失っただけなのを確認し、倉庫の中にあったロープで縛る。血は出ていないため、昏倒だろう。記憶が飛んだりしていないことを祈ることにする。
「浅木さん、状況は?」
「申し訳ありません。彩那さんは見失ってしまいました。鈴村さん、柊さんの両名が応戦しつつ河地さんが行方を追っている形です」
「すぐに俺たちが追います。見失った地点をください。そこから匂いを辿ります」
「お願いします。……送りました。現在、鈴村さんたち周囲に対する人払いは済んでいます。しかしそちらに対し相手方の増援が続いているため、思うように動くことができていません。しかし現状戦線は維持できているため、こちらは誰か動けるようになった者が向かう予定です。」
「わかりました。琴絵たちならそうそう崩されることはないでしょうし、大丈夫かと」
端末の示す彩那を見失った地点へと向かうため、浅木との連絡を切ろうとした。
その時だった。
それは強化された聴覚が拾い上げた、何かがぶつかる音
引き寄せられるように振り返った空奏の目に映ったのは、倉庫群の中でも一際大きな建物。
そして上空へ向かって伸びる透明な何かを空奏の目は捉えた。
空奏はとっさに走り出した。
「……聞こえた。あの子の呼ぶ声が」
「声だと? バルド聞こえたか」
「声って彩那のだろ。俺には何も」
「科戸くん?」
「浅木さん、河地さんを琴絵たちの援護へ。俺は彩那ちゃんの元へ向かいます」
「なっ、一人でですか!?」
「彩那ちゃんを外に連れだせる可能性は低いと思います。スターチスたち相手に、外から狙える位置にうまく誘導できる自信はありません。河地さんが屋内でも問題ないのはわかっていますが、今の状況で河地さんの利点を潰す必要もないでしょう。それなら、琴絵たちを援護してもらった方がいい。各自終わったらすぐ俺のところに来るよう伝えておいてください!」
今の音は間違いない。彩那がラナと共に的当てをしていた時に聞いた音。水が的に当たって弾ける時の音が聞こえた。建物までの遠さからか、響くような大きな音ではなかった。だから気のせいと言われればそこまでかもしれない。
薄く伸びたそれも、この暗さではよく見ることはできなかった。
しかし、だからこそ空奏には気のせいだとは思えなかった。
そこであの子が待っていると確信していた。
「ここは……?」
「(彩那! 彩那、良かった。目を覚ましたんですね)」
「わっ!? ら、ラナの声か。びっくりした」
彩那は気づけば知らない場所に立っていた。彩那がいる場所は開けているが、少し離れた位置には多くの箱が置いてあるのが月明かりからわかる。暗くてよく見えないが、様々な物が積まれているということは倉庫か何かだろうか。
突如頭に響いたラナの声に驚いたものの、周囲の様子を見ながら彩那もまた頭の中で言葉を紡ぐ。
「(頭の中で急に声が聞こえるの、まだ慣れないなあ。でも目を覚ましたって。部屋で寝てたはずなのに……わたしどうしてここにいるの?)」
「(彩那の言う通り、屋外訓練場から帰った後は部屋で寝ていました。しかし、起き上がったと思ったら歩き出して、ここまでやってきたのです)」
彩那の様子が戻ったことに安堵しつつラナが簡単に説明をする。それを聞いて彩那はますます首を傾げた。寝ている時に歩き回るなど、どういうことだろうか。
「その様子だと幻獣と話をしてたのかな? 疑問に思ってるだろうし、とりあえずここはある倉庫の中とだけ言っておきましょう」
「だれっ!?」
振り返ると、突然倉庫内にコツコツという足音が反響した。暗闇の中から現れたその人物は彩那の目の前で立ち止まり、ニコリと笑った。
対して彩那は呆然としてその姿を見上げる。
「上村、さん?」
「ええ、彩那ちゃん。あなたが施設からいなくなって数日。心配していたのだけれど、元気そうで何よりだわ」
止まった上村に対し、彩那はじりじりと後ろに下がった。数か月しか関わっていないが、上村は彩那のことをずっと気にかけてくれていた。穏やかな笑みを浮かべて彩那の心を解きほぐそうと尽力していたことは確かだ。そして彩那は、友魂同盟の人間に狙われていることを隠しながらも、その笑みに救われていた。巻き込むわけにはいかないと奮起したものだった。
しかし今、同じ笑みを浮かべるその姿に彩那は恐怖にも似た何かを感じ取っていた。
「彩那、下がってください。この人の匂い、何かおかしい」
「落ち着いて幻獣の子。私は彩那ちゃんの知り合い。争うつもりはないのよ」
彩那が正気に戻っていることで実体化することができるようになったラナが、彩那を守るようにして上村との間に降り立つ。その様子を見て上村は苦笑しながらラナに向かって言った。しかしラナは警戒を緩めるようとはしない。彩那もまた上村から感じる雰囲気に違和感を感じ、目を離さないようにしながら更に少し後ろに下がった。
「何でこんなところに上村さんが」
「悲しいな。私はただあなたのことを心配しているだけなのに」
「そうだよ。レンゲは北野ちゃんのことを心から想っているんだ。そこに偽りはないよ」
背後から聞こえた声に振り仰ぐと、一人の青年がこちらを覗き込むようにして積み上げられた箱の上に座っていた。
青年はニコリと笑むと、彩那の前にふわりと降り立ち興味深そうに彩那を観察し始める。
「ほほう。これは聞いた通りすごい魂の持ち主がいたものだね。いやはや、人間の成長というのは恐ろしい」
