第2話 #見切れ漱石

 #見切れ漱石



「おっ、漱石だ」

 相撲中継を見ていた父の声につられてテレビを覗くと、むちむちした力士の奥に、枡席に座る夏目漱石が小さく見えた。

 私は箸を止めて眺める。

「なんか、久々だね」

「地方には行かないからなぁ」

 そういえば前回は九州場所だった。その前はどうだったかな。考えながら、焼き魚の身をほぐす。相撲のことは、こうして夕飯の時に流れているのを聞くともなしに聞く知識しかない。

「あれ、生きてたの。ロボットの方じゃなくて?」

 みそ汁の最後の一杯を持って母が台所から戻るので、私はもう一度テレビ画面を確かめた。

「ロボットじゃなくてアンドロイド。……映んないな。本物に見えたけど」

「ちょっと見ただけじゃ、どっちかわかんないよなぁ」

 いくら漱石特集の多いNHKとはいえ、さすがに主役の力士たちを差し置いて、一人の観客ばかりを追ったりはしない。画面では、そこに漱石なんていないかのように、当たり前の取組が淡々と流れている。

「漱石も最近また売れてんだろ。ばあちゃんちに全集あったけど、積み上げて遊ぶくらいにしか使ってなかったなぁ」

「お父さんの頃は、千円札も漱石だったんでしょ」

「えっ、お前もう知らない世代か」

「話には聞いたことあるけど、野口英世しか見たことないよ」

「ええ……こないだまで使ってた気がしてた」

 大人はみんなそう言うんだよね。ちょっと上の世代の人と話すとびっくりされる、鉄板ネタだ。

「小さい頃のお年玉は漱石じゃなかった?」

「うーん、覚えてない……」

 お札に誰が描かれてるかなんて、気にせずに使ってたし。

 そろそろ六時が近づいていて、私でも名前を知っている力士同士の勝負が始まりそうだ。

 画面に大写しになる横綱を見て父が言う。

「漱石は白鵬好きか」

「どうだったっけな。前になんか……ブログに書いてたような……」

 木曜会公式ブログで小宮豊隆が、漱石豆知識としてクイズを出していたような気がする。結構前の話だし、私に相撲知識がないから、答えは忘れてしまった。

「でもなんか、強いのが好きみたいなことは書いてた気がする」

「夏目漱石ってお相撲好きなの?」

 さっきまでの話を聞いていなかったのかという無邪気さで母が割り込むので、ちょっとびっくりしながら「そうだよ」と答えた。

 でも、相撲マニアというほどではなさそうなんだよね。相撲の小説を書いてるわけでもないし。

「たまーに、観に来てるのが映るんだよな」

「そうそう。中村是公の席でね」

 母も父も誰だそれという顔をしてるけど、面倒なので説明はしない。私も、木曜会ブログのこぼれ話程度のことしか知らないし。

「漱石の小説、なんか読んだことあるか」

「教科書で『こころ』はやったよ。でも別に、他には……」

「お、また映った」

 急いでテレビを見たけれど、丁度はっけよいと勝負が始まり、画面は肉色の塊でいっぱいになってしまった。

 カメラが引いても上から土俵をたっぷり映して、観客席には届かない。もう一回、ちらっとでいいから、と夕飯を忘れて目を凝らす。

 せめて、アンドロイドか本物かだけでも知りたい。

「あっ」

 がっぷり組んで動きの止まった力士と力士の髷の隙間、焦点がぼやけたり鮮明に合ったりする画面の中心に、腕組みをして、やや前のめりになった漱石が小さく見えた。

 熱心に二人を見守る漱石が、くっきりとしたり、溶けて消えたりを繰り返す傍で、ツヤのある髷が揺れている。

「おお」

 固まっていた形勢が一気に崩れて、会場がどよめくのと共に勝負の決着が映し出された。どっちが勝ったのか……というか勝った方の名前がどちらなのかさえ、私にはわからない。

 だけど画面の奥、またちらっと映った漱石が組んでいた腕を解いて愉快そうに膝を叩き、大笑いして隣の誰か(中村是公ではなさそうだった)に話しかけているのが見えて、私はもうなんでもどうでもいい気持ちで、はぁ〜〜〜〜っと息をついた。

「なんだ、どうした」

「なんでもない……」

 食卓の端に置いておいたスマホをつけて、ツイッターの検索画面に「漱石」と入れる。ハッシュタグ「#見切れ漱石」が出てきたのでそれを押すと、もう既に軽く追いきれないほどの叫びが連なっていた。

「こら、ご飯食べながらケータイ見ないの」

「うん……」

 口ではそう言いつつ、膝の上でこっそりとツイートを眺めながら、食べているのかどうかよくわからない味になってきたご飯を飲み込む。


 嬉しそうwww #見切れ漱石

 先生可愛すぎwww #見切れ漱石

 隣は朝日新聞のスタッフですね。今日は朝日の席だったのか。 #見切れ漱石 #相撲

 小宮さんのブログ更新楽しみ! #見切れ漱石 #木曜会


 テレビでは締めの太鼓をバックに解説の人の挨拶が流れ、六時のニュースに切り替わる。

 私はそんなもの右から左に聞き流しつつ、眩しく光る画面の中で、全国にいる同じ気持ちの人たちと感情を分かち合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

令和元年の夏目漱石 @moimoi5

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