令和元年の夏目漱石
@moimoi5
第1話 タピオカ元年
高浜虚子が久方ぶりに夏目家を訪うと、漱石は難しい顔をしてタピオカミルクティを啜っていた。
「まだ一杯目だよ」
「はあ」
おそらく夫人から、あまり飲みすぎてはいけないと釘を刺されているのだろう。
しかしそれにしては、紫檀の執筆机の上には十四、五ばかりのタピオカドリンクが、色さまざまに並んでいる。
いくら漱石が無類の甘いもの好きとはいえ、さすがにこれを飲み干すのは無理があるはずだが。
「違うんだよ」
漱石は益々むつかしい顔をする。
「滝田がね……いや彼に限らず、三重吉やら何やらが……面白がって買ってきてしまうんだよ」
「流行りのものですからねえ」
テレビでもインターネットでも、連日この奇怪な飲み物の話題を見ない日はない。虚子も気にはなっていたのだが、自ら進んで買いに出るほどではなく、未体験のままである。
どれでも選びたまえと言われ、虚子は迷いながらも抹茶ミルクらしき色のタピオカドリンクを手に取った。
並ぶカップは色だけでなく、それぞれに買った店も違うらしい。水色がグラデーションになっているものあり、蓋までしっかり密封された特大サイズのものもあり……。
「
「そんな遠くから」
「それも面識のない人間だ。『漱石先生ならば喜んで頂けると思い』だの、『執筆中の話に活かして頂ければ』だのと、人を流行の掃溜とでも考えてるのかね。困ったもんだ」
などと言いながらも、にやりと細めた目が次の一杯を狙っている。
奥から、夏目夫人が「あなた、早くしまっておしまいなさい」と呆れた声を掛けた。
「なに、これから暇な連中がやってくるだろうからね。味の一つや二つは先に見ておくのさ」
今日は木曜なのである。まだ時間が早いために他に人は見えないが、日が暮れるころになれば、面会日と称した談笑の輪を求めて弟子たちが集まるだろう。
虚子は慣れない手つきで太いストローを挿し入れ、一口を啜ってみる。
「甘いだろう」
舌が把握するのとほぼ同時に同じ感想を投げられた。
「ええ、これは甘い」
「俳句になるかな」
「まだ、何とも……」
ろくろく味わいもしていないのに、漱石は前のめりになって、にやにやと虚子を眺めている。新たな何かを投函すれば、すぐに俳句の出てくるポストか何かとでも思っているのか。
(おや?)
どぅるんと喉まで飛び込む大粒の粘に驚いて咳き込みつつ、記憶の扉が開きかける。この食感は、どこかで味わったことがあるような……。
「あなた、また届きましたよ」
呆れ返った夏目夫人が、浅い箱いっぱいに並べられたタピオカドリンクを持ってくる。どこからだい、と夫が訊けば、妻はいくつかの近隣の地名と人の名を挙げて引っ込んだ。
「皆、人が何も知らないだろうと思って馬鹿にして送ってきやがる」
いくら甘いものが好きでも、この量は参るのだろう。日持ちするものでもなし、木曜の集まりとて毎週人数が集まると決まっているわけでもない。
「表に札を掛けるべしだな。面会木曜、タピオカ不要。……君、多めに持って帰りなさい。子供らにやるといい」
言いながら思い出したのか、漱石は楽しげに語る。
「皆、こんな珍しいものはさぞ初めてでしょうと持ってくるが、そんなことはない。明治にだってタピオカはあったんだ」
「そう……でしたか?」
「あったとも。ただ電氣冷蔵庫もない時代だからね、すぐに廃れてしまっただけだ。流行りなどいつだって同じことを繰り返しているだけなのさ。……だのにね、うちの子供らが、お父様はご存知なかったでしょうなんて言うものだから、こちらも教えてやったんだ。『馬鹿な奴らだ、俺は誰よりもタピオカに詳しいのに。そもそもお前たちは、それが蛙の卵だということも知らないんだろう』ってね」
虚子は無関心に飲み干しかけていたドリンクで咳き込む。漱石はにやにやとした笑みに若干の同情を混ぜて見、取りなすように言い加えた。
「勿論冗談だ。しかし子供というのは素直なものだね、半日は信じてくれたよ」
懐から手拭いを出して口を拭う虚子を前に、漱石は平然とタピオカドリンクを啜っている。その姿勢は堂に入ったもので、明治から知っているというのも、あながちホラではないかもしれない。
と、思った丁度そのあたりで、漱石はプラスチック容器内の水分をほとんど飲みきってしまった。
ずず、と音を立てて気づくと、漱石はもたもたとした手つきで蓋を剥がす。
そしてどこからか取り出した柄の長い匙で、器の底に残ったタピオカを掬ってはひとつずつ口にした。
呆気にとられた視線をみて、漱石は気まずそうに口髭を波打たせる。
「飲み方は知ってるさ」
ちら、と上目遣いで虚子の方を伺いつつ、もう一粒を丁寧に掬い取ってやさしく食んだ。
「いきなり吸い込むと、胃が驚いてしまうからね。こうして、慎重に味わっているんだよ」
これは医者にも褒められた手法だと胸を張るが、明治大正昭和平成令和と続く彼の胃の不調には、どう考えてもよろしくない食べ物だろう。
奥から夏目夫人が顔を覗かせて、「お願いしますよ」と目配せをする。虚子は、今晩集まるであろう人数を目算すると、それに足りるだけの数を残して、他の多くを家族と仕事の仲間のために貰って帰ることにした。
「……ああ!」
土産の箱を膝に抱えた帰りの俥上で、虚子はようやく思い出す。漱石は、明治にタピオカがあったと言った。虚子もまた、あの味に覚えがあるような気がした。それらはホラでも気のせいでもなかったのだ。
明治にもタピオカはあった。
ただ、今のように飲み物と一緒にではなく、かき氷の底に忍び込ませてあったのだ。
令和のごとく多彩なシロップもない時代、ただかいただけの氷には、砂糖水を煮て冷やしたものが掛けられていた。その底に、土のようにひっそりと敷かれていたタピオカは、おそらくは今と調理法が違ったのだろう。随分と固かったような記憶があるが、どぅるんとした食感は、確かに今流行のそれである。
そうしてまた一つ思い出して、虚子は俥上でふつふつと笑った。
明治の時代、虚子の師であり漱石の親友であった正岡子規が、まだ病床にはなく、自らの足で歩けていた頃の話である。
俳句を作りがてらの散策の途中、茶屋でタピオカ入りのかき氷を二人で食べた事がある。
東京の珍しい食べ物に目を白黒とさせる若き虚子に、子規は笑って「この間、夏目と一緒に食べた時にな。それは実はカエルの卵なのだが……などと言うたら、夏目のやつ本気にしたのよ」と楽しげに話して聞かせ、「東京育ちの者は案外に純でいかん」とまとめた。
記憶の線が繋がって、虚子は五月の風を受けながら、感興を十七文字に纏めようとしている。
家に着く頃には五、六句は出来ているだろう。
そうして帰ったら、自分もまた子供らに同じホラを吹いてみようと、中で液体の揺れる土産の箱を抱えて思った。
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