契約印

「精霊じゃない?」

「そうよ」

あのあと、とぼとぼと男の部屋の中に戻り、テーブルを挟んで面と向かって話した。

男曰く、精霊を呼び出す召喚術を行なっていたらしい。そこで呼び出されたのが、なぜか私。藤村美奈だった。もちろん特別なことなんてできない。できるといっても家事や雑事だけである。

「だから早く元のところに帰してちょうだい」

ヒリヒリと痛む右頬をさすり、テーブルを挟んで対面する男を睨みつけた。

私は早く帰らなくちゃいけないんだ。今日だって新しい仕事は舞い込んでくるし、昨日だって残業しても終わらせられなかった業務が残っている。結局朝ごはんだって食べそびれている。腹部から切ない音が鳴るのを聞き流した。

苛立ちを包み隠さず言動に、行動に乗せて小さな針で相手をちくちく攻撃する。痛くもかゆくもないといった風の男はメガネの奥から覗く目をまん丸くして、両手を振った。

「そんなの知らないよ」

「え」

「だって精霊自体が帰る術を知っているから、いつも役目を終えたら帰っていくんだよ。 君はそんなこともできないの?」

できるかそんなこと! 私は人間だ!

心の中で叫んで、喉から飛び出さんとする言葉を必死に納めた。

「それに」

男は私の服の襟を引っ張った。不意をつかれた行動にテーブルに肘をつき、前のめりの体勢になる。顔がぐんと近くなり、酸っぱい臭いがした。

「契約印は君の身体に出ているようだよ。 君からは見えないだろうけどね」

えっ、と思わず首から肩まで触れる。指先では異常らしきものを感知できない。

パッと手が離された後、男は部屋の隅に築かれたゴミ山をガサガサと漁り、これでもないそれでもないと乱雑に物を投げた。

「ああ、あったあった」

はい、とシンプルな手鏡の柄を差し出される。

鏡面にヒビが入っているそれを受け取るべきか、出した手を一度引っ込めた。けれども印がどのようなもので、目立つか気になるし、受け取ることにした。

鏡で見てみると、顎の左下。首筋あたりにアメジストのように光る、印のようなものがあった。二重の円の真ん中に花らしき紋が刻まれている。大きさにして三センチ程度だ。

これが、契約印。

消えないかと手で擦ってみる。紫色の薄明かりが手によって遮られただけで変わりがない。契約印周りの皮膚が少し赤くなるだけだった。

「あー無理無理。 多分皮膚を切り取っても消えないよそれ」

何それ怖い。上側だけではない、もしかしたらこれは遺伝子レベルで刻まれるものなのだろうか。契約、という言葉の重さを印の深さから感じる

……ん? 待てよ。契約したということは取り交わした願いがあるはずだ。一方的なものであるとはいえ、契約というからには存在するはずだ。

それが達成されたらこの印も消えて、元の世界に帰る方法が思い浮かんだり、元の場所へ帰れたりはしないのだろうか。一縷の望みをかけて、男に向き直る。

「あの、私と契約した時のお願いってなに?」

「あー……願いねぇ」

男は口をもごもごとさせて言葉を濁している。なんだろう、なにやら嫌な気しかしない。

「忠実な一生の下僕って願っちゃってさー……」

「は?」

忠実な、一生の、下僕? 頭の中で言葉が反芻された。

ーーーーつまり。

「帰れる見込みゼロ……?」

愕然とした。

頭がくらくらする。立て続けに突きつけられる事実に、頭が追いついていけない。手放しそうのなる意識をなんとか繋ぎ止める。

この世界でどうなっていくんだろう、私は。

「大丈夫、じゃなさそうだね」

男は立ち上がって、食器棚からコップを取り出すと私の目の前に置いた。

二言三言、彼が呟くとコップの中に水が注がれていく。

「わっ」

透明な蛇口が突然現れたようだった。並々まで注がれると止まり、どうぞと声をかけられる。飲むことを促され、コップを手に取った。

見た目はなんの変哲も無い水である。揺れる水面に映る自分を眺め、一気にあおった。半ばヤケだった。

トンとコップをテーブルに置く。

「おー、いい飲みっぷり」

ちなみに、と彼は言葉を続ける。美奈はその先を待った。

「今のは君を呼んだ術とは違うもの。精霊術の一種だよ。 水の精霊のね」

