第3章

 目を覚ました彩那が目にしたのは、真っ赤な目に新しい涙を浮かべている施設の職員、上村の顔だった。上村は彩那のことを抱きしめながら謝った。何度も何度も。危ない目にあわせてごめんなさい、と。

 彩那は不思議に思う。何故上村は謝るのか。隠していたのは自分なのに。彩那もまた上村に謝った。隠していたこと。病院を抜け出したこと。心配をかけたこと。

 上村は彩那を責めなかった。ただ一言「もう大丈夫だから」と言って頭を撫でてくれた。

 その様子を見ていた空奏はそっと病室を出た。

 自分も同じく「大丈夫」という言葉をあの子に送ったというのが、何やら不思議な気がした。

 落ち着くまで待ってから話を聞くことにして、壁を背にして待つ。

「(異能に目覚めるのは先天的にその素質がある人だけだよな)」

「(そうだな)」

「(彩那ちゃんを執拗に狙うってことは、その素質があることは確信している)」

「(それに、覚醒も近いものと見ていいだろう)」

「(そうなのか?)」

「(真白が言っていたな、帰りが遅くなることは以前からあったことだと。しかしそれは毎日のことではなかった。時間をかけて覚醒に導いてきたのだろう。それが昨日、今日と続いた。もしかしたら、ここ数日続いていた可能性もある。昨日に関しては尾行してきたやつがいただろう? 結果こちらから仕掛けることにはなり逮捕に至ったが、そのような危険を冒す必要性はなかったはずだ。そして今日、彩那は友魂同盟のやつらが近くにきたからこそ病院から離れることにしたと考えられる。覚醒にまだかかるならここまで追い詰めるのは論外だ。実際に彩那は橋まで逃げ、私たちがもう少し遅ければ身を投げていたかもしれないのだからな)」

 ルウの言うことはもっともだった。ただ、覚醒が近いにしても急いで追い詰めるようなことをしなければならなかった理由がわからない。そもそも追い詰めることで覚醒するということも空奏には疑問だった。どうして急ぐようなことをしたのか。今日の三人の独断専行だったということだろうか。いや、三人の異能は直接戦闘向きのものだった。病院のどこかにいる彩那に自分たちの存在を知らせるようなことをできるとは思えない。となると独断専行の線は消えるか。

 考えていても答えは出せそうにない。空奏が友魂同盟について知っていることはあまりにも少ないのだ。まずは情報を増やす必要がある。

「科戸さん」

 扉を開けて上村が出てきた。近くにいた空奏に気づいて声をかけてくる。

 空奏は思考を切り替えて壁から離れた。

「彩那ちゃん、落ち着いてくれました。科戸さんが話したいことがあるそうだと言ったら、彩那ちゃんも話したいと」

「そうですか。ありがとうございます」

「私は施設長に報告もありますし、一度戻らないといけません。申し訳ありませんが、ここで失礼させていただきます」

「わかりました。あまり無理させないようにしますので」

 同席すると思っていたので少し意外に思う。彼女にも仕事があるだろうから、長居はできないということだろうか。

 会釈をして去っていく上村を見送り、入れ替わるように空奏は病室に入った。



「疲れてると思うけど、ごめんね。話を聞かせてほしいんだ」

「うん。空奏さん、本当にいてくれたんだ」

「もちろん、いるとも。実はこっそりと見ているかもよ?」

 河原での会話のことだろう。茶化して言う空奏に彩那は安心したように笑う。ベッドの横にある椅子に腰をかけさせてもらい目線を合わせる。ルウが足元に実体化し、ベッドに前足をかけた。

「あ、ワンちゃん!」

「彩那よ、私は犬ではない。狼だ」

「……喋った!!」

「幻獣だからな、話ぐらいする」

「そうなんだ」

 幻獣でも喋らない個体もいるので、一括りにはできないと思うのだが。

 ルウもバルドも、普段はむやみに人前に出るようなことはしない。こうして実体化したのは、何か気になることがあるのか。それとも心配して出てきたのだろうか。おずおずと手を伸ばした彩那に向かって頭を低くして撫でやすくさせている辺り、ルウなりの気遣いなのかもしれない。ルウの毛並みはもふもふとしていて撫でると気持ちがいいと好評だ。

 おかげで空気が軽くなったので、空奏は話を切り出すことにした。

「ルウのことは揉みくちゃにしてていいよ。さっそく本題に入らせてもらうね。彩那ちゃんのこと少し調べさせてもらったんだけど、三か月ぐらい前に今の施設に来たんだよね。前のところにいる時もあの人たち……友魂同盟って言うんだけど、その人たちに追いかけられたりしてた?」

 彩那が目覚めるのを待っている間、浅木から送られてきた彩那についての情報に目を通していた。現在小学三年生。身体・精神いずれも特別な特徴は見られない。よく図書室にいることがあり、本を読むことが好きな様子。気遣いのできる子だが、人と少し距離を置いた付き合い方をしているのが気にかかるということが昨年の担任からは挙げられていた。

 以前からこの付近にいたのかと思っていたのだが、彼女は三か月ほど前までいた施設が火事により全焼したため、今の所に移って来たらしい。

「ううん。前はそんなことなかった。あの人たちがわたしのところに来始めたのは……今が四月だから、二月ぐらいの時」

「二か月も前から……。誰にも相談しなかったのは、巻き込みたくなかったからなのかな」

「最初は、怖かったから話さなきゃって思ったの。でも、誰かに話したらまた火事の時みたいに大事な人が傷つくぞって言われて」

「火事……前のところであった火事か」

「最初は読めなかったけど、テレビで言ってるの聞いてわかったの。『魂を解放しろ』っていうの。火事の時もあった。見ることが多くて。この前も見つけたの。だから、言ったらダメなんだって。わたしじゃなくて、他の人が怪我することになるかもしれないから」

「自分が怪我をするのは別によかったの?」

「怖いし、痛かったけど、真っ暗になってしばらくするといなくなったから。そこまで、逃げれば大丈夫だって思った」

「真っ暗っていうのは、夜になったらってことだよね? それで、いなくなってから帰ることにしてたんだ」

「……うん」

 彩那が徐々に舟を漕ぎ始めていた。これ以上続けさせるのはまずいだろうか。あまり思い出したくない記憶を掘り下げさせている状態だ。精神的な疲労も大きいかもしれない。無理をさせるのは良くないが、もう少しだけ耐えてくれと思いながら空奏は続けた。

「学校の帰りにだけ追われてたのかな?」

「……うん。お昼に見ることはあんまりなかった」

「ごめん、次が最後。その追いかけてくる人たち、何で彩那ちゃんを狙うのかって言ってた?」

「えっと……なんか、強い魂がなんとかって。でもさっきは、どこかに連れていって何か……だから、高いところから落ちて、逃げ、なきゃって……ごめんなさい」

「いや、謝ることじゃないよ。大変だった時のこと、話してくれてありがとう。ほら、横になろう」

 身体を横たえた彩那に毛布を掛けてやると、すぐに寝息が聞こえてきた。所々たどたどしい部分はあったが、疑問だった点についてはしっかりと返してくれた。

 小学三年生ということは、日にもよるのだろうが学校が終わる時間はそう遅くない。友魂同盟が現れた日は、陽が沈むまで一人で動き続けていたのだろう。不安と恐怖に満ちた二か月を過ごしたに違いない。

