ホルスト【組曲「惑星」】より【土星、老いをもたらす者】

どれ程の月日が経ったかは分からないが、それはとても静かで、とても美しかった。


一定の速さを保持する川の流れのように、曲がり角で急流となる川の流れのように。


見る場所によって、まるで別物だ。




細く、息を吐いた。




力なく感じるそれは、彼の喉が細くなったからだろうか。




光を見ると、全てがぼやけて見えた。




力なく感じるそれは、彼の瞳がぼやけているからだろうか。




音はくぐもり、指先が鈍く痺れていた。




力なく感じてしまうのは、彼が老いたからだろうか。




彼は玉座から立ち上がった。


その背筋はしゃんと伸びていたが、肩に掛かるマントが、かつて戦場で纏った鎧よりも重く感じた。


彼の前には、一人の男性が立っている。


まるで、かつての彼が鏡に映っているようだ。


彼は懐かしさと感慨を深く感じ、男性を、彼の息子を見詰める。


立派な衣装を彼よりも着こなしている息子に、誇らしさと微笑みが浮かぶ。


母に似て子鹿のようだと思っていたのに、今見ると豹のようだ。


雄々しいが気高さも感じる。


それは、親の贔屓目かもしれないが、と。


そう考えながら、彼は息子を側へ呼び寄せた。




息子は玉座の前の階段をゆっくりと歩いて彼に近付いた。


息子の足音がその場によく響き、参列した者たちが物音一つ立てずにその様子を見詰めている。


息子は彼の目の前で一礼すると、彼を真っ直ぐに見詰め返してきた。




彼は問う。


息子に覚悟を。


彼は問う。


息子に覚悟を。


何度でも問う。


どんな困難からも、国民を守り抜くのかと。




息子は、何度でも答えた。


覚悟がある、と。




彼は、息子を跪かせた。


息子は静かに膝を折り、こうべを垂れる。


彼は、王は、自らの王冠を脱いだ。




宝石で飾られたそれは、酷く重い。


その重く、被り心地が快適とは言えないそれを、彼は息子の頭へと載せる。




手から離れたそれは、息子の頭を少し沈めた。




しかし、息子はそれを受け止めた。


それ以上、沈む事はなかった。


息子は立ち上がり、彼と目が合う。




彼は、頷くように瞬きをする。


息子はそれに応えるように、引き締まった唇に一層の緊張を抱かせた。




そして、息子は振り向いた。


その様子を静観していた貴族たちを振り返り、口を開く。


自分が新たな王となったという事を、自分がこの国を支えていくという信念を。




この国の、更なる繁栄を。




階下かいかの彼らは頭を下げ、新たな王を歓迎した。


彼は、王冠の乗った息子の後ろ姿を眺め、息を吐く。


細いそれは尊大なその場の空気に消え、存在すら消えていった。


息子がその儀式を終えて、城のバルコニーから姿を現すと。




歓声が上がった。


新たな王を祝福する国民が、城下で声を上げている。




彼らに手を振る息子の背中を城内で見詰める彼の腕に、彼女が絡んだ。


彼が彼女を見詰めると彼女も歳を取ったが、それでも子鹿の妖精のようだった。


今までよく頑張ったのだから、あなたは少し休みましょうと、彼女は言った。


歓声の中でも、はっきりと聞こえる声だった。




それすらも、遠い記憶のようだった。




王位を息子に譲り、彼は彼女と静かでのんびりとした時を過ごしていた。


しかし、人生は川に良く似ている。


一定の速さを保持していたかと思うと、曲がり角で急流となるのだ。




美しく、愛しい子鹿が先立った。




永遠生きると思っていたのに、当たり前だが死んでしまった。


老衰で、苦しむ事はなかったようだが、彼女は蝋が尽きた蝋燭のように次第に弱々しくなって亡くなった。




ただ、最後まで美しかった。


れてしまう火だった。




彼女の葬儀はしめやかに、しかし盛大に行われた。


国中を黒い布が覆い、さめざめとした声が立ち上がった。




そして多くの者は、彼を心配した。




彼は、葬儀が終わるまで、ずっと彼女の棺の側に居た。


