ホルスト【組曲「惑星」】より【木星、快楽をもたらす者】

遠くから、音楽が聞こえた。


一歩一歩踏み出すごとにそれは大きくなる。


扉の前に立つと、良く通る声で宣言のように彼と、妻である彼女の名が呼ばれ、目の前の扉が開いた。




ファンファーレが、鳴り響く。




今まで参加したどのパーティよりも絢爛なホールと飾り付けと、参加者のドレス。


そこに、今までで一番、そしてこの会場で最も豪華なドレスを着た彼女と並んで入場する。


両階段を共に降り、踊り場でホールへと体を向けて止まると。




皆が頭を下げて礼をした。


彼とその妻に。


そして。




入場の際に呼ばれた彼の名には、国王、という敬称が付随されていた。




数々の戦争の功績から、彼は皇帝から小さな国を与えられたのだ。


喜びや誇り高さと共に、不安はあった。


だが今は、責務と共にここに立っている。


彼は王として相応しい挨拶と共にパーティの始まりを宣言し、オーケストラが音楽を奏でる。


皆の踊りを誘うその音楽に、彼は彼女と共に階段を降りてホールの中央へと進み、踊りを始めた。


国王夫妻のダンスに、少しずつ他の者たちも踊りを重ねる。




妻は彼の腕の中で言った。


更に頑張らないとね、と。




彼には、戦いの才能があった。


もちろん努力もしたが、それが報われるだけの本質を有していた。




彼には、運もあった。


死にかけても、死の淵から救い出してくれる仲間が居た。




彼には、愛もあった。


愛する妻と、愛する子供たち。




今日この日は、彼が持ち得るそれら全てがなければ辿り着かなかった。




この愉悦に似た感覚に、彼はワインを飲む。


自然に囲まれた田舎の小国だが、彼の頭には王冠が、彼女の頭にはティアラが輝いていた。


玉座に座り、パーティを楽しむ参加者を眺める。




彼はもう、参加者どころか。


主役だった。




今までで一番輝く日。


息苦しいと詰まった襟に指を入れる事もない。


ホールの光を、眩しすぎると感じる事もない。


貴族たちは代わる代わるホールの中央で、ペアを変えながらも踊る。


何度も何度も踊り、何度も何度も似たような違う曲が流れた。


そして、舞踏で彩られていたホールの中央で様々な見世物が踊る。


特異な衣装の異国の踊り子、見た事のない動物たちのショー、魔法と疑う奇術。




全てが、彼に向けて行われていた。




このパーティは夜が更けに更けても続き、彼は酔いと緊張の中過ごした長時間の催し物で、眠気に襲われていた。


ホールの喧騒が頭に、大きく唸るように響き続けている。


しかし彼の眠気の前ではそんな騒がしさは子守唄も同然だ。


だが、王となったお披露目の場で、しかも玉座で眠る事など出来ない。


どんな敵将軍よりも苦戦していると、彼女は側に控えていた侍従に、国王と共に外の空気を吸ってくると告げた。




そして、彼は彼女に、バルコニーに誘われた。




勝てそうにない眠気と戦っていた彼は、彼女に従順に従う。




彼女と腕を組み、侍従が開けたバルコニーへと歩み出る。




風が、重みを持って彼の体を吹き抜けた。




夜風が冷たく、彼には心地いい。


山々が暗がりの中、月明かりで木々の輪郭を細かく浮き上がらせていた。


彼と腕を組む彼女は、彼を見上げて言った。




言ったでしょう?