 彼女の境遇は想像するに余りある。空奏はまず報告を入れてしまうことにして浅木を呼び出した。



 報告後、護衛を含む待機指示が出た空奏は静かな病室に残っていた。

 空奏は彩那の寝顔を眺める。その表情は安らかなもので、思わず頬が緩んだ。

「頬を緩めるのは良いが、気は緩めるなよ」

「わかってるよ。……ちょっと、前のこと考えてただけ」

「……そうか」

 ルウはそれ以上何も言わなかった。ただ黙って空奏の横で伏せていた。

 もう三年経つ。あの時も、保護した女の子が寝ている横でその目覚めを待っていた。

 空奏は自分がなぜ焦っていたのかわかった気がした。状況が当時と似ているのだ。

 逃走中の少女。保護しに動いていた自分たち。

 だから、助けなければという想いが先行してしまっていた。

 あの時救えなかった彼女と、重ねてしまっていたのだった。

「俺は、同じ失敗はしない」

「俺たちだ。それに力みすぎは良くないぜ。思考が鈍る」

 バルドが羽を伸ばしながら実体化する。ルウの背中に降り立った彼は空奏を見上げて欠伸をした。しばらく出番が無さそうだと判断して完全に寝ていたようだ。欠伸をしたのは、余計な力の入っている空奏に対して余裕を見せてくれているのかもしれない。空奏は笑って頷いた。

「そうだな。じゃあ、琴絵が彩那ちゃんに『琴絵お姉ちゃん』て呼ばれたらどうなるかを時にどうなるかでも考えておくか」

「俺は琴絵が卒倒するに賭けるぜ。千円な」

「なら私は猛然と走り出すに賭けよう」

「金賭けるのかよ。それだとどっちが勝っても、俺の財布から抜かれて戻って来るだけなんだけど?」



 しばらくすると、扉がノックされる音がして琴絵が入ってきた。

 その後ろには金髪の男がいる。ひょろりとして色々と軽そうな見た目をしている彼は伊藤修司。空奏たちと同じくハウンドのメンバーである。

「修司さん。そっち終わったんですか?」

「よお、空奏。時間くっちまったが、何とかな」

「修司さんたちが担当してたのも友魂同盟が犯人だったんだって」

「そそ。んでモカちゃんと二人で支部に戻って来たらこっちも友魂同盟の件で当たってるって聞くじゃん? 真白ちゃんから二人と一緒にやるようにってさ」

 休憩ぐらいさせてくれよ、と嘆く。修司と同じ件に当たっていた柊モカという少女は後から合流するとのことだ。肩をすくめる修司を見て、空奏の頭にある疑念が浮かぶ。

「そうですか、友魂同盟の……。そいつらって捕まえたんですか?」

「そりゃあ捕まえて引き渡し済みだが」

「抵抗は? 相手はどのぐらい抵抗しました?」

「異能使ってきたから軽く交戦したぐらいだな。無理だと思ったのか、すぐに投降してきた」

「現場は?」

「車で三十分ぐらいの辺り。おかげで見つけるのに時間がかかって……。お前、何を考えている?」

「ルウに言われたんです。彩那ちゃんの覚醒が近い。だからこその昨日と今日の友魂同盟の行動だろうって。それだけじゃなく修司さんのところも友魂同盟の犯行。……もしかしたら、他のところも友魂同盟が動いているのかもしれない」

 今朝、空奏が支部に着いた時には真白以外に誰もいなかった。そして彩那が病院から逃げたことで、ちょうど来た琴絵と追うことになった。一刻も早く彩那を確保する必要のあった友魂同盟はここ数日で強硬手段に出た。自分たち以外にいなかったのは友魂同盟に誘い出されていたから。

 どうしても違和感が残る。昨日のゴリラとトカゲ男、今日の三人組。どちらも簡単に自分たちに止められている。覚醒させるための刺激を与えるという意味では成功しているのかもしれない。しかし彩那がハウンドの保護下に入るということは、これ以上手出しはできないはずだ。

「そういえば琴絵、友魂同盟の記録見て来てくれたんだろ。どうだった?」

「空奏くんの言った通り、友魂同盟についてこの近辺での活動はあんまり記録が無かったよ。東北支部として記録は結構あったから、元々は別の地域で活動してたんだね。それで、イクシスとアニマの優位性を主張してよく補導されてるみたい。異能を使って揉め事起こして怪我人が出たり、殺人に至ったケースも結構あったかな。集会とかの度に『魂を解放しろ』って残してるから、こっちが目立ってるかも」

「なんだ? それがどうしたんだ?」

 琴絵の報告を聞いて納得する空奏に対し、修司が困惑した表情を浮かべる。

「修司さんは犯人が友魂同盟ってわかった時、どう思いました?」

「どう思ったって。……そんな集団いたな、って」

「俺と琴絵もそうです。その程度の認識しかなかった。彩那ちゃんのいる施設は支部からそう遠くない。そんな近くでは俺たちの活動圏内に入るようなことをほぼしてこなかった連中が、支部のハウンド全員を引っ張り出すような大規模な行動を取った。もちろんこれはただの推測。他の皆が対応している件が友魂同盟の仕業と判明したわけじゃないから。でも、偶然じゃないとは思う」

 平坦な声で語る空奏を修司はまじまじと見ている。琴絵が不審に思って見ていると、空奏も気づいたようで修司を見上げる。

「何ですか」

「いや、随分と焦ってるみたいだなと思ってな」

 胸中を言い当てられ、空奏は思わず固まる。その様子を見て修司は笑った。嘲笑うような笑いではない、爽やかな笑い方だった。今度は空奏がまじまじと見やる。いったい何がおかしいというのか。

「お前、三年前と重ねてるな?」

「っ!?」

「ああいや、それが悪いと言ってるわけじゃない。……まだ、お前の胸にあの子が生きてるんだと思ってな。俺はそれでもいいと思うんだ」

 顔を背けた空奏を見て琴絵が目を伏せる。重くなった空気に修司は一つ溜め息をついた後、真面目な表情で続けた。

「空奏の考えは早計と言える。が、友魂同盟の連中が何か企んでいて、ついに今日動き出したという見方でこちらも行動していいだろう。一度この病院にいたことは割れている。病院の警備も信頼はしているが、それよりは支部で保護してしまった方が良い。いくら命知らずでも真白ちゃんのいるところに乗り込んでくるほど馬鹿じゃないだろ。ということでどうですかね、浅木さん」

「はい。他で対処している件にも友魂同盟の人間が確認されています。科戸くんの考えが合っていると思っていいでしょう。ハウンドの詰所を使います。そのままお連れください」

 突然聞こえた浅木の声に琴絵がギョッとする。修司が着いた時点から聞いていたのだろう。改めて報告する必要性が無くて何よりだが、通信を入れていることを一言断っておいても良いのではないだろうか。

 琴絵のそんな視線を感じ取ったのか、修司がへらへらと笑う。

 空奏は先ほど連絡をしているためか、さほど驚いていない。視線を逸らして素知らぬふりをしているということは、同罪の自覚はあるようだ。

 基本的にノリでこなしてしまう修司は時折何を考えているのかわからない時がある。適当な物言いをしていると思ったら急に真面目になり、真面目にやっていると思ったらふらりといなくなったり。それでもどこか憎めない人なのだが、ただ驚かせるのが趣味なのではないかと疑いたくなる時もある不思議な人物だった。