「スターチス。彼女を怖がらせるような真似はやめなさい。今更多少感情の乱れを起こしたところで魂に影響は無いでしょうけど、ここまで育んだ彼らの努力を鑑みるべきでしょう」
「それはそうだけど、僕としては彼女自身にも興味が尽きないんだよ。強い感情の発露がアニマの覚醒に影響するというのを彼女の存在が証明してくれている。まだ一つだけとはいえ、このサンプルが得られたのは僕たちソウルイーターにとっても大事なことだと思うけどね」
「私はあなたほど魂の質に興味は無いから。それよりほら、よそ見してると」
上村が言いかけたその時、彩那の背後で水球が弾ける。ラナの指示で真横に駆けた彩那の立っていた位置に向かってラナが水球を飛ばしたのだ。少し遅れて上村の眼前にバケツを返したような水流が迫り、上村は難なくそれを避ける。
軽く腕を振っただけで水球に触れることなくそれを防いだスターチスは愉快そうに笑った。
「優秀な子。いや、さすがに小学生程度でその判断はできないよね。ということは幻獣の指示かな?」
二人に挟まれているのはまずいとラナに言われ、とっさにとった行動は正解だったようだ。ラナがスターチスと呼ばれた青年に向かって攻撃するのに遅れて彩那もまた上村に向かって創り出した水をそのまま飛ばした。
駆け抜け、壁を背にするようにして立つ。振り返った先では二体のソウルイーターが何事もなかったかのようにこちらを見ていた。
「僕たちって、言った。ということは、上村さんもソウルイーターなの?」
「今更確認するのね。今の水、驚かせる程度の威力じゃなかったと思うわよ? ただの人間なら吹き飛ばされていておかしくないものだった」
「答えて。上村さんは、ソウルイーターなの?」
人の魂を喰らい、死へ導く者たちの存在はもちろん彩那も聞いたことがある。ニュースで何度も取り上げられ、時には異能事案管理局によって討伐されたという話も出る。
実際に目の当たりにするのは初めてだが、聞いた通り見た目は人間と変わりない。
ラナがおかしいと言った言葉を、自分の中の違和感が裏付けるように胸がざわついていた。だからさっきは動けた。
再び彩那を庇う様にして向こうを威嚇しているラナの姿が彩那を冷静にさせていた。
元々自分を押し殺すようにしていたおかげで、小学生らしくない達観した思考を持つ彩那は湧き上がる様々な感情を押し殺し、ただ一点のみを確認する。
自分を気にかけてくれていた女性が、自分を殺そうとする存在なのかどうか。
「……そうよ。私は人間にソウルイーターと呼ばれる存在」
「……そう、なんだ」
下を向きそうになるのをグッと堪え、彩那は自分を見る上村を見つめ返した。
いつも気遣うように彩那を見てくれていたその目からは何も読み取ることができない。
「上村っていうのは偽名なんだけど、蓮華は本名なのよ。綺麗な名前でしょ?」
ふわりと笑うその表情はいつも彩那が施設で見ていたものと同じようで、でも少しだけ違う。柔らかい笑みは自分を気遣うものではなく、そこに暖かさは感じられなかった。
「彩那。気持ちはわかりますが、もう少しだけ」
「ありがとう、ラナ。大丈夫だよ」
ラナが前を見据えたまま背後の彩那に声をかける。彩那はその温もりに押されるように感傷を横に置く。
死を体現するものがそこにいる。改めてその現実に向き合おうとするのは足がすくむような気がした。視界に映るラナの背中がかろうじて彩那を支えてくれている。
「(彩那、そこの荷物の陰に水を貯め込んでください)」
「(……わかった)」
ラナの目的はわからないが、何か考えがあるのだろう。彩那は言われた通り、ソウルイーターたちに気づかれないようにしながら陰に水を創り出し始めた。
ラナがソウルイーターたちに向かって凛とした声を張って立ち向かう。時間を稼ぐつもりのようだ。
「このおかしさはソウルイーターの証だったのですね。それにしては二人の匂いに差がある気がしますが。ともかく、彩那をここに連れてきたのはあなたたちのはずだ。どうやって彩那を操ったのです」
「覚醒前の幻獣は記憶を共有するのよね。だとしたら知ってると思うわ。病室で彩那ちゃんと二人っきりになった時に遅効性の術式をかけておいたのよ。便利でしょう?」
「彩那が病室から抜け出して、空奏と琴絵に保護された時……。目的は何です」
「やだなあ、ソウルイーターの目的なんて魂に決まってるよ」
「なぜ、彩那の魂を狙うのです。それも、こんな回りくどいことをしてまで」
「それについては僕じゃなくて蓮華の考えなんだけど」
「私たちだって、あの城ヶ崎真白のいるところに乗り込んでまで彩那ちゃんの魂を取ろうという気は無いということよ。あんな化け物相手にしていられないわ」
「ソウルイーターが人間を化け物と呼ぶとは、笑えない話ですね」
ラナはまだこの世に顕現したばかりのため、真白の力を知らない。彩那も詳しいことは知らないが、管理局に滞在していたこの数日の間、局員や空奏たちの態度を見ていて真白が凄い人であるということはわかっていた。
しかし、異能事案管理局に属する局員でさえ相手取る時は数人で対応するというソウルイーターに化け物と言わしめる真白の力はどれほどのものなのか、想像もできない。
「しかし答えになっていませんね。上村……いえ、ソウルイーターの蓮華。あなたなら彩那に接触する機会はあったはずです」
「外に連れ出すことはできなかったでしょう。いつだって誰かしらの監視のあったあなたたちだもの。それに、魂が欲しいのは私じゃなくてスターチス。内部で悟られないように魂を取ったとしても、渡すまでに鮮度が落ちてしまっては意味が無いわ」
