第4章

「……違う場所だ」

 目を覚まして天井を視認した彩那は、前に目が覚めた時の病室とは違う場所にいることに気がついた。身体を起こそうとして力が入らないことに気づく。まるで水の中にいる時のようだ。腕を上げようと力を込めるが、とても重く感じる。頭もぼんやりとしていて、思考がまとまらない。

 ゆっくりと首を動かした彩那は、周りの状況を確認する。病院とは違う。普通の部屋のようだった。タンスや本棚がある。タイトルは読めないが、難しそうな本だ。時計が目に止まる。見ると針は九時を指している。カーテンの隙間から漏れる光が見えるから、朝の九時だろう。随分と長い時間眠っていたらしい。

 動くことに意識を集中して、目を閉じて反対側へ首を向ける。目を開けると、誰かが机の傍にある椅子に座って項垂れていた。机のライトはつけっぱなしで、手にしているスマホか何かの端末がずり落ちそうになっている。眠っているようだ。

「……空奏、さん?」

「ん? ……ああ、良かった。目を覚ましたんだね。おはよう」

「おはよう」

「ここは異能事案管理局東北支部の第六号棟。まあ俺らが普段いる場所だよ。安心していい」

 彩那の声に目を瞬かせた空奏は、彩那が目を覚ましているのを見とめて柔らかく笑った。

 反射的に挨拶を返してから、彩那はぼんやりと空奏のことを眺める。すると、次第にあの時何が起こったのか、記憶が蘇ってきた。

 生きていてはいけない。近づいてきた空奏に対してそう呟いたあと、彩那は身体が動かなくなった。しかし何が起きたのかを誰かの目で見ていた気がする。

 彩那から分離した何かは上空へと駆け、彩那は気を失ってしまったのだった。

 自分でもわかる。彩那の意志ではないとしても、あの力は彩那のモノだ。

 空奏がカーテンを開けて伸びをする。彩那は差し込んだ陽光の眩しさに目を細めた。

「身体の調子は? どこか痛むところないかな?」

「……ううん。大丈夫。でも、お話はできるけど、手とか力入らなくて動きにくい」

「そうか。まあそれもすぐに動けるようになるから、心配しなくていいよ」

 端末を置き、彩那の近くに椅子を寄せて座りなおした空奏が、彩那の身に起きたことを改めて説明してくれる。彩那がアニマに覚醒したこと。しかし幻獣は暴走状態であったこと。彩那自身と幻獣の力を使って大雨を降らせたこと。そして幻獣を眠らせたことで暴走が止まったこと。いま彩那の身体に力が入らないのは消耗しすぎたせいであるということだった。

「喋るのも疲れるでしょ。まだ眠ってた方がいい」

「……もう少しお話したい」

「そう? じゃあ眠くなるまでね」

 何の話をしようかと首を捻っている空奏の姿は、あの戦闘の傷が残っていた。頬にガーゼを張り、足にも包帯が巻かれている。後ろに置いてあるのは歩くための補助杖。見えないが、服の下にもあちこち包帯が巻かれているのかもしれない。

「空奏さん」

「んー?」

「ごめんなさい。わたしのせいで」

 空奏は真面目な顔で彩那を見やり、次いで笑った。

 河原で見たときと同じ、なぜか悲しそうな顔で笑っている。

「彩那ちゃんが謝るようなことは、何もないよ」

「でも、怪我してるのはわたしのせいで」

「これは俺が弱かったからついた傷だ。彩那ちゃんのせいじゃない」

「痛くないの?」

「うーん、足はまだ痛むかな」

「やっぱり……」

「痛みはするけどね、今は安心してるのが大きいかな」

「安心? なんで?」

 空奏は言った。あの大男の目的は彩那の心を傷つけることだった、と。本当の狙いは人の死を間近で見せつけることで絶望させ、強制的に異能を覚醒させることだったのだと聞いて、彩那は寒気がした。

「でも、わたし。アニマになって」

「そうだね。それを止められなかったのは俺のミスだ。ごめん。もっと早く気づいて、彩那ちゃんを病院から遠ざけるべきだった」

「わたしが、生きてちゃダメなんだって思ったからアニマになったの。空奏さんが謝ることない」

「……。まず、二つ覚えておいてほしいことがある。一つは、心を傷つけて強制的に異能を覚醒させるというのは普通ありえないということ。そして、異能が覚醒する人は特別なきっかけが無くても覚醒するものなんだ。だから彩那ちゃんも、いつかアニマとして覚醒してたんだと思う」

「そうなんだ?」

「うん。そして、二つ目。自分の力を怖がらないでほしい。幻獣が暴走したのは、彩那ちゃんを守ろうとした結果のことだ。あの子も今日中には回復するだろうから、怖がらずに話してみてほしい」

「……わかった」

 空奏の言っていることは、とりあえずわかった気がする。いつかは来たであろう覚醒を無理やり早められたことで、彩那の幻獣はその危機から守ろうとしてくれたということ。彩那を守ろうとしてくれた幻獣は、彩那が生きていてはいけないとは思っていない。

 そういうことでいいのだろうか。

「……彩那ちゃんは、どうして生きてちゃダメだって思った?」

「それは……」

 口ごもる。こういうことは言わない方が良い。それを子ども心にわかってはいる。

 同時に聞いてほしいという想いもあった。言えば困らせることになるだろう。

 不思議と、空奏はそれを承知で訊いているのだろうというのがわかった。いや、彩那がそう思いたいだけなのかもしれない。普段なら押し込めてしまうであろう自分の気持ちを、今は空奏に聞いてもらいたいと思った。