「さて、行こうかね」

「伊藤さん」

「浅木さん? もしかして待った方が良いですか?」

「いえ、そうではありません。病院の前で立ち塞ぐようにして車が数台集まっています。報告では武装もしっかりしたもののようで、戦闘は避けられないかと」

「……あー」

「こちらから動かせる戦人員がいないので、そちらで……」

 申し訳なさそうに浅木が言う。修司が顎に手を当てて何か考える素振りをした後、空奏を振り返って言った。

「早計とか言って悪かったな」

「いえ。病院まで押しかけるとは思わなかったですね」

「元々討滅許可は下りてる。警備が交戦に入る前に俺らが行ったほうがいいだろ。琴絵ちゃんは彩那ちゃんを頼むわ。空奏、病院に流れ弾当たらないようにとっととやるぞ。ルウとバルドも行けるんだろ?」

『もちろんだ』

 笑いながらテキパキと指示を出す修司が声をかけると、二体の声が重なる。空奏は気合を入れ直すように腰に下げた愛刀の感触を確かめた。



「上から構成員を確認、数二十。全て青です。ソウルイーターの存在は確認できません」

「わかった」

 琴絵が特殊ゴーグルを通して確認した結果報告を受け、修司が頷く。管理局のゴーグルで識別した際、ソウルイーターの魂は赤い反応を示す。それが無いということは、今回の相手は全て人間ということがわかる。

「出てきたか」

「出迎えられるなら女の子の方が良いよなあ」

「まあ男に出迎えられる趣味はないですね」

 複数の銃口に出迎えられた二人の前に一人の男が進み出る。遮蔽物も無く、今にも火を噴きそうな銃口を前にしても修司と空奏には緊張感が無い。

 軽口を叩く二人を見て男の口元がピクピクと震える。まさか額に青筋を浮かべながら笑いを堪えているわけではないだろう。

 若い男だった。二十代前半ぐらいだろうか。神経質そうに何度もメガネに手をやっている。だが落ち着きがないというわけでもなく、その目は泳ぐことは無く空奏たちを見ている。

「それで、わざわざお出迎えしてくれたのは何でだ? 車で来たってことはドライブのお誘いかい?」

「……口の減らない男だ。あの女の子を渡せ。あれは貴様らが触れていい器ではない」

「器、ね。おい空奏、もうちょっと待て。斬るには早い」

 身を低くした空奏に修司が釘を刺す。できるだけ情報を引き出したいのだろう。琴絵の準備も整った頃だろうし、何人か残しておけば良いのではないかと思うのだが、修司には考えがあるようだ。ここは大人しく従うことにする。

 あの三人組と同じ、この男の目的も彩那を連れて行くことのようだ。

「お前らあの子の異能を覚醒させたいんだろう? わざわざ連れていく必要はないじゃねえか。大人数で病院に押しかけやがって。びっくりしてジジババが倒れたらどうしてくれるんだ。若いんだから配慮しろ、配慮」

「ふん、老い先短いやつらのことなんか知るか。俺たちは今できることを全力でやるまでだ」

「若いなあ。おっさんそういう熱意は置いてきて久しいから、ちょっとついていけないわ」

「あんただって二十代だろう。そんな仕事してないで俺たちと一緒に世間の目を覚まさせてやろうぜ」

「この仕事も楽じゃなくてなあ。できるならあんたたちみたいに在りたいよ。それにその熱意の源は羨ましいな。世間の目を覚まさせるって、それが異能の覚醒とどうつながるんだ?」

「俺たちの活動は知ってるんだな。なら教えてやろう」

 興味を持たれたことで調子づいたのか、得意になって男が話し出す。異能者がどれだけ素晴らしいかということを世に知らしめるというのが男の主張だったが、だんだんと熱の入る語り口に空奏は途中から飽きてきていた。時折驚嘆し、理解を示しながら相槌を打っている修司はすごいと思う。各所には話を付けてあるので横槍の心配はないだろうが、こう時間がかかるのはじれったい。

「それで、そんな素晴らしい考えを立案された方の右腕と見られるあなたのお名前は?」

「……!! わ、わたしか? 私の名前は藤浩太という!」

 いつの間にか二人とも口調が変わっている。名前を問われた藤という男は何やら妙に嬉しそうだ。周囲の様子を見るに、地位は高くてもあまり慕われていないのだろうか。

「そうか、浩太さんか。素晴らしいお方である浩太さんが信奉するその方はさぞすごい人なのだろうな」

「そうだ。そうだ! 熊井陽介様は素晴らしいお人だ! ハウンドの連中なんてゴミの集まりだと思っていたが、なんだ話せばわかるやつもいるんだな。さあ、俺たちと共に行こう。あの子を覚醒させ、イクシスとアニマの優位性を人類に知らしめてやろう!!」

「ああ!!……すまん、さっぱりわからん。琴絵ちゃん」

 藤が伸ばした手を取ろうとした修司が、その手を降ろして琴絵に呼びかける。すると、後方より飛来した紙が五台あるうち病院に近い位置にあった三台の車の上に乗り、巨大な岩を実体化させる。

 車に誰も乗っていなかったのは幸か不幸か。

 車がひしゃげた音を合図にして、友魂同盟にとっての地獄が始まった。

 緩み切った空気の中を空奏が駆け、銃の持ち主に肉薄する。銃を持っていた六人は反撃もままならずその場で切り伏せられた。

 自分の後ろにあった車が潰れた音に振り返り、藤は言葉を失った。

 その背中に向かって感情の籠らない目で修司が告げる。

「この仕事も楽じゃなくてな」

 腰から抜いた持ったナイフで喉を掻き切る。崩れ落ちる藤の身体を避けて修司は次の獲物に向かって走った。

 修司は自分の異能を「複製」と呼んでいる。認識した物体を複製し、近くに出現させる異能。これにより修司は常備しているナイフの他に投擲武器として実質無限のナイフを持つことが可能になっていた。

 右手に持っていたナイフを左手の上へ複製。車の陰に入りながら投げつける。ナイフはルウに向かって槍を突き出そうとしていた青年の首に刺さり、青年は悲鳴を上げる間もなく絶命した。

「空奏!」

 短く呼びかけ、青年が持っていた槍を斜め上に向かって投げる。後ろに引きながらそれを複製。大きいもの、複雑なもの、自分から離れた位置の物を複製するのは隙が大きくなってしまう。それを知っているルウが上空を見やる修司の元へと走り、付近の敵を警戒する。

 そして、一本の槍はたちまち雨となって降り注いだ。

 悲鳴の上がる車の陰に飛び込み、肩を負傷している相手の腹へとナイフを突き刺す。その身体を突き飛ばし、飛んできた円盤を身代わりに受けさせて自分はその場を離れる。

 後退した修司の身体が何かに引き止められて揺らぐ。目をやると、そこには頭から血を流して息絶え絶えになりながら修司の足を掴む少女の姿。

 動きが止まった僅かな隙。その時を待っていたように地面から大柄な青年が現れた。さらに後ろから聞こえる雄叫び。二人の青年が前後から修司を狙う。

 正面の青年は肘まで覆う籠手を装備している。これは防がれる。そう思った修司の耳にバルドの鳴き声が届いた。

 修司は身体を捻り身体の向きを変えながら少女の手を踏みつける。拘束が解かれた。後ろ側から突っ込んできた青年が持っていたのは炎を纏う青龍刀だった。横薙ぎに振りられたそれはナイフでは受けきれない。後ろへ跳んで身体を反らし、ギリギリで避ける。すぐさま車の上へ飛び乗り、青龍刀の青年をナイフで牽制。バルドが抑えてくれていた籠手の青年の後ろへと回り込んだ。

