プロローグ2
川原朱理の朝は早い。俗にいうブラック企業に就職してしまった彼女は、昨日も最終電車ギリギリまで働いていたというのに、今朝も五時起き。全く女性というものは不憫だと思う。会社にいくための支度だけでも最低一時間はかかる。朝一番でお風呂に入り、髪を乾かす。その後、朝食をささっと食べて、化粧と髪の毛のセットをしなければならない。化粧なんてしなければいいのにと男はたやすく言うが、化粧をしなければ扱いが雑になるくせにと朱理は思う。毎朝こうして鏡に向き合って、クマが濃くなっていく自分をみると嫌になる。何のために化粧をして髪の毛をセットしているのかが疑問になる日もある。特に落としたいほど魅力的な男が社内にいるわけでもなければ、素敵な紳士がアフターシックスに誘ってくれるわけでもない。もちろん、恋人だっていない。化粧は女の武器というが、武器を使うタイミングが多忙を極めた朱理にはない。
今年で二十七になる。大学を卒業して五年、就職した会社を未だにやめれてないのは自分の気が弱いからだと思う。そろそろ結婚もしたいし、子供だってほしい。学生のころはいつかはきっと、なんて考えてたけど日を重ねるごとに焦りを覚えた。正直、ルックスには自信がある。中学生の頃から彼氏がいなかったことはほとんどないし、どこにいても見られてる視線を感じるし、読者モデルのスカウトだって両手で足りないくらいにはされた。ブラックな会社にいられるのだって、いやらしい視線を向けてくる上司がある程度、楽をさせてくれていたからである。ただ朱理にとって、そんなことはどうでもよかった。なんとなく、今くらいの年になれば寿退社をして今頃旦那を家で待つ暮らしをしれてると思っていたからだ。それに、最近では自分のポジションを新入社員の若い子がドンドンかっさらっていき、今ではそう楽とも言えない状況になってきていた。だからこうして毎朝、早起きをするのだ。
髪を巻き終わると、真っ白のパンツと谷間を強調した黒のブラウスに着替え、ハイヒールを履く。今日もいつも通り、朝六時半に家を出る。外に出ると雨が降っているのに気づく。白のパンツはミスったかなと思いながらも着替えている時間などない。泥が跳ねないように車に乗り、エンジンをかける。満員電車が嫌いな彼女は、会社から車で二十分のところに家を借り、車で通勤をしている。会社が東京のど真ん中にないのが幸いで、小さな企業ながらしっかりと社員用の駐車場が完備されているのは唯一の利点といえた。
会社に着くと、昨日とは空気が違った。なんだか、会社中が忙しい。朱理が、デスクに腰を据えるといつもはいやらしい課長の視線が鋭く彼女を指した。
「川原、ちょっと来い」
重々しい声に、はいと答えて席を立つ。
「どうかしましたか?」
恐る恐る告げると、課長がデスクを強く叩く。
「どうかしましたか、じゃないだろ!昨日の発注、お前が確認したんだってな?」
「いえ、昨日は岸本さんがしたはずですが...」
岸本は、二個下の女性社員。入社してきた時から、私のポジションを脅かすような絵に描いた可愛い女子。男のツボを全部知っているかのような顔に、猫が鳴くような声。スタイルも文句なしだし、未だにあかの抜けていないようなとこなんか、男がいかにも好きそうだと常々感じていた。
「だが、先輩としてお前には確認義務があったはずだが?」
「ですが、昨日は...」
言いかけたところで、怒号が響く。
「言い訳が聞きたいんじゃないんだ!お前のせいで昨日の発注が二桁も間違ってるんだ!どうしてくれるんだよ、えぇ?おかげで、うちは在庫を背負いこむことになって大赤字、お前のせいでこんだけの混乱を招いているんだよ!わかってんのか?」
正直、意味がわからなかった。だけど、最近はなんとなく感じてたことと相まって、わかったことがある。私の責任じゃないことが私のせいになる。後輩の可愛い子を守るために。
要するに、「私はもう不要」ってことか。
そのことが、朱理の中ではなんとなく、ストンと理解できた。そして、予想通り。
「お前、明日から来なくていいから」
そう言われた。あー、明日から本当に化粧をする意味がなくなる。デスクに置いてある荷物をまとめて、会社を出る。誰も追いかけてこないどころか、別れの言葉もない。責任をかぶせた岸本ですら、朱理のことを見ることすらしなかった。怒りも呆れもなく、ただ自分の不憫さを感じた。車に乗り込み、シートに身を預ける。なんとなく涙が溢れてきた。この五年間はなんだったのだろうか。そんな思いが彼女を包み、負の感情に追いやる。
「...帰ろう」
しばらくして車のエンジンをかけた。その音が、泣いているように聞こえたのはきっと気のせいだろうと思う。朱理は逃げるように車を発進させる。さっき通ったばかりの道を逆向きに走る。早く家に帰って、布団に戻りたい。何もする気が起きないためか、そのことだけが脳内を支配していた。降りしきる雨に目もくれず、ただひたすらに車を走らせた。だからかもしれない。
目の前に飛び出してくる人影に一瞬、ハンドルを切るのが遅れた。
最悪だ。朱理は呟いた。
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