 空奏を直視するのが憚られて、天井に目を向けながら話し始める。

「生きたいって思うのが、我が儘だと思ったの」

「我が儘?」

「うん。怖くて、死にたいって思うこともあって。でも空奏さんに助けてもらって、大丈夫だって言ってもらえて。空奏さんの手、温かくて。今度は生きたいって思った」

「……」

「でも、目を覚ましたら空奏さんは戦ってて。あの人が空奏さんのことを殺すって言ってて。それを見て思ったの。わたしのために誰かが傷ついたりする必要は無いんじゃないかって。わたしはそこまでして守ってもらえる子じゃない。だってわたしには、何もできないから。何もできないわたしが生きたいと思うのは、我が儘だって思った。こんなわたしのせいで、空奏さんが傷ついてしまうのは嫌だって、思ったの。だったら、わたしが死んでしまえばいいって思って。人に迷惑しかかけられないわたしは、生きてちゃダメなんだって、思った」

 気づいたら喋りつづけていた。身体が熱に浮かされたように変な感じがする。だんだんと力が戻って来たのか、腕も動かせるようになる。これならと思い上半身を起こしてみると、空奏の様子がおかしいことに気づいた。

「空奏、さん……泣いてるの?」

「え? ああ、ごめん。ちょっと、待ってね」

 空奏は泣いていた。彩那を見つめたまま拭うこともせずに涙を流していた。

 彩那の言葉に我に返り、ティッシュ箱からティッシュを取り出して目に当てる。

 彩那は、何故空奏が泣いているのかわからなかった。だから、泣きながら笑って見せたその表情も、どう受け止めればいいのかわからなかった。

「あー、情けない。俺の方から全部引き出そうとしたのにな」

「大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ。……こんな小さな子が、自分が生きるのが我が儘だと、思うなんて」

「だって……」

 空奏は手を挙げて彩那を止める。そして再び目元を拭って言った。

「いいんだ、迷惑かけて。我が儘言っていいんだ。俺の傷と彩那ちゃんの命を同じ重さで考えちゃいけない。傷は治る。でも命が無くなればそれっきりだ」

「……」

「俺はな、彩那ちゃんにこれからも生きていてほしい。まだあんまり話という話すらできてないけど、彩那ちゃんが優しい子なのはわかるんだ。でもな、誰かの為に優しく在るんじゃなくて、自分のために優しい子であってほしい」

「うーん、ちょっと難しくてわかったかどうかわからない」

「そのうちわかるようになるさ」

「……うん」

「不安に思う必要はない。生きてちゃダメなんて思う必要もない。今は確かにできることが無いのかもしれない。でもそれは当たり前だ。そういう時は大人に頼っていいんだ。頼ってくれたら、応えられるから。言ってくれないとわからないからさ」

 優しく諭すように空奏は言う。まだ難しいこともあった。空奏が言ったことの全てが理解できているかどうかは怪しい。それでも、空奏は彩那に生きていて欲しいと思っていることは痛烈に伝わってきた。自分で抱え込む必要は無いのだと。優しい笑みで言ってくれている。

 心から言っているのだということがその表情や話し方からもわかる。空奏が涙を流した後から、話し方が少し変化していた。どちらも優しいことに変わりはないのだが、変化したあとは大人としてではなく、空奏個人として話をしてくれているような気がした。

 彩那の思い込みかもしれない。それでも、少し近づいてくれた気がするその変化が嬉しかった。

 彩那はそんな空奏を見つめて、恐る恐る口を開いた。

 受け入れてくれる。そうわかっていても、身体は強張った。

「……生きたいって思ってても、いい?」

「もちろん」

「また、変な人たちが来て迷惑かけるかもしれないけど、いい?」

「もちろん。また追い返すことにするよ」

「何もできないまま、空奏さんたちに頼ることになるかもしれないけど、いい?」

「もちろん。困ってることがわかったら、すぐに行くから」

「もう、一人で頑張らなくても、いい?」

「もちろん。大丈夫、俺たちがいるから」

 彩那は長い息を吐いた。身体の余計な力が抜けていくのを感じる。熱を持った身体が徐々に元に戻っていくのがわかる。再びベッドに横たわり、彩那は空奏を見上げて言った。

「……空奏さん。我が儘言っても、いい?」

「ん、言ってみ?」

「眠るまで、頭撫でててほしい」

 いいよ、と言って空奏は笑った。空奏の笑みには不思議な安心感がある。

 施設でも人に甘えようとしたことは無かった。自立しなければいけないと、思っていたから。

 しかし今、彩那は甘えてみることにした。心を受け止めてくれた人に我が儘を言ってみた。

 最近は、眠るのが怖かった。眠ってしまえば朝が来る。学校から帰る途中でやつらが来る。

 でも、今日は怖くない。

 気恥ずかしい思いがしたが、優しく撫でてくれる温もりが恐怖と羞恥心を打ち消してくれる。

 ずっと、誰かに守ってもらいたかった。

 自分を受け入れ、助けてもらいたかった。

 言葉にならない思いを呑み込み、彩那は大きな掌が導いてくれる心地よい眠りに身を任せた。



 彩那が寝入ってからしばらくの間、空奏はその小さな頭を撫で続けていた。

 やがてそっと手を離し、椅子に深く身を沈める。

「これで、少しは安心してくれるといいんだけど」

 その呟きに答える声は無い。まだルウもバルドも休眠中だ。

 あの後、意識を失った空奏は支部の医務室で目を覚ました。琴絵が事件処理後からずっと彩那に付き添っていたのだが、深夜に目を覚ました空奏がそれを引き継ぐことにしたのだった。

