第2章

 日本全国に支部を持ち異能関連の事件事故を扱う異能事案管理局には、『ハウンド』と呼ばれる治安維持部隊が存在する。

 以前はハウンド屈指の実力者として全国の犯罪者たちを震え上がらせていた城ヶ崎(じょうがさき)真白(ましろ)は、自身の異能に身体を蝕まれて数年前に前線を引退。城ヶ崎グループという財閥の娘である彼女は自らの人脈と経験を生かし、現在では異例の若さで異能事案管理局東北支部のハウンド部隊統括を務めている。

 そして空奏はその真白を上司として仰ぐハウンドの一員だった。

 支部内にある第六号棟はハウンドのための施設となっている。一階にある事務室に来た空奏は、室内にある応対スペースに促されて昨晩の件について詳細の報告をしていた。他は全員出ているようだ。自分が遅めに来たとは言え、誰もいないのは珍しい。

「誰もいないのは珍しいですね。緊急な案件ですか?」

「それが、立て続けに異能者による事件と報告が入って、結局みんな出ることに。科戸くんの方も急ぎです。話を聞きましょう」

 報告を聞き終えた真白は「お茶にしましょうか」と言って自分と空奏の二人分を淹れる。

「あのスターチスが相手だとしても、科戸くんは相変わらず無茶なことをしますね」

 自らの異能による影響で身体の成長が止まってしまった真白は一見すると高校生ぐらいの少女にしか見えない。同じく異能の影響で変化したという銀髪と蒼い瞳が、整った容姿と相まってまるで人形のような可憐さ引き出している。

 ティーカップでも持っていた方が似合いそうな彼女だが、今日は緑茶の気分だったようだ。両手で湯飲みを持ちながらふうふうと息を吹きかける姿は、もうすぐ三十路を迎える女性にはとても見えない。

「何ですかその目は?」

「いえ、何でも」

 空奏と真白とは旧知の仲だ。空奏がハウンドとして働き始める前から真白には何かとお世話になっている。実際にハウンドに所属してからも先輩後輩として仕事に当たりながら経験を積ませてもらったのだった。

 良い先輩であり上司であり気心の知れた仲ではあるが、年齢のことを言うと身の安全は保障されないので頭に浮かんだことは黙っておくことにする。

「今更言っても聞かないでしょうけど一応言いますね。もう少し身の安全を図ってください」

「大丈夫だと思ったんですよ。実際怪我もなかったからいいってことで」

「そういう問題ではありません」

 反省する気配のない空奏に対し、真白は溜め息をついてソファに身を沈める。対して空奏はというと、お茶請けとして出してもらった羊羹にルウとバルドと共に舌鼓を打っていた。

 幻獣は食事をする必要はないのだが、空奏はこうして二体と共に分け合っている。お菓子の類を見れば勝手に出て来ては催促されるので、いつの間にか一緒に食べるのが当たり前になっていたのだった。

 羊羹を咀嚼し終えたルウが口元を汚しながら真面目な顔で真白に言う。

「この機に真白からしっかり言ってやってほしい。私たちの傷はどの程度であれいずれは治る。だがアニマである空奏の傷は通常の人間よりも治りが早いとはいえ、死んでしまえば終わりなのだ。空奏はそこがわかっていない」

「いや、俺だってわかってるって。でも多少危険を冒さないとダメな時だってあるだろ。昨日のはそれが続いただけだよ」

「私もどうにかしたいところではあるのですが、科戸くんのこれはもう性格です。それはあなたたちが一番わかっているでしょう。ルウくんとバルドくんでどうにかしてもらうしかありませんね。ただし、幻獣であるあなたたちが代わりとして傷を負って良い、とは私は思いません。なので……どうにか頑張ってください」

「俺たちが戦えなくなれば異能を使えなくなった空奏が無防備になるからな」

 器用に食べ終えたバルドが空奏を見つつ最後に釘を刺した。

 アニマはイクシスと違い幻獣と共に戦える、もしくは幻獣のみで戦えるというアドバンテージがある。しかし幻獣は同時に弱点でもある。

 幻獣も戦いによって傷を負う。傷がひどければ死に至ることもあるだろう。幻獣は生命力が尽きると回復するまでアニマの中で眠ることになる。昨晩、ゴリラやトカゲの幻獣が倒れた後に淡い光に包まれて姿を消したのは力尽きた証だったのだ。

