アルハレタヒノコト
翌日。運命の日。
アルはガーデンチェアに座って待っていた。
太陽は高く昇っていて雲はただの一つもない。
この明るさが辛くないと言えばそれは嘘になるが、数年ぶりにヴィオの顔を見られると思えばなんてことはなかった。
この日を待ち焦がれていたのだ。
そしてその時は来る。
屋敷の方からゆっくりと近づいてくる影。そのシルエットはアルがよく知っているものだ。
それはやがてガーデンテーブルの前でピタリと止まると、逆光に照らされて姿が浮き彫りとなった。
――綺麗だ
アルはただただそう思った。
あの頃となんら変わらない。
肩までの銀髪。丸っこい優しそうな目。華奢な肩。すらりと伸びる手足。
それらを際立たせるのはヴィオが自作したスカーフとワンピースだ。
スカーフと腕の部分は楚々とした白。前面――胸から下とスカートは濃紺色となっていて、それが膝下まで伸びている。袖口はふわりと膨らんでいて優しい印象だ。
見惚れないほうが無理というものだった。
「……なによ、そんなにじろじろと見て」
「相変わらず綺麗だ」
「――やめてよ、照れるでしょ」すでにヴィオの頬は真っ赤だった。
「いいじゃないか、今日くらい」
そしてヴィオはアルの顔をじっと見た。
「……アルはちょっとやつれたね」
以前と比べても頬はこけ、目は窪み、皺が増えた。
その顔はアルがもう長くないことを物語っている。
「そうだな……ちょっと疲れたよ」
「……うん、じゃあとっとと始めましょうか」ヴィオはアルの前に座ると深呼吸した。
やはり緊張しているらしい。当たり前だ。
どう転ぶにせよ、少なくとも今まで通りの生活は出来なくなる。
生きたままの人間ではなくなる。
……しかしそんなヴィオをよそに、アルには先ほどからどこか引っ掛かる部分があった。
考えているがどうもわからない。
自分はどこに違和感を覚えているのだろうか――
「――さあ、いいわ。やって」ヴィオの真っ直ぐな目線がアルを射抜く。
アルは邪念を振り払うかのように無言で頷いた。
ヴィオのふわりとした袖をまくると、王様が持つ最高級の陶器よりも白く滑らかな右腕が露わになる。
今度はアルが深呼吸する。
ゆっくりと大きく息を吸って、長く吐き出す。
そしてヴィオの右腕を、宝物を触るかのようにゆっくりと口元に引き寄せた。
八重歯が柔い肌に食い込む。
ヴィオがぎゅっと目を瞑った。
――ごめんな、ヴィオ
徐々に食い込んでいく鋭い八重歯。
傷つくヴィオの右腕。
そして――その牙が充分な位置に到達したそのとき。
アルは目を見開いた。
気づいた。気がついてしまった。
そういうことか、と。
違和感の正体も、なにもかもわかった。
アルはすべてを理解した。
八重歯を抜く。
アルはまだ目を伏せているヴィオを見つめ、そして髪を優しく撫でた。
賽は投げられた。あと数秒もすれば結果がわかる。
ヴィオがどちら側なのか。
死に至るか、吸血鬼になるのか。
――もっとも、アルはもう知っている
やがてゆっくりとヴィオの目が開いた。
少なくとも死んではいない。
ではヴィオは吸血鬼になったのか?
答えは違った。
ヴィオは死んでいない。吸血鬼にもなっていない。
「気分はどうだい」
「……なんだか不思議。まるで何事もなかったみたいに平気なの」
「ならよかった」アルは微笑んだ。
「――ねえ、本当に血を吸ったの?」
「ああ、この自慢の八重歯をヴィオの腕に入れたとも」
ヴィオは自分の右腕を見る。「確かに……傷がついているわ」
「ごめんよ」
「ううん、いいの。それになんだか嬉し――」
言いながら、しかしヴィオもまた気がついた。アルと同じく気がついてしまった。
自分の腕から血が流れていないことを。
そして死にも至らず、体の感覚は今までと何も変わっていない。
吸血鬼になったような感じは一切しない。
いったいどういうことなのだろうか?