 しかし、夜からずっとこの場で業務を片付けていたせいか、少し休憩するつもりで寝てしまっていたらしい。

 起きた時に知らない場所で一人なのは可哀想だと思ったのだが、彩那に起こされる形になってしまった。結局少し不安にさせてしまったかもしれない。

 寝ている彩那のために空奏は再びカーテンを閉じた。

 陽射しを浴びたおかげか身体が目を覚まそうとしているのがわかる。目覚めついでに珈琲でも貰ってこようと思い、空奏は部屋の外に出た。

「……琴絵。何してんだ?」

「いやあ、彩那ちゃん起こさないように入ろうと思ったら、空奏くんが良いお父さんしてたから。なんか入りにくくて。……えへへ」

 扉の横で琴絵が屈みこんでいた。見られていたのかと思うと少し恥ずかしい。そして少しでも扉が開いたことに気づけなかった自分が情けなく思う。

 気を抜くとすぐこれだ、と自嘲した。

「お父さんて。……珈琲淹れてくる。何かいるか?」

「うーん。じゃあ私も珈琲で。お砂糖三つ!」

「わかった。じゃあ少し頼む」

 空奏は欠伸をしながら給湯室へ向かった。

 異能事案管理局の第六号棟はハウンドのための施設であり、事務室などの仕事スペースだけでなく、仮眠・宿泊できる場所も兼ねている。空奏も仕事上ここで寝泊まりしなければならない時や、疲労で帰るのが面倒になった時はこちらに泊るが、基本的に使いたくないのが正直なところだ。ずっと職場にいるというのはどうにも気が休まらない。

 プラスチックの容器に二人分の珈琲を淹れ、誰かが持ち込んでいたチョコ菓子をいくつか拝借する。そろそろルウとバルドも休眠から回復してくれるだろう。起きた時に自分たちだけお菓子を食べてたら煩くなりそうだと思い、多めに貰っていくことにした。

 トレイに載せて戻ると、琴絵が眠気を堪えながら彩那の傍で座っていた。空奏が戻ったことに気づいていないのか、閉じそうな瞼を何とか押し上げている。声をかけるとビクリとして照れたように笑った。

「あ、チョコも持ってきてくれたんだ。ありがとう」

「たぶん鳴海さん辺りが持って来たんだろ。適当に貰って来た。……もしかして琴絵、寝てないのか?」

「え!? い、いや、そんなことはないよ?」

「……そうか。ならいいけど」

 明らかな動揺と共にそう言われても信じろという方が無理がある。だが空奏は深く問い詰めるようなことはしなかった。

 空奏はもう一つ椅子を引っ張ってきて机の近くに座った。

「昨日、ごめんね」

「……幼女誘拐発言についてか?」

「その節はすみませんでした。……いや、そうじゃなくて」

 突然の謝罪。

 特に思い当たるものが無く、空奏は不思議そうな顔で琴絵を見た。

「熊井って人との戦闘。私、何もしなかった」

「何もしなかったわけじゃないだろ。琴絵の仕事は彩那ちゃんを守ることだった」

「でも、サポートぐらいできたかもしれないのに!」

「しただろ。モカが来るまでの時間稼ぎ。あれで熊井は一度足を止めた。あの時間を稼いだのは琴絵でもあるんだ」

「もっと、何かできることはあったはず。そうすれば二人とも大怪我しなくて済んだのに」

「寝不足なのはそれのせいか」

 言葉を詰まらせた琴絵を見て、空奏は嘆息した。一人反省会のせいで眠れなかったのだろう。昨日の件で琴絵に落ち度は無い。それぞれに役割があり、そして琴絵もその役割を果たしていた。しかし、そんな正論を述べたところで納得はしないだろうことは空奏もわかっている。

「謝らなきゃいけないのは俺の方だ。ぶっ倒れて迷惑かけたしな」

「そんなの。あんな状態で二回も獣化して倒れない方がおかしいよ。それに、空奏くんがやらなきゃ、どうなってたか」

「そもそも俺が完全な獣化をできていれば、あの状態にはならなかった」

「それは……。わかんないじゃん」

「琴絵のそれも同じことだろ。可能性を考え続けても、わからないものはわからない」

「……それを引き合いに出すのはずるいと思う。空奏くんが獣化についてずっと何とかしようとしてること、私だって知ってるもの」

「結果が出てない以上、それを言い訳にはできない。そして熊井に会ったことで、もうこの問題をこのままにすることもできなくなった。次負けるわけにはいかないしな」

 敢えて茶化すようにして言う空奏を見て今度は琴絵が嘆息した。もう四年の付き合いだ。空奏が話を逸らそうとしているのはバレているだろう。

 琴絵は切り替えるように頭を振って珈琲を口にした。そして空奏に尋ねる。

「それで、三年取り組んでいる問題を解決する糸口は見つかったの?」

「どうだろうな?」

 何か思うところはあるらしい。空奏の様子を見て話す気配は無さそうだと判断した琴絵は、それ以上訊くのをやめた。適当にはぐらかし始めたら聞いても答えは返ってこない。

 空奏はお菓子を開けて糖分を補給しながら、自分が獣化を持続できなくなった時のことを思い返していた。



 三年前。空奏はツツジというソウルイーターを追っていた。

 ソウルイーターが力を使った時はその場に個体別の残滓が残る。ツツジよる被害は他の個体とは比較にならない速度で増え続け、異能事案管理局は迅速な対応を求められることとなった。

 ツツジの狙いを特定し、次に狙われると見られた少女を保護。そして管理局は少女を利用してツツジを誘い出すことに決めた。

 作戦については内部から疑問の声も挙げられていたが、上層部はツツジの処理を優先。一時的に作戦指揮権を異能事案管理局本部に移し、空奏を含む十人のハウンドを配置した。

 いくら人外の存在であると言えど、一体のソウルイーターを相手に十人も作戦に充てる事例はそう無い。

 それだけの脅威と理解しながらも、最高戦力と目されていた真白は指揮権を取り上げられた上、戦闘の許可も降りなかった。後方待機を命じられた真白が『そんなに体裁が重要か』と悔しそうにしていた姿を今も覚えている。