 幻獣が実体化していなければ異能が使えないという特性上、戦闘中の幻獣の死はアニマである人間の死に繋がりかねない。

「それだけではありませんよ。あなたたちが傷つくことを科戸くんは望まない。例え一時でもあなたたちが死の眠りにつくことは精神的にも大きな負担になるでしょう。ね?」

 真白は空奏に向かって笑いかける。

 自らの魂と繋がっている二体のことは何よりも大切に思っている。

 しかしそれを改めて言われると気恥ずかしいものだ。

 空奏は「そうですね」とだけ言ってお茶を飲みほした。

「おう、大事にしろよ」

「私も知っているがな」

「……お前らうるさいぞ」

 ニヤニヤしてる二体を追い払うように手を振る。そして一つ咳払いしてからニコニコとこちらを見ている真白に向き直る。

 さっさと話を修正してしまって退散した方が良さそうだ。

「無茶なことしただけの甲斐はあったと思っているんですけど、どう思います?」

「人による事件の背後にソウルイーターが関与している可能性というのは、最近では疑う必要のないことだと思われていました。その視点を再度持たなければならないということが事前にわかったのは僥倖だと思います。これについては私から全体に周知することにしましょう」

「お願いします」

「最前線で事件に携わるのはあなたたちですから、科戸くんも注意してくださいね」

「はい。大丈夫です」

「注意、してくださいね?」

「……はい」

 柔らかな笑みを浮かべながらも目が笑っていない。

 ぎこちなく頷いた空奏を見て留飲を下げたのか、ふっと柔らかい笑みに戻って真白は頷いた。

 緊張から解放された空奏は、気になっていたことを訊いておくことにした。

「スターチスの言っていた、アニマの覚醒には強い感情の発露が伴うという話、真白さんは何か知っていますか?」

「初めて聞きましたね。ありえない、と一蹴してしまってもいいのですが、そうもいかないのが正直なところです」

「可能性はあるということですか?」

「否定ができないということです。覚醒について、実証実験は行われた記録があまりないのです。様々な要因から覚醒に伴う条件を分析しようとした研究はもちろんあります。しかし、発見できたのは八歳から十四歳程度の子どものうちでなければ異能は覚醒しないということだけでした。その他の条件については未だ未確定。それ以上は倫理的な観点からも凍結となった研究がいくつもあるので、もしかしたらありえるのかもしれません」

「そう、ですか」

 強い感情の発露、というのが怒りや哀しみの場合は被験者に対する負担が大きい。

 しかも対象となるのは子どもたちだ。研究が凍結となってもおかしくは無い。

 空奏の中で考えがまとまるのを待ってくれていた真白は、少ししてから「では、それについてはここまで」と区切り、話を移した。

「科戸くんが昨日保護した女の子ですが、過度な疲労ということで報告が来ています。すぐに退院できるそうですよ」

「そうですか、良かった。あの子は、その、お家の環境は」

「虐待とかではありませんよ。あの子は養護施設の子なんです。そこでも問題があるわけではないと。毎日のことではないですが、帰りが遅くなることはよくあったそうです。昨日のような時間まで帰ってこないということは初めてだったそうで、捜索願が出されていました。学校でいじめられてるのではないか、施設内でも気づけていないだけで何か起きているのではないか。施設の職員の方が心配していたようですが、今回のことでようやく何が起きていたのかハッキリしたという形ですね」

 口ごもる空奏の言わんとすることがわかったようで真白が説明をした。

 帰りが遅くなっていた原因は十中八九何者かに追われていたからだろう。その何者かが昨日空奏が捕まえた男とその仲間であり、報復を恐れて相談もできなかった、ということだろうか。しかし何故あの少女を狙うのか。

