第2話
「 倒産した 」
「 倒産? 会社がかね?j
「 銀行の抵当に入っていた 」
ワンの言葉に、二人は顔を見合わせた。 確かに景気は思わしくない。 政府の政策が多量な移民の流入による人口過剰と 工業発展のテンポについていけず、 通貨の縮小政策を維持していたため通貨の価値が異常なほどに高くなり、 消費が落ち込んで来ていた。 それに伴って、工業製品や農産物が圧迫を受けはじめていた。
三年後の1896 年には 商社や工場、 又銀行までも倒産するほどの経済恐慌に陥ることになる。
「 仕事ないだろうか?」ワンが言った。
「 仕事? ここでか?」マオが聞いた。
「 ビュートでは、 仕事がないんだ 」
「 保線区の方でも一杯だな。 中国人を雇わないようにしているし・・・」汽車の汽笛が遠くに聞こえた。
マオは窓のほうに歩いていくと、 窓枠に両手をかけ外を眺めた。 ガラスに彼の姿が斜めに映っている。
「 何とか、 掛け合ってみるよ。 他の保線区で仕事があるかもしれない 」マオが窓の外を見ながらワンに言った。
「 ここで働かせてあげて下さい 」安吉が言った。
マオが振り返って安吉を見た。
「 私は、 シアトルに帰ろうと思っていました。 日本人にはまだ仕事があります。 ワンさんを、 私の代わりにここで働かせてあげて下さい」
「 しかし、 ミスター・ヒルが・・・」
「 銀行強盗の件は、 偶然です。 私には妻がいますので、 妻と一緒に暮らしたいだけです 」安吉は、 呉に奥さんと一緒に暮らしなさいと忠告されて以来、 トミと自分のことを度々考えていた 。
「 本当に辞めたいのか? 」マオが安吉にたずねた。
「 本心です 」
「 そうか・・・」
「 マオ君。 安(アン)の好意だよ。 受けようではないかね?」呉が言った。
「 呉先生。 私もそう思います 」とマオは言い、 安吉に握手を求めた。
「 さて、 安のために美味しいものをつくるか。 それに、 ワンの就職祝いだ 」と呉が言い、安吉とワンの肩を軽くたたいた。
翌朝、 汽車が保線区の宿舎の前で安吉をビュートまで乗せるため特別に止まった。 安吉は今日、 ビュートでノーザン・パシフィック鉄道社長のヒルと会うことになっていた。 安吉にとって、 また新しい出発でもあった。
汽車が止まる前から、 工夫達が安吉の見送りに出てきた。
呉がポケットから丸いメノウ石に彫刻された竜の彫り物をとりだし、 安吉の手に握らせた。
「 君が、 我が中国の友人であるという証拠のものだ 」と、 彼は言った。
「 安、 これは、 おれたち皆で出し合った餞別だ 」と、 李が小さな袋を安吉に差し出した。
「 でも・・・ 」
「 気持ちだ。 取ってくれ 」安吉は頭を下げた。
汽車は、 安吉を載せると汽笛を上げ走り出した。
窓の外に、 工夫たちが並んで手を振っている。 安吉は胸が熱くなるのを覚えた。 マオの保線区で働いたのは、 わずか数ヶ月だったがアメリカ大陸の鉄道工事に従事した中国人社会の一部に触れることができた。
しかし、 安吉の中国人社会に対する好意とは裏腹に、 日本と中国の清は翌年の1894年に日清戦争を起こすことになる。
貝塚茂樹著「 中国の歴史」(岩波新書 )を参考にすると、 日本は、 明治維新以来27年間ほど西洋の文化を取り入れることに心血をそそいでいた。 欧州文明を模擬しているに過ぎないと中国に軽蔑されながらも新しい西洋文化の改革をほぼ完了していた。 一方中国は、 清朝の西太后の保守的勢力は衰えておらず、 官史の腐敗が古い官僚制度の下で横行していた。 思うように行政改革がすすまず、 政治的文化的改革が大幅に遅れていた。 中国は巨大であるが古いままの体制から脱しえず、 過去の名声のみを頼りに諸外国と外交を重ねていたのである。 この眠れる獅子の中国を、 日本が自力で打ち破ることになる。
日本の意外な力に列国は、 日本の大陸進出を懸念しはじめ新たな外交を模索する。しかし、日本と列国の大国ロシアは日露戦争をひきおこした。
中国内部においても、 革命的な部分と保守的な部分が別れて争うことになる。 なかでも、中国の国際的失策を引き起こした要因に義和団事件があげられる。 これは、 呪文をとなえ、義和拳という拳法と棒術を習得すれば、 矢や弾丸があたらないと信仰する教団で、 過激で保守的な行動をとり、 しばしばキリスト教の教会とか外国の公使館を攻撃した。
この義和団の教義とよく似ているものにアメリカ・インデアンの「 交霊の踊り 」がある。
前記した「 アメリカ史 」に書いてあったのだが、 これは1880年の終わり頃に、 白人によって住居地を追われたインデアンの一部に、 インデアンの誇りと独立を自分達の力で勝ち取ろうとした動きに合わせて出てきた。
「 交霊の踊り 」と言う神懸かり的なインデアンの儀式を行えば、 白人の撃って来る銃の弾にあたることがなく、 白人は消え失せ必ずインデアンの世界が戻って来るというものだ。 人間社会は民族の枠を超え、 こういった教義が各時代に応じては浮上し歴史の流れの中で波立っている。
安吉は、 車窓の外を眺めた。 物言わぬ自然が次元の空間を埋め尽くしているように思えた。幼い頃、 馬の引く荷車に載せられ揺れに身を任せながら見た自然の光景も、 このア メリカの広大な自然も、 一つとして変わるところがない。
100年後、 200年後、 自分と同じ自然を見る人間は、 何に気づくのだろうか? 人間の持つ際限のない欲望が人間社会を改善させ発展させている。 人間の一方的な進歩に他ならないが、 もう誰にも止められないものだった。
汽車が汽笛をあげた。 鉄橋をわたっている。 川が光りながら流れている。
ユートピア( 理想卿 )の言葉を思い出した。 札幌農学校で学生たちの間に定着していた言葉だ。
安吉はふと、 この言葉と前後して、中国人工夫の馬が言った言葉が突然思い出された。
(女を抱く、 安らぐ・・・女の肉、 柔らかく温かい。 生きてること、 よく分かる)と、馬は言った。
自分の生命を認識できる事こそ、人間本来の姿なのか。 肉体を酷使し、 金銭に換えて、金銭で持って女を買い、 生を認識する。
では、 性を金で売る女はどのように考えているのであろう。 安吉は、 トミを思い出した。彼女は王子様が助けに来てくれることを夢見ていた。 いや、 心の拠り所にしていた。
シカゴ・ジョーと呼ばれるジョセフィーンを思い出した。 彼女はレッド・ライト・ディストリクト( 遊郭 )で売春をビジネスにしている。
人間は、人間の考案したそれぞれの社会で生活し、 ユートピアを夢見て一生を送るのだろうか。 ユートピアは、現実に存在してはならないのかもしれない。
現実の認識、つまり生きていることを認識することこそ、 我々人間にとって必要不可欠な行動ということになる。
安吉は、 客車の中をあらためて見つめた。 旅ゆく人々には二種類の風体がある。 希望と絶望の風体だ。 希望は経済的余裕から生まれ、 絶望は精神的苦痛から応じる。 男は皆、経済に対する闘争者であり、 女は男にエネルギーを供与する立場にある。
生き生きした女性の近くの男は、農業を営む為に移住しているようだ。 希望のあるまなざしで車窓の外を眺めている。
汽車の煙が車窓を走った。 機関車が山間部に差し掛かっていた。
大きくカーブした線路はゆっくりと勾配になっていた。 この辺りは、 安吉が働いていた保線区とビュート保線区の境に当たる。
周囲には荒々し い山肌が見える。 木々の生い茂った峡谷や、 切り出しになっている山の斜面が繰り返し見えた。 伐採された丸太が無造作に積まれた峡谷もある。 馬が丸太を引っ張っていた。
子ども連れの親が子どもを車窓に近づけて、 外を指差し説明している。 それにつられて皆車窓に視線を向けていた。 機関車の吐き出す煙が多くなり、 時々煙が窓全体を覆う。 それが又子供達に取っては面白いことであり、 子供達のはしゃぐ声が沈んだ車内を明るくさせた 。
ビュートの鉱山に戻る鉄のような労働者の顔さえも和んでいた。
やがて汽車が山間部から少し開けた高地にでたころ、 くすんだ空が現れはじめた。 安吉はビュートの空を思い出した。 エジソンの電灯の発明により銅の需要は軒並みに上がり、 銅の精練所はフル稼動をしていた。 自然はじわりじわりと破壊され、 労働者の健康までも悪影響を受けていた。 当時のアメリカには、 規制する法律が見当たらなかった。 労働者は高賃金の誘惑に勝てなかった。 現実の不況を考えると、 職を離れる勇気も薄れるのだった。汽車が速度を落とした。 人家がポツリポツリと車窓の外に見え始めた。 見覚えのあるぼた山の向こうに高い煙突が見え、 薄黄色の煙りを吹き上げている。 煙は風のため真横に流れて、 ぼた山から続く人家のほうに向かっていた。
風景の中に緑がない。 安吉は、 車窓の外に展開するビュートの郊外を目で追った。
枯れた木々が目にとまった。 銅精練のために自然が壊されているのだ。汽車が市内に入ってゆくと、 辺りは次第に薄暗くなってきた。
駅には昼というのにガス燈が灯っている。
汽車が停まった。 汽車の走行の音が止まると、 人々のあわただしい動きの音が上がりはじめた。
子どもをしかって急ぎ立てる声や、 夫婦が手荷物を確認する声、 それに駅構内の音が交差して来て騒々し い。
安吉は目を閉じた。 人々が汽車から降りていなくなるまで待とうと思った。
「 アン(安)! 」誰かが安吉をよんだ。
安吉は、ゆっくりと目を開けた。マオが窓の外に立っていた。
「 やあ、マオさん 」
「 どうした?」
「 いえ、 ただ、 みなが降りるのを待っていただけです 」
「 ああ、 なるほど・・・良いアイデアだな。 しかし、 そこに残っているのは、 安だけだぞ 」安吉は頭を動かして辺りを見てみた。 確かに誰もいない。 彼はゆっくりと立ち上がった。
「 どうかね? 久し ぶりのビュートは? 」車外に出た安吉にマオが聞いた。
安吉は深く息を吸ってはきだした。
「 空気がよくないですねえ 」
「 まったくだ。 人間の住むとこではないようだが、 人口は増えてきている。 不況のせいだろうな 」
「 20,000人ぐらいですか? 人口は? 」
「 いや、 25,000人ぐらいに増えていると聞いた。 ところで安、 ミスター・ヒルとの面談は明日に延期された。 急用ができたらしい」
「 私には、 時間はいっぱいあります」
「 チャイナ・タウンにでも行って、 昼食でもとろう 」
「 その前に、 仕事をくれたギプソンさんに会って、 お礼を言っておきたいのですが ・・・」
「 ギブソンは、 今はビュートにいない。 彼は労働組合結成のためにアメリカ国内を飛び回っている 」
「 労働組合ですか ・・・」
「 富のほとんどは、 少数の実業家の手にある 」
「 ・・・・・・」
「 貧富の差の拡大を止め、 幸運な金持ちの運を少しでも いただくには、 団結しかないと言うことになる 」
マオは駅構内からの出口で立ち止まると、 空を眺めて小さく言った。
「 団結ですか 」
「 民族の団結ではない。 労働者の団結だよ 」と彼は言い、 懐からたばこを取り出して口にくわえた。
安吉はその日、 チャイナ・タウンの近くにある小さなホテルに泊まることにした。 マオの紹介で、 清潔な良い部屋を安く借りるごとができた。
午後遅くマオの事務所にいる時、ノーザン・パシフィック鉄道のヒル社長の秘書から電話があり、 明日にヘレナの方のホテルに来て欲しいという連絡を受けていた。 残念ながら、マオは明日、 仕事でスリー・フォークスに行かなければならないらし い。 安吉は一人でヘレナに行き、 ヒルと会った後、 そのままシアトルに向かうことにした。
チャイナ・タウンのホテルのロビーで、 置かれていた新聞を読んでいると、 モンスターのことが話題になっていた。 ビュートから汽車で二時間ほどのフラット・ヘッドと言う湖で怪獣が目撃されたと書いてある。 もともとモンタナは恐竜の化石の宝庫で、 あちこちで大きな骨の化石が発見されている。
安吉は、 新聞をテーブルの上に戻すと立ち上がった。 このビュートの町は、 人間の手によって掘り返され自然が壊され、 大気が汚染されている。 銅の精練所の多くは、 ビュートから西に18キロメーター程離れたアナコンダと呼ばれている町に移っていた。大気の汚染は相変わらずひどく、 しばしば厚い粉塵の層が市街の上空を覆った。ホテルの外に出て空を見上げると、 午後の傾いた太陽は粉塵の層の中に見えた。
街を歩くと、 いろいろな人種に出会う。 移民の多くはヨーロッ パ人やスラブ人、 そしてチャイニーズだ。 新聞によると、 こういった人種の移民達は、 お互いに小さな自分たちのコミュニティ( 共同体 )をつくって住んでいるという。
安吉は、日本の明治の横浜を思い返した。 あの街にもいろいろな人種が右往左往していた。彼達のほとんどは移民ではなく商売人であった。 市街はたくさんの人々で混雑していたが、 空は青く澄んでいた。
ビュートの街は、 病気にかかった人間のように熱を持ち、 荒い呼吸をし、どんよりとした目で時の流れに身を任せているようだ。
弁当 の箱を持って歩いているのは鉱夫だ。 鉱山は24時間交代制で休まずに銅を掘っている。
「 貧乏だったとよ」突然、 トミの言葉がよみがえった。
「 貧乏・・・」安吉は自分に問い掛けた。
この街には富が眠っている。 しかし、 富を掘り返している労働者は貧しい。 銅は人間の身体の健康を害する鉱物で、 銅で汚染された大気を吸い、 水を飲んでいると癌になる。
鉱山労働者の健康は蝕まれていたが仕事を求めてビュートに来る労働者の数は、 アメリカの不景気に伴って増えていた。
(貧乏だと、 死をかけてまで働かなくてはならないのかね?) 労働運動の指導者の言葉だった。しかし、 鉱夫はだれも鉱山から離れようとはしなかった。 富(とみ)は、 少数の人間の元にのみ集まっている。 彼達は富に任せて、 環境の良い士地に御殿のような家を建て住んでいた。 彼達は労働者に尊敬さえされている。賃金を出すからだ。 不公平な賃金であったが、 収入のない労働者にとっては、 生活を助けてもらっている人間に映った。
恐竜の住んでいた土地を掘ると金が出た。 金が出て銀が発見され、 次に100 パーセントに近い純度を持つ銅が発見された。 銅は、 電気の発明により需要がうなぎ上りであり、 モンタナの丘は銅の産出量が世界一になっていた。
明朝、 安吉はヘレナに向かう汽車に乗った。 汽車の席は、 相変わらず移民風の乗車客で一杯だった。 窓側の席から駅を眺めた。 反対側の方には複数の線路が走っており、 鉱物を満載した貨車が連なっている。 精練のための鉱石をアナコンダに運ぶ貨車である。 ビュートの精練所ではまかないきれない銅の鉱石は、 貨車でアナコンダに運ばれた。精製された銅は東部の工業地帯に貨車で運ばれる。
鉄道は基幹の路線を軸にして、 タコの足のように四方八方に伸びてきていた。 鉄道の発達は都心の工業を促進し、 企業家に莫大な富をもたらせた。
駅構内の人込みの中に、 カウボーイ・ハットの男が見えた。 背の高い男だ。デービットだと安吉は思った。
安吉は席を立つと、 客車の乗車口に行き、 相手をもう一度確認してから声をかけた。 相手が、 安吉のほうを見た。
「 ヤー! 」と、 男は叫び声を上げた。 デービットだった。デービットは早足で安吉のほうにやってきて、同じ客車に乗った。
「 ヘレナに行くのだろう? 」デービットが安吉に聞いた。
「 そうです 」
「 休みか?」
「 いや、 グレート・ノーザン鉄道のミ スター・ヒルがヘレナで会いたいと言うことなので・・・多分、 あなたの所にも連絡が入っていて、 向こうで会えると思っていましたよ 」
「 ミ スター・ヒルだって? 色気がないね。 俺の場合は、 シカゴ・ジョーから手紙が来た 」
「 シカゴ・ジョー?あの度胸のある女性 」
「 そう、 ジョセフィーンだよ 」
「 彼女から?」
「 ミスター・ヒルが会いたいってな 」
「 へえ・・・」安吉は、 少し戸惑いを覚えた。 ミスター・ヒルとレッド・ライ ・ディストリクト( 遊郭 )を管理しているジョセフィーンとの関連が結びつかなかった。
「 飲むか?」デービットが手荷物からワインのボトルを取り出した。
「 いえ、 今はいいです 」
「 このワインは俺の農場で造ったものだよ。 なかなかの出来ばえなので、 ジョセフィーンに差し上げようと思ってね。 ほら、 この赤は、 ラベルを『 ジョセフィーン 』にした 」デービットはアハハと笑った。
「 ところで、 サモライ。 賞金を全部俺にくれてありがとう。 おかげで土地を銀行に取られなくてすんだ 」
「 いえ、 ぼくは、 偶然、 いや、 仕方なく手伝ったまでです 」
「 本当に、 ありがとう。 おかげで、 農場を続けることができる 」
「 恐縮しますよ 」
「 金は必要だなあ 」デービットが考え深そうにつぶやいた。
「 まあ、 ある程度は必要ですよね。 しかし、 人生お金だけではないでしょう? 」
