ハーモニカ
容原静
ハーモニカ
彼女はいたって普通の女の子だった。少しの異常が彼女を異端に位置づけていた。平常時はかわいく素敵で地味な女子高生に過ぎなかったが、誰もが予想できないタイミングで彼女は狂ってしまうのだ。数年前彼女と先程まで仲良く話していた友達へいきなり石版を振り上げて病院送りにしたことは有名な話だ。それが原因で彼女は留年した。留年後も問題を起こし転校した。行き先でも問題を起こし、転校をなん度も繰り返して僕の学校へとやってきたのだ。
彼女は孤独だった。普段は普通の女の子だけに、孤独に耐えきれなさそうに俯く姿をよく見かける。しかし僕は男子で歳下で陰気でブサイクだった。とてもではないが、孤独な彼女に話しかける勇気など存在しない。
そんな僕だったというのに、いつのまにか彼女と少しぐらいは話していても問題ない関係となったのはいつのことだっただろうか。
ある放課後。僕は宿題を机の中に忘れていた。温かい日が差す廊下を歩いていた。金楽器の間の抜けた演奏。気力の薄い野球部の声出し。
僕は教室の扉を開いた。誰もいないはずの教室に彼女がいた。
懐かしい音色が聞こえる。ハーモニカだった。初めて聞く曲なのに、何故か聞いたことのあるような親近感を覚える。これは過去だ。春と秋の森で子供達が舞う葉の中を走り回る。僕の身体は震えた。
彼女は無心にハーモニカを吹いていた。僕の存在に気づいていない。僕も彼女になんて話しかければいいのか不明であった。
ある程度吹き終えたのか、彼女はハーモニカから口を離し吐息を漏らした。ギリシャの女神のような官能的な響きが篭る。どれほどの時間が経ったのか。教室の時計をみると、意外にも五分にも満たない。
彼女はびくっと震えた。僕の存在に気づいたのだ。瞬きを繰り返し、こくりと頷く。僕も頷き返す。
「みてたの」
彼女はゴクリと唾を飲む。
「みて、ました」
彼女は顔を紅く染めた。これは彼女にとって秘匿されるべき時間だった。彼女自身の孤独を浄化する空間を犯した。僕は無神経なことをした。罪悪感に脚が震える。
「すみませんでした」
僕は思わず謝り教室を飛び出した。彼女の細い声が聞こえた。廊下を走る。いつのまにか路上で車に邪魔だどけって言われている状況。赤信号の歩道で僕は青い空を眺めていた。僕は今無敵だった。宿題をとり忘れていたことに気づいたのは夜中母親と外食のラーメンをジュルジュル啜っていた時だった。翌日、先生にこってり絞られたのは言うまでもない。
それから数日間の通学は苦痛だった。一日ズル休みをした。早退をした。早弁をした。ガムを噛んだ。
彼女は毎日学校に通っている。彼女のことを注目したインスタのアカウントは今日も彼女の様子を隠し撮りしている。ズル休みをした僕はゲーセンで音ゲーをしていた休み時間にそれを確認した。彼女は毎日あいも変わらず地味だった。この学校に来てから未だに彼女の異常が露出した情報はない。
ある日彼女から手紙を受け取った。机の中に置かれていた。僕は遂にその瞬間が来たとため息をこぼした。トイレの個室で僕は白色の手紙の封を開ける。
『放課後。教室で。ナカムラミサ』
予想していた通りの内容に僕はうなだれる。一体どのような顔をして、対面すればいいのか。いっそこの場で自殺すればなにもかも楽になるのになと破滅的な考えが頭をもたげる。
授業中斜め右方向に座る彼女の様子を眺めた。彼女はあいも変わらず地味であり続けていた。本当に彼女は急に異常な様子を示すのか。皆がそれに注目している。地道に彼女に対する嫌がらせは少しずつ数を増加させていた。
僕はずっと彼女の誤解をどのように解けばいいのか考えていた。僕は宿題をとりにいっただけなのだ。孤独な彼女の大切な時間を傷つける意図など初めから存在しなかった。そもそも、みんなが利用する教室で大切なことをする方が悪いのではないか。そのことに思い当たると僕は自分自身を小さくする必要はないのではないか。もっと堂々とすればいいではないかと考え始めたが、それを実際彼女の前で表せるかというと無理だなと思う。僕は小心者なのだ。
放課後。僕は暫く理由もなく廊下や階段をウロウロと歩いた。窓から見える風景に魂を抜いていた。ぼーと過ごした。
そろそろ教室には彼女一人となったはずだ。僕は口笛を吹きながら教室へと足を進めた。ベートベンの運命だ。顎が少し思い通りに動かず、泳げたいやきくんのようなリズムを刻んでしまう。
僕は教室のドアを開けた。
懐かしい音だ。ハーモニカの音。彼女は前と変わらず孤独を愛するようにハーモニカを吹いていた。彼女の奏でに懐かしい夏のバリエーションがいくつも頭によぎる。教室の窓は開いていて、薄い桜いろのカーテンがふわりと風に流されていた。
僕は教室のドアを閉める。教室の中でたたずんだ。やがて演奏は終わる。
彼女は呼気を漏らし、私の目を注視した。彼女の目は純粋で澄んでいた。私はこれまでそのことを知らなかった。彼女の背後が醸し出す淀んだ空気と同じ目を私は自然と思い込んでいた。
