第1章
今から一カ月ほど前、1つのビルで火災があった。出火元は十階建てビルの八階。給湯室に置いてあった電子機器類付近が最も焼け焦げている形跡が確認された。これにより、出火の原因は給湯室であると結論付けられることとなった。
幸いにも火の手は大きく広がらなかったため、被害の少なかった階に入っている会社や営業所は既に通常営業を開始している。
「よし、手筈通りいくぞ」
青みがかった瞳を開けた空奏は通信端末をポケットに入れ、腕に乗っていた鷲にそう声をかける。すると鷲は空奏の顔を見て、廊下の窓から空へ飛び立っていった。
時刻は午後八時を回ったところ。ビルの中で仕事中だった方々の退避が完了したのを確認後、空奏は八階へと向かっていた。
猛る炎が人々を脅かした跡が生々しく残る廊下を通り抜け、一つの部屋の前へと辿り着く。火事の際に壊されたのか、はたまた先客が扉を壊したのか。オフィスに続くはずの扉は見る影もなく、そこから見えるオフィスの中はガラスの無くなった窓から遠くの景色までよく見える。四月も中旬となった今でも夜風はまだ冷たい。
吹き込んだ風に首をすくめ、空奏はドアの代わりに壁をノックする。
「こんばんは。高橋さん」
空奏はこちらに背を向けて窓際に立つ男に向かって声をかけた。
高橋と呼ばれた男は振り返り、警戒と緊張を伴いながら持っていた小銃を横にいる少女に向けた。空奏は両手を上げて武器等を持っていないことを示しながら中に入る。
まじまじと空奏と見た後、高橋は問いかける。
「お前が交渉人か?」
「そうですよ。私は異能事案管理局の科戸空奏。そしてこちらがルウ。私の相棒です」
「狼……ということは、お前アニマか」
空奏の足元には艶やかな灰色の毛を持つ狼がいた。一見悠然とたたずんでいるように見えるが、高橋が空奏のことを知らなかったことに少し安堵しているのがわかる。心の中で思わず苦笑しながら、空奏は自分の仕事に専念することにする。
この世界には三種類の人間がいる。一つは何らかの異能に目覚めた人間。三百年ほど前からその存在が明るみになり、人の域を超えたものとして「イクシス」と呼ばれている。
二つ目は「アニマ」。イクシスの存在と共に確認され、幻獣と呼ばれる異能を使う動物のような姿をした存在を従えている。また自身も幻獣と同じ異能を発揮する人間のことを指す。アニマは幻獣と異能を分け合っているため、同じような異能でもイクシスよりも最大出力が弱いとされている。
そして三つ目に異能などは持ち合わせない人々であり、一般人と呼称されることが多い。
世界はこの三種類の分類で成り立っている。
アニマである空奏は「異能事案管理局」という国の機関に所属している。イクシス、そしてアニマをまとめて「異能者」と呼び、異能者による事件・事故の類を調査解決するのがこの機関の仕事である。
今回の空奏の仕事は、人質を取って立て籠もっている人物から人質を無事に救い出すこと。
犯人は身代金と逃走用の車、自らが所属していた会社の社長の自害を求めているため、空奏は交渉人として出てきていたのだった。
「通常の異能持ちが来てしまっては戦闘ありき、敵意があることを示すようなものなので。こちらの目的はあくまでも交渉。人質を無事返してもらえればいいわけです。なので幻獣がいなければ何もできない自分が適任なのですよ」
「ふん。まあ武器の類は持っていないようだし、交渉の意志があるのはわかった。わざわざそういうことを言うってことは、当然その幻獣はしまってくれるんだろうな?」
「もちろん」
空奏の呼びかけに答えてルウが虚空へ消える。異能は魂の具現化とされている。異能の一つの形であり、人間の魂より生まれた幻獣はその人間の魂に出入りすることができるため、実体化を解くことでその姿を消すことができる。しかし、自身のみで異能を発揮するイクシスと違い、アニマは幻獣が実体化している状態でなければその異能を使うことができない。
ルウが消えたのを見て脅威が消えたことに安堵する高橋。空奏から視線を外さないようにしながら少し下がり、座らせて手足を拘束していた人質の少女の口を解放した。
「理奈さん、怪我はありませんか?」
人質が喋れるようになったのを確認して空奏が尋ねる。
理奈と呼ばれた少女は突きつけられた小銃の銃口に恐怖に怯えながらも空奏に向かって大丈夫ですと小さく返す。
その様子を見て空奏は胸をなでおろした。人質として少女を攫っている以上はその扱いは酷いものにはならないと思ってはいても、こうして無事を確認できたのは重要なことである。
「何よりです。あなたを無事にご両親の元に届けられるようにしますので、安心してください。私も高橋さんも、あなたを傷つけるつもりはありませんから、もう少しだけ辛抱してくださいね。ただ、集中したいので何があっても声を出さないようにお願いします」
人差し指を口に当ててニコリと笑う空奏に向かってコクコクと頷く少女。
高橋が再び少女の口をテープで塞ぎ、空奏に銃口を向け直す。
「さて、じゃあそろそろ始めようか。俺の要求はわかってんだろ。それを覆すつもりはねえ。今すぐあのゴミ社長をここに連れてくるんだな」
「まあ落ち着いて。一応改めて確認させてもらってもいいですかね。人質解放に必要なのはあなたの勤めていた会社のゴミ…じゃなかった。社長の謝罪と自害。そして身代金と逃走用の車、と。これで合ってますね?」
「そうだ。そしたらこの社長の娘は返してやるよ。俺はあいつとは違う。約束は必ず守る」
「その社長の件なんですけど。何があったか教えてくれませんか? あなたがここまでの行動を取るからには相当な事情があるはず。その詳細がわかれば何か力になれることがあるかもしれません」
「はは。恩赦ってやつかい? 悪いが、俺はもう引き返せないことわかってんだ。情を引くつもりはない」