「あの男の方は何かわかったんですか?」

「彼の方は身に着けていたエンブレムから『友魂同盟』のメンバーであることが判明しました」

「聞き覚えがあります。その中高生が考えたような……」

「ダセェ名前だな」

 言うのを避けた空奏の配慮を無かったことにしてバルドがハッキリと言い放つ。

 気持ちはわかるが抑えてほしい。きっと本人たちは大真面目だろうし、これから自分たちがその言葉を口に出さなければならないことを考えるとあまり意識したくはない。

「バルドよ、本人たちの前ではダサいなどと言うなよ。逆上されると面倒だ。思っても言わないのが大人というものだ」

「そうだな、いくらダサくても格好いいと思って名乗ってるんだろうから、バカにしたら悪いよな」

 その会話がアウトだということをこの二体は気づいているのだろうか。

 空奏は『友魂同盟』の面々の前でこの会話が繰り返されないことを祈ることにして話の続きを促した。真白は気を取り直すように一つ咳払いをしてから続ける。

「あとはただ「魂を解放しろ」と言い続けているそうです」

「異能を持たない人の覚醒を促すもの、という主張でしたか」

「そうです。彼らの活動の際に現場に書き残されている言葉ですね。そうして覚醒した人を仲間に引き入れるようです。彼らはその主張とは別にイクシス、アニマが人類として優れた存在であるということも掲げています」

「優れた存在、ですが。その主張は理解できませんね。彼らのエンブレムは確か、熊の横顔を模したものでしたっけ?」

「そうですね。衣服につけていたり肌に刺青を入れているのがその証です。そして彼らは主に十代から二十代の若者で構成されているのが特徴です。もちろん例外はあるようですけどね。具体的な数は把握できていませんが、活動の頻度と内容からあまり規模は大きくないと見られています」

「未成年はちょっと面倒ですね」

「もちろん犯罪に手を染めている以上は、わかっていますね」

「当然」

 迷いなく空奏は答える。罪を犯すのはその人の勝手だ。勝手にしたらいい。しかし、どんな事情があれその一線を越える以上、それに対応するのが自分たちだ。

「さて、現状はこんなところですね。新しい情報が入れば都度伝えることになるでしょう。科戸くんたちは『友魂同盟』の現在の動きを探ってください。元々別の地域にいた彼らがこの辺りで活動を始めたのはここ最近のことですから、東北支部にはあまりデータがありません。判断がつかない以上、覚醒を促すというのは目的の一つでしかない可能性もあります」

「はい。今までの動きを調べるところから始めます。お茶と羊羹、ごちそうさまでした」

 空奏が立ち上がろうとした時、真白の机にある電話が鳴った。

 電話の内容を聞いているその表情が曇っていく。そしてすぐに話は終わり、真白は受話器を置いた。空奏に向き直って告げる。

「結論から言います。女の子が失踪しました」

「連れ去られたということですか?」

 少女の入院した病院には時に要人も運び込まれる。管理局所属のイクシスが警備を行っているため、侵入・ましてや患者の拉致は容易なことではない。

「いいえ。そうではありません。彼女は自分の意志で病院を出て行ったのが防犯カメラで確認されています」

「自分の意志で……」

「医師の問診に対する受け答えはしっかりしたものだったそうです。病室に戻り、しばらくベッドで安静にしているように言われた彼女には施設の職員が付き添っていました。しかし少し席を外したその隙に出て行ってしまった。現状、昨日何があったのかなど詳しい事情は聞けていません」

「女の子の行方を捜して事情を掴むこと。こちらを優先していいですね?」

「ええ。既に管理局の局員が捜索に動いています。オペレーラー陣にもそれらしき人物を追ってもらいますが、追跡能力でルウくんに勝る者はなかなかいないでしょう。『友魂同盟』の動きについては二の次で構いません。しかし、彼らにも何らかの動きがあるとみていいでしょう。気を付けてください」

「はい」

「ソウルイーターの件もあります。できればツーマンセルで動かしたいところですが」

「それぞれ自分の仕事に当たってるはずですから。無いものねだりしても仕方ありませんよ」

 空奏は立ち上がった。事は一刻を争う。あの少女が『友魂同盟』の手に落ちるようなことは絶対に避けなければならない。

 歩き出した空奏の耳が廊下を全力疾走している音を捉えた。

 思わず立ち止まった空奏が様子を窺っていると、勢いよく扉が開け放たれた。

「空奏くんが幼女を誘拐したと聞いて!!」

「帰れ」

 良い笑顔と共に開かれた扉を空奏が仏頂面で閉め返す。

 聞こえた悲鳴に我に返り、扉を開けた。すると廊下では顔面を強打された琴絵が顔を抑えながら蹲っている。反射的にやってしまったことを反省しつつ、空奏は琴絵の介抱に向かった。