「まぁ座ってよ」
これが彼女の第一声だった。私は目の前の席に座った。学校一の美人の座席だ。この秘匿に胸を高めてしまう。
「私の演奏、どうだった」
彼女は咳払いをする。俯き加減に話す。年上だというのにどうしてか、年の離れた歯抜けの妹のようにいじらしい。私は顔を紅潮させた。
「なんというか。懐かしい」
「懐かしい?」
彼女は思いがけない言葉だったのか手が行き届いた細い眉を歪めた。
「そう。懐かしいんだ。まるで昔聞いたことのあるような」
「教えてよ」
彼女は少しずつ私へと近づいてくる。少し胸が高まる。
「教えてってなにをさ」
「曲名」
「君は自分自身が何を弾いているのか分からないのに、演奏しているっていうのか」
「そうよ」
彼女は言い切った。彼女は少しも卑屈ではない。暗そうな雰囲気はまるでわざと作っているかのような。やはり普通の女の子だ、この人は。
「残念だけれど、僕も知らない。ただ懐かしいと感じただけで、初めて聞く曲だよ」
「そうなの」
露骨に彼女は顔を曇らせる。本当に小さな女の子のようで僕は破顔してしまった。彼女は不機嫌そうに僕をみる。
「なによ。なにがおかしいっていうの」
「いやぁ、なんでもない。なんでもないんだ」
「なんでもないことないでしょ」
そういうわけで、僕たちは自然と会話を弾ませていき、次第に仲良くなっていった。僕と彼女は自然に友達となった。これは奇跡である。
僕たちは交流の場を放課外に定めた。それは通学中、帰宅中、帰宅後である。
本当に取り留めもない会話をした。彼女は自分自身の経歴に対して深い感情を覚えていなかった。しかし自分の異常さに全く覚えがないようで
「なんかヘンテコなのよね私って」
と哀しそうに笑う姿を見ると、胸がどよんとなんとも言えない気持ちになってしまう。
「ハーモニカをいつのまにか吹けるようになったのよ。身に覚えがないの。そういうことばっかりわたしの人生って」
「まるで、悪いものがとりついているみたいだね」
「そうなのよ。私って医者に言わせると二重人格みたいでね。こうやって平然と学校に通っているのもおかしいほど病んでいるのよ。医者だけじゃなくて色々なものを頼ったわ。霊媒師や占い師に神主ってね。でも、どの人も私の二重性をお祓いできなかったわ。まだ、いるのよね。私の知らない誰かさん」
彼女はそう言って自分のお腹を摩り始めた。それはまるで子供を孕んでいるかのように慈愛が籠っていた。僕はその姿を見続けられるほど大人ではなかった。興奮してしまう。
「君は私を許してくれるかな。オザワクニヒロくん」
「許すってなにをさ」
「こちらをみなさい」
彼女に叱られた。僕は彼女から目をそらしたままだった。彼女はまだお腹をさすっていた。
「私ではない私があなたの前に現れたとき、あなたは私を嫌わないでいてくれるかなってはなし」
彼女は曖昧な関係を嫌うようだ。夢のような話に全てを放り投げて投資する人間ではないようだ。僕はそんなことをできないから、身体を震わせた。一体何と返事すればいいのか。嫌われたくはなかった。嘘はつきたくなかった。
「そんなの、もう一人の誰かさんと出会ってからわかることだろう」
「そりゃあそうだけれど。いつ現れるか分からない誰かさんのためにいついつまでもやきもきしていたら嫌になるわ」
彼女は長い黒髪に人差し指を絡ませて悩ましそうに水たまりを見つめていた。そんな彼女の憂いは日本絵画のように艶やかだった。
もう少しで梅雨が来る。全てが湿り、憂鬱となるあの日々が。僕は水たまりに映る青い空を見た。快晴だった。
僕たちが通う学校がある町はいたって普通に過疎化を進める田舎にある。この高校に通う殆どの生徒は地元の人間だった。僕のその一人だ。
この町にはノラ猫はあまりいない。地域的に猫を好む町ではないのだ。この町の人間は鳩を好んでいる。毎年秋頃に鳩祭りといって鳩を祀る祭りが開催される。猫は鳩を食うとされていて、特にノラ猫は排除される傾向にあった。ノラ猫を見つけたら100番。そのような誤った情報が子供たちの間で流行るほどの意識だ。
そんな町の空気と呼応して最近ノラ猫殺しが露出している。町の人間に見つからないようにひっそりと暮らしているノラ猫を引きずり出して身体中をひっくり返して道上に捨てているのだ。あまりにグロテスク。明らかに人間の手による行為。いくら猫を排除する空気あれども、やりすぎだった。
最初は猫を反除する協会の役員たちがうたがわれていたが、彼らは穏健派であり、そのような残酷な手で猫を侵すはずがないと首を横に振った。
何ヶ月もある程度の期間を挟んで猫殺しは横行した。愉快犯ではない。明らかな殺意をもって、確実に、ノラ猫は処分されている。
この事件は町の規模を越えて、全国にも波及した。そして、この町の猫に対する考え方等に様々な倫理団体、動物愛護の団体が町へとやってきて一代論争となった。
祖父母はテレビニュースを見ながら
「ほっといてくれたらいいのにね」
と呟いた。