「僕としては勝手に取ってっても良かったんだけどね。レンゲと約束したから、こうして君たちがここに到着するのを待っていたというわけさ」
「約束、ですか」
「そう。僕はアニマとして覚醒した北野ちゃんの魂が欲しかった。レンゲはこの辺で活動するにあたってそろそろ一旦、管理局の目を遠ざけたかった。じゃあ何やら有望な異能持ちを探しているらしい友魂同盟にも手伝ってもらおう。ということで、彼らの集会場所でもあるここを借りたということさ。ここで北野ちゃんがレンゲと話をするまでは僕は手を出さないことになっていた」
「スターチス。喋りすぎよ」
「おっと、これは失礼」
ピシャリと釘を刺した蓮華に向かってスターチスは芝居がかったお辞儀をした。
緩い空気のソウルイーターに反して、彩那とラナは周囲に対する警戒を強めた。スターチスの言うことが本当なら、友魂同盟の人間が出てくる可能性がある。
ラナは混乱の最中にありながらも、あの時熊井という人間を逃したことを思い出していた。彩那の内から見ていた、傷付いた空奏たちの姿が目に浮かぶ。今の状況でさえ絶望的なのに、熊井まで出てきたら逃げることなど叶うはずもない。
「ん? 二人して顔が強張っているね。安心しなよ。友魂同盟の人はここにはいない」
「彩那を途中まで連れてきたのは友魂同盟のはず。それに、ここを拠点としているなら熊井という男がいてもおかしくない。その言葉を信用することは……」
「食べちゃったから」
「は?」
ラナが呆けたような声を出す。彩那もまた、何を言われたのか理解できずにいた。
固まった二人を見て、スターチスは何が可笑しいのか愉快そうに笑って再び言う。
「だから、その熊井って人。魂食べちゃったから。他にも三十人ぐらいかな。全部僕が食べちゃったから、ここには来ないよ。安心していい」
楽しそうなスターチスの横で蓮華が小さく溜め息をついた。
相手は子どもとその幻獣。ラナのおかげで保っていた彩那の気力は、今の発言で失われるだろうと蓮華は見ていた。スターチスとすればそれが目的なのだろうから、蓮華は何も言わずに様子を見ることにした。
彩那はポツリと呟く。その雰囲気にラナは震えた。
これは、壊れる。
「そんな。……そんなにたくさんの人を、あなたは、殺したってこと?」
「そうだね。さて北野ちゃん、そろそろお話は終わりにしようか。蓮華と話をするところまでの約束は守ったし、これ以上はもういいよね」
「彩那!! 天井に向かって打ち上げて!」
思わずふらついた彩那をに向かってラナが叫ぶ。その言葉にハッとした彩那は、言われるままに貯め込んでいた水を天井に向かって放った。
何も考えずに解き放たれた水流は天井を壊して一つの柱となる。
ラナはその一部を巻き取り、自らと彩那の周囲を流れるように水流を展開した。
あの相手に対しては一時しのぎにもならないのはわかっている。
だから、一刻も早く気づいてもらえることを祈るしかない。
呆然としている彩那の足元に駆け寄り、見上げる。
「彩那、しっかりしてください。彩那!」
「ラナ、わたし。わたし、また関係ない人を巻き込んで」
「違います。彩那のせいじゃない」
「だって、あの人たちはわたしを狙って。わたしが、いなければ。わたしは生きてたら……」
違う、と叫ぼうとしたラナは彩那に抱きしめられてその動きを止める。
彩那の腕の中は、初めて実体化したときと同じ暖かさに満ちていた。
ラナは気付き、目を見張る。
自らを責めているだけだった彩那の気持ちに変化が生じている。
「生きたいと思ってもいいって、言ってくれたんだ」
「……はい」
「もっとラナと一緒にいたい。また我が儘言っても、聞いてくれるかな」
「はい。彼ならまた笑ってくれるでしょう」
「ラナのことだけでも助けてほしいな」
「……。いいえ、彩那。わたしはあなたと共に」
ムッとしたように言うラナに向かって彩那は笑った。一緒にいてくれる。その言葉が何よりも嬉しい。
水流が弾けた。
水の壁の向こうには、こちらに掌を向けたスターチスと複雑そうな表情で立っている蓮華の姿があった。スターチスが歩いて来る。
「物陰で水を蓄えて何をしたいのかと思ったら、こんなことに使うとは。お別れの言葉を言いたかったのかな。それぐらいなら待ってあげたのに。でも、もういいよね」
「彩那ちゃん、時間よ。……さようなら」
確実に近づいてきた死を間近にして、彩那はラナをきつく抱きしめて目を閉じる。
恐怖で固まった口を動かし、彩那は願う。
声にならない声を紡いだその時、彩那は柔らかい風に包まれたのを感じた。
「遅くなってごめんな」
「……空奏、さん」
「ちゃんと、届いたから」
目を開けた彩那に向けて、少しだけ振り返りニコリと笑う。
いつか夢見た大きな背中が、そこにはあった。
『助けて、空奏さん』
風に乗せられた小さな祈りは、間違いなく空奏に届いた。
水柱を見て駆け出した空奏が穴の開いた天井から飛び込んだのは、スターチスの手が届こうかというまさにその時だった。
その腕を切り落とすつもりで振るった刀を、スターチスは後ろに飛び退いて躱した。
「そっちにいるってことは、あんたは敵なんだな。上村さん」
「それがわかっていながら『さん』付けなんて、礼儀正しいのね。科戸空奏さん」
「……。浅木さん、彩那ちゃんを発見。敵の数は二。一人はスターチスです。手が空いたら人回してください」
