ヨーグルトのない朝

浅野 紅茶

ヨーグルトのない朝

今年で30になる僕にはなにもない。毎朝起きて、仕事をして帰宅する。休日は疲れを取るために家で過ごすのがここしばらくのルーティンとなりつつあった。趣味もなければ、家族もいない。強いて言うならば仕事で稼いだ貯金が少々ある程度。好きな音楽とか映画とかもないし、食にもこだわる方ではない。じゃあ、何が楽しみで生きているのだと言われるのだが、そこに理由も大してないのだから仕方ない。

そんな僕だからだったのだろうかと、今になって思う。戻らない過去と後悔が、朝になると僕に降りかかるのだ。



低血圧のためか、朝は寝覚めが悪い。だから朝食は基本的に取らない。昼頃になると腹がぺこぺこになるのだが、喉を通らないものはしょうがない。そうして生きてきた。けれど、ここ一年だけは毎朝、このアパートの食卓にヨーグルトが並ぶ。

「少しでも何か食べないともたないよ?」

起きたての僕に恨めしそうに彼女は言う。何度この言葉を聞いただろうか。わかったよ、と軽くあしらって一口だけヨーグルトを食べるのにももう慣れた。あまり食べ物に好き嫌いはないのだが、ヨーグルトは好感が持てる。朝、食事が喉を通らない僕に対して、あれはスッと飲み込めるからいい。知ってか知らずか、彼女と同棲を始めてから彼女はいつもヨーグルトを僕に差し出すのだ。

「あ、そういえば明日から二日、グアムだから」

食パンにヨーグルトを塗りたくりながら彼女は言う。それって美味しいの、って思うが試したことはない。一度聞いた時には、実家では毎朝これだったという答えになってない答えが返ってきた。

「へー、いいじゃん。お土産よろしく」

「あのねぇ、いつも言ってるけど仕事なの。自由時間だってそんなにないし、国内線に比べてフライト時間は長いし、グアムなんてもう何回も行って飽きちゃったわよ。若いころは世界中飛び回れるから憧れてCAになったけどさ、今となっては作業になっちゃった」

そう言って、手元のコーヒーに手を伸ばす。正直、この愚痴にも飽きた。でも、女ってこういう話を聞いてあげるだけでいいと先輩にアドバイスをもらってからは、話半分に聞いている。たまにそうなんだ、いいじゃんと相槌をうっとけばなんとかなる。

「ってか、のんびりパン食ってるけど、時間大丈夫なの?俺はもう出るよ」

そういうと、あからさまにやばいという顔して、残りのヨーグルトパンとコーヒーを口に突っ込んだ。華のキャビンアテンダントにはこんなガサツなやつもいるということを世の男は一体どれくらい知ってるのだろうか。

玄関で靴を履き、いってきますと声をかけると、歯ブラシを咥えたまま彼女が洗面所から顔を出す。

「いってらっしゃい」

これが、僕の日常。


ありきたりかもしれないが、彼女と出会ったのは先輩に誘われた合コンだった。しかも頭数合わせ。そもそも、合コンでなければ普通の会社員の僕が、キャビンアテンダントとお知り合いになる機会なんてナンパでもしない限りない。半ば強引に連れて行かれた合コンはあまりいいものではなかった。元々、人見知りの多い性格だったし、その場では先輩を立てなければならない。本来なら、僕にとっては相手を探す場ではなかった。明日も用事があると言って、二次会に向かう前にはこっそりフェイドアウトしようと思っていた。無駄な時間だったと駅に向かって一人で歩いていた時だった。

「ちょっと待ってよ!」

その声に振り返ると、さっきまで正反対の位置に座っていた女性が小走りで向かってきた。今日来ていた中でも、彼女のことは一際綺麗だと思っていた。ショートカットの似合う小さな顔に大きな瞳。鉛筆が乗りそうなほどの長い睫毛と筋の通った鼻に、赤がよく映える小さな唇。白のブラウスと黒のスラックスというシンプルコーデだったが、綺麗だからこそ飾る必要はないのだろう。足も長く、膨らんだ胸元には少し大きめのペンダントが光っていた。

「どうかしましたか?」

「いや、どうかしたってほどじゃないんだけど、私も帰ろっかなって思って。ただの頭数合わせだったし、先輩たちに気を使ってると疲れちゃうのよ。普段から乗客に気を使ってんのになんでプライベートまでって感じ。だから、あなたが帰ろうとしてるの見て、追いかけるように抜けてきちゃった」

要はダシに使われたと。まあ、いいんだけど。

「それに、あなたとちょっと話してみたくて。ほら、席遠くてあんまり話せなかったじゃん?」

そういって彼女は笑った。店内は暗かったし、ひたすら俯いてお酒を煽ってた僕はあまり相手の女性を見ていなかったが、改めて彼女が一番綺麗だと思った。お酒に酔っていたせいだろうか、それとも少しの可能性に光を見たのかは覚えていない。