彼女はこの事件に対して異常な反応を示した。
これがそうなのかと僕は思う。
彼女の中の異常が浮かび上がった。
「猫を殺すなど許せるはずがあろうかな」
彼女は帰宅途中で出会った事件現場を通過するときおかしくなった。彼女の長い黒髪はチリチリと浮かび、肩がブルブルと震える。目つきが鋭くなる。
「君は猫を殺すはずがない。人が猫を殺すはずがない。殺してやる。誰が殺した。誰が殺したというのか」
彼女は肩に背負う鞄を片手で振り回し始めた。僕は彼女から離れる。彼女はコンクリートの地面に鞄をぶつけ始めた。
「猫の気持ち。ノラ猫の気持ち。気持ちを蔑ろにするな。私の気持ち。君の気持ち。蔑ろにするな」
彼女は鞄をくるりと一回転させて僕の方へと放り投げた。それはあまりにも速く僕のお腹に叩き込まれた。その勢いで僕は背中から地面へと倒れ込んだ。頭が振動する。彼女は僕のもとへと走ってきて介抱してくれるはずがない。彼女は僕にキスをした。それは僕のファーストキスだった。
「男の味。臭くてキモくて意地悪な」
もう一人の彼女は淫乱だった。艶めかしく、僕の身体は覚醒していく。しかしこれは違う。僕は彼女とキスをするにしても、彼女の肉体に興奮するにしても、彼女の知らないところで彼女自身と隠微な行為を励むというのは違うというものだ。
しかし、僕は意識を失ってしまった。反抗は不可能になってしまった。僕は頭をぶつけたショックが大きすぎたみたい。
もう一人の彼女とのファーストコンタクトのあと、僕は病院に運ばれた。診察の結果、特に異常なしとのことだった。
彼女は心配そうに僕のベットの横に座っている。本当の彼女が意識を取り戻したとき、意識を失った僕を見て全てを察したみたい。ぼくが意識を取り戻したとき、彼女の顔には涙の跡がみえた。
彼女は自分が一体僕にどのようなことをしたのか聞くのだけれど、僕はその内容をなかなかうまく伝えられなかった。内容が内容なだけに上手く彼女に伝えることは難しい。恥ずかしいじゃないか。全ては頭をうって記憶を喪失したということにしておいた。
ただノラ猫の犯罪現場でその現象が起きたことだけは伝えた。すると彼女は訝しむように俯いた。
「なにか答えがみつかるかもしれない」
「答え?」
「私ともう一人の私。その事実を見つけることが出来るかもしれない。こんなことになってなんだけれど、もし、もしよかったら手伝ってくれないかしら。あなたとなら、もしかしたら」
彼女は図々しいにもほどがある。普通の人間ならばあんなことがあって冷静でいられるか。このまま交流を続けるなんてあり得ない。でも、僕は愚かなのだから
「いいよ」
って返事をするのだ。
僕たちはノラ猫の斬殺死体が発見された現場を一つずつ訪れた。それは公園の隅っこだったり、路地と路地の間だったり、丘の上の侘しい住宅の裏だったり、とにかく何処を訪れても寂しさを感じてしまった。
なにか新しい発見をするわけではない。もう一人の彼女は何処へ行っても発生しなかった。どうやらノラ猫の斬殺死体が直接的な発生条件ではないようだ。僕たちは肩を落とした。
「まったく期待外れもいいところだわ。なんでこうも上手くいかないんだろう」
「難しいからこそ、今まで苦労してきたんだろう」
「そうだけれども、早くどうにしても、追及したくてたまんないのにうまくいかないわね」
彼女は苛立ち、地面を蹴った。僕は黙って彼女が続ける言葉を聞いた。彼女にとっての暗部をどうにかして解決したくてたまらない気持ちは僕も同じだ。あのような凶暴で淫乱なものを彼女自身のコントロール外で生きさせておくのは危険だ。ああいうことはちゃんと責任をもってしなければならないのだ。責任を持てずして、暴力を行うのは罪を祓いようがないではないか。そんなもの自分の中に置いておくなんて、悪なのだ。
僕たちがノラ猫の斬殺死体発見現場を巡っているときに殺猫事件は起こらなかった。
僕たちはいつも花を現場に持っていく。だってやりきれない。大切な命を突然奪う卑劣な、可哀想な猫にせめてでもの気持ちなのだ。
「〜〜〜」
彼女はどの現場でもハーモニカを吹いた。懐かしい音色。なんだが亡くなった大切な人との遊びが巡ってくる気配だ。自然と僕の目から涙から溢れてしまう。
彼女はハーモニカを吹き終えた。彼女はハーモニカをカバンに収める。
「君のハーモニカって本当に素敵だね」
「なによ。いきなり」
彼女は照れ臭そうに手を横に振った。
「こんなの、なにもすごくないわ」
「いや、凄いよ」
「すごくない」
そう言いながら僕たちは現場から離れていく。空は夕暮れ。鳴くには早過ぎるひぐらしの声が聞こえる。
最近、夢を見る。
もっと小さいときの夢。
僕が一人だったときの夢。
僕はたった一人で家に帰った。家には誰もいない。母親が残したメモを見る。冷たいオムライスが机上に置いてある。
僕は二階の窓の外を見る。楽しそうに同級生が広場をはしゃぎまわっている。僕はただそれをみているだけで、日が暮れる。
僕は一人で冷めたオムライスをむしゃむしゃと食べる。