浅木に連絡を入れ、通信を切る。スターチスの名前が出た時点で浅木が止めに入ったが、このまま逃がしてくれるとも思えないし、そのつもりもない。
スターチスが彩那を狙っている以上、手を打たなければ彩那に平穏は訪れない。
神出鬼没なソウルイーターである彼をここで討たなければならないと空奏は決意していた。
「怪我ねぇか二人とも」
「無いよ。ラナも怪我は無い」
「あ、彩那。そろそろ、はな……いきが……」
「あ、ごめん!」
空奏に遅れて降り立ったルウとバルドが二人の様子を確認する。
改めて無事を確認し、空奏はスターチスへと意識を向け直した。
「遅れずにここまで辿り着くなんて、いやはやハウンドというのは末恐ろしいね」
「猟犬の名を戴いただけはあるってものだろう。友魂同盟のやつらはどうした。いないところから考えるに、食べたか?」
「話が早くて助かるよ。ここにいたのは全員食べちゃった。んで、君たちが上村って呼んでる彼女はソウルイーターだ。名前は蓮華。ここに連れてきたのは彼女だから、変に横やりが入ることは考えなくていいよ」
スターチスは嘘は言わない。彼の言葉は信じてもいいだろう。そして横やりが入ることを嫌がるのもスターチス自身だ。だからこそ全て喰らった。
そしてサラリと明かされるもう一人のソウルイーターの存在に空奏は思わずルウを見やる。ルウはソウルイーターを見分ける目を持っている。だから空奏にはゴーグルが必要無いのだが、まさか見落としていたということだろうか。
「バカな。私がソウルイーターを見逃すわけが……いや、まさか」
「ルウ?」
「蓮華と言ったか。お前、人の魂を喰らったことが無いな?」
「……幻獣風情が。そんなことまでわかるのね」
「科戸ちゃんの幻獣は本当に優秀だよね。よくその可能性に辿り着けるものだよ」
蓮華がルウを睨みつける。対照的に何故かスターチスは嬉しそうな顔をしている。一人理解の追い付いていない空奏がルウに訊ねる。
「待て。ソウルイーターの魂は最初から人間とは別の物なんじゃないのか?」
「もちろん別物だ。しかし、一見区別がつかない。人間も犬も。猫、鳥、この世に生きる全ての生き物は全て違う生き物であり、違う個体だ。それぞれが魂を持っている限り、そこに差があるのは当然」
「じゃあ、お前らは何で見分けてるんだ?」
「私たちは色で見分けている。通常魂は青い色をしているが、ソウルイーターの魂だけは赤い色をしている。赤くなるのは他者の魂を取り込んだことによる異常反応の影響であり、管理局のゴーグルはその異常を感知するために創られたものだ。色の区別も、私のような存在の感覚に似せたものだったはずだ。……いくら使わないからといっても組織の道具の構造ぐらい把握しておくのだな」
「いや、さすがに知ってる人少ないと思うよ?」
ソウルイーターに対しては赤い反応を示す、ぐらいの認識で使っている者がほとんどだと思う。そう思いたい。
「ともかく、二人ともソウルイーターってことでいいんだな?」
「いいや。今の状況ではソウルイーターと言えるのはスターチスだけだ。客観的にはな」
「いいじゃねえか。どっちもソウルイーターで。そう考えておかねえと、スターチスに構ってる隙に刺されてもおかしくねえぞ」
「しかしだな」
「……彩那ちゃんを連れ去った原因は蓮華にある。友魂同盟の組員として対処する。以上」
空奏の決断に二体も頷く。名目上とはいえ、ソウルイーターとして処理することはできない。誰にわかるものでもないからこそ、空奏は自身の責任として対応することに決めていた。
「熊井とケリと付けたかったところだけど、仕方ないか」
「代わりに僕が遊んであげるよ」
「本命に言われてもな。悪いが遊ぶつもりも、その余裕もない」
空奏は正眼に構えながら言った。全員食べたということは当然、熊井も含まれるのだろう。相手をする人数が減るのは素直に助かるが、残っているならスターチスではなく熊井が良かったと思うのはあの男に悪いだろうか。
「北野ちゃんを守りながら僕とやるつもりなんだ。それも一人で」
「お前のおかげでこっちは友魂同盟の連中に人手を割かれているんだ。二人まとめて俺がここで倒す」
凛とした表情の空奏を見てスターチスは目を見張り、笑った。スターチスの足元に以前にも見たことのある、大きな黒い猫が実体化する。ルウとバルドも臨戦態勢に入り、一触即発の空気が漂う。
「空奏、わたしも」
「うん、わたしたちも!」
「ダメだ。悪いけど足手まといにしかならない」
厳しい言い方だが、それが現実だ。スターチスと蓮華。二人のソウルイーター相手では、彩那がいるということが一つの枷となる。動き回られればその分空奏たちのフォローが間に合わなくなる危険がある。
少しでも戦力が欲しいところではあるが、彩那たちを危険に晒すわけにはいかない。
「科戸ちゃん。一つ、約束をしようか」
「なに?」
「僕と蓮華は、君が立ち上がれなくなるまで彩那ちゃんに危害を加えないと約束をしよう。そもそも蓮華は魂を食べていないせいで碌に力を使えないしね」
「……お前のメリットは何だ」
「君ならわかってると思うけど、僕の目的は北野ちゃんの魂だよ。でもそこにアクセントを咥えようと思うんだ。……助けに来た君が目の前で死んだら、北野ちゃんはどうなるかな?」
「……」
「その魂は絶望に染まる。今度はアニマの覚醒とは関係なく、染まってみてもらおう。そしてその魂の味がどうなるのか、僕に教えてほしい」
