第3話

安吉が古屋商店のマネージャーをして数週間後、 安吉はグレート・ノーザン鉄道のミスター・ヒルの秘書から電話を受けた。 ミスター・ヒルが新し いビジネスのことで会いたいと言う 。

三日後、 安吉はシアトル駅前の「 ホテル・シアトル 」にミスター・ヒルをたずねた。

ホテルのフロントで名前を告げると、 ロビーのほうでお知り合いの方がお待ちですと、フロント係りが安吉に伝えた。

ホテルのロビーは、ロココ調の装飾様式がふんだんに使われている。 分厚い絨毯が敷かれていて、 置かれている椅子やソフアのビロードが電気の光を受けて輝いて見える。 さすがに労働者タイプの宿泊客は一人も見えず、 みな富豪の紳士淑女が泊まり客のようだと思った時、 そういった中に一人異彩を放った風貌の男が、 ロビーの真ん中の椅子にふんぞり返っているのが見えた。

デービットだ。 安吉は早足で彼のほうに向かった。 相手も安吉を認めたようだ。

「 おお! サモラーイ! 元気だったか? 」デービットがソファから立ち上がり安吉を迎えた。

「 やあ、 デービット? どうしたのです? こんな所で・・・」

「 ミイ( 俺 )?」

「 そうです 」

「 ビジネス」

「 ビジネス? 」

「 ボデー・ガードをやっている」

「 ボデー・ガード?」安吉には聞き慣れない言葉だった。

「 実は、 ミスター・ヒルの秘書、 いや、 ジョセフィーンからも頼まれてな。 ミスター・ヒルのガードをやっているわけだよ 」

「 ああ、 なるほど。 用心棒か 」

「 用心棒?」

「 日本語ですよ。 ほら、 ボデー・ガードと言う 」

「 しかし、 だ。 サモライも知っている通り、 ミスター・ヒルは気さくなタフ・ガイ( 強靭な人物 )だから、 結構楽しいビジネスだ。 よく、 彼はぶらりと荒野の中に馬を走らせるのだが、 俺も好きなことだし。 良い仕事を見つけたと言った感じさ。 農業は弟に任せた 」

「 ところで、 ミスター・ヒルは? 」

五階の部屋だ。 案内するよ 」デービットが先に立って歩きはじめた。

ロビーの突き当たりにボ ーイが立っていた。 デービットが五階だ、 と言うとボーイが小さな箱型の部屋の扉を開けた。 彼達が部屋に入るとボーイが戸を閉めた。 直ぐ、部屋が上に向かって動きはじめた。

ヒルの部屋に安吉達が入ってゆくと秘書が出迎えた。

ミスター・ヒルは相変わらず気さくに安吉を迎えた。

「 シアトルに住んでいるらしいですね? 」と、ヒルが安吉に聞いた。

「 はい。 アメリカに来て最初に住みはじめたところです 」

「 それは、 よかった。 貴方がごこに住んでいるとジョセフィーンに聞いたものですから 」

「 えっ? ジョセフィーンからですか?」

「 もっとも、 彼女はデービットから聞いたそうです」とヒルは言い、 デービットの方を見た。

「 保線区のチャイニーズから聞いたのですよ。 サモライがシアトルにいて、 ジャ パニーズの輸出入会社にいるって 」

「 鉄道や電信電話のおかげで、 情報が速く伝わるようになりましたね。 情報社会になってきているのでしょう 」

ヒルは、安吉とデービットにソファに座るように言い、 秘書にティー( 紅茶 )の用意をホテルにさせるように指示した。

「 さて、 楠本さん。 ビジネスの話ですが」ヒルは白いあごひげに軽く手をかけほぐすようにすると、 座っていた姿勢を直して安吉を見た。

「 前にもお話したことがあると思うのですが、 私はコットンを日本とか中国に輸出しています。それにシアトル から小麦粉を直接サン・フランシスコに送るつもりです。 ここまでレールを延ばしましたので、それに付随するビジネスを計画しないと鉄道経営は行き詰まると考えるからです 」

さすがにフレイ ・フォワーダー( 運輸業 )の経験を積み重ねたヒルの言葉だけあった。 鉄道も儲けに儲けた時代から過当競争の時代に入ってきており、 国の援助を バックにして安易な経営をしてきていた幾つかの鉄道会社は、 既に破産をきたしていた。

「どうでしょう。 日本の船がシルクや茶、 それに日本の物品をシアトルの港に運ん

できて、 こちらから木材とか鉄道のレールなどを日本に持ち帰ると言うように、 船会社に掛け合ってもらえないでしょうか? 陸の貨物輸送は私ども の鉄道が行い、 貨物船に連結する。 これは、 世界にビジネスを広げることの試みです。 鉄道は、 人間の体内のようにアメリカ全土に張りめぐらされてきました。 これからは、人間の身体が船で外国に出かけるように、 鉄道と船を結び、 外国に、 いや、 世界に目を向けないといけない 」

ホテルの従業員がティーを運んできた。

ヒルはいったん話を止め、 用意されたティー・カップに手を伸ばした。

「 日本の焼き物は、品質が高いですね。 明治政府の方達もヨーロッ パばかりに目を向けないで、 もっとアメリカに目を向けて欲しい」

ヒルの持つカップから、紅茶の湯気が流れるようにまっすぐ上にのぼっている。



安吉は、 ヒルやデービットとあった後、 直ぐに古屋と富士子にこの話をしてみた。

「面白い話ですなあ 」古屋は目をつむってじっと安吉の話を聞いていたが、 頭を振り振りうなずいた。

「 楠本はん、 これ、 ええ話だと思いますわ。 そやけど、どうやって取引先を見つけるかがもんだいですよってな・・・そや、 うち神戸で貿易をやってはるしと知ってますよって、 聞いてみまひょうなあ 」と、 富士子はこの話に乗り気だった。

「 そうですね。 やはり貿易をやっているそれ相当な会社に掛け合ったほど良いでしょうね。私は横浜のほうに知り合いがいますので、 取りあえず横浜から東京方面の会社を当たってみます 」

「 ちょうど、 ええ 」と、 古屋が言った。

「 何がですやろ? 」富士子が聞 いた。

「 日本に、支店をだそうと思っておったとこだからのう。 ちょうど、 ええ機会だなあとおもいましたなあ 」と、古屋が富士子の顔と安吉の顔を順次に見て、 のんびりと言った。

古屋は日本の神戸、 東京、 横浜など の主要な港のある場所に古屋商店の支店を持ち、 アメリカにおいてはポートランド、 タコマに支店を置きたいと計画を述べた。

ビジネスが上手く行く時は、 とんとん拍子に事が運ぶものである。 難なく大阪と東京にこのビジネスに参加する手堅い会社を見つけることが出きた。

古屋は直ぐに神戸と横浜に支店を設け、 貨物の輸出輸入に関するしごとや銀行取り引きなどの代行を引き受けた。 のんびりとした古屋の正確とはうらはらに、 ビジネスに関しては彼の強引とも思われる性格が顔を覗かせた。 彼は、 各支店に移民会社も併用させた。

アメリカ経済の不況にも関わらず、 古屋商店の経営は順調に運んだ。 そして1893 年も後一ヶ月を残すところまで来ていた。 古屋は念願の銀行設立に向けて一歩を踏み出し始めている。

安吉は、多忙な毎日を事務所とシアトルの船会社や銀行、 税関事務所との間で送っていたが、 ある日一通の手紙がワシントン大学から届いた。 手紙はトミを連れて大学にくるようにと言う内容のものであった。

ワシントン大学は、数年前に市の中心部から郊外に移転していた。しかし、 まだ一部の学部は市内に残っている。 この旧キャンパスでも単位を稼げるはずである。

大学が指定した日に、 安吉はトミと大学のキャンパスに入って行った。

どっしりとした石造りの校舎が丸く作られた池の周りに立ち並んでいる。 建築中の建物があちこちにある。 かなりの規模の大学だ。

「 こんなとこで、 学べるかしら? 」トミが東京方便で小さく言った。

「 大丈夫。 トミなら大丈夫だ。 正直、 僕もここで学びたくなった 」安吉はトミの肩にそっと手を置いて答えた。

事務所に入って名前を告げると、 ディーン( 学生部長 )のヒース教授に会って下さいと言う返事だった。

事務員の案内で木の香りのする廊下を歩き、 右に曲がった突き当たりに「 ディーン・ルーム 」と書いた部屋があった。 「 ヒース教授 」と名札のようなも のがドアの入り日付近にかけてある。

事務員がドアをノックすると直ぐに返事があった。 事務員は安吉達を教授に紹介して部屋から出て行った。

「 日本人だそうですねえ? 」ヒース教授は自分の椅子から立ち上がりながら関いた。

「 そうです 」

「 どうぞ、 こちらの椅子にかけてください 」と教授は自分の机の前にある二つの椅子を指し示した。

「貴方のお手紙によりますと、ドクター・クラークに学んだとか? 」

「 はい。 札幌農学校で学びました 」

「 それは、 奇遇ですねえ。 実は、 私は彼と同じ大学で勉強した仲です。 彼は敬謙なクリスチャンであり、 勉強家でもあった。 しばらく大学に残って教鞭を取っていたのですが、彼から日本に行くと聞いた時は、 正直驚きました。 クラークには、 学者としての輝かし い未来が約束されていたからです 」

「 どうして、 日本に?」

「 日本人の誠実さと勤勉さに強く引かれたからだそうです 」ヒース教授は安吉とトミを見た 。

「さて、 当大学で学びたいのは奥さんのほうですか? 」

「はい」

「 名前は、 トミさんですか?」教授がトミの方をむいて本人を確認した。トミが返事を返すと、教授は「 なぜ、 大学で勉強したいのですか? 」と続けた。

「 私は、 学び足りておりません。 村に来ていた牧師様から色々なことを教わりましたが、途中で村を離れたも のですから・・・」

「 なるほど・・・では、 貴方は何を学びたいのでしょうか?」

「 私は、 子供たちに教えることのできる勉強をしたいのです 」

「 それはいい、 子供たちにとって多くの先生が必要です」

ヒース教授は穏やかにトミを見、 両手を机の上で組むと微笑んだ。

「 あなたは英語が良くできますが、 どこで習ったのですか?」

「 村の牧師様からです 」

「 ほう? アメリカ人ですか?」

「 そうです 」

「 なるほど、すばらし い仕事をしている牧師だ。 貴方ほど英語ができれば十分でしょう。 来年度からの入学を認めます。 ただし、 貴方の住んでいる近くで勉強されたほど良いと思いますので、 しばらく旧キャンパスの方で学んでください」

安吉の考えていたことが、 ヒース教授から言い渡された。

「 旧キャンパスはすばらし いところですよ。 それに、 歴史がある。 このワシントン大学の元学長であるアサ・マーサーが二十二歳の若さで最初のインストラクターとしてスタートした場所だからです。 最初、 生徒は男女合わせて三十一人だったそうです。 最初の生徒達に付いては面白い逸話がありましてね。 入学した女性の学生達は最初、 掛算さえも満足にできなかったのに、 最初に卒業できたのは女生徒だったと言うことです。 当時、 女性は男性に比べて勉強を教えてもらう環境が乏しかったのです。 しかし、 三十年も前に向学心に燃えて入学し、 男性達よりも勉強して卒業した女性達が居るのです。 貴女もぜひ自分の夢をかなえてください」

ヒース教授の穏やかな言葉にトミと安吉は深く頷いた。

1861年に準州の大学としてスタートしたワシントン大学の初代学長アサ・シン・マーサーは、 シアトルがアルコール依存症の男が多く平均的なモラルが低いのは、 女性の数が男性の数に比べて極端に少なく家庭を持つ者が少ないが為だと考えた。 数年後、 彼は東海岸において南北戦争で夫を亡くし若くして寡婦となった女性や、 又カリフォルニア行きを希望する女性達のシアトル移住を勧め、 船を借り切ったりして多くの女性移住者をシアトルに運び入れることに成功した。

移住したほとんど の女性達は、マーサーの思惑通り数ヶ月してシアトル在住の男子達と結婚し家庭を設けた。

この社会的な行動によりシアトル市民のモラルは著しく向上し、 都市としての機能が健全に動くようになったと言われている。

ワシントン大学からの帰りに、 安吉たちは旧キャンパスに立ち寄ってみた。

白く塗られた木造の建物はイオニア式の柱が四本並んでいて、 なかなか威厳があった。

「 トミ、 このキャンパスは住んでいるところから近いので便利だね 」

トミの青い目は、 太陽の光を受けて白く輝いている建物に向けられていた。

翌年の1894年に、 トミは古屋商店を止め大学に入学した。

日本からの移住者が増えていたので、 トミの代わりの人材は容易に見つけることができた。

「 最近の日本の人は、 英語がよく分かりますなあ 」日本人を二人採用した後、 古屋が安吉に話しかけた。

「 日本で渡米雑誌などが刊行されて、 言葉の重要性を皆が認識して来たからでしょう 」

「 うちは、 トミさんにいてもらいたかったんどすけどなあ・・・ 」富士子がハンカチで顔の汗を拭きながら言った。 既に夏を過ぎていたが、 まだ暑い日が続いている。

「ああ、 暑いなあ。 昼は素麺(そうめん)にでもしてもらいまひょう 」富士子は、 太っているせいか先ほどから扇子をパタパタと動かし、 自分の顔に風をあてている。

「 ユニオン湖で六貫( 約二十三キログラム )程のうなぎがつかまったそうですよ 」

「 ほう・・・ 」古屋は目をぱちくりして頭を前後に動かした。

「 地震でも起きますんやろか? 」富士子が扇子を動かしていた手を止めた。

「いえ、あの湖や・・・とにかく、アメリカの川や湖には大きな魚が一杯いますから、どうってことはないでしょうが、それよりもう聞きましたか? 日本郵船会社がシアトル航路を開くそうです 」

「 ほう・・・」古屋は再び目をぱちくりして、 身を安吉の方に乗り出した。

「 日本郵船は自分のところで移民会社を持っていますので、 多分多量の日本人移民がシアトルに送り込まれるようになるでしょうね 」

鶴谷 寿著「 アメリカ西部開拓と日本人」(日本放送出版協会 刊 )によると日本吉佐移民会社は、 1891 年( 明治二十四年 )日本郵船会社社長の吉川泰次郎と江戸の旧幕臣で移民問題に関心を持っていた佐久間貞一の両名によって創立されたとある。

「 いつ頃になりますかなあ?」古屋が言った。

「 何がですか? 」

「 そのう・・・郵船さんです・・・相手は、大きい」古屋は話の途中で吸っていた煙草にむせび、 ごほごほと咳をした。

「 あんたはん、そない緊張することあらしまへんえ。 うちは、うちの仕事の範囲でやればいいやありまへんか? 」富士子がけろりとした顔で言った。

「 そのとうりです。 日本郵船会社がシアトル航路を開くのはまだ数年先の話らし いですから、 それまでに儲ければいいでしょう。 既にアメリカの貨物船はシアトルから日本、中国と頻繁に行き来しているじゃあないですか。 ただ、 日本の船が航路を開いた場合、 日本人の渡米者の数が急増します。アメリカ人が最終的は中国人労働者を締め出したように、 移民の締め出しに発展しなければいいですが・・・」

この安吉の言葉は、依然としてアメリカに残る白人優先社会を危惧したものだった。この予想はやがて現実のものとなって現れる。1890 年代、 日本人のアメリカ在住者人口は二千人ぐらいだったと推定される。1900年においては十倍に膨れ上がった。 当然、低賃金で勤勉に働く日本人労働者が白人労働者の雇用を圧迫し、必然的に排日運動が湧き起こった。 1908年には日本とアメリカの紳士協約で、 日本人移民の渡航制限が実施され、 排日の問題が次々に浮上する。


1895年、 日本が中国の清との日清戦争で勝利した。

1896年八月三十一日、 日本郵船の船が初めてシアトル港に入港した。

1897年七月十七日、 ユーコン川で採集された数トンの金を載せた蒸気船ポートランドがシアトル港に入港した。

1897年六月、 トミは優秀な成績で一年早く大学を卒業した。


1898 年、 シアトル在住の日本人数は五百人を超えていたと推測できる。

八月の朝、 安吉が古屋商店に出勤すると、 二年前に採用した日本人社員の野田が安吉を呼び止めた。

「 楠本さん。 大変ですよ。安吉のほうに差し出した。これを見てください 」野田は、手にしたシアトル・ポスト紙を安吉の方に差し出した。

「 朝から、どうしたんだい? 近くで金鉱が発見されたというのじゃあないだろうね?」

「 それよりも、 日本人の恥じですよ 」

「 恥じ?」安吉は、野田から新聞を受け取った。 野田が脇から新聞の見出しを指さした。 新聞は売春婦の一斉検挙を報じており、 売春婦の大半はアジア人で日本人女性も多数であると誇張して書いていた。

「 キングとジャクソン通り、 そしてとサード( 三番街 )とセブンス( 七番街 )の間か・・・この近くじゃあないか。 このような、 いかがわしい場所があったったかなあ? 」

「 ありました 」野田が答えた。

「 そうか。 野田君は独身者だから、 夜の町もよく知っているわけだ 」

「 二年前には、 日本人女性の娼婦は数人しか見かけませんでしたが、 最近は吉原のようでしたね 」

「 吉原?」

「 そうですよ。 かなりの日本人女性が働いていましたから 」

「 働いていたって? どんなところで? 」

「 飲食店です 」

「 飲食店だって? 日本人経営の? 」

「 はい」

「 いかがわしい飲食店か・・・」安吉が考えていると、 野田は照れくさそうに笑い「 最近ですよ。 増えたのは 」と言った。

「 へえ・・・君は、 よく行くのかね。 そんな場所に 」

「はい、息抜きです。 吉原のアメリカ支店のようですから」

「 ふーん。 でも、 アメリカは人権意識が高い国だからねえ。 日本のように醜業婦の営みを簡単に許しておくはずがない 」

「 娼婦達がいなくなると、 寂しいです 」野田が頭を掻いて言った。

「 野田君。 僕たちは明治生まれの日本人だから遊郭にもなれていて、 公娼制度や婦女の売買にも疑問を持ちにくいが、 キリスト教徒のアメリカ人達からすると、 ずいぶん野蛮なことらしいぜ」

「 そうですかねえ?」

「 そうだよ 」

「 でも、 日本の女が言っていましたよ。 出稼ぎだって。 それで、 アメリカに来てドルで稼ぐ と、他の国より早く借金が返せて自由になるだけじゃあなく、 貯金だって夢じゃあないって喜んでいましたけど? 」

「 ・・・・・・ 」安吉には返す言葉がなかった。 自分達でさえ、このアメリカでドルを稼ぎ豊になろうとしている。 娼婦達もドルを稼ぎ、豊になり、そして幸福になろうとしているのだ。

安吉は、樽の中にいたトミを思い起こした。 樽につめられ蓋をされると人間はどういった精神状態になるのだろうか?  狭く暗い樽内である。 恐らく想像できないような恐怖に陥ることであろう。 それでも、 娼婦達は樽に入る。 何のために? 幸福を得る為である。 唯一彼女たちに残されているのは、希望と言う「幸福への近道」で、それが樽の中の恐怖に打ち勝つ力を出させているに違いない。

「 とにかく、だ。 この新聞には三百人も のストリート・ガールが捕まったと書いている。日本人は何人ぐらいだろうかね?」安吉は新聞の紙面から目をそらして野田に聞いた。

「 大半がアジア人女性だと書いてありますよね・・・詳しいことは僕も知りません 」

「 大半か・・・二百人近くもアジア人の娼婦がシアトルにいたとは、ちょっと信じられないなあ・・・ 」

「 楠本さん。これは、 あくまでも噂ですが日本郵船がシアトル航路を開いた後、 シアトル港の移民入国は他の港に比べて簡単だそうです 」

「 どうしてだい? 僕だって、 わざわざカナダから入国したんだぜ。アメリカの港は移民入国が難しいと聞いていたからね 」

「 そうなんですよ。 でも、 私はシアトル港で移民検査を受けましたが思った以上に簡単でしたよ 」

「 へえ・・・それは、 知らなかった 」

「 実は、 移民官が通訳を通じて移民一人から一ドルの人頭税を徴収しているらしいです 」

「 賄賂かね? 」

「 いや、 詳しくは知りません 」野田は、 にやりと笑い手を振って不定すると、 安吉から新聞を受け取って自分のデスクのほうに帰って行った。

安吉はアメリカに入国した後直ぐに、 カナダのバンクーバーで売春婦の密入国問題に遭遇している。 サルベーション・アーミーのジミー牧師に手伝わされてカナダ警察に協力し、娼婦を樽につめて密入国させようとした水夫達と戦って娼婦を助けた。