そしてテレビを点けて、一人で母親が帰ってくるまで席から離れない。
起床してからもその夢が僕の頭をもたげる。ぼくは最近昔の夢ばかりを見る。幼児だったとき、小学生だったときの夢だ。
僕の身体は汗まみれ。僕は寂しい人間だ。昔から孤独な人間だった。
僕はノラ猫の殺害現場を訪れるたびに、彼らがすべて人の意識が薄い場所で殺されていて、まるで自分が殺されたかのように感じる。
生き残ることができた僕が、死んでしまった世界線を覗いているようだ。小さな抵抗のしようがなく、おもちゃのように意識の支配を越えてバラバラにされてしまう。そうして孤独を抱き込んだまま死ぬ。誰もその孤独を慰めてはくれない。死を哀しむ人はいても、誰が私の孤独を慰めてくれるのか。
なんだか胸の高まり、頭が擡げる身体に悪い鼓動に嫌になる。このまま彼女と彼女自身の問題を解決しようと躍起になるのは悪いことではなかろうか。このまま続けていくと良からぬことが僕に起こる気がする。
でも、彼女と始めてしまったこの人生を止められるものか。もう始まっている。僕と彼女の歴史は。
僕たちが訪れたことのない殺害現場は少しずつ数を減らしていた。いつのまにか蝉が鳴くのが当たり前の季節となった。
さいきん暫くノラ猫は殺害されていない。様々な論争も息を潜め始めていた。ノラ猫を保護する。町の外の団体が毎日ノラ猫探しに躍起になっている。しかし、ノラ猫は一匹たりとも発見されなかった。
僕たちは未だに数少なくなった未見の殺害現場を訪れる。しかし一度たりとももう一人の彼女と出会うことはなかった。
「流石に歳なのかもね」
最後となった殺害現場を訪れても彼女に変化は訪れなかった。それは路地裏の公園だった。ブランコと滑り台だけがある寂しい公園。僕が昔一人で遊んでいた公園だった。
「歳ってなにがさ」
「若いときのはしかだったのかもね。昔はもっと現れていたのに、今回の学校じゃまだ一回だけよ。やっと高校を卒業できるんだわ私。清々する」
彼女は背中を伸ばした。
「気が早いなぁ。まだ二年生だよ」
「そうね。まだまだ、二年生ね」
そうして彼女は微笑みながらハーモニカを吹き始めた。いつも通りの懐かしさ。ただでさえ僕にとっては懐かしい場所だというのに彼女のハーモニカも懐かしさに溢れている。しかし彼女の懐かしさは公園に感じる懐かしさと違って、なんだか僕の胸の奥を揺すっているような。
彼女はハーモニカを吹き終えた。ハーモニカをカバンに納める。
「さぁ、帰りましょうか」
「終わりなのかな」
「終わりって」
だって、これが最後なのだから。最後の殺害現場なのだから。
「いつまでも続くって思っても、絶対に続かないじゃないか。だから、ミサも終わるよ。一人になるよ。なくなるよ。そんなの、分かりきっているから」
「どうしたの急に」
彼女は僕の急変に苦笑する。
「これからも君と一緒にい続けるなんて難しいもんなぁ。そう思うと辛い」
「なに言っているの。私たち、もう友達でしょ」
さも当然のように彼女はつぶやいた。
「ばかね。あなたって人は」
「僕は馬鹿ではない」
「カバの方が良かったかしら」
彼女は僕をみつめてにやっと微笑んだ。
「どっちも一緒だ」
そのとき、公園の隅の方に四足歩行の動物をはっけんした。どうみてもノラ猫である。僕は彼女とともにノラ猫の元へと向かった。
「もう絶滅したって聞いていたのに」
彼女は生えている猫じゃらしを千切って寝転ぶ猫の腹を撫でた。猫は王様のように優雅に腹を撫でられている。
「こりゃあ幼いわぁ」
「ふふふ。猫って可愛いのね」
僕たちは猫と遊び続けた。
夕暮れが見え始める。
「楽しいですか」
大きな影が私たちを隠す。猫たちに夢中になっていた僕たちの背後から声が聞こえる。僕たちは振り向いた。
其処には背の高い大きな男性がにやにやと笑っていた。
「ノラ猫って可愛いですよね。素敵ですよね。そのお腹、すてきだなぁ」
男は自分自身の世界に入り込んでぶつぶつと呟いている。僕は気づいた。この男がノラ猫殺しの犯人だと。
僕は彼女が撫でている猫を抱きかかえた。彼女を手を握りこんだ。僕たちは逃げた。
しかし、転んでしまった。僕たちの周りには縄が括られており、それが邪魔をした。周到な犯行だ。
早く立ち上がらなければならない。この公園から逃亡しなければ。
しかし、もう遅いのだ。哀しき声だ。美しい音だけが世界にあればいいのに、どうしてか懐かしさを搔き消すような辛い響きが町を震わせるのだろうか。
男は猫を解剖し始めている。横には頭から血を流したナカムラミサがぶっ倒れている。僕は携帯を震わせた。男は僕が意識を失ったかのように錯覚している。そのうちに。
直ぐに僕たちの存在に気づいたのか、近隣の人々がやってきた。男はいつの間にか姿を消していた。僕は意識を白くさせながら周りの人と彼女と猫と公園を何度も見返していた。