「交代だ、重くて崩せねえ!」

「サンキュー、バルド!」

 隙を作ってくれバルドに感謝しつつ、刃が飛び出た籠手が振り回される前に息の根を止める。倒れた青年の向こうでは、空奏が青龍刀を持った青年を切り伏せたところだった。



 そうして二十人近くいた友魂同盟の人間に、立っている者はいなくなった。

 呻いている声がする。痛い痛いと泣いている声がする。助けを請う声がする。

 血痕の飛び散る地面と転がる身体。中には動かぬ死体となった者もいる。

 相手が殺す気で来ている以上、情けをかければ自分たちが死ぬ。

 空奏は極力殺さないようにと考えているが、その考えが甘いこともまた理解していた。

「逃げたのは?」

「三人ですね。それ以外は向かってきました」

「そうか。しかし、正面からだけとは思わなかったな」

 別の部隊が病院を襲撃する可能性を考えて、琴絵には病院のすぐ入り口にいてもらった。琴絵の紙は自動で発動するものではないため、狭い病室では戦うのに不向きだ。病室まで踏み込ませるわけにはいかなかった。

 浅木に連絡を入れ、救急隊が負傷者を病院に運び込む間、新手に備えて警戒態勢で待つ。

「そういえば、何なんですかさっきの喋り方。気色悪い」

「昨日お前がやってた敬語もどきも大概だろうが」

「いや、名交渉役だったでしょ。というか何でそんなログ見てるんですか」

「モカちゃんが爆笑してたから何かと思ってな」

「……そのモカはまだ来ないみたいですけど」

「さすがに終わる前に来ると思ったんだが、来なかったな。こっちは俺がいる。空奏は琴絵ちゃんとこ行って……何か来る!!」

 空奏と修司は同時にその場から後方へ跳んだ。空から飛来した何かは地面にクレーターを作り上げ、砂埃を巻き起こす。車の残骸を吹き飛ばすほど衝撃に通りから悲鳴が聞こえた。

 砂埃が晴れた先に立っていたのは、炎のように揺らめくオーラを纏った巨人だった。

 体長二メートルに届きそうなほどの背丈。そこから伸びる長く太い手足は防具に覆われている。こちらを睥睨する様はまるで大木のようで、突然現れた大男の存在感に空奏は思わず言葉を失う。

「何してんのかと思ったらもう死んでんじゃねえか。もうちょっと粘れや。忠実の言葉が泣くぜ? ま、ハウンド二人相手じゃ仕方ねえか」

「あんたが熊井か。藤の花言葉なんて知ってるあたり繊細そうだが、そいつを心配して来た、ってわけじゃなさそうだな。名前の通り熊みたいなやつだ」

 血を流して倒れている藤の姿を見つけ、溜息をついた熊井に修司が言う。そちらに顔を向けて熊井はニヤリと笑った。獰猛な獣のような気配が漂う。瞬間、修司は反射的に横に跳んだ。しかし熊井は常人離れした速度で修司に追いすがり、その腕を伸ばしていた。

「バルド、合わせろ!」

 修司に熊井の腕が届く直前、空奏とバルドによって起こされた暴風が修司を吹き飛ばす。熊井の腕は空を切り、地面に転がった修司はすぐさま体勢を立て直して大きく距離を取る。空奏もまた熊井の腕が届かない位置まで距離を取った。

 インカムから修司の声が届く。

「悪い、助かった。なんなんだあいつ、速度上昇系の異能か?」

「わかりません。ただ、あいつ獣化してます」

「……みたいだな。厄介なもんが出てきたな」

 アニマと幻獣が一体化し、その力を十全以上に引き出すことができる状態を獣化という。一説によると、アニマは人間の身体では抑えることができない異能を幻獣の顕現という形で二つに分けられた存在であるとされている。これの根拠として、アニマの覚醒の際は死に至る程の傷を負っていたものでも、障害を持っていたものであっても覚醒と同時に五体満足の形に肉体が構築されるという点がある。そして獣化は、その二つに分けられた力を無理やり一つに繋ぎ止めるというものであり、これにより人の身ならざる力を得ていると言われている。

 獣化できる者はそう多くはなく、高い実力を持ったものがそれを会得できると言われている。修司が顔をしかめるのも無理ないことだ。

「修司さん、サポートお願いします」

「上から降ってきた時の力を考えると捕まったらまずい。相手の異能もわかってないんだ。気をつけろよ」

「魂は青。人間です。私もサポート入ります!」

「ありがたいが、その辺りからじゃ紙が使えないだろ。琴絵ちゃんが俺よりもあいつに近づくのはまずい。あの速さで来られたら俺でも空奏の援護なしじゃ避けきる自信はないんだ。こう言っちゃなんだが、的になるぞ」

「……はい」

 琴絵が悔しそうに了承する。だが修司の言うことはもっともだった。

 身体機能強化の異能がある空奏が前にでて修司がサポートに入る。修司も速いが、それは人間の出せる速さだ。真っ向勝負では熊井には勝てない。ならば尚のこと、琴絵は回避するのは難しいだろう。

 幻獣が外に出ていないと異能を使えないという原則を無理やり破って行う獣化には、その持続時間に制限がある。持続時間を過ぎれば、力を使い果たした幻獣は眠りにつくため、それまで持ちこたえるしかない。本来ならばもっと有利な状態を作るか、時間まで回避に徹するかのどちらかだが、今は後ろに守らなければならない者がいる。

「いや、違うか」

 持ちこたえる? 回避に徹する? 空奏は弱気になっている自分を叱咤した。確かに相手の速さと力は脅威だろう。異能も判明していない。しかしそれがどうした。自分はハウンドの一員であり、相手は保護対象である彩那を狙う敵の親玉だ。なら、あの子の不安を拭い去るチャンスだと思わなくてどうする。

 空奏は刀を抜いて低く構える。熊井が怪訝そうに眉を寄せた。

「獣化もしないとは舐められたものだな、科戸空奏。俺はお前とやれるのを楽しみにしてたってのに」

「俺のこと知ってるのか。それは光栄だね」

「こっちの世界にいて知らないやつは、よっぽどの新参かモグリかのどっちかだろうよ」

「俺にもあんたのことを教えてくれると嬉しいんだけどね、熊井陽介」

「時間が惜しいからな。世間話の続きはまた今度だ」

 相手の間合いがわからない以上は自分の間合いで戦うほかない。得物があればわかりやすいが、熊井は短い刃の突いた手足の防具以外に武器の類は持っていない。遠距離に対応できる異能を持っているなら空奏の方が不利になる。

 距離を詰めて腰のあたりを狙い繰り出した刺突は熊井の腕に防がれて逸らされる。そのまま熊井の横を駆け抜けて背後に回るが、向き直ると熊井が迫って来ていた。空奏の目前で急激に速度を落とした熊井は踏みこんだ足を地面にめり込ませながら振りかぶった腕を空奏に向かって叩きつける。空気を裂くような音のするそれを空奏は横に跳んで躱した。

 空奏の代わりに殴りつけられた地面に小さな窪みができるのを見て、空奏は思わず冷や汗を流した。

「あんなのまともに当たったら一発でぐちゃぐちゃになっちまうな」

 バルドが地面にできた窪みを見て思わず唸る。バルドは空奏とルウの動きに合わせて風を送ることで移動速度と距離を伸ばすアシスト役に徹している。攻撃用の身を裂くような風を生成して援護したいところだが、アシストを止めれば捉えられてしまう可能性がある。