「これはどっちもどっち、ですかねえ」

 後ろで真白が溜め息をついて我関せずと言うように扉を閉めようとした。直前で思い出したのか、未だ悶絶している琴絵に向かって言う。

「あ、鈴守さん。今日は科戸くんとペアでお願いしますね」

 そう言って真白は手を振り、今度こそ扉を閉めたのだった。




「女の子に対してあんまりだと思う」

「悪かったって」

 頬を膨らませた琴絵の機嫌は直る気配が見られない。

 事情を説明しながら支部を出たものの、琴絵は先ほどからこの調子だった。

「俺としても言いたいことがある」

「なんでしょう」

「お前、嬉々として俺が幼女を誘拐したとか言ってたよな。誤った情報だとわかってた上でからかうつもりだっただろう」

 スッと明後日の方向を見る。明らかなる確信犯である。

 無言で自分を見続ける空奏に何も言えなくなったらしい琴絵は、やがて観念したように空奏を見た。

 眩しいほどの笑顔を向けて朗らかに言う。

「じゃ、お仕事頑張ろうか!」

 からかうためだけに廊下を疾走してきた琴絵には悪いが、空奏もこれ以上時間を浪費するわけにはいかない。基本的には他人を気遣える優しい子なんだけどなあと遠い目をしてしまう。

 そんな想いは他所にお互いに手打ちとすることにして本格的に動き始めることにした。交渉役を装っていた昨日と違い、今日は初めからハウンドとしての仕事だ。

 ハウンドの装備は個人に合わせてそれぞれ作られている。デザインは軍服を基調としてあるものの、空奏は軽く動きやすいもの、琴絵はポケットなど収納が多くできるものなど、機能性は各異能に合わせて個々人の要望の元製作されている。インカムが標準装備となっているため、昨晩のように別端末を持つ必要もない。

「でもどうするの? 闇雲に探しても見つからないと思うけど」

「ルウが匂いで追えるからその心配はない。まずは病院に行って、匂いを覚えてもらう」

「あ、そうか。よし、行こう!」

 少女が搬送された管理局付属の病院はすぐ近くにある。受付で事情を説明し、少女のいた病室へ。

 情報漏洩を防ぐためか個室に入っていた少女の病室へ辿り着くと、中には一人の女性が沈痛な面持ちで椅子に座っていた。

「失礼します。異能事案管理局の科戸空奏と申します。失踪した女の子の捜索に必要な情報を得るために、少し入らせて頂きます」

 身分証である手帳を見せて中へ入らせてもらう。

 足元に現れたルウが早速匂いを覚えるためにベッドに近づいた。

 その間に空奏と琴絵は女性と改めて挨拶交わす。施設の職員だというその女性が零した「彩那ちゃん、どこに行っちゃったんだろう」という声に、少女の名前を聞いてくるのを忘れていたことに気づいた。

 ベッドの上にあるプレートを見ると、振り仮名と共に書いてある。

「北野(きたの)彩那(あやな)」

 心の中で名前を反芻し、字面共々忘れないように頭に刻む。名前を確認し忘れるほど焦っていた自分を叩いてやりたいところだが、今は我慢だ。

 空奏が自身を落ち着かせようとして密かに深呼吸をしていると、ルウが匂いを覚えたようで近づいて来た。そしてこちらを見て頷くと空奏の中に戻る。病院の中なので気を使ったのだろう。

「必ず見つけます」

 深々と頭を下げる女性に約束をし、空奏たちは病室を後にした。

 病院の外へ出ると再び実体化したルウの先導の元、彩那の匂いを辿って走り出す。

 琴絵はローラーのついた靴を描いて実体化し、それを履くことで強化された空奏の速さについてきている。

「相変わらず便利だなそれ」

「うん。でも人混みだとこの速さは出せないから、人気の少ないところ通ってくれてて助かった」

 彩那は人気を避けて逃げているようだ。ということは今現在もまた追われている可能性が高い。バルドが飛び上がり、空奏は琴絵に追い風を吹かせるようにして後押ししながら自身も速度を上げた。

「バランス崩すなよ!」

「大丈夫、琴絵ちゃんの体幹見せてあげるよ!」

 軽口を叩きながらも真剣な表情の琴絵と共に駆ける。

 彩那の行った方向には彼女が所属している施設があるはずだ。しかし近くまで来たものの施設には向かわず、そのまま通り過ぎている。人を撒くように何度も角を曲がっていることからも彼女が追われていることは確実。