 そうして万全を期したとされた作戦は、七人のハウンドと少女の命を犠牲にして終息した。

 管理局の把握しきれない範囲でも魂を収集していたツツジは力を行使したときに浮き出る模様が全身に巡っているようだった。そして、その力はソウルイーターという存在の恐ろしさを管理局の人間に再認識させるものとなった。

 次々と倒れていく仲間たち。空奏は自身も負傷しながら、修司からの指令により真白の元まで少女を逃がすために動いていた。

 しかし追い込まれてしまった空奏は、ルウとバルドの二体と同時に獣化することを決意。

 一度も成功したことがなかった二体同時の獣化は、この時初めて成功した。

 どうにかツツジを打ち倒した後、限界を迎えた空奏はその場で倒れ込んでしまう。

 だがツツジはまだ完全に死んだわけではなかった。ツツジは最後の力で空奏に駆け寄った少女の身体に刃を突き立てた。そして満足そうな表情をして力尽きたのだった。

 どうにか立ち上がり小さな身体を抱き起した空奏の腕の中で少女は息を引き取った。

 そしてその死を嘆く間もなく空奏は気を失い、昏睡状態に陥った。

 二週間後、昏睡から快復した空奏は二体同時獣化を完全なものにする必要があると決意する。

 しかし、空奏の肉体はその日を境にして獣化に対し拒絶反応を起こすようになってしまっていた。何が原因なのか、空奏は自分でも理解ができないでいた。

 そうして無意識に引き起こされる拒絶反応は、三年が経った今でも空奏の心を蝕み続けている。



「寝覚めに見るには随分としけた面してんな」

 獣化はアニマと幻獣の力を一体化する必要がある。二体同時は完全に不可能となってしまったが、現在は一体であれば空奏は獣化の行使が可能である。だがその持続時間は拒絶反応により最長でも三十秒と言ったところ。ルウとバルドが無理やり力を一体化させている状態のため、昨日のようにルウたちの力が削がれていれば時間はさらに短くなる。

「そう言ってやるな。考えていることは大方予想がつく」

「んあ? 何だ、わかるのか?」

 そして完全ではないとはいえ獣化のため、空奏と獣化した幻獣は休眠状態に入ってしまう。幻獣が休眠に入れば空奏は異能が使えなくなるというアニマの特性がある。普通の獣化と異なるためか、獣化によるルウたちの休眠は長くない。通常の獣化では回復に丸一日かかるのが標準となっているが、万全の状態から獣化による休眠に入った場合、彼らは半日もしないうちに活動可能となる。怪我の治癒も兼ねている場合は長時間の休眠が必要となるものの、それでも回復速度は速い方だ。

「当然だ。この顔はあれだな」

「似合わないくらい真面目な顔だな」

 それでも長時間異能が使えなければ、空奏は無理に戦闘ができない。交戦中にそのような事態になった場合、自分が死ぬだけではなく味方に負担を強いることになる。

 しかし、昨日はその獣化しないで対処するという甘い考え方により追い詰められることとなった。負傷したのは自分だけではない。致命傷は避けられたものの、修司は重傷を負うことになった。そして、彩那の異能の暴走を止めることができなかったことも、完全な獣化をして事態に対処できていれば防げたかもしれない。今回の件は空奏の責任が大きいと感じていた。

 今までは何とか獣化無しでも対応してきたが、今回のようなケースを生んでしまった以上は完全な獣化ができないという欠点は一刻も早く解決しなければならないと、空奏は改めて感じていた。

「朝ごはんを何にするかで悩んでいるのだろう」

「ああ、いい時間だからな。ケーキとかでいいんじゃないか?」

「……お前ら、出てきて早々適当なことばっかり言いすぎだろ」

 そろそろだとは思っていたので驚きはしないが、昨日強く頭でも打ったかと疑いたくなるような会話が繰り広げられている。実際バルドは頭を打っていたし、手遅れなのかもしれない。

「口を挟んでいいのかわからなかったから黙ってたけど。おはよう。二人とも」

「おはよう、琴絵。そういうお前は寝た方がいいんじゃないかっていう顔をしてるが、何かあったのか?」

「女性にとって寝不足は肌の敵と言う。彩那も寝ている様だし、一緒に寝たらどうだ」

「どんな人にも睡眠不足はダメだと思うよ。ありがとう、大丈夫だよ」

 可笑しそうに笑う琴絵の顔にはもう眠気は見られない。それでも微細な変化に気づく辺り、バルドはやはり目聡い。病室の時と同じように彩那のベッドに前足をかけたルウは彩那が寝ているのを見てすぐに離れた。

 空奏から分かれた存在であるのにも関わらず、人間である空奏よりもよほど他人に対する気遣いができる。そういう光景を見るといつも、元が一つの存在であるということについて考える。アニマとして覚醒した時に三分割された自分たちは、通常あるべき「人間」という形から大きく乖離しすぎてしまったから獣化できないのだろうか、と思うこともあるのだった。

 空奏はすぐにその考えに対して否定する。仮にそうだとすれば、幻獣がアニマ本人と別な存在である以上は年月を共にすればするほど獣化は不可能になっていくはずだ。そのような報告は聞いたことが無いし、何より獣化は存在を一つにするものではなく、力を一つにするものだ。