「そういうつもりはありませんよ。ただ、私はアニマとして時に人から差別や迫害を受けることもある身です。特にこういう仕事に就いていますから、そういう機会もまあ、あるんですよ。だから高橋さんがそういう経験の上で今回のことに至ったのであれば気持ちはわかるところですし、そもそも社長さん側に法を犯している部分があるのならば私たちはそれを把握するべきです。異能事案管理局は、その能力を持って罪を犯した人を制裁するための組織ではない。人でありながら人ならざる力を持ったことによる弊害を取り除く。その環境作りもまた私たちの仕事ですから」
俺は管轄外だけど、ボソリと呟く空奏に対してルウが真面目にやれと釘を刺す声が脳内に響く。
高橋の視線が泳いだのを見た空奏はもう少しだなと感じて一歩前に踏み出す。
「私は、高橋さんは義理堅く真面目な人ではないかと思うんです。あなたは最初の要求以降この場所に立て籠っていますが、理奈さんを誘拐したときから持っているその小銃は一度も使っていませんね。威嚇用に銃口は向けているようですが、発砲は今のところ確認されていません。銃や異能を使う人間を相手に逃げ回りながら、理奈さんには傷1つない状態。自分だけでなく理奈さんのことも守っていたという証です。あなたの跳ね返すという能力の特性上、警察や管理局の人間に死傷者は出ていますが、それも意図的にやったとは言い難い。できるだけ被害がでないようにしていたのではないかと思うのですが、違いますか?」
「……少ない情報で随分買ってくれるじゃねえの」
高橋は呆れたように溜め息をつく。銃口は空奏に向けたまま、けれどその雰囲気には少しだけ変化があった。改めて空奏を見る高橋の目には警戒を灯しながらも、好奇の光が宿っていた。
高橋は空奏の姿をよく見るために数歩前に出る。交渉役として出てきながら交渉する気が無さそうなこの男がどんな人間なのかに興味を持ったのだ。
長々と相手に対する情報分析を垂れ流して何がしたいのか。少なくとも高橋という人物を知ろうとしていることは確かだ。今現在罪を犯している男のことを知りたいとするその姿勢に心が動かされた。この件が終わる頃には必ず死ぬことになると覚悟していたからこそだろうか、最後に少しだけ自分語りを聞いてくれる人がいるのなら、それも悪くないと思った。
「あんたも俺のこと多少調べてから来てはいるんだろうけど、さ。こんな時だがまあ、ちょっと聞いてくれるか?」
「ええ。聞かせてください」
空奏はふわりと笑んだ。暗がりの中でも空奏が笑ったのが見えたのだろう。高橋はとんでもないやつが来たものだと小さく笑った。そして高橋は話し始める。
「俺の妻は、あいつに殺されたんだよ」
入った。沈痛な面持ちで語り始めた高橋を見て空奏は心の中で合図を出す。
「殺された? 社長にですか?」
「ああ。あれはもう一か月前のことだ」
高橋夫人は飲酒運転をしていた車に撥ねられて病院に搬送された。飲酒運転をしていたのは高橋の勤める会社のの社長であり、社長はすぐに隠蔽工作を始めた。関係各所の人間を買収し、自らの減刑に努めるとともに、高橋夫人がイクシスであるという情報を捏造。夫の待遇に不満を抱いていた高橋夫人が恐喝を行うために移動中の社長を狙い、事故を起こさせたという筋書きに置き換えることにした。イクシスの異能による一般人への攻撃は厳禁とされており、その罪は重い。夫人は事故の怪我の影響で亡くなってしまったため、社長は更に多くの人脈を使うことで自らは被害者であるという立場を確立。本来は冤罪である夫人の罪を夫である高橋にも向け、解雇するとともに裁判に持ち込まない条件で厳しい損害賠償を請求してきたという。
言葉に熱を帯びてきた高橋の話が続く中、先ほど空奏の腕から離れた大きな鷲が音もなく窓辺に降り立つ。
鷲は少女の姿を認めると、後ろ手に縛られた少女の縄を足で掴み、重さなど感じさせないような軽やかさで少女の身体を持ち上げた。
斜め後ろで行われている静かな犯行に高橋はまだ気づかない。自らの憎しみを奮い立たせるようにして、思いの丈を空奏にぶつける。
「何も悪くない妻が殺され、あまつさえ悪者に仕立て上げられる。そんなことがまかり通っていいわけがないんだ! 俺と違って何の異能も持っていない一般人である妻が、近所の人たちからも『異能に頼って人を殺そうとした傲った人間』として噂されている。穏やかで気遣いのできる、よくできた人だと評判だった妻が今や、裏では酷かったと評される悪女だ。あいつは、妻を殺すだけじゃ飽き足らず、その名誉も尊厳も貶めたゴミ野郎だ! だから、だから俺は…」
驚いて空奏を見る少女に一瞥やり、高橋に視線を戻す。鷲が少女を連れ飛び去ったのを確認して空奏は溜め息にも似た安堵の息を零した。
空奏の纏う張りつめた空気が変わったのを感じたのか、高橋は怪訝そうな顔をする。
そしてハッとして後ろを振り向く。そこにいるはずの少女は見る影もなく、高橋は動揺を隠しきれないまま空奏を見やる。
「……どうやって」
「透明人間とかじゃないですかね?」
「戯言を。……人間が音も出さずに連れ去るのは無理だ。幻獣だとしても、異能もなく高校生一人持ったままビルの外に移動できるほどの力は無いはず」
「決めつけは良くないと思うね。そういう能力を持ってるやつがいてもおかしくはない」
「仮にそうだとして、何の通信機器も装備していないお前とタイミングを計ることなどできない。レコーダーか何か隠し持っているとしても、都合よく俺の気が逸れているところを狙うことは不可能だ」
「……計画が狂ったところだってのに随分冷静じゃないか」
「そういうお前は猫かぶりは終わりか? 年上を敬う姿勢ぐらい崩さないで見せておいてもらいたかったものだけどな」
「ただ年上ってだけで人を敬えるほど素直な性格はしてないんでね。取り乱したりしないところはすごいと思うけど」
言い終わるか終わらないかのところで小銃が火を噴く。
空奏はとっさに横に飛び、打ち捨てられたロッカーの残骸に身を隠す。しばらく鳴り続けた銃声は止まり、やがて沈黙が訪れた。
「さすがに撃ってくるよな」
「呑気に会話なんてしているからだ。人質は無事救出したのだからさっさと終わらせるぞ。だいたい空奏、今のはギリギリ間に合ったから良かったもののもう少しで」
「説教はあとで聞くから」
いつの間にか実体化していたルウが苦言を呈するも、空奏ははいはいと受け流す。