 先ほど抑えたはずの焦りが再び這い上がって来る。空奏の焦りに呼応するかのように、ルウは速度を緩める素振りは無い。そのまま走り続け、やがて河原にやってきた。

 例年よりも遅い開花を迎えた桜の木が立ち並ぶ川沿いを走りながらルウが叫ぶ。

「あれだ、橋の上にいる!」

「誰か一緒にいるよ」

 橋の手すりの上に少女が立っているのが見える。昨日見た少女と同じ、彩那で間違いない。

 彼女は水面に背を向けており、琴絵の言う通り橋の上にいる誰かと話しているようだ。表情はまだ判別できないが、楽しく世間話というわけでもないだろう。背を向けている話し相手の顔は見えない。。こちらを見た少女の様子から、その人物が振り向いた。

 追い風を消して琴絵自身に調整を任せる。空奏は跳び、曲がる行程をカットして彩那と話している人物の近くまで躍り出る。少し遅れて琴絵が後ろに辿り着いた。

「……昨日のワンちゃん?」

 彩那がルウを見て驚いている。外傷は見受けられないが、顔色が悪い。まだ逃げ回るような体力は回復していないのだ。掴まる場所もない橋の上に立っている彼女はいつバランスを崩してもおかしくはない。

「チッ、ハウンドか」

「そう言うそっちは友魂同盟のメンバーだな。小さい女の子追い回して何企んでる」

「異能を目覚めさせるんだよ。国の犬のくせにそんなことも知らないのか」

「本気だったのか。何かの冗談かと思ってたよ。友魂同盟に関わるのは今回が初めてなんだ。悪いな」

 国の犬。ハウンドを揶揄して言われるその単語に空奏は苦笑する。わざわざ蔑称を使うということは、意識はしてくれているようだ。

 ともかく、今の状態では彩那とこの男の距離が近すぎる。なんとかこちらに近づけるか、意識を逸らしている間に保護を優先させたい。しかし下手に彩那の感覚を刺激してバランスを崩すことになるのは避けなければならなかった。

 バルドは既に上空で待機しているが、彩那を先に逃がす手を取れるかどうかは判断しかねるところだ。バルドの足に掴まれば河原まで運ぶことはできるだろう。しかし彼女がほぼ初対面である自分たちを信用してくれているとは限らない。

「てめぇ、俺らのことバカにしてんのか?」

「いや。それならそれで俺らの仕事仲間も増えるかもしれないからな。手が足りなくて困ってるんだよ」

「……その茶化したような態度。お前、科戸とかいうやつだな。その犬の他にもう一体幻獣がいるはずだ」

 どうやら空奏のことを知っているようだ。これでは昨日のようなバルドの奇襲は難しいだろう。今のところ彼がイクシスかアニマかすら判明していない。先んじて動こうにも彩那に手が届く位置にいられるとさすがに手が出せなかった。

「嫌な覚えられ方してるな」

「日頃の行いだろう。この機に改めるといいのではないか。それにしても先ほどから犬呼ばわり。私は犬ではなく狼だ!」

「大丈夫。ルウは狼って私知ってるよ。かっこいいよ!」

 琴絵が後ろから謎の声援を送っている。そしてルウを覗き込むようにステップしながら男に向かって一枚の紙を投げた。同時に空奏が橋の手すりに飛び乗り彩那に向かって走る。

「爆弾!」

「なっ!」

 琴絵の言葉を聞いて慌てて払おうとした男の前で紙から現れた爆弾が破裂。周囲に白い煙を撒き散らす。当然空奏にも彩那の姿が確認できなくなるが、この先にいることはわかっている。

「させるわけ、ってぇ!!」

 琴絵が投げたナイフが吸い込まれるように男に刺さる。特製の物を使っているとはいえ紙という風に煽られやすいものを飛ばす琴絵にとって、ナイフのような重さのあるものであれば尚のこと、その命中精度はハウンドの中でもトップクラスに値する。