「早く何とかしないといけないのに……」

「そう焦るな。焦れば答えが出るというものでもないだろう」

「朝ごはんの話じゃないぞ?」

「獣化のことだろう?」

 今度はルウも真面目に考えてくれたらしい。空奏が頷くと、ルウは空奏の足元にやってきて身体を伏せた。昨日の傷は癒えているので回復ではなくただの休息のようだ。

「何にせよ、空奏の傷が治らなければ私たちも動けん」

「そうだぜ。とっとと寝て治すことだな。熊井とかいう野郎をぶっ倒す計画はまだ後でだ」

「私たちが回復したからな。空奏の身体も三日ほどで快復するだろう。それまで辛抱だ」

 特に詳細は話していないのに、何を見据えているかわかっている。考えていることは同じというわけだ。空奏は苦笑しながら同意を示した。治るまで寝ている、というわけにはいかないが、今の状態で出来ることをやらなければ。

「ところで、俺はそこのチョコが気になるんだが?」

「私もだ。疲れた身体には糖分が一番だからな」

「はいはい。今やるからちょっと待って」

 幻獣にも糖分補給というのは当てはまるのだろうか。

 空奏は目聡くチョコを見つけた二体と共に食べながら、今は彩那が起きるのを待つことにした。



「それでは、北野さんを連れて屋外訓練場へ行ってきてください」

 二日後。まだ身体が本調子では無いものの、真白にそう言われた空奏は彩那と共に支部の敷地内にある屋外訓練場へと足を運んでいた。

 彩那の方は問診の結果も問題はなく、残す調査は幻獣の力についてのみとなっている。あれ以来彩那の前に姿を現さないという幻獣との対話と姿を現さない理由を知るため、琴絵とモカと共に不測の事態に備えて広い場所へ来ていたのだった。

「別に私まで来る必要なかったのでは? 雨降りでは役立たずですよ、私」

「俺に言われてもな。真白さんからの指令だし。それにほら、この前のモカアタックが効いてて俺もまだ本調子じゃないから」

「あー、そういうこと言っちゃうんですね。可愛い後輩に抱きつかれて嬉しかったくせにぃ」

「抱きつき?」

 吹き飛ばされた気がするのだが、記憶違いだろうか。

 彩那が正気を保っているため滅多なことは起こらないというのが真白と空奏の判断だ。しかし万が一というものがあるため、役割のある琴絵の他にモカにも付いてもらうことになったのだった。

「まあ、雨を降らすっていう力でもないことがわかったから、大丈夫だろ」

「え、じゃああの豪雨は副次的なものだったんですか?」

「そういうことになるな」

「ほえ~。とんでもない潜在能力を持ってるんですね、あの子」

 異能に目覚めた人間は、どういう力を得たのかというのが自然と自分でわかるようになる。彩那の場合は『雨を降らす』ことではなく、『水の生成・操作』であることが本人の言から判明していた。

 水のある場所でこそ、その本領を発揮すると思われる能力。しかし、空気中の水分から自身でも水を生成することができるようだ。

 異能の暴走によって力が大幅に増幅されていたとはいえ、あれだけの雨を降らすことができたのは彩那の潜在能力がそれだけ高いということを示している。

 もし今後彩那が獣化できるようになった場合、雨を降らしながらその水を操るという芸当ができるようになると考えられる。末恐ろしい将来性を持つ子がいたものだとモカは唸った。

 適当な広さと障害物のある場所を選び、空奏たちは足を止めた。

 窺うように振り返った彩那に空奏は笑みを返す。

 彩那もまた笑い返し、そして力強く頷いた。


 回復した『彼女』は彩那の前に姿を現そうとはせず、何かに怯えているように感じられた。空奏に訊いてみたが、彼にもわからないということだった。

 空奏は言っていた。自分の力を怖がらないでほしい、と。そして彩那は自身の内で目覚めた『彼女』が怖いものではないことを感じ取っていた。そのため彩那は、昨日のうちに今日話しをすることを考えておいた。

 彩那は空奏たちから離れて深呼吸をし、目を閉じて自らの内にいる『彼女』に話しかけた。

「えっと、こんにちは」

「……」

「自己紹介するね。わたしは北野彩那。小学三年生。まだ読めない字が多いけど、本を読むのが好き。運動は……いっぱい走ってたから、苦手ではないかも」

「……」

「とりあえずわたしのことはこんな感じ。それでね、空奏さんから聞いたんだけど、生まれたばかりの幻獣は名前が無いんだって。だから、わたし部屋にあった本を見て考えたの」

「……」

「あなたの名前は、ラナ」

「……ラ、ナ?」

「そう。静かな水面っていう意味もあるんだって。彩那と、ラナ。ちょっと似てるでしょ?」

「彩那と、ラナ」

 気がつくと彩那は不思議な空間に立っていた。周りを見ても何もない。空奏たちの姿も見えない。思わず不安になったが、彩那は目の前に暖かな光が現れたことに気づいた。

 目の前で浮いているその光を見ていると、不思議と安心できた。

 光は徐々に形を変え、やがて一つの形を取った。狐の姿を取ったそれは、柔らかな光を灯す瞳で彩那を見つめていた。

「あなたが、わたしの幻獣?」

「わたしはあなたの力が具現化した存在、あなたたちの言う幻獣で合っています」

「じゃあ、あなたがラナだね!」

「ラナ……。そうですね、わたしがラナ。あなたの幻獣」

「ラナ、わたしあなたにお礼が言いたかったの」

「お礼? なぜです」

「あの時ラナが出てきたのは、どうにかなりそうだったわたしを守ろうとしてくれたんだよね。生まれたばかりのあなたが、力を振り絞ってわたしを守ろうとしてくれた。それを聞いた時、わたし嬉しかったの。遅くなっちゃったけど、あの時はわたしを守ってくれてありがとう」

「……彩那」

「なあに、ラナ?」

「彩那は、わたしが怖くないのですか? 急にこんな力を持ってしまって、怖くない?」

「怖くないよ。だって、ラナはわたしのために頑張ってくれたんだもん。不思議なんだけどね。ラナが起きてから、わたしの中にいてくれることがわかって安心するの。一人じゃないんだって思うからかな?」