「 いや、 人生は、 金に左右される 」
「 お金の為の人生ですか・・・ 」
「 移民は、 金もうけのためにアメリカに来るのだろう? 自由を求めてではないぜ」
「 ま、 そうです・・・ 」
「 皆、 一獲千金を夢見ている」 と言いながら、 デービットが木の箱にワインを戻した時「オン・ボード!」( 乗車 )と言う車掌の声がプラット・フォームから聞こえた。汽車が動きはじめた。
停まっていたものが動きはじめると、 しばらく人々は黙っていたが、 汽車が加速をつけ順調に走りはじめると、 あちこちで話し声が上がりはじめた。
窓の外には、駅から続く町並みが小刻みに後ろに流れていく。 少し目をずらして遠くを見ると、 ぼやけた視野の中に町の一画が陽炎のように見えた。
「 ビュートも、 終わりだね。 こう空気が悪いと、 生きていかれないぜ 」と、 デービットが言った。
「 でも、 人口は増えているそうですよ 」
「 不況だからなあ・・・ 」
「 よくなりますか? 」
「 うん? 何が? 」デービットは前面の客のいない席に両足をあげて伸ばした。
「 景気ですよ 」
「 ああ、 景気か。 後、 数年は駄目だろう 」
「 まだまだですか・・・」
「 勝つか、 負けるかだ 」
「 負けたら、 どうします? 」
「 列車強盗だ 」とデービットはカウボーイ・ハットをかぶり直した。
「 冗談でしょう? 」
「 警備会社をつくるさ 」
「 警備会社? 」
「 あちこちで列車強盗や銀行強盗が増えているから、 上手く行くと思う 」
「 危ない仕事ですねえ 」
「 鉱山で働いても同じだろ? 」
「 ま、 そうでしょう 」
「 君も、 やるか?」
「 いえ、 とんでもない。 恐い仕事はごめんです 」
「 サ モライだろう? 」
「 サ・ム・ラ・イ・・・でも、 おことわりです 」デービットは笑って何も言わなかった。
汽車は時々駅に停まり、 人々を入れ替えた。
ビュートからヘレナの間には、 歴史的な町が連なっている。 ボウルダー、 ジェファーソン、そしてモンタナの各市は1860 年代に金鉱が発見されて以来、 いずれも金、 銀、 銅を産出する鉱山の町として栄えた。 これら鉱物の産出量が落ちた近年では、 ウラニュウムが発見されて再び鉱山は活気を取り戻している。
モンタナ市を過ぎると、 次はヘレナである。 ヘレナは1864年に、4人の元南軍兵士が金を発見したことにより始まった。 モンタナ州で白人が最初に金を発見したのは1862年で、ミズリー川の上流付近だった。
それまで土着のインデアン達は、 金の塊(かたまり)があちこちに転がっていることを知ってはいたがインデアン達の間において金の価値は低く、 彼達の生活に過大に影響するものではなかった。不幸なことに、金が人間を狂喜さす価値のある社会に住んでいる白人たちが、 一獲千金を夢見てインデアンの土地に殺到したのである。 強盗や殺人が相次ぎ、 人々は獲得した金を無法者から守るため秘密裏に自警団を組織した。1863年から1870 年の間だけでも32人の人間が法的処置を取らず絞首刑にされたといわれている。
やがて車窓からヘレナの人家が見え始めた。 ビュートに比べると、 全てが明るい感じの風景だ。
空も青く、 家々も明るい色のペンキで塗られていた。 いや、 明るく見えるのは太陽の光を遮るものがないからかもしれない。 ビュートのように汚れた大気がここにはない。
1893年のヘレナは、 投資家達の住む都であり、 アメリカでも有数の金持ちが集まっていた。
彼達がミスター・ヒルと会うことになっている「 モンタナ・クラブ」も、 億万長者にのみドアを開いていた。北部太平洋岸における初めてのメンバー制クラプで1880年に設立された。 当時でもクラプ会員の登録者数は50人を数えていたので、 50人もの億万長者がヘレナにはいたことになる。
次第に汽車はヘレナの駅に近づいた。 車窓から複数の線路に停まっている貨車や客車が見えて来た。
汽車は速度を落とし、 駅構内に入った。 ヘレナの駅も、 ビュートと同じようにプラット・フォームは屋根で覆われていた。 駅は活気に満ちており、 旅人や貨物を運ぶ人達であふれている。 貨車が停まっている駅の片方では、 大きな歯車を入れた箱や樽、 鶏の入った籠、果物の箱等がどんどん運び入れられていた。
「 いい町だ 」デービットがプラット・フォームに降り立って言った。
安吉とデービットは荷物を抱えると、 駅の出口のほうに向かった。
広々とした駅前には、 二頭立ての馬車が数台停まっていた。 馬車は二人がけの席が四列あり、 定期的に動き出した。 今で言う路線バスのような交通機関である。
馬のひずめの音が快活に響いている。デービットは、御者に行き先の質問をして安吉を馬車の乗せた。そして、満席になった馬車は直ぐに動き始めた。
「 ところで・・・私たちは、 どこに向かっているのでしょうか? 」
「 ジョセフィーンの家 」デービットが答えた。
「 例の?」
「 そ・・・」
馬車は、 プロスペクト通りを走っている。 広々とした町だ。 真新しい建物が広い通りの両側に、 余裕を持って立ち並んでいる。 緑も多く、 道は既にアスファルトだった。 通りの少し左寄りの方に目を移すと、 なだらかなすそ野を持つヘレナ山が青い空を背景にして、 優しい。 山が優しく見える。
「 なるほど。 ジョセフィーンがこの町に住む決心をした理由がわかるな・・・」と、 デービットがつぶやいた。
「 こんなに美しい街を見たことがないですよ 」
「 知っているか? この町の名の由来?」
「 由来? 多分、 ギリシャ神話のヘレネの英語名でしょう? 」
「 ほう・・・鎖国をしていた日本人がギリシャ神話を知っているとは、 驚いたね 」
「 農学校で、 少し習ったのですよ 」
「 なるほど・・・ヘレナ、美貌の女、 豊穣の女神か・・・ 」
「 違いましたか?」
「 いや、 多分、 そうだろう。 しかし、 最初この町は『パンプキン・ヴィレッジ(カボチャ村 )』と か『スクワッシュ・タウン( 西洋カボチャ町 )』とかの名前が用意されていたらしいぜ。 あの、ヘレナの山がカボチャに見えるからかなあ? 」デービットが山を指さした。
「 とんでもない。 カボチャには見えませんよ。 それは、 ひど い名だ 」
「 まったくだ。 カボチャではひどすぎる」
二人が笑っていると、 馬車が止まった。 数人の客が馬車から降り、 数人の客が乗って来た。 馬車が再び動きはじめた。 御者が馬の手綱をうまく操って、 速度を調整している。ジョセフィーンの家のあるハリソン通りまでに、 馬車は八回ほど停まって人を乗せ又、 人を降ろした。 ハリソン通りは住宅地の中を南北に走っている。 この住宅地には南北に平行に走る道が等間隔に五本あり、 東西には七本の道が走って区分されていた。
道の両側には簡素な住まいが広々とした宅地の中にまだ新し い。 木造作りの家が多く、 石と木造を上手く折衷して建てている。 時々、 道よこの宅地に建築中 の家が見えた。木材がふんだんにある モンタナらしく、 分厚い板材が山と積まれていた。
ジョセフィーンの家は、 豪華にできていた。 玄関の呼び鈴を鳴らすとメイドが迎えた。
通された居間にはロココ調の家具がゆったりと並べられていた。 ソフアに座ってしばらくすると、 ジョセフィーンが現れた。
彼女はデービットと安吉を交互に軽く抱擁し、 対面のソフアに腰を落とすと微笑した。
「 光栄だわ。 勇敢な殿方に再び会えたなんて 」
「 こちらこそ、 光栄ですよ 」デービットが答えた。
「 あら、 あたしは、 ただの女ですもの」
「 でも、 列車強盗に対した態度はなかなかでしたよ 」
「 あら? 恐かったわよ 」と、 ジョセフィーンは言い笑い声をあげた。
安吉はふと、 彼女の背後の壁にかけてある肖像画に目を留めた。 立派な紳士の肖像画である。 しかし、 紳士の片方の目がどうやらよくないようだ。 肖像画は、 そのよくない目のほうを斜めに構えた格好で上手く隠しているが少し注意をすれば片目がよくないことが分かるものだった。
デービットが持参したワインをジョ セフィーンに差し出した。 彼女は受け取るとラベルを見「 あら?」と、 小さく声を上げた。
「 貴女の名前を付けさせていただきました 」と、デービットが説明した。
「 あらあら、 光栄だわ。 ありがとう。 なんと、 すてきなことでしょう 」
「 味わって見てください」
ジョセフィーンはメイ ドを呼んで、 ワインを準備するように言いつけた。
「 ところで、 サムライさん。 どうやら私の後ろの壁にかけてある肖像画に輿味を持たれたようね? 」
「 はい」
「 どう思う?」
「 どう、 思っと言われましても・・・」
「 どこかで見たことのあるような人物だ 」デービットが肖像画に目を向けて言った。金縁の豪華な額に入れてある画は、 最近描かれたものではないようだ。
ジョセフィーンは、 ソフアに腰掛けスカートの中の足を片方の足の上にかけている。 足で盛り上がったスカートに左手を軽く置いていた。 白く細長い指にはサファイヤの指輪が輝いている。 細面の顔の皮膚はきめこまかく白い。 外人にしてはこじんまりした目と鼻梁がうまくつりあっていて、 口は引き締まったように力強い。
二人のメイドがワインとグラス、 カナッペを銀の器に載せて運んで来た。 フレンチのメイドがワインを三人のグラスにそそいだ。
「 では、 乾杯しましょう 」ワイン・グラスを持ち上げてジョセフィーンが言った。
安吉は酒をあまり飲めなかったがグラ スを持ち上げた。 ベネチア・グラスの中にそそがれている赤ワインは、サファイヤの指輪ように輝いている。
「 ところで、 皆さんは ミスター・ヒルとお会いになるのでしょう? 」雑談の途中でジョセフィーンが言った。
「 ええ、 今日、 モンタナ・クラブという億万長者の酒場で 」安吉が答えた。
ジョセフィーンとデービットが軽く笑い声を上げた。
「 『酒場』に違いないわね 」
ジョセフィーンの言葉に、デービットは再び笑い声をあげ、 あまり的を得ているので大変に可笑し いと言い又、 笑った。
「 実は、だな、サモライ。 億万長者のみ会員になれるという高級会員制クラブなのだが、聞くところによると、 億万長者達はクラブで酒ばかり飲んでいるらし い。 確かに酒場だよ。 贅沢な酒場だ 」と、 デービットが説明した。
「 『贅沢な酒場』ですか・・・」
「 ヘレナの億万長者達は世界一の富豪だ。 クラブの中は豪華な造りだろうな 」
「 貴女も、 モンタナ・クラブの会員ですか? 」安吉の言葉に、ジョセフィーンの上品な口から白い歯がこぼれた。 安吉はふと、 日本で読んだ小デュマ作の翻訳物「 椿姫 」を思い起こした。 娼婦マルグリットと青年アルマンの悲恋を描いたもので、 堅苦しい翻訳物ではあったが当時の青年男女に与えた影響は大きかった。 安吉もマルグリットに思いを寄せた一人である。
「 壁にかけてある肖像画が気になるのですが・・・」安吉は、 ジョセフィーンに声をかけた。
「 えっ? 言わなかったかしら?」
「 何も、 聞いていません 」
「 ああ、 そうだわ。 ワインが来たので、 つい、 ワインに気を取られてしまっていたわ。 ごめんなさい 」ジョセフィーンは、 ワイン・グラスをテーブルの上に置くと、 立ち上がって後ろの壁にかけてある肖像画の方に歩いて行った。 安吉は彼女の後を追った。
ジョセフィーンは、 大きさが50号ほどある肖像画を懐かしそうに見上げ「 ハンサムでしよう? 」と、 言った。
「 ハンサムというより、 堅苦し い実業家に見えますけど 」
「 あら? 」と言い、 ジョセフィーンは笑みを見せた。
「 まさか、 ミスター・ヒルでは、 ないでしょうね? 」
「 その、 ミスター・ヒルよ 」
「 えっ? この人がですか?」
「 そうよ 」
「 でも、 どうして彼の肖像画をかけているのです? 」安吉が不思議そうにきくと、 デービットが「 野暮な質問だぞ、 サモラーイ 」と言った。
「 彼は、 私の恩人なの 」ジョセフィーンが答えた。
「 恩人?」
「 そう。 そして、 シカゴにいた時からの知り合い。 彼と知り合って、 かれこれ三十年ほどにもなるかしら 」
「 シカゴから・・・ 」
「 私は、 アイルランド生まれで、 彼はスコットランド 」
「 えっ? 彼はカナダ人ではなかったのですか?」
「 正確に言うと、 スコティシュ・カナデアンかしら?」
鉄道王のジェームス・ジェロウム・ヒルはジム・ヒルと呼ばれ、 アメリカとカナダの国境にそって走るグレイト・ノーザン鉄道とノーザン・パシフィック鉄道の経営者だった。
他の鉄道会社は、 政府の補助金を不正な申告により過剰に受けて鉄道を開発したものだったが、 ジム・ヒルは独力で鉄道を開発した。
ヒルは控えめな人格で、 幼少のころは医者になりたいと思っていたらしい。 しかし、 矢が目に当たり片目をつぶすという不慮の事故に合い、 医者になることを断念した。
1856 年、 十八歳のヒルは、 ミネソタのセント・ポールに行くことにした。 そこで隊を成して移動しているカナダ人の毛皮貿易商の群れに合流するつもりだった。しかし、ヒルがセント・ポールについた時、 毛皮商人たちの群れは既に移動していた。
これが、 彼の運命に幸いした。 ヒルは、 セント・ポールで蒸気船の貨物運搬に関する事務員となり、 貨物運輸のエキスパートになった。 1865年には、 独立してフレイ ・フォワーダー( 貨物運送業 )をスタートさせ、 セント・ポール・アンド・パシフィック鉄道の貨物運送を手がけている。 数年後には、蒸気船の運送業も自分の会社で行うようになった。 ヒルは次第に経営を鉄道まで伸ばし、地域の木材、小麦などの運輸を手がけながら鉄道の路線を西に伸ばして行った。 彼の鉄道が モンタナに届いたのは1887 年で、 シアトルに届いたのは、 安吉がアメリカに来た1893 年のことである。
ヘレナのレッド・ライト・ディス リクト ( 遊郭 )を取り締まり「シカゴ・ジョー 」とばれているジョセフィーン・ヘンスレイは1858 年、 十四歳の時に、 親と一緒にアメリ力に移民してきた。 1840年の後半頃から、 アイルランドの民衆の大半は経済的危機に陥っていた。 これは外国からの穀物輸入量が帆船の大型化と量産によりふえた事と又、 アメリカからもたらされたジャガイモの疫病が蔓延(まんえん)した事が要因と言われている。
われわれのよく知るところでは、 第三十五代アメリカ合衆国大統領ジョン・F ・ケネディの曾祖父が移民としてアイルランドからアメリカに上陸している。
ジョセフィーンは二十歳の時に、 シカゴのレッド・ライ ・ディ ス トリク ( 遊郭 )で親や兄弟の生活を助けるために働き始めた。 彼女はミ スター・ヒルは恩人だと言ったが、 二人の関係には言及しなかった。 安吉もデービットが言ったように、 野暮な質問はよすことにした。
午後三時ごろ、 安吉とデービットはジョセフィーンの用意してくれた馬車でモンタナ・クラブに向かった。
モンタナ・クラブは西六番外にあり、 外見はがっしりとした役所のような建物である。 馬車が通りを左に曲がり豪華な門の中に入ると、 グリーンと花々の咲き乱れている花壇が目に付いた。 馬車がゆっくりと噴水のある泉の横を斜めに走ると、 石造りの重々し い建物が安吉達の前に立ちはだかった。 御者はこの場所に慣れている様子で、 馬車を手際よく車寄せの一角に進ませ、 ゆっくりと止めた。 辺りは急に静かになった。 近くの木々で鳴く鳥の声が小さく聞こえて来た。
「 ほう、 なかなかの建物だ 」デービットが馬車から降りて建物を見上げながら言った。 安吉は、 絵で見たことのある自国の鹿嗚館を思い起こした。 日本の明治政府が外交用に建てたものである。モンタナ・クラブは、 アメリカ合衆国の最高裁の建物を設計したカス ・ギルバートのデザインによって建てられた。
安吉とデービットが入口にたどり着くと、ヒルの秘書が出迎えた。 大理石の壁や床、 豪華な絵画や彫刻がいたるところに目に付いた。 赤い絨毯の上を、 秘書の後についてカウボーイと鉄道工夫が歩いている、と安吉は思いながら横目でデービットを見た。 彼は鼻歌交じりで軽々と歩いており、美術品などには目もくれていない。
ヘレナには、 既にエジソンの発明により急速に広まっている電灯がともっていた。 モンタナ・クラブにも電灯がともっていた。 デービットは、 これには興味を示したらしく、 電灯の下で立ち止まっては見上げ、 感心したように頭をふった。
「 こちらにどうぞ 」秘書が一つの部屋に安吉達を案内した。
「 こりや、 すごい! 」デービットが声を上げた。 王様の館、 と安吉は思った。 豪華な造りの部屋が彼達の眼前にあった。
「 座って、 待っていて下さい 」と言う秘書の言葉に、 安吉とデービットは顔を見合わせた。
「 どこに、 座ったらいいんだい?」デービットが秘書に聞いた。