ルウの異能は身体の強化。常人のそれとは一線を隔すレベルに引き上げることにより空奏は蜂の巣になる前に回避行動に移ることができたのだった。
「なあ高橋さん。大人しく投降する気ないかな」
「俺はまだ終われない。あのゴミを片付けるまでは止まるわけにはいかないんだ! 俺が全て跳ね返すことは知ってるだろ。お前こそ自分の力で死にたくなかったら、とっとと逃げ出すことだな!」
ロッカーの陰から飛び出した空奏を狙って高橋が銃弾を放つ。反対側から走り出たルウに腰に挿していた拳銃で牽制しつつ、正面にある机の陰に入った空奏から距離を取るようにして高橋は部屋の角へ移動する。退路は遠ざかるが、二方向を相手取っていては分が悪すぎる。
壁を背にしながら、高橋は憎しみに駆られた自分を恥じていた。妻の仇を取ろうとして社長を狙うも失敗したが、代わりに人質を取って立て籠もるところまでは上手くいっていた。それが空奏に理解を示されて感情に流され、結果自ら機会を手放すことになるとは。
「何でもとは大きく出たもんだな。あんたのそれは飛び道具の類しか跳ね返せないだろ」
「なっ……!?」
「図星か。鎌かけてみるもんだな」
高橋は歯噛みした。立て続けに手玉に取られていることが焦りを生んでいるのだ。
その様子を見ながら空奏は思案していた。全てを跳ね返す異能でありながらなぜ銃を持つ必要があるのかと考えていたが、遠距離戦に持ち込むための物だったらしい。近接戦に対する問題が無くなったことは大きいが、角に陣取られていてはこちらも迂闊に近づくことができない。拳銃の射撃速度ならともかく、あの小銃が厄介だった。
「(バルドが戻って来る。合わせるぞ)」
「(わかっている)」
バサリ。羽音を立てて鷲が窓の外に姿を現し、大きな声で鳴いた。
音に気を取られて高橋が外を見る。空奏とルウが同時に走り出した。
鷲は空中で宙返りして足で掴んでいた何かを部屋の中に投げ入れると、そのまま高橋の顔に向かって突撃した。思わず振り払おうとして上げた右腕に横からルウが牙を突き立てる。
鷲によって空中に投げ出されたそれは、一振りの刀。空奏は自らに向かって飛んできたそれを手に取り、鞘から抜き取りながら体を回転させ一閃、左肩から袈裟懸けに切り降した。
「っ……がっ……」
高橋が動かなくなったのを確認し、通信端末を取り出す。待つ間もなく相手から反応がある。
「浅木さん、終わりました。相手も生きてますので搬送の手続きをお願いします」
「ご苦労様です、科戸くん。下で待機してる部隊を向かわせますので、状況確保お願いします」
「わかりました。……ところで、さっきの会話のログ残ってますよね?」
「ええ、残っていますよ。言いたいことはわかります。件の社長についてはすぐに対処しますので、任せてください」
お願いします、と言って通信を切る。関係各所に相当な力を持っているらしいかの社長の裏を暴くのは大変になるかもしれない。だがそちらは空奏の管轄ではないためできることはないだろう。
せめて、この男の恨みが少しでも晴れるような結末を迎えることになれば良いとは思う。
「一旦待機。すぐに搬送部隊が上がって来るだろ。この人を引き渡したら終わりだな。いいタイミングで戻って来てくれたな、バルド」
手近な机に腰かける空奏の横にバルドと呼ばれた鷲が降り立つ。バルドもまた幻獣であり、空奏の魂から生まれた二体目の幻獣だった。
本来、アニマ一人につき一体しか現れないはずの幻獣がなぜ二体生まれたのか、それは空奏にもわかっていない。だがその常識とは異なる二体目の幻獣という存在のおかげで、今回のように相手を欺く必要がある場合に有効となることがある。
「相手が空奏のことを知らん野郎で良かったな」
「それはそうだが、私は最初から相手が空奏のことを知らないということに賭けた作戦は良くないと思うのだ。信用を得ようとする場合なら尚更、もし謀ろうとしていることがバレたらマイナスに働くことになりかねない」
「異能関係の組織に属していない人ならそうそう知らないだろうから、結構勝算はあったんだぞ? まあ、俺もこんなやり方普通しないから心配すんなって」
「だとよ。ルウの心配ももっともだから無茶してくれんじゃねえぞ、空奏。俺は戦う機会がありゃ嬉しいがな!」
「バルドも私の気苦労を増やさないようにしてほしいものだ……」
このままではそのうちルウの毛が抜け落ちてしまうかもしれないと空奏が笑うと、笑いごとではないと怒られた。禿げてないか見てやろうかと近づくバルドにそんな心配はしなくていいとルウが吠える。バタバタと動き回っている二体を見て空奏も一息つくことにした。
倒れ伏している高橋に目をやり、空奏はすぐに視線を外した。
すぐに病院に搬送され、適切な手当てを受けることになれば死ぬことは無いだろうと思うが、この男は快復を望むだろうか。最後に見せた冷静さは、全てに見切りをつけて死ぬ覚悟を決めたことによるものだったのではないかと思うのだ。
自分が死んで終わるのが結末だと思っていたところに、組織だって憎い相手にその報いを受けさせることができる可能性が見えた。心が揺れたそれが隙となり、人質を手放すことになったことで今回の結果が生まれた。この男がその罪を償う機会を与えられたとして、社会に戻って来た時には全てが終わっている。その時彼は何を思うだろう。亡くなった奥さんの分まで生きていくことを選んでくれるだろうか。
そこまで考え、空奏は自分にそんなことに想いを馳せる資格は無いと頭を振って思考を追い出す。
「お取込み中のところ悪いね。いや、休憩中のところ悪いね、かな?」
不意に聞こえた声。それは気まぐれな死神の呼び声。
とっさ身を翻し、机の後ろにまわって距離を取る。気が付けば、倒れている高橋の近くに青年が立っていた。
こちらに笑いかけたその顔はよく見知ったものだったが、同時にここで出会いたくはないものでもあった。
「すぐにそこを離れろ、スターチス」
「おやおや。僕は君たちの手間を少しでも省いてあげるために、こうしてわざわざ来てあげたんじゃないか。まさか邪険にされるとは思わなかったなー。むしろお茶でも出してほしいぐらいだよ」