 後方からナイフが飛んできて空奏が距離を取るのを援護する。修司のナイフによって足の止まった熊井に、空奏の逆から迫ったルウが飛び掛かる。態勢を整えた空奏はすぐに攻撃に転じ、ルウと同時に斬りかかった。瞬間、空奏は腕に違和感を覚える。

 まるで双方が見えているかのようにどちらも的確に防がれてしまった。一体化している幻獣が補佐しているためだろう。熊井の視野は通常よりも広い。しかし二人がかりで防がれたことよりも、空奏は自分の腕に感じた違和感の正体を追いかける。

「(なんだ、今の)」

「(おい空奏、また来るぞ!):

 防具に阻まれながらも足に咬み付いていたルウは、何かに引かれる力を感じてすぐさま離れた。振りぬいた空奏の刀を防いだ熊井は、攻撃を防いだ瞬間に後ろへ跳んでいた。大きく距離を取った後、地面を蹴って再び凄まじい速度で空奏に迫る。受けるのは無理と判断して回避するも、思考に囚われたせいか今度はギリギリだった。籠手についた刃が空奏の腕をかすめる。バルドの注意が無ければ大きく裂かれていたに違いない。

 ルウがフェイントを入れながら動き回り、飛び掛かる。上手く避けられて咬み付かれる箇所を防具のある場所へ誘導されてしまっている。振り回した腕に投げ飛ばされ、空中で身を翻しながらうまく着地したルウに代わり今度は空奏が迫る。

 迫って来る時の速さはともかく、一度止まった時の熊井は空奏よりも動きが遅い。それでも防御を合わせてこれるのは幻獣の補佐によりものか。再び籠手によって阻まれた空奏はルウと同じように後ろに飛ばされる。同時に飛び退いた熊井が、空奏に体勢を立て直させないように迫って来るが、修司のサポートに救われて何とか間に合わせることができた。

 熊井には遠距離は無い。その後も続いた何度かの攻防の末、空奏はそう結論付けていた。低空を飛行して空奏たちの動きに合わせているバルド。二人が高速で動き回るため、頻度こそ少ないが的確に複製ナイフによる奇襲を行う修司。サポート役を潰しに行かないのがその証拠だ。

「(空奏、怪我は大丈夫か?)」

「(まだルウと同じで掠ってるだけ。動くのに支障は無いよ。ただ、あっちも一緒だろうけどな)」

 空奏とルウは何とか直撃は避けているものの、手足についた短い刃が着実に空奏たちの傷を増やしていく。

 熊井もまた細かな傷はあるものの、空奏たちは致命的な一撃を与えられずにいるのだった。

「(長引いてるおかげで異能の正体はわかった。あれは重さを増減しているんだ)」

「(重さ……。あいつが移動する時の速さはそのせいか)」

「(そう。攻撃にしても同じ。加速状態から急激に重さを増やして、慣性と全体重を乗せた腕をぶん回してる。だからあんなに力が出るんだ。だから大振りをするときは一度引く必要がある)」

 弾かれた時に感じた違和感の正体はこれだった。すぐ後ろに飛び退いているから感触が薄くなるのだと感じたのだが、それは違った。空奏の攻撃を敢えて防具で受け、それを利用して後ろに下がっていたのだ。

 単純な反応速度や地面を穿った時の拳の強さは、獣化によって幻獣の影響を受けて強化されたものだろう。

 しかし、種が分かったところで相手を上回ることができていないのは変わらない

 傍から見れば善戦しているであろうこの状況に空奏は危機感を抱いていた。

 おかしいのは熊井の態度だ。まだ何か隠している可能性が高い。

 時間が惜しいと熊井は言っていた。それは獣化していられる時間であるはずだ。だが彼に焦りは見えない。熊井が囮であり別の人物が彩那を確保しに動いていたとしても、琴絵がいる以上そう簡単には奪えないはず。時間は限られているのに、余裕すら感じられるあの落ち着き様はなんだ。

 例え獣化の持続時間が人並外れたものであったとしても、今の状態ではジリ貧のはずだ。空奏たちをどうにかしない限りは彩那の確保という目的は果たせない。

 そこまで考えてから空奏はハッとする。

「修司さん、琴絵と彩那ちゃん連れてすぐ支部まで行ってください!」

「は? お前急に何を」

「あいつの狙いは彩那ちゃんを連れて行くことじゃありません! 彩那ちゃんが目を覚ます前に早く!!」

 俺はいつから友魂同盟の目的が彩那を連れていくことだと勘違いしていた?

 彩那は今日の三人組はどこかに連れて行くつもりだったみたいだと言っていた。そして確かに藤は「あの女の子を渡せ」と言った。彼らの目的は彩那で間違いはなかったはずだ。

 だが、友魂同盟自体の目的は異能を覚醒させること。そして仲間を増やすこと。そのために時間をかけて彩那を追い詰めていたのではなかったか。

『最近、アニマの誕生は覚醒に伴う強い感情の発露が原因、っていう噂があるらしいんだけど、知ってる?』

 スターチスが言っていた話が脳裏をよぎる。自分がそうではないから、そんなことはないだろうと思っていた。しかし、ただの噂ではないとしたら。それが実例のあるものだとすれば。

『わたし、わたしの……せいで、誰かが辛い思い……するの嫌、だからぁ』

 いま、彩那にとって強い感情を引き起こすもの。それは、自責と後悔。今彩那が目を覚ますのはまずい。この場にはまだ幾つもの死体がある。そして血を流しながら苦戦している自分の姿を見てしまえば、あの死体もまた彩那のために戦ったものだと思ってしまう可能性がある。

 その勘違いをしなかったとしても、自分が起点となってこの戦いが起こっていることをあの子は理解するだろう。自分のせいであの人たちは傷ついた。そう考えてもおかしくはない。

 全てただの憶測。しかし、短い間でもあの少女と話した空奏にはその考えを否定することができなかった。

 通常の覚醒なら問題ないはずだ。しかし、爆発した感情で異能が暴走することになったら。どんな異能や幻獣が発現するかは誰にもわからない。それともまさか、熊井はそれを知っていると言うのだろうか。どちらにせよ、コントロールできない異能は、場合によっては周囲一帯に甚大な被害を及ぼしかねない。

「なんだ、やっぱり今日仕込んだぐらいの情報じゃあ思い込ませるのは限度があるか」

「ここまで騙せれば十分だろ。何が時間が惜しいだ。まるで獣化してでも彩那ちゃんを確保しに来たみたいに見せかけやがって。お前の狙いは、この状況を作り出してあの子の心に最後の負荷をかけることだな」

「ははっ。わかってるじゃねえか。だが惜しいな。及第点ってところだ」

「なんだと?」

「時間切れだ」

 瞬間、背筋に悪寒が走る。反射的に上に跳んだ。バルドが空奏の腕を捕まえ、別な方向に投げる。着地した際に痛みが走る。躱し損ねたわけではない。確かに拳は躱したが、風圧で左足に裂傷が刻まれていた。