「 お好きな所にどうぞ 」
「 お好きなところといってもだな、 王様とお妃(きさき)の座る椅子しかないぜ 」
「 すべて、 あなたたちの席です。 お飲み物は、 何か?」
「 いや、 いらない。 持ってきている 」
「 なにか、 ございましたら、 後におります係りの者にお言いつけください」
秘書がお辞儀をして部屋から姿を消すと、 デービットと安吉は近間のイス? 椅子といっても表現に困るのだが、とても豪華な椅子に腰を落とした。
窓の上部にあるステンド・グラスが外からの光を受けて鮮やかな色彩を浮き出している。
「 落ち着かねえな・・・ 」と、 デービットが投げやりな言葉をはいた。
「 そうですね。 少し、 豪華すぎますよね 」
「 少しどこじゃあないね、 これは・・・ひど いもんだ」 デービットの言葉に、 彼達はお互いに笑った。
「 ところで、 飲み物を持ってきていると言いましたけど? 」
「 えっ? ああ、 ワインだよ 」
「 ジョセフィーンですか?」
「 そう、 それだ 」
「 なるほど・・・」
「 ミスター・ヒルに、 差し上げようと思ったんだが、 彼の口に合うかな?」
「 自信をもって下さいよ。 先ほど少しいただきましたが、 美味しかったですよ 」
「 うれし いね。 サモライに嘘はないと聞いたぞ 」
「 えっ? 少し、 言葉が違うと思うのですが・・・それ『武土に二言はない』でしょう? 」
「 しらない」
「 どこで聞いたのですか?」
「 シカゴの世界博覧会だったかな? それとも、どこかの芝居小屋だったか・・・」
デービットが椅子に腰を深く落とし、 宙を見て考えるようなそぶりをした時、 誰かが部屋に入ってきた。
「 お待たせした 」と、 入ってきた恰幅の良 い老紳土が言った。 一目でミスター・ヒルだと分かった。
安吉とデービットが挨拶をするために腰を浮かしかけると、 ヒルが手でとめ「どうぞ、 そのままで。 私がヒルです 」と 自己紹介した。
安吉とデービットも銘々に自己紹介した。
「 列車強盗から乗客を守ってくれて、 ありがとう。 心から、 お礼を申し上げる 」少し古臭い英語で言った。 しかし、それは気持ちよく聞こえた。ジム・ヒルは一流の経営者であり、 その根底にはフレイ・フォワーダー( 貨物運輸業 )によって培われた彼一流の経営方針があった。 彼の機関車は地方の安価な石炭を燃やして走った。 経営に関しては「急ぐな、ビジネスを待て。貨物車を空で走らすな」と、 言っていたという。
人々は彼のことを堅実でタフ( 頑健) 執念深いと称したが、 一流の経営者のほとんどが同じように称せられる。
ヒルは事務職タイプの経営者ではなかった。 彼が一人で乗馬をして原野をさまよい野宿することを好んだように、 常に現場に出て経営に対する状況判断を見極めた。 従業員を自分の仲間として大切にし、 彼達のほとんどの名前を覚えているほどであったが、 その一方、業務に怠惰な従業員や不正を働くも のは、 容赦なく解雇した。
ヒルはデービットと安吉に握手をして再び感謝の言葉をかけた。大きな手は暖かく堅固な感じがした。
「 これ、 私の農場で造ったワインですが」と、 デービットが袋からワイン・ボトルを取り出してヒルにさしだした。
ヒルは手にするとラベルを見て「 ジョセフィーン 」ですか、 と言いながら嬉しそうにつぶやいた。 話し方が初対面の時と違って若々し い。 秘書にグラスを持って来るように指示すると安吉を見て「 貴方は、 日本人だそうですねえ」と聞いた。
「 はい・・・ 」安吉は、 少し緊張して答えかえした。
「 私は、コットンを日本に輸出しています。『 布団 』に使うも のです 」
「 コットンを? でも、 よく布団の言葉をご存知ですね 」安吉が感心したように言うと、 ヒルは少し恥じらうように微笑し「 マサムネ、 知ってますか?」と聞いてきた。
「 マサムネ? 」
「 私のように、 彼も片目が見えなかったそうです」
「 ああ、 独眼流正宗、 伊達正宗ですね 」
「 そう、 強いさむらい」
「 また、どうして正宗を知っているのですか?」
「 シカゴにいる時、 日本人から習いました。 私は、 彼に似ているそうです 」
「 感じがですか? 」
「 いや、 性格がです。 強情で、執念深い 」と言い、 ヒルは笑った。 安吉は「 執念 」と言う英語が分からなかったがだいたい想像できた。
「 人の上に立つ人のほとんどが同じような性格ですよ。それに、 貴方は正宗よりもっと良い仕事をされているではないですか。 鉄道の近くの土地をただ同然で農民や移民に与えられている 」
「 いや、 自分の利益を読んだ上のことです 」ヒルはさりげなく答えた。
彼の秘書がワインとグラスを運んできた。ヒルの秘書も交えて、 ワインで乾杯した。
「 なかなか、 いい味に出来上がっていますね 」ヒルがデービットを見て言った。
「 まぐれです。 昨年は葡萄がよかった 」
「 ジョセフィーンに聞きましたよ。 あなたたちの活躍ぶりを 」
「彼女は度胸のある女性ですよ 」デービットが感心したように言うと、 ヒルは可笑しそうに笑い「 若いころからです 」と答えた。
「 ところで」と、 ヒルは言い後ろの秘書を振り向いた。 秘書が手持ちの鞄から封筒
を取り出した。
ヒルは封筒を受け取ると中から小切手を取り出し、 デービットと安吉に手渡した。
「 これは私の鉄道の客を強盗から守っていただいたお礼です。 受け取って下さい」 安吉とデービットは渡された小切手に目を落とした。 数字のゼロがかなり並んでいた。
「 金額が、 かなり大きいような気がしますが・・・ 」デービットが言った。
「 妥当な金額です。 グレート・ノーザン・パシフィック鉄道の社会的な信頼度をくずさなくてすみました。 私共も、 列車に警備員を乗せる計画を立てていたのですが、 間に合わなかった 」
「 ピンカートンと言う警備会社をご存知ですか? 」デービットの問いにヒルはうなずいた。
「 鉄道の乗客を強盗から守るには、 警備の強化しかないでしょうね 」
「 しかし、 いろいろ難し い問題が残っています。 人命尊重ですから・・・」ヒルが答えた。当時、人命尊重などと言うような考えをもっている人間はまだ少なく、 働く労働者を大切にするヒルらしい意見だった。
安吉は手にしたワインを見た。 赤い丸がグラスの中にある。 日本を思い出した。 日本は、まだ民主主義の国家ではなかった。
安吉とデービットはヒルと別れた後、 ヘレナの駅まで馬車で送ってもらった。
馬車に揺られながら後ろを振り返ると、 モンタナ・クラブの白っぽい建物の背後に、 やわらかな稜線を描いて街の後方に座しているヘレナ山が見えた。
「 本当にきれいな山ですねえ 」安吉がデービットに言うと、 彼もチラリと後方を振り返り「 柔らかすぎる感じだね・・・もう少し、 荒々しさが欲しいところだ 」と答えた。
「 でも、 この街に合っていますよ 」
「 ちがいない 」デービットが頭を振った。 通りの近くに大きな寺院のような建物が造られていた。 あちこちに石作りの大きな建物が建てられている。 この街の繁栄ぶりを見る思いがした。
駅に降り、 駅員にビュート行きの汽車が何時にあるか聞いたら、 今日はないと返事が返ってきた。 シアトルに向かう汽車はビュートから出ていたので、 安吉はヘレナで一泊し明日朝の汽車に乗ることにした。
デービットにたずねると、 彼はレッド・ライトでジョセフィーンと会う約束をしているらし い。 サモライも行かないかとデービットに誘われたが、 明日朝早く発つのでと断った。
今は、 少しでも早くトミの待つシアトルに帰りたかった。
安吉はデービットと別れた後、 駅近くのホテルに部屋を取った。 自分の部屋に入り荷物をかたづけ、 懐からヒルにもらった小切手を取り出して見た。 並んでいる数字をよく見ると四ケタである。 数字はタイプしてあった。 小切手の真ん中に「 1889 」とタイプされている。 これは、 信じられないような金額だ。 当時、 一般的労働者の一ヶ月間の給料は30ドルから50ドルである。 安吉は三年分の給料を手にしたことになる。
安吉は、自分の心臓の鼓動が鼓膜の内に響いているのを感じ取っていた。 これで、 念願の夢が果たせる、 トミと暮らせると思った。
「 1889 」は、 ジム・ヒルの鉄道がヘレナを経由してビュートに届いた年である。 出発点のセント・ポールから550マイル以上を9,000人の労働者が、 わずか八ヶ月間で作り上げた鉄道路線であった。 この年は、 ジム・ヒルに取っても忘れがたい年であったのであろう。 しかし、 ただ列車強盗から彼の乗客を守っただけで、 ヒルがこのような大金を安吉達に与えるとは、 誰も 想像できなかった。
ジム・ヒルは、 この鉄道に過大な愛着と期待をかけていたのである。
翌朝、 安吉はシアトル行の汽車に乗った。
グレート・ノーザン鉄道の汽車は、 士曜日の午後遅くシアトルの駅に着いた。
三ヶ月ぶりのシアトルである。 駅のホームには、 九月の冷えた風が吹き込んでいた。 雨が降った様子で、 駅前の通りやビルディングがまだ濡れていた。 市街の遠くは、 ぼんやりと靄(もや)に隠れている。
安吉は、両手に荷物を提げたまま山の方に顔を向けた。 レイニアー山がもやの上に顔を少し出していた。 山頂の方は既に雪を被っているようで、 夕陽を映している。 口を丸めて息をはきだしてみると、 幽かに白く濁って走る。
「 もう、 秋か・・・ 」安吉は声に出してつぶやいた。
通りを少し歩くと、 馬車停があり、 ちょうど客が降りたところだった。 安吉の他に誰も待っている様子がない。
「乗れますかね?」御者に聞いてみた。
「 もちろんですよ 」御者が答えた。
「 セカンド・アベニュウ( 二番街 )に、 行ってください」
馬車が走り出すと、 心地よいひずめの音が辺りに響いた。 市街には既に電気の街灯が点っている。
「 お客さん、 旅行ですか? 」御者が聞いた。
「 いや、 ビュートから帰って来たばかりです 」
「 ビュート? 鉱山の景気はどうですかね?」
「 いいみたいですよ 」
「 なるほど・・・ 」
「 シアトルは、どうです?」
「 鉄道のおかげで、 わしらの仕事はまあまあです・・・御客さん、 チャイニーズですか?」
「 いや、 違うけど? 」
「 ジャパニーズ? 」
「 そうです 」
「 最近、 よく見かけますよ 」御者が言った。
御者の話に耳を傾けたり、 話したりしながら馬車に揺られていると、 やがて見覚えのある通りが現れて、 周囲の景色が懐かしく思い出された。 安吉は御者に古屋商店のかなり手前のほうで降ろしてもらった。
辺りは既に薄暗くなっていた。人や貨物を稽み込んだ馬車が忙しそうに行き交っている。
安吉がここを離れたのは、 わずか数ヶ月前だったが 以前に比べて通りに人の姿が多く見られた。 御者が言ったように、 シアトルの人口はすごい勢いで増えているようだ。 1880年の人口は数千人だったという。1890年にいたっては四万五千人ほどにも増えている。
古屋商店が見えてきた。 懐から時計を取り出して見ると、 七時を少し回っている。 店は七時に閉めるので、 安吉は立ち寄ることをやめた。 多分トミは、 既に自分の部屋に戻っていることだろう。 安吉はトミの住居となっている倉庫の二階の方に足を向けた。
倉庫に近づくにつれ、 駆け出したくなって来た。 早くトミを抱きしめたかった。
靄(もや)の中に倉庫が見えてきた。 トミの部屋に明かりがともっている。 反対側のおヨネさんの部屋はまだ暗い。 仕事から戻っていないようだ。
安吉は、倉庫の二階を住宅に改造した住居の階段に足をかけた。 心臓の鼓動が体中に響いている。 トミは、 安吉がここにいることを知らない。 安吉は一歩一歩、 階段のステップに足をかけた。
ドアの前に立つと両手の荷物をそっと床に置いた。 深く深呼吸をすると、 拳をあげ、 ドアを軽くノックした。
「 だれ? 」トミの声がした。 安吉は黙っていた。
「 誰? 」少し不安そうな声だった。
「 トミ・・・ 」安吉は小さくトミに呼ぴかけた。
ドアがさっと開き、 トミが安吉の懐に飛び込んできた。
安吉はトミを抱きしめた。 髪の香りがする。 温かく柔らかい女性の身体が安吉の懐にある。
「 トミ、 帰ったよ 」
安吉はトミの身体を両手で少し離し、 彼女の顔を見た。 若々し い白い皮膚の頬に涙が流れていた。 青い目が安吉を見上げている。
安吉はトミが奇麗になったと思った。
彼は手でトミの涙を拭いた。トミがこぼれるような白い歯を見せた。
「 お帰りなさい」
「 ただいま 」
部屋に入ると、 三ヶ月前の思い出がよみがえった。 安吉の作ったテーブルがそのまま使われている。 部屋の中は以前とほとんど変わっていない。数冊の本が台の上にならべられていた。
「 食事は、 まだと? 」トミが聞いた。
「 うん。 まだ、 取っていない 」
「 よかった。 うちもまだ食べてない」
「 レストランに食べに行くか? 」
「 ううん 」トミはかぶりをふって「 うち、 すぐつくる 」と言った。
「 疲れてないか?」
「 あなたこそ。 それに、 ちょうど美味し いものを古屋商店でいただいたの 」トミの話し方が東京の方言( 標準語 )に近くなっている。
「 なんだろう? 」安吉はテーブルの椅子に腰掛けると、 トミを見て言った。
彼女は微笑した。
「 あわび 」
「 えっ? アワビ?」
トミがコクリと頭をふった。
「 どれ、 見せてごらん 」安吉はトミのいる台所の方に行った。大きなアワビが一個、 流しの中にある。
「 大きいなあ! 」安吉が驚いたように言うと「 こちらの海の中には一杯いるらし いとよ 」
「 アワビか・・・よし、 僕が料理してあげよう一安吉は上着を脱ぎ、 シャツの袖をまくってあげた。
ナイフでアワビと殻をくっ付けている貝柱を切り、 指をアワビと殻の間に入れるとアワビを殻から離した。
トミが横で見ている。
「 ほら、 これも食べれるんだよ 」切り離した青黒い胆( きも )を鍋に入れた。
アワビを茄でて醤油と塩、 砂糖で味付けをすると、 煮込んだ胆も一緒に皿に盛った。
日本米のご飯ができ、 安吉はトミと向かい合ってテープルに座った。 袋から、 デービットのくれたワイン「 ジョセフィーン 」を取り出すとニつのグラスに注いだ。
「 魚料理には白ワインだそうだが、 赤しかない。 でも、 これはすごいワインなんだ 」と安吉は言い「 鉄道王のミスター・ヒルも美味しいと言ったんだからね 」と説明した。
「 すごかあ 」
ほら、 これは君に買ってきた 」安吉は、 鞄から小さな箱を取り出してトミに手渡した。
「 何? 」
「 開けてごらん 」
トミがふたを広げて、 パッと目を輝かせた。 ヘレナで買ってきた金細工のネックレスだった 。
「 本当に、 うちにくれると?」
「 他に、 誰がいるんだい。トミのために買ってきたんだ 」トミは少女のような笑顔を見せた。
赤ワインは、 安吉の疲れた身体をほぐし、 トミと一緒に居ることの幸せを確認させた。 トミと向かい合っていると時間の流れがよどんでしまい、 存在感だけがふわふわと辺りにただよっているように思われる。 安吉は、 女性の存在がいかに男にとって大切なものであるかを身にしみて感じた。
トミは、 ワインで青い目の縁辺りを薄い朱色にし、 ふっくらとした頬を桜色に染めている。
「 美味し い 」グラスに口をつけるたびにワインをほめた。
「 デービットと言う、 いや、 早撃ちデイブが造ったワインだ 」
「 早撃ちデイブ? 」
「 面白い人物でね、 彼はワイルド・ウエスト・ショーに出ていたらし い。 とても、 いい男だ 」
「 ふーん。 どうして、 知ったと? 」
「 えっ? いや、 ちょっとしたきっかけでね、 一緒に仕事をした 」
「 危ない仕事?」
安吉は可笑しくなった。 デービットにうまく言い含められ、 列車強盗をやっつける彼の冒険に参加させられたときのことを思い出したからだ。
「 ぜんぜん、 危なくない仕事だった。 面白い仕事だったなあ・・・」
「 よかった 」
「 これからは、 ずっとトミと一緒にいれる 」
「ほんとう?」トミが安吉を見た。
朝、 窓ガラスに当たる雨音に安吉は軽く目を開けた。
彼の左の腕にトミの寝顔がある。 長い眉毛が閉じた目にある。
雨音が心地よい。 雨はガラス窓を打っている。 シアトルは雨の多い街である。 一年に約158日ほども雨の日がある。 昨日も雨が降った。 安吉がシアトルの駅に降り立った時は、既に雨は上がっていたが、 大気は湿り気を帯びてよどんでいた。
今日は日曜日である。 トミも休みのはずだ。 無理に起こす必要もないだろう。 安吉は、トミの顔にかっているほつれた髪を手で軽く払ってやった。 少女のような寝顔は、 昨夜の性の営みからは程遠いように見える。 安吉は右手をまわしてトミの身体に軽く手を置いた。 丸く柔らかく、 そして熱い女性の肉体の感覚がよみがえって来る。