シアトル・ポスト紙によると、 シアトル警察の署長ボルトン・ロジャーズは日頃から日本人娼婦の街娼活動を快く思っていず、今回の一斉検挙に踏み切ったと言うことだった。 アメリカでは、 法律で売春婦の入国禁止を制定してあったが入国の目的に「 売春活動 」と 書き込む馬鹿はいない。 悪知恵にたけた裏社会の暗黒街の面々がありとあらゆる手を使い、海外の安い人身売買を利用して売春婦周旋屋に密航を依頼し、女性達を金儲けの手段の為に合法的又は非合法的に入国させた。 彼達は娼婦達の人権を無視して人間としては扱わず、ただ性の奴隷として荒野の荒くれ男子達から金を巻き上げる「 物 」として取り扱った。 暗黒街の醜窟経営者は娼婦を買い入れる時、 物と同じように「 輸入 」と言う言葉を使ったのである。

1860年代、既にコロラドのデンバーでの中国人売春宿に十数名の日本人娘がいたと言われていた。それからアメリカにおける日本人娼婦の数は、減ることなく増え続けるのである。 一体彼女たちは日々をどのように送り、ど のような気持ちで人としての生命を終えたのか、 私は気になる。

安吉は仕事が終わると、ストリート・ガール達が活動していた飲食街に足を向けた。 タ方の六時であったがまだ通りは八月の陽の光で明るかった。 なるほど、しばらく来ない間に飲食店の数が増え、 ある通りではアルファベットで日本語の看板を書いた飲食店が軒を連ねていた。 日本人ら い男子達の姿もちらほら見える。

安吉は思い切って―つの飲食店に入った。

外の明るさに比べて薄暗い店内には誰も客がいず、 カウンターで年増の女がひとりトランプをしていた。 彼女は、入ってきた安吉にチラリと目を向け「 誰もいないよ。 皆、 捕まっちまったよ 」と乾いた声で言った。

「 いや、 僕は女が目当てではないんだ 」

年増女がトランプの手を止め、 安吉を見た。

「 じゃ、なんね? 」

「 あ、 いや、 その、 ちょっと飲みたくなってね」

「 ああ、 そうね 」女は、 ドッコイショと言い、 丸い椅子から降りるとカウンターの中に入り「 何、 飲むね? 」と聞いた。

「 ビールでももらおうか? 」

年増女は無表情にビールを出して安吉に渡した。

「 捕まったといったが、 誰が捕まったのかな?」

「 うちの従業員 」

「 ほう? どうして? 」

年増女は、 安吉の質問にケタケタと声を上げて笑い「 お客さん、 この辺り初めてかね?」と聞いた。

「 いや、 この店は始めてだが・・・正直言うと、最近来てなかった。日本人が増えたねえ 」

「 日本人は、 この辺りを、 吉原と呼んでるよう 」

「 吉原? あの、 日本の色街? 」

「 あんたさんも、 女、 好きでしょうが? 」

安吉はくぎを押されるような相手の言い方に「 ま、 少しは・・・」と答えた。女は再びケタケタと声を上げた。 前歯が一本なかった。

サーブされたビールは生暖かった。

「 ビール冷えてないよ 」年増女が言った。

「 いや、 だいじょうぶだ。 それより、 警察に逮捕された人達はどうなったのだろうね? 」

「 人達? ああ、 あの娘たち・・・」

「 日本人だろう? 」

「 借り物だから。 どうなるか知らないよう 」

「 借り物って? 『物』ではないでしょう? 」

「 お客さん・・・変わった男だね 」女はあきれたように言った。

「 ・・・・・・」

「 売られてきた女を気にする男なぞ、 見たことない」

「 生身の人間だよ? まだ若い娘だろうに・・・ 」

「 シベリアに行くか、 中国に行くか、 インド、 フィリピン、 マレイ半島・・・売られたら、どこにでも生きなきゃあならないんだよ、 お客さん。 アメリカに来られた娘は、 まだ良いほう。 小金を貯めて、 やがて自由にもなれるですよお 」

「 そう言うものかねえ・・・ところで、 借り物って?」

「 ああ、 あの娼婦達には元締めがいて、 ここで商売しているだけ。一日一人から一ドルもらってるですよお。 あの娘達が帰ってこないと、 商売が上がったりだ 」

年増の女は身勝手なことを言い、 たばこをくわえて火をつけた。 薄暗い店内をマッチの火が照らし、 たばこをくわえた女の顔を浮かび上がらせた。 うす紫の煙がふわりと空中に浮かび上がり、 低い天井に当たって広がった。 この女も同じような経験をしてきたのであろう。 屈辱に耐えて、女の性の売買に無感覚になっているのかもしれない。

安吉がジョッキのビールを半分ほどあけた時、 店の入り口のドアが開いた。 外の明るさを背景に二人の女と一人の男の姿がシルエットのように浮かんで見えた。

男が女達を店に押し込むようにすると、 はっきりと日本人娘の姿が現れた。 ドアが閉まった。 男が年増女の方のカウンターに近寄ると椅子に腰を落とし、 チラリと安吉のほうを見た。

一見してやくざ物と分かる風体だ。安吉は目をそらした。 男は安吉を遊びの来客とおもったのか「 ヘヘ・・・ 」と、 低く笑い年増女を振り向いた。

「 ウイスキーでも、 くれや 」と言い、 ボトルを受け取ると小さなグラスに注ぎ込みクイと仰いだ。

男は自分の手の甲で口元をぬぐって「 へヘ…… 」と再び笑い「 取り返してきたぜ 」と、年増女を覗き込むようにして言った。

「 いくら? 」年増女が聞いた。

「 それが、 こん畜生だ。 二十五ドル出せといいやがる。 一人にだぜ 」

「 二十五ドル! 」年増女は声をあげて二人の娘のほうを振り向いた。 日本人の男が一日に稼ぐ給金が一ドル八十セントの時である。

「 あんた達、 もうないよおう。 貯めたお金、 これでパーよお。 働いてもらうよ う」

年増女の投げやりのような言莱が店の中に響いた。 二人の日本人娘は方を寄り添うようにして入り口付近に立っていた。

安吉はビール代を支払って飲食店を出た。 少し歩いた後、二人の娘がたたずんでいた飲食店を振り替えると、 野田の話が思い起こされた。

女と店で交渉が成立すると、 用意されえた小さな部屋に行く。 女は下着を着けてない。身体のスカートをめくって仰向けになる。 黒いヘアーが男の視覚に飛び込んできて、それは郷愁を呼び起こすものだと彼は語った。 卑猥な話であるが安吉は男子達の話として耳を傾けた。

日本の遊郭では、張店という格子でできた見せ窓の様なところに娼妓が座り、 外から遊興客が品定めをすることのできるようになっている。 娼妓の人権をまったく考慮しない方法が取られていた。 そして交渉後は、 支払う金額に応じた時間内で娼妓を自分の女として独占したのである。

「 おかえりなさい 」トミが安吉を迎えた。

「 ただいま。 少し寄り道をしてしまった 」

「 お仕事? 」

最近トミは東京方言を多く使うようになっている。

「 いや・・・」

「 ご飯、 食べるでしょう? 」

「 もちろんだよ。 お腹、 ぺこぺこだ 」

トミは微笑して夕飯の用意を始めた。 安吉は服を着替えてテーブルについた。

「 ビール、 飲むと? 」

「 いや、 既に飲んできた 」

「 あら? 」トミが振り返って安吉を見た。

「 ほら、 古屋商店から少し西に行くと飲食店街があるだろう? 」

「 あったかしら? 」

「 あったんだよ。 少し用事があって行ったのだけど、 驚いたことに日本人の飲食店が増えていた。 いや、 これは野田君から聞いて、 少し気になったことがあったので確認のために行ってみたのだがね。 そこで、 ビールを少し飲んだと言うわけさ 」

安吉はトミに娼婦のことを話したくなかった。 トミも、 彼女達と同じようにつらい過程を経て、 同じ目的でアメリカに送られたのである。

テーブルの上に夕食の用意が整った。 トミは梅干しを一つ小さな小皿に移して「 召し上がる?」と安吉に聞いた。

「 いや、 ぼくはいいや・・・」と言いながら、 安吉はふと思い当たることがあって妻を見た。

料理を作っていたからか鼻の頭に小さく汗をかいている。 形の良い口と鼻に、 電灯の光が当たって光っていた。 確か、妊娠した女性はすっぱいものを欲しがると聞いたことがあったのを安吉は思い出した。 もしかして、 トミに、 子どもができたのではあるまいか? 安吉は、 自分の想像に幸福になった。 彼はうきうきとして、 ご飯を食べる箸を取り上げた。



翌日、安吉はシアトル・ポスト紙の中で、 再び街娼婦の検挙に関した記事を見つけた。 シアトル警察の署長ボルトン・ロジャーは、 白人の娼婦は厳重注意だけで釈放し、アジア人の娼婦には釈放金とし て一人につき二十五ドルを課したと言うことでだった。 これは、昨夜飲食店でヤクザ者風の男が言っていた金額である。 二十五ドルの保釈金を立て替え、 留置場に入れられている娘達を釈放させるにはかなりの資金が必要だ。 一体誰が・・・と考えていると電話のベルが鳴った。

机の上にある電話の受話器を取り上げると、 シアトル警察ですと相手は言った。 安吉は受話器を握り直し、 机の椅子に腰をおとした。

相手は警察だったが、 安吉とトミの名前を確認し、 丁寧な言葉でしゃべりはじめた。

話の内容は、 今回逮捕された日本人の女性達に対する通訳をお願いできないだろうかと言う依頼だった。 瞥察は日本人の娼婦を逮捕したも のの言葉の問題があり取り調べがうまくゆかず、 シアトル大学に協力を依頼したところトミを紹介されたらし い。

安吉は了解した。 トミに都合が悪ければ自分が代わりに通訳をするつもりだった。 シアトル警察は、 明日の朝十時に警察のほうに来てくれるようにと言った。

安吉は社長の古屋に事情を説明して許可をもらった。

「 話には聞きましたあ、 大変なことですなあ。 うちはオーケーですう。 日本人の娘さあん達のために、 よろしくお願いしますう 」古屋はいやに神妙に言い、 頭さえ下げた。

昼食時、 安吉一人が遅い昼飯を古屋商店の従業員食堂で食べていると、 おヨネさんが店のほうからわざわざ やって来て、 安吉の前のテーブルに腰掛けると、 身を乗り出すようにして声を潜めて話し掛けた。

「 楠本さん。 あんた、 色町の女達を助けるんだって? 」

「 ええ、 シアトル警察から通訳の依頼がトミにありましたから、 自分もできれば協力したいと思いまして 」安吉は、やかんを取り上げて自分の湯飲みにお茶を注ぎながら答えた。 その時、 おキヨさんがおしんこの入った皿を持って来てテーブルの上に置き、 上手く漬かっているから食べてくれと言った。

おヨネさんとおキヨさんは安吉の前に並んで座っている。

「 若い女性二人に見つめられると、 少し恥ずかし いですよ 」と、 安吉が冗談を言うと「 若くはないが、 まだ二人とも現役だよお 」とおヨネさんは答え、 両手で自分の乳房を持ち上げて示した。

「 おっしゃる通りです 」

安吉の言葉に、二人は声を上げて笑った。 おョネさんとおキヨさんは、 まだ四十半ばだろう。

「ところでおヨネさん、 一体誰に聞いたのです? この話・・・ 」

「 古屋さん 」

「 えっ? 古屋さん? 」

「 楠本さんは、 知らないよねえ・・・古屋さん、 日本の家が貧乏で、 妹が私達と同じような目にあったんだよ 」

「 私達?」

「 そう。 私達、 売られた事がある 」

「・・・」

「 古屋さんは、 小金をためて妹を引き取ったのだって 」

「 へえ・・・知りませんでした 」

「 こんなことは、 誰にもしゃべりたくないことだものねえ・・・」

「 ま、そうですね 」

「 私達も古屋さんにお世話になったし、 何とか今回のことを人事と思えなくてね・・・ 」

「 これ、 少しだけど軍資金に使ってもらおうと思います 」おキヨさんが紙に包んだものを安吉のほうに差し出した。

「 二人で話して決めたのですよ。 よろしくお願いします 」

安吉はテーブルに置かれた小さな包みを見、 目の前の婦人達に目を向けた。 この人達はつらい境遇にも負けず、 戦って勝ち抜いた女性なのだ。 しかも、 自分を見失っていず、 他人に対する人間らしい思いやりを持っている。 頭の下がる思いがした。

「 分かりました。 このお金を、 ありがたくつかわせていただきます 」

「 美味しいおかずを作って持ってゆくよ 」おヨネさんが言った。

「 美味 い漬物を持ってゆきますね」と、 おキヨさんが言った。

安吉は仕事の合間に時間を見つけて、トミに説明するために住居に帰った。訳を話すと、 トミは喜んで通訳の仕事を引き受けてくれた。



翌日の朝、 トミと安吉はシアトル警察に出向いた。

馬車から降りて、 石段を二人が上っていると警察の前に眼鏡をかけた中国人が立っているのが見えた。 相手が安吉たちを見て、手を上げた。

「 ジミー? 」

「 待って、 いました 」と、 相手は日本語で答えた。

「 驚いたなあ! 本物だ 」安吉はジミーに駆け寄って握手をした。 彼逹は、 お互いに肩を叩き合って再会を喜んだ。

「 トミさんも、 安吉さんもお元気そう、 です」

「 又、 一体、 どうしたんだい? とにかく驚いた 」

「 神のお導きで・・・」ジミーが手で十字をきった。

「 牧師様がシアトル警察にピストルを売り込んでいるのじゃあないだろうね? 」

「 もちろん違います 」

「 では、 例の件だ 」

「 そうです。 シアトル警察、 不公平な事、 しています。 私、 ヒース教授と話し合いました。 アジアの女達、 助けます。 救世軍の仕事 」

「 ヒース教授って、 ワシントン大学の? 」

「 そうです。 マーク船長、 クラーク博士、 ヒース教授と皆、 同じ教会、 関係してます 」

「 同じ? 」

「 はい」

「 そうか 皆、 尊敬できる人達だ 」

「 聞きましたか? アジア人の女達は二十五ドル、 保釈金、 いりますね 」

「そうなんだ。 白人の娼婦達は注意だけで釈放されたらしい」

「 不公平です 」

「 それは、 そうだけど・・・ 」

「 戦いましょう 」

「 もちろん、 不公平なことには断固として反対するけど、 実は、 今日は通訳のために来たんだよ 」

「 トミさん、 通訳できますね? ヒース教授、 言いました 」

「 そうなんだ。 トミに、 警察から通訳の依頼があったからね 」

「 オーケー。 では、 安吉さん、 私と一緒、 警察と戦います 」

「 えっ?」

「 二十五ドル、 高すぎます。 もっと安く、 でぎれば支払い、 しないのがいいですね 」

「 ・・・・・・」

「 では、 行きましょう 」ジミーが安吉に言った 。

救世軍は、 ワシントン大学の協力を得て、 シアトル警察の署長のボルトン・ロジャーズの人種による不公平な処罰を訂正するよう、 シアトル市長のトーマス・ヒュームスに申し立てていた。

ジミーは、 トミと安吉に暗黒街の売春宿の経営者達が金を払って娼婦達を払い下げてもらい、 払った保釈金をかさに再び娼婦達を過酷な組織に縛り付けようとするのを、 とにかく阻止しなければなりませんと語った。 そのためにはトミさん、 できるだけ女性達から、 彼女たちに有利な情報を集めください。 「安吉さん、 ピ ストルは持って来ましたか?」 と、相変わらず牧師らしくないことも言った。

確かに留置場のある警察の建物の中には、 やくざ 風の男子達の姿が見える。 彼達は金銭にも のを言わせ、 弁護士を使って留置場から女性達を引き出そうとしていた。

ジミー達救世軍は、シアトルの政治的に力のある教会関係者達に、 今回捕まった娼婦達が保釈金だけで保釈されることに異議を申し立ててもらうことにしていた。 又、 救世軍は既に万国婦人矯風会のシアトル支部にも応援を依頼していた。

ジミーが警察関係者と話している時、 背後のほうで日本人の話し声が聞こえて来た。

「 じゃましているのは、 あの、 中国人野郎か?」

「 あの、 野郎です。 殺りますか?」

物騒な話である。 安吉は、 そっと声のするほうに目を移した。 きちんとした服装を見につけてはいたが、 やくざ風の日本人の男が二人、 ジミーの背後に目をやっている。

安吉はジミーを守るため、 適当な位置に動いた。

「 よし、 ここを出るまで待て」と兄気分のほうが言い、 男子達は警察から出て行った。 安吉は、 話を終えたジミーを警察のロビーの端に誘い、 事のいきさつを話して聞かせた。

「 なるほど、 危ない、 ですね 」

「 全く、 危ない」

「 戦いましょう 」ジミーが言った。

「 戦う? 」

「 ピストル、 あります 」

「 それは、 少しまずい。 ジミーは牧師だろう? 」

「 そうです 」

「 やはり、 その、 人を殺めるのは良くないでしょう? 」

「 良くありません。 でも、 仕方ない」

「 俺が、 やるよ。 とにかく、 任せてくれ 」

二人が瞥察の建物を出ると、 日本人の男が尾行を始めた。 安吉は同じ同胞として、 悪い日本人が許せなかった。 ジミーは、 日本人の娘達を助けるために警察や悪人と戦っている中国人である。 男子達をジミーに指一本触れらせるつもりはなかった。

「 ちょっと、 待て! 」と、 ジミーと安吉を呼び止める日本語の声が背後でした。

三人の男が彼達を取り囲んだ。

安吉は、 片手をポケットにいれ、 先ほど 忍ばせていた小石を手にした。 多分、 日本人の男はドスと呼ばれる小刀を使うかもしれない。

先ず一人がピストルを脇から出してジミーのほうに向けた。

安吉の小石が、 ピ ストルを持った男の眉間に当たった。 同時に安吉の拳がドスをかかえた男の右脇腹に食い込み、 三人目の男が行動を起こす寸前に足蹴りを男の急所に入れていた 。

安吉は、 男子達を警察に引き渡したが、 どうしてこのようなヤクザ者がアメリカに入国しているのか不思議な思いがした。 多分、 売春婦周旋屋が娼婦の監視に送り込んでいるのかもしれない。

トミによると、 逮捕されたアジア人はやはり二百人程だったそうである。 そのうちの百二十名はすでに保釈金を払って保釈されていた。 当然、 支払われた保釈金は暗黒街の者達が立て替えたに違いない。

「 どうしょうか? 」安吉はトミとジミーに話し掛けた。

「 シアトル警察、 分からせます 」ジミーが言った。

「 でも、 保釈された後、 女性達をどうするかねえ・・・」

「 婦人矯風会、 更生施設あります 」

「 なるほど、 そこに収容して・・・そして、 どうするかねえ? 」

「 日本人は日本、 中国人、 中国、 フィリピン人や他の国、 皆帰ります 」

「 でも・・・ 」トミの言葉に安吉とジミーはトミのほうに目をやった。

「でも、 ほとんどの女性が言っていました。 元の仕事に早く帰りたいって・・・ 」

「 えっ? 娼婦の仕事に? 」安吉はトミから目を離してジミーを見た。

「 はい。 そのとうりですね」

「 ジミー。 急に牧師にならないでくれよ。 これでは、 彼女達を釈放させても、 何にもならないじゃあないか 」

「 ほとんど の女性、 借金あります。これ、 断ち切る必要ありますね 」

「 どうして、 断ち切れるかね? 」

「 借金、 無効にしてもらいましょう 」

「 誰に? 」

「 法律です 」

「 どんな風にだろう 」

「 個人破産、 してもらいましょう 」

「 個人破産?」

「 アメリカ、 デモクラシーの国です。個人の権利、 たくさんありますね 」

「 あと、 一つ分からないんだがね? 」

安吉の疑問にトミが「個人の借金をすべて棒引きにして、 新しく人生をやり直させ

る法律があるの 」と、 説明した。

「 ほんとうかね? そりゃあ、 便利だ。 アメリカはすごいね。 日本の明治政府も、 その、なんだ・・・デモクラシーを見習って欲しいものだ 」

「 でも、 手続きが面倒だと思う 」トミが付け加えた。

「 その通りです。 時間、 かかります。 ですから、 一時、 矯風会の施設、 入ってもらいましょう 」

「 よし、 分かった。 ジミー、 保釈金は僕たちが立て替えるよ。 一刻も早く、 釈放させて保護したほうが彼女達のためにはいいだろう 」

「 もちろん、 です。 しかし、 大金。 安吉さん、 ありますか?」

「 農地を買うために貯めていた金がある。 これを使おう。 いいね、 トミ 」

トミは安吉の言葉にコクリとうなずいた。

「と、 言うことだ。 でも、 ジミー。 できるだけ安くなるように交渉してくれ 」

「 オーケー。 だい、じょうぶ、 です 」

ジミーは早速動きはじめた。 シカゴの万国矯風会本部やサルベーション・アーミー( 救世軍 )のバック・アップとワシントン大学のヒース教授等の協力を得て、 保釈金を一人五ドルまでにし、 八十人の女性すべてを矯風会の更生施設に収容できた。