「相変わらず狂ってる。でも、いいか。勝手に制限をかけてくれるなら好都合だ」
「それに北野ちゃんのことを気にして全力で来ない、なんてことになったらつまらない」
「……そうか」
空奏は一度身体ごと彩那に向き直る。背中はルウとバルドが守ってくれるから心配はいらない。
こちらを見上げた彩那は空奏を心配するような表情で立ちすくんでいた。
その頭に手を乗せて笑いかける。何も心配はいらないと言うように。
「悪いけど、すぐに逃がしてあげることができそうにない。自分の身を守ることだけ考えて、ここから動かないようにしててくれ」
「……わかった」
「ラナ。彩那ちゃんのこと頼むぞ」
「わかりました」
ラナの言葉に頷く。それを見たラナは彩那と目を合わせ、水の壁を創り出した。
空奏は彩那たちの元から少し下がってから刀を抜き、自分と彩那たちの間に一本の線を引いた。
振り返り、愉快そうに笑っているソウルイーターに向かって言う。
「この先に行けると思うなよ」
もういいだろう。
この子が危ない目に遭うのは。
自分を押し殺さなければならない状況に追い込まれるのは。
ルウとバルドが実体化を解除し、空奏の中へと戻って来る。
三年間がむしゃらに探して来たのも、もう終わりにしよう。
ただ強くなろうとした自分ではなく、在りし日の自分へ還ろう。
いつしか獣化は目的となっていた。
獣化を取り戻して強くなろうとあがいていた。
守ることばかり考えて、大事なことを忘れていた。
一番初め。アニマとして覚醒した時はそうではなかったはずだ。
当時の誓いを思い出し、口を開く。
今度はこの力で必ず守り抜くという決意と共に。
「科戸の名を冠する者として。その身は盾にして、剣となれ」
瞬間、空奏の纏う空気が一変する。
青かった瞳は黄色い光彩を放ち、身体から青白い炎のようなオーラが立ち上る。
科戸の風はいっさいの穢れを祓う風の名を示す。
守るために討ち払う。それが己に課した空奏の誓約。
空奏は警戒をあらわに跳びかかってきた黒猫を切り伏せ、スターチスを見据えた。
その姿に目を見張ったスターチスは、口元に小さく笑みを浮かべて珍しく感嘆したような声を出した。
「科戸ちゃんの獣化。もう見れないと思ってたよ」
「良かったじゃないか。一度しか拝ませるつもりは、ないけど」
言いながら懐に飛び込み、横に一閃。それをスターチスは先ほどと同じように後退して避ける。蓮華も後を追ったことで、ひとまずは彩那との間に距離を作ることに成功した。
「(俺の方にいつもの拒絶みたいな負荷はない。そっちは?)」
「(私にも感じられない。問題ない)」
「(俺もだ。何の問題もない。一気にぶっ倒すぞ!)」
ルウとバルドに問題が無いことを確認。空奏の調子も問題ない。むしろ好調と言っていい。
三年ぶりの同時獣化は問題なく成功した。加速する脳と身体のバランスに力を奪われるような感覚。そう長い時間獣化状態を保つことはできないだろう。
空奏は蓮華の背後に回り、峰打ちで意識を刈り取る。崩れ落ちた身体を抱き留めた瞬間、横から飛びかかってきた黒猫に向かって蓮華の身体を放った。
「さっき斬り捨てたと思ったんだけどな!」
「そう簡単に僕のプランクが死ぬわけが無いでしょ」
プランクと呼ばれた黒猫が蓮華の身体に阻まれるも、態勢を立て直すと再び跳躍して来た。
空奏に喰らい付くためむき出しにされた牙を避け、その横っ腹に掌底を打ち込む。
「獣化ができると言っても、二体と同時に獣化したのは失敗だったんじゃないかな?」
プランクとスターチス。両方を相手取るのは確かに難しい。しかし、通常の獣化で幻獣はルウかバルドどちらかに任せるという選択を取っては、スターチスに勝つことはできないだろう。
嫌になるな、と空奏は独り言ちた。
熊井の時も、今回も。格上を相手にどうにかしないといけないという状況に変わりはない。
だからまずは、この状況を変える。
「少しでも手抜いてどうにかなる相手じゃないことぐらいわかってる」
プランクが吹き飛ばされた先には意識を失った蓮華の身体が横たわっていた。
蓮華の身体にぶつかり、跳ね上がったところで空奏はそこにかまいたちの檻を創り出し、閉じ込めた。普通の人間なら壁となっている風に触れれば腕がちぎれてもおかしくはないような代物だ。いくらソウルイーターの幻獣と言っても、そう簡単に抜け出すことはできない。
一対一での対面となったスターチスに空奏は改めて向き直る。
「これで邪魔が入らなくて済む」
「想像以上の力だね。思わず見入ってしまったよ」
「お前が動かなかったおかげでこの獣化が失敗じゃなかったと判断できる。感謝するよ」
「いやいや、それほどでも」
皮肉を躱し、身体にソウルイーター独自の紋様を浮かべたスターチスは軽く腕を振るう。その紋様は彼らが能力を使う証。すぐに周囲に黒い煙が展開され、様々な武器の形を取って宙に浮かび上がった。
それを見た空奏は先手を取って動き出した。ルウの身体強化とバルドの風を操る力。獣化により通常より強化されたそれらを使い、まるで瞬間移動したかのようにスターチスの背後を取る。空奏が刀を突き刺す瞬間、スターチスの姿が消えた。
「(チッ、またかよ。これでもまだ捉えられねえってのか!)」
「(落ち着け、バルド。私たちの感覚もまた獣化の影響で鋭敏になっている。まずはああやって姿を消しているタネを探さなくてはならん)」
「観察するのもいいけど、フォローも頼むからな!」
わかっていると言わんばかりに、後方から飛んできた槍をバルドの風が迎え撃つ。