「悪いね。お茶も茶菓子も切らしてんだよ」
「残念。じゃあ、おやつだけもらっていくことにするよ」
「おやつ感覚でその人を持って行かれてたまるかよ!」
空奏が腕を振り上げると突風が吹き荒れた。スターチスと呼ばれた青年が腕で目を覆う。その風に乗るようにしてルウとバルドがそれぞれ地と空を駆けた。
「ごめんね。今日は君たちと遊びに来たわけじゃないんだ」
その言葉と同時に身体に不思議な模様を浮かび上がらせたスターチスの姿が掻き消えた。
後ろに気配を感じて空奏が振り向きざまに刀を振るう。ギリギリ届かない位置を保って出現したスターチスの手の上には、青白い炎が揺れていた。すぐさま床を蹴りながら突き出した一撃は、横に飛び退って避けられる。空奏は勢いのままジャンプし、空中で姿勢を変えて壁を蹴った。倒れていた机の残骸に足を取られた青年に剣先が届くと思われた時、再びその姿が消えた。
「身体の強化と、風を操る力。人間なのに一人で二つも異能を持ってるなんて、相変わらず面白いよね。ねえ、ちょっと魂かじってみていい?」
「人間の魂はそんなお安くないんだよ。手に持ったその魂も置いて行ってもらうぞ。ソウルイーター」
「それはできない相談だね」
部屋の中央に現れた青年は手にした青白い炎を一息に口に入れて飲み込んだ。
バルドがその顔に爪をかける直前にスターチスの姿はまたしても揺らめくように消え、しばらく姿が見えなくなったものの、今度は窓枠に腰を掛けた状態で現れる。
ソウルイーター。彼らはその名の通り、生物の魂を抜き取って食べる。彼らに魂が食べられると死に至るが、魂を抜き取られただけではその限りではない。しかし魂を失った状態では生命活動の低下を招くため、通常の人間では一日とは保つことができずに死ぬことになる。
ソウルイーターが魂を食べるのは空腹を満たすためでもあり、力を得るためでもあると言われている。ソウルイーターは力を行使する際に身体に紋様が浮かび上がるが、多くの魂を取り込んだ者はその紋様が身体に大きく広がるようになるという。しかしその行動原理は未だ謎に包まれている部分も多い。
その存在が初めて確認されたのは異能に目覚めるの人間が現れ始めた頃だった。魂を抜き取り喰らう彼らの外見は普通の人間と変わらない。イクシスやアニマの中に魂の色を見ることができる者が現れるまでは、能力を行使していないソウルイーターは人間との判別ができなかった。そのため、人類が認知するよりもずっと前から存在していたのかもしれないとも言われている。
魂は、人間に限らず生き物の魂は青く、ソウルイーターの魂は赤く見える。通常、生物に内包されている魂は特殊な力を持つ者でなければ見ることはできない。しかし、ソウルイーターによって取り出された場合は誰であれ魂を視認できるようになるという特性がある。
近年ではその魂の揺らめきに魅了されてソウルイーターを信仰する者も出ているという噂まで出ているらしい。
ぺろりと唇を舐めたソウルイーター、スターチスは満足そうに笑った。
「ごちそうさまでした。なるほど、こういう感じか……。さて、今日は彼の魂を回収しに来ただけ。だから僕の用事は終了。だから休戦しようよ、休戦。ね?」
「勝手なことを。お前が空奏の魂を狙わない保証はないのだ。今すぐその喉笛を噛み千切ってやる」
「おうよ。気まぐれに現れてはおちょくって去っていく。そんなてめえがいつ俺たちに敵対するかわかったもんじゃない。後手に回る必要はねえ。やれる時にやるぞ!」
今にも飛びかからんとする二体の気持ちもわかる。しかしスターチスは本気でこちらに用が無いらしい。警戒は解かないものの、空奏は「回収しにきた」という言葉が引っ掛かっていた。
単独で行動していたソウルイーターが人間と契約関係のような形を取ったとすれば今までに例のないことだ。このまま戦闘を続けようとすればまず間違いなく逃げられてしまう。その前に情報は掴んでおきたい。もしスターチス特有の気まぐれだとしても、それも一つの情報だ。
しばし悩んでから刀をしまう。ルウとバルドが抗議の視線を向けてくるも、空奏の思考を脳内で受け取った二体は大人しく従ってくれた。
「希望通り休戦にしよう。だが俺もお前に用がある。ちょっと話をさせてくれ」
「話? どうしようかな~」
「俺としてはもうすぐ琴絵が来るから、時間稼ぎの後に実力行使でもいいけど、どうする?」
「物騒だねえ。さっきの男を気にする必要が無くなった君と鈴守ちゃん二人はちょっと面倒だ。ま、君が僕に用なんて珍しいからね。気になるから付き合ってあげるよ。ここ人来るんでしょ? 屋上にいるからよろしくー」
気の抜ける声を残してスターチスの姿が消えた。普段から気ままな彼だが不思議と約束したことは守る。言葉通り屋上に向かったのだろう。
空奏は密かに詰めていた息を吐き出した。
ソウルイーターは危険な存在だ。個体差はあるものの、その力は人間にとっての脅威であることには違いない。特にスターチスは以前より存在が確認されているにも関わらずその力の全貌が計り知れないため、異能事案管理局にとって特に要警戒対象となっている。何度かソウルイーターを討伐している空奏であっても油断のできる相手ではない。
複数の足音が聞こえてきた。搬送部隊の人間と、空奏と同じ異能事案管理局に属する鈴守琴絵が姿を現す。事件の犯人を失った自省は後にして状況の説明を行うために空奏は動き出す。
「空奏くん怪我はない? 大丈夫?」
駆け寄ってきた琴絵が空奏についた血の跡を見て心配そうな表情を浮かべるが、返り血だからと手を振り、大丈夫だと伝える。
琴絵はビルの下で待機し、バルドから少女の身柄を受け取り保護する役割を担ってもらっていた。今回の事件が単独犯であることが確定したため、別動隊への引き渡しもすぐに終えたようだ。
空奏は搬送部隊のリーダーに通信後ソウルイーターが現れたこと。結果、高橋の魂を食べられてしまったことを話した。詳細を伝え引継ぎ、息を引き取った高橋の遺体を移送してもらう。
隊を見送ってから、ルウとバルドに声をかけていた琴絵の元へ向かう。怪我などがないか確かめているようだ。