この事件がもとで、 シアトル警察署長のボルトン・ロジャーズは、 その要職を解かれた。

二週間経った。

トミは毎日のように更生施設に通い、 女性達の世話をしている。

おヨネさんとおキヨさんは、毎日のようにおかずをこしらえて持って来てくれた。

「 日本人を除いた他の国の女性達は、 自分の国へ婦りたいといってるたい 」ある日、 トミが夕食後に言った。

「 へえ・・・日本人は、 皆アメリカが好きなのかね?」

「 そげんこつ、 なか。 私もそうだったから彼女達の気持ちが理解できる 」

「 そうか。 やはり、 何か理由があるんだろう 」

「 売られた身だから、 もう故郷には帰れんとよ・・・ 」

「 でも、 国では肉親がいるだろうに・・・ 」

「 売られた者が帰ると、 肉親がこまるだろうからって・・・それに、 売られたことに対する引け目もあると・・・ 」

「 そうかあ・・・何か良い方法はないかねえ・・・」安吉は、 トミが渡した湯飲みを持ち上げ、茶を一飲みした。

「ところで、 日本人女性の数は何人ぐらいだろう? 」安吉の問いに、 キッチンにいたトミが振り向いて「 五十五人だけど?」と、 答えた。

「 五十五人か・・・皆、 若いのだろうか?」

「 ええ、 一番年上の人が二十二歳、 若い人は、 十八歳 」

「 なに? 十八だって? 子どものような者じゃあないか?」

「 身売りは、 十五でもされたとよ。 うちは、 十九だった」

トミは安吉と結ばれた時、 男を知らない身体だった。 島原で娼婦周旋屋に身を売り、そのままアメリカに連れてこられた。 樽に積められ密入国させられていた時に、安吉とジミーに助けられたのである。 強制送還されるのを彼女が嫌がった理由は、 肉親がトミの身を代償にして得られたお金を返さなければならなくなることへの恐れからだった。 明治の時代、 日本の貧農地域や経済的貧窮に苦しむ人達の間では、 自分の身を犠牲にしてまで親兄弟を助けたいと思う娘達が多かった。

そして又、 これを美談として利用し、人身売買という非人道的なことが日常茶飯事におこなわれ、 公娼制度を擁護する明治政府の無骨な政治体制と、 日本人社会における伝統的な性社会の俗悪な面が淀んでいた時代だった 。

安吉は両手で茶の入った湯のみを抱えた。 温かさが手のひらに伝わって来る。 冷え込んだ人の気持ちを温かくするには、 温かい物が必要であろう。

「何か、 良い考えがないかねえ?」

トミが安吉のほうに歩いて来て椅子に腰を落とした。 青い目をした若々し い顔が安吉を見た。

「 僕は、 トミと一緒になれて、 本当に幸福だとおもうが・・・彼女達を結婚させるのはどうだろうか? 」

「 ・・・」トミが、 驚いたような顔で安吉を見た。

「 トミ。 どうだい? これは良い考えだろう? ほら、 ワシントン大学の初代学長のアサ・マーサーがしたように、 日本人の男子達と結婚させれば良いじゃあないか 」

「 でも、 男の人達、 彼女たちの過去を気にするかもしれない・・・」

「 しない。 明治の男は、 色町に慣れている。 ほら、 よく聞くじゃあないか。 男が娼婦に惚れて身請けすること。 明治の男の良さだよ。 心配ない、 上手く行くさ。 それでなくても日本女性が少ないのだから 」

「 じゃあ、 彼女達に結婚のための準備をさせるの? たとえば、 洋裁を勉強させるとか 」

「 それは、 良い考えだ。 よし、 この計画を実行に移そう 」

安吉は立ち上がって妻のほうに行き、 彼女の唇にキスをした。 トミの温かい唇の感触が彼の身体を奮わせた。



翌日、 安吉はジミーに会い、 この計画を話してみた。

「 それは、 グッド・アイデアですね。 私、 アメリカに残りたい女性、 残る。気付きませんでしたよ 」

「 そこで、 残りたい女性を残すには、 結婚に限るが・・・問題がある。 アメリカのビザ だ。アメリカの法律では外国人がアメリカで売春活動をした場合、 本人の出身国に送還する場合もある 」

「 万国矯風会の応援、 頼みましょう 」

「 そうだね。 社会活動組織の方から手を回すと、 上手く行くかもしれない」

「 ただ、 私、 少し気になります・・・ 」ジミーが手を組んで黙った。

「 どうしたんだい? 絶対、 うまく行くと思うけど? 」

「 はい。 良い考えです。 しかし、 彼女達の、 結婚後のことです 」

「 結婚後? 」

「 私、 日本にいる時、 日本人の家庭、 見ました 」

「 うん・・・それで?.」

「 日本人の男性、 女性を、 少し悪く見ていますね 」

「 悪く、 見ている・・・ 」

「 女性の人権、 少し、 低いかな、 思いますよ 」

今度は安吉が腕を組んで黙った。

「 結婚後、 男が女性を再び娼婦にしたら、 よくありません 」

ジミーは、 流石に年季の入った社会活動家である。 人権尊重の立場から物事を考え 又、把握して行動していた。

「 そうだね。 よく男を選ばねば・・・ 」

「 あまり、 深く考える事、 ありません。 でも、 少し考えますね 」

「 いや、 いやいや、 深く考えようよ。 大事なことだ 」

安吉がジミーに会い、 彼の逗留しているホテルを出ると、 既に周囲は薄暗くなっており小雨がぱらついていた。 安吉は、辻馬車を拾い日本人の飲食街に出かけてみた。 馬車から降りて直ぐ、 見覚えのある飲食店の看板が目に入った。 やくざ風の男が留置所から連れ出した日本人娘の二人が気になっていた。

安吉は思いきって店の中に入った。 数人の男がカウンターに向かっている。 四人ほどの女がテーブルでそれぞれ男の相手をしていた。 売春の交渉だろうか。 一人の男が立ち上がって女と店の奥のほうに消えた。

カウンターの男がチラリと安吉を見、 直ぐに店から出て行った。 安吉は直感的に男から殺意のような物を感じたので、 そのまま踵を返して店を出た。 彼が飲食街の一区画を歩いて見終わったころ、 小降りの雨が本格的に降り始め、 霧が町を覆いはじめた。

安吉は、辻馬車を拾うために歩道を本通りの方に歩いた。 前方から黒人風の女が一人、袋のような物を胸に抱えてこばしりに安吉のほうに走って来る。 多分、 雨を避けるために急いでいるのだろうと彼が道を譲ろうとしたした瞬間、 女の手から長身のナイフが白い線となって数回差し出された。 安吉は反射的に数度身を引いた。 最初の一回は、 無意識だった。 咄嵯のことで信じられなかった。 二回目は、 危ないと思ってナイフを避けていた。三回目は意識して相手のナイフの突きをさけたが、 まだ信じられなかった。

三度、 突くことに失敗した女は駆けて逃げた。 女だからと油断していた隙を突かれた行動だった。

安吉は、 女の逃げた霧に覆われはじめた街の一角を目で追いながら、刺客を頼んだ娼婦の元締めの組織が身近にいることを信じて疑わなかった。

先ず、 この組織を崩壊させない限り、元娼婦達の更生はありえないかもしれないことである。 計画を大幅に変更する必要があると安吉は考えた。

家に帰り、トミ見られないように服を脱ぐと下シャツに転々と小さな虫食いのような穴が三つあった。 ナイフの切っ先が軽く触れたようだ。

父視に鍛えられた武術が、 反射的に安吉の身を動かせて助けたのである。 安吉は、 箱の中に閉まっていたピストルを取り出して弾を込め、 持ち歩く書類入れに収めた。

矯正会の更生施設に移した女性達にも、 施設の窮屈なルールについていけず、 密かに施設を抜け出し元の飲食街に戻る者もいた。

「 洋裁を教える人、 いないわねえ・・・」朝、 コーヒーを飲んでいた安吉に、 トミがため息交じりに言った。

「 まだ、 見つからないのか?」

「 アメリカ人の先生はいるのだけど、 日本人には日本人の方が良いでしょう? 」

「 それは、 そうだ 」

「 それに 」

「 ?」安吉は、 トミを見た。

「変な人達を、 ときどき施設の近くで見るとよ 」トミが声をおとした。

「 変な人達? 」

「 ヤクザ者に見える人達・・・」

「 なるほど・・・」安吉は、 ありえることだと思った。 現に自分は刺客に襲われた。

「 裁縫の件は、 古屋さんに聞いてみるよ。 彼は、 かって婦人服の仕立てをやっていたらしいから、もしかして協力してもらえるかもしれない 」

「 まあ、 ほんとう? 」

「 うん、 聞いてみよう。 そして、 その前に少しすることがあるな・・・ 」安吉は、 飲食街における娼婦の元締めをみつけ、これ以上邪魔をしないよう説得せねばならないと思った。 そうでないと、 又元のもくあみとなる。 それに、 一般の人が暴力の巻き添えになることを避けなければならない。

安吉はふと、 ポートランドの田中を思い出した。

彼なら、シアトルの暗黒街に詳し いかもしれない。

翌日、 古屋商店の電話を借りて、 田中に電話を入れてみた。

電話のオペレーターを呼び出し、 ポートランドにつないでもらって、 田中の番号を呼び出してもらった。あいてはなかなか電話に出なかった。 電話のオペレーターに「ノーバディ・アンスワァー」(誰もお出になりません )と、 言われるのではないかと思える回数ほど呼び出し音が受話器の奥で響いていた。田中はいないか・・・と、 あきらめようとした時「 田中だ・・・」と無愛想な本人の声がした。

「 田中さん。 ご無沙汰しております。 私、 古屋商店の楠本です。 ポートランドでは、 大変お世話になりました」と安吉が話を終えないうちに「 いらねえよ。 なげえ挨拶は面倒さ。 それより、 なんだ、 突然と・・・ 」

「 率直に言います。 田中さん、 このシアトルで、 その・・・この日本人の飲食街を牛耳っているのは誰かご存じないですか?」

「 けっ、 そんなことかよ。 ま、 仕方ねえや。 おめえには、 一寸世話になったし、 イネにもぎりがあるからよお、 イネがおめえに惚れちまってよお、 まっ、 いいか。 そんなこたあ・・・シアトルか・・・多分、 滝沢だ。 富士屋と言う飲食店のとなりによお、 やつの巣があらあ。 玉突き場だけどな 表向きは、 だ。 しかし、 奴の上には中国人のボスがいるんだぜ。 とにかく、 奴等はやべえやね。 おっと、 おれも、 長話をしてるわけにもいかねえんだよ。 おめえは、 ラッキーだ。 おれは、 ソルトレークにうつるからよお、 これが最後だべ 」と、 田中は話の最後を地方の訛りで言い、 行く先はイネがしってらあと付け加えたが、何かあったら連絡しろと言うような好意にとれた。

安吉は椅子の背もたれに体を預け、 腕組をして天井のほうに顔を向けると深く息を吐いた。

事態は結構難しくなって来たなと思いながら、 しばらく目を閉じているとポートランドのイネの白い顔が浮かんできた。 イネがうふふとわらった。 ふと、トミの顔が浮かんだ。 青い目が安吉を見た。 飲食店で入り口付近に立っていた二人の日本人娘を思い出した。 中国人の保線工夫、 馬の言った言葉がよみがえった。女の肉、 柔らかく温かい、 生きてることよく分かる。

安吉は再び深く息を吐いた。 目を開けると、 事務所の天井が目に入った。 視線を少しずらすと、ランプを下げていたのだろうと思われる釘あとが並んでいた。

「 ・・・・・・」単なる釘あとである。 何も精神的要素を含んでいるわけでもない。 小さな穴が転々とある物理的な傷あとである。 見様によっては、 形や色やくすみなどから富士山に見えた。

安吉は椅子から立ち上がった。 行動であると思った。 行動して、 そこから応じる

ものに答えれば いいのだと言い聞かせた。

古屋の部屋をノックした。 どうぞと言う声に部屋に入った。

「 やあ! 楠本さあん。 ちょうど、 よかったですなあ。 いま、 楠本さんのう、 部屋に行こうとおもっておりましたが、 いやあ、 よかったよかった 」と古屋は言い、 にこにこと笑みを見せた。

「 どういった、 ご用件でしたのでしょうか? 」

「 いやあ、 わしはあ、 後でいいますう。 楠本さんはあ?」古屋はあごを上げて安吉を見た。

「 いえ、 私は個人的なお願いですので、 後でよろし いのですが ・・・」

「 なあるほど。 しかしい、 お願いでしたら、 早いほうがええでしょう? 後からは、 言いにくいことも、 でてきますからなあ 」と、 古屋は思いやりを見せた。 流石に何十人も の人間を使う経営者である。

「 ありがとうござ います。 実は、 お暇な時、 定期的に洋裁を教えていただけないでしょうか?」

「 洋裁? 」

安吉は、 古屋の現在の社会的身分から考えて、 彼のプライド に触るのではないかと心配したが更正しょうとする女性達ほど、精神的にもっと辛いのだと思いながら古屋の目を見た 。

「 誰にですかなあ? 」

「 じつは、 先立ってシアトル警察に逮捕されえた飲食街の女性達にでして・・・なんとか、彼女達の将来を、 少しでも良くできればと思いまして ・・・」

「 ほう・・・ 」

「 銀行が設立されてまもなく、 お忙しいのは承知しておりますが・・・ 」

「 ほう・・・」古屋は吐息のような言葉を低くもらした。

「 その、 無理にではありません。 すみませんでした。 他をあたってみます 」安吉は古屋をあきらめようとした。

「 ほう・・・ふむ ・・・いつがいいですかなあ? 」

「 ? 」

「 士曜日、 ですなあ、 私が、 まあ、 空いているのは 」

「 えっ? 教えていただけるのですか? 」

「 いやいや、 私も、 まだまだですからな。 練習ですう。 練習・・・一緒に勉強させてもらいますう 」

安吉は古屋に頭を下げた。

「 ところで、 古屋さんのお話は何でしょうか? 」

「 いや、 何、 日本の娘サンたちことですがあ・・・ここで働きたい人がいたらあ、 二人ほどならあ、 やとえます」

「 本当ですか?」

「 お願いしてみてくれませんかあ、 最初は店で働いてもらいますが、 もし、 アメリカの言葉ができてえ算盤ができるなら、 銀行でもええですう 」

「 ありがとうござ います。 皆に、 希望が出ると思います 」

「 でもなあ、 楠本さあん。 なかには、 地道な仕事を嫌いな人もいるでしょうな。 本人がやる気の出るまで、 ゆっくりお願いして下さいやあ 」

なるほど、 その通りだと思う。 安吉は自分の部屋に戻ると、 電話で矯風会の更生施設にいるトミに、 古屋の件を知らせた。 トミによると、 施設を見張っている男子達の数が増えたと言う。

次は、 古屋に迷惑がかからないように、 矯風会の更生施設にいる女性達と飲食街の暴力組織との関係を完全に清算しなければならない、 と安吉は思った。 そうしないと、どんな迷惑が古屋商店にかかるやも知れない。

その日の午後、 雨が降った。 変わりやすい天気を持つシアトルの街は数十分ほど雨をかぶると、 直ぐに雲の切れ間から太陽が顔を覗かせた。 安吉は銀行にゆく用事があったので、 事務所を出た。 古屋商店の前のセカンド・アベニュウ( 二番街 )は、 つい最近まで土の道だったが今はアスファルトで舗装されている。 雨の上がったアスファルトの道から水蒸気が発っていた。 馬車の音が高く辺りに響いている。

銀行からの帰り道、 安吉は日本人の飲食街に足を向けた。 田中の言った冨士屋という飲食店はフィフス・アベニュウ( 五番街)を南に行き、 キング・ストリートを左に曲がった。

三番目の建物にあった。 この辺りは1889 年の大火の災害を受けなかったので木造建築が多く残っている。 富士屋は夜だけ店を開いているようだ。 二階家の間取りの狭い店の真ん中にあるドアは固く閉まっていた。 横に古い煉瓦作りの二階屋がある。 看板にビリヤードと日本語のカタカナで書いてあるので、 これが滝沢と言う飲食街の元締めがいるところであろう。

店のドアは開いていた。 入口に立つと、 中からビリーヤードの玉がぶつかる音が聞こえてきた。 安吉は中に入ってみた。 数人の日本人がビリーヤードの台を囲んでプレイしていた。 台は五台だったが使われているのは一台のみだ。 奥のほうにカウンターがありバーテンダーのような男がグラ スを拭きながら安吉のほうに目を向けている。 カウンター の前のほうにはテーブルが四個あり、二つに数人の男がすわってトランプ賭博をしていた。 安吉はカウンターに近付くと、 バーテンダーに滝沢と言う人はいるだろうかと聞いてみた。

「 あんた、 誰だい? 滝沢に、 なんのようだい?」と、 バーテンダーが言った。 二の腕に刺青がある。

「 差し上げたいものがあってね・・・」安吉は小脇に抱えた袋を軽く持ち上げた。

「 テッ! 」バーテンダーが奥のテープルのほうに声をかけた。

「 何でしょう?」と、 若い男が立ち上がって安吉の方を見ると「 あっ!」 と声を上げた。

「 あ、 兄貴!こいつですぜ! 岩木達を警察に渡しやがったのは! 」

男子達がテーブルからいっせいに立ち上がった。 バーテンダーは相変わらずグラスを拭き続けている。

安吉は無頼漢達の動きを目で追った。 彼達はじわりじわりと安吉を囲んだ。

「 静かにせんか! 」バーテンダーが男子達に言った。 無頼漢達の動きが止まった。

「 何を、 飲みますか?」バーテンダーが安吉に聞いた。

「 オレンジ・ジュースでも貰おうか・・・」

バーテンダーは黙ってジュースをコップにそそぎ、 安吉にさしだした。 安吉は、 彼の全神経を店全体に張り巡らせ、 ゆっくりとジュースを飲んだ。

「 楠本さん・・・ひとりで、 ここに来るとは、 なかなかですな・・・」バーテンダーが言った。

「 ・・・・・・」

「田中さんから、 聞きいてますよ・・・あんたが、 多分ここに来るだろうってね 」

「 ほう・・・」

「 私は勝沼と言います。田中さんとは、 同じ船に乗っていました 」安吉を取り巻いていた男達が元のテーブルに戻って行った。

「 滝沢は、 二階の事務所にいます。 私が、 案内しましょう」

勝沼の後について安吉は二階に上がって行った。 二階に着くと、 直ぐ女達の高笑いが聞こえた。 勝沼が―つの部屋をノックすると「 おっ! 誰だ?」と、しわがれた声がした。 勝沼が自分の名を言い、 相手の入れという声でドアを開いた。 ソフアに坊主頭の男が両サイドの女を抱えるようにして酒を飲んでいた。

「 なんだ! 」と坊主頭は言った。

「 滝沢さんに客です 」

「 客? 」と、 滝沢は勝沼の背後にいた安吉を見て、 女達に部屋から出ていけと指示した。

「 誰かい? あんたは?」滝沢が安吉に聞いた。 滝沢の顔は酒のためか赤黒かった。

「 私は楠本といいます。 あなたと、 更生施設にいる元飲食店の従業員について話し合いに来ました 」

滝沢は驚いたように目を開いて安吉を見、 たばこをくわえるとマッチを擦った。 彼は、たばこを一飲みすると煙を口と鼻からいっきにはきだし、 たばこをつかんでいる手を安吉に向け「 おまえか! 邪魔している奴は! 」と、 大声を立て勝沼のほうを見ると「 若いモンを呼べ! 」と言った。