 照れたようにはにかむ彩那を、ラナは不思議なものを見るような目で見つめた。

 ラナは、異能が目覚めるまでの彩那の記憶を共有している。その記憶の中でも、このような彩那の表情を見たことは随分と長い間無かったはずだ。

 だからこそ、ラナは自身の抱いている感情を吐露した。

「……また、暴走してしまうかもしれない。あの時わたしは力を抑えられなかったから」

「もしかしたら、そうかもしれない」

「また、力を使おうとして、今度はわたしの意志とは関係なく暴走するかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。あなたが最も嫌がることを、わたしはしてしまうかもしれない」

「ラナ……。確かに、誰かを傷つけちゃうことは嫌。でも、わたしは大丈夫だと思うの」

「……どうして?」

「一人じゃないから。ラナがいてくれるから、わたしこの力を使えるように頑張るから。だから、怖くない」

「……」

「一緒に、頑張ろう。わたしと一緒に誰かを守れるようになろう」

「……。はい、彩那。わたしはあなたと共に」

 彩那は意を決してラナに両手を伸ばす。その手がラナに触れた瞬間、光が溢れて彩那は思わず目を瞑った。

 目を開けると、彩那は元の場所に戻ってきていた。そして目の前ではラナが実体化して地面に降り立ったところだった。表に出ているからといって、自分の中からその存在が消えてなくなるというわけではないようだ。今は外にいる、というだけで確かな繋がりが自分とラナにあることがわかる。

 こちらを見上げるラナに笑いながら手を伸ばすと、一跳びで腕の中に飛び込んできた。

 優しい温もりがそこにはあった。苦しくならないように、でもしっかりと抱きしめる。

 家族はいなくなった。施設では家族と呼べる存在はいなかった。自分といては離れて行くことになってしまう。そう考えて距離を取らなければと思っていた。

 でも、ラナは一緒にいてくれる。わたしと一緒にいると言ってくれる。

 空奏と話をした時も嬉しかった。ラナの温もりを感じるにつれてあの時のような気持ちが溢れてくるようだった。

「よろしくね、ラナ」

「こちらこそ、彩那」

 振り返ると、空奏が心配そうな顔で彩那を見ていた。大丈夫だと伝えるようにラナを掲げながら笑って見せる。

 飛び出してきたルウとバルド、そして琴絵に揉みくちゃにされながら、彩那はラナを抱いたまま温かな気持ちで笑っていた。



 空奏はモカと共に少し下がった場所で彩那たちの様子を見つめていた。

 モカも彩那の元へ行くのではないかと思ったのだが、何やら感心したように向こうの様子を眺めている。

「幻獣との対話って大変なんですね。アニマの覚醒は見たことありますけど、ああやってお互いを受け入れるところから始めないといけないんですか?」

「人によるんじゃないかな。少なくとも俺はお互いの対話とかしてないし」

「空奏さんの最初はどんな感じだったんですか?」

「気を失ってたら目の前にいたな。身体の傷が無くなったことに違和感を覚えて混乱してたんだけど、ちょうど親とかがいたから慌てずに日常に戻った形だった」

「傷が無くなる……。ああ、アニマは覚醒の時に幻獣の身に宿す関係で身体が創り変えられるんですよね」

「そういうこと」

 今日果たさなければならないことの一つは無事終わった。彩那とラナはすぐに打ち解けてお互いが唯一無二の存在になるだろう。

 空奏もルウとバルドとの間ではお互いが無くてはならない存在となっている自負はある。しかし、十年以上一緒にいる自分たちよりも彼女らの方がお互いを大切に思う気持ちが溢れている様にも見える。

「そらさん、そらさん」

「ん?」

「もしかして、彩那ちゃんたちの仲の良さが羨ましいんですかぁ?」

 ニヤニヤとモカが笑みを浮かべている。彩那たちのことを眩しいなと思いながら見ていたのであまり強く否定もできない。

「バルドに言っておきますね。空奏さんが寂しそうにしてたって」

「やめておけ。お前は鼻で笑われるし、俺はいたたまれないしで良いことが何もないぞ」

「……うっ。そんなつまらない展開は嫌です。あ、そうだ。そんな場合じゃなかった。空奏さんに聞きたいことがあったんですよ」 

 モカはしかめ面から一転、何やらワクワクした様子へと変わった。

 好奇心の目を向けられた空奏は思わず後ずさる。

 そんな空奏にモカもまた一歩詰め寄り口を開いた。

「空奏さん獣化できたんですか。なんですかあの力、バルドと獣化したってことはルウともできるんですよね。二体と獣化できるとか反則じゃないですか。何らかの制限があるから使ってなかったんでしょうけど、隠してたなんてずるいですよ。かっこよすぎます!!」

「落ち着け、ちょっと落ち着け!」

 早口に喋りながら徐々に身を乗り出すようにしてにじり寄って来るモカの肩を押し留めて、空奏は無理やり距離を取った。

 落ち着いた話し方のできるルウがいた方が良かったかもしれない。そう考えながら、飛び掛かって来そうな気配すらあるモカを手で制し、空奏は落ち着かせるようにゆったりとした口調で話す。

「別に隠していたわけじゃない。モカの言った通り制限があることと、それを押してでも使わなければいけないという機会が無かったからだ。説明するからまずは落ち着け」

「わかりました。落ち着くために説明をお願いします」

「それでは話が逆だ。向こうも落ち着くころだ。お前もとっとと落ち着け。話してる時間無くなるぞ。というか、無くなったな」

「えっ!?」

「モカちゃんそんな悲しそうな顔してどうしたの? 空奏くんの後輩いじめ?」

「いじめてない。それにどちらかと言えば、モカの表情の原因は琴絵だけどな」

「え、私!?」

 気落ちしているモカを見て琴絵が疑惑の眼差しを向ける。モカには悪いが、元々長時間話をする時間は無かったのだ。後で話をすることにしてまずは彩那について次の工程を始めることにする。