「琴絵。俺はちょっと屋上に行ってくる」
「……え、何で屋上?」
空奏は先ほどのスターチスとのやり取りについて話した。心配そうな顔をした琴絵は「私も行く」と言い出す。空奏が渋い顔をすると琴絵は口を尖らせて言う。
「私がいれば実力行使できるんでしょ? 保険として連れてってよ」
自らスターチスに宣言した手前、これには反論の余地もない。
空奏は苦笑して、連れて行くしかないなと心を決めた。
「それで鈴守ちゃんがいるわけだ」
屋上で街並みを見下ろしていたスターチスは面白そうに笑いながらそう言った。
ルウとバルドは空奏の中に戻り、空奏は刀のみ腰に下げて彼と相対する。琴絵も自らの異能を使うために必要な道具をしまい、特殊なゴーグルのみを付けた手ぶらの状態である。
「鈴守ちゃん、僕と会うのにそのゴーグルつけておく必要なくない?」
「念のためよ。この場に乱入してくるようなのはいないでしょうけど、私は空奏くんみたいにとっさの判別ができないもの」
琴絵が装備しているゴーグルは魂の色を見分けるための特殊なゴーグルだった。空奏も本来はそのゴーグルをつけなければ魂を見分けることはできないが、ルウが判別能力を持つため空奏は基本的にゴーグルを持っていない。
「戦う気が無いっていう姿勢を見せてくれるのは嬉しいけどさ。せめて鈴守ちゃんはいつもの紙、持ってた方が良いんじゃないの? もしかしたら僕の気が変わって二人とも食べちゃうかも」
スターチスの横に大きな黒い猫が現れる。通常の豹と同じぐらいの大きさになるだろうと思われる黒猫は、伸びをした後体勢を低くして目に鋭い光を宿らせた。
ソウルイーターはアニマと同じように幻獣を従えている。しかしアニマと違い、幻獣が実体化していなければ能力が使えないというわけではないのが特徴である。彼らの幻獣は単独で顕現しているようで、ソウルイーターが能力を使うときに浮かび上がるはず紋様は、幻獣の顕現では見ることができない。
つまり幻獣が戦闘を行うというだけでは、見た目からはその主がアニマかソウルイーターかという区別をつけることができないということである。
特殊ゴーグルが開発されるまでは一時ではあるが魔女狩りのようなことも行われたという。
アニマという存在が受け入れられ難く、時に差別の対象となりえるのはソウルイーターを目の敵にする者の余波がアニマにも向けられた結果であり、空奏も時に苦渋を味わうこととなっている。
「お前は約束を守るやつだってことを、俺は知っている」
黒猫を見て反射的に身構えた琴絵を制し、空奏はスターチスに歩み寄る。
そんな空奏を見てスターチスは手を振って黒猫を消した。そして降参というように両手を上げ、やれやれと言いながらため息をついた。
「そこまでの信頼を裏切るわけにはいかないねえ。そのつもりもないけどね」
「じゃあ余計なことはやめてくれ。俺の勝手に巻き込んで琴絵に怪我させるわけにはいかないんだ」
「そう思うならしっかり守れるように準備するべきだと思うけど?」
自分以外ならこうはいかないという忠告か。空奏だって死にたいわけではない。相手が彼だからこそこうしている。琴絵を制したのはいいものの、今の空奏にはこのソウルイーターに対応する術がない。本当に気が変わって黒猫が襲い掛かってきたらこの命は自覚するまもなく刈られていただろう。
脳内ではルウとバルドが文句を言っている。空奏が抑えているため実体化することができない彼らはそもそも、空奏単独でスターチスと対峙することに反対していたのだ。
ほら言わんこっちゃない。琴絵に何かあったらどうする。いいからさっさと出させろと散々である。ごもっともなので何も言い返せないが。
「科戸ちゃんさ、結構危ないことするよね。どうせまた文句言われてるんでしょ? 幻獣の子たち出していいから楽にしなよー」
「こっちはお前だからこそ大丈夫だと踏んでるんだ。それがわざわざ威嚇なんてしてくるから脳内お祭り騒ぎだっての」
ニヤニヤと笑うスターチスの先の行動は絶対にわざとだ。どうせお互いにこの場で敵対する意志はない。わかっていても空奏に万が一のことがあるわけにはいかないとするルウとバルドを煽ったものに違いない。
実体化した二体が直接文句を言い始める前にさっさと本題に入ることにする。
「スターチス。高橋さんとは元々面識があったのか?」
「高橋? ああ、さっきの男のことか。面識ってほどじゃないけど、知ってたことは事実だね」
「あのタイミングで現れたということは、お前は何らかの取引をしてたんじゃないのか?」
「……ふうん。どうしてそう思うの?」
「高橋さんの計画が失敗に終わり、あとは機関に捕まるだけだった。そこに現れて魂を取ったということは、あの人の計画に加担していた。もしくは何らかの助力をしていたんじゃないか?」
「通りかかっただけかもよ? もしくは前から目を付けていた魂が取りやすい状態になった。しかもそこに君がいたからちょっかいをかけた。そういう考えもできるんじゃないかな」
「いいや。通りかかったなら回収しに来たとは言わないはずだ。それに自分で言ったんだろう。俺たちと遊びに来たわけじゃないって」
「そうだっけ? そうか、それは盲点だった」
「前から狙ってたっていうのも変だ。まず高橋さんが立て籠もってから俺が行くまで結構時間はあった。別に人質がどうなろうと関係ないだろうし、何よりもお前なら適当に近づいてさっさと殺して魂食べて帰るだろ。俺が着いてからも何もしなかったってことは、無防備になるのを待っていたわけでもない。完全に状況が変わったのは、計画が失敗して事件が終息した時だ」
「だから彼と何らかの取引をしていたんじゃないか、と。そういうことだね」
「違うか?」
「いいや、合ってるよ」
スターチスは何が嬉しいのか朗らかに笑った。そしてしげしげと空奏を見つめて言う。
「何だかドラマの犯人にでもなった気分だね。科戸ちゃんは探偵とかに転職したらどう?」
「残念だが空奏は頭の回る方ではない。今のように適当に暴れてるぐらいがちょうどいいのだ」
「……ひどくない?」