勝沼はチラリと安吉を見、 滝沢に数歩近付くと「 この客人は、 阿世の知り合いだそうですぜ・・・」と耳打ちした。

「 な、 なに! 」と滝沢は驚いたように安吉を見た。

滝沢は立ち上がって安吉に、 まっ、 こちらに座ってくだせえと手でソフアを示した。 安吉が腰をおとすと、

「それで、 あんたの、 話は何かい? 娼婦のことですかい? 」と、 滝沢が聞いた。

「 そうです。 彼女達は新しく人生をやり直したがっています。 おたくの人達に手を出さないようにしていただきたい 」

「 楠本さんとやら、 あっしら、 あの女達にはずいぶん金をかけてますんで・・・そう言われても、 簡単に返事できませんな 」

「 ここは、 アメリカです。 デモクラシーの国です。 彼女たちは人間であり、 物ではないはずです 」

「 なんじゃ? でもくらす? 」

「 民主主義と言うことです 」

「 なんじゃ? そりゃ?」

「人々一人一人が社会を動かす権力をもっていることです。 つまり個人の権利が尊重されているわけです 」

「それが、 どうしたい? 」滝沢はあぐらをかいて横を向いた。

「 彼女達には、 自由で人間らしく、 幸福な社会生活をする権利があるわけです 」

「 小難しい事をぬかすんじゃあねえ 」

「 滝沢さん。 彼女達は自由になる権利がある。 どうぞ、 手を出さないで自由にしてあげて下さいませんか 」

「 ふん! 金のなる木を切るやつがどこにいるんかい? おッ! 」滝沢の口調は次第に荒くなってきた。 彼は、話しても分からないタイプの男のようである。

「 わかりました。 では、 私は帰りましょう 」安吉は立ち上がって滝沢を見た。

「 阿世さんに、 報告しましょう 」安吉は、 阿世と彼達の組織とのつながりを知らなかったが、 先ほど勝沼が暗示を与えてくれていた。

安吉は、さっさと部屋を出て行こうとしたが「 ま、 まて! 」と言う滝沢の声に振り向いた。

「 阿世がでてきたんじゃあ、 しかたねえ。 か、 勝沼、 皆に更生の女にゃあ手え出すなあ、言っとおけ 」

「 へい・・・ 」勝沼は滝沢に低く返事をした。

「 楠本・・・さんよ 」滝沢がたばこを灰皿の中で揉み消しながら言った。

「あんた、 わしらが女を無理矢理に働かしてるとおもっとるんじゃねえだろな。 商売している女をよく見てみな。 更生したい奴だけじゃあねえぜ」

「 滝沢さん、 分かりました。 それからジミーと言う中国人の牧師にも今後一切手を出さないようにお願いいたします 」

「 しかたねえ・・・分かった 」

安吉は、滝沢の部屋から出て階下に降りた。 後を追って勝沼が降りてきて安吉に待ってくれと言った。 彼は無頼漢達を集めると、 二度と更生施設の女達には手を出さないこと又、ジミーという中国人牧師にも今後一切手をだすなと言って聞かせた。

「 楠本さん。 これで、 いいですか? 」

安吉は勝沼に頭を下げて礼を言った。

「 その袋の中 のものを使う前に、 何かあったら私に知らせて下さい 」勝沼がかすかに笑って安吉に言った。 安吉は静かに彼を見かえして頭を下げると、 ビリヤードの店から外に出て行った。

再び雨が降っていた。 太陽の光も街を覆っている。 片方の空には虹が輪を描いている。

雨は、キツネの嫁入りと呼ばれる雨だ。 安吉はイネを思い出した。 色の白い、 目の切れ込んだ女である。 彼女のおかげで、 今回の事がうまく解決できたのだと安吉は思った。 彼は片手をあげると、 走ってきた空の辻馬車を止めた。

一週間が経った。

古屋が多忙な銀行経営の合間に週の土曜日だけ、 更生施設で元娼婦達に洋裁を教えはじめた。

ある日安吉が万国婦人矯正会の更生施設をたずねると、ジミーが来ていた。

「 安吉さん。 ちょうど、 よかったです。 話が、 ありましたよ 」と、 ジミーが安吉を見て言った。

「 驚くようなことじゃあないだろうね?」

「 おどろく事、 ありますけど 」

「 不安になってきた 」

「 だいじょうぶ。 良いこと、 ですよ 」

「 ジミー牧師の言う、 良いことは救世軍の仕事だろう? 又、 何か救出作戦でもあるのかねえ 」安吉が少々うんざりとした顔で答えると、 ジミーは眼鏡を外し、 ハンカチでレンズを丁寧に拭いてからかけ直した。

「 安吉さん、 あなた、 農業したい言ってました 」

「 うん、 夢だけどね 」

「 その夢、 来ますね 」

「 ? 」

「 夢、 OK になりますよ 」

「 どうやってだろうね?」

「 中国人、 アメリカから追い出されています 」

「 うん、 聞いている。 気の毒な話だと思う 」

「 ある、中国人。 農地手放したい、 言います 」

「 農地を・・・ 」

「 そうです。 彼達、 中国婦ります 」

「 場所は? 」

「 ケント、 言いますね 」

「 ケントって、 確か数週間前に大洪水があったとか新聞でよんだおぼえがあるけど・・・ 」

「 それです。 シアトルから南に十七マイル( 約二十七キロメーター )ほど、 ですね 」

「 なるほど・・・ 」

「 中国人、 三世帯、 帰りたい言いますよ。 それで土地、 千エーカーほどありますね 」

「 なんだって? 千エーカー? そんなに広いのか・・・ 」三 世帯、 中国人、 野菜つくっていましたよ 」

「 いやあ、 それは広いなあ・・・片道一里(四キロメートル )以上ほどもあるねえ・・・」

「 でも、 私、 知っている。 彼達の士地、 よくない 」

「 どうしてだい?」

「 いいとこ、 アメリカ人持ってます。 中国人士地、 川近い。直ぐ流されます」

「 なるほど・・・」

「 中国人皆、 家、 作物、 流されました 」

「 気の毒な話だ・・・」

「 そうです。 彼達、 絶望しておりますね。安吉さん、 土地買ってあげて欲し いですが・・・」

「 いくらだい? 」

「 エーカー、 一ドル言います 」

「 高くは、 ないな・・・ 」

「 高くありません。 広大な土地です。でも、 よくない土地・・・でも、 うまくすると農業できますね 」

「 エーカーが一ドルか・・・千ドル・・・ 」

安吉は鉄道王のヒルにもらった千八百八十九ドルの小切手を思い返していた。 農業用の土地を買うために貯金していたが、 八十人の娼婦達を警察から貰い受けるために既に四百ドルを使っている。 しかし、 まだ十分に金は残っており、 買えない金額ではない。

「 見てみますか?」

「 土地を?」

「 はい」

安吉は腕を組んだ。 古屋商店の仕事も順調で多忙であるが士地を買うチャンスを逃すわけにもいかなかった。

「 もっと良い土地はないものだろうかね? 」

「 あるでしょう、 たぶん・・・でも、 これは人を助けます。 きっと神様がたすけてくれますです 」

「 神様? ジミー、 ”神頼み” は、やばいよ。 どうせ買うなら良い士地を買いたいと思うのだが・・・しかし、 牧師様にお願いされては、 いやとも言えないね。 いつ、 土地を見に行く? 」

「 ありがたいです、 やすきちさん 」ジミーが胸で十字をきった。

「 急に牧師にならないでくれよ。 とまどうよ。 それで、 いつになるかね。行くのは・・・」

「 あす、 日曜日。 行きます 」

「 明日? 明日か・・・トミに聞いてみよう 」

安吉とジミーはトミをさがして見つけると事情を説明した。

トミは安吉の判断に任せると言い、 彼女も一緒にケントに行くことになった。

日曜日の朝、 三人はシアトル駅から汽車でケントに向かった。

ケントと少し南に位置するアウ バーンは、 ホワイト川流域と呼ばれている地域にできた町である。 ホワイト川は、東から太平洋に向かって流れているが途中北に折れるとアウ バーンの南で大きくU ターンして再び南に向かう。 ちょうど 川は、 ひらがなの「 ひ 」と言う字を

さかさまにした形になっていて、 その上端部のすこし上のほうにアウ バーンがある。

アウ バーンの北には、 もう―つの川であるグリーン川が東から流れ込んで来て北上し、 ケントを経由してシアトルのエリオット湾に流れ込んでいた。

ホワイト川は毎年春先になると、 日本文字の「 ひ 」を逆さまにしたような形をしている川の上部のほうで水が氾濫し、 アウ バーンとケントに過大な被害ををあたえた。

この流域への入植の試みは1850年の半ば頃にはじまっており、 最初数家族の開拓民が移住したと伝えられている。

当初、 原住民のインデアン達は白人の入植者達と士地を共有することに抵抗を持たなかった。 インデアン達にとって、 士地は自然によって与えられたも のであり皆で共有するものであったからだ。

しかし、入植者達は 登記されていない土地を登記することにより、 土地を個人の財産として所有化するという人間の作った俗社会の規則を持ち込んだ。 次第にインデアン達は生活領域を狭められ、戦いによってとりかえそうとしたのでアメリカ陸軍との間に小競り合いが起こった。 その間、 移住者達は一時立ち退きを余儀なくされていたが1856 年にインデアンとの争いが一段落すると、再び戻って来て開拓を試みた。

シアトルからは、平底の蒸気船が1880年に鉄道路線が開通するまで運行していた。

1950年になると、 ボーイング社がケントの少し北に位置するレントン市に旅客機の生産工場を設置し、 1960年にはケントにスペース・センターを設立することになる。

汽車がケントに近付くにつれ水害の跡が目に付いて来た。 線路の脇にはたくさんの流木が集められている。 耕地は水害の後に耕されて作付けされている所もある。 耕作をあきらめたのか荒地のままのところが多く目に付く。

「 この辺りは、 まだ、 水の被害、 多くありません 」ジミーが車窓の外に目をやりながら言った 。

安吉とトミも、 申し合わせたように車窓の外に目をやった。 広大な畑の中に、 馬に引かせた二輪車の農機が動いているのが見える。 農機から土埃が発っていた。

「 セイジブラッシ、 除けます 」ジミーが説明した。

「 何だい? それ 」

「 日本人、 モグサ言いましたか? 身体に置いて、 火つけますね? 」

「 ああ、 ヨモギ 」

「 それですね。 日本語、 ヨモギいいますね。 ここで、 セイジプラッシ。 日本のと、 少し違いあります。 とても強い、 よくない草。 百姓の人達、 困ります 」

「 なるほど・・・」

「 水に強く、 荒れ地に強いですから、 困ります 」

「 牛とか、 馬は食べないのかね? 」

「 食べますよ。 でも、 あまり好きじゃあないでしょう 」

「 どうしてだい? 」

「 牛の食べる草、 何度も見ましたが、 ヨモギあまり食べませんでした 」

「 ヨモギか・・・」

畑の中に人家が見えた。 カヌーが立てかけてある。 水害の時に使われたのであろう。

「 あら、 川 」トミが小さく声を上げた。

河岸の土手の高さは、地面からあまり高くないように見える。 巾の広い川には青々とした水が満ちていて、 流れは穏やかだ。

河岸は荒れ地である。 雑草が低く高く覆っていて、 時々白っぽい区域が点々と見えるのは砂地であろう、 狭い範囲だ。 川の両岸は湿地帯のようでもある。 時折水草の茂みが見える。

「 天候は、 良いですが、 水が多いのがよくないです 」ジミーが言った。

「 水害の少ない場所もあるんだろう? 」

「 もちろん、 あります。 しかし、 そこは皆、 白人、 持ってますよ 」

「 そうだろうね・・・ 」安吉は、広大な荒れ地を持つ中国人達の耕作地が川辺であることは容易に察しが付いた。なにぶんエーカー( およそ四十アールで一町の半分程度 )が一ドルである。

汽車はしばらく川沿いに走って川を横切った。 橋を渡る汽車の車窓から川を眺めると、眼下に河岸の草々が下流に向かって斜めに傾いているのが見える。 春先の洪水に倒された草が濁流に運ばれて来た流木類の堆積から起きだそうとしていた。 八月の太陽は重々しく流れる川面に照り返している。 草も汗をかいていることだろう。

やがて汽車の車窓から町並みが次第に見え始めた。 ケントの郊外に差し掛かっていた。 洪水の跡も次第に薄れていき駅近くになると被害はほとんど見当たらなかった。 駅付近の地形は川から次第に勾配となって上がって来ていた。

安吉たちは駅で辻馬車を拾った。 御者にジミーが住所を告げた。

「 だんな、 残念だが、 途中までしかいけませんです」と御者が言った。

「 どうしてだい?」

「 道がないんでさあ。 春先の洪水で跡形もありませんや 」

「 分かった。 行けるところまで行ってくれ 」ジミーの言葉に、 御者が馬にムチを いれた。ジミー。 帰りはどうする?」

「 この御者に言います。 迎えに来てもらいましょう 」

駅からの道には平屋の家々が並んでいる。 電気の柱が転々とならび、 各家々に電気を供給し ていた。 ケントに電気が点ったのは1890 年のことである。 土道の片一方のサイドは歩道が木の板でこしらえてあり、人の姿が歩道に見えた。 家並みの後は軽く丘になっている。木々はまばらにしか見えない。 丘の中腹あたりに白い塔をもつ家が見える。多分キリストの教会であろう。

やがて町並みが途絶えると、 乾いた一本の道が土をむき出しにして軽く蛇行しながら耕作地と荒地の間に走っていた。 荒地の向こうには川が見えた。 馬車はゆれながらのろのろと土埃を上げて走った。 川沿いまで来た時、

「 お客さん。 ここまででさあ 」と、 御者が馬を止めて言った。

前方の道がえぐりとられたようになっている。

「 畑に入って迂回できないかね? 」ジミーが御者に言うと、 御者は「 動けなくなりますんで 」と首を振った。

安吉達は御者に、 午後三時に再びこの場所に迎えに来てくれるように話して、 帰りの賃金も前払いした。

道路から離れて迂回すると水で削られた道の向こうがわに出た。

「 さて、 ジミー。 目的地は遠いかね? 」安吉の問いにジミーは遠くを見るような仕種をして片一方のほうを指差した。

「 どこだい?」

「 あの、 丘のふもとあたりです 」

高くないなだらかな丘が複数にみえる。 丘のふもとには家がみえる。

「 あの丘? そんなに遠くなさそうだね 」

「ニマイル (3,200メートル )程でしょう。 でも、 トミさん大丈夫、 ですか? 」

「 ええ。 でも、 お昼にしましょうよ。 私、 お弁当こしらえて来たから 」

太陽は頭上に輝いている。 三人は道横の木の木陰に腰を落とした。 トミのこしらえてくれた弁当を食べていると、 丘のほうから馬車が一台近付いて来た。

しかし、 彼達がよく見ると空(から)の荷車を引いていたのは牛だった。 牛はカラカラとなる鈴をぶら下げている。 鈴の音は次第にはっきりと聞こえ始め、 やがて安吉達の近くに来ると、 ゆっくり止まった。 牛は歩行を止めた後、 口からゆだれを落としながら三人のほうに顔をむけた。

牛の荷車に乗った中国人が中国語で何かしゃべった。 ジミーが答えた。

「 安吉さん。 チンさんです 」ジミーが相手を安吉に紹介した。チンは片言の英語を使った。 どうやら中国人一世のようだ。

安吉達はチンの荷車に乗せてもらい、 牛の立てる心地よい鈴音を耳にしながら丘のふもとに向かった。

道の横の畑は何も耕作されていない。 荒れた畑が波打ったようにつながっている。

「 作付はしないのですか?」安吉はチンに聞いてみた。

「 やめたよ 」と彼は答えた。

「 どうしてです? 」

「 川、 氾濫したよ。 作物、 駄目にした 」

「 ええ、 川の氾濫は聞いていますが・・・ 」

「 それに、 私達チャイニーズ、 アメリカに住む、 難しくなったね 」

アメリカの新聞や世論は、 アメリカ経済の失墜により応じた多量の白人失業者の雇用機会が低賃金で働く中国人労働者によって失われているとして、 中国人すべてに対し排他的であった。 「THE CHINESE MUST GO](中国人は去るべきだ )と言う文字が新聞やポスターに頻繁に書き込まれていた。

中国人排斥はアメリカの法律や条例などによってもおこなわれ、 中国人はアメリカに住むことが難しい状況に置かれていた。 これは、 やがて中国人に取って代わる日本人労働者や日本人移民にも、 1920年頃から同じように降りかかるのである。

牛のひく荷車はギシギシ音を上げる車輪や、 牛の首に付けられている鈴のチャラン、 チャランと嗚る音をのんびりとあたりに響かせながら、丘の裾野にある小さな家に向かった。

「 他の、 陳さんは? 」ジミーがチンに聞いた。

「 他のチンさん? 」安吉の問 いにチンはゆっくりと荷台の安吉達をふりかえり「 皆、 チン言うね 」と言った。

「 皆、 親戚。 姓が同じです 」ジミーが説明した。

「 ああ、 なるほど・・・それで、 皆、 中国に帰りたいのだろうか?」

「 帰りたくない者、 いますよ。 でも、 仕方ないですね 」

チンの家の敷地は、少し小高いところにあった。 車は菜園らしき畑の横を進んだ。 カボチャの花が咲いていた。 菜っ葉のような作物が一区画に見える。

家の入口付近で、子どもが犬と戯れながら近付く安吉達を待っていた。 小さな木造の家は広大な開墾地に心細く見えた。

「 川の水、 ここまで来る 」チンが指差した辺りはかなり平地より上のほうに思えたが、 よく見ると水で流されてきた流木が見える。

チンの家には他のチン達が来ていた。

彼達の説明では、 現在農地として開墾しているのは三人分を合わせたとしても 五十エーカー程( 約二百反 )だと言う事だった。 それでも、 明治時代の平均的農家の耕作地は五反程度なので約四十倍の面積がある。

残りの士地の九百五十エーカーは山や川の近くだと説明された。 彼達が庭先から指さして土地の広さを説明するのを聞くとかなりの広大だ。

「 正直言いますが、 土地は広い。 でも、 山と川近くの土地です。 川の水、 氾濫しますから、 あなたの考えに入れておいて下さい 」と、 若いチンが英語で説明した。

「 できたら、 家も、 家畜も買って欲し い 」他のチンが言った。

「 分かりました。 では、 全部でいくらになりますかね? 」安吉は、 三人のチンを見ながら聞いてみた。 隣の部屋で赤子の泣き声がしていた。

「 私達、 千ドル欲し いです 」年長のチンが直ぐに答えた。 前もって用意していたのであろう。 千ドルは、単に土地の価格だ。 土地と家、 家畜を考慮すると高くはない。

「 千ドルですか。気の毒なような価格ですが、 よろしいのですか?」

「 同じ、 アジア人、 かまわない 」安吉の問いにチンが答えた。

「 でも、 三人の土地でしょう? ど のようにして分けますか? 」

「千ドルを元手に、 三人協力して、 中国に帰り商売するよ 」

「 商売を? 」

「 私達、 中国で家具作ってた 」

「 ああ、 なるほど・・・ 」家の中の家具が良いものである理由が理解できた。

安吉は買うことにした。 ジミーにこの事を伝えると、 彼は直ぐにチン達に告げて士地取り引ぎの日程をとりきめた。土地の登記には一応弁護上を使うことにした。



1898 年は、 アメリカ合衆国にとって一代転機となるような年だった。 アメリカは、五月に起こったキューバをめぐるスペインとの戦争で勝利し、スペインの領士であったフィリピン諸島やプエルトリコなどの海外領土を持つことになった。 又、 ほとんどアメリカ人の支配下にあったハワイがアメリカ合衆国に合併し、 中南米諸国などもアメリカの傘下に入るなど、 アメリカの海外に対する影響力は次第に大きくなり始め、国際舞台において指導的な役割をはたすようになった。

十月の日曜日の朝。

安吉は目を覚ますとコーヒーの香りがした。 トミが立っていた。

「 おはよう。 少し寝過ぎたみたいだ 」

明るい日差しがカーテンの隙間から射している。トミが微笑して安吉を見た。 白いブラウ スに紺色の長いスカート姿のトミは、 窓に近寄るとカーテンを開けた。 窓の向こうに紺色の空がすがすがし い。