 男が怯んでいる隙に彩那を抱いて煙幕から脱した空奏はそのまま端まで後退した。

 すぐに煙幕が消え、腕に怪我をした男が憤怒の形相で琴絵を睨んでいる。

「やってくれるじゃねえか、ババア!!」

「……ババア?」

 あ、こいつ死んだな。空奏とルウは同時にそう思った。上空から新手が来ないか見張っているバルドはゲラゲラと笑っている。

 男としては煽り文句のつもりだったのかもしれない。しかし、女性にとっての禁句を口にした彼にこの先起こる出来事を想像して空奏は男の顔から視線を逸らす。

 煙幕が晴れるのを大人しく待っていた時点であの付近は琴絵の領域だ。この先起こり得る惨状を小学生に見せるのは忍びない。空奏はそっとその場を離れることにした。

 少し歩いた先で河原に備え付けられていたベンチに彩那を降ろし、自分も座る。

 もちろん川、もとい橋の方に背を向けて。

 不安そうな彩那に少し待ってようかと笑いかけると、空奏はルウと共に琴絵を待つことにした。


「そこどきやがれ。女でも容赦しねえぞ!」

「どかないよ。ついでに向こうから来るもう二人もまとめてかかっておいでよ」

 琴絵は新しい紙に何かを描きながら答える。橋の反対側から来ている男女二人は増援だろう。

 新手を見つけて高度を下げていたバルドは琴絵の傍へやって来ていた。手すりに降り立ち琴絵を見ている。動く気配のないバルドを見て琴絵は首を傾げた。

「余裕面しやがって。後悔させてやるよ!」

「うるさいなあ。バルドさ、空奏くんのとこ行かなくていいの?」

「ん? 一人じゃ寂しいかと思ってな。お邪魔だったかい?」

「そんなことないよ。バルドは優しいね」

「しばらくこっちに向かってくるやつは居なさそうだ。思いっきりやっていいぞ」

「無視してんじゃ、ねえ!」

 男が自分の腕に刺さった琴絵のナイフを投げ返す。するとナイフは琴絵に辿り着く前に消失してしまった。出現させるのが自在ならばそれを消すのもまた琴絵次第だ。男は舌打ちをして自らの両腕に電気を纏わせ、琴絵に向かって足を踏み出す。力を乗せた一撃は仮に防いだとしてもその電気で相手を行動不能にする。もし当たれば琴絵の細い身体など軽く吹き飛ばしてしまうだろう。

 だが、その拳は届くどころか振るうことすら叶わなかった。踏み出した場所に出現したトラバサミによって男の足は拘束され、バランスを崩して前のめりになったところに橋の手すりから丸太が飛び出してその顔面を横から殴打する。倒れた先にあったのは粘着性のある捕縛用の板。仰向けに囚われた男に向かって琴絵は一枚の紙を投げる。男の上で実体化したそれは大きな岩石。嫌な音がして男が潰され、すぐに岩は消えた。圧死は免れた男の横に立った琴絵の両手にはアニメで使われるような大きなピンク色のハンマー。

「ま、待て。待ってくれ」

「年を取るとどうも気が短くなっちゃって。ババア困っちゃう」

 無表情で言い放った琴絵は男の額に向かってハンマーを振り下ろす。

 見ていたバルドが思わず羽で目を覆ったが、軽量に作られていたそれは男の頭蓋をかち割ることなく、昏倒させるに留まったようだ。

「相変わらず鮮やかな手際だな」

「ここまで嵌ることは滅多にないよ。紙を無駄にしちゃうことが多いから、城ヶ崎さんから消費しすぎだって怒られてるんだよねー」

「あっちはどうするんだ?」

 橋の中ほどまで来ていた二人は、男がやられたのを見て足踏みしているようだ。足元にある紙にトラップが仕掛けられていると思っているらしく、女の方が氷の礫を無造作に飛ばして確認をした後こちらに向かってきた。男の方は手にしたビー玉を投げた。ビー玉は空中で杭のようなものに変化して琴絵に襲い掛かる。

 琴絵は胸元のポケットから紙を取り出し、投げる。するとそこから大きな盾が出現した。攻撃は防いだものの前が見えなくなっていることを勝機と見た二人は両サイドから同時に盾を迂回してそれぞれ氷とガラスの杭を飛ばす。足元から足場と投石器のようなものを実体化させた琴絵は攻撃を躱すと同時に投石器に繋がれた鎖を二人に向かって放った。先端に重石のついた鎖は二人の片手に絡みつき束縛する。