たった一人の目撃者として僕は時の人となった。モザイクとなった僕がテレビ画面を走り回り、モザイクじゃない僕の日常生活がネット中を走り回った。僕と亡くなったナカムラミサとの関係を綴る卑猥な雑誌は飛ぶように売れた。中には僕を真犯人と話す人間もいて、僕は町中を今までのように誰にでもなれない一般人のように歩くことは出来なくなった。僕は見知らぬ誰かの怨みを込めて殺されるかもしれない。自然と僕は引きこもりとなった。大切な友人を失ってしまったのだから当然だ。
ナカムラミサ。郷愁のこもったハーモニカともう一つの人格と幾たびの留年を重ねただけの普通の女子高生はその命の美しさを発揮することなく死んでしまった。
僕は彼女が亡くなってしまってから初めて彼女の両親と挨拶を交わした。父親は頭を禿げちらし隈をつくっていた。母親は太りに太って黄ばんだかおで暗かった。僕は彼女の両親から彼女が死に至る際に握られていたハーモニカを受け取った。どうしてか彼女は遺書を自室の机の引き出しに入れていて、その中にハーモニカを彼に譲ってあげてくださいと書いてあったらしい。
ハーモニカ。僕は机の上に置いている。
『いつの間にか手元にあったのよね』
そのハーモニカは女子高生が吹くには小さいサイズだった。とても古びれていた。彼女はそのハーモニカをいつ手に入れたのか知らなかった。彼女は生前一度死にかけたときがあったらしい。もうほとんど救いはなかったそうだ。彼女自身、一度死を味わったことがあると語っていた。その死が、ハーモニカに自然と懐かしさを篭らせてしまうらしい、かった。
僕はハーモニカを頂いてから、机の上に置いて、それっきりの関係だった。吹こうと思わなかった。吹いたからといって彼女が帰ってはこなかった。
僕にとって大切な人だった。もうこの世にはいない。
今までも孤独だったし、これからも孤独でしかない。大丈夫だ。心臓は動いている。食事は三食欠かしていない。
僕は死なない。生きているんだ。
彼女が死んでから何年経ったのか。僕はあれから引きこもっていた。ずっとだ。お陰で未知の敵に殺されずに済んだ。生きています。何の希望もありませんがそれは昔から同じことです。母親は疲れています。僕に何の言葉を残さず、ただ働いて僕を生かしてくれます。
僕は学校に籍を置いたままだ。僕は社会において曖昧な立場に所属していた。
しかしどうして死にたくないのか。死なないのか。生きていくということはなんだろう。僕はこの何年もそのことばかり考え続けていた。一体どうしてこんなことになったのか。全て僕の責任なのか。
僕はぼーと布団の上で寝転んでいる。何もすることはない。何をしたところで、何にもなるところはない。だって人の行動は全て誰かのためにあるのだから。僕に誰かなど生まれたときからは存在しないのだ。だって僕は孤独なんだから。
「ニャーオ」
ノラ猫だろうか。僕は窓を見た。開いた窓からノラ猫が飛び込んできた。ノラ猫がまたこの町に生まれてきているのか。時代は巡る。引きこもりでさえそのことを実感せざるを得ない。
ノラ猫は僕の懐に忍び込んだ。人懐こっい猫らしい。僕は猫の頭を撫でた。
「このクソ野郎が」
一体何処から声が聞こえてきたのか。幻聴なのか。すると僕は狂っているということになる。
「俺だよ。お前の懐の猫だよ」
「どうして猫が話しているんだ」
「お前を探していたんだ。くっくっくっ」
猫が酔ったオヤジのように笑う。
「あんたはなぜ生きている。なぜ自分をそこまでに護ることが出来るんだ。おい。おまえに話しかけているんだよ」
「そうはいってもな。世間じゃ猫は話さないのが常識なんだ。まさか引きこもっている間にこんなに世界が狂ってしまったとは」
「常識は存在しないんだよ。世界は常に狂っているのだから」
猫は私の左腕を噛んだ。歯型が強く残る。私は叫んでしまった。
「オザワくんよ。早く死ね。悪夢を見るより早く死ね」
そうして猫は窓から飛び降りた。私は夢を見ていたのだろう。そうに違いないと考えた。
「しかし私は生きている」
猫は翌日も私の部屋に登場した。
「どうして君はそうも私の元へやってくるのだ。話せるならばもっとうまい生きかたってものがあるだろう」
「それは無理だ」
やけにきっぱりいう猫だ。
「君は鈍感である。はっきり教えてやろう。私はもう一人のナカムラミサだ。君たちが探し求めていた人格だ」
ナカムラミサ。その名前はすっかり埃を被っていながら、あのときの若い僕の感情のまま素直に過去に置いている。僕は彼女を殺してしまった。僕の生き方を間違えなければ、別の道を歩んでいれば、彼女は今ごろ素敵な女性として青春を謳歌しているであろうに。
「しかし、どうして君は生きているんだ。なぜ死なずに猫になんてなっていやがるんだ」
「俺は生命そのものだからね。俺のお陰で彼女は生きておられた。そのくせにあいつは自分の生命を優先しやがるんだから。俺は死なねえぞ俺は」
「君のお陰って」
「あの女はオザワくんに会う前に死んでいるんだよ。私の魂が死体に憑依していたに過ぎない。あの女はゾンビだったのだ」
ゾンビ。彼女が?