「 わあ・・・いい天気だねぇ・・・ 」

トミは光を背にして立っている。 安吉には彼女がいつになく美しく見えた。

トミが両手を下腹あたりに置き、 そっと抱きかかえるようなしぐさをした。 光の中に、安吉は羽衣の天女を見た。

彼はベットから離れるとトミに近寄り抱きしめた。 彼女が空に飛んでいかないように、強く抱きしめた。

「 こども、 授かりました」トミが言った。

安吉はありがとうありがとうと連発した。 トミの豊な乳房が安吉の身体に触れていた。 彼がトミの頬にほお擦りをすると、 かすかに柚の香りが鼻孔をくすぐった。

(世の中にはの、 柚の香りのする女子が三人だけいるそうな。 その女を妻にすると

幸福になるそうな)祖母の言葉が思い起こされた。

安吉に家の敷地の一角にある岩山に、 柚の老木が立っていた。 秋には黄金色の大粒の柚が緑色の葉の中に何個も見えた。

いつか、 誰かと結婚する。 大人達の社会を見て、 大人である証が結婚であるとも思えたものだった。

今、 安吉の腕の中に女性がいる。 彼女の中に安吉の子どもができた。

「 トミ、 ありがとう。 こんなにうれしいことはないよ。 そうだ、 何かお祝いをしなくては、 鯛、 そうだ、 鯛を買ってこよう。 それに、 子供服など買わなくては、どうだろうか? 」

トミは微笑して安吉を見ると「 私も、 本当に幸せ」と言い、 安吉の顔を両手でそっと引き寄せると、 自分の柔らかい唇を安吉の唇に当てた。 窓から青い空が高く見えていた。

安吉は購入した土地のあるケントヘの移住は、 トミに子供が生まれてからにしようと思った。 しかし、 チン達が開墾した農地を荒らさないためにはそれなりの手入れが必要である。チン達から馬を一頭に乳牛を二頭、 荷役用の牛を 二頭、 それに犬や猫を受け継ぐ予定である。 彼達は十一月にはアメリカを離れてゆく。 家は三軒あるが二軒は洪水の被害でかなりのダメージを受けていた。 住めるようにするにはかなりの修理が必要と思われた。

安吉は、 いずれ誰かが更生している女性と結婚して農業をやりたいと望むなら分け与えたいと思っていた。 トミにも、 だれか農業をやりたい青年がいたら話して見てくれと言っておいた。 そして、 その機会は直ぐに来た。 二人の日本人の青年が農業をやりたいと渡米して来たのである。 彼達は宮城県出身のキリスト教牧師である島貫兵太夫が組織した「 日本力行会 」の出身で、 しかもクリスチャンであった。 日本力行会はキリスト教的博愛精神にもとづき、 海外での苦学を志す青年に対し、 渡航の準備教育をするなどの援助の手を差しのべていた。

彼達がジミー牧師と一緒に万国矯風会の更生施設で働いているうちに、 お互いに好きな相手ができたのである。

「 結婚したいのですが・・・ 」中村と言う青年がトミに声をかけたのは十月半ばのことである。彼は モトコと言う女性を連れて、 トミのいる事務所に入って来た。

中村は文学青年的なところがあり、 いつも本を小脇に抱えているような青年だった。 モトコは基子と漢字で書く。 これは彼女の履歴に書いてあるものだ。 出身は奈良県と書いてあった。

「 おめでとう 」トミは、 二人の顔を眺めながら「 うちは、 うれしかあ 」と方言で付け加え、彼達の頻を崩させた。

「 運が良いです。 彼女は僕の理想の女性ですよ 」中村はテレ笑いをしながら振り返って基子を見た。 基子は和服を着ていた。 ほとんどの女性達が洋服に変えているので、 基子の和服姿は目を引くものがあった。 どういった経歴を経て遊女になったのかは知られていない。武士の家庭に育ったような雰囲気を漂わせていた。 基子も本が好きだった。 トミから借り受けたアメリカの文学書を読んでいるので英語も解するのであろうが、 無口である。

「 それで、 これからどうするの? 」

「 結婚して、 どこかで、 二人で暮らしますよ 」

「 どこかで、 暮らすといっても、 あなた一人ではないのよ 」トミは中村を制した。

「 はあ・・・」

中村の本を抱えた右手が、 数度動いてとまると、 彼は本を左手に移して右手で自分の頭を掻いた。

「 結婚は、 責任のある男の仕事よ 」

「 私が働きます 」基子がトミを見て言った。

「 と、 とんでもない! 」中村が基子を見て声を上げた。

「ぼくは、 君に苦労をかけたくない。 直ぐに仕事をさがすよ 」と、 中村は慌てて続けた。

トミはふと、 ケントの士地を思い起こした。 チン達が土地を離れ中国に帰る日が近付いて来ている。 夫に誰か農業をやりたい青年がいたら話してみるようにと言われていた。 この人達に、 士地を管理してもらったらどうだろうか。

「 ねえ、 あなた達、 田舎で暮らせるかしら?」トミはケントの話を持ち出してみた。

「 田舎ですか?」

「 そう、 場所はケントだけど、 知ってるかしら? 」

「 ええ、 知っていますよ。 楠本さんが買われた農場がある所でしょう?  ジミー牧師から聞きましたよ 」

「 ジミー牧師から? あら、 それはよかった。 それで、 私達はしばらくこちらのほうに住まなければならないので、 だれか土地を管理できる人を探しているのだけど ・・・」

「 本当ですか? 」

「 ええ、 本当よ 」

「 二家族住めますか? 」

「 二家族? 」

「 はい。 実は、 僕の友達の渡辺も結婚したい相手がいるのです。 出来れば、 二人で移住したいですが・・・ 」

「 渡辺さんも?  あいては、 誰かしら? }

「 おキクさんです」基子が言った。

「 わあ! よかとねえ。 二人の女性が結婚できる」トミは心が浮きたった。

自分の仕事が少しでも報われているような満足感があった。

「 夫に話してみます。 きっと、 彼も喜ぶとよ 」

「よろしくお願いします 」と中村と基子は言い、 トミにお辞儀をして部屋から出て行った。

その日の夕食後、 トミは安吉にこの一件を話してみた。

「 本当かね?」トミから中村と渡辺の事を聞いた安吉は、 夕食後に飲んでいたお茶の湯飲みをテーブルの上においてトミを見返した。

「 ええ、 本当よ。 彼達なら女性を幸福にすることがでぎるでしょうね 」

「 うん。 もちろんだ。でも、 驚いたね。 二人か・・・ 」

「 ? 」トミの表情に安吉は「 ほら、 ワシントン大学の初代学長のアサ・マーサーのように、 女性達が結婚することだよ。 もしかすると、 皆、 結婚できるかもしれないね 」

「 ええ、 でも、 相手が良い男の人でないと 」

「 そうだね。 良い男、 か」

トミが微笑して安吉を見た。 安吉はお茶で温かくなっている湯飲を持ち上げた。

それから二日ほどして、 安吉は更生施設で中村と渡辺に会った。 安吉は、 ケントの農場のことを細かく彼達に話してみた。

彼達に田舎で農業をすることにためらいはなかった。

むしろ喜んで安吉の申し出を引き受けた。




日曜日。

安吉は中村と渡辺を連れてケントの農場に出向いた。 チン達は既に荷作りを終え牛の荷車を持つチンの家に住んでいた。 この家だけがあまり洪水の被害を受けていなかったからだ 。

他二軒の家を見に言ってみたが、 やはり住むには修繕が必要である。 中村と渡辺は荷車の家に住みながら壊れた家を修繕し、 めいめいの花嫁を呼ぶ事になった。

「 もしかすると、 新しく小高い丘の上に立て替えたほうが良いかもしれないね 」安吉の言葉に二人の青年は頷いた。

「 屋根辺りまで浸かったようですねえ・・・ 」中村が家を見ながら言った。 一方にはゆったりとした川の流れが見える。

「 新居を自分達の手で造作するのも、 面白いかもしれない 」

「 そうですね。 どう思う? 中村 」渡辺が文学青年の中村に声をかけた。

「 同感です。 こんなに川に近いのでは、 再び洪水にやられますよ 」

「 じゃあ、 丘のほうに敷地を探しに行こうじゃあないか 」安吉は二人の青年を誘った。 三人は丘のほうを目指して歩きながら時々、 土を掘り起こしてみた。 水害が多いせいか砂混じりの土壌だが腐植土も十二分に含んでいる。

「 野菜栽培には適しているようだ」

「 中国人の人達は何を栽培していたのですか? 」

「 いや、 聞いていない。 多分、 セロリだろう。 ここはセロリの栽培農家が多いときいたことがあるから 」

「 セロリ? 」

「 ああ、 君たちは日本から来たばかりだから知らないか。 西洋野菜だよ 」

「 漬物用ですか?」

「 いや、 アメリカ人達は生で食べる。 とにかく、 家が先決だね。 野菜類の栽培は水害の時期を過ぎてから少しづつ始めればいいだろう? 」

「 そうですね 」渡辺が頭を振った。

「 最初は自給自足で行きますか? 」中村が笑顔で言った。

「 そうだね。 僕もできるだけの援助はするよ。 野菜ができたら古屋商店で買い上げてもらうように話してみるし、それに最近聞いた話だけど、 ホップの栽培も良いらし い」

「 ホップ?何ですか? それ 」中村と渡辺が立ち止まって安吉を見た。

「 うん? ああ、 ホップか。 これはね、 ビールに芳香と独特の苦味をつけるのに用いられるらしいよ 」

「 へえ・・・ビールにですか・・・ 」

「 ピヨーアラップと言ってタコマの南東に位置するところで栽培されていたらしいが、1891 年にホップに寄生虫が繁殖して全滅したとさ。 しかし、 この辺の気候はホップの栽培に適しているらしいけど、当面は野菜の栽培が良いだろうね 」

ピヨーアラップは、1942年に「 キャンプ・ハーモニー 」と呼ばれた日系人強制収容所が設置された所である。 タコマ市長のハーリー・カインは、 アメリカ合衆国が民主主義のルールに違反して、 人民の権利を無視した日系人の強制収容に対し強く反対した数少ない政治家の一人であった。しかし、 世論の動きを押しとどめる事はできなかった。 数多くの日系人が財産や仕事を捨てさせられ、 アメリカのあちこちに設けられた日系人強制収容所の施設に監禁させられた。 私もかって、 アリゾナの荒地に設けられたマンザナーの日系人強制収容所の跡をたずねたことがある。ただ、 砂と雑草が跡地を覆い、 小さな池の跡であろうと思われる石の並びだけが人の住んだ歴史の跡をとどめていたように記憶する。 安吉達は将来、 自分達の家族がアメリカと日本の戦争にど のように影響されるかは、 まだ知らない。 現在、 彼達が住んでいるのは1898 年である。

「ところで、 驚きましたね 」渡辺の言葉に安吉と中村が振り返って彼を見た。

「 なんだい?」

「 トイレですよ 」

「 トイレ? 」

「 はい。 中国人達の家のトイレは水で流す方式のモノでした 」

「 アメリカだからね 」

「 でも、 すご いですよ。 こんな田舎まで、 それに、 彼達は中国人でしょう? 」

「 なんだ、 渡辺君は知らないのか? 」中村が答えた。

「 何をだろうね?」

「 人類で初めて水洗のトイレを考案したのは中国人らしいぜ」

「 ほんとうかね? 」

「 考古学の本に書いてあったので、 確かだろう? 現代の水洗式の原形になるらし いけど、アメリカのモノはどこから来たのかなあ?」

「 アメリカか。楠本さん、 知っていますか? 」

「 えっ? 」

「 アメリカのトイレのことですよ 」

「 ああ、 あれね。 フラッシュ・トイレット( 水洗式 )か・・・あれは、 確かイギリスで改良されたのだろう? パイプを U 字型にしてサイフォンの原理を応用したと聞いているが、 あまり詳し いことはしらないねえ。アメリカに入って来たのはつい最近のことだと思うけど・・・」

「 新居にはアメリカ式のトイレをつけますよ 」渡辺が頭を振って自分で肯定しながらうなるように言った。

「 渡辺君。 君の田舎はどうだったんだい? 」中村が道端で拾った木の棒をくるりとまわして聞いた。

「 もちろん、 汲み取りさ。 正直、 アメリカに来るまで知らなかった。 船のトイレは水洗だったけど、 あれは船だからと思っていたのでね 」

「 いたく、 お気に入りだね 」

「 衛生的じやあないか。 あれは文化だよ。 人間のつくりあげた文化 」

「 トイレ文化論 」中村はヒャッヒャと笑い、 手にしていた木の棒を槍投げのようにし て草原に投げ入れた。 そろそろ山のすそ野に差し掛かっていた。 山と言ってもアメリカ人は丘と呼んでいる程度のものだ。 潅木の林と松ノ木の林がある。

「 材木には困りませんね 」

「 板材は町で買って持ってこよう。 費用は私が出すよ 」安吉は青年達に無理をするなと言い渡した。

敷地は水がある事と決めていたが、 直ぐ近くの岩場にこんこんと湧き出る泉があった。

「 わっ、 清水だ。 こりやあ美味そうですねえ 」中村が手酌で水をすくい上げ口に流し込んだ 。

冷たい水は十二分にミネラルを含んでいるようだ。

「 中村君、 ここにしょうよ。 眺めもいいし空気も水も いい」

「 いやあ、 まったくだ。 すばらし いところだ 」渡辺の言葉に中村がはじくように答えた。

「 君達、 ここまで材木を運んだり、 機具を運んだりできるかねえ。 荷車の家から一マイル(1,600 メートル )は離れているぜ 」安吉は、 二人の考えを確認した。

「 楠本さん。 大丈夫です。 僕たち、 少し づつやりますから 」

「 わかった。 でも、 新婦を連れて来るのは家ができてからがよいのではないかねえ?」安吉は彼女達がこういった場所に慣れていないのではないかと考え、 二人に注意を促した。

「 はい。 でも、 彼女逹次第ですよ。 一緒に家を造るのもいいのじゃあないでしょうか 」

「 なるほど・・・では、 そのことは、 君たちの判断に負かせるとして、 既に冬が近いと言うことだけを頭に入れておいてくれ 」

二人の青年は深くうなずいた。



十一月に入り、 中村と渡辺はジミー牧師にお願いして、 合同で結婚式を挙げた。

「 ジミー。 お祝いに拳銃など渡さないほうが良いのでは?」安吉がそっとジミーに言うと、彼はにこりと笑い、 十字架にしましたよ。 彼達は、 クリスチャンですし、 安吉さんのような侍ではないですから。 十一月の青い空が、 小さな白いチャペルに覆い被さっていると思えるほどの秋晴れの日だった。

あなたたちは生まれ変わりました、 ジミーが新婦と新郎に言った言葉が安吉の中に

残っている。

結婚した青年達は、 やはり新妻を伴ってケントに移住した。女性達の強い頼みから安吉とトミは承諾した。

安吉はお腹の大きくなりはじめたトミを連れて時々、 ケントに青年達の生活振りを見に行った。 正月が過ぎても、 しばらくはトミを連れてケントに行ったが、 二月を超えるとかなり膨らんだトミのお腹を考慮して安吉だけが出向いた。

家は順調に仕上がっているようで、 安吉が持参してやる味噌とか醤油などの日本食品を楽しみにして待っていた。 女性逹が生き返ったように若々しくなり、 自分の夫に協力しているのを見ると、人間が如何に環境に左右されるかを認識せざるを得なかった。

三月に入ると、 トミの出産の日が近づいた。 出産の準備に当たっては、 古屋の女房である富士子があれこれと世話をやいてくれていた。 産婆はおヨネさんがやってくれることになっている。

「 おヨネさん。 大丈夫ですかねえ?」古屋商店の事務所で野田が言った。

「 ああ、 彼女は過去にも数人の子どもを取り上げているそうだし、 それに普通分娩のようだから、 大丈夫と思うが初産は大変だと聞いたよ 」

「 病院には入れないのですか? 」

「 自宅で生む人が多いみたいだからね 」

「 子どもさんは、 アメリカ人ですよねえ・・・ 」野田がつぶやくように言った。

「 ところで、 野田君は結婚相手はいないのかね? 」

「 まだまだ、 先です 」

「 そうか・・・」

安吉は、生まれてくる自分の子どもがこのアメリカと言う新しい国でど のように生きるのか、 自分の人生を重ねて考えてみると、 子どもに申し訳ないと言う気持ちが湧かないでもなかった。

「 楠本はん、 おりますの? 」部屋の外で富士子の声がした。 ドアを開けると両手にいっぱいの買い物を抱えている富士子が立っていた。

「 えろう、すんませんどすなあ。 両手がふさがっていてえ、ドアが開かれへんどしたさかい 」

「 どうしました? すごい買い物ですねえ・・・ 」

富士子はにこにこ笑いながら事務所の中に入って来ると、 買い物の包みとか箱を応接ソファーの上にドサリと置き、

「 楠本はん。 見ておくれやす。 ほら、 こんなにかわいい 」などと言いながら包みをといて、中から子ども用の服とかクツ、 玩具とかを取り出して安吉に見せた。

「 一体どうしたんですか? これは 」

「 もちろん、 あんさんの子どもさんにですう。 それより、 楠本はん。 仕事はもうよろしいでっしゃろ? これから、 トミさんのところに行きますよって、 ちょっと手伝ってもらえまへんですやろか? 」

「 ええ、 いいですけど・・・」

「 すんまへんなあ。 辻馬車を拾って婦ってくればよかったのですけど、 ほら、 エレクトリックなんとかいいましたな 」

「 エレクトリック・ラビド・トランジット( 電車 )ですか?」

「 そうそう。 この近くをとうりはじめたもんやから、 それに乗って来たんですけどな、 あいにくここが一番近かったわ 」と富士子は言い「おほほ」と二重あごをゆすって笑った。 安吉は富士子と一緒に自分の自宅に戻った。

富土子がトミに子どもの産着とか、 いろいろなも のを取り出しては説明している時、 おヨネさんが入って来た。

「 ちょっと気になったからね 」と彼女は言い「 もう一度、 お腹の子どもさん見せてもらうよ 」

「 どうかしたんですか? 」

「 いえ、何ね。もしかしたら逆子かもしれない。 逆子になるまでに何とかしなくては。 逆子であれば、 病院に行ったほうがいいですよ 」

「 おヨネさん。 それ、 ほんまのことですやろか?」富士子が手を止めておヨネさんを見た。

「 奥さん。 分かりません。すこし、トミさんのお腹の形が変なのですよ 」富士子はすくっと立ち上がった。

「 わかりました。 うち、 直ぐ家に帰って、 お産をよく知ってる人にこちらに来てもらいますよって 」

数日経った。 富土子の知り合いというお産の専門家はなかなか現れなかった。 トミの出産の日は近付いて来ていた。 おヨネさんは、 安吉に医者に連れて行ったほうが良いのではないかと話した。 安吉も、 トミと膨らんだ彼女のお腹をながめているうちに、 やはり、 病院で産ませるべきだと思って病院のほうに掛け合うと、 陣痛が始まってから来て欲しいと言う連絡だった。 逆児かも分からないので診察をしてくれないかと言うと、 お産の担当医が不在だと言う返事が戻って来た。

霧の深い朝、 トミが安吉に声をかけた。

「 あなた・・・ 」

安吉はカーテンを軽く開け、 窓ガラス越しに外の白い霧の流れを見ていたが、 ゆっくりと妻のほうに歩いて来た。

「 どうした?」

「 うちは、どうなってもよかと・・・子どもを、 助けてあげて 」安吉は妻の手を固く握った。 涙がじわりと目尻をぬらした。

「 馬鹿なことを、 言わないでくれ。 おまえは、 俺の命だ。 トミも・・・もちろん、 子どもも、 俺が助けて見せる。 絶対助けて見せる 」安吉は樽に入って海に流されていたトミを思い起こした。 トミも必ず王子様が助けてくれると信じていた。

安吉はスリー・フォークスの若い医者を思い出した。 彼は最新の医学を修めていた。 彼ならトミを助けてくれるであろう。 まだ、 まにあう。 今からスリー・フォークスに行き、彼に来てもらおうと思った。 安吉は、 財布をつかむと、 トミに待っていてくれとだけ言い、部屋の外に飛び出した。 霧が外界の総ての物ををぬらしていた。

どこからか馬車のわだちの音が瞥いていた。 多分辻馬車であろう。 安吉は、 馬車を拾おうと目を凝らした。 馬のたてるひずめの音と車輪の音は次第に大きくなり、 やがて馬車がシルニットのように霧の中に現れて停まった。 安吉が馬車にかけよろうとして数歩踏み出した時、 辻馬車から降り立った一人の女性が安吉の方を見た。 色の白い女だった。 紺色のコートを羽織っている。 女は立ったまま安吉を見ていた。

「 イネ・・・」白い霧のカーテンをバックにして思いもよらぬイネのすがたがあった。 小脇に下げたバックとカバンをもって女性はゆっくりと歩きはじめた。 ゆっくりと馬車も動きはじめた。 安吉は金縛りに遭ったように馬車を止めることを忘れ、 近付くイネに目を奪われていた。

「 どこに、 行くのん 」イネがのんびりと声をかけてきた。

「 家内が危ないんだ 」

「 へえ・・・ 」

「 医者を探しに行くところだよ。 久しぶりに会ったのだけど、行かなくてはならないので 」安吉は再び辻馬車を探しに駆け出そうとしたが、 イネの言葉が戻って来た。

「 産婦を持つ男は皆おなじやね 」

「 ? 」

「 奥さん、 どこにいるん?」

「 家だけど、 大変なんだ 」

「 どうして、 大変とわかるん? この辺、 寒いねえ、 ポートランドより寒い」

イネの白い顔の鼻先が寒さのためか赤くなっている。 襟を立てたコートに首をすくめて細長い目の目尻を下げた。

「しかたない。 では、 家にでも入って二三日待っていてくれ 」安吉はイネを連れて

トミのいる部屋に戻った。

トミは来客を見て起き上がろうとしたが、 イネがつかつかと近寄り「 そのままに、してなさい 」と声をかけた。

「 あちし、 コーヒーあったらいただこうかしら?」安吉に声をかけた。

「 コーヒー?」

「 あなた・・・キッチンの左のほうにコーヒー豆をおいていますから 」トミが安吉に言った。安吉は二人の女性を前にして、 何からすべきか戸惑った。 イネの紹介からか、 それともコーヒーを作ることが先か。

安吉がコーヒーを作るためにキッチンに行くと、 トミの横でイネがコートを脱いでいる姿が見えた。 何か話しているようだが話し声は聞こえない。 まさか、 自分との関係を臨月間近いトミに話しているのでもないだろうと思ったが気になる。

手早くコーヒーを作ってイネに差し出した。

「 ありがと・・・」イネは、 湯気がうすく流れるように立ち上っているコーヒー・カップを両手で受け取ると口にした。 急いで来たので、 コーヒーを飲むことをわすれてたんよ、 うふふと笑った。

彼女はコーヒーを軽く飲むとカップを置き、 さてと立ち上がった。 鞄から小ビンを取り出すと安吉に洗面器かしてくれると言い、 腕まくりをした。 お湯あるかしら?