スターチスの厄介なところは攻撃が当たらないといううことだ。管理局にもたらされる数多くのレポートにはソウルイータースターチスの目撃例、交戦事例は複数あるものの、今まで彼の負傷について記載されたことは無かった。
しかしスターチスは以前、高橋という男の魂を回収した時に言っていた。
空奏と琴絵をまとめて相手にするのは面倒、と。
全て避けることができるはずの彼が面倒と言う。つまりそこに攻略の糸口があるはずなのだ。
今ここに琴絵はいない。物量で圧倒することができない以上、空奏が手数で勝負するしかない。
黒い煙から作られた武器が降り注ぐ中を掻い潜りながら、空奏はスターチスに肉薄する。
余裕の笑みを浮かべるスターチスが手元に生成したナイフを投げてよこすと、空奏は身体を捻ってそれを躱した。
だが同時に踏み込んでいる。剣先ではなく鍔で殴るかのように大きく踏み込んで振り切った空奏の一撃は、腹を裂いたと思われたスターチスの姿が消えたことで空振りに終わった。
視界の隅に姿を現したスターチスは当然のように無傷で立っている。
空奏は前方に転がり、宙から振り下ろされた大剣を避けてから立ち上がる。
「(まだ来るぞ!)」
ルウの声と共に腕が跳ね上がるようにして空奏の意志と無関係に動き、回転しながら迫ってきたの斧を叩き落した。続いて飛来した得物を風と刀でいなし、隙を見て再びスターチスの元へ飛び込む。
ついに刀を突き刺し、捉えたかと思ったその姿は、再び不敵な笑みを浮かべたまま虚空へと消えた。
「当たる直前に消える。当たっても消える。斬った感触が無いのは同じ。武器すら落とした後は霧散して別の場所で生成される。いくらなんでも反則じゃないのか、お前」
「次々と迫る武器を躱しながら僕の姿を捉えるだけでも凄いことだよ、科戸ちゃん。さすが獣化。自分を褒めてあげなよ」
「余裕な顔しやがって」
「それはもちろん。僕はこうやって君の獣化が解けるのを待てばいいだけだからね」
のらりくらりと時間を稼ぐつもりでいるスターチスの愉しそうな表情を見て空奏は唸った。
このままではまずい。獣化が解けた後はあの武器群に捕まるのがに見えている。
その後も何度かスターチスに届くものの、全て影を切ったかのように手ごたえが無く、スターチス自身は無傷で飄々としていた。手ごたえがあるのは武器群のみ。
空奏の方は致命傷こそ避けているが、小さなかすり傷が増えている。
多方面から飛んでくる武器群を捌くのにも、両手だけでは限界があった。
そんな空奏を見てバルドが焦れたように言う。
「(やめだ。みみっちいことはやめちまおう)」
「(みみっちいとか。人が苦労してる時にお前)」
「(お前の苦労ぐらいわかってる。それに俺たちの消耗もな。だがこのままじゃ埒が明かないのも確かだ。そうだろ?)」
「(それはそうだけどさ)」
バルドの言う通り、この先何度やっても同じことの繰り返しになるだろう。獣化状態に身体が慣れるにつれて空奏もまた速くなり、剣筋は鋭くなってきている。しかし、それでもスターチスを捉えることができない。
「(もう全方位吹き飛ばして、あいつが逃げられないようにすればいい。この空間を全て自分の支配域として旋風を巻き起こすぐらいのことなら、今の空奏ならできる)」
「(まあ一理あるな。このままではこちらが消耗しきるのが先だろう)」
「(ルウまで……)」
「(今のところ身体強化の影響で戦えている部分が大きい。ここらで俺に活躍させてくれてもいいだろうがよ)」
ケラケラと嗤うバルドからは、空奏がまだ全力を発揮できていないと指摘されているかのようだった。確かに迎撃や回避において風に乗って動き回る自分の戦い方は、主に身体強化に依るところがある。サポートではなくメインとして、暴風を使ってみろと言われているのだ。
「(バルドの考えはともかく。空奏、お前が昔考えていた竜巻の複数操作。今ならできるのではないか?)」
「(複数?)」
「(あ?)」
ルウの言った言葉で何かを掴んだ気がした。全面を埋め尽くすという案と複数とという言葉。
バルドの問いかけには応えず、頭に浮かんだ疑問を追うようにして空奏はスターチスについての情報を思い返す。
「全て無効になるのに避けるのは何でだ。琴絵と一緒だと面倒だと言っていた。あいつの攻撃手段は。違う種類の竜巻の操作の可能性。そして獣化。……そうか。わかった!」
「(おう、何でもいいが口に出すとバレちまうぞ)」
プランクと蓮華に向けて創っていた壁を解除し、同時に彩那たちの周囲に五つの小型竜巻を展開させる。
それらが干渉によって消滅させないよう調整するのをバルドに任せ、空奏はプランクが動き出したのを視界の端に留めながら両腕を高く振り上げた。
「倉庫の代金は友魂同盟に請求してもらうからな!!」
声を張り上げながら空奏は両腕を振り下ろした。
すると、空奏を中心にして生み出された風が波紋のように広がり、プランクと蓮華の身体をを巻き上げて黒い煙をも呑み込んでいく。
そしてスターチスを呑み込んだ瞬間、空奏は身体から煙が噴き出し、姿が消えるのを見た。
「バルド、上げろ!!」
「(任せろ!)」
竜巻が浮かび上がり、風に巻き上げられたプランクの身体を捉える。
彩那たちを守るように展開したのは、スターチスの意識にそういうものだと刷り込ませるためだった。
五つの竜巻は変化し、四角錘を作り結界となる。
これであの幻獣も再び身動きが取れない。