「頭の回るやつであればもっと安全に気を遣っているはずだからな。私は間違っていない」
意外と世俗的なソウルイーターと、横からさらりと釘を刺してくるルウに空奏は顔をしかめる。まるで人が力を振り回すしか能がないような言い方だ。複雑そうな空奏を見てバルドがルウの背中の上で笑っている。これでも色々考えながら動いているつもりなんだけど、と空奏の心境を他所にスターチスは笑いながら続きを促す。
「それで、聞きたいことは終わりかな?」
「いいや。確認が取れたことでやっと本題。お前らソウルイーターが人と取引なんて初耳だ。いったい何を持ち掛けた?」
「魂を対価として、僕が手伝ってあげようか?って言ったんだよ」
「復讐の手伝いってことか」
「そう。最初は僕が目の前でなんとかっていう社長を殺してあげるよって言ったんだけど拒否されちゃったんだよね。社長宅に押し入るまでの手伝いをしてくれって言われたよ。相手の元に辿り着くまで死ぬわけにはいかないけどそこから先は自分でやる、そしてこれが終わった時には魂を持って行け、だって。まあ結局社長は不在。一旦延長ってわけ。そこで警察とかにやられて死なれると美味しくなさそうだったけど、彼は頑張って生き延びたね」
「そこで助けようとはしなかったのか?」
「なんで? 魂をもらうのは彼の計画が終わった時。でも僕の手伝いは社長宅に入るまで。それが取引。取引は云わば約束だよ。君も言ったでしょ。僕は約束を破らない」
「約束か。それもそうだな、お前らしい」
「死んでもすぐなら魂取れるし、その場で食べて帰るつもりだったよ。生きてる方が美味しいけどね」
「……そもそも何でそんな取引をしようとした」
空奏は最も気にかかっていた部分に踏み込む。
すぐにでも取れる魂を目の前にして、相手の要望を叶えてからその魂をもらう。ソウルイーターはそんな回りくどいことをして魂を食べるようなことはしてこなかったはずだ。
人外の力を持つ彼らにとって、人を殺すために人と組むのはメリットが薄い。要人の魂を取りたい場合などはともかく、今回のように協力する相手自身の魂を取るためにわざわざ取引を行うというのは、自らの欲求に従って過ごしている彼らの行動としては違和感を覚える。
「彼の憎しみはとても強いものだった。ただ一人にのみ向けられるその憎しみに満ちた魂がどんな味なのか。気になったのさ」
「それだとわざわざ手伝いをする必要性は感じられないな」
「育つのを待ってたんだ。人質を取って待っている間徐々に大きくなっていく彼の憎しみはとても興味深いものだった。科戸ちゃんが来た時は彼の計画も終わりだなと思ったけど、話を聞き出そうとしてくれたおかげでうまいこと想いが増幅された。結果上々の物が出来上がってくれたね」
果実が熟れるのを待つようにして収穫の時期を狙っていたのか。そして自分は図らずもその手伝いをしてしまったらしい。さっきの自分を殴ってやりたいところだがそういうわけにもいかない。心の中で悪態を吐く。
そんな空奏の心境がわかったのだろう。愉快そうに眺めてくるスターチスに腹が立つが、知らなかったとはいえ自分の失態である。そしてこの先似たようなことがあるとしても意図的に回避することは不可能に近い。気持ちを切り替えておくしかないだろう。
「さてと、僕はそろそろ行かせてもらうことにするよ。実はこれでも忙しい身だからね。あ、そうそう」
背を向けたスターチスが何かを思い出したように振り返った。また何かやる気かと思い、腰の刀に手を置いた空奏を見て彼は笑った。
「最近、アニマの誕生は覚醒に伴う強い感情の発露が原因、っていう噂があるらしいんだけど、知ってる?」
「知らないな。少なくとも俺にその覚えはない。眉唾物だろ。というより、その辺はお前の方が詳しいんじゃないのか?」
「知ってたら聞かないよ。僕はソウルイーターであって人間じゃないからね。そっか、でも科戸ちゃんがそうじゃないなら違うのかな? ま、いいか。そのうちわかるし」
じゃあね、と手を振って今度こそスターチスの姿が消える。
気配が消え、後ろで琴絵が安堵したのが分かった。気を張り詰めていたのだろう。彼女はポケットから取り出した紙を投げる。するとソファが現れ、力が抜けたように座った。
「はぁー、疲れた。さっきの任務よりも断然疲れた。いやほとんど何もしてなかったけど。空奏くん、よくあんなのと普通に会話できるね。私は無理」
「俺だって平常心保つので精いっぱいだったよ。特に最初は死ぬかと思った」
「その死にそうな目に付き合ってあげたんだから感謝してほしいところだよ。ルウもバルドも大変だね。相変わらず心労が絶えなさそう」
「おう、もっと言ってやってくれ。早くしないとルウの毛が全部抜けて皮だけになっちまう」
バルドがソファの背もたれに飛び乗りながら抗議すると、ルウは諦めたように溜め息をついた。ぐったりとしている琴絵はしばらく動きそうにない。
仕方なく空奏は琴絵に打診する。
「琴絵、俺にもソファくれ」
「嫌。こんなに心配かけさせるような人はその辺に座ってなさい。だいたい、なんでそうやって生き急ぐようなことをするのかな。危ないところに飛び込んで、私がどれだけ心配してるかわかってるんでしょうね。三年前のことで思うところがあるのはわかるけどもっと……」
取り付く島もない。そして始まってしまったお説教が長くなりそうだと思い聞き流すことにする。
琴絵は紙に描いたものを実体化させる異能がある。今座っているソファも予め描いてポケットに入れておいたものだろう。「描く」という一工程があるため、すぐに行動に移せるように描いておいたものを幾つも仕込んでおり、そのサポート力にはよく助けられている。
何も出してもらえないろ判断し仕方なく地べたに座ろうとすると、ポケットの中で端末が呼び出しを告げた。さすがに不憫に思ったのか、琴絵が座布団を描いて出してくれたので有難く腰を下ろさせてもらう。何だかんだと優しいのは助かるが、椅子を出さない辺りに無言の抗議を感じる。
「はい」
「はい、じゃありません。報告も入れない、帰っても来ない。どこで何をしているんですかあなたたちは」