イネは、湯を水でうすめコビンの液体を少し垂らしたなかに手を入れて丹念に洗った。 きれいな手ぬぐいないかしら? それに、 清潔な布を少し用意して。 切れ長の目が安吉を見た 。

イネは消毒されて湯で暖められた手を丹念に拭いた。

「 おくさん、 トミさんでしょう? 富士子さんから聞きましたんよ 」と言い、背後の安吉を見た。 安吉は、空白な時間の中に浮遊しているシャボン玉のような心境だった。 物事が自分の意識の外で進んでいる。

「 さて、 診てみましょう・・・ 」イネは別の薬をとりだすと、 ゴム手袋をした。 ゴム手袋は当時としては珍しいものだった。 医師達が使うゴム製の手袋は、 1889年にウイリアム・ハルステッド医師によって外科手術用として普及した。

「 身体の中に手を入れるよ 」と言い「 安吉さん、 奥さんのベットのシーツををめくってもらえる?」と、 彼を振り返って言った。

そう、 下着を脱がして。 そうね、 ここにいなさいよ。 他に行かないようにと、 くぎをさされた。

足を大きく開いて膝をたてて、 そう、 そのまま・・・イネは何かの薬をトミの陰部に塗りつけ又、 自分の右手にも軽く塗って伸ばした。

イネがチラリと安吉を見た。 安吉は彼女の目を無意識に見ていた。

イネの手がトミの体内にのめり込んで行った。 左手をトミの膨らんだ下腹部に置き、 右手の人差し指と中指を陰部に挿入して何かを検査している。 数度指を抜き差しするようなこともした。

安吉はイネが自分のことを妻に復習しているのではないかとも思ったが、 イネの真剣な表情をみて疑いを直ぐに訂正した。

「 大丈夫。 頭は下やね 」イネはゆっくり手をトミの陰部より抜いた。 今まで、 安吉の物しか入っていかなかった場所に、 イネの手は入り出てきた。 彼女の二つの指が粘液で光っている。

「 後、 数日で生まれるね。 あちき、 取り出してあげるよ 」

イネは手袋を脱ぐ と、 トミに下着を戻してやり、 心配ないよ、 お産は大昔から皆同じやからね。 男は女を抱く時だけよお、 あとは苦労するんやから同じでしょう?女はお産の時だけ、 うふふ。

イネは手を洗うためか安吉に、 湯ある? と聞き、 一緒にキッチンに行った。 ベット・ルームとキッチンは離れている。 イネは安吉が来ると彼に抱き着いて唇を吸った。

「 こわい?」うふふとイネは含み笑いをし、 これは鎮静剤。 落ち着いたでしょう? うふふと笑うのである。

「 君は、 医者だったのか・・・」

「 あちし、 そんなん偉ろう見える?」

「 うん・・・見える 」

イネが可笑しそうに笑った。 妖艶な色気が顔にこぼれた。 男を吸い込むほどの色気である 。

「 あちし、 眠いわ。 ホテルまで送って?」

「 えっ? ああ、 分かった・・・ 」

「 あまり寝てないんよ。『 おかめ 』の店が終って、 明け方の汽車に乗ったから 」

「 申し訳ない・・・ 」

イネは、 富士子さんから連絡が来たんよと言った。

安吉はイネをシアトル駅まえの「 ホテル・シアトル 」に連れて行った。 イネに何日ほど滞在できるかと聞くと、 十日ほど遊んで帰ろうと思うんよ。 あんたの子供は、 多分二三日内には生まれるよ。

安吉は、 ホテルのフロントで十二分の代金を前払いした。

イネの荷物を持って室内に入ると、 彼女は直ぐにシャワーを使いはじめた。

「 あんた、 シャワー使ったことある? 」浴室の方からイネが声をかけてきた。 いや、 見たことはあるけど・・・来なさいよ、 ねえ、 来てよ、 と声がした。

安吉は椅子から立ち上がって浴室の方に行った。 シャワーの中にイネの白いからだが湯を弾いていた。 便利よね、 これ、 あちし、 好き。 あんたも、 来なさいよと言う。

「 いや、 ぼくは・・・」と躊躇していると、 イネの手が安吉の手を掴んだ。 女は男を飽くことのない動きでくくりつけた。 白い色がピンク色に変わり、切れ長の目は空を浮遊した。 せせらぎは、 滴り落ちる雪解けの水のようであった。

「 あちきは、 毎日でも男が必要な女なんよ・・・ 」ベットの中でイネが言った。   

「 どうするん?」

「・・・・・・ 」

イネはうふふと笑った。

「 どうして、 医者だけをやらないんだい? 」

「 医者? 仕方ないからなったんよ 」安吉に馬乗りになったイネが艶めかしい声で言った。

「 ? 」

「 オランダ・おイネ、 知ってる?」

「 うん。 シーボルトの娘だろう?」

「 おイネ( 伊篤 )は、 産科の医者になったの、 知ってる?」

「 まさか君じゃあないだろう? おイネさんは、 とっくに五十歳を超えて六十に近いと思うけど?」

「 あちしは、 娘 」

「 えっ?」

イネは安吉にしがみついて来た。



三日後、 三月の十八日、 トミに陣痛が始まった。

「 どういった形で産みたいん? 」イネがトミに聞いた。

「 形?」そばにいた安吉が聞き直した。

「 立って産むん? 座って? それとも、 椅子に座っては、 どうやんの?」

「 普通で、 お願いします 」

おヨネさんが手伝いに来ましたよといって部屋に入って来た。 ああ、 産婆さん・・・ちょうど、 ええとこに来てもらって、 たすかったわ。 あちし、 コーヒー飲みたいのんよ。 ちよっと手伝って。

イネは、安吉に余分なシーツと毛布を持って来るように言った。

背のほうに毛布をシーツでくるんで置いて、 もっと妊婦の身体を起こすんよ。 トミの身体をほとんど 座っているほどの状態まで起こした。 部屋の中の温度はストーブで暖めてある。 これは今朝イネの言いつけにしたがったものだ。

産婆さん、 妊婦を裸にして置いて、 そして、 陣痛の期間が短くなったら声かけて。

イネは居間に行き、 ソファに腰を落とすと安吉の用意したコーヒーをゆっくりと飲んだ。こういった時のイネの姿は水商売の女性には見えない。 知的な白い頻がコーヒーの湯気に打たれていた。

「 君は・・・」安吉はイネがなぜアメリカに来たのかを聞こうとして、 思いとどまった。

「なあに? 」イネがのんびりとした声で答えた。

「 うん? いや、 なんでもない・・・」

「 そう? 」

「 その・・・君は、どうしてアメリカに来たんだい?」

「 あちし?」

「 うん 」

「 血 」

「 ち?」

「 そ 」

「 血筋・・・ 」

「 そ・・・ 」

「 外人の?」

「 そうやねえ、 たぶん 」

イネはソフアに横になった。 産まれそうになったら起こしてくれる?」

直ぐに寝息を立てはじめた。 数時間後、 おヨネさんが「ドクターは?」 と居間に来た。 眠っていますよ。 へえ? おヨネさんは気の抜けたように言い、 ソファに寝ているイネを軽く揺り動かした。

「ドクター。 そろそろですよ 」

イネは起き上がると再びコーヒーを飲んだ。 安吉はトミの苦しそうな声に彼女の側に何度も駆けつけては、 うろうろと辺りを歩き回っていた。

「 さ、 いきまっしょ 」イネは例の薬を湯に入れて手を消毒すると安吉を促してトミの方に歩いた。

安吉が部屋から出て行こうとすると、 あなたも手伝うのよと言う。 イネはおヨネさんにゴムのグローブを手渡すとこれをはめるように指示した。

おれは、 どうするのだろう? あなたは、 奥さんの手をしつかり握って、 子どもが出て来るのをよく見ておきなさいよ。

おヨネさんがびっくりしたような顔でイネを見た。 彼女は、 お産は女だけの仕事だと思っていたからだ。

イネがシ ーツをめくると裸体のトミの身体が安吉の目に飛び込んできた。 布袋様のように膨らんだ下腹、 何倍にも大きくなっている乳房。

トミの顔は陣痛の苦しさからかピンク色に染まっている。 それは美しく思えたが、 彼女の苦しみの原因を作ったのは自分である、 と思うと申し訳ないような自責の念にかられた。イネはマスクをすると医者用の白衣をつけた。

足を開いて、 ひざを立てるんよ。 そう・・・、ゴムの手袋をつけた。 トミが一段と苦しそうな表情と声を上げた。

産むと思って・・・そう、 息を吸って、 はい、 出して、 繰り返して。

ほら、 出てきたよ。 部分がゆっくりと開き子どもの頭の髪の毛が見える。 息を吸って、 出して、 休まないで繰り返すんよ。 そう、 ゆっくりと・・・イネは片手で布の折りたたんだものを持っている。 子供の頭がある程度出てきた時、 右手の布を子供の顔辺りの下に置き、左手で頭をわし掴みのようにするとすばやく子供の頭を引っ張り出した。そして、トミの手を掴んで引き寄せると子供の頭に触れらせた。ほら、 子供、 もう少し頑張るんよ。

イネの両手はトミの動きに合わせて、 無理のない動きで子供を少しづつ彼女の身体から引き出した。 やがてトミの産む努力とともに子供の身体が総て外に出た。 イネは子供を持ち上げるとトミの身体の上に置き、 抱いて上げてと言った。 へその緒はトミの中から出て繋がったままだ。

母親は子供を乳房の間で抱きしめた。 子供が声を盛んに上げている。 身体は粘液に濡れて光っていた。 母親の身体に抱き着くようなしぐさをした。 子供だ、 自分の子供だと安吉は不思議な面持ちで妻と赤子を見ていた。

イネは、 へその緒などを手早く処理した。 あっと言うような速さで処理をした。 子供をタオルでまくと、 おヨネさんに、 後はお任せしますと言い、 安吉をちらりと見た。

イネが居間に移ると、 おョネさんは安吉を見て、 いや、 驚いた。 やはり腕のいいドクターは違うですよと感心したように言った。 彼女がポートランドにある小料理屋の女将だとは思いもつかぬ事であろう。 子供は女の子だった。 富士子が名付親になり「 歌子 」と名付けた。




一週間ほどが過ぎ、 イネがポートランドに帰る日が来た。

「 早く、 妾にしてね」イネが安吉に言った。 ホテルのロビーで軽い朝食を取っている時だった。

「 とんでもない。 僕程度が、 君を妾なんかにできるものか。 君は、すばらし い医者ではないか。 もっと自分を高く見て、 自分の幸せを考えるべきだろう 」

「 あちしの、 幸せ? 」

「 うん 」

イネはうふふふとわらい、 初めてやねえ・・・あちしに、 そんな事、 言った男・・・おかあはんも言ってた。 おとうはんに幸せになれって言われたんと。

あちしは、 小さい頃から幸せについて考えていたような気がする。 幸せって、 歯の浮くような言葉やねえ、 でも、 子供を取り上げるたびに思うんよ。 人間の幸せを。

「 大切な事だろう?」

安吉の言葉に、 イネは切れ長の目をほころばした。

「 運命の糸を引く、 言葉やねえ・・・」うふふ。



イネの乗った汽車はシアトルの駅を力強く蹴って走り出した。イネの白い顔が車窓の中で微笑した。



その年の夏、 ケントの洪水の被害は軽かった。

安吉は、 中村と渡辺から、 家が完成したのでぜひ見に来てくれと言う電話を受け取った。

「 トミ。 中村君と渡辺君達の新居が完成したらし いよ 」家に帰って、 子供に母乳を与えていたトミに言った。

「 あらあ、 山のほうに立て替えていた家? 」

「 そうだろうね。 子供が生まれてから一度も行ってないので詳しくは分からないが、 彼達は自分達だけでやったのだから大したものだ 」

「 それで、 いつケントに行くつもりですか?」

「 今度の日曜日に行くと返事したけど、 君も一緒に行くか? 」

「 いいんですか?」

「 もちろんだよ。 子供だって、 ケントぐらいの旅であれば大丈夫だろう? 」

「 ええ 」トミは、 顔をほころばした。

そう言えば、 トミが子供を産んで以来、 彼女を町の郊外に連れて行っていない。 安吉は最近、 古屋商店の仕事が忙しくて暇のない日が続いていた。 シアトルはアラスカのクランダイク・ゴールド・ラッシュのおかげで好景気であったし、 アメリカ自体も スペインとのキューバにおける戦争で勝利し、フィリピン諸島を手に入れるなどして景気は回復して来ていた。

「 今週中に、 味噌とか、 醤油とかを彼達の為に買い入れておくよ 」

安吉は時々自腹で、 日本食料品をケントにいる中村夫婦と渡辺夫婦に送っている。 土地とか家畜の面倒を見てくれている彼達夫婦に対する感謝の物だった。

「 お弁当、 作りましょうね 」トミが言った。



日曜日の朝早く、 安吉とトミは子供を連れて汽車でケントに向かった。

ケントの駅には中村と渡辺が基子とキクを伴って迎えに来ていた。彼達はトミを取り巻くと歌子を見て、 あれこれ話し合っている。

「 君達、 僕も いるのだけど?」安吉が言うと、 青年達はようやく取り巻きをくずした。

「 馬車で来ていますので、 荷物を運びましょう 」彼達は安吉が持ってきた荷物を手分けして運び始めた。

駅の横に馬一頭立てのワゴンが一台停めてあった。

「 借りたのかい? 」

「 いえ、 買ったのですよ 」

「 馬も買いました 」渡辺が言った。

「 よく、 買えたねえ 」安吉が感心したように言うと、 運が好かったのですよ。 今年の春、試しに畑を耕してセロリとレタスを栽培したのですが、 豊作でした。 これをタコマの野菜業者が良い値で買ってくれたのです。 他が不作だったらし いですよ。 他の農家は、 毎年の水害を予測して作っていなかったらしいですね。 それで、 倍の値段で売れたわけです、神様のおかげです。

壊れていた道も直してあった。 安吉の農場に近付くにしたがって、 なるほどレタスとセロリの収穫の跡が残っていた。 それに、 一角には新たな野菜が青々として見える。

「 よく、 耕作する時間があったなあ・・・ 」

「 共同作業ですから、 夫婦が協力すれば、 思った以上の仕事ができるものですね 」

「 おいおい、 あまり女性に無理をさせてはいけないよ 」

「 もちろんです。 耕作は僕と渡辺でやりました。 彼女達は料理をこしらえたり、 服を直してくれたり、 夫婦っていいも のですね 」中村が安吉を振り返って言った。 彼は、 御者席で馬を走らせている。 横にはゆれが少ないからと歌子を抱えたトミが腰をかけていた。 ワゴンにはゴムのタイヤが取り付けてある。 昔の荷馬車と違い、 揺れが極端に少ない。

ワゴンは、 見覚えのある道をまっすぐ荷車のチンの家だったほうに向かっていた。 やがて丘のふもとに白い色の家が見え始めた。

「 あれ? 家は、 白かったかねえ? 」安吉が声を上げた。 青年達は、 彼の言菓に何も答えず、 ニコニコと笑っている。

家が新しくなっていた。

僕たちの家を建てた後、 この家も楠本さんの為に改築させていただきました。居間も寝室も、 キッチンさえも新しく改造されている。

家の周りを見てください。

外に出ると花壇があった。 大きなひまわりが咲いている。家畜の小屋は少し離れたところに建て直してあります。 いつでも移住できます。

「 信じられない。 よく、 できたねえ・・・ 」

「 実を言うと、 楠本さんの住まいは、 野菜で儲けたお金で、 業者にやらしたんです 」

「 そうだろうなあ・・・こんなに、 奇麗にしてもらって、 ありがとう。 改築にかかった費用は支払うよ 」

青年達は野菜で儲けましたからと、 安吉の申し出を断った。

中村と渡辺の家も、 それぞれこじんまりに建ててあった。背後の林で鳥の鳴き声がしている。

何事もうまく行きそうな気持ちがする。

「 こんなに日本人が一緒だと、 寂しくないわね 」キクが言った。 基子が微笑んだ。

「 正直言うと、 アメリカに上陸した時に広大な荒削りの士地を見て、 僕は最初、 意気消沈したんだよ 」と中村が言った。

「 今はどうなの?」トミの問いに彼は基子を見て、 幸福ですよ。頑張ってやっていけそうですと、胸をたたいた。

「 農業は、 大変な仕事だし、 先はながいのだから無理はしないことだ 」

安吉の言葉に青年達は頷いた。

林の中で、 トミの作って来た弁当を皆で食べながら今後の農場の事を話し合った。基子もキクも、 見違えるように活発で明るくなっていた。

「 楠本さんは、 いつ頃からこちらに移られますか?」

「 そうだね。 多分、 来年には古屋商店を辞められると思うので、 その時かな 」

「 できるだけ開墾しておきます 」

「 いや、 あせらないほうが良いだろう。 人間の手で開墾する時代ではなくなってきている。新たに、 農機具に投資しなければならないだろうが、 もう少し先の話だ 」

「 作物は、 野菜だけで行きますか?」

「 うん。 シアトルやタコマなど、 都市の人口が急増している。当然、 野菜の需要は増えるからね 」

安吉はトミのつくったおにぎりをほうばりながら青年達を見て言った。

「それに、 この農場は共同経営にしたい」「共同経営?」

「 そうだよ。 士地は皆のも のだ。 偶然、 僕が手に入れたが、 この士地から得られる収入は均等に分配するようにしょう。 どうだい? 君たちは、 賛成してくれるかね?」