「そうなのだ。そのくせに楽しく生きやがったんじゃないか。結局は自らの生命に対する矛盾に苦しんで落っこちて死んじまったけどな」
「しかし、しかしだ」
目の前の猫の形をもったやつはなにものなのだろうか。僕が、人間が扱っていいものではないはずだ。早く窓から捨てなければ。
そうと決断すれば早い。僕は猫の頭を思い切り壁にぶつけて、窓から放り投げた。猫は地面へと叫びながら落ちて、砕けた。
僕は何にもやっていない。奴が化け猫だからいけないんだ。僕は雨戸を閉めて窓を閉めてガムテープで窓をがんじがらめにした。
もう奴のことなど忘れた。あれは僕の幻想なのだ。本体などいるはずもない。
「君は昔から変わらない」
夜中、僕の枕元にそいつは立っていた。猫の金タマがやけに目につく。身体をどれだけ動かそうと努力しても動かない。
「忘れてしまったのか。そうだろうな。君ってやつは馬鹿だったからね」
猫は嫌味垂らしそうによだれを僕の額に垂らした。やけに生温かい。気持ちが悪い。
なんだ。なんなのだ。亡霊にしても酷い。数年も僕を訪れずしてどうしてこの機会にやってきたのか。彼女は一体僕に何を施そうとしているのか。
「君はあの机上の楽器を覚えていないのかね」
埃を被った彼女の形見。
「そうじゃない。本当に覚えていないのか」
懐かしい音色。懐かしい思い出。
「吹け。吹けよ。この馬鹿が」
僕はいつの間にか立ち上がり、数年も触れていなかった彼女のハーモニカを手に取ろうと動き始めた。これを吹けたからといって何になるというのだ。吹いたからといって、どうなるというのか。
「疑い深い子供が眠りの度にロックンロール」
僕は全身が汗まみれだ。目から涙が流れる。どうしたのだ。僕はどうなってしまったのだ。
僕は彼女のハーモニカを吹いた。口元には彼女の分厚く生暖かい感覚が触れる。これが本当の初恋。僕は自然とあの懐かしい音色を奏で始める。手が口が自然と動く。
「これが答えなのだ」
そうだ。思い出した。これは僕のハーモニカ。
子供時代の僕がよく奏でていたハーモニカだ。
そのことを思い出した僕はなにもかもを思い出し始めた。良いことから悪いことまで全てを。
僕には父親がいなかった。
父親は凄く立派な人だと母親はよく話した。
しかし母親の親戚は父親の話をするとみんな僕を煙たがった。
僕には父親は霧のように大きく揉まれて不明だった。
父親が生きていたという痕跡が僕の家にはなかった。写真一つなかった。
ただ一つ小さなボロボロのハーモニカだけが父親が僕に残してくれた物品だった。僕はそれを母が作ってくれたカラフルな紐で首にぶら下げて毎日持ち歩き、吹いていた。曲は母親がよく鼻声で歌っていた曲を自然と吹いていた。母親が言うには
『風の唄なのよ。これ』
らしい。よくわからないけれど。
父親がいないのか、元の気質かわからないけれど僕は引っ込み思案で暗かった。僕には友達がいなかった。仲良くなっても僕から離れていった。僕は怯えていた。誰かと仲良くなることが怖かった。僕は好んで孤独への道を進んでいた。
僕は孤独を好んでいながら、孤独を感じる度に胸の中のコップに水滴が溜まっていくことを感じた。僕は寂しかった。寂しくなる度に父親が残したハーモニカを自然と吹いた。
僕には仲のいい猫がいた。彼は僕のハーモニカが好きだった。
初めて出会ったときもそんな塩梅だった。僕はハーモニカを吹いていた。その日も孤独だった。公園で僕は寂しさを紛らわせていた。夕方だった。
彼はゆっくりと遠くからやってきた。僕の足元に座りにゃおんと鳴いた。
『寂しいんだね。凄くいい音色だよ。僕の心が洗われる』
こんなこと言うと笑われるだろう。しかし僕には彼の声が聞こえた。彼と僕は会話ができた。僕がハーモニカを吹くとき、彼の言葉が聞こえた気がするのだ。
それからは毎日僕はハーモニカを吹いて、彼とお話をした。学校の話。通学路の話。テレビの話。母親の話。そして父親の話。僕はこのハーモニカを残してくれた父親のことを始めて感謝した。
彼は博識だった。彼には命がいくつもあるらしい。彼は何度も死んで、産まれた。彼の話を聞いていると生きていることの楽しさがわかったような気がした。僕は生きようと思った。
『君は大丈夫だよ。君はお父さんのハーモニカがある。僕は君と出会えて幸せだよ。君は幸せかい』
僕は幸せだった。僕は孤独じゃない。僕には父さんのハーモニカと君がいる。僕は嬉しくて涙を流した。
そうなのに、僕はどうしてああいうことをしてしまったのだろうか。なぜ大切なものを壊してしまったのだろうか。僕は、どうして。
僕の母親は孤独に耐えられなかった。僕の種を残して消えた一夜限りの男を母親は愛していながら憎んでいた。母親は僕を愛していながら憎んでいた。母親はよくぶった。ご飯を作ってくれなかった。怒鳴られた。あんたなんて産まない方が良かったと言われた。
僕は学校でもあまりよく過ごせなかった。居場所がなかった。楽しいことが好きな人たちの格好のおもちゃとなった。僕はなにをされても言い返さなかったから、僕はいつまでも遊ばれ続けていた。
その日はお腹が空いていた。もう何日もご飯を食べていなかった。そのくせに僕は最近はやりの遊びで頭をぶん回されて疲れていた。
その日は公園のブランコに僕は座っていた。僕は何の気力もなかった。
ハーモニカを吹いてもいないのに彼がやってきた。彼は僕の足元によだれを垂らした。彼なりの愛情表現だった。
疲れていなかったならば。いつもそう思うのだ。僕には彼の頭がお月さまに見えた。お月さまのようにまんまるだった。僕はなんだか彼の頭を蹴りたくなってしまった。
僕は彼を蹴った。彼は吹き飛んだ。叫んだ。ぼくは彼を蹴ったときに快感を覚えた。こいつは楽しいぞ。彼らが僕を道具に使うのもよく分かる。
僕は地べたで辛そうにする彼の腹を思いっきり踏んだ。その時の彼の叫びは辛そうで哀しくて。どうして僕はそのまま彼を踏み続けたのだろう。ミシミシという骨の音。ああもっともっと踏みたい。生命を破壊したい。僕を遊ぶあいつらみたいに楽しみたい。僕だって人間だ。彼らと同じ人間だ。いつまでも僕は楽しみたい。
僕は彼の手を握ろうとした。彼を吹っ飛ばしたい心を覚えたからだ。しかし僕は彼に引っ掻けられた。痛い。なんだ。僕が遊ばれているときは僕は淡々と彼らの遊びに文句ひとつ漏らさないというのに、ずるい。悪いぞ。
僕は彼の手を踏んで、彼を思いっきりぶん回し、放り投げた。彼は空を飛び、彼は頭をコンクリートにぶつけた。
「にゃん」
凄く高い断裂魔が響いた。血がだらりと頭から垂れている。彼は全く動かない。死んで、しまった。
僕が殺した。この僕が殺した。僕の腕から血が垂れる。痛い。僕は生きている。僕の首にはハーモニカが垂れている。僕のハーモニカを素敵だって教えてくれた君を殺してしまった。
僕は逃げた。ぼくは誰も殺していない。ぼくはなにも悪いことをしていない。ぼくを責めないでくれ。ぼくを許してくれ。ぼくは。ぼくは。
僕は土下座をしていた。一体どの行為がふさわしいのか。行為でなにかを償えるものなのか。でもせめてでも僕はしなければならない。許されることが問題ではない。僕自身にとって重要なのだ。
「君はまともだと信じていたよ。孤独だが、だからこそ美しく生きていくと理解していたよ。君は嘘つきだ。君は大切なものに蓋をして、もうどうしようも何もかもうまくいかなくしてしまった。君は僕を殺したのではない。君は君自身を殺したのだ。君は君自身を許せない。だからそうやって意味もないのに土下座をしている。君のことを僕は可哀想だと思うよ。僅かな可能性ですら手放して。そのくせまだ生きようとしている。君は本当に罪深い人間だ」
僕は彼が何が言おうとごめんなさいと言い続けた。僕は謝り続けた。
「君は目の前に僕がいると錯覚しているけれど、僕はもうここにはいない。僕の命は数え切れないほどがあり、僕自身が分かれている。君が殺した僕はもうこの世にいない。謝れると思ったか。救われると信じたか。そんなはずはない。命は二度と帰ってこない。機会は二度と帰ってこない。純潔を気取りたいならば、最後まで純潔でいやがれよ童貞。汚らしいんだ。ゲロが。満たされていないんだよクズめ。死ね、死ね」
僕は一人だった。いつまでも孤独に妄想に耽り謝り続けた。お腹が減るとご飯を食べて、眠たくなると眠った。そうしてまた明日を迎える。今日と同じくだらない明日が来る。僕の想いなど無視して、今日をまた生きていく。
ああ、死にたい。
僕は復学した。もう身体には似合わない制服を無理やり来た。二度目の高校二年が始まる。
僕は周りに煙たがれて、孤独となる。僕は教室の隅で俯き続けた。僕は臭くてでぶくて、気持ち悪い。まだいじめられないだけマシだった。僕はこの教室に生息する生き物が視界に入らないようにした。僕は孤独に生きようと努めた。
ある日、僕は。
驚いた。
何がそこにいるのか信じられなかった。
彼女が制服を着て校内を歩いていたのである。二度見をした。なんならば三度見も。彼女は生きていた。ナカムラミサが生きている。
「ミサミサミサ!!」
僕は嬉しかった。目の前の人間があのミサな筈がないのに。他人の空似に過ぎないのに。何を僕は信じているんだろう。彼にあれほどキツく言われたのにまったくこたえていなかった。僕は酷い人間だった。最悪だった。
「ひぇぇぇ」
彼女は僕を化け物のように扱った。この世の造物ではないような視線で私を見る。この人は彼女ではない。そのことを確実に知らされた。
しかし僕は諦め切れなかった。僕は一縷の可能性をかけて、首に掛けていたハーモニカを出す。僕はハーモニカを吹いた。
その音は懐かしいか。その唄は寂しさを紛らわせるか。その旋律は君を思い出させるか。ミサ。ナカムラミサ。
しかし彼女は某然と私をただ見つめるだけであった。まだ始まったばかりであったが、僕はハーモニカを吹くのをやめた。僕はすぐに彼女に謝り、その場を離れた。ただでさえ不気味でお化けのように扱われている僕が獣である噂が学校中に広まるだろう。それは仕方がないことだった。
翌日、僕はナカムラミサに似た彼女を調べ始めた。彼女はなんとクラスメイトだった。今まで同じ空間にいながらどうして僕は気づかなかったのか。なんて愚かな人間なのだろうか。
彼女の名前は、なかなかどうして、ナカムラミユといった。彼女はどうやらミサの妹のようだった。奇縁である。
しかし。だからといって、彼女は帰ってこない。僕にはどうすることもできない。僕の人生に何かが変化することはない。僕はただ生き続けた。何事もなくただ生活を続けて、卒業した。ナカムラミユも卒業した。彼女とはあれっきり一度も話すことはなかった。私はそのまま就職をした。彼女はどうしたのだろうか。私は同級生の進路など一人も知らなかった。僕は孤独だった。
就職したもののあまり上手くいかなかった。ただ俯いて何も起こらないことを祈って生き続けることは難しいみたいだ。僕は同僚に煙たがられて、社長の評判を悪くして、会社のピンチを同時にして首を切られた。
首を切られて、何もすることがなくなった私はただ畳の上で天井を眺め続けた。母は数年前に死んだ。実家は売り払った。本当に何もすることはない。もうこのまま餓死をしてもよかろう。そこまで思いつめた。
しかし死ねなかった。まだ死ねなかった。私は死んではいけないと思った。私は机の上に置いてあるハーモニカを見つめた。どうして私はまだハーモニカをもっている。どうして捨てなかった?