「ドーン」

 琴絵の気の抜けた声と共に射出された二人は上空に引き上げられた後、ピンと張られた鎖によって弧を描いて橋に叩きつけられた。打ち所が悪ければ死んでいたであろうその衝撃は橋に出現していたマットによって緩和された。鎖は消え、何とか起き上がろうとする二人の前に、悪魔が降り立つ。

 再びハンマーを手にした琴絵がそれぞれの身体を殴打する。衝撃によって気を失ったのを確認してから琴絵はロープを実体化させて拘束した。

「終わりっ!」

「女性を怒らせるのは怖いよなぁ」

 笑顔で振り返った琴絵にバルドがしみじみと言った。

 初めの男と戦う前に描いていたのはあの投石器を模したものだろう。速筆にもほどがある。

 バルドは改めて琴絵の技量に驚嘆を覚えていた。橋にばら撒かれた紙類を見て尋ねる。

「全部何かしら描いてあるのか?」

「ううん、大体はただの紙。描いてあるのは近くにあるやつだけだよ。さすがに処理しきれないもの」

「なるほど。さて、真白に怒られないように回収しないとな」

「巻き上げてくれると嬉しいな」

「いいぜ。いいもの見せてもらった礼だ、ここで待ってな」

 バルドが風で巻き上げ琴絵の元まで誘導する。回収しているうちに空奏から連絡を受けた別動隊が気絶している三人を連行しに来た。

 琴絵は自分の異能で作られたロープを消し、改めて捕縛をお願いする。琴絵の異能で作られたものはしばらくすると消えてしまうため、そのまま連れて行ってもらうわけにはいかないのだ。

「じゃあ空奏くんのところ行こっか」

「おう」



「終わったようだな」

 人間が宙を舞うのを見て唖然としていたルウは、バルドと琴絵が何やらやっているのを見て空奏に言う。自己紹介をした後、彩那に体調を心配して寒くないかなどを尋ねていた空奏はその声に振り返った。

「回収も来てくれたみたいだし、病院に戻るか。それにしても、二十二の琴絵に向かってババアとは。あいつの基準だと俺も爺さんだな」

「ハウンドの人間ということは自分より上、と思ったのだろう。しん……やりすぎていないと良いのだが」

 彩那の手前、下手に刺激することになってはいけないとルウは言葉を選んだ。

 立ち上がった空奏を見上げてルウが言う。

「すぐに琴絵もやってくる。ここでは少し寒い。早めに移動した方がその子のためだろう」

「そうだな。彩那ちゃん、背中に乗りな」

 彩那は裸足だった。靴下は履いているが、それもすでにボロボロだ。

 むしろよくここまで走り続けたと思える状態だった。

「あ、あの……わたし……」

 不安げに揺れる瞳で何か言おうとしている彩那。膝の上で握られた拳は小さく震え、何も言わずに視線を落とす。

 空奏は膝をついて目線を合わせ、できるだけ柔らかい声音で尋ねる。

「ゆっくりでいい。思ってること、話してみてくれる?」

「……わたし……前から、変な人たちに追いかけられて……魂が、なんとかって……」

「うん」

「誰かに言っても……友達も怪我して……火事とか、わたしのせいで……」

「うん」

「だから……空奏さんたちも……わたし……」

「うん」

「……わた、し……」

 言葉を紡ぐことができなくなった彩那はパクパクと口を動かすも、その先が声にならない。

 彩那の様子を見て、空奏はそっとその頭に手を乗せる。

「周りを巻き込まないようにって思ったんだな」

「……うん」

「近くで事件が起こると自分のせいだって」

「……うん」

「近くにいる人たちも傷つけられてしまうからって」

「……うん」

「俺たちにも傷付いてほしくないって、思ってくれてるんだな」

「……うん」

「気づいてあげられなくて、ごめんな」

 顔を上げると、真剣な表情の空奏がいる。彩那は何を言われたのか理解できないという顔でぎこちなく首を横に振る。

 自分が狙われているのが悪い。早く目覚めないのが悪い。助けてほしいと頼った人たちは傷付けられた。誰かに頼れば、その人を傷つけて覚醒させようとする。だから、誰かが傷ついてしまうのは自分のせいで、それも含めて隠していたのは自分なのに。

