第1話

ボーっとした意識の中、最初に思ったのはちゃんと死ねなかったということだった。死んだのであれば体の感覚なんてなくて、もっと軽いだろう。そして、次第に視界に飛び込んでくる真っ白な景色が鮮明になっていくと同時に啓太は自分がいるのは病院だと気づいた。不思議と体が痛むところはない。

「あっ、目が覚めたんですね?」

そう言ったのは、看護師ではなく見知らぬ女性だった。もしかして、記憶喪失なのだろうか。しかし、そんな心配はすぐになくなった。

「はじめまして、川原朱理といいます。この度は本当にご迷惑をおかけしました」

啓太は状況の掴めないまま彼女をみる。

「あの、何かされましたっけ?」

その言葉に川原朱理と名乗る女性は目を見張った。

「えっと、私があなたのことを車で引きそうになったんです。車が運良くスリップしたおかげでぶつかることもなければ、罪に問われることもなかったのですが、その際に偶然あなたが通りかかりまして。多分、避けた拍子に転んで頭を打ったんだと思います。目立った外傷はないんで脳震盪だとお医者さんが言ってました。本当にすいません!あ、今看護師さん呼んできますね」

そういうと彼女は病室を飛び出して行った。しかし、啓太にとってそんなことはどうでもよかった。俺は死ぬつもりだった、覚悟も決まってた。だから、避けるなんてことはありえない。

「死ぬことすらままならないのか...」

小さな声で嘆く。

要は、雨による車のスリップと啓太のビーチサンダルが故のスリップが同時におこり、轢かれるはずだったのに不幸にもかすりすらしなかったのだ。あんだけ強かった決心も今となっては何も感じない。かと言って、生きててよかったとも思わない。それが今の啓太の心境だった。

しばらくすると、先の女性が看護師と医師を連れて帰ってきた。

「目を覚まされたんですね」

医師と呼ぶにはかなり若い男性が啓太に歩み寄る。

「一応、記憶喪失などの簡易的な検査だけしますので、もう少し待ってください。終わり次第、お帰りいただいて結構ですので」

医師は笑顔でそういうと、痛いところはないですか、から始まり五分程度の質問の後に簡易的な検査を済ませて、着ていた衣服を渡してきた。二週間も着続けた服は雨に濡れたおかげで、悪臭を放ってはいなかったが以前の倍は汚くなっていた。ポケットにはしっかりと小銭が入っており、やはり何も変わっていなかった。

服を着替えて、病院を出ようとすると川原という女性が傘を持って駆け寄ってきた。

「あの、お詫びと言っては何なんですけど、今からウチ来ます?割と近いんですよ。服も汚れてるし、見たところ傘も持ってないようなので」

何もかもがどうでもよくなっていた啓太にとって、この好意すらどうでもよかった。ただ、断って長引くよりも流れに身を任せた方が楽だと判断しただけ。

「じゃあ、お願いします」

そう答えるとなぜか、彼女の方がホッとしたように見えた。よほど、正義感が強いのだろうか。あるいは、罪悪感が強いのかはわからない。ただ言えるのは、久々に他人と言葉を交わすことが案外心地いいということだった。



第一印象は、自分が住んでたアパートとはまるで違うということだった。女性の一人暮らしということもあるのだろうが、エントランスはオートロックだし、エレベーターも付いている。部屋自体は特別に広いわけではないが、ユニットバスではないし、部屋もリビングともう一部屋完備されている。家に入ると、女性らしい匂いがし、部屋も散らかった様子はなく、きちんと整理されていた。

「あんまり広くないんだけど、上がって。あとタオル持ってくるからすぐにお風呂入っちゃってね。せっかく何事も退院できたのに、そんな格好じゃ風邪ひいちゃうと思うし」

そういうと啓太を玄関に取り残したまま、彼女は奥へとタオルを取りにいった。しばらくして戻ってくると、突っ立ってる啓太に少し怪訝な顔を向けてタオルとそのほかにもいくつか手渡してきた。

「はい。お風呂はそこだから。男物はないから、一応私のティーシャツとホットパンツなんだけど、あなたの服が乾くまで使って。あと、さっき病院の売店でパンツとカミソリ買ってきたから、その髭、なんとかしなね」