「おや、また捕まっちゃったか。でも僕を捉えられない限りそれは無意味だよ」
「最後に邪魔されるようなヘマしたくないんでね」
縦横無尽に吹き荒れる風に呑み込まれるのを逃れた黒い煙は、倉庫の天井付近に移動。
相当な質量を持つらしいそれらは滞留して風に対抗してくる。
「いいねえ。すごいね、科戸ちゃん。でもまだまだ」
どこからか響くスターチスの言葉と共に黒い煙は徐々に増殖して風すらも呑み込もうとする。
空奏は煙が風に抵抗するという奇妙な光景に思わず眉を顰めた。
どこまでも規格外れなソウルイーターだと思った。
かつて対峙したソウルイーターの中でもスターチスは破格の力を持ち合わせている。
その力が魂を無差別に食べることではなく、彼の興味関心に向けられていることは幸いと言うべきだろう。
しかし、彼の興味に付き合わされてきた異能事案管理局としては、そろそろ彼との関係に終止符を打つ頃合いだ。
「もうタネはわかってるんだ。幕引きにしよう」
空奏は吹き荒れる風を強化した。
倉庫内は通常の人間であれば立つこともままならない暴風状態になる。
ルウの力により身体機能を限界まで強化した空奏は、バルドの力でその風の中に生み出した別な風に乗り上空へと駆ける。
「うわ、風の上を走るとか。科戸ちゃん最早人間じゃないよそれ」
「規格外の化け物相手に、人間なんてやってられないんだよ!」
上空から打ち落とされる得物たちは屋内に吹き荒れる風によって軌道がバラバラになり、狙い通りにはいかない。
それでも空奏を串刺しにしようと飛来するそれらを、空奏は幾筋もの風を生み出し躱していく。
スターチスも気づいたのだろう。空奏の目的が上空の黒い煙ではないことに。
「くっ。気づいたのか」
「お前の姿は切れないのに、飛んでくる得物には感触がある。つまり、あの煙には二種類ある。そして、姿が消えるのは別なところに本体があり、偽物だから。本体はここから遠くにあるわけにはいかない。つまり、そこだ」
空奏は空中で風の檻に捉えられたプランクの元に向かっていた。
実体を持たないスターチスが攻撃を避けていたのはそこに実体があると思わせるため。しかしそれでも避けきれないものは瞬時に消滅させ、別な場所へ新たな虚像を創り出すことで惑わせていたのだ。
琴絵がいれば空間を覆いつくすほどの物量による攻撃が可能となる。先日会った時に言っていたのはこれが原因だろう。
だが正体が見えていれば惑わされることはない。
瞬間移動を繰り返していたように見えていたのはただの目くらまし。
本体は必ず実体をもってそこにいる。
「断ち切れ!」
空奏は刀に風を纏わせ、プランクの身体を一閃した。
一筋の斬撃は一瞬遅れて荒れ狂い、かまいたちのようにその肉体を切り刻んだ。
「かっ、はッ!」
プランクの身体からスターチスの苦悶の声が上がる。
黒猫の姿が揺らめき、スターチス本人の姿に戻る。
同時に、上空に滞留していた黒い煙も次第に薄れて霧散していく。
暴風を解除した空奏は地上に降り立ち、横たわっているスターチスへと近づいた。
確実に止めを刺すため、空奏はその心臓に向かって刀を突き立てようとした。
「いやあ、惜しかったね。科戸ちゃん」
刀が心臓に届くその瞬間スターチスの姿は掻き消え、次の瞬間には暴風の影響で壁際でボロボロになっていた箱の上に座っていた。
「これ、なーんだ」
ニヤリと笑ったスターチスの手には青白い炎の塊があった。
それは以前高橋という男から取り出した時と同じ、魂の揺らめき。
その身体にはソウルイーター独特の紋様が浮かび上がっており、姿が消えたのも能力の使用によるものだとわかる。
「お前、まさか……!?」
空奏は瞬時に距離を詰め、その腕を切り落とそうと刀を振るう。
しかしスターチスの姿は消え、離れた場所で実体化した。
後を追おうとした空奏をルウの声が制止する。
「(待て、空奏。あれは彩那の魂ではない!)」
「え!?」
では誰の、と考えたとき空奏は自分の近くに蓮華の身体が仰向けで横たわっているのを見つけた。
スターチスを見ると、まるで正解とでも言うかのようにニコリと笑ってその魂を口に入れる。
「うん。ごちそうさま。おかげでもうちょっと動けそうだよ」
「くっ!! お前、自分の同胞を」
「同胞って言っても、別に仲間意識は無いからねえ。僕たちは同じようで同じじゃないんだよ」
身体の調子を確かめるように腕を回すスターチスの反面、空奏の方はもう限界が来ていた。
先ほどと同じ手は通用しないだろう。今度は実体を持ったスターチス本体が相手となれば近接戦もある。先のように何度も姿が消えることは無いだろうが、相手がどう出てくるかわからない。
空奏が打開策を練っていると、スターチスは降参というかのように両手を挙げた。
「今日はこのぐらいにしておこうよ。ね?」
「……ここでお前を逃すわけにはいかない」
「君がそのつもりなら構わないけど、獣化ももう限界でしょ?」
「……」
「それに、ここで君を食べてしまうのは惜しい」
「なんだと?」
「その獣化。久々だからまだ本調子じゃないでしょ。まだ成長の余地はあるみたいだし、そこまで待ってからでもいいかなって」
「死にかけた割には随分余裕だな」
「次はちゃんと僕とプランクで相手をしてあげるよ。油断してる余裕が無くなったことはわかったからね」
「……彩那ちゃんの魂は諦めるのか」
「約束を忘れたの? 君が立ち上がれなくなるまで北野ちゃんに危害は加えないと言ったはずだ。僕、約束は守る主義なんだよね」