息が詰まったら、バルコニーに行けばいいのよ。


今日みたいに酔った日は、シャンパンじゃなくて私を連れてね。




彼は、またいつかのように恥ずかしい気持ちになった。


歳を取ったし、父になったし、王にもなった。


それでも、まだまだ足りないのだと自覚する。


愉悦に浸るのは良いが、それに溺れてはいけないのだと、知っていたのに見当たらなかったそれを、彼女に摘みたての野花のように差し出された気持ちだった。


彼は、彼女を見詰めた。




子鹿に似た妖精が微笑む。




そして、彼が見詰めていたその横顔に、光が当たった。




二人で山々の方へと顔を向け直すと、朝日が昇り始めていた。


山が、木が、輪郭から光で覆われその仔細を失う。


まだ会場からは華美な音楽が聞こえていたが、この景色を見ない彼らに、勿体ない気持ちになった。


空が夕暮れの最後のように黄色と赤と青を含んで、かつて見た、理解出来なかった印象派の絵画のようだったが、彼にはこの景色の力強さに人間の力の限界を知る。


彼女もこの景色に見れているのか、しなだれ掛かってきて、彼は彼女を見ないまま肩を抱いた。


新しい朝と、日々常に真新しい時間が刻まれていると教えてくれるその太陽は目に見えて地平線から動いている。


山々から、春を待ち侘びた幼虫のように顔を出し、羽化した蝶のように地面から飛び立った。


息を吐くと、白かった。


彼女のストールがきちんと寒さから彼女を守っているのか不安になって顔を向けると、彼にしなだれたままの彼女は朝日を見詰めていた。


ストールも、その役目を果たしているようだ。


彼女は彼の視線にこちらを見上げ、綺麗ね、と微笑んで言った。


彼が、ああ、と頷くと、彼女はまた朝日を向く。


彼も、そうした。




誰よりも命を奪った者と、悪意を持って誰かに揶揄された事がある。


そんな彼を、彼女は。




誰よりも命を救った者、と称賛してくれた。




国の民を、軍の部下たちを守った者だと。


彼はそれが誇らしかった。


だから、そういった悪意は彼にとっては何の意味もないものに感じた。


しかし、友に言われた。




善意に溺れてはいけない、と。




善意を受け取る事は素晴らしいし、そうするべきだ。


だが、善意だけに目を向け、悪意は放っておいても良いがその中に紛れる中立の意見すら、悪意のように感じるようになっては駄目だと。




この世は悪意と善意だけではない。


中立の意見を悪意だと見間違えたり、善意だと自惚れたりする事もあるだろう。


それを完璧に見分ける事は難しく、間違える事も多いだろうが。




その事実を、忘れる事だけはしてはいけない。




槍しか持たない頭の固い彼の為に、盾を与えてくれる妻が居て、助言をしてくれる友が居た。


彼の先程までの愉悦が、酔いと共に消化される。


朝日が完全に昇ると、あまり席を外し過ぎてはいけないからもう戻りましょうと。




光を帯びた、子鹿の妖精が彼の腕を引く。




この自然に囲まれた小さな国は、彼女の国なのだと思った。


妖精たちの住む国に、招き入れられた人間が彼だ。


真摯に向き合わなければ、妖精たちは彼に失望するだろう。


もしかしたら、この国の王女である子鹿の妖精に相応しくないと追い返されるかもしれない。


それは困ると、彼は考える。


この美しい妖精も、この美しい妖精に似た子供たちも、手放したくなかった。




この国の妖精たちに、認められるような王にならなくてはと、彼は決意した。




それが、妻や子供の為だと口にすれば、妖精ではなく実は人間である国民たちから睨まれるだろうが。


少なくとも、この国の為にという気持ちに偽りはなかった。


彼は、彼女と並んで会場へと戻っていく。


会場へ戻ると、ホールに居る全員と目が合ったように感じた。


彼は玉座の前に立ち、杯を掲げた。




昇り行く朝日を語る。


その美しさを。


沈み行く夕日を語る。


その美しさを。


過ぎ行く夜月を語る。


その、美しさを。




自分たちの頭上には常に美しく慈悲深い存在が見守ってくれていて、それは雲に遮られて尚、我々から目を逸しはしない。


だから、その美しさに恥ない命を生きよう。


この国が、恥ない王となろう。


だから、ここに立つ皆よ。


ここに居ない民の為に、私に力を貸してくれ。




彼が、一層高らかに杯を掲げた。




黄金のそれは、宙に浮く太陽や月のようだった。




ホールに立つ皆が彼に頭を垂れた。


もう、それに愉悦は抱かない。


子鹿に似た使者が教えてくれた。


〝快楽をもたらす者〟からの試練の乗り越え方を。




さぁ、明日あすを迎えよう。

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