第4話  池田敬子選手(旧制 田中)

日本の選手が出ていないやないかと、お叱りを受けてはいけない。最後に「ヤマトナデシコ」ならぬ、今や、日本男児にして無くしてしまった「ヤマト魂」を発揮したこの選手を挙げて終わりとします。


瀬戸内海の因島の西に浮かぶ佐木島の生まれ。原爆で父を亡くすも、幼いころから山や川で遊ぶ元気者で、水泳、バレーボール、ソフトボール、いろんなスポーツに挑戦しました。三原高校で本格的に体操を始め、1952年、日本体育大学に女子一期生として入学します。1954年、大学2年19歳の時、日本の女子体操競技初の海外遠征、監督もコーチもなし、男子チームのお供の形として参加したローマ世界体操競技選手権で、日本女子体操史上唯一の金メダルを平均台で獲得しました。華やかで美しいジャンプとターンで、世界の体操ファンを魅了、「ローマの恋人」と呼ばれました。


以降、女子のリーダーとして体操ニッポンの黄金時代をリード。日体大に教員として残り1956年メルボルンオリンピック大会でゆか4位、団体6位、1958年モスクワ世界選手権、ゆかで銅メダル、 1960年ローマオリンピックで個人総合6位、段違い平行棒・平均台5位、団体4位。1962年プラハ世界選手権、平均台銅メダル。


この間結婚し、1964年東京オリンピックの前年、29歳で出産。協会に体操選手が出産とは何事かと怒鳴られましたが「なにくそ」と反撥し、合宿で浴衣を裂いてオムツを作り、川で洗濯したり育児をしながら練習したといいます。日本はオリンピック団体6位、4位と成績が上がって、東京では3位以内が絶対条件のプレッシャーの中、女子選手で唯一三大会連続出場して銅メダルを獲得しました。更に1966年ドルトムント世界選手権で個人総合3位銅メダル、平行棒で銀メダル。この間、全日本選手権個人総合で5連覇を含む優勝10回(いずれも史上最多)。


当時ママさん体操選手は世界でもほとんどいませんでしたが、最後の世界選手権(ドルトムント)は個人総合銅メダルを取り、他国の選手と並んで表彰台に立ちました。33歳になっても日本ではジュニアが育っていないことを痛感し、正式に引退を表明する前にジュニア育成のクラブを作り、36歳で引退するまで、赤の長袖レオタードにハーフシューズ姿で現役選手として頑張りぬきました。「お見事!ヤマトナデシコ」と言うしかありません。

次の東京オリンピック、こんなことを思い出しながら見てください。(次はどんな名花が見れるのか・・僕は見れるかどうか?)



参考文献:*後藤正治:ベラ・チャスラフスカ 最も美しく 文藝春秋 2004.7 のち文庫 

1972年京都大学農学部卒業後、執筆活動に専念。スポーツや医療問題をテーマとした著作が多い。





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オリンピックの名花たち 北風 嵐 @masaru2355

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