雨が愛しさを呼び起こしてくる。 トミの身体の上に置いた手に少し力が入った。 トミが薄めを開き安吉を見た。
「 ごめん。 起こしたかな? 」
正午近く、 雨はまだガラス窓を強く叩いていた。
二人は起き上がってバス・タブに湯をはった。 安吉は再びトミの身体をタオルで流してやった。 男に抱かれた女の身体は妖艶で美し い。 トミの白い皮膚は湯を弾き、 乳輪と乳首がはっきりとした色を豊な乳房に見せている。
安吉もトミの後に湯を使った。 身体に疲れは―つも残っていない。 胸にトミのロの跡が残っていた。
「 コーヒーを入れよう。 今日は休みだろう?」安吉は湯から出ると、 鏡の前で髪を椀いていたトミに聞いた。
「 うん 」あどけない顔が安吉を振り返って答えた。 安吉には、 今日のトミがまぶしく見える 。
「 よし。 では、 今日はレストランで食事をしょう 」トミが微笑した。
二人はテーブルに向かい合うとコーヒーを口にした。
「 トミに見せたいものがある 」安吉が思いだしたように言った。
「 なんと? 」
「 幸運だよ 」
「 幸運? うち、 このままで十分幸福とよ 」
「 僕は、 君をもっともっと幸福にしたい。 ちょっと目を閉じてごらん 」安吉はトミが目を閉じたあと、 バックからミスター・ヒルにもらった小切手を取り出してきてトミの目の前に置いた。
「 さあ、 トミ。 目を開けてごらん 」
トミはゆっくりと目を開けた。 彼女は最初安吉の目を見た。 そして目を落として小切手に目をやった。
「 すごかお金、 どうしたとね? 」
「 もらった 」
「どうして? 」
「 グレート・ノーザン鉄道のミスター・ヒルの手伝いをしてもらったんだ 」
「 ふーん。 でも、 すごかお金たいねえ・・・」
「 これで、 トミと一緒にいれる 」
トミが椅子から立ち上がって安吉に抱き付いてきた。 安吉はトミの身体を両手で受け止めた 。
午後二時頃、 雨音が消えた。
窓のカーテンを開けて外を見ると、 空を覆っている雲の一部に、 薄く太陽の位置が見えた。
「 晴れそうだわ 」空を見上げてトミが東京方言で言った。
「 睛れるかねえ? 」
「 きっと、 晴れる 」
「 トミ。 トミの、 話し方は東京の方言に近くなったねJ
「 富士子さんが、 東京の人達の言葉を使いなさいって 」トミが恥ずかしそうに安吉に言った 。
「 富士子さんって、 古屋さんの奥さん? 」
「 そう。 うち、 東京にアメリカの物を送ったり、 東京から日本の物を取り寄せる仕事をしているから、 東京の人の喋りかたで話しなさいって 」
「 なるほど・・・」安吉は、 少し可笑しくなった。 富士子の話し方にいろいろな方言が混ざっている理由が分かったような気がした。
「 つかれるとお 」トミが頬をふくらました。
「 もう少しの辛抱だよ、 トミ。 僕には夢があるんだ 」
「 夢? 」
「 そう。 トミ。 トミは、 百姓は嫌いか?」
「 うち、 こまか時( 小さい時 )から、 百姓の仕事を手伝ってきたと。 嫌いじやあなか 」
「 そうか。 ありがとう。 僕は札幌農学校でアメリカ人のクラーク先生に教わったことを、このアメリカで実現したい 」
「 どんなこと?」
「 自然と調和した農業だ 」
「 自然と?」
「 自然を壊さない巨大な農場経営が僕の夢だ 」
「 夢。 貴方と一緒に夢を見られるの?」
安吉はトミの背中にまわした手に力を入れた。
窓ガラスを通して太陽の光が部屋に差し込んできた。 窓から外を見ると、 雨でぬれている建物の家々が日の光を受けて輝いている。 空を覆っていた雲は西のほうに移っていて、 青い空が次第に広がっていた。 まだ遠くの方は靄(もや)がかかっている。林の外にコバルト色の海が見える。
「 外にでてみよう 」安吉はトミに言った。
二人は外出着に着替えて外に出た。 雨の上がった街には既に人々が忙しく行き交っていた。安吉とトミは通りを古屋商店の方に向かって歩いた。
古屋商店は、年中休みなく店を開いている。 休むのは正月三が日だけと決まっていた。 隣人のおヨネさんも日曜に働いて、 月曜日が休みという。
トミの話によると、 古屋夫婦は店の二階から郊外の家に住居を移した。 古屋商店は貿易事業が上手く行って、 あちこちに支店を設けていた。
やがて安吉の目に見覚えのある編み笠が見えてきた。 編み笠は二つに増え、 相変わらず風にぶらぶらゆれている。 二人は古屋商店に入った。
「 ありゃあ! トミさん、 だんなさん戻んなさったあ 」目ざとくトミと安吉を見つけたおヨネさんが木箱から品物を取り出していた手を止め、 腰を伸ばしながら声を上げた。
「 こんにちは 」安吉は挨拶をした。
「 いつ、 帰りなさった? 」
「 昨夜です 」
「 昨夜? 汽車で?」
「 はい」
「 そりやあ、 お疲れでしょうに 」おヨネさんは、 片手に握っていた缶詰を両手でこすった。キャッシャーには、 見覚えのないおばさんがいた。
「 ほら、 清子さん。 トミさんのだんなさん 」おヨネさんが相手に声をかけた。
清子さんと呼ばれたおばさんは、 小さく腰をおって安吉に挨拶をした。 安吉も慌てて挨拶を返した。
古屋商店は数人ほど従業員が増えていた。 おヨネさんが清子さんにかけた声で、 あちこちの方から、 従業員が珍しそうに首を覗かせて安吉たちのいるほうをうかがった。
店の中にいる客も増えている。 辻馬車の御者が最近日本人をよく見かけると言ったが本当だなと、 安吉は内心思った。 日本とアメリカがだんだん近くなってきているのである。安吉は又明日にでも古屋に挨拶に来ることにし、 日本の食料品を買って店から出た。
「 驚いたね 」安吉はトミに話し掛けた。
「 何?」
「 従業員が増えている」
「 今、 店には十二人ほど働いているよ 」
「 日本人も?」
「 うん。アメリカ人や中国人も 」トミがうなずいた。
「 皆、 日本人は日本から来たのかなあ?」 安吉が驚いたように言うと、 トミは少しうつむいて「 ハワイや他の国にいた人もいる」と、 声を落とした。
安吉は、 直感した。 もしかしてトミと同じ経験を持つ女性も いるのかもしれない。 彼は、話を別のことに移した。
「 トミ、 古屋さんは事務所を店の二階に置いていたよね? 」
「 うん。 でも、 事務所はもっと大きくなったと 」
「 大きくなった?」
「 古屋さん達の住んでいた部屋も事務所になったから 」
「 そうか。 なかなかすごいじゃあないか 」安吉はのんびりとした古屋の話し方を思い出した 。
次の日、 安吉は仕事に行くトミと一緒に古屋商店に行った。
階段を上がると、見覚えのある大きなだるまが相変わらず片目のまま座っている。 トミの後について事務所に入った。 机が三つ増え五個になっていた。
「 古屋さん。 来るかな? 」
「 そうね。 今日は月曜日だから、 来られると思うわ 」トミは、 事務所では東京弁を使っている。
「 三ヶ月しか経っていないのに、 ずいぶん変わったね?」
「 そうね」トミは自分の机で書類を見ている。誰かが入ってきた。
「 グッド・モーニング! 」安吉は振り返って、 入口を見た。 アメリカ人の女性が立っていた。
安吉を見て、ニコリと笑った。
トミが相手に安吉を紹介した。 彼女はジョデーと言い、 最近ここで働きはじめたらし い。次に見覚えのある中国人のハンが顔を覗かせて、 安吉を見ると「 お元気でしたか?」と 日本語で言った。 安吉はハンと軽い握手をし、 少し立話をした。 ハンは元住居の事務所で働いている。
「楠本さあん。 戻ってきましたかあ 」古屋が安吉を見て例の、のんびりとした口調で言った。
「 ミスター・フルヤ、 グッド・モーニング」ジョデーが古屋に声をかけ、 トミが日本語で朝の挨拶をした。
「 やあ 」と古屋は日本語で言い「 グド・モウニング 」と付け加えた。
「 仕事があ、 忙しくなりましたあ 」と古屋は、 少し照れたように安吉に言った。
「 従業員の人が増えているのに、 驚きました 」
「 まあーだ、 まあーだ、 ですう。 ところで、 楠本さあん、わし、ちょっと話がありますがあ・・・」
「 何でしょう? 」
「 わしの部屋にいきましょう 」古屋はさっさと歩きはじめた。 安吉は古屋の後について歩きながら、 三ヶ月前、 古屋と会ったときのことを思い出した。 あの時も彼は、 のんびりした話し方の割には強引に安吉を事務所に案内したものである。
途中古屋は、 ハンの働いている事務所の入り口から朝の挨拶をした。 ハンの他に四人の男女が働いているのが見えた。
古屋の部屋は、机と客人用のソフアが置いてあるだけだったが床には絨毯が敷いてあった。
彼は「 どうぞ、 どうぞ 」と、安吉をソフアに座らすと自分の机に行き電話の受話器を取り上げた。電話はダイアル式で、 当時「 ステップ・バイ・ステップ 」と呼ばれていた最新式のものを取り付けていた。
古屋はのんびりとダイアルをまわし、 耳に当てた受話器のほうに頭を少し傾けると口を開けて天井を見ていたが、 やがて電話が通じたらしい。
「 富士子お、 まだおったんかあ? なに? 銀行の件? そうか、 そうか・・・うんうん 」と、しゃべり「 ところでなあ、 楠本さん、 戻りなさったあ・・・うんうん、 そうかあ、そうしたら、 ええなあ 」と、 長々としゃべって受話器を置いた。
「 富士子おうが、 会いたいそうですがあ、 ちょっと銀行によるそうですのでえ、 楠本さん、一時間ほど待ってくれますかあ?」
「 ええ、 私は時間がいくらでもありますのでかまいません。 でも、 ここで待つとお仕事の邪魔になりませんかね? 」
「 なあに、かまいません 」と古屋は頭を前後に振った。
ちょうど一時間ほどして、 古屋の妻である富士子が部屋に入ってきた。 相変わらず化粧が濃い。
「 楠本さん。もう、 びっくりしたわ。 冗談と思いましたえ。 でも、 無事のお婦りでトミさんも喜んでいるですやろう? 」富士子は部屋に入ってきてしゃべりながら安吉の対面のソフアに腰をおとした。 化粧のにおいが鼻を突いた。よい香りだった。
「 トミが、お世話になっています 」と、 安吉は言いポケットから富士子と古屋に買ってきた土産を取り出して渡した。
「 まあ、 私に?」富士子は嬉しそうに包みを受け取ると「 開けて、 いいですやろか?」と安吉に聞いた。
ヘレナで買った金の縁取りのあるカメオのブローチだった。
「 まあ!うち、これ 」と自分の夫のほうにカメオを見せて「 うち、これ、好きやわあ 」と大袈裟に顔をほころばせた。 後ろで古屋がニコニコと人のよさそうな笑顔を見せている。
「 うちのシト、 洋服はよう知ってはるんですが、 こないなものには、 からっきし駄目なんですえ 」
「 喜んでもらえてうれし いです 」
「 うれしいわあ、どないなお礼したらいいんですやろなあ? 」
「 とんでもない、トミがお世話になっているお礼です 」
「 トミさんには、 こっちが、 よけいお世話になってますう。 あないに英語ができるなんて、よっぽど日本で勉強しはったんやろ 」
「 富士子お、 楠本さんに、 はようお願いせんとなあ 」古屋が、 口を挟んだ。
「 ああ、そうどすな 」と富士子は夫のほうを振り返り「 あんたさん、金のシガー・ケース?」と古屋の手にしている安吉の土産を見つけて言った。
「 ヘレナは、 金の多い街ですから。 気に入ってもらえるといいんですが・・・」安吉の言葉に富士子は二重あごに近い首を軽く持ち上げ、 うすくため息を吐くと「 こんなに、 いい物もらってえ・・・ 」
「 気持ちだけです 」
富士子は、 カメオのプローチを箱にもどしながら、ふくよかな胸のふくらみを持ち上げるようにして姿勢を直すと「 楠本はん、うちで働いてもらえませんどすやろか?」と聞いた。
「 えっ? 私がですか? 」
「どないですやろなあ?」富士子が安吉の目を見た。
「 はあ・・・」安吉は、 突然の事なので返事ができなかった。
「 楠本さあん、どうですかあ?」古屋が、 身を乗り出すようにして言った。
「 どないですやろなあ?」富士子が再び同じように聞いた。
「 お誘いは、 大変ありがたいのですが、 農業をやろうと思っています 」
「 農業を・・・」と古屋は言い、 頭を前後に振った。
「 まあ! 農業って、大変なことですやろ? 」
「 ええ、 まあ、 楽じゃあないでしょう 」
「 土地も買ってはるんやろか? 」
「 いや、 士地はまだです 」
「 まだ? ああ、 よかったなあ 」と富土子は一人で合点し「 なあ、あんた 」と古屋のほうに声をかけた。
古屋も、 うんうんと頭を前後にふった。
「 楠本さん。 数年手伝って下さいませんやろかいなあ。 ほんの数年でよろしんです。 うちの人、銀行業にも興味がありますんよ。 楠本さんが、貿易業などのマネージャーになってもらったら、 うちら安心して事業の拡大ができますですやろなあ 」富士子は、 安吉の返事を打診するような物言いをした。
「 数年ですか・・・」安吉も、 数年ぐらいならこの人の良い夫婦の手伝いをしても いいような気がしていた。
「 やってくれますやろか?」
「 マネージャーは、 困りますが、 一般社員であれば勤まるでしょう 」
「 楠本さん、 おおきに。 ありがとさんどすうなあ。 なあ、 あんた。 これで、うちら安心して事業ができますわなあ 」と、 富士子は古屋を振り返って言った。
「楠本さあん。 ありがとうなあ。 よろしくお願いしますうよおう 」古屋の言葉にはかなり期待が込められているように思われた。
「 あまり、期待しないで下さいよ。 駄目な時は遠慮なく解雇して下さい」
「 そんな、 あんた、 大丈夫ですう。 富士子の目にくるいはありません 」古屋がきっばりとした口調で言った。
安吉は、初対面の時「 うち、 このシト気にいったわ 」と富士子から、 唐突に言われた事を思い出した。
「 早速ですが、 二三日したら、 ポートランドに行ってくれますかなあ? 」古屋は見かけとか話し方とは対照的に、 強引で判断が早いほうであった。 肉ずきが良く姉さん肌の富士子を操れるのは、 こういった性格のためであろう。
「 ポートランドに?」
「 そうですう 」
「 分かりました。 で、 どういった用件で行くのでしょうか?」
「 ああ、 ある人物に会ってきてほし いんですう。 わしが行く予定だったんですがあ、ちょっと時間がなくなりましてなあ、 まあ、 顔つなぎ程度のことですがあ、 なあに、 相手は元船員ですからなあ。 遊人ですう 」古屋が言った。 安吉は、ふと呉先生の言葉がよみがえった。 阿世という中国人の鉄道ボスの配下になり、 日本人として初めて鉄道に日本人工夫を送り込んだ男。
「 その人は、 田中と言う人ですか?」
「 あれ、 まあ、 知つてなさるとなあ?」古屋が、 驚いたように言った。
「 いえ、 ちょっと聞いたことがある ので・・・」
「 楠本さん。 あの男、 油断したらあきませんよ。うちは、 あの男さん、 嫌いですよって 」
「 しかしなあ、 富士子お、 食料品をたくさん買って下さるぞう 」富士子は不満顔で横を向 いた。
「 彼に 食料品を売っているのですか?」
「 そうですう。 この田中さんはあ、 鉄道ボスでしてなあ、じ ぶんの配下の日本人工夫に食料品を売りつけているんですがあ、 うちから食料品を仕入れているんですう 」
「 ああ、それで 」安吉は納得できたが、 なぜ富士子が彼を嫌いなのかは分からなかった。
安吉は古屋夫婦に、 明日から働くことを約束させられた。
昼、 安吉はトミを連れて昼食をとりに出ようと思ったが、 店の裏に従業員用の食事のまかないがあるという。
富士子がぜひそれを食べろと言う。 彼女は他人の世話をやくのが上手である。 さっさと安吉を食堂のほうに連れて行くとテーブルにつかせた。
清子さんに二人分の昼食を用意してねと言い、 自分でお茶を入れてから運んできた。
「 宇治茶の、 良いのが入っていてよかったわ 」と富士子は言うと、 自分も安吉の対面に腰掛けた。
「 いただきます。 でも、 ご主人は? 」
「 ああ、 あの人、 ここでは食べないのよ」
「 そうですか 」安吉は、 湯飲みに手を伸ばした。 いい湯飲みである。 持ち上げると手にしっとりと馴染む一品だった。
「 いい湯飲みですね 」
「 あら? そう? 」富士子が湯飲みの向こうで答えた。
「 どこの物ですか?」
「 うち、 知らん。 湯飲みを買う時は、 手に合うも のだけ買うてる 」
「 ああ、 なるほど、一番いい買い方ですねえ 」
「 そうかしら 」
「 名前で買うより、それが一番ですよ 」安吉は父から武芸の基礎を教わった折、 すべては自分の手になじむものを選べと父から教わっている。 なんとなく富士子に親しみを覚えた。
茶も極上である。
「 うちのな、 弁当持ってきてるのやわあ 」富士子が言った。
「 ほう? 弁当ですか? いいですねえ 」
「 毎朝、 うちが作りますのんよ 」
「 古屋さんは、 良 い奥さんをもって幸ですねえ 」