そういって彼女は啓太の腕を引っ張り、強引に脱衣所へ押し込んだ。

「服は洗濯しとくから、洗濯機に放り込んどいて」

扉の向こうで、彼女が言う。それに対して、ありがとうございますというと、啓太は服を脱いだ。二週間ぶりのお風呂、身体が痒くなるため何度か雨水で体を拭いてはいたが、あったかい水と石鹸は素直にありがたかった。

シャンプーをしながら、いつのまにか彼女がタメ口になっていたことに気づく。まあ、別にだから何ってことはないのだが。むしろ疑問なのは、なぜ川原がここまでしてくれるのかということだ。普通なら見ず知らずの男を家にあげることすらはばかられる。ましてや、明らかにみすぼらしい格好に無精髭を生やした男ときた。何をされるかわからないと我ながら思う。それが一体、さっきの安堵の表情となにか関係があるのだろうか。

久々のあったかい湯のおかげだろうか、さっきまでどうでもよかったことがリラックスされたことによって、啓太の思考に戻ってきた。だからと言って、残り百五十二円でこの先どう生きていくかの目処はまったくないわけだが、少なくとも安易に死ぬという考えは消えていた。

身体もしっかりと洗い、言われた通り髭も剃ったあと、人の家だということをいいことにしばらくシャワーを浴び続けた。身体が十分に温まったところで風呂を上がる。タオルで体を拭き、用意してもらった服を身にまとう。回っている洗濯機を横目に脱衣所をでると、川原はリビングのソファーに膝を抱えて座っていた。

「あの、ありがとうございました。気持ちよかったです」

啓太がそう言って始めて、彼女は啓太がお風呂を出たことを察知したようだった。

「喉乾いたでしょ、お茶いれるからまってて」

そういうと彼女は啓太をソファーに座らせて、二つのグラスにお茶を入れた。一つを啓太に渡し、となりに腰掛ける。しばらく、沈黙が続き、雨音と洗濯機の音だけが空気を漂った。

「あの、何でこんなにしてくれるんですか?いくら事故った相手だと言っても、直接何かあったわけでもないし、義理だってないと思うんですけど」

単に疑問に思っていたことを場つなぎのように口にした。すると彼女は少し寂しそうな顔をした。彼女の表情はよくわからないと啓太は思う。

「なんでだろ」

静かに口を開く。

「よくわかんないけど、自分を肯定したかったんだと思う。今日ね、急に会社クビになったんだ」

お茶の入ったグラスを器用に回しながら、彼女は話し始めた。

「理不尽といえば理不尽だけど、そろそろそうなるかもって気はしてたんだよね。女なんてさ、いつの時代も結局はお茶汲みみたいな立ち位置なのよ。女性が働きやすい世の中になってるって言っても、それは働ける人を指すのであって、私みたいな女っていう武器しか持ってないやつは、もっといい子が来たらポイ。そうならないように、努力してたんだけどね。あなたには申し訳ないけど、事故だって私のせいかもしれない。むしゃくしゃして、スピードとかも気にしてなかったし。その罪滅ぼしが、理由の半分」

彼女は一旦、言葉を区切った。

「もう半分は?」

「もう半分は、あなたを轢いたと思って車から飛び出した時、倒れてるあなたを見てちょっと安心しちゃったんだよね。出血してなかったとかじゃなくて、あ、私よりも可哀想な人がいるって...。身なりも汚いし、雨なのに傘も持ってない。その上、私に轢かれそうになって頭打って失神」

そういうと、彼女は潤んだ目で啓太と目を合わせた。

「ほんと、サイテー...」

立てた膝に彼女は顔を突っ伏し、静かに泣き始めた。不思議と啓太は自分が汚いと言われたことや可哀想だと思われたことに怒りは湧かなかった。代わりに、自分をこんな目に合わせ、彼女を苦しませている世の中に無性に噛みつきたい欲求だけが込み上げてきた。

何でだろうか。初対面なのに泣いている彼女を見ると、何もない自分が彼女を慰めてやりたいという気持ちになる。数時間前まで死のうとしていたくせに。きっと啓太も彼女のことを可哀想だと、心の中で思ったのだ。啓太は、そっと彼女の肩に腕を回した。そんな啓太の腕を払うどころか、手を握ったのは彼女が何かにすがりたいと思ったからに違いない。