「 喜んで 」渡辺が言った。

「 有り難うござ います 」と、 中村が頭をさげた。

安吉はバスケットからデービットのワイン「 ジョセフィーン 」を取り出した。

皆のグラスにワインを注ぐ と、 森の空気に豊饒の香りが染み入った。



1901 年の四月半ば。

ケントは今までにない洪水の被害に遭った。

「 トミ。 ケントが水に浸かったそうだ 」安吉は、 仕事から家に帰るとキッチンにいた妻のトミに報告した。

「 まあ!」トミは二歳になった歌子を抱きかかえて安吉のほうに来た。

「ほら、 この新聞にも書いてあるだろう? 」

「 なにか、中村さん達から連絡が入りました?」

「 いや・・・」安吉は首を振った。

トミは英字新聞の洪水の記事を目で追った。

「 今までにないほどの被害だそうですね・・・どうします?」

「 どうしますって? 」

「 行きますか?」

「 ケントにかね?」

「 ええ 」

「 まだ、 むりだろう・・・多分、 まだ、 無理だ。 洪水は二三日前に始まっている。治まるまでには後一週間かかるだろう 」

「 皆、 無事でしょうか?」

「 うん・・・洪水の被害を考慮して丘の上に家を移しているので多分、 大丈夫だと思うが・・・連絡が入るまで待つしかないね 」

安吉は、 この夏には古屋商店を止めてケントに移住し、 本格的に農業をやる計画をたてていた。 古屋は銀行を「 日本商業銀行 」から「 太平洋商業銀行 」に改称し、 本格的な銀行経営に乗りだしている。 しかし、 安吉は銀行事業の拡張に反対だった。 当時の銀行はリスクの多い事業だったからである。 小さな規模で、 日本人出稼ぎ労働者相手に業務をする間は問題がないであろうと考えていた。

安吉は、銀行業務を大きくし、 投資的な規模の経営を行うには時期相応ではないと古屋に意見した。

古屋は既に日本から来た元銀行員などを雇い入れており「 やめれんですなあ・・・」と、 申し訳なさそうに言った。安吉は、この古谷の言葉を最後にして古谷商店をやめることにした。

安吉は、 古屋が銀行で失敗した場合を考慮し、 古屋商店の経営権を彼の妻の富士子に譲渡して別会社とすることを古屋と銀行の役員達に了解させた。 役員達は、小さな規模の経営に目をかけようともしない連中であったからスムーズに経営権を富士子に譲渡した。

ケントの水害は、 ホワイト川流域全体のもので水が退くのに時間がかかった。

完全に水が引いたのは七日目である。

「ご心配されているのでは、 と思いまして」と、 中村から電話連絡を受けたのは火曜日の朝だった。 事務所に着くなり机上の電話が嗚った。

「 それで、 皆大丈夫だっただろうか?」安吉は、 真っ先に青年達の安否を聞いた。

「 はい、 でも、 作物が全滅です。 昨日辺りから水が引いて畑が見え始めたのですが、 畑は砂で覆われていました 」

「そうか・・・でも、 家などは大丈夫だったのだろう?」

「 水は家の直ぐ下まで来ましたが、 大丈夫でした 」

「 えっ? 君たちの家の近くまで水が?」

「 ええ、 大洪水でしたよ。 安吉さんの家も昨日に行ってみましたが、 被害はありませんでした 」

「 ありがとう。 でも、 大変だったねえ」

「 今、 ケントの郵便局から電話をしているのですが、 電話は二階に移されています。 一階は水の被害に遭って目茶苦茶になっています 」

「 郵便局は駅近くだろう? あの辺りまで、 水に浸かったのか・・・ 」

「 今度の水害は今までに一番ひどいものだったらし いですよ。 ケントの町が湖の中に浮いているようでした 」

「 汽車は、 当然不通だろうなあ・・・」

「 総ての、 交通がだめですよ。 みな、 ボートで行き来していたぐらいですから 」

「 食料品を送ってあげたいのだが、 どうすればいいだろう?」

「 大丈夫です。 食料は十二分にありますから、 心配しないで下さい 」

安吉は、 中村に汽車が動きはじめたらケントに行くので、 何か必要なものがあれば知らせてくれと話して受話器を置いた。

畑の作物が全滅であれば、 青年達の現金収入はなくなる事になる。 安吉は自分がケントに移り住み、 農業で生計を立てることを考えてみた。

当然、 この水害の問題は避けて通れないも のだ。 農業機械を購入して耕作の面積を広げても、 川の氾濫を考慮しないで作物を植え付けると破滅につながるであろう。

安吉は机上のペンを取り上げて一月から十二月までの数字を書き込み、 作物栽培に必要な月日を書き入れてみたが、 最も重要な月に洪水がくるのである。どうすればこの水害から作物を守れるだろうかと考えている時、

「 楠本はん いやはるやろか 」と事務所から富士子の声が聞こえて来た。 安吉が事務所に顔を出すと、 富士子が何かの書類を野田に見せていた。

「 ああ、 よかったわあ、 楠本はんがいやはって。 楠本はん、 この書類見ておくれやす 」安吉を見た富士子は野田のデスクに置いた書類を取り上げ彼のほうに差し出した。

安吉は富士子を自分の部屋に招きいれると、 手渡された書類に目を通して見た。

「 ああ、 これは家屋の権利書ですね」

「 そうですやろう。 うちは、 もう驚きましたえ。 古屋が、 家を担保にして資金を調達しましたんどす。どないしたらよろしいやろか、 楠本はん 」

「 どうされたいおつもりですか? 」

「 あの屋敷は、 うちが自分のお金で買 いましたんですよ。 そやから・・・」

「 お気持ちは、 よく分かりますが、 ご主人のお話しもお聞きしないと 」

「 古屋どすか? 」

「 そうです 」

「 あの人、 最近おかし いんですわあ 」

「? ]

「 家にも、 あまり返ってこんと、 忙し い忙し いゆうて、 うちをさけてますんよ 」

「 古屋さんがですか? 」

富士子はバックからハンカチを取り出すと、 額に押し当て、 暑いどすなと言い左手をパタパタと動かし自分の顔をあおいだ。

「 富士子さんは、 もう古屋商店の社長なのですから、 ご主人が使っておられた部屋に来て仕事をしてほし いですね 」

安吉はソフアに腰を下ろした富土子に言った。

「 でもなあ・・・」富士子が言った時、 部屋のドアがノックされた。 どうぞと声をかけると野田が入ってきた。

「 楠本さん。 人夫請負の松村が来ています。 港で、 なにかトラブルがあったそうですけど・・・ 」と言った。

安吉は富士子の話は後で聞くことにして、 事務所で松村にあった。

彼によると、 十名の日本人労働者が数人の個人の周旋屋に引き抜かれたらしい。 この十名はハワイから古屋商店の斡旋で上陸してきた労働者だった。

「 彼達は異国に慣れていますから、 良い話を持ち掛けられると直ぐ 相手のほうに傾くですよ」と、松村は悔しそうな表情をした。

「 で、 何名確保できた?」

「 すみません、 半分の五名は何とかボーデング・ハウ スの方に連れて行きました」

「 東洋貿易は何名ぐらいつかんだか知っているかね?」

「 二十名ほどだと聞きました」

「 そうか ・・・」

東洋貿易は古屋商店にとって鉄道人夫斡旋事業での競争相手である。 鶴谷 寿著「 アメリカ西部開拓と日本人 」( N H K ブックス)によると「 東洋貿易は1898 年( 明治三十一年 )に、 旧自由党の山岡音高が、 高橋徹夫や築野又次郎と組んでグレート・ノーザン鉄道から人夫斡旋を依頼されて作った会社である。 山岡は旧幕人を父に持ち、 後に弁護士となり、 岳南自由党( 静岡 )を組織して活躍した。しかし、 政府転覆を企てて諸大臣の暗殺を計ったり、 軍資金調達のため銀行を襲撃して捕らえられ、 北海道の監獄に送られ炭坑夫として働かされた。 十年後に大赦令で許されてアメリカに渡り、 シアトルで「 新日本 」という新聞を発行した。 高橋徹夫は正則予備校( 東京 )卒業で、 1892 年( 明治二十五年 )十八歳で渡米 し、 日本領事館の臨時属託もした人物である 」と記述されている。

安吉はシアトルの飲食店の元締めである滝沢に会った数日後、 田中忠七の船乗り仲間であった勝沼に紹介されて、 山岡や高橋に会っていた。

「 楠本さん。 あなたのやっている鉄道人夫斡旋に手え出そうとしている連中がいますぜ 」と、 勝沼から電話連絡を受け取った。

「 ほう 」

「 田中さんに聞きましたよ。 滝沢が田中さんに、鉄道会社の仲介を頼んだらしいです 」

「 田中さんに・・・ 」安吉は、 歌舞伎役者のような田中を思い出した。

「 どうします? 」

「 どうしますと言っても、 仕方ないことだね。 やりたい人がやれる仕事だからね、 それなりに実力があれば、 当然この仕事をやるだろう。 それに、 鉄道人夫需要が伸びて来ているので、うちだけではまかないきれないと思っていたところだ 」

「 会いますか?」勝沼が言った。

数日後安吉は山岡や高橋に会った。 彼達はグレート・ノーザンに人夫を斡旋するつもりだと言った。 安吉は、 グレート・ノ ーザン社長のミスター・ヒルとは個人的な知り合いであるが、 彼達の仕事の計画を邪魔する必要性はなかった。 それよりも、 人夫斡旋業社がたくさんでき、労働者の雇用条件が少しでもよくなれば、それにこした事はないのである。 しかし、 勝沼によると山岡は滝沢とも交流があると話した。この時、 安吉が懸念したのは労働者からの搾取である。

初めて日本人労働者を鉄道に供給した田中は、 当時 沿岸地方で十時間労働の日給が六、七十セントであったのを一ドル払った。

「 けッ、 いい仕事を見つけてやったのによお、 新聞にたれ込みやがって」と田中は言ったが、 日本人同士の足の引き合いだったのではなかろうか。

賃金は人夫不足のため、 次第に上がって行き1900 年頃には十時間労働で、 日給が一ドル五十セントから一ドル七十セントになった。 それでも、 白人の日給はニドル五十セントが平均だったので、 いかに日本人が安価に労働を供給したかが分る。 当然、 鉄道側は勤勉で安価な日本人労働者を歓迎するわけで、 数千人の人夫を配下に持った日本人の工夫斡旋業は、仲介により莫大な利益を得たのである。

東洋貿易は、 安吉が懸念したように、 日本人労働者に月額一ドルを事務所費として支払うことを契約させ、 その上に病院費として五十セントを取った。 さらに、 上陸後に宿泊するボーデング・ハウ スの宿泊費として一日五十セント、 鉄道に就業後は、 滝沢達の出番であった。 高い衣料品や食料などを売りつけ、 給料日に飲食街の売春婦達を連れて行き、 賭場を開き給料を巻き上げる仕組みをつくったのである。

「 五名、 何とか見つけないとねえ・・・」安吉の言葉に松村は首を振り「 まともな商売をしていると、 人夫を見つけられないですよ 」とぼやいた。

「 そうかもしれない。 しかし、 同じ日本人同士ではないか。 助け合うのが当たり前と思うがね。 とにかく鉄道会社と契約している残りの五名は、 僕が見つけ出すから心配しないでくれ 」

安吉は鉄道に人夫を供給する納期が迫っていたので、 他の斡旋業社に人夫を借りるしかないと判断した。 ポートランドの伴 新三郎に電話を入れて見たが、 彼はまだ本格的に人夫斡旋業をスタートしていなかった。 現在準備中で、 来年になれば二十人ほど日本から来る予定です、 食料品は古屋商店から買いますので、 よろしくお願いしますと、 伴は言った。

東洋貿易に働いていた同じ和歌山出身の橋本大五郎がユタ州のソート・レークで「 橋本商会 」を設立し、 ウエスタン・パシフィック鉄道の新設に人夫を供給していた。

安吉は橋本に電話を入れた。 彼とは数回ほどしか話したことがなかったが同じ同郷と言うこともあり、 親しみを感じていた。

橋本は、 了解した。 シアトルの東洋の人夫を五名まわしてあげますよ。 なあに、 大丈夫。僕は彼達の弱みを握っていますからね、 ワッハッハと橋本は豪快に笑い、 これからは食料品を古谷商店からも買いますよ、と付け加えてくれた。

五名の日本人労働者が古屋商店に来たのは次の日で、 橋本の出際よさにさすがの安吉も舌をまいた。 この五名は和歌山出身だったので、 多分、 橋本が日本から引っ張った労働者だったのだろう。

古屋商店は、橋本のおかげで十名の工夫をグレート・ノーザン鉄道に供給することができた。

安吉は数日多忙だった。 その多忙な間をぬって富士子を古屋商店の社長の椅子に座らせた。

家屋の権利書にこだわる富士子を納得させるのには時間がかかったが「 ご主人の銀行が駄目になっても、 古屋商店は残ります。 これは、 あなたとご主人のためですから 」と言うと、富士子もおれて社長としての仕事を始めた。 もともと他人に対して面倒見の良い女性なので、 社員は素直に彼女に従いはじめた。

水害のあったケントの中村から電話を受けてから二週間が過ぎていたが、 ようやくケントにゆける時間ができた。 鉄道会社に、 ケントにはいつから汽車が走り始めるのかと聞くと、 二日後だと言う。

安吉は、富士子に五日ほど休暇をもらいケントに向かう準備を済ませた。

米や味噌などの日本の食料品を古屋商店で買い込み、 トミと歌子を連れて汽車に乗ったのは五月五日のことだ。

前にも一度、 水害のあった後のケントに来たことがあったが、 あの時に比べると汽車の車窓から見える一帯は、 痛々しい水害の後がいたるところに残されていた。 家の屋根が河原に流れ着いているの見えたり、 畑の一部が大きな池のように水を溜めていた。

「 これは、 思った以上にひど いね・・・」

安吉は二歳の歌子を小さな玩具で遊ばしているトミに話かけた。

汽車は安全運転のためか、 非常にのろい速度でケントに向かっている。

巨大な流木が陸地に打ち上げられていた。 増水した水の仕業であろう。 立ち残っている木々の枝にもいろいろなものがひかかっていて鳥の巣のように見える。

「 ひどいですねえ・・・」トミがつぶやいた。

「 農業も、 リスクの多い仕事だね 」

「 でも、 私は好き・・・」

安吉はトミを見た。 青い目が安吉を見返した。

「 君には、 学校の先生をやってもらいたいと思っているんだ。 ケントで、 君は先生になってくれ。 農業は僕の夢だから、 中村君や渡辺君と協力して、 必ず成功して見せる 」

「 私は、 あなたを手伝いたい 」トミが言った。

「 ありがとう、 トミ。 しかし、 アメリカの農業は、 日本と同じようなやり方ではできない。機械化が必要だ。 男の仕事だよ。 君は、 もっと重要な仕事である学校の先生がいい。 ワシントン大学のヒース教授に話したように、 子供たちに過去と現在と未来を教えてあげて欲し いんだ 」

トミは、 歌子に向かって「 お父さんの言葉聞いた? お母さんに、 学校の先生になりなさいってよ。 歌子ちゃん、どうしましょうねえ・・・ 」と、 口をもごもごさせている二歳の歌子と話している。

ケントの駅には、 いつものように中村と渡辺が夫婦で出迎えに来てくれていた。

「 やあ、 皆、 無事でよかった」安吉は四人の顔を見て顔をほころばした。 今回彼は、 かなりの食料品を青年達のために運んで来ていたので、中村と渡辺に汽車からおろすのを手伝ってもらい、 ワゴンに運んだ。

「 大変だったねえ」安吉がねぎらうと、 青年達は旧約聖書の「ノアの箱船 」を思い出しました。 もう、 あたり一面が水の流れでしたからと、 クリスチャンらしいことを言った。

「 何日ぐらい水が引かなかったのだろうか? 」ワゴンの上で安吉が聞くと、 十日かかりましたと彼達は答えた。

「十日か・・・ほとんどの野菜は酸欠で駄目になるね 」

「ええ、それよりも 驚いたのですが砂が畑を覆って野菜の一欠けらも残っていなかったことです。 水が引いた後、 畑は不毛の地に変身ですよ。 中国に引き上げた中国人達の気持ちがよく分かりました。 耕作の意欲が消し飛んだほどです 」

「 そうか・・・」

「 でも、 女性達のおかげで助かりました。彼女たちは強いですよ 」

「 ?」

「 嵐の日も、 洪水の日も、 平然と家事をするんです 」

「 ふむ・・・」安吉は振り返って歌子を取りまいている女性達を見た。

「 僕と、中村君が砂の覆った畑で呆然としていると、家の前に洗濯物が干されたのです。 青い空の下に洗濯物が風で軽くゆれているのを見ると、 生活の楽しさと言うものが感じられました。 僕たち二人は大声で笑いだしましたよ。 明日がある、 そして、 来年がある。 こうやって異国にいても友達がいて家内がいる。 どんなに困難なことでも克服できると思いました 」

「 そうか、 良い話だね。 僕も、 皆に早く加わりたいよ。 心からうれしくなって来た 」安吉は、 大きく空気を吸った。 新鮮な空気が彼の体内に充満した。

昼に、 皆で米を炊いておにぎりを作り、 乾いた畑の砂の上で輪になって食べた。 ご飯が美味し い。 砂漠の国に旅をしている様ですね。 そうだね。 たくあんがコリコリと口の中ではじけるような音を立てる。 誰かがぽいと梅干しの種を口から砂の上にほうり出す。 では、 ワインを抜こう。 ワインがグラスの中でゆれる。 広いですねえ。 千エーカーだからねえ、 ゆっくりやろう。 そうですね、 では、 乾杯!

皆がワインを飲みながらわいわい勝手に騒いでいると、 二歳の歌子の足が砂山を軽く蹴った。 何かの若い芽がピョコンと出てきた。

「 あらあ、 歌子ちゃん。 なにかしらあ? 」トミが声を上げた。 皆、 その方を見た。 基子が青い芽にちかより、 軽く指で砂を退けはじめた。 直ぐに丸みのある球根らしき物が現れた 。

「 あら、 たまねぎ、 たい! 」トミが言った。

「 たまねぎ?」男子達は立ち上がって基子のほうに行くと、 青い芽をもつ玉ねぎの周りに四つんばいになり眺め込んだ。

「 たまねぎ? 」基子はまだ玉ねぎを知らなかった。

「 たまねぎだ 」

「 たまねぎだなあ・・・ 」

「 たまねぎです。 これは、 間違いない 」

トミが歌子を抱きかかえて「 ほうら、 歌子ちゃん。 皆、 這い這いがおじょうずねえ 」と言った。 皆、 顔を見合わせて笑った。

玉ねぎなら、うまく栽培できる。 皆、 同じ意見であった。

「でも、 これ、 少し形がちがうな・・・」安吉が不思議そうにつぶやいた。 日頃マーケットで見るたまねぎと形が少し違う。 取り囲んでいた青年達が安吉を見上げた。

「 いや、 このような形のたまねぎを見たことがないのでね 」

「 たまねぎって、 種類が多いのですか?」中村が聞いた。

「 うん。 札幌の農学校で見たのは二三種類だったが・・・アメリカに来て、 赤い色のたまねぎや小さいたまねぎをマーケットで見たよ。 君たちも見たと思うけど 」

「 いえ、 知りません。 僕はたまねぎを知らなかった 」と渡辺が言った。

「 わたしも・・・ 」基子がつぶやいた。

「 日本に入って来たのは、 つい最近のごとだから、 ほとんど の日本人は知らないよ。 原産は5000 年前の西アジアのペルシャ( イラン )辺りだろうといわれている。 ペルシャの宮殿を絵で見たことがあるけど、 塔の上のほうは玉ねぎの形をしているよね。 あれは、 玉ねぎの形を取ったのかもしれない。 ところで、 ネギはだれも知っているだろう? 地方によっては“ ねぶか ”と呼称しているが、 あの、 根の部分が肉厚で丸く球根になったものさ。ネギは中央アジアが原産らしいので、 多分中国を経て早い時代に仏教とともに薬草として日本にもちこまれたのだと思う 」

「 へえ・・・」

「 ペルシャの宮殿の塔は、 玉ねぎの形ですか・・・ 」

「 いや、 それは、 当てずっぽうだけどね。 だけど、 似ているよ 」

「 なぜ、 たまねぎは日本に最近まで来なかったのでしょうね?」

「 いや、 来てたんだよ。 トミは知っていた 」

「 トミさんが?」

「 うん。 トミは宣教師の家で見たらしい」

「 じゃあ、 食べたことがあるんですねえ。どんな味だろう? 」渡辺だった。

「 ネギの根元の味に似ている。 とにかく、 かわいい形をしていてだね、 表面の茶色っぼい皮をむくと真っ白いみずみずしい白い部分が現れる。 それを切ると、 涙がでる 」