「それなら、カフェにでも行きませんか?」

気がつくと彼女を誘っていた。社会人になって、初めて女性を誘った気がする。

「はい」

ショートヘアの風になびかせながら答える彼女をまた綺麗だと思った。カフェではたわいない話を繰り返した。合コンの時とは全く違って、僕自身語りすぎてしまったし、彼女も意外と食い気味に話しに乗っかってきた。まあ、主に上司の愚痴や仕事の辛さなどを言い合ってただけだったのだが、こんなに初対面の人と盛り上がれたのはいつぶりだろうかと思わされた。わりと個人主義なところも、笑うタイミングも、話す内容も似ていると思えた相手。減っていくコーヒーに反比例するように、別れが惜しくなっていく。

「じゃあ、私そろそろ終電だから」

腕時計をちらっと見た彼女は、そう言って立ち上がった。あっ、と漏れた声に彼女が気づかなかったのは幸いだった。せっかくアドレスも交換したのに、こんなところでがっつくのはどうかと思う。

店を出ると彼女が前を歩きだした。ネオンの灯りが彼女の横顔を照らし、色っぽく映る。気づくと柄にもなく、彼女の腕を掴んでいた。いいですよ、と誘いに乗る彼女の声が艶っぽく耳に残る。明日も仕事だというのに、なんて野暮な考えはとうに消え去っていた。

夜を明かし、お腹減っちゃったと言って彼女がコンビニで買ってきたヨーグルト。袋には二つ入っていて、そのうち一つを手渡されたが断った。朝食は取らないというと、

「少しでも何か食べないともたないよ?」

と諭された。仕方なく受け取り、会社についてから食べた。その日は、いつもより仕事が捗った気がする。



あとあとになって聞いた話だが、合コンの一週間前に彼女は彼氏と別れていたらしい。だったらと誘われた合コンだったが、相手は年上ばっかりで先輩への気配りもしないといけないからむしゃくしゃしていたらしい。あの日は、思ったよりカフェで盛り上がったこともあったが、ストレスを発散するためにオーケーをしたと言う。要は、遊びだったと付き合い始めたころに言われた。でも、今はちゃんと好きだからねと甘えてくる彼女が可愛くて、そうなんだとだけ言ったのを覚えている。


でも、そんな彼女はもういない。


ニュースの速報で、グアムからの飛行機が一便、着陸を失敗したというニュースが流れた。ちょうど彼女の言いつけ通り、ヨーグルトを食べていた時だった。中継の映像では飛行機が真っ黒に燃え上がっていた。大事故だったにもかかわらず、重軽傷者は少なかったという。ただ死者が一名。ニュースでは、乗客のインタビューが流れていた。一人のキャビンアテンダントが最後まで自分たちが避難できるように尽力してくれたと。そんなキャビンアテンダントが命を落としてしまったのが残念だと。それが彼女ではないことを祈りながら、成田空港へと車を走らせた。上司からかかってくる電話にも出ず、高速をひたすら走った。着いた頃には、人がごった返していた。飛行機の遅延を待つ人や報道陣、救急隊員や乗客の家族など。けど、そんな人には目もくれず、どこに行けばいいかもわからず、ただ人混みをかき分けて走った。どうか無事であってほしい。

そんな願いが届くことはなかった。あんなに仕事の愚痴をこぼしてた彼女が、乗客の命を救った。自分の命を賭して、数百人を救った。なんと誇らしいことだろう。でも、救われた人がいなくてもいいから、彼女に帰ってきて欲しかった。

キャビンアテンダント姿の似合う彼女。笑顔の可愛い彼女。苦いくせにブラックコーヒーを飲む彼女。意外と抜けてる彼女。準備をしながらでもいってらっしゃいと言ってくれる彼女。キスを照れ臭いという彼女。パンとヨーグルトを変な食べ方する彼女。姿勢が綺麗な彼女。いつでもそばにいてくれると言った彼女。僕のフィアンセになるはずだった彼女。

泣きながら、警備員に取り押さえられたのは覚えていなかった。気がつくと警備室の椅子に座っていて、目の前には真っ黒に焼け焦げた八号の指輪。

ありがとう、嬉しい。これからはずっと一緒だねという彼女。


嘘つきだな、とあれから一年経った今でも時々思う。朝起きて、テレビをつける。しばらくボーッとして、髪をセットしスーツに着替える。パンとコーヒー、そしてヨーグルトを食卓に並べる。いただきます。パンにヨーグルトを塗りたくる。最初はあんまり美味しいと思わなかったが、これが意外とくせになる。趣味もなければ、好きなものも少ない。会社と家を往復する日々だし、何のために生きているのかも正直わからない。でも毎朝、君がいない食卓で君を感じることができる。それが今年で30になる僕の今の日常だ。


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