「モカ、後で話してやるから元気だせ。まずは仕事してもらわないと」

「はぁい。うぅ、もっと早く思い出さなかったばっかりに……」

「ねえ、なんで私!? 私何をしたの、ねえってば!」



 異能の発動と、制御できているかどうかの確認。彩那が正常な状態である以上問題はないだろうが、一応確かめておく必要がある。細かい制御は後々訓練が必要となるので、今は的当てのような形で試していくことになる。

 そして、その結果。

「空奏さん、私は彩那ちゃんをハウンドにスカウトしたいです」

「小学生に対して何言ってんだお前」

 とはいえ、空奏もモカの気持ちは理解していた。彩那が予想を上回る力を示したのだ。

 琴絵が障害物を出し、さらにモカがアレンジを加えたり、影を動く的としてみたりする。

 初めは恐る恐るといった感じで的に水の弾をぶつけていた彩那は、次第にラナと共に競うようにして撃ち出し始めた。シュッ、ビシャンと連続で水のはじける音が響く。

 水滴を滴らせながら浮かぶ水の弾は、まるで狐火を逆さにしたかのように揺らめき漂う。彩那は、最後には自身の周りに三つの弾を浮かせ、それを射出できるようになっていた。

 幻獣であるラナが同じことをするのであれば驚きはない。実際、ラナの方は自分のできる範囲を確認するかのように徐々にバリエーションを増やしていた。

「川とか、海の近くだったら水の生成を行わなくていい分、敵なしになるんじゃないか」

 そう思わずにはいられないほどのポテンシャルを秘めているのがわかる。

 初めて力を行使するため、早めに切り上げるつもりだったのが一時間も経ってしまっていた。遊び感覚で試し尽くした彩那は満足そうにラナと笑っていた。

 一区切りついたところで彩那が空奏の元へと駆けてくる。

「空奏さん、見てた? わたしとラナの見てた?」

「見てたよ。正直驚いた。もうあんな風に力を使えるなんて、すごいな」

「えへへ。ねえ、わたしも空奏さんみたくなれるかな?」

「俺みたいに?」

「うん! 空奏さんはわたしを守ってくれたから、わたしも誰かを守れる人になりたい!」

 ズキリ、と心が痛んだ。

 幸いにも空奏の小さな変化に彩那は気づかなかったようだ。空奏は痛みを無視して微笑む。

「……そうか。うん、なれるよ。彩那ちゃんならきっとなれる」

「……!! わたし、頑張るね!!」



 再び琴絵の元へと走っていく後ろ姿を見つめながら、空奏はルウとバルドを呼んだ。

 新たな的を出し続ける琴絵の元から二体が戻って来るのを確認してから空奏は踵を返した。

 それに気づいたモカが一緒にやってきて空奏の前に回る。

「そーらさん! どこか行くんですか?」

「そろそろ報告としては十分だろ。真白さんのところに行ってくる」

「あ、じゃあじゃあ、さっき聞けなかった話聞かせてくださいよ」

「急ぐものでもないから別にいいけど。あっちはいいのか?」

「琴絵さんが大きいものを描いていますから、私は少し休憩みたいです」

「……琴絵が張り切りすぎて干からびないように見といてくれ」

 琴絵の場合は描いたものを実体化させる瞬間に力を使う。対象が大きければ大きいほど時間と力を使うため、彩那のために様々なものを出している琴絵もそろそろきついだろう。

 しかし琴絵を見れば、活き活きしてるのがここからでもわかる。彩那に頼られて嬉しいのはわかるが、変にお姉さんぶって無理しそうだ。

「さて、どこから話すかな。三年前のツツジっていうソウルイーターの件は知ってるか?」

「ツツジ……。聞いたことはあります。多大な犠牲を払って討伐したっていうことぐらいですが、それ以上詳しいことはあまり」

「じゃあそこからだな」

 空奏は三年前の事件についてと共に、その時から獣化の持続時間が三十秒程度となったこと。そして今も状況は変わらないということを話した。

「どうにかして獣化の力を取り戻さないとと思ってはいるんだけど、まだ解決できてなくてな。一度どちらかと獣化してしまえば、一分もしないうちに休眠状態に入って戦力半減だ。場合によっては死に繋がる。だから本当に使わないとまずい時以外は使ってなかったんだよ。数少ないその機会にもモカは立ち会ってなかったわけだな。惜しかったな、今まで見れなくて」

「……すみません。事情を知らずに踏み込むようなことをしてしまって。あと、気を遣わせてしまって」

「言っただろ。別に隠しておくようなことじゃないって。むしろ、獣化が使えるってわかった以上はその制限に関する事情も知っておいてもらった方が好都合だろ。きっかけを作ってくれてありがとうな」

「はぁ。そういう気の遣い方は、ずるいと思うんです。もう何も言えないじゃないですか」

 モカが嘆息するのを空奏は苦笑しながら見ていた。

 言った通り、隠すようなことではないのだ。誰彼構わず広まってしまうのは今後の仕事に支障が出る可能性があるのでまずい。しかし管理局の人間、それもハウンドの者であれば問題はない。変に気を遣わせないためにも、モカには割り切っておいてもらった方が良いと思った。

「率先して話題に出されても困るけどさ。今の俺にとって獣化は最後の一手にしか使えないということだけは頭に留めておいてほしい。むしろ無いようなものだと思っておいてくれて構わない。当てにできるほど安定した力じゃないからな」