「 涙が? 楠本さん、 やさしいですね。 野菜に涙を流すなんて 」渡辺が言った。

安吉とトミは顔を見合わせて笑った。

「 渡辺君。 実は、 たまねぎを切ると、中に含まれている成分が目に飛び込んで来て、 涙腺を刺激するからと言うのが真実さ 」

「 そうなんですか」

「 でも、 私は、 たまねぎの涙だと思うよ 」トミが口を添えた。

「 わあ、 良い物語だ。 童話が書けそうだ 」文学青年の中村が言った。

歌子がトミのひざ の上で飛び上がりながら玉ねぎの芽を両手で示して、 うまうまと言った。安吉は懐より小さな紙片と鉛筆を取りだし、 玉ねぎの半分の砂を慎重に取り除くと、 玉ね ぎの形を スケッチした。

「 これが、 どんな種類のたまねぎか調べてみよう 」

「 ところで、 たまねぎはどうやって食べるのですか? 」キクが頬をそめて恥ずかしそうに聞いて来た。

「 ああ、 僕が船に乗っていた時は、 刻んで肉と炒めた。 でも、 船員達はただ切ったものを生で食べるのが好きだったなあ・・・パンに、 肉とたまねぎを薄く切ったも のをはさんでかじりついていた 」

「 美味し いですか?」

「 うん。 僕は好きだけど・・・そうだ、 次にくる時に幾つかの種類を持って来るよ。 食べてみよう。 どの品種がこの土地に向 いているか調べることが必要だからね 」

「 そうですよねえ。 やはり、 アメリカ人の口に合った物ほど売りやすい 」

「 この辺の農家はどうかなあ? 誰か、 たまねぎを栽培している農家を知っているかね 」中村と渡辺は首を振った。

「 よし。 僕たちで栽培を始めよう。 ここは港に近いので船で使うのに需要が多いかも知れない。 現に古屋商店ではかなりのたまねぎを船会社に販売しているし・・・第一他の野菜と違って保存がきくからね。 きっと、上手く行くだろう 」

皆は手に付いた砂を払い座り直した。 彼達は玉ねぎをどう栽培し、 販売するかを話し込んだ。 広い土地が彼達を取り囲んでいた。



安吉は、 シアトルに帰った後、 マーケットでいろいろな玉ねぎを探してみたが、 ケントで見た玉ねぎを見つけ出すことができなかった。

ある日、 古屋商店の社員食堂で遅い昼飯を取っていると、 おヨネさんが食堂に飛び込んできた。

「 楠本さん。 古屋さんが変な物に乗って来た 」と興奮気味に言った。安吉は箸を置いて、 表に出てみた。 社員達が何かを取り囲んでいる。

「 あ、 楠本さん。 カー( 自動車 )ですよ 」野田が安吉を見て言った。

「 楠本さあん。 カー買いましたあ 」運転席に座っていた古屋が言った。

安吉は、カー・ディーラー( 自動車販売店 )がシアトルにオープンしたと二三日前に新聞で読んでいた。 ムービー・ハウス( 映画館 )と言うものもオープンしていた。 アメリカの産業はこういった発明品を単なる金持ちの玩具として開発するのではなく、 大衆が使えるように生産の仕方を考案してコストを押さえ、 大衆の手に届く価格で店頭にならべた。 これは近代産業の発達に取って欠かせない画期的な仕組みであった。

「 カーですか・・・ 」安吉の言葉に古屋はテレ笑いし「 いやあ、 時代の流れを知りたくてえ、カーを買いましたんですがあ、 これはあ、 なかなかのものですうなあ・・・これはあ、 うん、いけますなあ 」と言い、 古屋はカーの側面を手でぽんぽんとたたいた。

「 どうやって、 あやつるのです?」野田が聞いた。

「 この、 まあるい輪を動かすと動かしたほうにすすみますなあ・・・ところで、 富士子はあ、元気ですか?」

「 えっ? 一緒に・・・ 」と安吉は言いかけ、 富士子が別の家を買って住んでいることを思い出した。

「 はっはっは 」と古屋は笑い「 道楽をお、 わしがやってますけんのう。 よろしゅう言っておいて下さいやのう 」と古屋は続け、どっこいしょと自動車からおりると、 手にしたクランク棒をエンジンのほうに差込んでくるくるとまわした。 エンジン音があがり取り囲んでいた社員達がワッと言い、 自動車から離れた。 それを、 古屋は顔を崩して眺め運転席にあがると「 そいじゃあ 」と言い、 自動車を動かしはじめた。 自動車は周囲に独特な振動音を残して、かなりの速さで去って行った。 ガソリンと呼ばれる油のにおいが鼻をついた。

古屋商店の社長室に行き、 富士子にこの事を話すと「 まッ! 古屋が、 そんなことを。 銀行つぶれるわ」と言い、 机上の湯飲みを持ち上げると茶をすすった。

安吉は簡単に、 未処理の仕事について報告すると社長室を出た。 最近、 富士子も仕事に慣れて来て、 このままであれば来年春には完全に経営を任せられそうである。 そうすれば、安吉はケントに移住し、 念願の農業に専念できそうだと思った。

彼は、 玉ねぎの種類を早く知るために富士子に許可をもらってワシントン大学に向かった。

大学で調べてもらうと、 この品種は大変珍し いものでヨーロッ パの一部の国、 イタリアとかフランス、 スペインで少量だけ栽培されており、 アメリカではワラ・ワラ・ヴァレイと言うところで栽培されはじめているとの事だった。 大変ユニークな品種で、 甘いとの評判らしいですよと大学の職員が言った。「 ワラ・フラ 」とはインデアン語で「 たくさんの水、又は川 」と言う言葉らし い。

ワラ・ワラを地図で調べてみるとちょうどコロンビア川の上流の辺りに位置し、 直ぐ右となりはモンタナ州、 右斜め下がアイダホ州、 そしてオレゴン州がコロンビア川を境にして下側に位置している。

ワラ・ワラは小麦やポテト、 アスパラガスなどの野菜に混じってオニオン( たまねぎ )が生産されていると書いてある。 小麦やポテトはポートランドの港から外国に輸出されていた。

安吉はふと、 ポートランドにワラ・ワラのオニオンが出荷されているのではないかと思った。 「 甘い味のするオニオン」であれば、 生で食べることの好きなアメリカ人に好まれるであろう。 安吉は、 ぜひこの品種を味わってみたいと思った。

彼はイネに電話を入れた。 彼女であれば、 この玉ねぎを知っているであろうと思ったからだ。

「 どうしたん? 」イネの相変わらず甘ったるい声が受話器の奥で響いた。

「 いや、 実は又おねがいしたいことがあって・・・妻の出産の時はありがとう 」

「あんた、 又子どもつくったん?」

「いや、 そうでは、 ないんだが・・・」

「 あちしに、 会いたいん? うふふ 」

「・・・・・・」

「 あちし、 あんたに、 あいたいよ 」

「 いや、 その・・・ 」

「 どうしたん? 」安吉のしどろもどろした言菓に、 イネが再びたずねた。

「 君、 ワラ・ワラのオニオンを知らないか? 」

「 しってるよ 」イネは、 即答した。「えっ? 知っているの? 」

「 うん、 あちし使ってるもの」

「 何に?」

「 あんた、 あちし、 小料理屋の女将やからね 」

「 ああ、 そうだねえ 」安吉には、 イネの女医の姿が脳裏を占めていた。

「 オニオン、 食べたいん? 」

「 いや、 実は、 シアトルから少し離れたケントと言うところに土地を買ったので玉ねぎを栽培しようかなと思って、 良い品種を探しているのだが・・・その、 品種は甘いらしいね 」

「 ふーん 」

安吉の身体に、イネのいきづく身体の動きが感じられた。

「 手数をかけて申し訳ないのだが、 少し送ってくれないだろうか? もちろん必要な費用は支払います 」

「 たまねぎ・・・ええわよ。 送ってあげる。 早く成功して、 妾にしてもらわんとあかんもんねえ 」

「 ・・・・・・」

「 あんた、 あちし、 好き? 」

「 えっ? 」

「 あちし、 好き?」

「 うん・・・ 」

「 奥さんの手前、 はっきりいえんねえ、 うふふ。 ええわ、 直ぐ送るよ 」

「 ありがとう 」

「 玉ねぎ、 面白そうやねえ・・・うふふ」

安吉がイネに頼んだワラ・ワラ・ヴァレーの玉ねぎは、甘いと言われている現在の物ではなかった。

ワラ・ワラに現在栽培されている「 ワラ・ワラ・スウイート・オニオン 」は1923 年に玉ねぎを栽培していたイタリア移民のギオバーニ・アービニによって偶然に見つけられた品種である。 彼は、他の玉ねぎより成熟が早く甘味の多いこの玉ねぎを集めて繁殖させ、1925 年頃から試験的に栽培を始めて数年後に市場に出すと好評で、 他の玉ねぎより高く売れたといわれている。



1903年、 安吉は家族を連れてケントに移住した。

1900年のセンサス( 国勢調査 )によると、 当時ケント・ヴァレイには既に十三人の日本人を数えている。

安吉達がケントでオニオンの生産農家を見つけ出すことができなかったのは、 この地域でジャガイモとかオニオンを栽培していた農家が1880年から1890 年にかけてビールのホップ栽培に切り替えた後、 酪農に転じたからである。 1870年頃のケントの農家はジャガイモとかオニオンを生産して販売し、 現金収入にしていた。

1899年、 ケントにはコンデンス・ミルク( 練乳 )の製造工場があり、 一日に3,000缶のコンデンス・ミルクを生産し、工場が1913 年に生産性の高いカーネーション市に移転するまで続いた。 その後、酪農家は生産したミルクをシアトルのミルクとチーズ工場などに販売するようになる。



トミはケントで小学校の教員になった。

ここにトミのクラス( 教室 )を写した一枚の写真がある。

教室には窓が多く、 室内は明る い。 左手の壁にリンカーンの肖像画がかかっていて、 直ぐ下には振り子時計がかけてある。 子ども達は二人づつ木製の机に向かっているが、後ろのほうには大人の姿も見える。 これは授業参観ではなく大人達も学校に学びに来ているのだ。 開拓移民時代に親に付いて移住してきた時代の大人達は、 文字を習う学校の設備が整っておらず、 文盲が多かった。 この大人達が子供たちに混ざって勉強をしているのである。

トミはクリーム色のブラウ スに黒いロングのスカート姿だ。 彼女の机には、 本が並び地球儀が載せてある。 彼女は左手で机の上に開いた本をかるくおさえ、 右手をひざ の上に置き生徒達に向かっている。 後ろのほうの子どもが本を両手で広げている姿があるので、 この生徒に朗読させているのかもしれない。




イネに送ってもらった玉ねぎを食べてみると、 なるほど一般の玉ねぎと違って甘みが多かった。 リンゴのようにかじり付いても良いほどだ。

玉ねぎは多年生であるから、 球根をそのまま土に残しても翌年には芽をだす。

安吉達は種子の採取に取り掛かかった。

広大な耕作地に効率良く播種するには、 苗床の球根を移し替えるより、 直接耕作地に種子を播く方が良い。

ケント地域の玉ねぎの播種は少なくとも 二月一杯には終わらなければならないと言われていたが、 安吉達の耕作地は水害の事を考慮しなければならなかった。

水害は四月から六月に集中している。 播種を直接耕作地に行うと、 芽が出て数十センチの時に水害に遭い、 全滅する可能性が高かった。

安吉達は芽を出した玉ねぎがどの程度まで水中でも生きられるか又、 茎が折れた後の復元力などを、 三人で何度も栽培試験してみた。

洪水時における水の流れを想定すると、 浅植えはできない。 深く植えると頭が尖った玉ねぎが出来、 浅く植えると平べったくなった。

玉ねぎの種は小さい。 一オンス( 約28.4グラム )に9,500程の種が数えられるが1エーカー( およそ四十アール )には1から3ポンド (1ポンドは453.6 グラム )の種が必要だと大学で聞いていた。

安吉達はもう一年かけて種を採種することにしたが、 彼達が栽培実験をするうちに重要なことに気が付いた。 甘味のある玉ねぎは保存が難しいのである。 一般の玉ねぎに比べて腐りやすかった。 しかし、 この品種は成熟が早く、 他の玉ねぎが百五十日ほどかかるところを九十日で玉を作り上げることができた。

彼逹はこの玉ねぎの特徴を活かし、 収穫時期を涼しくて乾燥する気象条件となる九月から十月に絞ることにより、 播種を洪水の危険性のある時期を避けられ保存がよりたやすくなると判断した。 実験的に、 この時期に植えた玉ねぎは予測通りに十月初めに収穫ができた。

二年後の1905年、 彼達は水害が収まるのを待って本格的に三十エーカーの土地を耕し玉ねぎを播種した。 土地の耕作には、 最新のハロー( 大きな目の粗いブラシのような農機具 )を二台、 それぞれ二頭の馬に引かせて行った。 砂地なので耕作が楽なことにあわせて、水害の後なので雑草が水で一掃されており、 作業効率をよくしていた。

安吉は、玉ネギの植付けが終わった後、 久しぶりにシアトルに行って古屋商店に顔をだした。 シアトルで玉ねぎの収穫後の販売ルートや、 保存の仕方又、 収穫時期の人手の対応策を探すためでもある。

「 楠本さん。 ドクターが来ておられますよ 」と、キャッシャーにいたおヨネさんが言った。

「ドクター? 」

「 ほら、 腕の良い」

安吉は直ぐ、 イネに思い当たった。

「 どこにですか?」安吉は平静を装っておヨネさんに聞いた。 イネとは玉ねぎのを送ってもらって以来、 連絡も取っていなかった。 ちょうど良い機会だった。 おかげで作付けできたとお礼を言おうと、 おヨネさんに教わった富士子のいる二階の社長室に上がって行った 。

社長室のドアの前に立つと、 なるほど中から富士子とイネの話し声が聞こえた。 安吉は部屋のドアをノックしょうとして拳を振り上げた時、 中から子どもの声が上がって女性達が笑う声が聞こえた。

「 この子、 あんたに似て、 頭ええわあ 」と富士子の言った言葉が聞こえた。

誰か、 他の子連れがいるようである。 安吉は、 入ることを躊躇して踵を返しかけたが、 再び思い直してドアをノックした。

どうぞと言う富士子の声にドアを開けた。 イネの顔が安吉を見て微笑んだ。

「 いやあ! 楠本はん。 いつ、 こちらに? まあ、 なつかしいわあ 」富士子が椅子から立ち上がって安吉のほうに来た。

「 ご無沙汰してすみません。 ちょうど玉ネギの作付けが終わったものですから、 買物も兼ねてご挨拶に来ました 」

「 まあ、 他人行儀な挨拶、 必要ありません。 いつでも、 気軽によっておくれやす。 もちろん、 仕事に戻ってもらっても いいんやけど、 そしたら、 うち、 うれし いけどなあ 」

安吉は頭をさげた。

「 あ、 そやそや、 お茶、 うち、 誰かにお茶もってこらせますよって、 楠本はん、 ちょっと待ってておくれやす 」と富士子は言い、 あたふたと出て行った。

安吉はイネと彼女のひざにいる子どもを見た。

イネは子どもをひざ の上で座り直させ、 子どもを安吉に見せるようにして「 ほら、 おとうさんよ 」と子どもに向かって言った。 子どもは三歳ぐらいであろう。

まさか・・・安吉はイネの目を見た。 言葉が出てこなかった。

イネは、子供を抱えて立ち上がり安吉のほうにくると子供を彼の胸に預けた。 安吉はずしりとした子供の重さとミルクのにおいを受け止めた。

子供の温かさが彼の身体に伝わって来る。 この子ば自分の子供であると直感した。 抱えた子供を少し話して、 子供の顔を見た。 自分に似ている。安吉はイネを見た。

「 さすがに、 貴方は強いねえ。 あちきの血筋は女ばかりなのに、 おかげで男の子を授けてもらったんよ 」

「 だいじょうぶか?」

「 うん? どうしたん?」

「 育てられるのか?」

イネは妖艶な細長い目をほころばして安吉を見た。

「 こんなに、 幸福な気持ち、 始めてえやから 」

「 どうして、 僕などの子を?」

「 種を、 選らんだんよ 」イネが答えた。 彼女は産科医であった。

富士子が戻って来た。

「 楠本はん。 イネさん知ってはるやろ?」

「 はい。 トミがお産の時に大変お世話になりました 」

「 ああ、 そやったわ。 あの時ねえ、 そうそう 」と富士子はうなずき自分の椅子に腰掛けると「 ほんまに、 この人、 羨ましいんでっせ。 子供授かってもうて、 ほら、こんなに可愛い 」と言い、 再び立ち上がると安吉から子供を取り上げた。

「 誰の子やろなあ、 美男子やなあ 」

安吉は富士子の背後からイネを見た。 イネは静かに微笑んでいた。

「 あ、 そや。 言い忘れてたわ。 楠本はん。 今度、 イネさんシアトルで開業しやはるんですう。 奥さん子供できたら、 連れて来てあげてきてください」

「 シアトルで、 開業?」

「 ええ、 子供ができたので、 思い切って店を売りましたの。ワシントンにおける開業医のライセンスも取れましたし 」イネは他人行儀な言葉で答えた 。

イネは富士子の家に滞在していた。

安吉はその日、 シアトルの古物商で日本の小刀を一振買い求めた。 備前物でなかなかうまく打ってあった。

そして、 イネにできた自分の子供のために、 自分が父親であること、 日本での家の家系と住所などを書状にしたため、 自分の名前に血判を押して刀に添えた。



十月、 王ねぎ の収穫が迫っていた。

安吉は日曜日で学校が休みのトミを探した。 トミは歌子と大きな向日葵( ひまわり )の花のそばにいた。 トミが大きな向日葵から種をとっていた。 歌子がはしゃぎながら辺りを飛び回っている。

トミと声をかけると、 トミの顔が向日葵と並んだ。

安吉は一瞬見とれていた。 あまりにも妻の顔とひまわりが調和していた。

「 あら?」トミが白い歯を見せた。

「 トミ、 たまねぎ の出来具合を調べに行くのだけど、 一緒に行かないか?」

「 行っていいの? 」

「 もちろんだ 」

トミは喜んで歌子の洋服を代え、 安吉の馬車に乗り込んで来た。 安吉は、馬車をゆっくり走らせた。 馬のたてる蹄の音が青空のなかに響いて届くようだ。 しばらく走ると、 辺り一面の玉ねぎの畑が二人を取り囲んだ。

安吉は河原に近い、 眺めの良い場所で馬車を止めて、 トミと歌子を降ろした。

「 しばらくすると中村君や渡辺君が来る 」

「 まあ、 何の日でしょう? 」

「 さあね。 きっと良い日だろう 」

やがて、 中村と渡辺の乗った馬車がやって来た。

「 楠本さん。 トミさん。 聞いてくださいよ 」中村が馬車から降りて駆け寄って来ると興奮気味に言った。

「 どうしたんだね?」

「 できたんですよ 」

「 なにが.」

「 子供です 」

「 本当かね? それは、 おめでとう。 そうか、 基子さんに、 子供がねえ・・・」

渡辺が駆け寄って来て、 中村君。 自分の事だけとはひどいねと言い「 キクにもできました。 万歳! 」と言い、 帽子を高く空中に放り上げた。 帽子はくるくると青空の下を舞い、近くの玉ねぎの上に落ちた。

「 そうかあ! キクさんにも基子さんにも子供が授かった 」

安吉達は、 万歳万歳と手を上げた。 女性達は微笑んで男子達を見ていた。

そしてトミが代表して玉ねぎを畑から抜くことになった。 トミは畑の中に入り、 渡辺の帽子をかぶった玉ねぎを持ち上げた。

金色の王子様は、 樽の中で待っていた女の子に微笑みかけた。

金色の皮をむくと真っ白な玉ねぎが現れた。 拍手が起こった。



楠本安吉は、 中村や渡辺と組んで、 玉ねぎ栽培に成功した。 彼は古屋商店において販売ルートの知識を身につけていたので、 生産から販売までをスムーズに処理することができた 。

彼達はやがてアイダホ州、 オレゴン州、 カリフォルニア州のサクラメントの南に位置するランキャ スターやストックトンと呼ばれるあたりにも進出し、 玉ねぎの栽培に成功を収め、楠本安吉は「 ザ・キング・オブ・オニオン」( 玉ねぎ王 )と呼ばれた。


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たまねぎ 三崎伸太郎 @ss55

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