また、洗濯機と雨の音、そして彼女の泣き声だけが啓太の耳をついた。


泣き疲れてしまったのか、今日あったことを受け止めきれずに疲れてしまったのか、彼女はいつのまにか寝ていた。時間は夜の九時。事故にあってから、寝ていた時間を含めてもまだ半日しか経っていない。啓太は、寝てしまった彼女にそっと近くにあった毛布をかけた。

「さて、どうしようか」

色々あったせいか、幸いお腹は減っていない。しかし、彼女を一人置いたまま姿を消すのも、お礼も言わずに帰るのも何か違う気がした。何しろ、啓太の汚い服は洗濯機の中に入りっぱなしで乾いていない。彼女の服をそのまま着て出て行くことになるし、びちょびちょの自分の服を着て帰るのも、せっかく好意で綺麗になったのにという思いがあった。失神してたせいか、眠気は全くない。ただ出て行かないとするならば、このままどうしたらいいのか啓太には分からなかった。

仕方なく、啓太はソファーをとりあえず降りることにした。寝ている間に彼女が倒れ込んで横になるかもしれないし、襲ったとも思われたくない。正直、今の啓太にとって彼女は命の恩人と言える存在になりつつあった。いくら自分を哀れんでいても、事故しかけた相手でも、死にたいという思いをかき消してくれたことに変わりはない。だからといって、何か恩返しができるわけでもない。ならば、せめて彼女が嫌がることだけは絶対にしないという思いがあった。

ソファーから降りたのはいいものの、やはりすることがない。リビングを改めて見渡してみるが、本当に余計なもののない整った部屋だった。テレビとその下のテレビボード。テレビボードの中にはDVDプレイヤーと数冊の本が入っている。床にはカーテンと同色のラベンダー色をしたラグとちょっとした鍋パーティができるくらいのテーブル。あとは、仕切りの奥に顔を覗かすキッチンにある必需品。それにさっきまで座っていたソファーとそこに寝そべる川原朱理という女性。

こうしてちゃんとみると、彼女はかなり美人と言える。顔は小さく、濃い茶色の長い髪はしっかりと艶があり、綺麗なウェイブパーマが当てられている。外国の人形くらいまつ毛が長く、桜色の唇もいやらしくなく収まっている。何より、美人の証とも言える泣きぼくろが彼女のチャームポイントだと言える。やんちゃしていた頃、女はとっかえ引っかえだったし、数ある女を抱いてきたが、正直その誰よりも綺麗だし、穢してはいけないような気品もある。年はおそらく、啓太よりも二、三個上だが老けている様子は全くない。むしろ、一番綺麗な時期だと言える。彼女は、年をとって会社に捨てられたと嘆いていたが、仮にそれが本当なら上司は見る目がない。ただ、そんなことを考えていても時間はさしてすぎないし、自分のこれからを考えることの方が大事だと感じた。

残金はわずかしかない。おそらく、彼女が目を覚ませばこの家から出て行かなければならないし、必ず返すという意思の元にお金を借りることも、今日から無職になった彼女のことを考えるとはばかられる。少なくとも、この快適な空間にいる間になんとか打開策を見つけたいところだが、何も思い当たるところはない。携帯はクビの連絡が来た時に、イラついて叩き捨ててしまったし、仮にあったとしても頼れる人は少ない。人とのつながりを考えてくるような人生ではなかったのだと改めて思う。残された選択肢は正直二つしかない。一つは、前の空き家に戻りまたひっそりと暮すこと。これは、本当に運任せな生き方になる。何かしらの恵みを待つなり、しなければならない。もう一つは、彼女にしばらくでいいからここに身を置かせてもらえないかと懇願すること。その少しの間にアルバイトをしてお金を貯めて、彼女に迷惑をかけることになるが、そのお金を元手に新たに生きてみるか。なんせ今の時代、住所がなければアルバイトすらできない。だから、選択肢は二つしかないのだ。

しかし、ここまで考えたところで今こうして思考を巡らせても無駄だということに啓太は気づく。どちらにしろ、彼女が目を覚ますまで結論を出すことはできない。ならば、少しでも疲れを取ろう。眠くはないけれど、目を瞑っているだけでも違うと聞く。さすがにカーペットで寝るのはおこがましいと考えた啓太は、壁に背を預けて目を瞑った。しばらくして、心地いい雨の音とともに自然と夢の中に落ちていった。