「 そうかしら? 」富士子が笑った。 彼女には、熟女の色気がある。
その時、 清子が盆に載せた料理を運んできた。
「 今日は、 何かと思ってけど、 おいしそうね、 清子さん 」誉めることも忘れていない。 清子さんも、 美味しいですよなどとあいずちをうちながら、てきぱきと盆の上に載せられていた物をテーブルの上に移した。 魚の煮込みや大根の煮しめ、 そして食べころの色合いをもつ白菜の漬けたも のが並べられた。 最後に暖かい味噌汁が来て、 富士子と安吉は箸を持ち上げた。
「 食堂も、どうですやろなあ? 」富士子が聞いた。
「 えっ? 食堂ですか? 」
「 楠本さん、 どう思いますう? 」
「 いいんじゃあないですか? 食料品を輸入されているわけですから、 最適ですよ 」
「 そうやわねえ。 うちもそう思うのやわあ。 ちょっと考えて見ようかしら 」
富士子は、 白菜を取り上げて口にほうばると小気味のよい音を立て美味しそうに食べた。安吉もつられて白菜を口に入れた。
安吉は食事の後、 トミに夕食の買物を聞き、 古屋商店で買い物を済ませると住居に戻った。軽く昼寝をし、 目を覚ますとトミの為に夕飯の準備をした。
昨夜、 おヨネさんに手土産を持って行った時にもらったカボチャを煮た。 小イカを丸煮にし、さあ夕飯はこれでよしと思っていたが、 肉の味が舌によみがえった。 結局、 豚の腹肉を買って来ると角煮を作った。
トミは豚の角煮に喜んだ。
「 あれ? これ、 あなたがつくったと? 」
「 トミが食べられるかどうか心配したけどね 」
「 とんでもなか。 大好物たい」
「 食べたことあるの? 」
「 うん 」トミは、 美味しそうに角煮をほうばった。
「 焼酎で煮たから、 酔っ払わないように 」
「 うん 」
「 ところで、 トミ。 ぼくも古屋商店でしばらく働くことになってしまったよ 」
「 本当?」
「 今日、 古屋さん夫婦に熱心に頼まれてね。 最初は農業をしたいのでと断ったのだが、 数年でも いいからということで 結局、 明日から働くことになってしまった よ」
「 うれし い! 」トミは箸を持ったまま両手を胸において声を上げた。
「 農業は数年先だね 」
「 うち、 あなたと一緒だったら、 何だっていいよう 」トミの言葉に、安吉は目を細めた。
「 じ やあ、 前祝いにジョセフィーンをもう一本、 開けようか?」
トミがうなずいた。
安吉はデイビットから五本のワインをもらっていた。 グラスに赤ワインをそそぐと、 食卓は豪勢な感じになる。
安吉はトミの顔が桜色に染まりはじめると、 青い目が不思議な輝きを持つのに魅力を感じた 。
夕食の後、 二人は湯を使い、 再び抱き合った。
安吉が古屋商店に働きはじめて二三日後、 ポートランドに出張することになった。あらかじめ念入りに古屋とビジネスの打ち合わせをした。
「 楠本さあん。 相手は、 鉄道に工夫を送り込む仕事で儲けているらしいですがあ、 仕事の合間に、ちょこと調べてみてくれませんかのう? 」古屋が頭を前後にふりながら言った。 安吉は、 呉の言葉を思い起こした。(金銭が好きならやることだ。 労働者からピンはねをする。金を溜めるコッだよ。 できるかね?)と彼は安吉に問うた。 安吉は( できません )と答えた 。
「 古屋さんも、 本格的に人夫請負をやるつもりですか? 」
古屋は安吉の質問にいやいやと片手を顔面で振り「人夫供給の仕事は、 ほんの少しですがあ、 しかし、 変な会社がこのような仕事をするよりも、 もっと健全にしてあげたらと思いますなあ」と、 頭を振って納得するように言った。
「 なるほど・・・」
「 たのみますなあ 」
「 やってみます 」安吉は、 古屋の駆け引きのよさに内心あきれながらも同意していた。
シアトルはワシントン州にあり、 ポートランドはワシントン州の南に位置するオレゴン州にある。
安吉は水曜日の朝、 シアトルからポートランドに向かう汽車に乗った。
汽車は一時間ほどしてシアトルに最も近い都市タコマに到着した。 タコマとはインデアン達がレイニアー山を「 水の母 」と称したインデアン語である。 当時タコマの人口は、 既に五万人に到達しており、 タコマ港は木材を主体とし て金銀や石炭、 小麦粉の輸出に全米一を誇っていた。
汽車は一時間ほども停車した。 タコマには、1883年にノーザン・パシフィック鉄道が東のスペリオ湖から伸びてきてつながっていた。
駅の構内には沢山の貨車がつながれている。 客車から降り立ってみると、 確かにレイニアー山は間近い。 険しく巨大な山の姿が浮遊する積雲の上に見える。 汽車の影になって見えない山麓を見ようと機関車のほうに歩いた。
絶え間なく吹き上げている機関車の煙突の煙が風に乗って流れてきた。 石炭のにおいが鼻を突いた。 一陣の煙が流れて行き、 視界が機関車の影から広がった時、 広大な原生林の山麓が視野に飛び込んできた。 秋というのに濃い緑色がけばけばしく見える。
木材を運ぶ汽車が駅構内に停まっていた。 巨大な木材だ。 切り口が安吉の等身大ほどもある。 こういったサイズの大木が山麓を覆っているのであろう。
やがて安吉を載せた汽車は多くの貨車を連結して走り出した。 周囲の緑の山麓も、 汽車を追いかけるようにして絶えることのない広がりを見せた。 線路の近くの峡谷に秋らしい色が点在していても、背景には深い緑の山麓がある。
汽車は一時間ほど、 スピードを落とすことなくシアトルから続くピュジェト・サウンド湾の沿岸を南西に向けて走った。 入江が多いせいか、 反対側の車窓に海が見え隠れしている。ピュジェト・サウンド湾の最南端が1890年にワシントン州の州都となったオリンピアである。 人口はタコマよりも一万人ほど 少ない。 汽車はここから進路を真南に向けた。 周囲の景色も少しずつ変化してきて、 いろ鮮やかな広葉樹の峡谷や、 なだらかな山麓が多くなって来た。 汽車は、力強く走りながら時々山間部の複線に停まっては木材の貨車をつないだ。
数時間ほど走っただろうか、 やがて木々の影から遠くに広大な川の流れが銀色に見えてきた。 コロンビア川である。
アメリカ合衆国第六代大統領ジェファーソンは1804 年、 元軍人のウイリアム・クラークとメリーウェザー・ルイスにアメリカ大陸横断の探検隊を組織させた。 探検隊はインデアンの少女サカジャウエアや彼女の夫のフランス系カナダ人を道案内にして大陸を横断した。このコロンビア川を下って初めて太平洋に到達したのは、十八ヶ月後の1805 年で十一月だった。 アメリカ人による初めてのアメリカ大陸横断は、 このコロンビア川でなされた。
安吉の乗った汽車は、 ゆっくりと川に沿って走っている。 ワシントン州とオレゴン州の境界線もコロンビア川にそって引かれているので、 対岸はオレゴン州になる。汽車は二時間ほど走った後、 バンクーバーUSAに着いた。
バンクーバーUSAの北で、 ウイラメット川が太平洋岸の山並みに平行して南から近よりコロンビア川に合流しているが、 合流する手前のほうは二つの川がやや平行に走っている。
ポートランドは北から汽車で向かうと、 ウイラメット川の対岸にあるので、 汽車はここからポートラン ドまで三つの鉄橋を渡ることになる。
コロンビア川の中央にあるヘイデン島を経由して対岸まで二つの橋、 そして10 キロメーターほど陸を南に走るとウイラメット川に―つの橋がありポートランドにつながっている。すべての鉄橋は、真新しかった。
安吉の乗った汽車は、 スピードを落として鉄橋をゆっくりと走った。 鉄橋からはコロンビア川の静かな流れが見える。 二階建ての客室を持つ蒸気船が後尾についている水車をまわして走っていた。 濃い川面に水車のはじく水が白く輝いている。
汽車は五時近くポートランドに着いた。 駅はアカレンガ造りのモダンな建物だった。 辺りは既に夕暮れで、 ポートランド市内には電気が明々と点っていた。 コロンビア川の発電施設が十分な電力を供給しているのだろう。 街に活気がある。
安吉は駅近くのホテルに宿をとった。
ホテルから電話で、 古屋に教えてもらっていた田中忠七に連絡を入れてみた。 田中はすぐに電話に出た。 彼も最新の電話を使っているようだ。
「 楠本君かね?」安吉の電話に田中が答えた。
「 古屋商店の 」と安吉が話し掛けたのを田中は「 知っているよ、 古屋から聞いているよ 」と面倒くさそうに言い「 君はどこに宿をとった?」と聞いてきた。
安吉はホテルの場所と名前を教えると「 おかめ 」と言う小料理屋まで出てこいと言う。 おかめの住所を安吉に教えると、 すぐ出てこいと一方的に念を押し電話をきった。
田中が待っているという小料理屋「 おかめ 」は、 ホテルからさほど遠くない場所にあった。安吉の乗った辻馬車はユニオン・ステーションの前を走るブロードウエイ街道を三ブロックほど南に走ると、 エベリット通りを左に曲がった。 エベリット通りの左側のほうは人家 らしき建物と会社の建物が混ざり合っている。 交通量も多いようだ。 辻馬車は止まっている荷車や馬車を巧みにかわしながら、 ほとんど同じ速さで走った。
やがて右側に商店街が顔を覗かしはじめた。 辻馬車の御者は少し馬の歩むスピードを落とすと、 安吉が前もって告げていた番地を確認しながら数ブロックほど走って馬車を止めた。辺りは食堂や飲み屋が集まっていた。 安吉は馬扱いの上手な御者にチップをはずむと馬車から降りた。
馬の吐く息が白く大きく吐き出されている。 夜の冷たい大気が安吉の頬をなでた。 既に冬支度の人々が往来に行き交っていた。
「 おかめ 」はすぐに分かった。 店の入り日に「 おかめ・ひょっとこ 」の大きな面が飾ってある。
安吉はドアを押して中に入った。 数人の客が新来の客に視線を向けた。 日本にある小料理屋の店先のようにうまく造作されている。 客のすべてがアジア人だ。
「 いらっしゃいまし! 」和服を着た女が言った。 多分彼女がイネと言う女将であろうと安吉は思った。
「 田中さんと待ち合わせをしているのですが・・・ 」安吉が言うと、 女は「 ああ、 あなた、楠本さん? 」と聞いてきた。
「 そうです 」
「 田中から聞いているわ。 どうぞ、 こちらに 」女が手で示した。 そこは店の奥のほうでけばけばしい雰囲気がある。
安吉が躊躇していると「どうぞ 」と女が再び言った。
安吉は女の後について店の奥に歩んだ。 両側には、 小さな区切られた部屋がある。 そこから男達の酔っ払った声や女の笑い声が聞こえて来た。 男達の声は日本人だったが女の声は中国人のようである。
和服の女は階段を上り二階の部屋に安吉を入れた。
「 ここで待っていて下さる? 田中はすぐ来ますから 」
「 失礼ですけど、 貴方は?」
「 わたし、 イネです。 富士子さん、 お元気? 」
「 ご存知なのですか?」
「 あら? 長い付き合い 」男好きのする、 目が細く色の白い顔が安吉を見た。
「 アメリカも結構狭いですねえ・・・」
「 あら、 古屋さんもしっているよ 」イネは、 自分の名前を言ってから言葉に軽い方言を入れた。
「 古屋さんもですか? 」
「 この和服、 彼が作ったんよね 」
「 古屋さんが・・・」
「そ、 あの人、 和服職人だもの 」
「 へえ・・・ 」
「 冨士子さん、 和服を作ってもらって好きになったみたい 」
「 へえ・・・ 」
「 驚いた?」イネが鼻を膨らました。
「 正直、 びっくりしました 」
「 あちしが、 先に古屋さん知っていたん 」階段を誰かが上がって来る音がした。
「 あら? 田中が来たみたい。 では、 ごゆっくり 」とイネは言い、 部屋から出かけたところに田中が入ってきた。
「 イネ、 酒と料理を運んでくれ 」と田中は言い、 安吉の前にあぐらをかいた。
「 古屋商店の楠本です 」と、 安吉が名乗ると田中はニタリと笑い「 堅い挨拶は止めにしてもれえねえかな 」と言った。
「 はあ、 しかし・・・ 」
「 アメリカだぜ」
「 恐縮です 」
「 恐縮? 可笑しいね。 いや、 実に愉快だ 」田中は、二重目で鼻が高く二枚目である。 安吉はこの顔に見覚えがあった。 江戸中期の浮世絵師、 写楽の描いた役者絵の顔である。
イネと日本人の女給が酒と料理を運んできた。
イネが酌をした。 安吉はあまり酒を飲めなかったが、 むげに断るわけにも いかない。 古屋商店の営業員としてきているからだ。
「 美味いだろう? この酒? 」グイと盃を空けた田中が安吉に言った。 確かに酒は舌さわりがよかった。
「 美味しいです 」安吉が言うと、 田中は再びニタリとわらい「 密輸品だぜ 」と言い、 安吉の顔を覗き込んだ。
「 まあさか・・・ 」
「 その“ まさか ”が危ないのさ 」と田中はケタケタ笑ってイネを見た。イネが立ち上がって部屋から出て行った。
田中は「 ふん 」と言い、 イネの後ろ姿を見送ったが手酌で盃を開けると、 焼き鳥の串をつかみムシャムシャと食べた後、 竹の串を爪楊枝にして歯を突ついていたが、 思い出したように竹串で出て行ったイネの方を示し 二三度振ると「 あの女、 あれも密輸品だぜ 」と言い、ギョロ目をむいた。
「 イネさんが、 密輸品? 」
「 今は、 違うけどよお。 昔、 不法入国した女さ 」
「 きっと、 何かの事情でもあったのでしょうl
「 事情? 」と田中は言い、 古屋のように首を前後に数度振って「 刺し身、 摘まんでみな 」と安吉に薦めた。 新鮮そうな白身の刺し身が皿に盛ってある。
安吉は一片を口にした。 思った以上に新鮮だ。 安吉は漁村近くで生まれ育ったので、 魚の新鮮度には敏感だった。
「 なかなかのモノですねえ 」
田中も一片を口にすると「 横浜の魚よりうめえやな 」と言った。
「田中さんは、 横浜ですか? 」
「 君は? 」田中が切返した。
「 私は和歌山ですが、 横浜にも住んでいました 」
「 出稼ぎか? 」
「 出稼ぎ? 」
「 アメリカには、 さ。 いろいろ事情があるだろう。 イネのように逃げてきた女も いるわけだしよお 」
「 イネさんが」
田中はニタリと、ニヒルな笑みを大きな鼻の横当たりに浮かべ「 淫売さ 」と言い、 刺し身をヒラリと口に運び込み酒を飲んで安吉を見た。 持っていた盃をポンとテープルの上になげだして「 あの女は元芸者だぜ」と続けた。
「ああ、 芸者さんですか?」
「 イネは、 俺がアメリカに連れ込んだ 」
安吉は呉の言葉を思い出した。 田中は元日本郵船の船員上がりで、 女をたぶらかしては女郎に仕立て上げていたらしい。
「 女郎のほとんどは売春宿に売られるんだがよお、 イネは阿世と言う中国人の妾になって生き延びやがった・・・ヘッ 」と、 田中は言葉の帳尻をため息のような、 短い投げやりの言葉で止めた。
「 それにしても、 よくこんなに日本料理ができますねえ 」
安吉の問いに、 田中は「 まあな・・・」と口こもったように言い、 両手を後ろに立てると身体を両手に持たせた。
「 日本の船もポートランドには、 よく寄港するのですか?」
「 ああ・・・」と田中は短く答えた。
安吉は、 間(ま)をうめる為に焼き鳥の串を持ち上げて口に運んだ。階下の部屋から笑い声が上がった。
「 うるせい奴等だ 」と田中は言い、 座り直すと盃を手にして手酌で飲んだ。
「 まるで日本ですね 」
「 君は英語が話せるか? 」田中が安吉に聞いた。
「 少しですけど 」
「 少しでも話せたら、 いいじ やあねえか。 奴等は英語がちんぷんかんでよお」
「 階下で飲んでいる人達ですか?」
「 鉄道工夫だ。 船員もいる 」
「 ところで、 田中さんは最初の日本人鉄道ボスだそうですね 」
田中はギョロ目をむいて安吉を見ると「 おめえ、 新聞読んだかよ 」と聞いた。
「 何処のですか?」
「 金門日報さ 」
「 金門日報? 」
「 けッ 」と田中は短く言い、 酒を飲むと「 サンフランシスコの邦字新聞だ 」と説明した。
「 いえ。 読んだことがありません 」
その時、 階段を誰かが上がって来る音がした。 ドアが開いて、 酒の為に顔を赤くした坊主頭の日本人が顔を覗かせた。
「おい、 田中。 次の日曜日、 五人ほど送ってくれ。 間違うなよ。 若いのだぞ 」と、 男はドアに片手をかけたまま、 半身を突き出して言い、 再びばたばたと階下に降りて行った。 ドアが閉まると、 安吉の背後に酒臭いにおいが流れてきた。
田中は黙って手酌で酒をすすった。
「 お知り合いですか?」
「 飯場のボスさ 」
「 飯場?」
「 ボーデング・ハウス( 労働者下宿 )の腐れ坊主が、 鉄道にまで手を伸ばしやがった 」
「 鉄道? 」
「 土曜日は、 工夫達の給料日だからさ。 女がいるわけだ 」
「 女? 」
「 売春婦だ。 賭博で買ったやつに女を抱かす。 金を取る。 負けたやつには金を高利で貸して金を取る 」
「 賭博もやっているのですか? 」
田中は安吉を見ながら、 刺し身皿の中を箸でつついていたが「 おめえ、英語が読めるか? 」と、再び聞いた?