「……ねえアル。私は生きている。ということはつまり、吸血鬼に、アルと同じになったのかしら?」
しかしアルは俯いて答えない。
答えたくなかった。
――今までのヴィオを思い返せば
正確すぎる記憶力。
家から出ると充電が切れたように尽きる体力。
そして今日。
八重歯を入れたその身体には驚くべきことに血が一切流れていなかった。
もう一つ。アルが覚えた違和感の正体。
それは、数年ぶりに明るい陽の下で見たヴィオの容姿は。
出会った頃と寸分違わず同じだった。
さすがに変わらなすぎた。
まるで――そう、まるで
ヴィオは死にもせず、吸血鬼にもならなかった。
つまりそれは――
ヴィオが生物ではないことを意味する。
「……私は人間じゃないのね」
アルは答えない。
「どうしてあのとき……私の血を吸おうとしたとき、教えてくれなかったの? 気づいたんでしょう!」
「……ああ、気づいたとも」
「ならなんで!」
「そんなこと、些末な問題じゃないか」
「そんなことって――」
「僕はね。ヴィオ。自分が幸運だと思ったんだよ。幸せだと思ったんだ」
ヴィオの動きが止まる。「なに……言っているの? 私はアルに血の一滴も、あげられないのに」
「そんなことは関係ないよ。だってそうだろう? 僕は初めて見送られる側になるかもしれないからね」
「私が見送る? アルのことを?」
「そうとも。僕は今まで多くの人間を見送ってきた。小さな町を渡り歩いていた頃にね。そして僕は誰にも見送られないと思っていた」
吸血鬼は不老不死だ。本来ならば。
誰かを見送ることはあっても、見送られることなどない。あるはずがない。
アルは言葉を続ける。「そこでヴィオだ。ヴィオなら僕を見送れる」
「なにを言って――」
「ヴィオ。僕はもう充分なんだ。たくさんの幸せを受け取ったんだ」
ヴィオは怒っているような、咎めるような、そんな瞳でアルを見た。
しかしそれも一瞬。
アルの本当に幸福そうな優しい目を見ると、ヴィオは子どもを宥める母親のように、『しょうがないなあ』とでも言うかのように、満ち足りた顔をした。
そしてヴィオはおもむろに立ち上がると、美しい花が生えているほうへと歩いていった。
「――ねえ、アル。青いバラは人間が作ったって知っている?」ヴィオは青バラにそっと優しく触れた。
アルは頭を振る。「なんだい、急に……いや知らないな。自然のものじゃないのか?」
それを見て青というよりは薄い紫に近いな、とアルは思った。
「そう。まるで魔法よね。もともと存在しないものを作ってそれがみんなに愛されるのだから」
存在しないもの。
本当はそこになかったもの。
「……そうだな。まるでヴィオみたいだ」
ヴィオはきょとんとする。「私? どうして?」
「僕にとっては魔法だ。……ヴィオは人間じゃなかった。もともと存在しなかったのかもしれない。でも……でも、そんなことはどうだっていい。だって僕はヴィオを愛し、ヴィオも僕を愛してくれた。それだけで充分じゃないか」
――それを聞いた途端、ヴィオの綺麗な顔はくしゃくしゃになった。
そして両手でその顔を覆うと言葉にならない声を漏らしながら、その場にペタンと座り込んだ。
血は流れていない。涙だって流れない。
でもアルにはわかる。
――きっといま心の中で泣いているのだ。幸せ色の涙を流しているのだ。
そしてアルは晴れ渡った青空を眺めながら、こう付け加えた。
「それに僕はなんだか、『いま自分は生きている』って感じがするんだ」
二人は人間ではなかった。
しかしどこまでも人間らしく、誰よりも固く結ばれていた。
それから。
二人は時間の許す限りいつまでも庭園で過ごした。
いつの日もいつの時も、ずっと庭園で過ごした。
魔法の時間を一緒に過ごした。
――気がつくとヴィオはひとりになっていた
ひとりは寂しかった。
だから、アルが提案してくれたアレをやろうと思った。
もうヴィオの身体はいたるところにガタが来ていてボロボロだ。
声は掠れて上手く発声できない。
でもそんなことはお構いなしだ。
ヴィオは時の経過とともに壊れていく自分の身体が愛おしかった。
なかでも右腕の傷は一等お気に入りだ。
そしてヴィオは今日も子供たちに語り聞かせる。
アルと過ごした最後の日々を、暖かい太陽のもとで過ごした魔法の思い出を、胸いっぱいに抱えながら。
「ソレハ、アルハレタヒノコト、デシタ……」
『I couldn't be happier』is the END.
吸血鬼と紫の魔法 西秋 進穂 @nishiaki_simho
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