呼び出しの相手は空奏と琴絵の上司だった。
簡単に事の顛末を伝えると、詳しい報告は明日まとめてもらうから今日は帰っていいとのお達しを受ける。休める時にはしっかり休むのが信条なので有難く帰らせてもらうことにして立ち上がった。
「帰っていいってさ。動けるか?」
「動きたくない……。バルド、さっきの女の子みたいに運んでってよ」
「そいつぁ構わないが、さっきはロープがあったが今度は必然的に服を掴むことになる。そのうち上着はずり上がるし、浮いてるからスカートの中丸見えになるぜ。とんでもない露出狂の出来上がりだな」
「う、それは乙女の沽券に関わる……」
「そもそも俺はルウと離れすぎたら人一人運ぶほどのの膂力は出せねえよ」
「そうだった。……それもこれも空奏くんのせいだからね!」
「怒り方理不尽すぎるだろ。ほら、帰るぞ」
何度か促すと渋々と立ち上がった。置いていくわけにもいかないのでこの機にさっさと帰ることにする。琴絵がソファと座布団を消すと、ルウとバルドも空奏の中に戻った。
しばらくして気力を取り戻した琴絵はいつも通りの元気な様子に戻っていた。コロコロと表情を変えながら話しつづける彼女を近くまで送って行き、空奏も家路に着いた。
街灯が照らす道を一人歩きながら空奏は今日のことを考えていた。
今までにない動きを見せるのがスターチスだけであればいいが、他のソウルイーターも人と組んで何らかの行動を起こそうとするようなことになれば、それは厄介なことになる。何はともあれ、そういう可能性があるということがわかったことは大きい。多少の危険を冒してでも情報を取りに行った甲斐はあっただろう。
そんなことを考えながら住宅地を歩いていると、ちょうど突き当りにあるT字路を右から左へ小学生らしき女の子が走っていくのが見えた。現在の時刻は午後十時を過ぎている。ランドセルを背負っているが、学校帰りとは考えられない。塾か何か、習い事などの帰りだろうか。それにしても中高生ならともかく、小学生が歩く時間帯ではないと思うが。
思案している空奏の視線の先でさらにT字路を駆けていく姿が一つ。それはワニほどの大きさもあるトカゲにも似た異形の生物だった。
「幻獣か? いや、そんなことより急いで追うぞ」
バルドが上空へ飛び、空奏もルウと共に少女たちが走り去って行った方へと駆け出した。
トカゲの動きは早いとは思えなかったが、少女に追いつくまでそうかからないだろう。すぐに追いつきたいがここは細い道が入り組んでいる箇所が多い。案の定T字路を曲がった先には既に少女たちの姿は無い。
「(空奏、まずいぞ! もう一体別なの出てきて挟み込まれた。あの子行き止まりに入っちまった!)」
「すぐ着く。時間稼いでくれ!」
上空から見渡していたバルドの焦りが頭の中に届いた。
塀から屋根へと上り、屋根伝いに一直線でバルドの気配を追う。足元に風を纏わせることで着地したときの衝撃を緩和させながら屋根を飛び移っていく。忍者のようにとはいかないが、これにより極力足音を立てることなく移動することが可能となっていた。屋根に響いた足音で何事かと思った人々に出てこられては困る。もしトカゲの狙いがそちらに逸れたりしたら空奏だけでは守り切ることができない。
「ルウは女の子の横に。背後の警戒怠らないように」
「わかっている」
バルドの元へ辿り着いた空奏は地面に降りながら少女に近づこうとしていたトカゲに向かって刀を振るう。直前で感知され躱されてしまったが、少女とトカゲの間に入ることができた。ルウは息を切らしている少女の横に着く。怯え、後退りした少女を一瞥してトカゲを見やるルウに、少女は敵ではなさそうだと判断したのかその場にへたり込んでしまった。
バルドが応戦しているのはゴリラ型の幻獣だった。振り上げる腕の力は周りの空気すら振動させるかのようだが、素早く動き回るバルドを捉えることはできていない。
下手に異能を使われるのは厄介だ。口を開けて何かを吐き出そうとしたトカゲの顎を下から蹴り上げて狙いを逸らす。近くの塀に降りかかったそれは粘性のある液体だった。すぐに凝固したところを見ると、あれが液状の間に身体に触れないように気を付けなければならないだろう。
空奏はバルドを諦めてこちらに迫ってきたゴリラの左腕による突きを身体を逸らして避け、追撃してきた右腕を刀で防ぐ。
「…ぐっ。重い」
通常の刀であればその衝撃に耐えられず折れていただろうが、特殊な金属でできている空奏の刀は傷一つなく主を守った。後ろに飛ばされた空奏はバルドが起こした風で身体を足から掬い上げられて屋根の上へ。すぐさま飛び降りて駆け抜けざまにゴリラの右腕と右足を斬りつける。ルウが飛び出して威嚇した隙に身体の向きを転じ、ゴリラの背後から胸元へ刀を突き刺した。
すぐに少女の元へ戻ったルウに目をやった時、少女が座り込んでいる壁の上に何者か姿を現した。足元に倒れたゴリラの姿が淡い光に包まれて消える。
「爬虫類が、鳥類舐めんなよ!」
見ると、自分よりも体格の大きいトカゲの背を掴んで放り投げるバルド。
幻獣にこの世界の分類は当てはまらないはずなのだが、お互い見た目は実在する動物を模しているからだからだろうか。何故か得意気である。相手を翻弄できているのが楽しいのか、愉快そうな声を出しているバルドは問題なさそうだ。
空奏が謎の人物に向かって駆け出すと、そいつはすぐさま屋根を伝って逃げ出した。
追うべきかどうか悩んだ空奏の後ろでバルドが言う。
「さっきのやつ、アニマだな。トカゲ野郎に逃げられちまった」
見ればトカゲがいなくなっている。幻獣はある程度近くにいないとアニマの中に戻ることができない。先ほどの人物は不利になった自分の幻獣を回収しに来たようだ。
しばらく周囲の様子を警戒していたものの、新手の心配は無さそうだった。刀を納め、少女の元へ向かう。
「大丈夫かい?」
膝をついて空奏が声をかけると、恐怖の瞳で震えていた少女は糸が切れたように後ろに倒れてしまう。慌ててその身体を支えると、ひどい汗をかいていることに気づいた。走っていたから、だけではないようだ。顔が赤く、呼吸も荒い。何があるかわからない以上病院に行く必要がある。