「 少しなら 」と安吉は答えたが、 英語の読み書きには自信があった。
「 明日、 時間があるか? 」
「 ええ。 田中さんに会いに来たわけですから 」
「 よし。 少し手伝え。 そのかわり、 おめえのところに食料品の注文を増やしてやる 」
「 有り難うござ います。 それで、 何の手伝いですか? 」
「 明日、 阿世と言う中国人に会うことになっていてよお。 くだらねえ契約があるわけさ 」
「 阿世?」安吉はこの名前を呉から聞いて知っていた。 阿世は中国で死ぬ思いをしてきているので、 非道な事も平気でやると呉は言った。
「 中国人工夫請負業者の大ボスさ 」
「 そうですか。 でも、 最近中国人労働者は少なくなってきているらしいですね 」
「 ふん、 やつら、 アメリカからおっぽり出されているわけよ 」
「 十年ほど前に、中国人のアメリカ移民が法律で禁止されたからですか? 」
田中は、 頭を振って肯定した。
「 ところで、 おめえ・・・ 」と田中は言い「 女抱きたくねえか?」と聞いた。
「 いえ、 結婚していますから 」
「 へっ? 結婚? 」田中は組んだあぐらの上に手を置いて、 身体を前後に振った。
「 遊びたくねえのか? 」田中が言った。
「 あまり、 思いません 」
「 へっ?」田中がギョロ目を動かした。
結局、 安吉は女遊びに行こうではないかと誘う田中の申し出を断ってホテルに帰った。 明日十二時にここに来いと田中は言った。
翌日、 安吉は朝の十時近くに小料理「おかめ 」に行った。昼間は営業していないようだ。
入口のドアはかた<閉ざされている。
店の入り口の横に別のドアがあり「 イネ・フクダ 」と英語で書いた札が住所と一緒に貼り付けてある。
安吉はドアを軽くノックしてみた。 何の返事もない。 夜遅くまで営業しているので、 まだイネは寝ているのであろう。それとも、 田中に添い寝しているのかもしれない。 安吉は、近くのコーヒー・ショップに行って時間をつぶそうと思い、 視線をウイラメット川のほうに向けた。 道はまっすぐ川に向かっていて、 河岸の木々の向こうに大きな川の流れと汽船が見える。 安吉が歩きはじめた時、 背後にドアの開く音がした。 振り返ってみるとイネが入口に立っていた。
「 あら! 」と彼女は言った。
「 やあ、 おはよう御座います。 すみません、 田中さんと十二時にここで会うことになっていましたので、 中にいらっしゃるかなあと思いまして・・・」
「 田中? いないわよ 」
「 また、 後で来てみます 」
「 中で待っていたら?」
「 いや、 ご迷惑でしょうから 」
「 大丈夫よ。 誰も いないし 」
安吉はイネの言葉に、 先ほど自分が身勝手に想像した事を恥ずかしく思った。
「 お一人ですか?」
「 男でも居ると思った? 」
「 いえ、 田中さんと・・・その・・・結婚されているのかなあと思っていたものですから 」
「 ああ・・・そうね、 でも、 とにかく立ち話も何だから、 中に入りなさいよ 」
安吉は、イネの言葉にドアに歩んだ。 アメリカ式の居間はこぎれいに掃除されていた。 場違いのような医学書が二三冊、 無造作に置かれている。
「 すわんなさいよ 」イネに言われて、 近くのいすに腰を落とした。
「 コーヒー飲む? 」
「 はい。 いただきます 」
顔に化粧気のないイネは昨夜より若く見える。 やがてコーヒーの香りがしてきて、 安吉の前にイネがコーヒーの入ったカップを持ってきた。
「 あんた、 お腹、 すいてない? 」イネが言った。
「 少し・・・」
イネはキッチンに入った。
「 ちょうど、 ご飯が炊けたところ 」キッチンから言葉が返ってきた。 そしてすぐにイネは今に戻ってきたが、 手に小さなおにぎりを持っていて「 はい 」と安吉に手渡した。
「 出来立て、すぐ食べなよ。 御新香と味噌汁、 持って来るから 」
安吉は湯気の出ているおにぎりをほおばった。 米の香りが口の中に広がった。 飯粒の一つ―つが感じられる。
「 これは、 おいし いや 」
イネが、 おにぎりと御新香の乗った皿、 味噌汁の碗をお盆に載せて運んで来た。
「 できたて、 おいし いでしょう?」とイネが安吉の前のテーブルに皿をならべながら言った。 なぜか古屋商店の富土子の振る舞いと似ていた。
安吉はイネの用意してくれた朝飯を食べ、 コーヒーを飲んだ。
「 あんた、 日本、 どこ? 」イネが聞いた。
「 和歌山です 」
「 ふーん。 いつ、 アメリカに来たん? 」
「 今年です 」
「 今年? どこから入ったん? 」
「 カナダのバンクーバーからですよ。 シアトルとかサンフランシスコからは入国しぬくいと聞いていたものですから 」
「 あちし、 密入国、 最初はね。 今は、 何とか上手くやって“ オーケー ”になったんよ 」
「 よかったですねえ 」イネはうふふと笑った。
「 最近、 太りはじめちゃったわよ、 うふふ 」イネは、 細い目の目尻を下げた。
「 いや、 そうでもないですよ 」
「 あんた、 女、 いるん? 」
「 ええ、 家内がいます 」
「 そうやねえ、 女が、 放っとかんよねえ 」
「 いえ、 ずっと女の人とは縁がありませんでした 」
「 あんた、 芸者遊びやらんかったん?」
「 はい。 お金がありませんでしたし、 北海道のほうに行っていましたから 」
イネはまるで日本語に飢えているかのように、 安吉にいろいろな質問をして話を続けた。安吉は内心、 イネは寂しいのではなかろうかと思った。 どういった事情があるにせよ、 故国を離れ異国に居住する人間の心の片隅には、 不安定な民族の壁がとりまいている。 それは、 本人がいかなる努力をしようとも、 取り払うことはできないも のなのである。
田中は十二時半頃「 おかめ 」にやってきた。 彼は入り口のドアから顔を覗かせると、 安吉に向かって手を上げて「 一寸、 そこでまっていてくれ 」と言い、 イネを連れて外に出た。横の店のドアが開く音がした。
居間と店は壁―つのようだ。 かすかだが二人の話し声が聞こえてきた。
二人は愛人関係にあるのであろうか。やがて田中が戻ってきた。
「 でかけよう 」と、 安吉に言った。 安吉は事情を知ったので、 外に出ると彼の後について歩きはじめた。
田中は、右肩をあげ両手をズボンのポケットに突っ込んで歩いていたが、 立ち止まって安吉が追いつくのを待っと「 知っているか? 」と、 聞いた。
「 何をですか? 」
「 イネ の秘密」
「 いえ・・・」
田中はふんと鼻先で笑い、 あの女淫売だぜと言った。 毎日、 男が必要な女だと、 付け加えた 。
「 寂しいのでしょう 」
田中は、顔を上に向けて笑い、 阿世に性を仕込まれた淫売だと言った。
「 ?」
「 中国の、 性技だぜ。 狂っている 」
「 中国の?」
「 おかげで、 俺は、 金が入りはじめたけどよお 」田中が安吉を振り返って言った。
いや、 違う。 この人達は異国の地で孤独になることを恐れているのだと安吉は思った。
( 女を抱く、 安らぐ。 女の肉、 柔らかく温かい。 生きてること、 よく分かる )鉄道保線工夫の馬の言った言葉が再び甦った。
男女の性に関係なく、 お互いに相手を求めるのは、 自分の生命を認識するための本能的な行動が衝動的に起こることに他ならない。
「 ところで、 私たちはどこに行っているのでしょう?」安吉は話をそらした。
「 阿世のとこさ 」
「 阿世 」
「 イネの使いだ。 淫売からあしを洗うために、 金をとどけて、 書類をもらう。 英語で書いてあるので、 おめえさんが必要なのさ 」と言い「 心配するな、 上手く行ったら古屋商店に対する食料品の注文を二倍にしてやるからよお 」と、 付け加えることも忘れなかった。 なかなか打算的な男である。 この男に抱かれているイネの姿がうかんだが、 湯気の立つおにぎりを持ったイネの姿のほうが強く安吉の心に焼き付いていた。
田中は歩くことに慣れていないようで、 歩くことに自分で文句を言い、 行き交う辻馬車が客を乗せているのを見ると「 ちっ 」と、 つぶやいた。
「 辻馬車を拾いますか? 」と安吉は田中に聞いたが、 彼は片手を軽くぽんと上げ、 すぐそこだと答えた。
小料理「 おかめ 」から五ブロック( 四角に区切られた都市の街路の区画 )ほど南に歩いてカウチ通りを右に曲がると、 前方の一区画に東洋的な雰囲気の街が見えた。 中国人街だった。 建物は煉瓦造りだが、 すべてが赤とか緑、 青などの原色で塗られている。 街の入り口には「 チャイナ・ゲート 」と呼ばれている門が立っていた。 門の上部は三層の瓦屋根になっていて、 門の横には獅子の像が置かれている。
田中は、門の右のほうから大通りに面して立てられているけばけばしい色と雰囲気の建物に向かった。 二階建ての煉瓦の建物は、 安吉がカナダの国境の町ブレインで見た売春宿の雰囲気に似ていた。
―つの建物の入口を入ると、人相のよくない、 いかにも遊び人風の男子達がテープルでトランプの賭博をしているのが目に入った。 彼達の背後のほうは酒場のようで、 暗っぽい室内にはかなり多くの男と女がテーブルについているのが見えた。 どうやら、 そこでも賭博をしているようだ。
「 二階は売春宿さ 」田中が立ち止まって安吉に言った。
手前のテープルでトランプをしていた男の一人が立ち上がって安吉たちのほうにやってくると、 田中にあごで方向を示し、 先にたって歩きはじめた。 あまり良い雰囲気ではない。
「 くそったれだ・・・ 」田中がぽつりと言った。 暗っぽい廊下で彼のギョロ目がおどおどとして見える。
安吉たちは大きな部屋に通された。 中国の飾り物が壁に架けられたり置かれたりしている。部屋の真ん中は中国の屏風でくぎられ、 その横をまがると数人の男子達がテーブルに座っていた。
「 ミスター・アセイ」田中が立ち止まって、 男子達の一人に声をかけた。 テーブルの中央にいた身体の大きい目のきつい男が視線を向けた。
安吉は男の視線の中に、 数多くの死線ををくぐり、 無情の掟を身につけた人間の持つ威圧力を感じた。
「 イネが金を出しました 」田中がブロークン・イングリッシュで話を続けた。
田中が懐から取り出した封筒を、 安吉たちを連れてきた男が取り上げ、 テーブルのほうに運んだ。
阿世は封筒を手にすると中を確認して懐にしまい込み、 別の男に目配せをした。 男は椅子から立ち上がると奥の部屋に行き、 一枚の書類を持って帰って来ると田中に手渡した。
「 田中、イネと遊んでいるようだな?」阿世の口から重い口調の英語が放たれた。
書類を持つ田中のてがぶるぶると小刻みに震えている。
田中は、安吉のほうに書類を手渡してきた。 これが彼の精一杯の動きであった。
安吉は書類を受け取って内容を検めた。 適当なことが書いてあるのみで、 一体これがどういった契約の書類であるかさえ判断できないような内容であった。 しかも、 阿世本人のサインがしてない。
「 これは、 私が聞いた内容のモノとは違うようです 」安吉は阿世を見て言った。 一瞬阿世の目が光った。 彼は、 安吉に視線を向けた。 安吉はすぐに阿世から目を離した。 自分を悟られたくなかった。
「 田中さん。 私が話しますので外で待っていて下さい 」安吉は、臆病な田中がじゃまになると思った。 田中はうなずいて部屋から出て行った。
「 ミスター・阿世。 イネさんは、 とても良い方です。 もし、 貴方が彼女を束縛しているのであれば、 自由にしてあげてほしい」
阿世は、 しばらく黙って安吉を見ていた。 彼の背後の壁に、 二等辺三角形の黒色の旗が飾られている。 旗の中央の金糸で丸く縁取られた中に「 龍 」の文字が見えた。
これは1851 年に中国で起こった大平天国の乱で、劉永福の率いた黒旗軍の軍旗である。
貝塚茂樹著「 中国の歴史」( 岩波新書 )には、 1851 年から1864年に中国で始まった太平天国の乱は、 清朝に対する農民を主体とした反乱軍で大平軍と呼ばれた。清朝に鎮定された後、 一部の残軍は清朝の討伐を逃れて清国と越南の国境地帯を占 拠し、 黒旗軍と呼ばれていたと著されている。
「 ふむと、 阿世は言った。
「 将軍・・・」他の一人が安吉の持つ袋を指差した。( 将軍?)安吉は阿世が将軍と呼ばれたことを不思識に思ったが、 男子達の視線が自分の手にする小さな バックに注がれていることに気がついた。 安吉は自分の持つ バックに目を落した。 何の変哲もないバックである。ただ、 呉先生にもらった丸いメノウ石の飾りをぶら下げていた。
「 呉総督か・・・ 」阿世が短く言った。
「 貴様は、 一体何者だ! 」やせた、 眼光の鋭い男が声を上げた。
「 私は」と、 安吉は言いかけて阿世を見た。 阿世が立ち上がったからだ。 鍛えられた大きい身体が安吉のほうに歩いてきた。
阿世は、 安吉の前で立ち止まると「 見せてくれるかね?」と言った。
安吉は、 バックを阿世に差し出した。 阿世はバックを片手に持ち、丸いメノウ石に彫刻された竜の彫り物 に手を添えてしばらく見ていた。
「 ふむ・・・ 」と阿世は呟き、 安吉にバックを戻した。 彼は他の男子達を振り返り「 本物だ 」と、中国語で言った。 男子達の表情に微かな変化が応じた。
「 誰にもらった? 」誰かが安吉にたずねた。
「 ああ、 このメノウ石ですか? これは、 呉先生と呼ばれている方からいただきました 」阿世を中心にした男子達が安吉を取り囲むようにして、 見守っている。
「 君は、 呉総督とどういった関係にあるのだ? 」阿世が安吉に聞いた。
「 自分のほうが呉先生にお世話になったのですが・・・私が、仕事を止めて中国人の失業者に仕事を譲ったのです。 その時に、これをいただきました 」
「 呉総督は、 相変わらず大君だ 」阿世が微かに笑みを浮かべた。
阿世は机に行くと紙を取りだし、 ペンを動かした。 彼は安吉のほうに戻って来ると作った書類を安吉に手渡した。
「 イネに渡してくれ 」と阿世は言い、 懐から先ほど田中から受け取った封筒を取り出すと安吉に差し出した。
「 これもだ 」
「・・・」
「 心配するな。 約束は守る 」
「 ありがとうござ います 」安吉は頭をさげた。
「 行け 」阿世が出口の方を手で示した。
安吉は、 阿世に自分の背後を見せないようにして部屋から出た。 自分の持つエネルギーがすべて吸い取られたような虚脱感が一度に彼を襲った。
( 生きていた )身体の中からこの言葉のみが浮き上がってきた。
建物の入り口近くの賭博場まで来ると、 田中を目で探した。 田中は―つのテーブルに就いてトランプ賭博をやっていた。安吉を目にすると立ち上がった。
両手をズボンに入れたまま安吉の方に歩いてくると「 くそったれ達は、どうしたい? 」と言った。
「 きちんとした書類をいただきました 」
お金のことは田中には言わなかった。 イネに直接手渡そうと思った。
田中は、 事が上手く運んだので気をよくし、 安吉を自宅に連れて行った。 彼はイネに、今夜は俺が「 おかめ 」の日本人従業員を全部かりきる、 料理と魚をもって家に来てくれと言い、 費用を前金で払うきっぷの艮さを見せた。すべての金は労働者から絞り取ったものであろう。
田中の家は、 確かに豪邸だった。 日本人労働者達に作らせたと言われている小島を浮かべた池もあった。手入れが行き届いていないようで、 池の水面には落ち菓やゴミが浮かんでいる。
田中は安吉に池の見える部屋の藤椅子を薦め、 自分も椅子に座りたばこを取り出すと、 吸いながら言った。
「 誰かが新聞にたれ込みやがってよう。 このざまさ 」と言い、 煙草を挟んだ手で池の方を指した。
彼の口から流れた煙草の煙が幾重もの白い筋となって空気中を漂い、 窓ガラスに当たって拡散した。
「 現在、 日本人の鉄道工夫は何人くらい働いているのですか?」
「 五百人くらいかな 」
「 この不況時に五百人もですか・・・ 」
安吉の質問に、 田中は深く煙草を吸い込むと、 長々と吐き出した。
「 不況? 関係ねえよ。 金のあるやつは不況の時こそ稼ぎ時と考えているらしいやな。 ぼろい商売さ。 けどよお・・・日本人の労働者の需要は増える一方だがよお・・・ 」と田中は言葉を止めると、 池のほうを見て「 くそったれの日本人がよお、 真似しやがって、 奪い合いだな 」と続けた。
「 何をですか?」
「 決まっているじゃあねえか。 出稼ぎの労働者だよ 」
「 ああ、 なるほど・・・ 」
「 ぼろい商売だからよお 」と田中は再び言うと煙草を吹かした。