偶に、昔流行った古い舞踏曲を口遊くちずさんでいた。


子守唄のように。




葬儀が終わった後も、彼は気力を取り戻せないでいた。


彼の子供たちはそんな彼に気を配ったが、彼はみるみる老いていった。




彼の子鹿の妖精は、どこかへ消えてしまった。




息が細くなり、光がぼやけ、音がくぐもり、指先は鈍く痺れる。


そして、曲がった腰で、彼はそれを見詰めた。




彼の目の前には、〝老いをもたらす者〟が居た。


死神にも似たそれは、死よりも老いの恐ろしさを説く。


シワだらけの見慣れぬ顔で、骨と皮だけのやせ細った体と指で、直角に曲がった腰で、老いの惨めさを説く。


時計の音が部屋に木霊し、その音が木霊ではなく毎秒刻まれているだけなのだと気付くのに遅れる。




時は、毎秒刻まれている。


一秒と待たずに進んでいる。




侍従が、彼の体を労ってもうお休みになるようにと声を掛けてきた。


彼は小さく頷き、侍従が彼に手を貸す。




彼は、見詰めていた姿見から離れた。




そしてベッドで横になり、寝室の明かりが消された。


全て消された。




蝋燭の火が、消された。




分かってはいたが、彼女が彼の精神面を強く支えていたのだと再確認する。


どうして自分より若い彼女が先に旅立ったのか、以前の彼なら神に問い詰めたいと考えただろうが、今はそんな想像をする気力すらない。




しかし、ある日、彼女の夢を見た。


出会った頃と同じ若々しさを持つ彼女は彼の腕を引いてバルコニーへ誘う。


彼はただそれに従順に従って、彼女の姿を見詰め続けていた。


彼女はずっと彼へお喋りをしていたが、彼は内容を聞き取る事は出来なかった。


何度も太陽と月の光を浴びる彼女を飽きる事なく、ただ見詰め、彼女の姿が少しずつ歳を重ねていく。


彼はそれに気付いてハッとして、彼女の老いを止めようとした。




しかしもちろん、そんな手立ては何もない。




彼女は常に楽しそうに、美しく笑いながらお喋りを続ける。


彼女から老いを払おうとしていた彼は、次第に気付いた。




彼女は美しい。


老いすら、彼女の美しさを前にはなす術なく立ち尽くしていた。




彼女は言う。


それは彼女が生前、本当に彼に語っていた事で、夢の中でここだけ鮮明に聞き取れたのだけれども。




あなたと共に歳を取れて良かったわ。




どんなに息が細くなっても、あなたに言葉が届くのなら問題はない。


どんなに光がぼやけても、あなたと腕を組んで歩けば問題はない。


どんなに音がくぐもっても、あなたの声が聞こえれば問題はない。


どんなに指先は鈍く痺れようとも、あなたの温もりが分かるのなら問題はない。




駄目だったら、一緒に転んで笑えばいいじゃない。


私たち、最初から最後まで、完璧だった訳ではないのだから。




彼が目を覚ますと、久し振りに小鳥のさえずりが耳に入ってきた。


朝、侍従と挨拶を交わすと、今日はお加減が良さそうで安心いたしましたと言われた。


食事を取ると、久し振りに味がした。




彼は、姿見の前に立つ。


そこには、老いをもたらされた者が立っていた。




シワだらけだが、見慣れた顔で。


やせ細った体と指だが、まだ筋肉は落ち切っていない。


腰は曲がってはいないが、少し猫背になってはいる。


老いの惨めさを説く死神がかつていたが、そんな彼よりも。




老いが怖くないものだと説く妖精の言葉が強い。




彼はバルコニーへ出た。


昼の柔らかい風が、彼の肌に寄り添ってくれる。


まるで、妖精の戯れのように。


彼は静かに、心の内で呟く。




子鹿の妖精よ。


心配させてしまったようで申し訳ない。


君はいつまで経っても、私の救世主なんだな。

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クラシック音楽を題材にした短編集 竜花美まにま @manima00

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