それも幻獣に追われていたという少女だ。普通の病院に置いておくことはできない。
空奏は端末を取り出して連絡を入れる。二十四時間体制を取っていることはわかっているが、見知ったオペレーターがすぐに出てくれたことに空奏は安堵した。
「科戸くん? 今日は帰られたはずでは」
「幻獣に追われていた子を保護しました。気を失っていて熱もあるようなので、このまま支部まで運ぶのはどうかと思って。浅木さんの指示を仰ぐ必要があると判断しました」
「すぐに人をやります。科戸くんはその子をあまり揺らさないようにしながら今示す地点まで運んでください。頭を打った形跡はありませんか?」
「それは大丈夫だと思います。すぐ向かいます」
頭部を触って確認してみるも、コブになっていたりはしない。少なくとも発見してからは頭を打ってはいないので大丈夫だろう。
極力揺らさないようにしながら少女を浅木に伝えられた地点まで運ぶと、すぐに異能事案管理局の救急隊がやってきた。
幻獣に追われていたとあっては通常の病院に運び込むわけにはいかない。異能者による警備が行われている管理局付属の病院に搬送されることになるだろう。
空奏は再び浅木に連絡を取り、事の顛末を報告。現在巡回任務に当たっている者たちで捜索、警戒態勢を敷くということだが、当事者である空奏もこのまま帰るというわけにはいかないだろう。一日働き詰めの空奏に浅木は配慮してくれたが、相手を直に目撃している空奏も捜索に当たることにした。
しばらく適当に歩いていると、不意にバルドの声が頭の中に響いた。
「(つけられてるな)」
「(大丈夫、わかってる。でもどうするか。尾行の割には下手すぎないか?)」
少し前から物陰に隠れながらついてくる気配はしていた。先ほどの少女を追っていた人物と関係があるのであれば話を聞き出せるかもしれない。
上手いこと自分という餌にかかってくれたのはありがたいが、あまりにもわかりやすいのでどうしようかと考えている間にどうやらバルドは痺れを切らしたらしい。
「(空奏、俺が奇襲をかける)」
「(頼む。目的を吐かせることにしよう。人目のあるところで実体化するのは避けたい。そこ曲がるぞ)」
大通りから外れ、狭い路地に入る。影に入ったタイミングでバルドが実体化、上空へ飛び去って行く。空奏はそのまま路地を歩いていき、尾行している人物が路地の中ほどまで進むのを待っていた。
そして、後方で悲鳴が聞こえたのを合図にルウが実体化し、空奏はUターンして強化された足で走り出した。後を追ってきていた人物も暗がりに入り込んでいる。これなら人目を気にする必要もないだろう。
バルドから逃げようとして空奏の方に近づいて来る相手の足元に横風を発生させて体勢を崩させる。一息に距離を詰め、たたらを踏んだ足を狙って袋にしまったままの刀で薙ぎ払う。見事に転んだ相手の胸元をルウが踏みつけて威嚇した。
「うわ、わ! なんだよ!!」
「喚くな。てめぇの目ん玉くり抜くぞ」
機嫌の悪そうなバルドにパーカーのフードが取られて顔が見えるようになったその人物は男だった。だいぶ若い。十代だろうか。
額に陣取ったバルドに脅されて必死に目を瞑って怯えている。額を踏んでいる鉤爪だけでも痛そうだが、ルウの足は容赦なく胸元を圧迫しているだろう。下手に動くと危ないことはわかっているようで、両手両足は投げ出されている。
そんな彼に空奏は近づき、バルドに周囲の警戒をするように言ってから男をうつ伏せにして横にしゃがみ込んだ。ルウが今度は頭を踏みつけている。
浅木に連絡を入れてから男に聞く。
「何が目的だ?」
「……。」
「もちろん話さないのは勝手だけど。俺も君の目が潰れるところとか、腕が噛み千切られるとか、見たくはないんだ」
空奏が冗談めかして言う。だがその物騒な物言いに男の身体がビクリと震えた。
もちろん空奏にその気はないが、先ほどバルドが脅しつけた上にルウが頭を押さえつけている。空奏は立ち上がって刀を抜き、男の耳にそっと押し当てた。冷たく無慈悲なその感触に男が冷や汗を流す。それでも口は開こうとしない。
男は唇を噛みしめて諦めたように目を瞑った。
「……そうか」
空奏は男の左掌に刀を突き刺した。その掌に生成されていた液状の何かが霧散する。
悲鳴を上げる男からすぐに刀を抜き取ってその身体を飛び越え、数歩踏み出し低い姿勢から刀を前に突き出す。鈍い手ごたえ。刀を引き戻すと、何もなかったはずの空間に先ほどのトカゲが姿を現した。
痛みで保護色状態を維持できなかったのだろう。口を貫かれたトカゲはのたうち回りながら粘性のある液体を撒き散らす。すぐに凝固してしまうそれに触れないように空奏が距離を取ると、上空を舞っていたバルドが風の刃を生成してトカゲに向かって放った。
背中に直撃して血を吹きだしたトカゲは痙攣して倒れ、淡い光に包まれて姿が消えた。
「シップ!」
左手の痛みに悲鳴を上げていた男が叫ぶ。シップとは先ほどの幻獣の名前だろう。
空奏は未だルウに抑え込まれて動けない男に向き直り言った。
「後は向こうで話してくれ」
ちょうど近くにいた局員が増援に来てくれたことで、空奏は男を引き渡す。少女を追っていた犯人が捕らえられたから今日はもう大丈夫だと浅木から釘を刺すように言われたので、空奏は帰らせてもらうことにした。
ルウとバルドが空奏の中に戻ってきたので、先ほど少し気になったことを話す。
「(なんかバルド機嫌悪くない?)」
「(眠いんだろう。私も疲れている)」
「(ガキみたいに言うんじゃねえよ。だが実際眠い。さっさと帰るぞ、空奏)」
眠いからという理由で目をくり抜くと脅された彼が少し可哀想になった。だが幻獣の疲労はアニマの精神状態から影響を受けていることが多い。さすがに空奏も疲れているため、それが二体にも伝播しているのだろう。日付も変わってしまっていることだし早く帰ろうと考え、空奏は浅木が気を使って手配してくれた車に乗り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます