一区間の友

吾妻栄子

一区間の友

「お嬢さん、お加減は大丈夫かな?」

 ガタゴトと動き始めて間もない列車の客室。

 一見して仕立てたばかりと分かる灰色の背広に同じ色の帽子を被り、ややけばけばしいほど鮮やかな朱色の蝶ネクタイを大きく結んだ、眼鏡に鳶色の髭もじゃの中年男が葉巻を燻らしながら、前の座席の客に声を掛けた。

 相手は質の良い黒の喪服とヘアバンドを着け、艶やかなアッシュブロンドの髪を編み込んで垂らした、まだ少女と言って良いほど若い女である。

 だが、その澄んだ青灰色の瞳からは透き通った涙の粒が零れ落ちるところだった。

「酔い止めの薬なら少し差し上げますよ」

 返事を待たずに中年男は緑と黒のチェック模様の肩掛けを小脇に抱えて少女の向かいの席にせかせかと移動する。

「いえ、大丈夫です」

 少女は小声で答えると、ゴホンと咳き込んだ口元を抑えた。

「これは失礼した」

 中年男は手にした葉巻から流れ出る白い煙の強い臭いに気が付くと、床に落としてピカピカの革靴で潰す。

「少し換気しよう」

 席に面したガラス窓を中程まで開ける。

 ひんやりした秋の風と共に線路脇の木々の緑の匂いが流れ込んできた。

「ありがとうございます」

 少女は初めて顔を綻ばせる。

 吹き込む風にアッシュブロンドの髪を微かに漂わせたその小さな笑顔は、しかし、どこか寂しい色を帯びていた。

「いやいや」

 帽子を取って髭と同じ鳶色のもじゃもじゃした髪の毛を撫で付けながら、中年男は苦笑いする。

「どちらまで行かれるのかな」

 眼鏡の奥の茶色い瞳は正面から臨むと穏やかで温かい。

「次の駅で降ります」

 少女は飽くまで柔らかな口調で応じると、涙を拭った。

「そうかい」

 中年男はどこか残念そうに笑った。

「私はその三つ先の駅だ」

 ゴーッと潜るような音がして、車窓は真っ暗になった。

 電車はトンネルに入ったらしい。

 今度は少女が黒い喪服の背を見せてガラス窓を閉めた。

 漆黒の喪装は後ろ姿になると布地の古さが目立ち、左の肩甲骨の辺りに小さいが明らかな破れがある。

 中年男は黙して少女が元通りシートに座り直すまでを見守った。

 窓を閉じてしまうと、二人の席には木造りの車室のどこか甘い匂いに葉巻煙草の残り香が立ち込める。

「おじさまが行かれる駅の街、昔、住んでました」

 車窓の黒い闇に青灰色の瞳を注いでいた少女がぽつりと呟いていた。

「父が亡くなってから、母の実家のある街に戻ったんです」

「そうかい」

 中年男はアッシュブロンドの髪を垂らした相手の端正な横顔に目を注いだまま続ける。

「私も、ずっと昔、次の駅の街に住んでいたよ」

「じゃ、ママともどこかで擦れ違ってたかも」

 振り向いた少女の顔は新たな光る粒がまた伝い落ちていく所だった。

「今日、お葬式なんです」

 啜り上げた顔は酷く幼く見える。

 小さな赤い唇は悲しみよりも不安を示すようにぎゅっと固く閉じられていた。

「ああ」

 中年男は少女の脇にある赤と白の薔薇が刺繍された焦げ茶色のビロードのバッグを自分の膝に載せて彼女の隣に座ると、か細い喪服の肩を優しく叩いた。

「君のお母さんとも、きっとどこかで会っていたと思う」

 真っ暗な車窓の傍らで少女はワーッと泣き崩れた。

 *****

「じゃ、失礼します」

 車窓の外は冴え冴えとした秋晴れの空と古いがのどかな街の風景。

 少女は中年男が差し出したビロードバッグを手に立ち上がった。

「これは上げるよ」

 中年男は緑と黒のチェック模様をした肩掛けを広げると、少女の肩に掛けた。

 黒い喪装の左肩に入った破れが緑と黒のチェック模様の下に覆い隠された。

「この辺りは、秋にもなると、晴れていても冷えるからね」

 眼鏡の奥の茶色い瞳が少女から古びた街並みに遠く注がれた。

「ご親切に」

 まだ赤い目をした少女は、しかし、確固とした澄んだ声で告げた。

「では、貴方も良い旅を」

 *****

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン……。

 電車は半ば黄金色に染まった秋の牧草地帯を横切っていく。

 次は大きな街の駅なので、車室のそこかしこで降りる支度を始める気配がする。

「君にはもう一度、会いたかったんだけどな」

 赤と白の薔薇が刺繍された、木綿のハンカチ。

 晴れやかに微笑む若い女の半身を収めたセピア色の写真。

 写真では白っぽく映る金髪を纏め上げた小さなその顔には、先程の少女をもう少し大人にした風な端正さが色濃く浮かび上がる。

 中年男は寂しく笑って真新しい高級な背広のポケットにその古びて粗末なハンカチと写真を入れると、灰色の帽子を深く頭に被せた。(了)

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一区間の友 吾妻栄子 @gaoqiao412

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