「今ので仕留めるつもりだったんだが。まあ、その足じゃあ今までのようには動けないだろ」

「……まだ止まるわけにはいかないんでね」

 体重をかけると鋭い痛みが走る。深手ではないが、熊井の言うとおり先ほどまでの動きはできそうにない。

 再び動こうとした熊井が飛来した何かを避ける。修司のナイフではない。それは空奏と修司が倒した友魂同盟のメンバーが持っていた円盤だった。

 いつの間にか動き回り飛び道具を手に入れていたのだろう。円盤を複製し投げつける修司。だが、先のナイフのように防がれるのではなく熊井は回避していく。明らかに変わった熊井の動きに円盤やナイフ、他の道具類もその身体を捉えることができない。

「ぐっ!?」

 正面から距離を詰めた熊井が苦悶の声を上げる。動きを止めた熊井だが、裏拳で修司を殴り飛ばした。見れば、熊井の脇腹には槍が刺さっていた。各飛び道具類で攪乱していたのはこれを当てるため。一瞬の隙に腕でガードすることはできた。しかし地面を転がり、全身を打ち付けた修司はぐったりと弛緩して動かなくなった。

 修司は自分の身を犠牲にしてでも一手を報いた。ここで動けなくては彼に合わせる顔が無い。

 複製槍の消えた脇腹にルウが噛みつく。傷口に喰らい付かれた熊井がルウを掴み無理やり引き剥がして投げつけた。

 空奏は二人の作ってくれた機会を見逃さなかった。足の痛みは無視して身体の許す限りの速さで熊井に迫る。急降下したバルドが熊井の目を狙い、振り上げた拳に叩き落される。その一瞬が空奏に踏み込むだけの猶予をくれた。

 ルウと修司が開いてくれた傷口に向けて一閃。空奏の刀がその身を切り裂く。

「浅い!?」

 しかし、空奏の一撃を獣化という強大な力が阻む。想定よりも強靭なものと化していた肉体が想定よりも傷を浅くした。

 熊井は後ろに倒れそうになるのを堪えて空奏に向かって拳を振るった。不安定な態勢から繰り出された拳は本来の威力を無くしたが、空奏を吹き飛ばすには十分だった。

 空奏はルウの近くへと転がる。できるだけ離れていたのに、病院側へと寄ってしまった。

 懸命に立ち上がろうとするルウの姿に空奏も力を込めようとするが、思うようにいかない。いくつか骨が折れているのは確実だろう。

「獣化状態でここまで追い込まれたのは久しぶりだ。その礼と言ってはなんだが、一つ教えてやるよ。科戸空奏」

「冥途の、土産には……気が早いな」

「そう言うなよ。言っただろう、俺はお前とやれるのが楽しみだったと。お前の実力を知りたかったんだが、ガッカリだ。獣化もできないとはな」

「……」

「そして、お前の間違いを一つ訂正してやろう」

「……間違い、だと?」

「この状況、つまり戦闘風景だ。それを作って心に負荷をかけるのが目的だと、お前は言った。だが、それだけじゃない。負荷となる最後のピースは、お前だ。科戸空奏」

「俺が? 何を言って……」

 まさか、と空奏は思い至る。ここで自分の名前を出される一つの可能性。

 病院から抜け出した彩那を見つけたのは空奏と琴絵だが、話をして彼女と触れ合っていたのは空奏だ。今まで堪えていたであろう涙を流しながら空奏に話をしてくれた。

 そして病室。河原でそばにいるからと言った空奏に対し、彩那は「本当にいてくれた」と笑っていた。安心したように笑ってくれた。

 そこにあったのは、空奏に対する信頼。

 今まで逃げ続け、ようやく大丈夫だと思ったその矢先。熊井は目の前で空奏という安らぎを奪うことで彩那の心を折るつもりだった。

「空奏、さん?」

 琴絵のインカムを通して彩那の声が聞こえる。どうやら目を覚ましたようだ。

 熊井が待っていたのは、この瞬間。

 琴絵の腕に抱かれた彩那の様子に気づいたのだろう。目を覚ました彩那を目に留めた熊井はニヤリと笑う。そして焦らすようにしながら空奏の元へと近づいてきた。

「北野彩那。お前の覚醒のためにこの男には死んでもらう」

「やっ、やだ、空奏さん。わたし、やだぁ!!」

 叫び、腕から抜け出そうとする彩那を琴絵が必死で抑えている。

 琴絵は迷っていた。自分が彩那を守らなくてはならない。空奏と修司はやられたが死んではいない。今ここで背を向けて二人を見殺しにすることはできない。

 その時、インカムから騒々しい物音と共に音声が響いた。

「空奏さん、あと十秒稼いでください!」

 それは絶体絶命の状況に届いた逆転の産声。

「この声、モカか。琴絵……」

「でも、空奏くんたちが!」

「……何でもいい。俺の近くに物を実体化させろ」

「……え?」

 困惑する琴絵を置いてルウに声をかける。琴絵なら理解できなくともちゃんと遂行してくれるはずと信じて。

「(ルウ、力残ってるな。あれやるぞ)」

「(空奏、お前……。五秒、は無理だと思っていい。三秒以上は持たない)」

「(それでもいい。モカが来るまでに少しでも削る必要がある)」

「(……わかった)」

 ルウが姿を消し、空奏の中へと戻ってくる。それと同時に紙が飛んできて様々なものを空奏の近くに実体化させる。ただの机や岩、剣や盾など法則性もなく様々だ。選ぶ間もなく投げて寄越したのだろう。病院側に近づいていたことが幸いした。

 空奏は横に実体化した釘バッドを杖代わりにして立ち上がった。物騒な物まで実体化したものだと思いつつ、なぜそんなものを常備しているのかは考えないようにする。

 足を止めた熊井が辺りを見回して呆れたように肩をすくめる。

「何だこれは。焦って狙う余裕もないのか? ハウンドにも役立たずがいるんだな」

「いいや、優秀なサポーターだよ。いくぞ、ルウ。……3」

 揺らめくオーラを纏った空奏が目にも止まらぬ速さで熊井に肉薄する。

「まさか、お前獣化を!?」

「2」

 喉を狙った一撃は防がれた。しかし手足に限らず腹や脇、全身を切りつける。先ほどまで細かい傷しかつかなかった防具がみるみる削れていく。

「1。くそっ、届かないか!」

 いっそ倒しきれればと思ったが、決死の行動は止めを刺すには至らなかった。

 最後に熊井の巨体をを蹴りつけて空奏は後ろへ跳ぶ。さすがに遠くに飛ばすというわけにはいかなかったが、重量の増やしてある身体をよろめかせ、時間を稼ぐことはできた。

 着地の衝撃に身体を支えきれず、空奏は後ろへ転がって壁にぶつかる。

「どこにこんな力残ってやがった。まあそれも尽きたようだが」

「遅くなりましたぁ!!」

「なっ!?」

 車を飛び越えて一人の少女が現れる。少女は駆け抜けながら何かを投げるようにして腕を前に出した。すると、車や瓦礫、そして先ほど実体化された机や岩などの下から黒い何かが這い出して来る。

「捉えた!」

「チッ、なんだこれは!?」

 黒い何かは離れようとした熊井の足に絡みつき、他から這い出てきたものも同じように全身に纏わりついていく。力任せに振りほどいても再び拘束しようと蠢いているそれらを完全に引き剥がすことができない。度重なる空奏たちの攻撃がようやく目に見える効果を生んでいた。

 黒いそれらは影だった。どんどん増える影たちに熊井の身体は拘束されていく。

「くっそがぁ!!」

「拘束、完了!」

 黒い柱と化した熊井に動きは無い。ようやく獣化が解除されたかと思い、空奏は安堵の溜め息をついた。自分で倒すことはできなかったが、結果としてはまだマシな部類だろう。

 気を抜けば意識が飛びそうなのを我慢しながら空奏は近くに来たモカを見上げた。

「色々ナイスタイミング、モカ」

「空奏さんたちにチャンネル合わせたら、女の子の叫び声が拾えて。これは急がなきゃって」

「おかげで助かった。拘束強めてから浅木さんに連絡。修司さんの状態がまずいかもしれない」

「わかりました。すぐに警備と救急回します」

「頼む」

 ルウは眠りについているが、バルドはまだ実体化したまま気を失っている。

 できればバルドを回収したいところだが、先に向かわなければならないところがある。

 空奏は震える膝を叱咤して立ち上がった。


 よろめきながら立ち上がった空奏の姿を見て、彩那は胸が軋む様に痛むのを感じていた。

 たくさんの人が倒れている。金髪の男性と、幻獣と思われる鳥はモカと呼ばれた女性と結局名前を聞けていないお姉さんに助け起こされているが、他の人のことは気にしていない。つまり、あの倒れたままの人たちは自分を狙ってきた人たちなのだろう。

 あんなにたくさんの人が自分のことを狙っている。よくわからないが、自分の魂に用があるらしい。この場合の魂というのは彩那も知っている。イクシスやアニマと呼ばれる異能を持つ人間になるためのものだろう。

 空奏がこちらを見て微笑んだ。病室で見た笑顔と同じ、柔らかい笑みだった。

 ギシリ。

 再び胸が痛む。今度は音まで聞こえたような気がした。

 空奏は言ってくれた。そばにいるから、大丈夫だと。

 そしてそれをちゃんと守ってくれた。身を挺して、守ってくれた。

 でもいま、傷だらけの姿を見て思ってしまった。

 自分は、守られていいような存在なのだろうか、と。

 誰かが傷だらけになってまで守る必要のある人間なのだろうかと。

 病室を抜け出して橋まで行ったのは、つい考えてしまったからだった。

 隠していたことがバレた以上、誰かが傷つくことになる。

 でもそれは、彩那がいなくなれば傷つく人はいなくなるのだ。

 だったらいっそのこと、死んでしまった方がいいのではないか。

 途中から追ってきたいつもの人たちには悪いけど、目の前で飛び降りれば諦めてくれる。

 けれど、手すりに立っていた自分を抱きしめてくれた手は、温かかった。

 頭を撫でてくれた手も、背負ってくれた背中も、安心できる温もりに溢れていた。

 そこでまた、思ってしまったのだ。

 生きたい、と。

 でも今の空奏を見て、その想いは我が儘であると思った。

 大事な人にこんな怪我をさせて、命を落とす危険に会わせてまで、守られていいはずがない。

 だって自分には、その価値が無い。

 ギシリ。

 また、胸が痛む。

 自分が生きている限り誰かが苦しむことになるのなら、いっそ。

「わたしは、生きてちゃダメなんだ」




 彩那の元に向かわなくては。ゆっくりとだが彩那の方に歩いていた空奏は、思わず足を止めた。彩那が突然視線を落としたからだ。そして、空奏はその目から零れ落ちた涙が地面を濡らすのを見た。

 琴絵も彩那の様子がおかしいことに気づいたようだ。屈みこみ、下から顔を覗き込んでいる。空奏はできるだけ急いで彩那の元へと向かった。

 そして、声をかけようと思った時、彩那の呟きが聞こえた。


「わたしは、生きてちゃダメなんだ」


「……なに?」

 空奏の戸惑った声に呼応するようにして雷鳴が轟いた。琴絵がびくりとして上を見上げる。すると、今まで晴れていたはずの空が雲に覆われてきていた。

 急速に移り行く空を見上げ、通りの方からも異変に気付いた人々の戸惑う声が聞こえてくる。

「……彩那ちゃん? 彩那ちゃん!?」

 空奏が膝をついて彩那の肩を揺する。だが、虚ろな目をした彩那は反応がなく、聞き取れないほどの声量で何かを呟いている。

 ポツリ。空奏は鼻先に感じた冷気を拭う。それが雨粒であると理解する前に、降り出した雨は豪雨となって降り注ぎ始めた。

 バケツをひっくり返した、という表現が当てはまる様な凄まじい水量。突然の雨によってできた雨靄によって作業を行っていた警備員たちの姿が見えなくなる。

「空奏くん。……これは? 彩那ちゃんどうしちゃったの!?」

「まさか、本当に覚醒したっていうのか?」

 半信半疑だったそれがこのタイミングで現実化した。もし本当だとすれば早く彩那を安心させなければと思って歩いて来たのだが、間に合わなかったようだ。

「スターチスが言ってた噂ってこれのことだったのかな?」

「少なくとも、友魂同盟はこれのために動いていたことは確かだ。……ということは、どこかに彩那ちゃんの幻獣がいるはず」

 彩那が正気ではない以上、幻獣を倒してしまわなければこの豪雨は収まらないだろう。

 すぐ近くではなく、少し距離を置いて実体化されたか。周りを見渡してみてもそれらしき影は無い。遠くまで見渡せない今の状況では探すのにも支障がある。

 雨を降らす異能であれば、事態が膠着するだけだ。風が強いわけではないため、台風のような異能ではない。雷も雨雲に付随したものと考えていい。

 しかし、雨という要素が別なものに作用するのであれば急がなければいけない。もし雨の変質などで人体に有害な物質が振り撒かれるようなことになれば、空奏たちはもちろんこの一帯が地獄と化す。

「琴絵、今の状態で異能使えるか?」

「紙は外に出したら雨でふやけちゃって効果無くなると思う。何か描ける物があれば、地面使って異能自体は使えるよ」

「そうだよな。……どうするか」

 琴絵の異能は「描く」という工程が必要になる。描くためのものと場所があれば異能自体は使えるのだ。この雨では描いたものを維持するのが難しい。今すぐに何か、というわけにはいかない。

 空奏が思案していると、琴絵が何かを見つけたようで空奏の腕を引いた。

 よろめいた空奏の横を通って行ったのは、人一人呑み込めるような大きな水の玉。動きはあまり速くないが、水の中は渦巻いており、呑み込まれるのはまずい気がする。壁にぶつかって弾けたところを見ると、耐久力は高くないのか。衝撃を与えれば何とか凌げるかもしれない。

「空奏くん、動ける!?」

「……ちょっと厳しい。これはまず」

「な、ななな何ですかこれぇ。ふえぇ、空奏さん琴絵さんどこにいるんですかぁ!!」

「いっで。も、モカ。脇腹をえぐるのはやめろ」

 先ほどまでキビキビと動いていたはずだったモカの情けない声が聞こえた。声のした方に視線を向けようとすると、横から強い衝撃受けた。ただでさえ動くのが億劫な状態だ。靄の中から突然出てきた少女を受け止められる余裕は今の空奏には無い。為す術もなく倒れ込む。

 晴れていた時の状況を思い浮かべて空奏たちのいた方向へ走って来たのだろう。空奏たちの前に現れたモカはバルドを胸に抱きながら雨と涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。

 弱っていたとはいえ獣化していた熊井を拘束し、一人で適切な事後処理に当たっていた人物とは思えない気弱な姿だった。前線に出るようになってまだ間もないモカは精神的に脆い面がある。戦闘中は冷静でいられるものの、一区切りついて気持ちが切り替わっている状態で予想外のことが起きるとその反動からか子どもっぽくなってしまう。

