見えないことで、見えるもの。

西秋 進穂

透明なガラス


助手席の窓ガラスを雨粒がノックした。

その様子を見ながら俺は、大学を卒業して間もない頃のことを思い出していた。




俺は役者として売れておらず、時間だけは売るほどあった。

一方で俺の彼女・風花ふうかはというと、ちょうど忙しくなり始めた頃だった。

持前の演技力で仕事を貰えるようになってきたからだ。

俺はそれがちょっとだけ羨ましかった。

俺たちは役者の卵だった。


このときはたしかそう、演技指導の練習が一段落したあとの休憩時間かなにかだったと思う。

風花が唐突に《ガラス》の話を始めたのだ。


「ねえ、ともくん、ガラスってどうして透明か知ってる?」風花は舞台上のイスを片付けながら言った。

俺は首を傾げる。「ガラス? なんだよ急に」

「いいからさ、ね、知ってる?」

「いや……知らないな」俺は風花からイスを奪い取る。

「あ、ありがと……でね、簡単に言うと光を反射しないから透明なの」

「へえ。なんで反射しないんだ?」

「ガラスが非晶質ひしょうしつだからだよ」

「非晶質?」

「そ。結晶を作らないんだよ。つまりガラスの内部には結晶の境目がない」

「んーと……難しいな」

「だからね、結晶の境目がないと、光がなーんも反射せずに通過しちゃうわけ。それで人間の目には透明にみえるんだよ」

「ふうん」

俺はまだイマイチよくわからなかったが、とりあえず頷くことにした。



同じ役者の卵でも、俺と風花は全然違っていた。

風花は俺と違って頭がいい。

なんせあの有名国立大を出てまで就職せずに夢を追ったのだ。

それはだいぶかっこいい。

じゃあ俺はというと、おまけをつけて三流というくらいの私大卒で自称役者。

仕事はほとんどない。

引け目を感じていないと言えば嘘になるけれど、うまいことバランスはとれていた。



「で、要するに風花はなにが言いたいんだ?」

「えっとね、透明っていうのは《そこにない》のではなく《あるかもしれないけれど観測者には見えない》ってことだよ」

「ん? 見えないならそこにないのと同じだろ?」

風花は優しく微笑む。「そうかもね。でもそうではないかもしれない」

「なんだよそれ」

「見えないことで、初めて見えてくるもの・・・・・・・・・っていうのはあるからね」

「そういうもんかな」

「そういうもんなの」




「――おい。おいって。智明ともあき、大丈夫か?」

気がつけば運転席の久坂くさかが片手で俺を揺すっていた。

「……ああ、大丈夫だよ」

自分がまるで何十年も油をさしていないロボットみたいにぎこちないな、と思った。


「嘘つけ……顔、真っ白だぞ」

言われて俺はバックミラーを見上げる。

――おいおい、これが俺か? 幽霊でももうちょっと顔色が良さそうなもんだ。

「……そうだな、ちょっとダメみたいだ」溜まらず俺は窓の外を見た。

雨はまだ強い。当分は止みそうになかった。


前方の信号機が青から黄色になる。

車はゆっくりと減速し、赤に変わるとともに止まった。


久坂の運転はいつも荒い。

俺はその都度注意してやるのだがなかなか直らない。

だけれど今日は違った。とても穏やかな運転だ。


目の前ではワイパーが決められた動きに従って激しく動いている。

俺にはそれが羨ましく見えた。

こんなふうに行動が決まっていたら楽なのに、と。


「なぁ、久坂」

「ん? どした?」青信号。久坂がアクセルを踏んだ。

「どうして、風花なんだろうな」

「……智明、気持ちはわかるがあんまり思い詰めるなよ」

「……悪い」




風花は今日死んだ。

俺よりも二つ上の、二十七歳だった。

その突然の死に、いろいろな後悔が押し寄せる。


もっと一緒にいたかった。

思い出を作りたかった。

プロポーズをしておけばよかった。


いろいろなことが頭を暴れまわる。

ぐるぐるといつまでも巡り続ける。

それはきっと円周率みたいに終わらない。

そしてちょっとだけ、俺を疲れさせる。


今は風花を看取った病院からの帰り道。

俺はもう限界だった。


「久坂、悪い。ちょっと寝るわ」

「……ああ、それがいい。着いたら起こすよ」

「さんきゅ」



この日、俺はこのまま久坂に家まで送ってもらうとそのままなにも考えないように再び眠りについた。

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