 何故この人はこんなにも悲しそうに笑っているのだろう。

「今まで、よく一人で頑張ったな」

「……っぅ!! わたし、わたしの……せいで、誰かが辛い思い……するの嫌、だからぁ」

 抑え込んでいた涙が堰を切って溢れ出す。

 優しく頭を撫でてくれる手が温かかった。一人で頑張らなくていいのだと言ってくれている。大丈夫だからと言ってくれている。こんな自分を受け入れてくれているということに彩那は胸がいっぱいになっていた。

「大丈夫。俺たちがそばにいるから」

 それから空奏は黙って頭を撫で続けていた。まだ彩那が抱えている全てを理解できているわけではない。彼女に何が起きていたのかを知り、解決するまでは彼女の不安を拭うことはできない。

 空奏の口を突いて出た謝罪の言葉。その言葉を聞いた時の彼女の様子を見て確信した。この子は自分が悪いと思い込んでいる。その責任は自分にあるのだと自身を責め続けている。まだ守られて然るべき年齢の子が、誰かが傷つくのは嫌だと言って自身の身を切って耐えている。それらが空奏にはたまらなく悲しかった。

 身勝手な感情移入であることはわかっている。仕事に私情を持ち込むべきではないこともわかっている。それでも空奏は、この子が心から笑える居場所を作りたい、心からそう思った。



「空奏くんが女の子泣かせてる!!って言おうとしたけどそういう空気じゃなかった」

 落ち着いてきた彩那を背に乗せ、何やら様子を窺っていた琴絵と合流する。

 失礼なことを嘆く琴絵にチョップをかましてから歩き出す。

 救急車両が入りやすい場所で合流する予定だ。

 疲れがたまっていた彩那はすぐに空奏の背中で寝てしまったようで、琴絵が様子を見ながら可愛い可愛いとはしゃいでいる。

「でもいいなあ空奏くん。彩那ちゃんと仲良くなれそうで」

「なんだ、自分は仲良くなる自信ないのか?」

「そうじゃないけど、一番を持って行かれたというか。何というか」

「……生まれたての雛じゃないんだぞ?」

「わかってるけどさー。実際活躍したの私だしさー」

 よくわからない理由でむくれている彩那に空奏が困惑していると、背中で身じろぎをする気配がした。どうやら起こしてしまったらしい。きょろきょろと辺りを見渡した彩那はぼんやりとした頭で状況を思い出した後、琴絵の姿に目を止める。

「あ、お姉ちゃん」

「お、お姉ちゃん!?」

「お姉ちゃん怪我してない? 大丈夫だった?」

「だだだ大丈夫だよ! 彩那ちゃんが無事で良かったよ!!」

「良かったー」

 ふわりと笑う彩那になぜか琴絵が慌てている。空奏からもう少し寝てなと声をかけられると、彩那は頷いて身を委ねた。

「お姉ちゃん。お姉ちゃんかー。えへへ、ありがとうって言われちゃったー。ねえバルド、さっきの私かっこよかったかな。彩那ちゃんにかっこいいお姉ちゃんって思ってもらえるかな!?」

「か、格好よかった。格好よかったから手を放してくれ。息がとまっ。お、落ちる。文字通り落ちちまう!!」

「耐えろバルド。私に矛先が向くのは嫌だ」

 しれっとルウが保身に走る。バルドが空奏の中に戻れば当然話し相手はルウになる。戦闘を見守っていたはずのバルドには災難だが、今の琴絵を相手にするのは面倒そうだ。

 興奮のあまりバルドを締め上げている琴絵に空奏とルウが残念なものを見る目を向ける。戦闘中に関しては真面目なのに、どうしてスイッチが切り替わった途端こうなるのだろう。

 その明るさが琴絵らしいとも言えるが、まだ道中であり警戒を解いていい段階ではない。

 そう思っていると、異能事案管理局の救急車両がやってきた。彩那の処置は専門に任せることにして共に車へと乗り込む。

「しばらく無理……。あとは頼んだ」

 そう言い残してバルドは空奏の中へ。余程ひどい目にあったのだろう。そして警戒態勢を解いたことでルウもまた姿を消す。

 興奮状態は収まったようだが未だ夢心地の琴絵は放置することにして、空奏は次に取るべき行動について思いを巡らせていた。

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