ここでスターチスを見逃すことは他の人間の魂を取られる危険性を放置することになる。
やはり逃すことはできないと考えて再び身体に力を入れようとした時、頭がズキリとして身体が重くなった。
目の光彩は青に戻り、空奏を包んでいた青白いオーラは消える。
「(すまない、空奏。私たちが先に限界を迎えてしまった)」
「(ちっくしょ。寝てる場合じゃねえってのに)」
力を使い果たし休眠状態に入る二体の声はすぐに聞こえなくなった。
自分の内側にある二つの存在が眠りについたことが空奏にはわかった。
「解けたみたいだね」
「……今お前に向かって行っても無駄死にだろうな」
「物分かりが良くて助かるよ。じゃあ、僕はさっさと逃げるとするね」
そう言ってこちらに背中を向けたスターチスは、先日と同じようにして何かを思い出したように振り返った。
怪訝そうな顔をする空奏を見てから、どこかを指さして言う。
「あっちの倉庫。熊井とか言ったっけ。あいつとか数人残ってるよ。死にかけだけど死んではいない。この件に落とし前付けさせるのにちょうどいいなと思って残しておいたんだ。感謝してよね」
「全員食べたんじゃなかったのか?」
「ここにいたのは、と言ったはずだね。あっちにいるのはつまみ食いだけ」
「ご丁寧にどうも。そんなことするぐらいなら、最初から騒ぎになる様な事しないでくれないか」
「それは無理な相談だね。だって僕は人間じゃないもの」
じゃあね、と言って今度こそスターチスの姿が消える。
しばらく気配を窺っていた空奏は、やがて張り詰めていた気を解いて大きく息を吐いた。
耳に手を当て通信を入れる。
「科戸です。スターチスは逃亡。彩那ちゃんの誘拐を手引きしていたもう一人のソウルイーター、蓮華はスターチスの手にかかりました。……はい、すぐ合流します」
浅木に連絡を入れ、こちらが終了した件を伝える。外での戦闘ももう終わりのようで、誰かしらが迎えに来てくれるとのことだった。
空奏が水の壁に近づくと、中からぐったりとしたラナとそれを心配する彩那の姿が現れた。
「ラナ、あの暴風の中彩那ちゃんのことを守っててくれてありがとうな。お疲れ様」
「ほんと、こちらに配慮してくれたからこそだとは思いますが、あれを自分に向けられたらと思うと、水流を展開し続ける自信がありませんよ」
息も絶え絶えと言った様子のラナの頭を撫でると、ラナは安心したように実体化を解いて彩那の中に戻った。
彩那もまた不安げな様子で空奏を窺っていたので、安心させるように笑う。
「大丈夫。ラナはすぐに元気になるさ。少し休眠に入ると思うけど、心配しなくていい」
「うん。……あの、空奏さん」
「ん?」
この倉庫はあまり使われていなかったものだと思いたいな、と惨状を見ながら考えていた空奏は彩那の呼びかけに振り返った。
言いにくそうにしている彩那の前で膝を折り目線を合わせる。
ゆっくりでいいからと言うと彩那は頷き、深呼吸をしてから口を開いた。
「わたし、生きたいって思ったよ」
「うん。そう思えてもらえて良かった」
「助けてほしいって、わがまま言ったの聞こえた?」
「我が儘だとは思わなかったけど。うん。聞こえたよ」
「……そっか」
彩那は気が抜けたようにふにゃりと笑った。
つられて空奏も笑う。そして空奏は彩那に向けて謝罪した。
「ごめんな。怖かっただろ」
「ううん」
予想に反して彩那は首を横に振った。
意外そうな顔をする空奏に彩那は笑顔のまま告げる。
「助けに来てくれるって信じてたから」
空奏は思わず固まり、そして大きく笑った。
未だ彩那と共に過ごした時間は多くない。
既に見たことがあると思っていた笑顔の表情。
ラナが初めて実体化した時。能力を初めて使って練習をした時。
眩い笑顔を浮かべていた彼女の笑顔にはまだ先があったらしい。
誰にも打ち明けることができずに一人で戦っていた少女はもういない。
「信じてくれてありがとう。無事でいてくれて、ありがとう」
心のどこかで、自分には守ることができないと諦めていたのかもしれない。
自ら祓い、守ると決めていたのに、いつの間にかその目的すら見失っていた。
自らの誓約を見失うほど、守るという言葉に固執してしまっていた。
それを思い出させてくれた彩那に、空奏は深く感謝した。
がむしゃらに強さを取り戻そうとしていた青年はもういない。
「さて、そろそろ琴絵たちが来てくれるはずだ。行こうか」
「うん!」
瞬間、倉庫の入り口が吹き飛ばされ、扉だったものが宙を舞う。
かつて入口であった場所の向こうから琴絵が慌てた様子で走って来るのを見て、二人で顔を見合わせる。
同時に吹き出し、今にも泣きだしそうな琴絵の元へと歩き出した。
すべてが片付いたわけではない。問題の根本であったスターチスは逃したままだ。
蓮華というソウルイーターの狙いも掴めないまま、その魂はスターチスによって葬られてしまった。
異能事案管理局の人間としては、この状況は決して良い結果とは言えないだろう。
それでも空奏は一時の安寧に心を委ねた。
とりあえず今は、あの笑顔を守れただけで良しとしよう。
琴絵に揉みくちゃにされながら笑っている彩那を見る。
空奏は全身から力が抜けていくのを感じ、琴絵に怒られそうだなと思いながら、限界を感じて意識を手放した。
ハウンド活動記録 鳩鳥純 @hatojun
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