「 一体、 どの程度儲かるのですか?」田中はギョロリと安吉を見た。
「 こんな豪邸に住んでおられるので、 かなり儲かる商売なのだろうと思いますが・・・ 」
「 へっ? 」田中は、 煙草を開いていた窓から池に向かって投げた。
「 ・・・・・・」
「 一人の工夫からだな、 一ドルだな 」
「 一ドル.」
一ドルは、 鉄道工夫の一日の賃金に近い額だ。 すると、 田中は一月に五百ドルもの大金を手にしていることになる。
「 でもよお、 新聞がたたきやがったおかげで危ねえ身の上さ 」
田中がギョロ目をむいた時、 隣の部屋で電話のベルが嗚った。 彼は立ち上がってどたどたと電話の嗚っている部屋に駆け込んだ。 藤椅子が横に倒れた。 よほど重要な電話のようだ 。
「払いますよ。 いくらですか? 大丈夫です。愛国同盟にですか?」 と、 田中が
話している言葉が聞こえてきた。 愛国同盟とは、当時サンフランシスコにあった政治結社であった。 田中は、 この政治結社の力を借りて「 不正暴露事件 」の解決をもくろんでいるようだ。
電話の話が終わって戻ってきた田中の顔は、 ちょうど歌舞伎役者が化粧を落とした後の顔のように青白く見えた。
「 けっ 」と田中は呟き、 吐息を吐いた。
「何か、 大変なことですか?」
「糞ったれだ。 人の足元を見やがって。 糞! 菅原の野郎」
菅原とは「愛国同盟」の菅原 伝のことだ。 明治の壮士達は、 中国やアメリカなども拠点にして活動していた。 異国の体験が、 政界財界入りを容易にするような気風が当時の日本にはあったのである。
午後五時ころ、イネが三人の日本人女性と料理を運んできた。 すぐ後から芸者と思われる女が三人、 別な馬車でやってきた。
料理の準備が整い、 田中と安吉が宴会の席についた時、 安吉と同じ年代くらいの男がやってきた。
「 伴、 遅いじ やあねえか 」田中 の知り合いらしく、伴と呼んだ男をを手招きして自分の隣の席に付かせた。
「 楠本君。 こいつは伴新三郎といってな、 もと外務省書記生さ 」
「 伴です 」と彼は安吉に頭を下げ「 田中さんとは、 変な腐れ縁です 」と、付け加えた。
「 まあな。 最初はハワイ。 そして神戸か?」田中が言った。
田中の失脚後、 伴新三郎はポートランドに居を定めて人夫斡旋業を始めた。鉄道、 鉱山、 農園や製材所に多数の日本人労働者を送り込んだ。
一時彼の配下の労働者は三千人にも及んだ。 又、後に社名を「 S伴商会 」と改名し、 日本からの食料品や雑貨も取り扱いコロラド、 デンバーに支店を設け、 テキサスから山中部地方にまで進出した。 後の外相松岡洋右もオレゴン州立大学に通いながら、S伴商会で働いたことがあったと記述している。
「 おい、イネ。 おめえのところの女給の数が少ねえんじ ゃあねえのか? 」と田中が例のギョロ目をむいて言った。
「 あら? そうかしら?」イネが田中に酒の酌をしながら平然と答えた。
「 けッ、 婆ばかり連れてきやがって・・・ま、 いいか。 今日はおめえの宴会だ 」
「 あら、 あちしの? 」
田中は照れくさそうに鼻の先で笑った。
芸者が踊りはじめた。 まるで日本のような雰囲気である。 イネは自分の店からは仲居のみを連れてきていた。 彼女は安吉に酌をしながら「 店は閉められんよねえ? 」と言って茶目っ気に笑った。
伴によると、芸者達は明治の新派劇の祖で、 自由民権連動家でもあった川上音次郎の一座がアメリカ公演に来た時の居残りだそうである。
「 日本より、 こちらが良いのですかねえ?」
「 いや、 出稼ぎのつもりだそうですよ。 多分、 稼いで帰るのでしょう 」と、 伴は酒で赤くなった顔で安吉に語った。
田中は元船乗りらしく、 愉快に飲んでさわいだ。 宴会は深夜にまで及び、 安吉も席を離れることができなかった。 やがて田中が酔いつぶれると、 彼をベットに運んで寝かせ、 安吉はイネ達と「 おかめ 」に馬車で戻った。 料理皿や酒ビンなどを「 おかめ 」の中にいれると、 仲居達は近くに住んでいるようで歩いて帰って行った。
「 あんた、 うちに泊まりなさいよ 」イネが小声で安吉に言った。
「 いえ、 ホテルに帰ります 」
「 あら? 馬車帰したんよ 」イネが後ろを見せて店のものを整理しながら、 安吉に言った。
「 外で、 拾いますよ 」
「 もう、 こんな時間、 馬車なんかあらへん。 泊まんなさいよ 」
「 ああ、 そうだ。 イネさんに渡すも のがあります 」安吉は懐から阿世の返した現金の入った封筒を手渡した。
「 これはミスター・阿世から貴女に返してくれと頼まれたものです。 田中さんは現金のことは知りませんので」
「 あんたが、 やってくれたん・・・ 」
「 いえ。 私は、 ただ単に田中さんのお手伝いをしただけですよ。 詳し いことは、 知らないのですが、 よかったですね。 解決できて 」
「 ありがと・・・ 」
イネは、 安吉の手を取ると、 隣の住居に連れて行った。
「 冷え込んでるわねえ 」イネは、 ストープに薪を入れると火をつけた。 やがて幽かな木のにおいが立ち、 ストープの中で火が勢いよく燃えはじめた。
「 お茶でも飲もうか?」イネが言った。 彼女の皮慮の細かい白い顔がストーブで燃える火の光を受けて妖艶に見える。 切れ長の目が安吉の目を射た。
まさか、 キツネに化かされているわけでもないだろうが、 辺りの雰囲気は軽々とした温かさだ。 ちょうど毛皮でくるまった時の感じと似ている。
安吉はまどろんでいた。 弁天様に似た女が安吉のそばにいた。(トミ・・・ ) と思ったがトミではないようである。
女は安吉に馬乗りになり抱きついてきた。ストーブの火がめらめらと燃えていた。
翌日、 安吉は暖炉の近くで目が覚めた。
「 おきたん? 」イネが声をかけてきた。
毛皮にくるまって寝たようである。イネがかぶせてくれたのであろう。
安吉は、自分が下着だけで寝ていたことに気付き慌てて自分の服を捜した。
「 服さがしてるん?」
「 ええ・・・」安吉は小さく答えた。 腰に力が入らない。
「はい 」きちんと畳んである服が イネの白く細長い指につかまれている。
安吉は少し赤面して受け取った。
「 あんた、 ええ男やねえ 」
イネの言葉も耳に入らなかった。 安吉は急いで服を着替えようと立ち上がったがよろけた。イネの切れ長の目が笑いを浮かべた。
「 あんた、 ポートランドに残らない. 」イネが聞いた。
「 いえ。 シアトルに妻がいますので 」
「 ふうん・・・奥さんが羨ましい」
「 そうでしょうか? 」安吉は服を着て座り直した。 イネがコーヒーの人ったコップを手渡した。
「 奥さん捨てて、 うちの男になる気ないやろね?」
「 いえ。 イネさんには色気がありすぎますよ。 私などより、 もっと金持ちが似合ってます。 現に田中さんがいるじ やあないですか 」
「 田中? あんな弱腰はだめやわ。 あのシトの男では、 うちを満足させへんもの 」
「 男? 」安吉は自分の下半身に気付いた。
「 まあ、ええわ。 あんた、 はよう偉くなんなさいよ。うち、 妾にしてもらうから」
「 もう少し望みを大きく持ったほど いいですよ 」安吉の言葉にイネが微笑んだ。
イネは昨日のように飯を炊き、 安吉に朝飯を食べらした。 家庭的な良い女である。 古屋の女房の富士子と良く似た所があるのは、 他人の面倒見が良いことであるかもしれない。 イネは安吉のついているテーブルの対面に座っていたが、 時々立ち上がってはお茶を注いだりご飯や味噌汁をよそった。
今朝のイネは昨日より一層妖艶である。 阿世が彼女を手放したくなかった理由が分かりそうな気がする。 化粧気のないイネの顔の造作、 皮膚、 体つきが性の芳香を立ち上らせていた。
一週間、 安吉はポートランドにいた。 田中も約束通り、 食料品の購入量を二倍にひきあげてくれたが、 本人はソルト・レークにさっさと出かけて、 帰ってこなかった。 やはり、遊びほうけていると言う噂は本当らし い。 元外務省の書記官であった伴新三郎とはすっかりなかよくなり、 近い将来に彼が人夫請負業を始めた折には、 食料品を古屋商店から買う約束をしてくれた。
イネは毎日のように安吉に会いに来て、 彼の身の回りをあれこれ世話やいた。 情が移るということは、 こんな事かもしれないなあ・・・と安吉は思いながら、 イネの動きを見ていた 。
安吉はシアトルに帰る日を一日遅らせたが、 それが彼の精いっばいのイネに対する思いやりだった。 シアトルに帰る日の朝、イネは「 ほようアメリカで成功しい 」と突っぱねたように言い「 妾にしてや 」と付け加えた。 トミとは違うタイプの女性である。 夢を見ない女である。
汽車が動きはじめた。 駅の赤レンガの壁が朝日に照らされていた。 色の白い女がプラット・ホームで手を振っていた。
安吉は思い出すまいと思った。 俺には最愛のトミがいる。 又、 夢がある。 女に目を向けている暇はないはずだと何度も自分に言い聞かせた。
汽車の走る距離が、離れる場所の相手との絆を薄め、 近付く場所の相手との絆を深めて行く。 ウイラメット川を超え、 コロンビア川を超え、 やがて汽車の車窓に雪を頂いた神々しい山、 レイニアー山が見えてきた。 後一時間ほどでシアトルだった。
車窓から次第に暮れてゆく山々の稜線を眺めながら、 ふと目を窓ガラスに移した。
中年の男が欠伸をしていた。 ひざで女の子が眠っている。 彼の相席にいるのは彼の妻と子供達であろう。 近くに大きなトランクや包が置かれていた。 職を求めての移動に違いない。
アメリカの経済は1893 年以前の数十年間においても、 数度の浮き沈みを演じている。
南北戦争後、 安定して伸びていたアメリカ経済は1873年に入ると突如として恐慌に陥った。 発展段階にあった国内の需要や輸出の伸び悩みと、鉄道会社に過大投資をした金融機関の破産が要因だった。
安吉は、 レイニアー山に目を向けた。 外部の気温が下がってきたためであろうか車窓のガラスが曇って来ていた。 手を伸ばして指で縦に線を引くと、 線の中に子どもの姿が映った。 女の子である。 安吉は背後を振り返った。 三歳ほど の女の子が座席に立ち上がって安吉の方を見ていた。 母親の手が女の子の身体を支えている。
安吉はトミを思った。 もしトミに子どもができたら・・・。 子供? 安吉は、 トミの宿す自分の子供を想像した。
トミに子供ができたら・・・自分が父親になったら・・・自分の経済力に家族が左右されることになる。 現在、 アメリカの農家は皆、 農産物の生産過剰による値崩れで苦しんでいるらし い。 もし、 自分が夢を実現させるためにアメリカで農業を始めて失敗すれば、 当然トミと子供達に大変な苦労をかけることになるだろう。
安吉は窓ガラスに作った縦の線に横線を加えた。 十字の形が曇ったガラス窓にできた。 女の子を見ると、 彼女は人形のような笑顔で答えた。
女の子の父親が気付いて安吉を見「 やあ・・・」と軽く片手をあげた。
「 ご旅行ですか?」と、安吉は聞いてみた。
「 ええ・・・まあ、 そんなとごだよ。 シアトルに両親が住んでいるので、 南に下る前に子供達を見せておきたいと思ってね 」
「 南に? 」
「 ああ、 サン・フランシスコ に行こうと思っている 」
「 サン・フランシスコですか・・・」
「ポートランドで銀行に勤めていたんだがね、 倒産してしまった 」
「 銀行が・・・」銀行の倒産は、 日本から来た安吉には考えられない出来事だった。 信用と自主性を重んじる日本の経済界においては、 渋沢栄一のつくりあげた金融市場が、 日本の伝統的な信用と共済を主とする商法の元に支えられていた。 特に金銭の取り引きにおいては、 信用第一という看板が銀行と取引相手の前面に掲げられていた。
「 サン・フランシスコには、 こんな不況でも仕事があるようだよ 」
「 そうですか・・・しかし、 私は日本人ですから」
「 日本人? どうりで、 中国人とは少し違うなと思った 」
汽車が右側にカーブして走っていた。 見覚えのある山と川が目に入ってきた。
「 子供の教育にとっても、 サン・フランシスコは良い場所だと思うしね 」男が席から身を乗り出すようにして安吉に言った。
「 教育ですか・・・ 」
「 これからは、 男も女も高いレベルの教育を受けておかなければならない世の中になってきている 」
「 なるほど・・・ 」
「 時代だな 」と男は言い、 軽く笑いながら彼のひざに座っている女の子の頭に軽く頬ずりをした。 男の前の席では彼の妻が微笑んでいた。
家族とは温かいものだと安吉は思った。 職をなくしても家族の絆がしつかりしていれば、 男は必ず回復できる。
安吉はトミと作る家族を、 男の家族に照らし合わせていた。
シアトルの駅で、 安吉は手を振って汽車の中で知り合った男の家族と別れた。
夕暮れのシアトルの町は、 かなり冷え込んでいた。 わずか一週間ほどで、こんなに気象に変化があるのだろうか。
駅の外に広がるシアトルの街は 肌寒く、霧雨が降っていた。
安吉は通りを走ってきた空の辻馬車に手を上げた。 辻馬車は安吉を乗せトミの待っ家に急いだ。 馬車の立てるひずめの音やワダチの音が安吉の身体に大きく響いて来る。 幸運は簡単にくるものではないが、 自ら作り上げる事は可能であると思う。 夢に見たアメリカにくることができ、 理想の妻を持つことができた。 これ以上の幸運はないような気がする。あとは、 自分の家族を持ち、 アメリカで農業を行うことである。 安吉には、 こちらの道ほど黄金で大金持ちになるよりも価値があるように思われた。
馬車がトミのいる家に着いた。 安吉は料金を払い馬車から降りて建物の二階を見上げた。
部屋のドアが開き、 トミが顔を覗かせた。 安吉を認めたトミの顔が微笑んだ。
「 トミ! 」安吉はトミに声をかけた。
トミが二階から降りてきた。 安吉は彼女を抱き寄せた。
湿かい部屋に戻ると、 再びトミを抱き寄せて顔を見た。 青い目が安吉を見返した。 トミの黒髪にかかった霧雨が電灯の光を受けてきらきら光っている。 安吉はトミを抱いた手に力を入れた。
翌朝、 安吉はコーヒーの香りで目を覚ました。
「 起きたと? 」トミが言った。
「 うん。 ああ、 良く寝た 」
トミがコーヒーの入ったカップを安吉に運んできた。
「 昨日、 戻ってくると思うて・・・」
安吉はコーヒーを一飲みし、 トミを見た。
「 ごめん。 古屋商店の新し い取引先になりそうな人に会っていたものだから・・・」安吉の身体の中で色の白い女が微笑んだ。
「 ふーん 」トミは安吉の隣に座って頬を膨らませた。 安吉は人差し指で彼女の膨らんだ頬を押した。
「 一日は、 長かよ・・・ 」
「 ごめんごめん。 伴という元外務省の書記生にあってね。 彼は将来必ずアメリカで成功する人物だから、 古屋商店のことを頼んでいたんだよ 」
「 ふーん 」
「 機嫌を直してくれたら、 好きのものを買ってあげる 」
「 ほんとう? 」
「 仕事も上手く行ったことだし、 何でも いいよ 」
「 わ! うれしかあ! 」
「 洋服かな? 靴でも指輪でも好きなものを言ってごらん 」
トミは照れたように頬をうすく染め嬉しそうに安吉を見返した。
「 タイプライターが欲し い・・・ 」
「 タイプライター? なんだい? それ 」安吉はタイプライターなるものをまだ知らなかった 。
「 字を書く機器 」
「 へえ・・・知らなかった。 そんなものがあるのか?」
「 古屋商店で使っているとよ 」
「 古屋商店で、 ねえ・・・ふーん 」安吉が感心したように言うと「 本当に買ってくれと? 」とトミが聞き直した。
「 ああ、 いいよ。 買ってあげる。 日曜日に買いに行こう 」
「 わあ! うれし い 」トミが安吉に抱きついた。
タイプライターは既に1873 年に市販されていたが、 現代のような使いやすい形に改良したのはアメリカ人のP ・レミントンで、 この完成されたものが1878 年に市販されるとたちまち商社や公の事務所に普及し、大衆化した。
その日、 安吉はトミと古屋商店に出勤し、 事務所にあるタイプライターを見てみた。 黒色の器械はアルファベットのキーを指頭で叩くことによって、 その文字がセットされた紙に印字されるしくみになっている。
「 なるほど・・・便利なものだね 」安吉は納得できた。
両手の人差し指をたてて交互にキーをたたいていると「 ジョディーは全部の指を使うのよ 」と、 トミが東京弁で言った。