「わかりました。肝に銘じます」

 真剣な眼差しで空奏を見るモカに笑って見せる。少々大げさな気もするが、モカは良くも悪くも素直な子だ。下手に釘を刺す必要も無いだろう。

「空奏さんは獣化を取り戻そうとしてるんですよね」

「もちろん。三年前と同じ失敗は繰り返さない。そのためにも強くならないといけないのに、当時よりも強くなるどころか弱くなってるようなものだ」

「何かできることがあれば言ってください。いつでもお手伝いします」

「……ありがとう」

 不思議とモカがすごくやる気に満ちている。空奏は思わず目を瞬かせた。手伝ってくれるのは嬉しいが、思ったよりも重く受け止められている気がしてする。私事に巻き込んでしまうのは申し訳ないと思いつつ、その気持ちはありがたく受け取らせてもらうことにした。

「早速ですけど、何かやれそうなことありますか?」

「獣化に関しては今のところ解決策が見当たらなくて、ちょっと手詰まりでな」

「モカ、空奏も私たちも色々試してはいるのだがどうしてもこれというものがない。何か新しい発想が欲しいというのが正直なところだ」

「わっ、ルウ戻ってたんだ。こっち来るのは見えてたけど、空奏さんの中にいるとは思わなかった」

「ある程度近づけば空奏の中に戻れる。話は最初から聞いていたのだぞ」

 移動するつもりだったので呼び戻していたのだが、ルウは実体化することにしたようだ。

 やっぱり便利だよね、と感心してからモカが話を続ける。

「そもそも、なぜ獣化はできなくなったんですか?」

「具体的な原因はわからないんだ。二体同時獣化によるオーバーフローに身体が耐えられなかったんじゃないか、とは考えてる。あの時よりも身体も異能の扱いも鍛えてるはずなのに、通常の獣化すらできないということは違うんだろうとも思ってるけど」

「故障した身体の部位を無意識に庇おうとするようなこともありますから一概には言えませんけど、そういう話でもないですよね。そういえば、逆に獣化の条件って私知らないんですけど、何かあるんですか?」

「条件か……。とりあえず、ある程度異能を操る技術が無いとダメて言われてるけど。他には何かあったかな」

「何だろうな。私としては感覚的な感じもあると思うが」

 ルウと空奏が首を傾げる。何も言わないということはバルドも知らないのだろう。

 それを見たモカは不審そうな目をした後に呆れ混じりに言った。

「そういう天才肌的なノリは良くないと思います」

「異能の扱いに関して天才と謳われた人に言われたくないね。影の寵児だっけ」

「やめてください。周りの人が勝手に言ってただけで私はそんなの知りませんからね!」

 モカこそ所謂天才と呼ばれていた少女だった。彼女が管理局に入る時は配属がどこになるかでちょっとした騒ぎになったものだ。東京本部に引き抜かれておかしくなかったものの、モカのご両親が管理局に影響を持つ人であり、本人の希望もあって東北支部へ来ることになったのだった。

「私の話はいいんです。今は空奏さんの獣化の話です。」

 ルウと顔を見合わせてからモカに向き直る。モカの言うことも最もであり、彼女は空奏のことを想って言ってくれているのだ。それを無下にするわけにはいかない。

 しかし、獣化の条件というものにも拒絶反応に繋がるものは思い至らない。幻獣との絆が関係しているとか、本人の技量が卓越しているかどうかとも言われているが、現代においてそれを検証することができていない。異能を操る技術が高く、獣化の素質があるかどうか、というところで落ち着いているのが現状だ。

「空奏さんの素質が無くなった、ということでしょうか」

「それは在り得ない。私とバルドが抑えているとはいえ、獣化自体はできているのだ。もし素質自体が無くなったのだとすれば獣化は行えないはずだ。数は多く無いが、獣化を行おうとして失敗した例はいくつか見ている。彼らは一様に獣化の気配すら感じ取ることができなかった。それに、そうであれば私たちは三年も悩んでいないのだからな。モカには悪いが、それだけは無いと言える」

 ルウがハッキリと言い切る。しかしそのように言われることは予想していたのだろう。モカは納得するように頷いた後、溜め息をついた。

「そうですよねぇ。……うーむむ。自分で言い出しておきながら何もできないまま、詰みです」

「その気持ちだけでも嬉しいよ。何か思いつくことがあったらまた一緒に考えてもらえると助かるかな」

「空奏さん……。わかりました」

「じゃあ、そろそろ俺は真白さんのところに行ってくるよ」

「はい、話聞かせてもらってありがとうございました。……あ、そうだ。疑問ついでにもう一つだけいいですか? 大した話じゃないんですけど」

「何だ?」

 立ち去ろうとした空奏の背中にモカが声をかける。振り返ると彼女は知識を渇望する研究生のような眼差しで空奏を見ていた。珍しい気配に思わず目を細めた空奏にモカは言った。

「空奏さんは、なぜ強くなろうと思ったんですか?」

「そりゃあさっきも言った通り、三年前みたいな失敗をしたくないからだよ。仲間が死んでいくのに、自分が動けたのは最後だけだった」

「ああいえ、そうではなく。その前です。異能を使えるようになってからそのツツジの件までの間のことですかね。最初に獣化が使えるようになるまでのことです」

「最初……。そもそもの始まりは、いつだったんだっけ」

 空奏は己の内に問いかける。

 モカに言われて久しぶりに思い至った。何故自分は強くなろうと考えたのだったか。

『誰かを守れる人になりたい』

 彩那の言葉に心が痛んだのを思い出す。

 それは空奏が強くなりたいと考えた思想の一端だった。

 しかし、それだけではなかったはずだ。

 すぐに出せると思った答えは形にならず、空奏は何も言えずに口をつぐんだ。 

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