次に目覚めたのは、眩しい朝日と甘い香りによるものだった。薄く目を開けると、昨日彼女にかけた毛布が自分にかかってることに気づく。

「あ、起きた?今ね、朝ごはん作ってるからちょっと待ってて」

キッチンにエプロン姿の彼女が見える。昨日そのまま寝てしまったからだろう、湿った髪が彼女がシャワーを浴びたことを物語っていた。顔はすっぴんだったが、正直化粧をしていた昨日と変わらないくらい美人だと啓太は思う。むしろ地がこんなにいいのに、何故化粧をする必要があるのかと思わされるほどだった。

「気使わないでください。きっと、服も乾いてるんで、俺帰ります」

昨日あった二つの選択肢。正直、後者を選べればいいのだが、昨日出会ったばかりの彼女にそこまで頼られる筋合いはないだろう。それに、彼女に頼るくらいならば、仕事先で何度か話した先輩や同僚に頼んだ方がいくらか筋が通ってると思う。そんな答えに行き着かなかったのは、甘えと安心感、それに彼女ともう少し一緒にいたいという贅沢な願望があったからだろう。

啓太は、立ち上がり毛布を畳んだ。そして、キッチンの横を通り過ぎようとすると彼女に腕を掴まれる。それと同時に、吸い込まれそうなほど大きな瞳と目が合う。

「待って。気なんて使ってないから。私、まだあなたの名前も知らないし、帰るのはもうちょっと話して見てからでも遅くないと思うの。幸か不幸か、仕事もクビになっちゃって暇だし、違ったら悪いんだけどあなたも似たような感じでしょ?それに...」

彼女は、少し頬を染めて口を尖らせた。

「昨日の慰めてくれたお礼...」

そういうと、彼女は啓太の腕を離し、焼いていたパンケーキに視線を移す。不覚にも可愛いと思ってしまった啓太は、このまま家を出るわけにもいかず、テーブルの前に腰を落とす。その姿を見て朱理が笑ったのを、啓太は知らない。きっと会社というコミュニティを失った朱理にとっても啓太という存在は孤独にならないためにすがれる相手だったのだ。例えそれが、昨日出会ったばかりの名前も知らない人だったとしても。

おまたせ、と朱理がパンケーキをテーブルに持ってくるまでさして時間はかからなかった。テーブルにはパンケーキが二皿とこだわっていそうなハチミツにホイップクリームが置かれ、昨日と同じコップにお茶が注がれる。いただきますという朱理に習って、啓太も手を合わせた。少しでも腹にたまりそうな駄菓子ばかりを食べていた啓太にとって、パンケーキの甘さはハチミツやホイップクリームをかけずとも極上と言えた。あまりの美味しさにがっついている啓太を朱理が笑う。

「すいません、こういった食事が久しぶりだったんで」

「やっぱりそうなんだ。ねえ、あなたのこと、ちゃんと聞かせて。きっと、こうやって出会ったのも何かの縁だと思うし、お互いこれから考えていかなきゃいけないことがたくさんあると思うから。一人より二人の方がいいでしょ?改めて、自己紹介から」

彼女は、フォークを丁寧に置いた。

「私の名前は川原朱理、26歳で、見ての通り独身。食べ物は甘いものが好きで、現在無職!」

昨日泣いていたのが嘘のように明るく振る舞う彼女のパンケーキにはたしかに大量のハチミツとホイップクリームがかかっていた。それはもう、パンケーキじゃないのではと思うくらい。

「俺は宮村啓太。23歳。同じく無職で、色々あって全所有物が昨日着てた服と百五十二円だけ。好きな食べ物は、特にないけど、このパンケーキは本当に美味しいです」

軽い自己紹介の後、啓太は自分に起きたことを話した。家が燃えたこと、親がいないこと、なんでお金がないのか、それと死のうとしていたこと。そこそこの時間はかかったが、無職の二人にとって時間が経つことはあまり問題ではなかった。朱理も啓太の話を辛そうな顔で、全て聞いた。

「本当に大変だったんだね」

昨日はごめんね、と朱理は涙を浮かばせながら言った。

「いや、いいんです。むしろ川原さんには感謝しきれないくらいで、死のうとしていた俺がこうやって屋根のある家で飯食ってるだけでもありがたいんで」

啓太は、本当に満足そうな顔でそういうと朱理はぎゅっと啓太を抱きしめた。

「よく頑張ったね」

二十歳も超えて大人になった啓太にとって、本来ならば恥ずべきものだった。しかし、今の啓太にとっては居もしない姉ができたような、そんな優しさに包まれたような気分だった。たった三つの年齢差。なのになんでだろうか、こうも解放された気分になれたのは。