「 えっ? 全部の指を? どういった風に打つのだろう? 」
「 私、 少し習ったの 」
安吉はトミに、 そのキーの打ち方を示してくれるよう頼んだ。 トミは椅子に座り直すと、両手を広げて中央のキーのラインにそれぞれの指を当てた。
トミがゆっくりと手を動かすと結構速い速度で印字が進んだ。
「 ネッ」トミが安吉を見上げて言った。
「 なるほどね・・・]
安吉が感心したようにうなずいていると「 グッ・モーニング! 」元気な声がしてジョディーが事務所に現れた。
「 や、 ジョディー。 モーニング! 」
安吉は挨拶を返しながら彼女のほうを見て手をふった。
「 ジョディー。 お願いがあるのだけどな? 」
「 なに? サム 」安吉はアメリカに来た時、 ジミーにアメリカの名を持った程よいといわれてサムと名前をつけていた。 ジョディーは安吉をサムと呼んでいる。
「 君は、 この器械をうまく扱えるそうだが、 見せてくれないか? 」
「 オーケー 」ジョディーはタイプライターの前に座った。 彼女は新し い紙をタイプライターのロールの間にセットすると、 引き出しから本を取り出し「 この文章をタイプしてみるね 」と言い、 手を動かし始めた。 なめらかな手の動きに合わせてタイプライターが音を立てた。 文章が見る見るうちにロールに挟んだ紙に写されてゆく。
「 すご いね。 どこで習ったんだね?」
「 ビジネス・スクールよ 」
「 ビジネス・スクール? 」
「 そう。 事務職につきたい人達のために実技を教えるスクール 」
「 その、 こういった器械の使い方もかい? 」
「 タイピストのコースもあるけど、 私は会計を取ったの。 女性が自立するには会計のほうが良いと思ったのだけど、 どう思う?」
「 いや、 どう思うと聞かれてもね・・・ 」
安吉は指を伸ばしてタイプライターのキーに触った。
「 最初はね。 皆、 人差し指だけでキーを打ってたの。 それで、 指を全部使ってタイプを打つ技術が考案され、どちらが早いか競争があったんだって。 それでね、 指を全部使うスタイルのほうが早かったものだから、 タイピングの技術が専門家したらしいわ」
「 ああ、 なるほど。 やはり最初は指二本でスタートしたわけだ 」
「 作家のマーク・トウェーエン知ってる.」
「 ? 」
「 彼はサン・フランシスコに住んでいたことがあるのだけど、 二本指でタイプライターを打っているんですってよ。 彼が自分で言ったから間違いないわ 」
「 じゃ、 ジョディー。 君もサン・フランシスコに住んでいたの?」
「 そう。 私、 サン・フランシスコで生まれたから 」
「 サン・フランシスコか 」
ジョディーの指がばちばちと動き、 紙に「 サン・フランシスコ 」とタイプされた。その時、 朝の挨拶をしながら古屋が出勤してきた。
安吉を認めると ,とことこと近寄ってきてジョディーに「 グード・モウニング 」と言い、安吉の手を取り握手をして「 楠本さあん。 ありがとうなあ 」と頭を振りながら言った。
「仕事の事ですか?」
「 うんうん。 いやあ、 ご苦労様でした 」
「 いえ、 既に田中さんは取り引きのあったお客様ですから 」
「 いやあ、 田中さんも取り引きを増やしてもらいましたがあ、 あんたあ、 すごいですなあ 」安吉はチラリと色の白い女を思い出した。
「 楠本さんのおかげでえ、 中国の労働組織にも、 商売がもらえましたなあ 」と古屋は言い、中国人社員のハンを呼んだ。
ハンは安吉を見ると満願の笑みを浮かべて「 楠本さん、すごいです 」と、 日本語で言った。
「 いや、 たいした仕事でもなかったけど ・・・ 」
「 ハンさん。 あの人の名前はなんて言ったですか? 」古屋が聞いた。安吉は再びチラリと色の白い女を思い浮かべた。
「 ミスター・阿世です 」
「 おお、 そうだったなあ。 いやあ、 楠本さんのおかげですう 」
「 ミスター・阿世が、 どうかしたのですか? 」
「 古屋商店に、 彼の配下の労働組織から食料品の注文、 入りはじめたですよ 」ハンが言った 。
「 へえ・・・」安吉は眼光の鋭い厳(いか)つい顔の阿世を思い浮かべた。
「 昨日、 電話で連絡ありましたよ。 私、 びっくりしましたねえ 」ハンは顔をほころば せた。彼の話によると、 阿世の秘書だと言う中国人から連絡が入り、 安吉の所在を確認した後、 今後現金払いで食料品を買い入れると言うことになったらし い。
ボスのミ スター・阿世が楠本さんのことを気に入ったらし いですよ。 我々中国人社会では、 彼のことを知らない者がいないほど ですが正直、古屋商店が彼の配下の組織と取り引きができるとは思いませんでした。 すごいことですよ。 いっきに取り引きが十倍にはなりますよ、 とハンが話した。
安吉はイネが口添えをしてくれたのだろうと思った。 古屋商店は、 ハンが中国食品の売買を担当し、 トミが日本食品の方の手伝いをしていた。
古屋は自分の部屋に安吉を招き、 例によって富士子に電話を入れた。
「 ああ、 富士子かあ 」古屋は相変わらずのんびりとした調子で富士子と話した後、 ふんふんとうなずいて「 じ やあ、 楠本さんにの、 言うとくからの 」と言い、 電話をきった。
「 楠本さあん、 富士子うが来ますんでえ、 少しここで待っててくれますかあ? 」
「 いえ、 私は事務所に戻って仕事をしますよ 」
「 いやいや、 お疲れでしょうからなあ。 今日は休んでくんさい 」古屋が自分の顔の前で手を左右にふりながら言った。
「 大丈夫です。 あまり疲れていませんから 」
「 まあまあ、 そう言わずに、 とにかくソフアに腰掛けてもろて、 タバコどうですかなあ?」安吉が吸いませんからと断ると、 古屋は巻き煙草を自分の口にくわえマッチを擦った。 半時ほどしてから、 富士子が現れた。
「 楠本はん。 やっばし、うちが思ったとおりのしとやわあ。 聞きましたえ。 お疲れどしたなあ 」
富士子は部屋の入り口付近で安吉を見て言い、 古屋に弁当 の包みを渡しながら「 あんた、楠本はんに、 言いましたんか? 」と聞いて、 古屋が目をぱちばちする間に、 安吉の前のソフアに来て腰を落とした。
富士子はハンカチで額を軽く拭き「 ポートランド・・・」と言い、 二重にちかいあごの辺りにハンカチをあてて「 大変でしたやろ? 」と安吉に聞いた。
「 いえ、 どちらかと言うと、 楽しかったですよ 」
「 田中はん、 えろう新聞でたたかれましたそうどすなあ 」
「 ええ、 しかし現在五百人程の鉄道路線工夫を配下に置いているといっておられましたが、他の方に経営の実権をゆずったようです 」
「 そうですやろ、 あのしとではかなわん仕事ですよって 」
「 工夫斡旋の仕事はかなり儲かる仕事のようですよ 」
「 そうどすやろなあ・・・ 」
「 富士子お 」古屋が富士子に声をかけた。
「 あのな、 楠本はん。 うちも人夫請負をやろうと思いますのんよ。 どない思います?」
「 そうですね、 儲かる商売ですのでやるべきでしょう。 しかし、 必ず各社競争の時代が来ますし、 いつまで労働者の補給ができるのか疑問ですが、 事業の一つとしてなら良いのじやあないでしょうか 」
「 多角的な経営ですなあ、 三井や三菱みたいなことですなあ」古屋が言った。
「 まあ、 そういう事です 」
「 もう少し、 社員を増やしますけど、 楠本はん 」富士子が安吉を見た。
「 何でしょう? 」
「 もう一度、 考えてくれませんどすか? 」
「 ? 」
「 うちの会社のマネージャーを、 やってくれませんやろか? 」
「 マネージャーですか・・・ 」
「 数年でも、 よろしいですけどな。 あのな、 うちのしと 」と富士子は言い、 古屋のほうを振り替えるとハンカチを持った手で、 古屋のほうを指し示し「 あのしと、 銀行をやりたい言うてますのやわ 」
「 銀行? そう言えば以前に聞いたことがありますねえ 」
「 あら、 言いましたやろか? ああ、 そうやわ、 言った。 思い出した 」
「 ところで、 ご主人は、 なぜ銀行を経営なさりたいのでしょうかね? 難し い仕事だと思いますよ 」
「 あのしと 銀行経営が夢やそうですのんよ 」
「 夢・・・」
「 楠本はんは、 農業経営が夢や言うておしたなあ・・・ 」
「 夢ですかあ・・・」
「 男のしとはロマンがあってよろし いなあ・・・おんなは、 男しだいですよってなあ・・・」
「 楠本さあん 」古屋が吸っていたたばこを灰皿の中で揉み消しながら声をかけた。
「 こちらに来て見てくださらんかあ 」と古屋は言いながら、 さっさと部屋を出ると近くのドアを押した。 部屋の中に新し い机とテーブルが置いてあった。
「 今日から、 この部屋でえ仕事をしてくれませんかなあ 」とのんびりとした口調で言った。
「 この部屋でですか?」
「 そうですう。 マネージャーですう 」
「 まだ、 お引き受けしたわけじゃあ・・・」
安吉の話が終わらない間に、 古屋は「 お互いに協力してえ、 一人ずつ夢をかなえたほうが、確実ですう 」と言った。 富士子が彼の後ろに立っていた。
( なるほど・・・)安吉は、 古屋の言葉に同感して頷いた。 数年であれば、 働いても良いだろうと思った。 その間に子どもができれば、 過酷な農業を営んでいるよりもトミに取ってよいことかもしれないと考えた。
日曜日の朝、 安吉は自分の腕の中に寝ているトミにかる<声をかけた。
「 トミ・・・日曜日だよ 」トミの微笑が朝を迎えた。
九月の最後の日曜日だった。 二人は軽い朝食を済ませるとタイプライターを買うために繁華街に出かけた。
アメリカ経済が不況に陥っていたとしても、 人々の購買意欲は失われてはいないようだ。駅前の繁華街は人々でごった返していた。
市街は一度、 1889年の大火災ですべての建物が焼き尽くされた。シアトル都市再開発計画により、 1890年に建築家のエルマー・フィッシャーの設計によってグラント・セントラル・ビルディングが建ち、 一年後にパイオニア・ビルディングなど次々と建築された。 フィッシャーは、五十のビルディング設計をシアトル市から請け負っていたといわれる 。
安吉とトミの乗った辻馬車は建築中 のビルディング工事現場を通り越すと、 次第に左に寄っていき、 左にゆっくりまがると真新しいパイオニア・ビルディングに向かって道路を横切った。
辻馬車がとまったのは、 パイオニア・ビルディングの左のほうで、三角の丸まった突起のようになっている辺りだった。 要するに大通から枝分かれする通りとの間に立てられたビルなのである。 五階建てのビルディングは、外面が石で飾られていた。 大通りにはまだ木々の緑がない。 大火の後の為か、 石作りの建物が目立つが五、六階建ての数個の建物の他はすべて平屋か二階建ての建物が続いている。再開発されている市街の中で、パイオニア・ビルディングは巨大な像が突然と現れたような物質的圧迫感を持っていた。
人々は、大通に面して数個あるビルディングの出入り口から出たり入ったりしている。 ビルディングの一階にはいろいろな店があった。 古屋商店のジョディーから、 この一階にタイプライターを販売している店があると教えてもらっていた。
安吉とトミは正面の入り口から建物の中に入った。 電気が明る<建物の内部を照らし出している。 入り口から入って直ぐ 左手に宝石店があり、 隣に洋品店が並んでいた。 次の店が目的の文房具店のようだ。
店のショーケースに文房具に混ざって、 タイプライターや計算機と言った事務機器が陳列されていた。
黒い色のタイプライターは、 ありとあらゆる技術が濃縮されているような落ち着きがあった。 一つ一つの丸いキーの部分には、黒文字でアルファベットが書いてある。
「 レミングトン」「 アンダーウッド 」 「バァロウズ 」などと言う製品名が黒い胴体に重々しく描かれている。
「 トミ、 これはすごい器械だね。 日本では考えられないよ 」
「 高そう。 ほら、 価格が書いてない 」トミがこころぼそげにつぶやいた。
「 だいじょうぶ。 トミ、 いくら高くても買ってあげる。 実は、 君に言ってなかったのだけどね。 昨日、 古屋さんからマネージャーの仕事をたのまれてね。 給料も増えるそうだよ 」
「 まあ、 ほんとう? 」
「 残念ながら、 本当だ。 しばらく農場は持てそうにもないね。 その代わり子どもが持てそうだ 」
トミが頬を染めた。
安吉はトミをつれて店に入った。 店員にデモ用のタイプライターを使わせてもらい、 トミの判断をまった。
トミは結構タイピングに慣れて来ているようで、 器用にタイプライターを操っては店員に質問している。 英語も格段と上手くなっていた。
安吉はトミがタイプライターを選んでいる間、 他の文房具を見てまわっていたが、 ふとトミのタイプライターに向かって座っている白いドレス姿に、 清潔感と上品さを感じた。 トミは頭の良い女性である。 俺は、 トミのような女性を妻に持てて本当に幸運だと安吉は思いながら、 彼女を学校にやって見たらどうだろうと考えた。
樽に積められ海になげ込まれながらも、 王子様が助けに来てくれることを信じていたと言う。 娼婦として身を売られながらも夢を最後まで捨てなかったのである。
幸いシアトルには1861 年に設立された大学がある。 最初の卒業生が女性であったと言うだけに、 女性に対する教育にも力を入れていた。
安吉は日本にいた時、 1886年にキリスト教徒の婦人達の手によって、 東京婦人矯風会が発足したことを新聞記事で読んだことがある。 矯風会は、 伊藤博文の政府がつくりあげた鹿鳴館時代の恥部である飲酒と饗宴の余波を受けた一般社会を、 婦人達の力で改善すべく発足されたものであった。 北海道においても、 札幌農学校のクラーク博士を先頭にして、北海道禁酒会が設立されていた。
クラーク博士は日頃から、 安吉達農学校の生徒に対して、 飲酒の弊害のみならず人権擁護の立場に立った社会観を持つように指導していた。安吉はトミを大学に入れようと思った。
新し いタイプライターが安吉とトミの部屋の中に直かれた。
小さな机の上に置かれた器械は、 異次元の世界から突然と現れたかのように異彩を放っている。
「 日本では、 考えられなかったような器械だねえ・・・まるで、 万能の力を秘めているように見える 」
安吉は新しいタイプライターを見ながら、 アメリカの工業力に今更ながら驚いていた。
「汽車や、 電車もすご いと思うけど、 こうやって個人の家の中に簡単に持ち運びできる器械が発明されていたとは、 まったく、 すごい」
「 私、 タイピングの練習をしていいかしら? 」トミが言った。
「 ああ、 もちろんだ 」
トミはタイプライターの前に座ると、 紙を セットしてゆっくりと手を動かしはじめた。 パチパチと小気味良い音が部屋に響いた。
「 トミ、 学校に行ってみないか? 」安吉は、トミの背後から声をかけた。 タイプライターの音がとまった。
「 学校?」トミが振り向いてたずねた。
「 うん。 シアトルにはすばらし い大学がある。 君が、 もし、 勉強をしたいなら、 大学に入学して学べばいいと思ってね 」
「 学校に行きたい。 でも、私、 尋常小学校しか行ってないのに・・・大学に入れるかしら? 」
トミが東京弁で答えた。
「 トミは、 英語ができるから大丈夫だ。 それに、 算術もできるじゃあないか。 トミが勉強をしたいなら、 僕が大学に掛け合ってみるよ 」
「 本当に、 勉強ができると? 」
「 もちろん、 本人のやる気次第だよ。 ぼくも、 古屋商店でしばらく働かなければならなくなった。その間に君が大学で学べば良い。 きっと将来、 役に立つと思う 」
トミがばちぱちとタイプをたたいた。 「 COLLEGE」と白い紙にタイプされ
た 。
その後に(私は学校に行くことが夢だった)と、 英語の文章がタイプされた。 安吉はそっとトミの前のタイプライターに手を伸ばし,一本指で[王子様はトミのそばにいる 」と、 英語でタイプした。
トミが頭を仰向けにし、 片手を上にまわして安吉の頭を軽くかかえると唇を重ねてきた。
安吉はワシントン大学の学長宛に手紙を書いた。 簡単にトミの経歴を記し、 クラーク博士に教わった人権擁護のルールに基づいて、 女性の社会的地位向上のために自分の妻が今後なすべき社会的活躍を説明して結んだ。
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