 モカは影を操る異能を持つ。しかし、影にある程度の濃さが無ければ操ることができない。今のように陽も光も無い状態では影を使うことができないため、急な状況の変化に対する不安も強かったのだろう。

 空奏は周囲に風を巻き起こした。飛んでくる水鉄砲の軌道を逸らすぐらいはできるかもしれない。気休めにしかならないかもしれないと思っていたが、効果はあった。威力を削られた水球はサッカーボール程度の大きさになって空奏たちに迫る。元々動きは速くないため、少し身体を動かせばある程度は避けられるようになった。

「うう、良かったぁ。急に見えなくなるからいなくなっちゃったのかと思って。何ですかこれぇ。何か水鉄砲みたいなの飛んでくるし、私が何をしたって言うんですかぁ。お家帰っていいですか……」

「モカちゃんのせいじゃないよ。落ち着いて。まずは落ち着こう?」

 人間、自分よりも狼狽えている姿を見ると冷静になれるらしい。琴絵が涙目になりながらもモカを宥めている。琴絵も碌に紙が使えない状況のため、琴絵にも幾分覇気が見られない。

「あ、あと空奏さん。影が消えちゃって。たぶん、あの人」

「あっちも獣化が切れてる。この視界の中とはいえ、突っ込んでこないってことは逃げたと見ていい。元々仕留め損ねた俺が悪い。気にするな」

「……すみません」

 項垂れるモカに笑いかけ、今の状況をどうすればいいか考える。

 方法が一つあるにはあるが、この面子では手が足りない。

「科戸くん、取れますか?」

「真白さん?」

「病院を中心として付近一帯に雨雲が発生したのを確認しました。状況説明をお願いします」

「それが……」

 真白からの連絡に空奏が報告をする。友魂同盟の目的、熊井の拘束。そして彩那の暴走までを手短に話して伝えた。その間に琴絵は瓦礫を使って地面に四角い箱のようなものをいくつか描き、簡易的な壁を実体化させていた。一先ず、あの水鉄砲をやり過ごすことはできそうだ。

「暴走しているのは彩那ちゃん自身ではなく、幻獣の方と考えていいでしょう」

「そうですね。彩那ちゃんの方はさっきから反応が無い」

「獣化の反対。幻獣にその力の大部分を持って行かれているのではないかと。自我の抑制によって本来アニマが持つべき部分の力を幻獣が使っている」

「そんなことが可能なんですか?」

「普通は無理でしょう。科戸くんも試したことはないでしょうから、断定はできませんが。しかし、この大雨と柊さんも受けた水鉄砲。こんなに大きな力を幻獣一体で賄うことができるとは思えません」

「バルド一体で局地的な台風巻き起こすようなものですからね。さすがに難しいかと」

「ええ。科戸くんの獣化が無ければ不可能でしょう。あの大雨を一瞬でも晴らすのは」

 真白は言っているのだ。獣化して雨を晴らせと。

 空奏の考えていたことと同じだが、こちらからも確認しておかなければならないことがある。

「持って二秒。悪くて本当に一瞬です。俺に追撃はできませんよ?」

「わかっています。すぐに河地くんと鳴海さんが配置に着きます」

「海さんたちが。……わかりました。バルドと話しさせてください。すぐ終わります」

 一旦連絡を切る。河地海という男性は遠距離狙撃に長けている。幻獣の居所さえわかれば狙い違わず狙撃してくれるだろう。不意打ちであれば仕留めるのは容易いはずだ、

 モカが連れてきてくれたバルドは羽が傷ついてしまっていた。熊井に叩き落された衝撃によるものか、頭のあたりにも傷がついている。気を失っていたようだが、今は何とか意識を取り戻している。

 空奏は呻いているバルドを撫でてから自分の中に戻し、心の中で声をかける。

「(気分は?)」

「(……最悪だ。久々にあんなんもらったからな)」

「(さっきの話、聞いてたな):

「(ああ。空奏の状態を考えて獣化は二秒も持たねえだろう。……ルウも寝てんのか。お前ら無茶したな。そしてもう一回、無茶をする)」

「(前みたいにすんなりいかないのは俺のせいだ。無茶もするさ)」

「(……。全く、しょうがねえな。しっかり決めろよ)」

「(わかってるよ。結果見届けないうちに寝てもいいぞ)」

「(そうさせてもらうさ)」

 バルドが笑う気配がする。どうやらルウとの獣化を行ったことも気づいたようだ。心配しながらも陽気な態度を崩さないいつものバルドに空奏は安心した。

 後は、自分の仕事を果たさなくては。

「真白さん、いけます」

「二人も配置完了したそうです。科戸くんのタイミングで構いません」

「琴絵。悪いけど、この後はもう身体が動かなくなる。後は頼む」

「うん。任せて。モカちゃんもいるし、晴れれば何とでもなるよ」

 笑いながらグッと拳を突き出してくる琴絵。

 自らの拳を軽くコンと当て、空奏も笑みを返した。

「すぐに終わらせてくるから。もうちょっと待ってて」

 屈み、彩那に目線を合わせて言う。しかし、空奏を見る瞳は空虚なままだ。

 その表情からは何も読み取ることはできなかったが、空奏はニコリと笑ってふらつく足で外へ出た。

「いくぞ、バルド」

「(おうよ。たった数秒だが、かましてやれ!)」

 自らの内からバルドが嗤う。獣化で消耗するのは幻獣だけではない。アニマが負う負荷もまた、尋常なものではないのだ。そんな負荷など意に介さないとでも言うように、空奏は力の扉をこじ開けた。通常の人間ではありえない、その日二回目の獣化を果たす。

 空奏は獣化ができない、というわけではない。以前は熊井のように持続させることができていた。しかし、今は獣化するのがやっとだ。長くても一分は持たない。特に空奏自身も、ルウとバルドも傷だらけの今回。数秒でも持たせられるのは幻獣たちの頑張りのおかげだ。

 獣化した空奏はすぐさま周囲一帯に竜巻を巻き起こした。自身を目として巨大な竜巻が創り上げられる。

 すぐさま病院の壁に透明な幕が張られ、風によって窓が割れるのを防ぐ。鳴海の異能だ。

 この付近の建物に対して張られているであろうその幕は、一時的に衝撃を吸収してくれる。狙われた攻撃ならともかく、雨風の余波はあれが守ってくれるはずだ。

「っらぁ!!」

 空奏が吼えた。危機感を感じたのかあちこちから水の玉が飛んできたが、竜巻に当たって霧散していく。竜巻は呼応するように広がり、そして伸びていく。それが向かう先は、空。しかし雲に届く必要はない。空奏の仕事はあくまで広範囲の雨の排除。

 そして地上よりはるか上空に、そいつはいた。

「きつ、ね……?」

 力を使い果たし薄れゆく意識の中で空奏が見たのは、一体の狐の幻獣だった。

 幻獣はアニマの傍を大きく離れることはできない。それでも彩那からギリギリの距離を取っていた狐は、その居場所を見破られたことにより空奏に向かって動き出す。

「ごめんな。一旦、眠ってくれ」

 空奏の呟きが聞こえたわけではあるまい。しかし狐は空奏に向かう途中で河地によって撃ち抜かれた。

 正確に頭を穿ったそれは、いかに幻獣と言えど一撃で屠る力を持つ。

 淡い光とともに姿を消す狐の姿を見送り、限界を迎えた空奏もまた意識を手放した。

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