「本当にありがとうございます」

ここまで心の底から溢れる言葉は、人生で初めてにして、最後であろうと啓太は思った。


話し合いをしていて見えたことが三つあった。

一つは、朱理の住んでいるこの家にはあと少なくとも一ヶ月住めるということ。都内で家を借りることができていたのは、会社の補助が出ていたからだと言う。クビと言っても、会社側は即座に社員を解雇できないということは法律で決まっている。そのための一ヶ月なのだ。すなわち、明日から来なくていいと言われたのは、ある意味で幸運だと言える。働くことなく、会社の補助でこの家に住める上に今月の給料までもが手に入るのだ。これは、朱理がこれからどうするかを考えるのに、補償された時間とお金だった。いくらブラック企業だからと言って、こういったところを疎かにすれば問題になりかねないため、アフターケアをしっかりしたという大義名分のためにもしっかりと行わなければならない。

そして二つ目は、啓太の常識の無さが露呈したということ。いくら家が焼けたからと言って、それまでしていた貯金がなくなることはない。たしかに千円しか所持しておらず、印鑑も銀行カードも全焼してしまったのだが、正式な手続きを踏めばカードの再発行は可能なのだ。つまり、ここにきて啓太の残金は百五十二円ではないことはわかったのだ。かといって、低収入労働で細々と生きていたわけだから、あったとしても数十万円。しかし、今の啓太にとってそれは朱理の存在の次にくるほどの救いだった。そして、啓太の常識の無さは一概にも彼のせいだとは言えない。これまで生きてきた環境で、当たり前のようにわかることがわからないことがあっても、それはきっと彼だけのせいではない。幼い頃から他人に育てられ、ロクな生き方をさせてもらえる場に彼はいなかったのだ。ましてや、「宮村啓太」という名前すら実の親から授かったものではない。そういった特殊な人間であることを理解した朱理は彼をバカにするようなことはしなかった。

そして三つ目は、朱理が啓太を家に住まわせてあげることにしたということ。これは、憐れみからくるものではなく、ただ朱理自身も啓太に救われた部分があると感じたことが大きいと言える。啓太一人増えたところで、お金が多少あることはわかったし、負担になることはさほどない。仮に彼が悪人だったとしたならば、無防備に寝ていた昨日のうちに何かしら起こっていたと考えられる。何より、どんな人生を歩んできたにしろ、彼の話から少なくとも嘘は感じられなかった。よって、朱理が啓太を住まわせてやらないという選択肢はなかった。

出会ってから丸一日が過ぎたころ、二人は大きく前進したと言えた。

「とりあえず、まずは啓太の銀行口座を復旧させることから始めましょ。何をするにも、お金は必要だからね。あと、最低限の衣類を帰りに買わないとね。これからしばらくは一緒に暮らすんだし」

さすがというべきか、クビになったとは言え会社に5年弱勤めていただけのことはある。計画性においてきっちりしているし、そもそもクビになったのだって理不尽な部分が大きい。本来、川原朱理という人間は計算高く、それをもって計画を立てるということには長けていた。少なくとも、啓太よりは。

「それができ次第、お互い次の仕事を探すってことでいいですか?川原さんにとっても、それがベストだと思うんですけど」

「ううん、それは明日からにしましょ。正直、まだ色々自分の中で整理ついてないとこ多くて。だから、今日できちんと一回自分に区切りをつけて、今後どうするかは計画を練る日にする。それと、私はあなたのことを啓太って呼んでるんだから。私のことも朱理って呼んで。やっぱり、下の名前の方がこれからやっていく上でより深く繋がれる気がするから、ね?」

少しだけ恥ずかしそうにする朱理に対して、啓太は言い淀んだ。別に女性のことをしたの名前で呼ぶことに慣れていないわけではない。ただ、恩人をいきなり呼び捨てにするのは抵抗があったのだ。

「じゃあ、『朱理さん』で」

啓太の精一杯の譲歩にまあいっかと納得する朱理。

昨日までホームレスだった啓太と昨日無職になった朱理。そして昨日出会ったばかりの二人は、こうして互いの歯車を少しずつ動かしはじめた。

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CHANGE 浅野 紅茶 @KantaN

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