私はどうせ死ぬならばと、ハーモニカを持って町中へと歩き始めた。どうせ死ぬならば。
私は路上でハーモニカを吹き始めた。私は命限り吹いてやろうと考えた。誰が止められるかこのハーモニカを。
僕を見る人は誰一人いない。僕は孤独だった。路上のハーモニカ使いは孤独でも吹き続けた。
「もしかしてオザワさんですか」
その声で私の演奏は止まった。懐かしい声だった。目の前に彼女がいた。いや彼女の妹が。
「ナカムラミユです。覚えていますか」
私たちは場所を移して、ハンバーガーチェーン店で話し始めた。
彼女は本当にミサにそっくりだった。ミサの年齢を最後まで知ることはなかったが、恐らく今のミユの年齢と同じぐらいだったのだろう。全くの瓜二つだこれは。
「私謝りたいことがあるんです」
「謝りたいこと?」
一体彼女が私に何をしたというのか。
「私、あなたに酷いことをしました。私、お姉ちゃん知っているでしょ。でも、でも」
「ミサさんのこと、忘れたことなどありません」
「私、あなたが殺したんだって。あなたが犯人なんだって今でも思っています。でも、それでも、あなたはそのハーモニカ」
ミユは私の首に垂れたハーモニカを指差した。
「あなたはお姉ちゃんが好きだったその曲を吹けるんですね」
「お姉さんが…好き?」
「そうです。お姉ちゃんは生前その曲の素晴らしさを毎日語って、いやになる程語って」
「嘘だ。僕の知る限りではお姉さんはこの曲が吹けても特別好きなわけでは」
「好きでしたよ」
それは有無を言わせぬ言葉だった。ミユの目は濁りがなかった。
「ねぇ。聴かせてくれませんか」
「えっ」
「私、聞きたいんです。あなたが吹けるあの曲を」
「構いません。構いませんよ。ええっ」
私たちは勘定をして近場の公園に行った。
「では吹きましょう」
私はいつも通りハーモニカを吹き始めた。それは懐かしかった。今までの様々なことを思い出させる。私は後悔をした。絶望した。孤独だった。罪を積んだ。それでも生きることをやめない。死なない。
だんだんといろいろなことが頭の中に小さな思い出が地面に降り積もっていく。人生が輪廻する。世界が喜んでいく。私は生きている。生きている。
ああ。涙が溢れる。私を許しておくれ。ミサ。私が殺した猫。私はまだ許されたくてたまらない。私の罪を払ってくれ。助けてくれ。救ってくれ。
甚だしい。僕は悪人だ。許されるはずのない罪だ。
しかし、ミユは手を叩いてくれた。
「ありがとうございます。お陰で私、お嫁にいけます」
私は涙を拭きながら、話す。
「お嫁?」
「そうなんです。迷っていたんだけれども、これでようやく決心できました。ありがとうございます」
ミユは私の手をにぎり
「続けてください。お姉ちゃんはあなたに生きているのですから」
「ミサが、生きている」
「そうです。ですから、お願いです。続けてくださいね」
そうしてミユとは別れた。これが最後だろう。私は手を振りながら、考えた。
ミサが私の中で生きている。私のハーモニカに詰まっている。私は何をしなければならないか。私はハーモニカを吹き続けなければならない。このおんぼろハーモニカをいつまでも吹き続けること。ただそれだけが僕の生きる道なのかもしれない。
それから僕は命が続く限り、ハーモニカを吹き続けた。雨の日も晴れの日も戦争が起きてもハーモニカを吹き続けた。
そうしていつの間にか僕は死んだ。死んでも僕の肉体はハーモニカを握っていた。
果たして僕の人生は幸せだっただろうか。わからない。
でも、楽しかったよ。それだけは本当だ。嘘ではない。
ハーモニカ 容原静 @katachi0
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