他にも火を起こしたり、風を呼んで空を飛んだり、今のように水を汲んだり、日常の雑事も精霊術でこなしてしまうらしい。

そんな手品みたいなことは、何一つできない。ここにいる存在意義すら危ういのではないか。

「私は何もできないわ。 その場合契約ってのは破棄できないの?」

「不履行になった場合、精霊は消滅してしまうんだ」

「なぜ精霊側が消滅することになるの?」

「それだけ精霊として不出来ということだからね。 一般的にはバラバラになって消滅して、高次元の存在に吸収されるか、散逸した精霊同士がくっついて再編されるかのどちらかになるといわれてる」

バラバラになる。我が身にも起こることかと思うとゾッとした。

「怖がらせてしまったかな」

精霊として使役されている以上、起こり得ないことなら恐るに値しない。命の安全は守られる。そう考えていないと気がおかしくなりそうだった。

「じゃあとりあえず自己紹介をさせてもらえるかい」

そういえばしていなかった。混乱してする暇がなかったというほうが正しいかもしれないが。

「名乗るのが遅れてごめんなさい。 私は藤森美奈」

「フジモリ……変わった名前だね」

「名前は美奈。 苗字、家族名が藤森よ」

「ふむふむなるほど」

男は腕を組んでぶつくさと呟いている。

「あなたは?」

「ああ、俺の名前ね。 忘れてた」

頭を掻くと、彼は胸をはり、肩幅程度足を開く。片腕は腰へ。もう片方の手は親指を立てて胸を指した。

「俺は将来の偉大な精霊術師として名を残す、オズ・マーティニだよ」

あ、だめだこの人。

直感が頭の中で結論を叩き出した。偉大とか、名を残すとか、自分で言うことじゃないし。それ。

冷ややかな視線を送っていると、熱烈な視線と受け取ったのか、やたら上機嫌に語り出した。

「今は学会で憂き目にあっている俺だが、すぐに結果を出してみせるとも! その第一歩が君だからね!」

「あ、あはは……」

愛想笑いを返す。おべっかを使うにもなんだか癪だ。

こっちは多大な迷惑を受けているんだ。これくらいの反抗は許されるだろう。本当は嫌味の一つでも言ってやりたかったが、私の命運は書いて字のごとく、オズの手のひらの上なのである。おかしなことは言えない。

「そんな偉大なオズ先生に質問が」

「なんだねミーナ!」

「ミ、ミーナ?」

「美奈だからミーナだよ! うん我ながらいい名をつけたものだ」

ただ伸ばしただけでしょうと言いたいのをグッとこらえた。

オズは完全に調子づいている。

咳払いを一つして美奈が口を開く。

「私が元の世界に帰れる見込みはあるのでしょうか」

「うん、いい質問だ!」

ビシッとオズの人差し指が美奈を指す。

人を指差すなと心の中で一人ごちて、オズが話す続きを待った。

「実のところ……よく分からない!」

ガクッと頭を垂れた。溜めるだけ溜めてそれか!

「だが悲観することはないよ。 君がこの世界を訪れたことがその証左さ」

「来ることが出来たから帰ることも可能ということ?」

「そうだよ。 察しがいいね」

オズは腰掛けていた椅子から立ち上がって、左右に行ったり来たりしている。

ウザい。このテンションの高さが純粋にウザい。

「でも、精霊は来ることが出来て、帰る術を知っていますよね」

嫌味を込めてワザと敬語にしてみる。

「ああ、そうだね」

「私は帰る術を知らないのですが」

知っている事実を改めて言う。ピタリとオズの動きが止まった。

もしかしてテンションが上がりすぎて忘れていたのか。

「もちろん覚えているとも。 明日、国立図書館に足を運び糸口がないか調べてみるつもりだ」

自信満々といった様子に、心配よりも一種の頼もしさを感じてしまう。

だが元凶である彼をあまり信頼する気は起きなかった。

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呼ばれた先の魔法都市 朝日奈 亨 @asahina_81

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